往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2007年12月23日

  近所のプロテスタント派の教会で、子どもたちの演じる劇をみる。イザヤによるキリスト誕生の預言、マリアとヨセフのベツレヘム来訪、天使の祝福、牧人が聖家族をたずねるところ。劇中に必要な歌は子どもだけでなく、集まったおとなたちもオルガンに合わせて歌う。一曲は指揮のもとに即座に輪唱ができた。こうやって信仰が伝承されていくのだなあと思う。おとなが若者を教え、若者が子どもの世話をし、子どもが伝承をおとなたちに劇にしてみせている。

  夕方は聖Apostel教会でコーラスをきく。中世の歌である。主題は、当然ながら、イエスの誕生。

  今晩でクリスマスマーケットは終わり。あすは聖夜だ。

 

2007年12月22日

  ケルン中心部のNeumarktにある聖Apostel教会でオルガン演奏をきく。バッハ1曲。あとはメシアンなど20世紀のフランスの作曲家の曲。この教会はにぎわう市場の隣にある。中に入れば静か。こうしてひとりでものを考え、かつまた、孤立感を感じるわけではない空間(教会だから公の場である)が用意されているのはよいことだ。

2007年12月8日

  中世のマーケットを再現したというふれこみのライン河岸、チョコレート博物館前のWeihnachtenmarkt(クリスマスマーケット)にいってみる。近くにいっても暗いからやっていないのかと思ったら、中世だからろうそくとランプでしているので暗いわけだ。布地、アクセサリー、菓子など売っている。スリッパの値段を聞いたらずいぶん高いので驚いたが、本物の羊の皮でできているという。ワインもグラスではなく土を焼いた器で出している。中世の衣装をした男性が子どもの手をとって矢を射させている。的はいのししの人形である。

2007年12月6日

  ケルン大学のPhilosophie Kontroverse "Die Natur des Menschen"(人間の自然本性)第1回を聞く。人類学者Michael Tomasello教授(Leipzig Max Prank Institut)の報告"Origins of Shared Intentionality"。人間がチンパンジーとちがうのは、相手の意図を理解して共通の目標をめざす行動をするところにある。たんに共同に行動するだけではなく、志向性が共有される。そして、共同の行動から自分が退去するときにはその旨を相手に告げたり、相手が非協力な場合には命じたり依頼したりする。その点に規範性がみられる。三歳児の行動をふまえた研究。しかし、そうすると、経済理論にいう、利潤の最大化をめざすhomo economicusはチンパンジーにこそあてはまることになりはしないかと思っていると、そういう質問が出て、大笑い。

2007年12月2日

  Advent(待降節)第一主日なので、夕方にDom(大聖堂)にいってみる。ところが、正面入口に面した広場は立入禁止で警官がいて入れず。きょうサッカーの試合があったためだろうか。かわりに、Dom南の広場に開かれているWeihnachtenmarkt(クリスマスマーケット)をひやかす。ついでにNeumarktとHeumarktのWeihnachtenmarktも。売っているものは、Glühwein(温めた赤ワイン)、ベルギー風ワッフル(生クリームたっぷり)、ソーセージ、じゃがいもで作ったお好み焼き風なもの、魚のフライ、クリスマスの飾り、ろうそく (Adventの四週間、毎週ろうそくをつけてキリストの降臨を待つ)、木工のおもちゃ、人形、アクセサリー、バッグ、香辛料、お茶などなど。移動可能なメリーゴーラウンドがどこでも設置され、Heumarktでは小さなスケートリンクもあった。売っているものはちがうが、浅草の羽子板市を思い出す。春を待つ気分がこもっているような。むろん、クリスマスは冬至直後で冬の真っ盛りなのだが、冬至以後は太陽がだんだん回復して春になっていくわけだ。人家の窓も、Adventだけにあかあかとしている。 ろうそくではあぶないからか、ろうそくのかたちをした電球や豆電球をつけている。

2007年11月28日

  Amartya SenのMeister Eckhart Preis受賞講演を聴きにいく。タイトルは"A Freedom-Based Understanding of Multicultural Commitments"。インド、バングラデシュ、パキスタンにおけるイスラム、ヒンドゥー、クリスチャン、カナダにおける英語圏とフランス語圏の共存を例にひく。エックハルト賞とは、エックハルトがケルン大学で教えていたのを記念して(古い話だ。13-14世紀)ケルン大学が設けている賞である。

2007年11月27日

  ゲストハウスの外壁と内壁のあいだに湿気が入り、かびが出たので、急遽、壁の工事がはじまる。換気不足とセントラルヒーティングを高温にするとかびが発生しがちだと聞き、ドイツ人よろしく、毎朝、寒くなるほど換気して注意していたが、壁の内側に水が入っていたのではしかたない。しかし大工事となり、たまたまあいていた隣棟の別の部屋に待避。家賃一ヶ月分をまけてくれる。湿気が入ったのは家主側のミスというわけか。

2007年11月8−14日

  ウィーンとザルツブルクをまわる。ウィーンにとっても、私にとっても、初雪にみまわれる。ケルンに帰ってくると、庭木の葉がすっかり落ちている。強い木枯らしが吹いたそうだ。

2007年11月2日

  死者の日(万霊節)。昨日は天国に召されたに決まっている聖人の霊のための日だが、きょうは煉獄にいっている、いわば、平亡者の霊のための日。だからか、お休みではない。ローマ・カトリックだけの儀式だそうだが、日本の祖霊信仰にどことなく通じるような。

  スーパーでごぼうを売っている。「農民のSpargel」「冬のSpargel」というそうで、ゆでてホランデーズソースで食べよ、と。形はなるほどSpargel(白アスパラガス)に似ているが、味はどうだろうか。

2007年11月1日

  万聖節(Allerheiligen)でお休み。くもって肌寒し。

2007年10月31日

  ハロウィン。これはアングロ-サクソン系の年中行事だと思ったが、ドイツでもスーパーではたくさんのかぼちゃが売られ(どういうわけか、赤茶の丸い品種はHokkaidoという名前だ)、骸骨や魔女がショーウィンドウに飾られている。ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家(まさにお菓子でできている。魔女も)も売られている。

  夕方、教会が鐘の音がいつもにまして高く響いてくるのは、プロテスタントの教会からかもしれない。きょうは宗教改革の日でもあるからだ。 ケルンはそうではないが、テューリンゲンなど新教の強い州では休みなそうな。

