往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2011年12月26日

  某大学の外部評価委員会のため某大学へ。今年は、ひとの論文、業績の審査、そしてこの他大学の外部評価と、評価審査にあたる仕事が多かった。できれば、それに要する時間を自分の仕事にふりむけたいがままならぬ。思えば、32歳で大学の常勤教員になってから(大学の非常勤講師はその3年前からだったが)、今の勤め先を定年(65歳)まで無事勤め上げるとすると33年。今年でその3分の2が過ぎたわけだ。いろいろな仕事がまわってくるのもしかたがないのかもしれない。きょうで授業は終わり。来年は5日からである。昨今の大学の勤勉なること!

2011年12月18日

  日本倫理学会評議会のため、川崎市の日本女子大学へ。帰途、ケヤキの林に夕日があたっていて、燃え立つようだ。私の生まれ育った地域の原風景があるとすれば、こういう風景だろう。もう少したつと、ケヤキはすっかり葉を落として、形よく丸みをおびた樹形が乾いた寒空を背景に浮き立ってみえるのだ。春になると、野道にしどめ(草木瓜)が咲いていたな。谷戸には 、日差しの乏しい谷戸の奥まで狭い稲田が耕されていたものだ。すっかり宅地造成されてしまった今、そういう景色はほとんど姿を消してしまったにちがいない。私自身も、生まれ故郷を せつになつかしんでいるわけでもない。おそらく景色というものはそれを思い出としてかかえている世代とともに消滅していくものなのだろう。

2011年12月11日

  関西倫理学会委員会のため、龍谷大学へ。JRの京都駅から歩くこともできるが、阪急の大宮駅から歩いていく。途中、横に曲がれば古い町並みの一角に入り込みそうだ。京都にいくと、学生のころの気分にもどってふらりふらりと散歩したくなるが、時間の都合で寄り道はできず。しぐれのふるこの時節には、嵯峨野を歩いて、野面に雲の影が走るのをみたいものだ。

2011年10月29-30日

  関西倫理学会を関西大学100周年記念会館で開催する。開催校として運営にあたる。学会開催は1999年に日本現象学会、2000年に関西哲学会以来。いすや机を出す作業に、加齢を感じる。受付とスケジュールの運行で、ほとんど発表は聞くことができず。しかしまあ、懇親会も評価していただいたようだし、会場運営もスムーズにできて安堵する。125名が来場された。

2011年10月20日

  阪大の3回目の授業。履修者は減っていくであろうと予想していたが、登録上は先週208名という数字が出ていたが、今週は222名に増えている。実際には150人くらい、きているだろうか。登録の締め切りは開講してから3週間だそう。熱心に聴いてくれる学生が多ければ、張り合いがあるというものだが、それに応じて体力も使う。阪大の授業を終えて関大にむかい、来週末に関大で開催される関西倫理学会の準備作業を少しして、その後、隔週でしているカントの読書会(6時から8時半くらいまで)を終えたら、気息奄々。

  翌21日に調べると、226名になっていた……。 (11月1日時点で調べなおすと231名。もう変わらんだろう)。

2011年10月15-16日

  関西哲学会のため、龍谷大学へ。1日目の最初の司会があたっているので、前日から京都に泊まることとする。それをいいことに、もうすぐ終了のフェルメール展をみにいく。フェルメールは、長年の汚れをとってよみがえった「手紙を読む青衣の女」を含めて3枚。デ・ホーホ、ヤン・ステーン、オスターデといったドイツでなじみになったオランダの画家たちの絵もあって楽しい。

  関西哲学会のほうは、委員会と編集委員会のため2日続けて出る。参加人数が一時期より回復して、若いひとが増えたようだ。刺激を受ける発表もいくつかあり。

    ただ、「通常の」話しことばと哲学・倫理学の書きことばとがますます乖離しつつある状況で、若い発表者の表現のなかには違和感を抱かせる箇所、あるいは「それはまちがいだろう」というような箇所がときにある。「存立」を「ゾンリツ」と発音しているらしきひとあり。すると、存在論は「ぞんざいろん」か。

2011年10月6日

  大阪大学大学院文学研究科・文学部へ第1回の講義にいく。現代思想文化学専門分野の学生を対象とする専門科目。哲学哲学史や臨床哲学の学生がきたとしても30名くらいかと思い、それでも40部ほどレジュメを用意していった ら、廊下が学生で込み合っている。急遽、教室を変えてもらったが、まだ立ち見のひと、廊下にいるひとがいる。レジュメを増刷してもらい、あとで数えると、130人ー160人ぐらいきていたようだ(増刷してもらった部数の数字がはっきりしない)。「正義の基本概念をあつかう」と書いたから、昨今のサンデル人気であふれかえったのである。「私は『クミコ、君の意見を聞こう』などというスタイルの授業はしません」と いっておく。さらに「まずはアリストテレスの正義概念をふりかえる」といったら、数名出て行った。最終的には、どれほどの受講生が残るだろうか。

  関大にもどり、カントの『純粋理性批判』の読書会。ついに弁証論に入る。万歳。

2011年9月30日−10月2日

  日本倫理学会のために富山大学へ。金曜夜に震災に関する特別企画ワークショップ、そのあとに三つのワークショップが同時に開かれる。昼過ぎに到着。ルオーの版画「ミセレーレ」を楽しみに富山県立近代美術館へいく。「ミセレーレ」はひろしま美術館にもあって、広島在住時にはよくみたものだ。同じ版画だが、題の訳が違うものもある。私が最も心をひかれている作品のひとつ、「自分の顔をつくらぬ者があろうか」(ひろしま)が「顔に皺を描かぬ者はいようか」(富山)というふうに。

 帰宅してからひろしま美術館のパンフレットで原題を確認すると、Qui ne se grime pas? 辞書をひくと、se grimerは「役者が自分の顔に皺を描いて老け役に扮する」とある。両方の訳を足してようやく十分なのかもしれない。そこに描かれた顔は、疲れきった放心状態 。だが同時に、目は怒りか告発か問いかけを秘めてこちらをみつめており、口はこれから何事かを語ろうとしているというようにもみえる。とはいえ、その目の光は失せ、口は語るべきなにごとも用意できていない らしくもある。怒りと失望が感じられるものの、しかし顔全体には色濃く疲れと放心と無力感が漂っており、強い感情は隠れてしまっている。そのために従順にすらみえる。もし、これを「顔をつくる」というなら、これは心中の思いを隠して意図して仮面を作るというよりも、そもそも心中の思いそのものがひとつに定まっていないために、仮面じみた表情になってしまったが、しかしとりあえずはそうした表情を浮かべてでも生きつづけ るほかないといった意味で、そうなのではないだろうか。

