往ったり、来たり、立ったり、座ったり

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2016年2月13日

  科学研究費基盤研究(B)「世界における患者の権利に関する原理・法・文献の批判的研究とわが国における指針作成」(研究代表者:小出泰士芝浦工業大学教授)の研究会のために京都大学へ。パリ控訴院弁護士のLaurence Azoux Bacrie氏の講演を聴く。フランスでは係争解決の方法として、係争中の当事者からメディエーターが話を聞き、メディエーターの援助のもとに当事者同士で自発的に係争を解決するmédiationということが行なわれている。Bacrie氏は医療におけるメディエーターを勤めている。結局のところ、医師-患者関係のコミュニケーションを円滑にして双方の合意を築く仕組みだが、看護師をはじめとするコメディカルな職種を含めて診断・治療法についての的確な理解を患者にもってもらうという話ではなくて、係争が起きてから、医療チームの外部にいるメディエーターが関わる制度である。話を伺うかぎり、時間も費用もかかる訴訟に進むのを事前に防ぐという効果があるようだ。訴訟は患者側にも負担になるから、その意味では寄与だろうが、紹介された事例が、施された医療措置にたいする患者側の誤解を解いて解決にいたった事例が多かったので、医療側の反省につながる事例もほしかった。人間関係の修復を目標とする修復的正義(ないし修復的司法)に近い発想かとも思ったが、médiation自体は司法の外部で行われるのでその点に違いがあろう。

2016年2月3日―6日

  地方入試のために東京に出張。東京に生まれ育ったひとは、東京が地方だと聞くと変に思うかもしれないが、私の勤務先は大阪にあるから、東京で行う入試は地方入試なのだ。実施責任者として前泊プラス3日間、試験場に詰めており。さいわいにしてなんの問題も起こらず。

2016年1月22日―28日

  オランダに出張。オランダ航空を予約していたが、出発の二日前に、機体の調達の問題とやらでキャンセルとなり、スカンジナビア航空でコペンハーゲン乗り換えとなる。オランダ航空の便は15時ごろSchipol(アムステルダム国際空港)に着くはずだったが、乗り換えに用意された便は16:05にコペンハーゲン着で、コペンハーゲン発が19:40、アムステルダム着が21:05。コペンハーゲンは晴れていて、空港が海に近いことがわかったが、たんに乗り継ぐだけだから街には出られない。空港のなかに回転ずしがある。すごいなあ、そこまで一般化したか。SchipolからAmsterdam Centraal駅まで電車で20分。宿泊予定のホテルはドックに面している。真っ暗でそぼふる小雨のなかを無事到着。

  23日。緯度が高いから朝8時でも真っ暗だ。中央駅から南教会(Zuiderkerk。zuidというのがドイツ語のSüdなのだなと思う。発音はザーツみたいに聞こえて、ドイツ語はジュードだから似ているともいえないが。kerkはドイツ語ではKircheだ)へと散歩して、Joods Historisch Museum(ユダヤ歴史博物館)を訪れる。散歩したのはひまだからではない。目当てのこの博物館が11時にしかあかないからである。ナチスのオランダ侵攻によってオランダのユダヤ人はWesterbok経由でさまざまな強制収容所に送られていった。他方、アンネ・フランクに代表されるように、ユダヤ人をかくまう動きもあった。そこに関心があって訪ねたわけだ。オランダは宗教的寛容が早くに確立した国だから、ユダヤ人の人口も多く、私が関心をもつ19世紀以後に先立つ前史の展示も充実。しかし、なにぶん17時で閉館なので、19世紀以後に力を入れて見学、調査。ユダヤ人が金融はもちろん紡績業や、医師や弁護士、新聞出版業に進出したことは知られているが、教育を受けられなかったひとの一部が芸能に活路を見出したという展示もある。ナチスからの解放後、帰還するユダヤ人にたいするオランダ政府の援護は乏しかった。そうだろう。そうあってはおかしいのだが、国のなかにいて、しかし、その国の構成員ではないような扱いが、相対的に開かれていたこの国でもあったわけだ。17時ぎりぎりまでねばる。さいわいにして、ここの入場券は、Portugese Synagoge(ユダヤ教会)とHollandsche Schouwburg(国立ホロコースト博物館)の入場券も兼ねていて日がずれても有効とのこと。

  24日。日曜日にあたる。Portugese Synagogeはさいわい10時に開く。雨がしょぼふり、寒い。そのなかを巨大なシナゴーグのいくつかの部屋を歩く。中央の(日本ふうにいえば)お堂(信徒が集まり、祈る場)のまわりを囲んで建物があり、そのなかに、たとえば、信徒を記録する事務室や生理中の女性の使う浴場などがある。したがって、歩いているときは屋根がないわけで、外套が湿って重くなる。ユダヤの帽子(キッパー)着用が義務づけられている。一度、ドイツのCelleの町のシナゴーグを見学したときに、キッパーをかぶったことがある。姿勢がよいと落ちてこないのだろうが、ノートをとったりするから滑りやすい。誰か見学中に落としてしまったひともいるようで、堂内の椅子にひとつ置かれていた。巨大なシナゴーグである。アムステルダムに居住していたユダヤ人の数の多さを想う。このあたりはユダヤ人が住まっていた地域で、第二次世界大戦前は8番の路線の市電が走っていた。その路線はユダヤ路線と呼ばれていたという。しかし、ナチスの侵攻によってユダヤ人がトラムに乗ることが許されなくなって、その路線は廃止されたという。今でも8番の路線はない。