2007年10月28日

  10月末の日曜日で、きょうから冬時間。午前3時をもって午前2時とする。もちろん、起きていて時計の針を1時間もどすわけではない。1時間早く寝なくてはと思いつつ、そうもいかない。この1時間は来年3月末にもどってくるわけだ。不思議な気分。 日の出は7時20分ごろ、日の入りは17時10分ごろとなる。

  デュッセルドルフのKunst Palast Museumにいく。"Bonjour Russland"と題して、St. PetersburgとMoskauの美術館の作品がまわってきている。モネのつみわら、マチスの赤い部屋に感心。ついでに常設展をみる。2年前に一度みた。1290年頃の明るい顔をしたマリアと幼子イエス像に再会。目がぱっちりとして、笑っているのだ。しかし、BarlachのSängerという像には会えず。まえにきたときに、 係員に誤字を指摘しておいた日蓮上人佐渡流しの絵の掲示がなおっている。ライン川に近い魚料理で有名な店Fischhausでムール貝を食べて帰る。

2007年10月25日

  拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』(ナカニシヤ出版)の刊行日。店頭には、この月曜(22日)あたりから出回っているのだろう。著者本人はドイツにいて、実際に売られているのをみることができない。もう売り出されたのかどうかを調べるために、検索エンジンをひいたら、未知のひとのブログのなかの、「高いが無理して買った」という書き込みが出てくる。ありがたい話だ。

2007年10月20日

  ドイツの「エリート大学」6校が選出される。ハイデルベルク、フライブルク、コンスタンツ、アーヘン、ゲッティンゲン、ベルリン自由大学。昨年すでにミュンヘン工科大学、ミュンヘン大学(LMU)、カールスルーエ技術大学が選ばれている。最後に落ちたのはボッフムとベルリン・フンボルト大学(おお、Fichteの「大学の使命」!)。年700万から1300万オイロ(ドイツ語読み。ユーロ)が当該大学に投下される。全体の予算は2011年までに19億オイロだ、と。その75%は連邦、25%はラント(州)が出す。その額におどろく。

  大学間の差別化は日本でも進められているが、日本のトップ30構想はCOEに変化し、その後、GPその他の競争的資金ができてくるうちにだんだん焦点があいまいになったというか、焦点自体が分化していった。もっとも、ドイツでも、選ばれなかった大学の憤懣をいやすためか、今後も選出の可能性があり、そのために一大学ごとの年次予算が当初より削減されて、すでに選ばれた大学からは批判も出ている、と。また、選ばれた大学の地域的な偏り(旧東独は1校もなし)も潜在的な問題のようだ。選出過程も、今回はとくに、政治に影響された由。

  文部科学省が同じような案を出してくるかもしれないが、世間一般から大学は研究機関としてよりも教育機関(もっといえば、社会に出るための資格認定機関)のようにみられている日本では、「エリート大学」を選定する試みはドイツ以上にうまくいかないだろう。「社会に出るための資格認定機関」としての評価は、「偏差値」という(民間!の)評価基準が数十年間強力に機能していたわけだ。近年の日本の大学の評価システムは、「お上のお墨つき」という意味がちらちらと垣間みえる。実際、税金の優先的投下という意味では、税金の使途のわりふりを決めるのは「お上」だというなら(ほんとうは国民の代表が決める仕組みではあるが)、そうにちがいないのだけれども。もし、日本で「エリート大学」を選んだとすれば、その「エリート」の意味は、「お上によりいっそう近い」ということだろうか。

2007年10月13日

  ゴアのノーベル平和賞受賞を報じるFrankfurter Rundschau紙の見出し。「反ジョージ・W・ブッシュのノーベル賞」。「これはブッシュ大統領にたいするばしんと音のする平手打ちだ」と。記事によれば、ゴアの環境(ドイツでは気候(Klima)と表現することが多い)への関心は80年代からで、1992年に『バランスのとれた地球』を公刊したときには、当時のブッシュ(父)大統領に「オゾンマン」とからかわれたという経緯をもつが、今回の受賞はむしろ「政治家をやめてからの業績」にある、と。この記事を読んで考える。一面的な見方かもしれないが、ひょっとすると、ゴアの例は、帝国主義の残滓のようなパワーポリティクスよりもっと重要な「政治的次元」があることを示唆しているのかもしれない。もっとも、記事には、大統領選に敗れてひきこもり、ひげもじゃになっていたゴアの気をとりなおすきっかけに夫人の言ありという、なんというか、内助の功みたいな話ものっている。

2007年10月1−7日

  列車でパリに出かける。 マロニエやプラタナスの葉が色づきはじめている。着いたその日はモンマルトルの丘からパリを一望し、日をかけて美術館をめぐり、サン・ジェルマン・デプレ教会のなかでデカルトの墓を遠望し(静かに祈っているひとを邪魔してはならない)、霧雨の一日、高村光太郎が「雨に打たれるカテドラル」と歌った ノートルダムのカテドラルに詣で、快晴の一日、ヴェルサイユに足を伸ばした。そのさい、Javelの駅からアポリネールの歌ったミラボー橋をかいまみたのは思わぬ幸運。なんの変哲もない橋にはあれども。モンテグイユ通りやジャンジャックルソー通りの裏町のフランス料理店や、モロッコ料理、ベトナム料理を楽しむ。パリのこの秋の最新モードは流感というわけではないが、ドイツよりもぼやぼやと温かくて、かぜをひいて帰ってくる。

2007年9月14日

  Ministerpräsident Abe(安倍首相)の突如の退陣について、Frankfurter Allgemeineの9月13日付の記事。不安定な政治状況が日本経済におよぼす影響を危惧。日本は世界で第二位の国民経済の国で、最も借金の多い国(国の借金の山は5兆ユーロ)だが、前任者小泉が経済に力点をおいたのに、安倍は改憲に力点をおいたため、企業、投資家、選挙民の支持をえられなかった、と。後継には麻生が有力視されているが、古いコンツェルンの出で、70年代に麻生は自分が経営に関わっていた企業の戦争中の歴史を清算できていない。麻生は周辺諸国に強硬な外交姿勢を示すが、「12000人の朝鮮人、中国人を強制労働にかりだしたAso Mining Co.」を出自とする麻生は、中国や朝鮮からみれば、1930年代に自国を侵略、支配した日本を「象徴する人物(Symbolfigur)」だろう、とある。