  美術館全体としては、広く伸びやかな展示で、現代美術の展示も説明があってなかなかよい。常設展だけみたので200円だったが、その金額でこれだけ充実したものをみられるとは、富山の方はしあわせだ。

  学会は、ワークショップ、個人発表、主題別討議、共通課題ともに充実しており、いくつか質問もする。新しい知識を得るとともに、問題の共有を感じる、よい学会だった。

2011年9月29日

  高大連携の出張授業で平城高校へ。授業を終わって、乗換駅の大和西大寺で降りて、実に何年ぶりかで西大寺に参る。学生時代にみなれた四天王に踏みつけられている邪鬼をみる。つっぱらかした足がそっくりかえってこむらがえりを起こしそうだ。若い頃にいたく感動して、当時、つきあっていた女性に熱をこめて話したなあ。(……ほかに話すべきこともあったろうに)。釈迦如来像の流れるような衣文に陶然とする。文殊菩薩とその四侍者も久しぶり。そのうち一体が愛らしい善財童子だが、元気一杯な優填王(釈尊のPatronであったウダヤナ王とか)、そのうしろからついてくる(と申しては失礼か)最勝老人(文殊菩薩の化身ともいう)など、とりどりにおもしろく拝見。境内には白萩がさきみだれていた。

2011年9月23−25日

  応用倫理学会のため、京都大学へ。理事会、『応用哲学を学ぶ人のために』合評会、司会と出なくてはならぬ用件が三日にわたるが、大阪在住の人間が京都で開かれる学会のためにホテルに泊まるというわけにもいかず、毎日、自宅から出向く。

  合評会では、応用哲学とは何かという論点に集中する。もっともだし、あの題名を銘打った本が出たとなると、学会の方針がそこに表明されているようにうけとられるのも無理はないが、著者のひとりとしていえば、別段、共通の理解を構築してから執筆したわけではなく、複数の著者がご自身の応用哲学観を記しているとしても、私には、「どうして自分が『応用哲学を学ぶ人のために』と銘打つ本のなかに原稿を書くのか」という、与えられた課題をまえにしての自己確認、あるいは、自己弁護(?)の域を出ないように思われる(もっとも、「おれの応用哲学観が正しい」と読者や同僚に「教育」する意図で書いた方もいるだろうが)。私自身は自分に与えられたテーマ「ケアと介護の哲学」についてどうにか400字*20枚にまとめるだけで紙幅を満たしてしまい、応用哲学の定義めいたことはいわなかった。合評会当日に出てきた「当事者性」といった論点については、1999年の日本倫理学会共通課題で披露した私見(「倫理学の応答能力――生命倫理学を手がかりに」)以上にいうこともあまりない。――しかし、あれはもう約10年前になるから、そのテーマについて、もう一度、私自身、考えなおさなくてはいけないだろう。

  学会の合間に、お彼岸でもあるので真如堂にお線香をあげにいく。萩の花はまだ盛りではないようだ。真如堂の手前にある、たしか私の学生時代には境内に入れた覚えのある和泉式部ゆかりの軒端の梅のあるお寺には入れなくなった。百万遍知恩寺にもお邪魔する。さるすべりを枝を詰めて仕立ててある。吉田神社では結婚式をあげていた。学会にかこつけて、若いころに散歩した会場近辺のお寺や神社をおとずれるのは変だけれども、そちらのほうが気持ちが落ち着くのだからしかたない。  

2011年9月18日

  日独交流150周年記念のシンポジウム「人間と環境 我々はどのように考えるべきか」(150 Jahre Freundschaft Deutschland-Japan)のため、関西学院大学へ。冒頭にヨナスを引用して責任概念を強調し、京都の哲学者たちをとおして日本やアジアの発想がハイデガーに与えた刺激に言及しつつ、ハイデガーを環境にたいする哲学的思索のひとつの源として紹介する講演をされたHarald Lehmke教授(Lüneburg大学)にたいしてドイツ語で質問。責任を問う以上、「誰が誰にたいして何についての責任があるのか」「誰のまえで自分の行為が責任をまっとうしたと釈明するのか」を問わなくてはならないが、ハイデガーの存在論も日本の伝統的思想もそのような問いを発したことがなく、そこが弱点ではないか、とたずねる。Lehmke氏も同意される。Lehmke氏は、ハイデガーの「神がこの世界を救う」ではなく、「人間が救う」という方向をうちだしているのだから、同意されるのはもっともだが、私はヨナスのハイデガー批判にかなり納得しているので、両者がたんに並べられると、どうもそれについてまず違和感を抱く。

  日独の友好的関係をことほぐシンポジウムだから、全般的に、東洋的な「自然とともに生きる」という発想を再評価(?)する話が多かったが、福島の事故を考えれば、「自然とともに生きる」以上に、「誰が誰にたいして何についての責任があるか」のほうが重要だと考える。ただし、特定の電力会社や特定の国策だけが現在の被害者だけにたいして責任があるといいたいわけではない。ヨナスを念頭におけば、現在世代の未来世代にたいする責任に広がらざるをえない。

2011年9月17日

  京都生命倫理研究会のため、大津駅に近い滋賀大学のサテライトキャンパスへ。道徳心理学の話で勉強になる。京都はよく行くが、トンネルをくぐるからだろうか、わずか10分の差で、大津に行くと旅行気分になる。曇った日で、湖水も比良もけむっている。

2011年9月10-12日

  私用で実家へ。お盆から一ヶ月近くたったので、またしても草が出ており、草むしり。残暑がひどいとはいえ、さすがに秋風らしきものも吹く。さるすべり、やぶらん、おりづるらんの花、咲いており。例年、秋口に急に伸びて花を咲かせる彼岸花はまだ顔をみず。今年はだめか。先日、北海道大学植物園で名前をたしかめたマムシソウの実がなっている。12日にひとと会う用件をすませて帰阪する。ひさしぶりに富士山が頂上から山すそまでよくみえる。

2011年9月7−9日

  政治哲学研究会のため札幌大学へ。もともと倫理学は政治、経済、法と深く関わるが、ロールズ以降、倫理学と政治哲学はかなり重なり合っており、私自身は政治哲学の研究者とはいえないが、お誘いを受けて参加。なかなか刺激を受ける。