     Hollandsche Schouwburgへ。字義どおりにはオランダ劇場で、ナチスの侵攻によってユダヤ人の芸能活動がここでしか認められなくなって、ユダヤ人劇場となり、最終的には、Westerbokの強制収容所へ送られるための集合場所となった。ここの展示の説明はほとんどがオランダ語だけで、オランダ語を知らない私には困ったことだが、さいわいによくみるとドイツ語の表現に似ているところがあり、あらかたの筋は理解。とはいえ、ofと書いてあるのが英語のorにあたるとか気づくのは、横に英語の説明があったり、前後関係から類推したりするわけで、もちろん、オランダ語ができたほうがいい。受付に若い女性の学芸員が座っている。頒布用に展示されている書物がオランダ語ばかり。ただ一冊、Etty Hillesumの英語版の日記がある。しかし、その本はすでに研究室に買ってある。「オランダ語が読めないのが残念です。でも、この本はもっています」と英語で学芸員嬢に話しかけると、あいそのいい子で理由を聞くから、私がHans Jonasというユダヤの哲学者の研究に着手してからこのテーマに関わっているといった話をしばらくする。下手な英語でも、内容が内容だから通じるわけだ。

  Verzetsmuseum(レジスタンス博物館)を訪問。ナチスが侵攻してわずか5日でオランダは降伏したのだが、そのあとが粘り強い。ユダヤ人の役人の解雇にたいしてストライキを行ない、電話の技術者は電話線をひいて抵抗運動に寄与したとか、なんともタフに闘う。もちろん、抵抗にたいして暴力と死の報復があるわけだが、そのように立ち上がる気概の基盤は何だろう。理不尽なことには屈しないとか、人種は違っても同じ社会を構成している仲間だという意識だろうか。人間の尊厳という観念が浸透しているのだろうか。ナチズムへのレジスタンスについて説明した子ども向けの本を買う。幾人かの子どもを登場人物として当時の状況を再現したり、体験者のインタヴューなどを取り入れたりしてできているのだが、ちゃんと親がナチズムに与したオランダ人の子どもという立場の登場人物も描かれている。

  25日。月曜だから行列はしていないかなと期待して9時半ごろ(開館が9時)にAnne Frank Huis(アンネ・フランクの家)に行く。しかし、すでに行列。しかし、ここはやはり訪問してよかった。一家をかくまったひとり、父オットーの経営していた会社に勤める女性が支援を求められて「私は『はい』と答えました。それはきわめて自然なことでした」といっているのに感動する。父オットーが「アンネと私はいろいろなことを話しました。アンネはいろいろなことを批判しました。しかし、日記のなかには、私が知っていたのとはまったく違うアンネがいました。深い洞察と厳しい自己批判が」と語っている。家族を襲った不幸なのだけれども、家族のひとりひとりが個別の人格として認められているすがすがしさを感じる。

  Amsterdam Historisch Museum(アムステルダム歴史博物館)であまり十分でないオランダ史の知識を少しは補う。オランダの社会や風俗に関する展示もあり。ここのトイレは性別の区別がない。ただ個室の便所が並んでいる。つまり、性同一性障がいのひとに配慮しているのである。同性の結婚が認められた最初の夫婦の写真も展示されている。

  26日。ふたたびJoods Historisch Museumへ。ついでながら、いまの若い世代は外国が珍しくもないだろうが、外国から絵葉書をもらうのは新鮮な気持ちがするだろうと考えて、ゼミの学生に絵葉書を送ろうとするが、郵便局がなかなかみつからない。ドイツと同じように、中央駅の横には大きな郵便局があり、町内にひとつはあるだろうと想像していたら全然だ。数日の経験でおおよその想像がつく。ドイツのPost Bankは、郵便事業だけでなく金融や流通に関わっているから発達しているが、オランダでは金融や流通の民間企業を圧迫しないために郵便は郵便だけじゃないのかしら。結局、絵葉書は27日にSchipolの空港で出した。空港だから郵便局があるだろうと思ったが、郵便局から出したわけではない。ただ、絵葉書を売っている本屋が切手を売っていて、それを貼って出すのだ。日本のように、国によって料金が違うと思い込んでいたから郵便局で正確な料金を聞いて投函しようと思って郵便局を探していたのだが、なんのことはない、外国と国内と二種類の料金の区別があるだけの由。やれやれ。帰りのオランダ航空は予定通り発着で無事日本に帰る。