  ドイツも戦時中に外国人を強制労働にかりたてた。だが、90年代から21世紀初頭まで、国も企業もその補償につとめた(三島憲一『現代ドイツ』岩波新書、174−9頁)。

  ネット上では、麻生は「アニメ好きな、ちょいワルのおじさん」として若者に人気があるそうだ。だが、麻生個人の性格はともかく、彼のアイデンティティや(彼がなかばうけついできた)資産形成に目をつければ、近隣の国からは「ちょいワル」どころか「極悪」にみられる可能性をもっているわけだ。戦前の歴史をじゅうぶんに教えられていない若いひとたちが彼を支持するその光景は、日本の外からは「反省なき日本」にみえてくるのではないか。

  ちなみに、Frankfurter Allgemeineは保守的なほうの新聞である。

2007年9月6−10日

  列車でオランダに出かけ、Amsterdam、Delft、Den Haag、Leidenの町をめぐる。Delftには、今年4月にJohannes Vermeer Centrum(フェルメールセンター)ができた。作品は各地の美術館が所蔵しているが、フェルメールの生きた時代、絵の構造、絵の具などを教えている。Delftの運河そいにあるいて東門とはね橋ののどかな景色に時を忘れる。そのフェルメールの絵の現物は、Den HaagのMaurits Huis(マウリッツ美術館)でみる。

  LeidenはSiebold Huis(シーボルトハウス)を訪問。個人的な関心からここは訪ねたかったところ。大学植物園では、シーボルトが日本からもってかえったケヤキやトチノキが大きく育っている。この日、博物館の日とかで、Leidenでは町の歴史めぐりの観光客が多かった。昔、潮を見張ったという要塞跡にのぼる。 そこから孤児たちの働き場でもあった織物工場跡、古い教会をながめる。 たずねた日は日曜で、要塞のすそにあるレストランでは、西日のそそぐなか、大勢の客がビールをのみかわしていた。

  Amsterdamの国立美術館は今改装中、市立美術館は昨年完成の予定がまだ改装中で、ごく一部しかみられなかったが、Jan Steenの皮肉で陽気な絵を楽しみ、なによりもGogh Museum(ゴッホ美術館)に堪能する。

  オランダにきて繊細な味つけの料理を賞味。パイ皮を上に張った牛肉の煮込み(Delftの郷土料理のレストラン)、ムール貝(Den Haagにあったベルギー料理の店)、インドネシア料理(なにぶんオランダの植民地であった)。ずっと質実剛健なドイツ料理につきあっているせいもあってか、ことのほかそう感じたのかもしれない。気のせいかもしれないが、イギリス、オランダの美術館はドイツの美術館より気さくな応対をするように思う。ドイツの美術館は「絵を楽しむ場」というよりも「貴重な絵画を管理している」という権威主義のにおいが少しする。  

2007年8月21日

  Süddeutsche Zeitungに、「日本の政治にはWitzがない」という記事が載る。Feldmann同志社大教授の説明を紹介。ウィットに欠けるその理由は、日本人はユーモアを解さない、あるいは、日本人以外には通じないユーモアのみ解するからだ。日本社会はヒエラルキーが強く、人間関係に笑いをもちこめない。関係が凍りついたとき、ウィットなしにどうやって局面を打開するか。日本の政治家は「いいまちがえた」といってきりぬけると、柳沢厚労相の「女性は産む機械だ」、麻生外相の「アルツハイマーのひとでもわかる」の発言をひいて説明している。最後に、日本にウィットがないのは、現実そのものが風刺となっているからかもしれぬと記して、森喜朗元首相がクリントンに"How are you?"というべきところをまちがえて、"Who are you?"と聞いてしまった話を載せている(クリントンは"Hirally's husband."と答え、森はそれに"Me too."と応じた。森はこの一言で歴史に残るのか)。参院選で与党が惨敗しても、それ以後、日本の政治が目をひくニュースを発信しないものだから書かれた記事だろう。

  ザクセン州の町Mügelnで町の祭りに来たインド人8人をドイツ人の若者たちが「外国人は出ていけ」と叫び、追いかけ、けがをさせる 。旧東ドイツは経済格差が大きく、ときにその矛先が外国人にむけられる。「ドイツ人」なるものがいつ生まれ、だれがそれかも疑問だろうに。

2007年8月14−20日

  ThalysとEurostarをのりついでブリュッセル経由でロンドンに旅行。Thalysの出発時の車内放送が独、仏、蘭、英の順なのが、ベルギーに入ると、蘭、仏、独、英 。Eurostarがフランスに入ると、仏、蘭、英、イギリスに入ると英、仏、蘭と順番が変わるのがおもしろい。だから、三つの名をもつ町Aachenでは、順にAachen(アーヘン), Aix-la-chapelle(エクスラシャペル), Aken(アーケン)の名で案内される。Eurostarのロンドンでの到着駅はWaterlooだが、今年の11月からSt. Pancrasに変わるようだ。つまり、今はBig Benに出迎えられ、11月以降は大英図書館に出迎えられるわけだ。

  ケルンにくらべると、ロンドンは忙しい。道が狭く、赤信号でもさっさと渡り(青信号の時間が短すぎる)、駅のエスカレーターも左側は急ぐひとむけにあけている。アイスやパンを食べながら歩いているひともほとんどみかけない(ケルンでは次から次へとみかける)。肥りすぎのひとも少ない(ケルンでは多くみかける)。ドイツでは 、親切か無愛想か、感情がこもる応対をするひとが多いが、ロンドンでは、話が通じて用件が足りればそれでいいといったふんいき。冷たく感じるひともいるかもしれないが、私はどちらかというと事務的で抑制的なほうが好きな面があるので、 むしろ気に入る。気温は20度前後。日本は酷暑だそうだが。

  明るい赤茶のレンガで造られた農家の散在するベルギーの景色を(初めてみるものの)なつかしくながめ、イギリスに入ると黒に近いこげ茶の建物に漱石の苦しい留学時代を思い出し(漱石の散歩したBrixton等の駅を通過した)、定番の名所をまわるなかで、Courtauld Institute of Art Galleryに以前から好みだったセザンヌの「カード遊びをするひと」、ルソーの「税関」等の作品をみつけ、心なぐさめられた。

2007年8月6日

  ケルンの大聖堂のまえの広場で、反核団体がヒロシマ、ナガサキの被爆の写真を展示して核廃絶を訴えていた。赤ん坊に乳を含ませている放心状態の若い母親(この方は昨年だったか、新聞に、亡くなったと報じられた)、丸顔の童女、市内の被災のようすの写真、死んだ子を背負ったまま歩いている母親の絵、やけどで亡くなった母親にとりすがる二歳くらいの無傷な子の絵(「どうしてこうなったか明らかである」とドイツ語の説明あり)、広島平和資料館の被災者の像など。みているひとはあまり多くなかったが、写真や絵の訴える力は大きい。精巧でなくても、カラープリンタで刷って、ともかくみてもらうことがたいせつなのだ。