  8日10:00-18:00の研究会だが、札幌だから前日に行き、翌日に帰ることとなる。前日は北海道大学の植物園をゆっくりめぐる。二度ほどおとずれたことがあるが、北方民族資料館や博物館まで回ったのは初めて。ドイツ・トウヒや白い球の実を結ぶSnow Berryなどドイツでみかける木をみてなつかしい。ドイツのほうがなつかしいとは変な話だが、北海道よりもドイツのほうに何度も行っているのでそう思うのだろう。

  9日は、子どものときに写真でみて、一度行ってみたいなと思った勇払原野をみに、日高本線に乗る。さすがにドイツの平原や空からシベリアの雪原をみたことのある身には、子どものときにみたら感じただろうほどの感激はないが、それでも、まあ子ども時代の自分への約束を果たしたような気分。時間のゆるす範囲を考えて、静内までいき、郷土館をみて帰る。岩野泡鳴の『断橋』で淡路の稲田騒動と静内移住の話を知った。稲田家臣の遺したもののなかに、福山名産の保命酒の入れ物がある。甘い酒で、広島に住んでいたころ、福山や鞆の津に遊びに行ったときによくお土産に買った。おそらく寒地への移転に備えて体を温めるためにもっていったのだろう。長らく花瓶と思われていて、だいぶたってから保命酒の壜とわかった由。

2011年9月4日

  大学院生の研究発表会のため、長岡京の会場へ。私の指導している某さんの修士論文のための発表(カント)と、某教授の指導する博士論文を提出する予定の某君の発表(ディルタイ)を聞く。時間にゆとりがあったから、質問はいろいろ出た。終わって懇親会。 二日続けての宴会。どうも若いころの酒量の記憶がわざわいして、現在の自分にたいする正確なイメージができていないのでは、とあとになって考える。

2011年9月3日

  関西倫理学会委員会のため、龍谷大学へ。おりしも台風が接近して、和歌山、奈良を中心に大きな被害が出たのだが、日程的にここでやらぬとどうしようもないので開催。ところが、いつもよりはるかに出席率が高かった。 嵐のなかの開催を意気に感じたというより、まだ授業が始まっている大学も多くなく、各種入試やオープンキャンパスの時期でもないからだろう。

2011年8月22日

  上野千鶴子氏の『ケアの社会学』を版元の太田出版から贈られる。上野氏は拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』について「ギリガン以後のケア対正義論争を追った労作」と記し、論争を要約した一部を引用している。ヘルドの「編み合わせ」をケアの倫理のひとつの到達点とする私の見解にも賛同された。ただ、書名の副題「責任という原理」が「責任という倫理」と誤記されているので、版元からお詫びが書き添えてある。二刷で修正とのこと。

  拙著のほうは二刷が売り切れたそうな。複数の方から著者のもとに問い合わせをいただくが、なにぶん、哲学書は初刷がはければ成功だというふうだから……。

2011年8月13-15日

  お盆。実家の庭の草むしり。半月まえに手を入れたから、だいぶ楽だ。しかし、毎日35度前後の暑さ。実家の周囲も、私が中学生のころと違って、アスファルトと建物に囲まれたから、照り返しがきつい。ヒグラシは鳴いているが、秋の気配、ほど遠し。

2011年8月6日

  オープンキャンパスでミニ講義「ドイツを旅して『人間の尊厳』を考える」を行い、その後、文学部の専修別質問コーナーに座って質問を受け付け。

  夕刻、大学院を出て、今は野菜などをあつかっている商社に勤めてタイ在住の某君が帰国期間の日々を割いて来訪。工場の責任ある地位についているそうな。会社の公用語は英語。夕方、退社時間になると、工場で働いているタイ人めあてに会社の前に屋台が出る。残業する彼がそこで、ソーセージのように腸に米と肉とを詰めて焼いたものを買って食べていると、「××さん、何、食べてる?」とタイ人の社員にたずねられた。だいぶ脂っこかったので食べ切れなかったというが、あまり外国人は買って食べないそうで、それを食べている彼に親しみを感じているふうでもあった、という。

  関大出身者らしいなあ、と感心。関西大学の学生は、肩肘はらずに、すっと中に入っていけるタイプが多いみたいな気がする。

2011年7月30日

  日本倫理学会評議員会のため、日本女子大学西生田キャンパスへ。7月なかばは猛暑だったが、ここにきて東京は30度程度。ついでに実家に寄って草むしりをする。5月の連休以来こなかったものだから草茫々。むしった草には、放射能が蓄積されているのだろう。子どものときからあった コブシがとうとうだめになってしまったようだ。根元から小さな葉が出ているが、上のほうは枯れている。 父が亡くなった年には大量の花をつけたものだ。今年はノウゼンカズラは花が少なかったようで、サルスベリはこれから咲くのだが、やはりつぼみが少なく、昨年は丈高く伸びたユリも出ておらず。 頭が重くなって倒れ気味の南天を切っておく。

2011年7月6日

  クリストフ・マルクシース『グノーシス』(土井健司訳、教文館、2009年)のまえがきの冒頭部分を読んでいたら、次の文あり。「頭脳明晰な人はたいていこの言葉[グノーシス]についてそれぞれまったく別のものを考えている」。……すると、グノーシスについて見解を同じくするひとは、たいてい頭脳明晰じゃないんだな。 

2011年6月26日

  京都生命倫理研究会のため、京都女子大学へ。授業の疲れがたまっているので研究会だけと考えていたが、2007年の在外研究のさいにケルンで親しくした某君がドイツで博士号を得て帰国したので一次会に、そしてついつい二次会もということとなる。むしあつい一日。大谷御廟の緑の色、うつくし。

2011年6月16日

  兵庫県立津名高校に講演にいく。医療・看護系をめざす高校3年生約30人に「インフォームド・コンセント」の話をする。津名高校の先生方からは、おとなしいまじめな生徒が多いとのお話であったが、そのとおりであった。神戸の三宮から高速バスで1時間ちょっと、私の住まいから三宮までも1時間ちょっとだけれど、高校の先生方からは「遠方で」とねぎらわれる。あいにくの雨だったが、バスの窓から淡路島の棚田の景色をみることができた。津名港はフェリーが廃止になったため、閑散としており、桟橋に草が生えている。以前なら、遠出のついでにそのあたりを散策して帰るのだが、なにぶん時間に追われている状態なのでとんぼ帰りする。