2016年1月17日

往ったり、来たり、立ったり、座ったり2016

  住んでいるマンションの管理組合理事という役割があたっているので、きょうは地域の防災避難訓練に参加。近隣の世帯に安否確認(数日前に事前にお知らせしていた)。そのあとで自主参加の方々を含めて近隣の避難所に移動。かんたんな訓練をして昼に解散。

  きょうは阪神淡路大震災の日。あのとき、私は広島大学に勤めていた。子どものころから地震が来るまえに目が覚めることがあったが、あのときも目が覚めてからしてしばらくして揺れ出した。広島でも相当の揺れで、テレビをつけるとあの光景であった。2月か3月に学会の用事で京都に二度ほど出かけたが、姫路から播但線回りで和田山経由で山陰本線で京都に出たことが一度、住吉と灘とのあいだを歩いたことが一度。あとのときに目にした倒立した家屋、輪郭線に奇妙にねじれを感じさせる家屋、傾いてしまった高層ビルなどがいまも記憶にある。

2016年1月8日

  夢をみる。学生時代に戻ったかのように京都に住んでいる。年齢は今の年齢だ。すでに夜。きょうじゅうに名古屋に出張に行かねばならない。京大の北部構内を今出川通のほうに歩いていると、追い越していくバスがある(現実にはキャンパスを縦走するバスはないが)。あれに乗れば京都駅に行けたが……と思うが、後ろからきたので気づかなかった。百万遍に出る。タクシーを捕まえよう。ちょうど同じ用事で名古屋に行く某先輩(現実には某大学名誉教授のさるお方)に出会ったので同乗することとする。私が手をあげると、タクシーが止まる。ところが、それは宅配ピザのバイクの後ろに自動車の車体に覆われた2人がけで並んで座れる普通の座席がついている代物だった。変だが、止まったので乗り込む。「これ遅いんじゃないの」と運転手に尋ねると、「最高100キロ出ます」という。街中で100キロ出すことはないが、やや安心する。南下して、ところが神宮道(現実には道が変だ。百万遍から京都駅に行くのに、熊野神社を左折することはないのだから)あたりで車の調子が悪くなり、しかたなく下車する。今度は某先輩が手を上げてタクシーをつかまえる。今度もまた、宅配ピザのバイクみたいなものが止まり、後尾に付けた台車みたいなものに先輩は乗りこんで立つ。ちょうど、若者が自転車の荷台に立って乗っているみたいな。私もその後ろに乗ろうとすると、先輩が「君は前の座席に乗るんだ」という。なるほどバイクのすぐ後ろ、先輩が立っている台車との間に屋根も車体もないが一人分の座席がある。だが、先輩を立たせて私が座るのは申し訳ないので代わろうとすると、先輩が「急いでるんだから早くしたまえ」と怒る。それで座る。発車する。ところが、この車(?)もこちゃこちゃした下町(建仁寺のあたりか、あるいは昔の西陣のあたりのような)の狭い通りを走っているうちに故障する。街角にお稲荷さんの祀ってあるような小路でタクシーが通りそうもない。運転手が一緒に探してくれる。「桝酒あります。一杯500円」という貼札のある店の前を通ると、後ろから運転手が「この家がハイヤーをしているそうなので頼みました」と報告し、家から四十がらみの男が出てくる。どうも桝酒をひっかけているのでは……という気もするが、男は上機嫌で「こちらへ」と案内する。先輩とふたり、ちょうど青蓮院から知恩院にぬけたあたりのような下京の町が見下ろせる高台みたいなところで待つ。夜の街に灯火がまたたいている。だいぶ待つ。まだ新幹線があるだろうかと不安に思う。「おまちどおさまでした」と男の声がするので、見ると、ハンドルやメータの設備が前についた安楽椅子みたいな物に男が座っている。安楽椅子がそれだけで地面の上においてあるのだ。「これ、車じゃないじゃないか」というと、「車体は、今、息子がもってきます。車体をかぶせると車になります」と平然としていうので、「われわれはタクシーに乗りに来たんだ。タクシーごっこをしにきたんじゃないんだ!」とどなると――その拍子で目が覚める。真っ暗闇の寝室で寝たまま大笑いしてしまった。

2016年1月1日

  あけましておめでとうございます。

  昨年十一月にテロに襲われたパリを報道するニュースのなかで、市民の書いたカードを目にしました。Même par peur. 直訳すれば「恐怖を通して同じように」ですが、「暴力がもたらす恐怖によっては何も変えられない」という意味でしょう。日々の暮らしを大事にするフランスの根強さ、一市民がそういうことを書ける伝統の厚みを感じました。この一年、どうぞご無事にお過ごしになれますように。

   当方の昨年は、十一月に『倫理学の話』をナカニシヤ出版から刊行することができました。数年前に編集者の方に「倫理学概論を書いてみませんか」と勧められてから数年来の宿題でした。肩の荷が下りたという気持ちです。

  今年は五月十四日に京都大学で行われる日本哲学会大会のシンポジウム「哲学の政治責任――ハイデガーと京都学派」でパネリストを務めます。果たすべき課題は次々と与えられるものですね。

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