2007年7月31日

  きのう、「経済のグローバル化+愛国心」VS「社会民主主義+連帯」と書いたが、これはアメリカの一部の政見とヨーロッパの一部の政見を対比したぶん、わかりやすく思えたので書いたまでで、ほんとうの対立軸は別にあるのだろう。規制緩和のいきつく先が経済のグローバル化であっても、規制緩和と国民の一体感とは関係あるまい。ただ、経済のグローバル化をすすめた結果、国内に格差が広がり、国民のあいだに分裂が起こるから、愛国心が主張されやすくなるのだ。皮肉にいえば、「私は負け組だが日本人でよかった」と思いたいひとは国と一体化するにちがいなく、そのひとたちを利用したいひとたちは愛国心を鼓吹するだろう。愛国心がそれだけのものだとはいわないが。

  一方、暮らしを守るセーフティネットが「大きな政府」にかならず通じると決めてかかることもできまい。リバタリアンのいうように、市場こそが人びとの欲求に的確に応えるとほんとうに考えられるなら、役所でなくてもよいわけだ。逆に、役所がかならず非効率になるというのも先入見なのかもしれない。役所の仕事を、役人以外の国民が監視かつ協力すれば、行政が変わるのかもしれない。この方向が愛国心と無縁だともかぎらない。暮らしを大切にすることに根ざした愛国心も(日本でとびかう愛国心論では想像しがたくても)ありうるだろう。

  ちなみに、きょうのFrankfurter Allgemeineには、Peter Sturmという記者が「美しい日本?」と題する記事を書いている。それによれば、安倍は「『美しい日本』という空虚なお題目(Leerformel)へ逃避」しているが、「年金が確実に払われないかもしれないときに、だれが憲法改正や外国への兵の派遣に関心をもつか」「明らかに多くの日本人は『美しい』国に住んでいると感じていない。昔の確信は消えうせた。ドイツにとってもこの感覚は周知のものだ。日本の投票者の反応はたいへんドイツ的だった」と評している。一方、民主党については「雑多な政治集団の寄せ集め」で「ともかく自民党への敵対心で一緒になっている」、だから政権交代の準備はまだできていない、と。うーん、たいへんわかりやすい解説ですな。

2007年7月30日

  ドイツで日本の報道はあまりみないが、さすがに Oberhaus(直訳すれば「上院」だが、参議院は、もとはといえば貴族院だからこうなるのだろう)の自民大敗を一面に載せた新聞が多い。 Frankfurter Allgemeine は、貧富の差の拡大、年金問題をあげて、「安倍は貧しい層の窮状にたいする配慮が足りないと非難されていた」と説明。閣僚のスキャンダル、自殺、原爆やむなしの発言についても、要領よく紹介している。Zeit はRechtkonservativ(保守主義者のまえに「右の」がつく)安倍の主たる政策は戦後の平和主義的な憲法の改革と愛国心の涵養だ、と紹介。橋本のときとちがってすぐに退陣しないのは、後継候補がいないからだ、とも。 それで、Ministerpräsident Abeをとりまく状況はドイツの読者にもわかろうが、大勝が報じられるDP(民主党)の政策は書いていない。すっきりとは書けないのかもしれない。

  日本の政治状況がいまひとつみえにくいのは、「経済のグローバル化+愛国心」VS「社会民主主義+連帯」といった対立軸が自民党対民主党のあいだにないからだ。だれがだれの利益代表なのやら……。Frankfurter Allgemeine の経済面は、日本の経済・税制の改革が遅れるおそれを指摘しているが、自民党が改革派で、民主党が守旧派ともいえまい。自民党の票田だった(今回の選挙で過去形)農村地帯が自分は規制緩和の受益者だと思い込めるはずはないし、小沢も以前は「小さな政府」の主唱者だったのだから。Neue Züricher Zeitung に「安倍の前任者はカリスマ的な小泉」とあったが、結局、Populist頼みの政治なのだろうか。

007年7月26日

  ボンの博物館街Museummeileにいき、ちょうどまわってきているモスクワのTretjakow-Galerieの展示をみる。そののち、ドイツ歴史博物館。ここではユダヤ人の国外追放の特別展示。この問題に関係した日本人は杉原千畝が有名だが、その名の言及はない。かわりに、日本が上海を占領してからユダヤ人を一地区に移動させたのち、ユダヤ人の出入管理の任にあたったGhoyaという名の役人がみずからをKing of Judeと呼んだという話が出ている。そのGhoya氏が得々とした表情でゲットーを視察している写真も。この人物はその後どういう人生をあゆんだのだろうか? それにしても、「ユダヤの王」とは、名乗るにことかいて……。

  ユダヤ人の特殊な事情もあるが、異国になんとか適応し、生きのびる知恵とたくましさ。日本では、日本から「追放される」可能性も、逆に、容姿も言語も異なるひとたちが多数、日本に「逃亡してくる」可能性も、身近 には想像できない。多数の難民をうけいれれば、社会的混乱はまぬかれないが、「行きたい国として考えられない国 」であるのもどうか。

2007年7月19日

  締切の近づいた論文に必要な文書を借りるために、ケルン大学医学部構内のDeutsche Zentralbibliothek für Medizin(ドイツ医学中央図書館)にいく。日本の私の研究室なら、いすから2メートル先にある文書なんだがなあ。大学図書館とは別に新たに利用証明書が必要。受付の老人は親切にも私の名をカードの裏に記入してくれるが、「ありゃ、あの調子だと、枠をはみでるな」と予想したとおり、Shinagawaは書けたが、Tetsuhikoは書ききれず、Tetsokdみたいになってしまう。ドイツ人には、Tetsuhikoは想像もつかない名前のようだ。「ドイツ語に訳すと (正確にいえば「ラテン語風に訳すと」だが)、Philosophiusだよ」というと、みな一笑したり感心したりしてくれるが。