2011年6月12日

  ドイツの腸管出血大腸菌O104の事件の報道を朝日新聞で読む。LübeckのレストランKartoffel Kellerで死者が出たとのこと。おやおや、ここは昨年秋にリューベックにいったときに食事をしたところではないか。店名を訳せば「じゃがいも亭」といったところで、ローストしたじゃがいもが、ドイツにいくたびに思うことだが、うまかった。もっともじゃがいもがメインというわけではなく、交易で知られたリューベックの名物に敬意を表してニシンを注文した。こちらは(なにぶん塩1樽にニシン5樽の割合で漬けるという)塩漬けニシンで、生魚を食べる習慣のある日本からくると、どうも匂いが鼻についたが、店自体は、聖霊教会病院の隣の横丁を少し入った一画にあって、灯ともし頃にちょっと立ち寄りたくなるような風情の店であった。

  塩漬けニシンの名誉のためにいえば、いつも生臭いわけではない。ベルリンで食べたのは塩漬けでも新鮮であった(きゅうりやたまねぎを入れて、ヨーグルトであえてあった)。

  ドイツのホテルの朝食では、貧しい内容でも、きゅうりとトマトの輪切りぐらいは出る。一日に食べる野菜といえばそのくらいのこともあるので、 きゅうりやトマトが食べられないとなるとなかなかたいへんだろう。

  もちろん、昼食や夕食のときに別に注文すればルッコラやチコリのサラダ、季節によってはSpargel(白アスパラガス)があるし、主の料理についてくるそえものとしても、温野菜にはじゃがいものほか、バター味でゆでたインゲンやブロッコリーや芽キャベツ 、煮込んで肉汁を吸った紫キャベツやシャンピニオン、漬物類にはザウアークラウトのほか、酢漬けの赤カブ、チーズを詰めた唐辛子のピクルスなど、うまいものがいくらでもある。(ついでにいえば、ケルン大学のMensa(学生食堂)で出された小鉢一杯のゆでたえんどう豆のように、ただただ忍耐を強い られる出し方をされる場合もあるけれども)。

2011年6月11日

  関西哲学会の委員会のため梅田に出る。帰りに本屋に寄ろうかと思っていたが、ついつい某先生方と一杯飲むことになってしまい、はしごとなる。どうもいけない。

2011年6月10日

  きょうも早朝1時限の授業、4コマの授業。終わって、一度診察してもらって信頼できそうだと思っている眼科医をおとずれる。瞳孔をあけて眼底をみる。 みるものとしての眼がみられるものとなるという逆転。といっても、私自身はみられている側だから、自分の瞳孔と眼底をみたわけではないが。眼科医の先生、サンデルのテレビをごらんになったらしく、「最近の大学生は議論できますか」などと話されるが、急に「いや失礼」と打ち切って診断結果を話される。加齢によるもので、心配していた重い障害には直結せぬ由。安堵はしたが、飛蚊症のもとは硝子体のなかにあるわけだからとりのぞくことはできず。

  こうしてだんだんと体に支障ができて、自分の老いと寿命に納得し、消え去る心構えが用意されてくるのだろうか。

2011年6月9日

  大学院生や学部生といっしょに、カント『純粋理性批判』読書会をしているさなかに、右目の視界に濃い緑色の糸くずのかたまりのようなもの、現われる。なにか異状が起きたことはわかるが、ひどい頭痛というようなものがあるわけではなく、ともかく会を最後までやりおえる。

2011年6月4日

  久しぶりに休日。古代ギリシア展をみに、三宮の神戸市立博物館へ。「円盤を投げるひと」が呼び物でなかなかの人出。黒や赤のアンフォラ(壺)もなかなかよかった。哲学者クリュシッポスの像についての説明に「外見を犠牲にしてまで観念世界をみつめた哲学者の姿が表わされている」とある。(……そうかねえ。これはこれで立派な顔だから『外見を犠牲にして』とまでいうのはどんなもんかいな)。ついで、並み居る美しき青年像の数々。「古代ギリシアでは、美しい肉体は徳性の高さの表れであった」。(……なるほど、贅肉がついていてはいけないのである)と顔を伏せるようにして歩くほかない。ところが、展示の最後のほうにソクラテス像あり。例の鷲鼻、はげ頭、太鼓腹。気分をとりなおすというか、なかなか考えた(?)展示の順番ではあった。1時半に入場して4時に退出。

  やや強行日程だが、出直す機会があるかどうかわからぬので、阪神電鉄で2駅目の岩屋で降りて兵庫県立博物館の「カンディンスキーと青騎士展」をみる。5時に入場して8時前まで。ミュンヘンのレーンバッハ美術館所蔵の絵画。レーンバッハ美術館はダッハウの強制収容所を訪れた冬の日に気分をなおしに訪れたことがある。青騎士(Der blaue Reiter)の仲間では、私は、August Mackeの明澄で透明な色彩に心を奪われている。Macke夫人の絵、おなじみの公園の群像、帽子屋などの絵をみることができてうれしかった。この画家が27才のときに第一次大戦で戦死しなければ、どれほどよかったろうか。MackeはDelauneyに影響を受けたが、このDelauneyの「窓」は、高校生のときに画集でみてたいへん気に入ったのだから、私がMackeに心ひかれるのももっともなわけだ。

2011年5月28-29日

  哲学倫理学専修、比較宗教学専修、芸術学美術史専修合同で2年生の合宿を行うため、飛鳥にある関西大学飛鳥文化研究所へ。あいにくの雨。今年からカリキュラムがかわった 。哲学史や倫理学史の知識を修得させるべく、また、文献の読み方を修得させるべく、だいぶきびしく対処してしまっているので、その印象など聞くが、まあ学生は笑っているから 、あまりのきびしい授業に意気阻喪しているわけでもないのだろう。その専門についてのなにがしかの知識を修得させずに哲学倫理学専修を名乗るわけにもいかない。

  行きしなのタクシーのなかで、同僚の某先生がヤマボウシの花の話をする。その花なら、自宅のマンションの敷地に咲いている。ハナミズキの種類だそうな。そういえば花の形が似ている。四弁の白い花。車中からみる雨中の飛鳥の道には、コデマリらしい花が咲いていた。いずれも緑の色が濃くなるなかで咲く白い花だ。そういえば、ねずみもちの花もそろそろだ。見栄えのしない花ではあるけれども、濃厚な甘い香りがなかなかよい。このところ見かけないが、学生のときに銀閣寺の近くに下宿していたそのあたりにはよく咲いていた。

2011年5月14-15日

  日本哲学会のため、東京大学へ。すぐに某氏と会って、研究費のとれなかった共同研究の今後のことの相談。日帰りで帰阪して、15日は勤務先の教育懇談会(学生のご両親との面談の会)。この会は、毎年、日本哲学会と重なり、いささか参っているが、なにぶんご相談にみえるご両親もおられるので……。通例の懇親会は震災のために自粛ということで早めに帰る 。自宅マンション敷地にエゴの木の白い花が花盛り。なぐさめられる。