2007年7月17日

  エッセン(Essen)に足を伸ばす。おめあての美術館はあいにく引越しのため閉館。かわりに世界遺産の「世界で最も美しい炭鉱」(!)Zollvereinをみる。郊外に突如としてそそり立つ巨大な鉄骨の組み立て。つげ義春の「ねじ式」のひとこまのようだ。町の中心の広場には、工業都市エッセンの発展を推進した大企業クルップの経営者の銅像がある。Alfred Kruppだ。コンツェルンをきずきあげた二代目だろう。五代目も同名だが、ナチスとの関係で戦犯に問われた。クルップは、軍部とむすびつく一方、外国には「政治に介入せず」をモットーに 敵対する双方に武器を売ったという。その一方で、従業員のための住宅を近郊に用意した。「社宅」といっても、戦後日本の平屋建ての文化住宅などとはかなりへだたりのある、瀟洒でしっかりした石造の集合住宅。「人間と生活を大事にする」精神と軍需産業との奇妙な融合。

2007年7月6日

  ケルン大学で2日間行なわれる"Entfesselte Kräfte. Techinikkatastrophen und ihre Vermittlung"(解き放たれた力。技術のもたらすカタストロフィとその伝達)の一部を聞く。聞いたかぎりの報告では、事故をカタストロフィとうけとめる報道、作品等による変容に力点があって、それはそれで問題なのだが、リスクにたいする責任といった私自身がいささか関心をもつ問題とは別のよう。午後は失礼する。大学図書館でコピー。試験前で満席。

  きょうは、風強し。4月は晴ればかり、気温も30度を超して夏のようだったが、5月から日に一度は驟雨にみまわれる日がほとんど。今は雨もよいの20度たらずの気温がつづき、薄いコートをはおっているひともいる。 降雨時間の短さからいえば「時雨」だが、障子のむこうにぱらぱらと音もかそけくふる風情ではなく、「夕立」が昼も夜も襲ってくるような印象。晴れ間がのぞけば、高いところに綿雲がうかぶ秋空のような青空がひろがるときもある。

2007年6月29日

  ケルン大学で行なわれたWorkshop "ethische Probleme der Transplantationsmedizin"(移植医療の倫理的問題ワークショップ)を聴講。医療関係者、倫理学者、心理学者など5名の報告を聞く。全体としては、もはや脳死をひとの死とすることは共通理解となっていて、臓器提供数の増加が「実践的」課題として語られていた。ドイツは日本の現行の臓器移植法とちがい、臓器を提供する本人の 意思確認のために厳密な文書を要さないが、提供数の伸びない一因は親族の反対であるという。だが、提供数増加をめざすからといって、臓器提供の義務化、商業化は防がなくてはならないというのが、その問題にふれた報告者の共通の姿勢だった。

  社会のメンバーのあいだに「脳死はひとの死だ」という共通理解のないかぎり、日本の現行の臓器移植法は本人の意思を厳密に反映しようとする点できわめてすぐれていると思う。偶然の経緯が重なったとはいえ、同調主義の日本社会でこれほど個人の意志を重視する法ができたこと自体、特筆にあたいする。なんだか 富国強兵のドイツ帝国に突如として民主的なワイマール体制が生まれたのと似ているような……といえば誇張になろうが。(かつ、「つぎに到来するのは……」と示唆するものがあまりに悪すぎる点で、現時点では、不適切なたとえで もあろう)。

  生体移植提供者(家族間が多い)の心理的葛藤とそれへのケアにかんする心理学者の報告がこまかな心理をついておもしろく、医療法学者の報告のなかでドイツの地域ごとの臓器移植の数にふれたところがドイツのLand(「州」というか、連邦を構成する「邦」の単位)の歴史的意識を反映していておもしろかった。

  報告のなかで日本について2回言及された。ひとつは臓器提供の歴史の報告のなかで、日本の「特殊」事情の理由としてDoktor Wadaによる最初の心臓移植についての言及があった。もうひとつは医療法学の報告のなかで、日本人の少女への臓器移植がドイツで行なわれた事例が紹介された。報告者は それについて「きわめてむずかしい問題」という表現にとどめたが、〈臓器提供は提供者の善意にもとづく〉とする以上は、当該社会のメンバー以外にも移植は開かれているべきだが、待機リストに載っている「国民」を優先せずに外国人に移植するのは、理解されがたい面があるというわけだ。 もし、臓器提供が「善意」でなく、「義務」であれば、そのシステムに属さない外国人への臓器提供は禁じられてもよいという結論になってもおかしくない。その点で、善意を根拠におくというところが、鍵に思える。

2007年6月25日

  選択するになやましい問題が出来して思い屈していたが、気分転換に、ライン川をさかのぼり、リューデスハイム(Rüdesheim)にいく。雨にたたられたが、ライン右岸にそった斜面一面にひろがるぶどう畑が美しい。つぐみ横丁で夕食。往年の知的悪役、成田三樹夫にそっくりな男性が給仕してくれる。成田三樹夫は好きな俳優だから、Trinkgeld(チップ)をはずんでしまった。すると、知的悪役は鼻の根にしわをよせ満面に笑みをうかべて、「すばらしい夕刻を! よい旅をお楽しみください!」といってくれた。すごみのあるおあいそだった。

2007年6月21日

  Sommeranfang(夏至)。ケルン大学で行なわれたPhilosophie KontroversのAnerkennung(承認)シリーズの第2回を聴講。オランダのNijmehen大学のPaul Cobben教授の講演。いくつかの論点のなかで、ヘーゲルの主観概念が身体を含んだものであり、身体の承認なしの精神の承認はないという論点に関心をひかれる。もっとも主張の成否をめぐって、絶対精神等のヘーゲルの形而上学的前提にからめた質問、多し。ひとり初老の婦人が"Ich bin keine Fachfrau, aber habe Interesse für Philosophie."(私は専門家ではありませんが、哲学に興味をもつものです)と断って質問。質問の内容は「『絶対』という語にはこの百年ですっかり否定的なニュアンスがしみついてしまいました。今現在、絶対という語を肯定的に語りうるとすれば、どのようなことが連想できますか」。哲学の研究会に一般のひとが参加して、質問をするそのふんいきがいい。

2007年6月8日

  床屋政談のつづき。温室ガス排出規制で一定の妥協ができ、米ロの対立がひとまず収拾したのは、まずよかった。Die Welt紙は、「女主人の勝利」と題して、「ヨーロッパが三月に野心的な目標で一致していなかったら、Klimaschutz(気候保護)はアジェンダに載らなかったろう」と評価する一方、「時代錯誤的なG8の形式にも助けられた。中国、インド、ブラジルまで拡大したG11ではこの結論には達しなかったろう」と釘もさしている。読売新聞は「日本とEUの提案が認められた」と報じたようだが、こちらでは「ヨーロッパ各国、カナダ、日本」の順である。これはヨーロッパからみた遠近法だからしかたないが、日本が妥協のひきだしに貢献したとしても 、その点を強調する説明に説得力を感じないのは、日本政府が一貫して環境問題を優先課題としてきたとはみえないからだ。