2011年5月7日

  関西倫理学会委員会のため、龍谷大学へ。今年の春はなかなか気温が上がらなかったが、木々のよそおいが初夏のたたずまいとなる。学会の委員会というものもくたびれる。2008年に学会財政に関する書類をまとめて提言したが、またそろそろ同じ仕事をしなくてならぬような 状況に。なにぶん哲学・倫理学の学会では会員数も知れたものだからなかなか経営がたいへんだ。

2011年4月9日

  日本倫理学会評議員会のため、日本女子大学へ(小田急線の読売ランド下車)。節電のため、JRの駅のエスカレーターがとまっていたり、スーパーのなかの照明が落としてあったり、やはり関西より東京のほうが震災の影響を直接に感じる。

  小田急線ですぐ近くのところにある実家に泊まる。さいわいにして家具の転倒その他の被害なし。昨年秋に庭木の手入れをしたが、だいぶ弱っていた古いほうのコブシは、つぼみはあれど、開花しているようすがない。めずらしいマサカキ の木がある(ひとによってはカミサカキと呼ぶひともいる。スーパーなどで「榊」と名づけて売っているのは、あれはヒサカキというのだったろう。長崎などでは仏様に使うよく似た木をシバというし、私にはその区別がよくわからない。尾崎一雄の作品に説明があったが、説明は覚えているものの、実物との照合ができないのだ)。その根元にアリが巣をくっているので薬をまく。とはいえ、めったにこれないから、また発生したときにすぐさま対応ができるわけでもない。だんだんと衰えていくのをいかんともしがたい。裏庭のスミレは健在。昨年秋に、植木屋さんが丁寧に庭を掃いて、雑草をとってしまったので、だめかなと思っていたが生きていた。 沈丁花、海棠、椿は盛りをすぎ、れんぎょう、木瓜が咲き、山椒、アジサイ、山吹がおずおずと芽吹き、あるいは、新しい葉を出していた。

  私の子どものころ、読売ランドは西生田、隣の生田は東生田、町田は新原町田という駅名だった。新原町田は横浜線の原町田にたいして「新」だったわけで、「原の広がっている」場所というイメージが町田にはあったのではないか。「なんだか今では町のような顔をしてるけど……」などと、年寄りじみた意地悪なことを考えてしまう。東生田の丘の上のほうにあった 小学校の古い校舎もなくなったのかなあ。もと西生田、読売ランドの駅の近くのかやぶき屋根の家はまだ健在のようだ。

2011年4月5日

   新学年の講義がはじまる。倫理学概論、今年から開始した哲学倫理学専修研究それぞれのガイダンスを行い、大学院の修士課程対象の演習をおこなう。講義は半年ぶりなので、なんだか 倫理学概論ひとつするだけで疲れてしまった。肌寒い日が続いていたのに、ここにきて桜満開。

2011年3月30日

  関西大学社会安全学部で行われた「東日本大震災に関する緊急シンポジウム」をききにいく。河田惠昭氏(防災学)、高橋智幸氏(気象災害学・津波)、菅磨志保氏(災害復興論・ボランティア)と実際に被災地で支援や緊急性のある調査に赴いたひとの報告は、やはり身のひきしまる重いがした。小澤守氏(原子力プラント安全論)、林能成氏(地震災害論)による経過の説明は、もう一度、頭のなかを整理しなおすのに役立った。永松伸吾氏(災害経済学)、それからまた小澤氏、安部誠治氏(公共事業論)による今後の日本経済におよぼす影響の話は、復興するまでに、これまで日本の産業がえていたものを他の国の企業に奪われてしまうのだから、たんに元にもどすという意味の復興ではなく、産業構造の改編をともなうだろうという指摘に納得。

  社会安全学部という学部は、2003年から2006年まで学長補佐を勤めていたときに、新設が企画されたので、私も関連する会議に何度となく出席していた。社会安全という名のもとに複数の領域を結集するのはなかなか冒険ではあったが、法人としてこの方向を強力に後押しした当時の森本靖一郎理事長はそれなりの(といっては何だが)洞察力と決断力があったなと思いかえす。

2011年3月28日

  福島原発で被曝した三人の作業員の方が「全身状態は問題なし」という診断で退院されたときく。経過観察が必要であるとしても、 とりあえずはもっとひどい状況にはならなくてよかったと思う。原発については、もともと下請け会社が危険な作業をするときに、仕事を発注する側から適切な注意がなされているのか、もし下請け会社の社員の健康に被害がおよんだときに仕事を発注した企業はどのように、どれほどの責任を負うのか 、といった点に疑念を抱いていたが、今回の現場の作業員(の属する会社)にたいする東京電力からの連絡はあまりに粗笨だった。

  また、調べた物質をまちがえて放射線量を誤報してしまったという件も(27日午前には、2号機のタービン建屋地下にたまった水からヨウ素134について原子炉内を通る通常の冷却水に比べて1000万倍の濃度だと発表したが、27日夜には、調べた物質がヨウ素134ではなくコバルト56だったために計算にまちがいがあったと訂正し、28日未明にはヨウ素134の濃度は10万倍だったと説明した)。この危険な状況でいろいろな混乱があるのはもっともとしても。

  貞観年間におきた大津波についての指摘があったにもかかわらず、原発推進側(これは東京電力だけでなく関連組織を含めてだが)がそれに真摯にむきあってこなかったというのも、腹だたしい対応である。

  原子力安全委員会の現委員長が、「あまりにいろいろな想定をされては、何も作れない」という趣旨の証言を、2007年2月の浜岡原発をめぐる裁判で中部電力側の証人としてしていたことが朝日新聞に載っていた(26日朝刊)が、原発のようなリスクの大きなものをあえて作る――すなわち、「作らない」という選択肢を排除する――側の「基本姿勢」はこうしたものにならざるをえないに はちがいない。同じ人間が今 (22日の参議院予算委員会)、「割り切り方が正しくなかった」と反省の弁をしているようだが、このひとが原子力発電を今後も支持する以上は、まさに「割り切る」発想には変わりない――つまり「割り切られてしまう」存在は無視するという姿勢には変わりないだろう。

2011年3月27日

  京都生命倫理研究会のため、京都女子大学へ。児玉聡氏の力作『功利と直観』の合評会。評者おふたりが綿密な知識に裏づけられたコメントを示され、著者もそれに真摯に答える気持ちのよい会だった。

  きょうは、震災の影響で大学業務その他の用が多くて、年配者の出席は少ないだろうと見込んでいたところ、加茂直樹先生はいつもの矍鑠たるごようすでご参加だったが、おおかたは予想のとおり。会が終わって、某先生ならびに某先生といっしょに懇親会の会場にむかうタクシーを待っていたら、元気な某先生が近づいてきて、「年寄り組に入れて」と 同車を申し込まれる。なるほど、四人ともそちらの組に入るわけだ。車中の会話も最近した転居の話なのに、いつのまにやら「ついのすみか」といったことばが出てくるのは、どうしたわけか。元気な某先生は別として、”年寄り組”は一次会で失礼する。

  しかし、年寄りなどといって自分の気力不足に甘えていてはゆるされませぬな。

  このあいだ中野重治の石堂清倫宛の手紙を読んでいたら、自分は「六〇年もぼやあっとして来たのでこれから勉強したい」ということばがあった(『中野重治との日々』勁草書房、1989年、29頁)。中野重治が「ぼやあっと」生きていたひとでないことは十二分にわかっているが、中野は同時に、幾度もそういう反省で自分に鞭打つひとだった。

  そういえば、彼には、「人間の寿命さえ長くなってきているのだから、ちいさ目の作家に大木のたおれるような死がくるはずはない。しかしあがきもがいても私は書かなければならぬのだから、晩年はふるわなかったナとか、書きたいのが書けぬのだから惨めだったよとかいう彼ら[友人]の言葉は、それでも私の生涯が奮闘の生涯だったことを認めての言葉でなければならぬだろう。いくら書いても一向いいものができない、それでもあがきもがいて書いてそうやって消えて行く――そこにこそ私の栄光がなければならぬ。そこまでいえば大袈裟になるが、それが私のような作家の正常な晩年でなければならぬ」ということばもあった(全集24巻、筑摩書房、1977年、29−30頁)。

2011年3月19日

  卒業式。2011年度の秋学期は研修(かつて学長補佐をしていた3年間にたいする「研究回復措置」で、半年、授業をもたなくてすんだ。といっても、あれやこれやの雑用で研究が回復したとはとてもいえないが)のため、欠席するつもりが、「謝恩会にも来ない。卒業式にも来ない。それでは写真がとれません」といってくれた学生がいたので出席する。そして、写真をとり、卒業生から色紙をいただく。

  どうも卒業式は苦手であり、謝恩会はもっと苦手である。伝えるべき知識を正確に伝えることができたかどうか、いつも疑問だし、私の授業がかれらの能力を何かしら伸ばすのに寄与したのかどうか、いつも疑問。どの学年も、春のうちには「今年こそは!」と思って始めるが、セメスターの3分の1ぐらいを残す段になると、「今年もまた……」と思う繰り返しで、常勤の大学教員になってからすでに20年を超えた。はじまりのときの意気込みや終わりかけのときの反省すらも、だんだんにぶくなっていくような……。

  だから、礼をいわれたりすると、いたたまれない気分。

  しかし、どういうわけか、教える側よりも教わる側のほうが人格的にすぐれているのだろう、世話になったお礼をきちんと述べて卒業していくひとが多い。

  アナタガタハ成長サレテ、メデタク大学ヲアトニスル。ワタシハマダソノヨウニ成長シテイナイノデココニ残ル。

2011年3月17日

  福島原発では次から次に事態が推移し、すでにもう一度、時系列にそってたどりなおさなくてはならないほどだが、論調の微妙な推移ということも、あとで整理しておかなくてはならないだろう。地震後当初は、格納容器に支障はないだろうという推測をもとに安全を訴える調子が強かった。これは放送局の解説委員にも、放送局に呼ばれていた大学教授にも強かった。しかし、 1号機の水素爆発を契機に見通しの不透明、不安が前面に出てきて、政府や東京電力の説明不足、指令にたいする不信感が強まってきた。「原子力関係者にとって、『想定外』 はけっして言い訳にならない」(宮崎慶次大阪大学名誉教授・原子炉工学)、「同じ学者として情けない」(井野博満東京大学名誉教授・金属材料学)という厳しい批判が朝日新聞に載っていたのは、16日朝刊だった。ただ、「想定外」ということがあることはたしか である。新聞の投書には、「『想定外』のことにも備えよ」といった意見をみかけるが、備えることができたら、それはすでに想定されてしまったので「想定外」ではないからだ。問題は、「想定外」とした基準が適切だったかである。それをたしかめなくてはならない。

  私はこれまでEngineering Ethics(工学倫理)に関わってこなかった。そんなに手を広げることができないということが第一の理由だが、工学倫理のこれまでのパラダイムのなかに、企業に雇われている技術者は企業への忠誠に配慮しなくてはならない――むろん、一般市民にたいする誠実さという要請もあるが、それは雇用者への忠誠によってなにがしか相対化される――ということがあり、その点がどうも私にはその分野に食指を動かしにくくさせていたのだった。

  おそらく、「想定外」の基準設定は、どこかでマグニチュード9の地震が起きたことがあり(実際にそれは起きていたのだ)、どこかで10メートルを超える津波が起きたことがある(実際にそれは起きていたろうし、日本でもその高さを想定している原発はあると聞く)という事実だけでは決定できず、他の要因が加わる。その他の要因をどこまで重視しなくてはならないのかということが、工学倫理的な枠組みでは問題になるだろうと考える。

  Die ZeitにのっているAtompolitik  Japans Lehre für die Welt(世界にたいする日本の原子力政治の教訓)という記事は、「私たちと日本人はちがっている(fremd)。ずいぶんとちがう。ことばも文化も自己抑制も外見も」と始まり、(なんじゃこりゃ)と思うが、「しかし、人間である点では同じで、だから、日本で間違っていることは、ドイツでも正しくはありえない」というふうに続く。原発の事故というと、ヨーロッパではチェルノブイリがまず念頭にうかぶだろう。事故の重大さを伝えれば、チェルノブイリのイメージに近づくが、この記事は「福島はチェルノブイリではない。独仏の原発と技術的に同じであり、民主主義の国で事故が起きた点も同じである」と指摘している。ドイツの原発推進者が、日本では事故を起こしたが、ドイツで同じことが起きるとはいえないという調子の説明をしているのだろうか。この記事はそれにたいする疑念と警告という意味をもつようにみえる。