2007年6月7日

  Fronleichnam(キリストの聖体日)でお休み。さいわいに快晴。 木曜は6時まで開いているので、ケルンのNS-Dokumentationzentrum(ナチス資料センター)のアンネ・フランク展をみにいく。元ゲシュタポの建物だったこの博物館の地下の牢や常設展示に圧倒される思い。とくに「優生学」上の理由で殺されたひとたちの丹念な身体検査を記載したカルテの展示。その子や孫が現存するであろうナチス関係者の写真、経歴をはっきりと示している。それでもネオナチがうまれるのだが、過去とはこのように毅然とむきあうべきだろう。

  外は、キリストの聖体日の行進。オレンジ色のスカーフをつけた教会関係の観光客多し。ちょうど、Evangelische Kirche Tag(プロテスタント派教会の日)と重なっているのだ。

2007年6月5日

  サミットがはじまるが、こちらにきてから私の見聞した外交の大きな問題は、ロシアとEUとの関係が悪化しているということだ。エネルギーの供給量の低減、 アメリカのミサイル配置に対抗する旧東欧を覆うミサイル戦略の再構築というロシアの政策がEUを刺激しており、「冷戦の再開」という見出しもみかけた。新聞のインタビューでは、チェコの大統領が「世界大戦はいつもヨーロッパから始まるのです」と記憶をよびさまし、警告していた。一方、環境問題では「メルケルはブッシュと一戦交える構え」という見出しもあった。その方向には進まぬようだが、軍事、経済、環境それぞれの文脈でアメリカとEUの関係は微妙にみえる。

  日本の新聞には、各国が歩みよれるような提案を安倍首相が試みるとか書いてあるけれども、アジアのなかで今注目を集めているのは、経済が順調な中国とインドだ。調停や妥協をひきだすには、力の裏づけが必要だろうが、日本に今そんな力や存在感があるだろうか? 「いやいや、まあまあまあ、双方のお考えはよくわかります」と訳知り顔で口をはさんで、その場をあしらうくらいなものじゃないかしら? 日本の政治はそういうキャラクターにみえる。まあ、私自身も、こんな床屋政談はやめたほうが賢明だろうが。

2007年6月4日

  先週の土曜日、北ドイツのRostockでデモが暴走。けが人1000人と報道される。 同じ州の町HeiligendammでG8(サミット)が行なわれるのだが、それにたいして、グロバリゼーション反対、アフリカの貧しい国を救え、等の主張を掲げ、教会、労働組合青年部、グリーンピース、アタック、極左、といろいろなひとが集まって5万人のデモになったところ、一部が暴徒化して警官ともみあう。暴走の誘因には、ドイツ内部の東西格差や移民の問題があるのだろうが、はっきりしない。 暴走の主軸は外国人だとも。ユーロは高くて好調だが(ついに1ユーロ164円)。

2007年6月2日

  ベルギーの国境に接するAachenへ。その意図はなかったが、今年の6月1日から10日まで、7年に一度の巡礼を迎える時期だった。それでMünster(大聖堂)はたいへんな人出。マリアの着衣、イエスの腰布(を納めた袋)、預言者ヨハネの打ち落とされた首の布(を納めた袋)、など聖遺物を拝観。異教徒としては何ともいいがたいが、はしなくも中世の空気にわずかながらふれたわけだ。もっとも、デジタルカメラや携帯で堂内を写して回っている巡礼もいたが。

2007年6月1日

  散髪。ドイツ人ふうに思い切り短くされてしまった。床屋いわく、「sportlichになった」と。スポーツをしていないのにsportlichねえ。鏡のなかをみると、どうも徴兵に応召するとすれば、こんなになるのでは? びんに白髪のまじる老兵であるが。

2007年5月27-28日

  PfingstsonntagとPfingstmontag(ペンテコステ。聖霊降臨日の日曜日と月曜日) でお休み。あいにくの雨。 近くの教会のミサで信者有志のコーラスを聴く。

2007年5月25日

  ケルン大学のHusserl Archivの研究会に午後の一部だけ聞く。最後はWaldenfels。このひとの論文は何度か読んだが、現物をみる(?)のは初めて。「他者としての無意識」という発表。このひとらしい題目だ。ただ私などは、現象学で「無意識」を語るという方法上の意味のほうに気をとられてしまう。

2007年5月17日

  Christi Himmelfahrt(主の昇天日)でお休み。五月に入ってから雨が多い。きょうは近くの公園で、プロテスタントの団体がコーラスしながら散歩する(主の昇天日の直前三日間はそうする習慣があるそうだ)予定だったが、雨なのでとりやめとなったろう。

2007年5月11日

  デュッセルドルフの日本総領事館に在留届を出しにいく。思いのほか(?)、感じのいい対応。総領事館の対応に関するアンケートもしている。日本の某所にあるドイツの同様のお役所の日本人は、木で鼻をくくったような印象を受けたが。 欧米に小島のごとく存在する日本の役所の日本人は親切で、欧米の日本の出店に雇われている日本人はえらそうなのか? いや、一般化は慎もう。

  K20 の美術館でピカソ展と常設展をみる。キリコのLa grande Tour(巨大な塔)、クレーのGezeichneter(「描かれたひと」とも「刻みをつけられたひと」とも訳せるが、その両方かもしれぬ。顔面が黒い太い線で分割されているのだから)に心なぐさめられる気分。巨大な塔はその無意味な巨大さにおいて、後者は、顔面を分割されながら沈黙してこちらをじっとみているその丸顔に――どうも、つかれているのかもしれない。

2007年5月9日 

  ケルン大学で行われたPhilosophie Kontroversの第1回を聴講。今年のテーマは、ヘーゲルの『精神現象学』発刊200年ということで、Anerkennung(承認)である。この問題をずっと論じてきたフランクフルトのAxel Honneth教授の講演。ただ、私の理解できたかぎりでは、消極的自由に立脚する個人主義が社会的承認によって克服されるという原理的な話にとどまったような気もするが。Michael Quanteが若手(44歳だそうだが、もっと若くみえる)の教授らしく、さっそうと質問に立った。このひとの著作Personales Leben und menschlicher Tod(人格の生と人間の死)は 秀才風に守りが堅くて、もの足りないところもあるが、章の初めに「証明の目標」を明記し、自分のとっているアプローチで答えられる範囲と答えられない範囲を切り分けていく叙述は、論文の作法として見習うところ、あるべし。