2011年3月13日

  福島原発の問題は1号機だけではおさまらなくなり、きょうの報道番組では、原発をとりあげるものもあるが、どうしても(やむをえないのだが)、あちらこちらの報道があいだに入る。また、Die Zeitのオンラインをのぞいてみる。官製の報道ではなく、独自の報道をしている若いジャーナリストもいるという紹介記事をクリックしたら、岩上安身チャンネルにとび、昨日、インターネットでみた「原子力情報資料室」の報道につながる。Zeitのこの記事を書いた記者にとってはふしぎではないのかもしれないが、情報収集の早さにおどろく。

2011年3月12日

  14時46分、東北関東大震災(東日本巨大地震)。

  夜半、ドイツの知人からお見舞いのメールをいただく。おひとりの教授は、自然の力の大きさに嘆き、他方、原子力発電にたいする怒りを記された。洞察力に富んだ方だが、視点がきれいに分かれているのでおどろく。私もNHKのこの件での解説(東大大学院教授と解説委員つき)をずっとみていたのだが、どうも 事態をそれほど的確に把握できていないように感じた。

  Die ZeitSüddeutsche Zeitungのオンライン版をみると、ドイツでは、津波と地震の報道と、福島の原子力発電所についての危惧とが、二つの柱になって日本についての報道を形成しているのだった。すでにメルケル首相のコメントまである。ドイツは原発に頼らぬ方向に進んでいたのだが、近年、その政策の見直しが行われていた。そこで、技術と管理に優れているという評判の日本の原発での事故は、自分の問題として関心が強いのだ。

  日本とドイツのあいだには8時間の時差がある。15時36分におきた福島第一原発1号機の建屋の爆発について、日本の新聞の夕刊にとりあげられておらず、夜半すぎにオンラインで読むドイツの新聞にはそれが説明つきで載っているのはやむをえない。また、ドイツの新聞にくらべると日本の新聞のほうが「情」に訴える報道が多いような気もするが、これは、ひとつには、日本の報道がそういうスタイルだということのほかに、自分の国で起きていることだからそうなるのも当然かもしれない。しかし、どうも、原発関係については、ドイツの新聞のほうがわかりやすいような印象を受ける。

  友人同士のMLで、「原子力情報資料室」の記者会見がインターネットでみられると教わる。それ(3月12日20:00〜)をみると、だいぶ状況が明確になる。

2011年2月24日-3月9日

  ドイツへ出張。ヨナスがフッサールにあこがれ入学し、入学後にハイデガーと出会ったフライブルク大学に。しかし、そのハイデガーが学長になって、ユダヤ人の構内立ち入り禁止措置を出したので、ハイデガーを自分の後任に推したフッサールは大学に入れなくなる。シュヴァルツヴァルトを背負った美しい町だが、晩年のフッサールはどんな気持ちでこの町を歩いたろうと思ってしまう。「われわれは田園に住む」というハイデガーにとっては故郷に近い快い町でありつづけたろうが。ドイツの大学を訪ねると哲学ゼミナールの授業一覧をみるのが楽しみだが、どうもどこも日本の大学と似ているような……。古典的な著作の講読に、応用倫理学の講義など。

  その後、ケルンに移動。Germania Judaica(ユダヤ教関連の文献センター)のある中央図書館とケルン大学図書館で、ヨナスが学生時代に関わっていた学生運動を調べるが、どうもなかなか進まない。 学生運動はJugendbewegung(若者の運動)のなかに含まれており、すると、第一次大戦後のドイツでは、ワンダーフォーゲルなどが入ってくる。とはいえ、ここは区別できない。ドイツ生まれのユダヤ人の若者もまた1920年代のドイツを生きていたのだから、ワンダーフォーゲルその他の当時の流行と無縁ではないし、そういう組織もあるからだ。

  しかし、ケルン大学で(狙っていた目標からすると不急とはいえ)ヨナスが一番最初の著書がとりあげた アウグスティヌスのローマ書解釈の変遷をまとめた論文を読む時間があったのは、なんともうれしかった。

  ケルンにほど近いヨナスの生地メンヒェングラートバハにも日参。メンヒェングラートバハ市立図書館では、ヨナスの父親について新たな知見を得る。

  ゲッティンゲン市立図書館で、1926年にベルリンで生まれ、1939年にドイツを出国し、アメリカに渡ったラビの手記を参看。その本が日本の図書館にたまたまあれば別だが、なにぶんドイツだからドイツで出版された本はいくらでもあるわけで、ともかく、何か関連がありそうだからちょっとのぞいてみたら、なかなか役に立ったというような本が近くにあるのはうれしい。

  帰国前に、フランクフルトのユダヤ博物館、ユダヤ人街博物館を訪問。くるたびに何かしらの発見がある。ユダヤ博物館では、第二次大戦中にドイツからアルプス越えで逃れて、アメリカのユダヤ人団体の支援で雇った船に乗り、パレスチナにわたろうとして、途中、イギリス軍によって不法入国(当時、パレスチナはイギリスの委任統治領であり、イギリスはアラブの抵抗を抑えるためにパレスチナへのユダヤ人入植を管理したかった)として捉えられ、キュプロスに送られたひとたちのフィルムを上映していた。これは初見であった。

  ドイツに行っているあいだは、会議も雑用もなくて勉強ができるので、心がのどかになる。ケルンでは、市役所近くにユダヤ博物館が立つ予定だそうだが、できあがったら見にくることができるだろうか。なにぶん遠い国だから。

  旅中のニュース。むろん、リビアの話。「ガダフィ」と発音している。たしかに、ローマ字だとGで始まる。どうして、日本では「カダフィ」なのだろう。Guttenbergという防衛大臣が博士論文の剽窃問題で辞任。人気のある政治家らしく、アフガニスタンに派遣されたドイツ軍兵士を慰問している写真などをみると(我が強そうであるが)精悍なふんいきでもある。何も急いでまとめなくてもいい論文だったみたいで、Doktorの称号がほしかったのだろうか。ドイツでは、称号は名前に必ずつくもので、したがって、私は、Herr Professor Doktor Shinagawaになる。日本では、ドクターが名前についているのは、ドクター・中松氏くらいだが。

  ケルン中央駅の本屋の哲学の書棚(駅のなかの本屋にも申し訳程度に哲学の書棚がある。しかし、そこには、カントの『純粋理性批判』なども並んでいることがある。誰か、旅行にでるときに、ついでにそれを買うとでもいうのか)に、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の独訳を発見。おどろき。アメリカ人の真っ白い歯をみると、便所の白いタイルを思い出すといった箇所はどう訳しているのだろうかと思ったが、ビニルで包まれていて立ち読みすることはできなかった。