2007年5月6日

  ボンのDrachenfels(龍の岩山)に登る。「ニュルンベルクの歌」のダイジェストを読んだのは小学生のころで、記憶もおぼろだが、クリームヒルトの復讐劇は陰惨な感じがしたのを覚えている。でも、きょうは晴天。緑の丘陵のあいだを流れるラインの川筋もまっすぐで、のどかな気分だ。子どもむけに ジークフリートの物語を龍(? わににみえる。爬虫類の動物園が近くにあるので、わにかもしれない。しかし、ジーグフリートとわにでは関係ないが……)の人形が語る機械がある。ジークフリートはここで龍を滅ぼし、その血を浴びて、たまたま木の葉が落ちて血が注がなかった一箇所の弱点をのぞいて不死身となったのだ。この装置はお金(1オイロ)を入れないと、龍 (わに?)がいびきをかいて寝てしまって話をしてくれない。

  (ちなみに、Drachenfelsには、辞書でみると、「舞踏会で娘の母親の座る席」という意味があるそうだ。龍を退治しなければ、お姫様は手に入らないという意味だろか?)

2007年5月1日 

  Maitag(メイデー)でお休み。この4月は、月の初めに小雨がぱらついたあと、雨がふらず。観測史上、「最も暑く乾いた夏」と新聞にも出ている。ケルン大学のキャンパスにそって広がるHiroshima-Nagasaki Parkでは、芝生のうえに、水着姿で寝ころぶ若い女や、上半身裸で運動している若い男もいる。しらかばの枝に色テープを巻いてかざるMaibaum(英語のメイポール)を立てた家もあり。2−3メートルに成長したしらかばを切ってしまうのだから、むざんな感じもする。しらかばが私にはめずらしいからか。七夕の笹も、笹をみなれないひとたちからみれば、そんな印象があるかもしれない。

2007年4月8−9日

  OstersonntagとOstermontag(復活祭の日曜日と月曜日)で お休み。Karfreitagとのあいだにはさまった土曜は、町はにぎわっていたが、祭日は店も休むのでどちらかという街は閑散。とはいえ、ケルンの漢字名は「興隆」(科隆とも)。そこで、挨拶句。

 

   名にし負ふ街にぎはひて復活祭

2007年4月6日 

  Karfreitag(聖金曜日) でお休み。ケルンのドーム近くの小さなレストラン兼居酒屋で夕食をとる。給仕に出た、品のいい老婦人が黒い服を着ている。イエスが十字架にかけられたのを記念する日だからだろうか。少なくとも、きょうの料理のメインが魚料理なのはそのためだろう。

2007年4月1日

  在外研究のため、ドイツのケルン大学へ。ゲストハウスにくるみの大木あり。 りすがときどきおとずれる。

 しきしまの花を見捨てて旅立ちぬ

 たどりゆく途もかすみに包まれて

 新芽吹くくるみを傘に居を定む

2007年3月23日

  京都大学の学位授与式に臨む。論文『正義と境を接するもの ―責任という原理とケアの倫理―』によって、博士(文学)の学位を授与される。

  式は13時から15時までだが、受付は11時30分から。受付をすませて、昼ごはん。学生・院生のころにあった食堂「フレッシュランチ」やそば屋「柏軒」はなくなって いる。昼飯をすませても時間があるので、総合図書館に入る。私がよく利用した文学部の哲学科閲覧室は、そもそもそれが入っていた旧館そのものが取り壊されて消えてしまった。私たちが新館と呼んでいた学舎は、今は東館と呼ばれ、これもちかぢか取り壊される運びだ。総合図書館は、学部生のときに新築されたものだが、すでに古びて、明らかに手狭になっている。

  図書館で丸山薫を読む。所在ないままに、手持ちの彼の詩集にはおさめられていない、好きな詩を書き写す。

「雪のふる夕暮/道を歩いてゐると/不意に/顔を払つたものがある/

見れば/さくらの枝だ/おや もう こんなに/雪がつもつたのかしら/雪がつもつて/もう こんなに/道が高くなつたのかしら」

ではじまる「遠い昔のやうに」という詩だ。ふりつもった雪のかさと、うつろった時の長さとが呼応して、そこがこころに残る詩だ。

  大学院を修了してから20年たっている。その間、精進してきたとはとてもいえないし、博士論文はここ数年の仕事をまとめたものにすぎないが、なんだか雪がつもるようにして時がすぎたような気もする。手にしたものは、丸山薫の詩にいう「枝の花を透かして」仰いだ「うすみどりの空」のように、澄明な作品とはいえないけれども。

2007年3月20日

  学部の卒業式。2004年入学のこの学年は哲学科として入学した最後の学年で、これ以降は総合人文学科として入学し、2年で専修を決定した学年となる。とくに女子学生が元気な学年だった。卒業論文のレベルも高かった。学生から各教員に花束が贈呈された。うーん、最近の学生は行き届いていますな。私が学生のときは、先生に花束をさしあげるなど、考えつかなかった。もっとも、私の卒業時の京大文学部哲学専攻10名は、野郎ばかりで、メンバー自体に「華」がなかった。

2007年3月13日

  勤務先の保健管理センターで体重を量る。うーん、減っていないな。ドイツでだいぶ歩き回ったのだが、そうは減らないものか。研究棟のメールボックスをのぞくと、「日本肥満学会」からのメールが! しかし、それは他の先生宛のがまじっていたのだった。

  図書館で調べもの。そのはずが、つい、久保田万太郎全集に手を出して時間を費やしてしまう。全集月報に「大寺学校」について、プロットからいえば敵役がとうとう舞台に登場せず、したがって、西洋の作劇作法からいえば一篇の主眼となるはずの、登場人物同士の劇的な対立が演じられない――そこに、日本人の人間関係のありようが現われている、という評言あり。なるほど。

  久保田万太郎ふうにいえば、「ゐたはりといふものをもたない奴にはかなはない」。そういう人物に「すすどく」いいたてられたら、久保田作品の常連の人物は泣き寝入りするほかない。舞台の上には哀愁どころか、陰惨なふんいきがただようだろう。そうなると観客のほうも「さうはいつても、意気地がない」と主人公たちをみすてたくもなるかもしれない。そうではなくて、観客もまた、主人公たちとともに「あがきのつかない」この人生を「なげかひ」、そっとなみだぐむうちに、幕が下りなくてはならないのだ。

  

2007年2月25日-3月5日

  ドイツ出張。今年はドイツも春が早いらしく、ケルンのヒロシマ-ナガサキ公園には楮・三椏の種類ではないかと思う黄色い花が咲いていた。フランクフルトからシュツットガルトをへてチュービンゲンへ向かうときには、黄色い花だが、枝ぶりからしてまんさくではないかと思う木もあり。ドイツ人の知人に尋ねると、Zaubernuss(直訳すれば「魔法の木の実」)だと教えてくれる。あとで辞書をひくと、やはり「まんさく」だ。まんさくは広島にいたころ、毎年、春の楽しみだった。ドイツでこの花をみるとは、うれしいかぎり。

  旅行中、上海の市場にはじまる株価暴落が報じられる。出発前のレートでは、1オイロ(ユーロのドイツ語読み)160円だったが、153円くらいに落ちる。Berliner Hallという揚げたジャムパンが0.8オイロで、(これが130円では高いな。110円がせいぜいだ)などと思った。私の感覚では、1オイロ140円くらいが相場のような気もする。しかし、こんなこといえば、経済にくわしいひとからは、「あのねえ、為替レートって、ジャムパンの値段だけで決まるもんではないの」とたしなめられるだろう。

  しかし、ドイツは電車運賃が2年前より値上がりしているし、生活費だけなら日本より暮らしやすいというかつての感覚はなくなっている印象だ。

  ケルン、チュービンゲン、マールブルクの各大学をまわって帰国。ケルン大学の植物学研究所のまえでは、赤いボケをみつけ、シュツットガルトの公園ではこぶしをみつけ、花を楽しんだ旅行でもあった。

2007年2月10日

  入試は8日に終わったが、3年間の研究費支給期間がこの3月に終了する科学研究費補助金研究の報告書の原稿づくり、取組責任者を務めている特色GP「人間性とキャリア形成を促す学校Internship」の報告書の原稿作り(うーん、つぎつぎとエクセルデータを打ち込んではグラフにする作業に、なんと慣れたことか)、その他、各所に提出する原稿の印刷に追われる。卒論の試問は15本、修論の試問は3本。なんと忙しいことでありませう。

  「狼狽」と「蝋梅」とをかけるわけではないが、大学の坂道にあるろうばい、花盛り。ちょっと香りが弱いが。ろうばいには、雪もよいのくもり空が合う。もっとも今年は暖冬で、もはや三月なみの気温だけれども。

2007年2月1日

  入試がはじまる。3年間、この時期は、学長補佐室で書類を作るのに追われていたが、久しぶりに入試監督。  

  手をあげた受験生のそばにいったら、「前に座っている受験生の貧乏ゆすりをやめさせてくれ」と。振動が伝わると書きにくいとすれば、実害があるわけだから、 前の子に「体ゆするの、やめてくれるかな。ほかのひとにめいわくだから」と軽い調子でたしなめる。受験生であれば、どちらもナーバスなので言い方に苦労するなあ。そのあとで考える。――political correctnessに敏感なひとからみれば、「貧乏ゆすり」というのは「不適切な表現」ではないのだろうか。そういえば、「格差」といわないかわりに「新貧困層」なる表現が出回りだした。ということは、「うちは代々、トラディショナルな貧困層でして・・・・・・」などといういいまわしも可能か。

  鉛筆やら受験票やらを机の上から落とした場合、受験生本人が他人の席に近づくのはまずいので、試験監督がひろってわたす。肌色の消しゴムらしきものがあったのでひろってやろうと思って、よくみたところ、小さなウィンナーだった。お弁当のときに、ころがりおちたのだろう。ひろってわたさなくてよかった。「試験監督の教員が試験時間中にゴミを押しつけた。試験時間中にゴミの後始末をしろというのか! ウチの子はただでさえ動転しやすいのに、それで実力が発揮できなかった」などと父母からクレームがきたらたいへんだ。

  (最近の大学受験って、そんなふうなんですか)という方もあろうが。

2007年1月27日

  「生命の尊厳」研究会(代表:盛永審一郎富山大学教授)のため、東京大学へ。イェナ大学のNikolaus Knoepffler教授の講演"Das Prinzip der Menschenwuerde und das Klonen mit therapeutischer Zielsetzung"(人間の尊厳という原理と治療を目的としたクローニング)。特定質問者にあたっていたので質問。生き物としてのヒトが尊厳をもつ存在に「なる」ことは、「超越」としかいいようのないことではないか、と考えていたが、そういう回答が返ってきたので、いささか意を強くする。 もっとも、氏の考える「超越」とは、神経系の自己発達をさしているようで、もし話が神経系の発達にとどまるなら、メカニックな自然機制として考えるのとどう違うのかがわからない。だからだろうが、類概念をたんに生物種という自然科学の概念として理解してしまうダーウィニズム以後のわれわれの傾向についての問いは、今ひとつ、期待した反応が返ってこなかったけれども。

2007年1月15日

  取組責任者をしている特色GP「人間性とキャリア形成を促す学校Internship 小中高大連携が支える学外型実践教育の大規模展開」の第2回シンポジウム「若い世代をともに育てる組織として 学生の力を活かした小中高大連携の新たな展開」を開催(13:30-16:35、実際は延びて16:50)。基調報告「関西大学学校Internshipの取組」をしたあと、学生ふたりに体験報告をしてもらい、シンポジウム(中永健史京都市教育委教員養成支援室長、丸岡俊之大阪府教委教員振興室高等学校課主任指導主事、杣順子寝屋川市教委学校教育部教育指導課指導主事、鵜飼昌男神戸市立六甲アイランド高等学校研修広報部長)のコーディネーターをつとめる。

  学校インターンシップを関西大学がはじめて4年目、特色GPに選定されて2年目だが、受け入れ側の教育委員会、学校・園の体制が急速に整ってきたところも多い。教員養成大学ではない大学が教職志望者の学生の就業支援ともなるこうした事業をおこなうとき、教育大学や教育学部には(かりに答えが決まっていなくても)あたりまえのように語られる「教員の資質」「教員の適性」とは何か、という問題に関わってしまう。いずれにしても、答えの出にくい問いではあるけれども。

  山形、鹿児島、東京、名古屋の大学からも参加してくださった方がいて感激。

  

 

 

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