2011年2月11-13日

  科研基盤研究(B)「生命・環境倫理における「尊厳」・「価値」・「権利」に関する思想史的・規範的研究」で出す「生命倫理研究資料集V」の編集会議のため、富山大学へ。西日本から東日本にかけて大荒れという予報なので、どうなるかと思ったが、大阪は雪が降っていたのに、案ずるより産むがやすく、福井、金沢、富山と晴れていた。2日間、盛永審一郎、飯田亘之、坂井昭宏、小出泰士の諸先生方と編集と校正に没頭。この科研は今年度で終わり。資料集は、飯田先生が千葉大学におられたころからの前史があるが、2011年度の科研がとれるかどうか。

   

  帰途、福井で下車して丸岡図書館の中野重治文庫へ。中野の妹、中野鈴子の詩集『花もわたしを知らない』を読む時間がとれた。中野鈴子の詩集、著作集は、なかなか大学図書館にも入っていないのである。自分の家庭を築けないまま、旧家の田と家を守るために、中年になってから農作業に従事し、その無理もたたって、五二歳で生涯を終えたひとである。まえがきの「詩に添えて」のなかの、3人の姪への思いを記しつつ、姪たちがすぐに「おかあちゃん、おかあちゃん」というのを聞くと「わたしはぽつねんとしてしまう」というくだりなどに、家庭を築けなかったさびしさを感じる。

  独身の子どもが年老いた親の世話をせざるをえなくなるのだが、その母を東京の重治のもとに送り出した(そしてそのまま東京で亡くなるのだ)あとを描いた「東京に行った母」に身につまされる思い。母親の体は東京に行ってしまったが、その思いが家に残っている。先祖からの家を先祖のしてきたように百姓仕事をしながら守ら ずにはいられなかった。たんに「先祖のしてきたように」というだけでなく、労働者としての農民になるのがまっとうな生き方と考えたのだろう。鈴子の働いたプロレタリア文学運動は農民の解放もめざしていたわけだが、戦後の農地改革で、中野家は田を失い、年とった母とふたりだけで、さらに母の死後はひとりだけで田畑を耕すのは、おそらくは無理なことだったにちがいない。

  なるほど、中野重治は『梨の家』で生まれ故郷の農村を描いたが、彼自身は農業で暮らした時期はなかったのだと気づく。

  丸岡の町を離れるころに、雪、霏霏として降り出す。福井駅前で、ずぼかに(やせていてがっかり)、がざえびの天ぷら、だだみ(鱈の白子なり)の酢の物で一献して帰る。

  帰宅してから、重治の「一つの生涯」「鈴子のことについて二、三」を読み返す。 重治たちと共同生活をしているときに、鈴子が乞食に食べさせるために、乏しい米を炊いてしまった話を記したあとに、「無理算段を重ねながら、そこに基本的に『算段』が欠けていた。(中略)およそ事務的な散文が彼女には書けなかった。そういう心の奥底に、先祖から代々百姓としてやってきたその土地を、やはり百姓として耕作して保ちたいという気があったのがやはりあわれであった。(中略)百姓のやり方としては、農業経営の問題としても、そこにそれほど打ちこまれた遮二無二ぶりに観念的なところがあっただろうと思う。ただ非難することはできない。非難する気にもなれない」(中野重治全集18巻、453-455頁)とある。

2011年1月22日

  関西哲学会委員会および編集委員会のため、神戸大学へ。大会の共通課題は「ヒューム生誕300年」と決まる。冬晴れの一日。神戸は海の光が感じられる街で、空気が澄んでいる感じがする。帰りはゆっくりと下り坂の道を六甲駅まで下りてきた。久しぶりに梅田の本屋に寄ろうかと思っていたが、少々つかれぎみで、結局、紀伊国屋をざっとみたばかり。きょうのお昼には、かつて勤めていた和歌山県立医科大学の名誉教授の叙勲お祝いが和歌山であったが、そちらのほうは失礼した。

2011年1月19日

  金井淑子氏から近著『依存と自律の倫理 〈女/母〉の身体性から』(ナカニシヤ出版)をいただく。むろんお名前は存じ上げているが、直接お話ししたことはない。あけてみると、拙著『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』への言及がある。「西欧政治倫理思想研究の文脈でのフェミニズムへの最大限良心的な理解と受容に立って、『正義と境を接するもの』への誠実な問いを重ねている」と評してくださっている。驚き、かつ、感謝する。

  拙著のはしがきに記したように、ケアの倫理の著作の多くは、子育てをしつつ、優れた研究業績を挙げてきた女性によって書かれている。男性で子どものいない者にとって、それらのテクストはときに理解を拒絶しているかに感じる場合もある。だから、私の読みが行き届いたものであるかどうか、いつもみずから疑問をとどめつつ、読んできた。そこへ「最大限良心的な」という評言をいただくとは思ってもみなかった。金井氏は続けて、「しかし、この品川の叙述を通しても、倫理への『女/母』へのまなざしは拓きにくい」と記しておられる。けれどもむしろ、それは当然なのだ。私には、金井氏のように「女/母」に「わたし」というルビをつけることはできないのだから。だから、おもはゆく、いただいたことばをかみしめてみる。

2011年1月14日

  長崎に出張。原爆資料館をおとずれる。 かつて広島大学に勤めていた私にとって、原爆投下という歴史的事実は、今、ハンス・ヨナスを研究の一端とする私にとってアウシュヴィッツという歴史的事実がそうであるのと同じく、思索から外してはならないものである。

  原爆犠牲者追悼祈念館。ここは、地下に犠牲者の名簿を安置した祈りの場であり、その部屋に入るまえには、犠牲者の写真が順繰りに映し出される、水の流れる一室がある。すべての犠牲者を映し出すには2時間かかるとのことで、すべてのひとの顔をみるわけでもなく、また、そのなかの誰ひとりとして知っているわけでもないのだが、しかし、なかなか目を離すことができない。そのひとがどんな一生を送ったのだろうか、と、なんの素材もないまま、だからほとんどイメージのわかないままに、とはいえ、思い浮かべようとしてしまう。

  フランクフルトのユダヤ人墓地の壁には、強制収容所で殺されたユダヤ人の名前、生没年、亡くなった場所をひとりにつき一個ずつの石に記して貼り付けてある。これもまた、そのなかの誰ひとりとして知る由もないのだが、ただ名前と生没年、没した場所だけしかない情報を少なくともいくつかは読んでたどっていかずにはいられない。

  どのようなひとであるかわからないだけにかえって、人間の尊厳という観念があらわに感じられるのだ。

2011年1月1日

  父母ともに亡くなってしまった実家に帰省し、ひとり、神仏へのお供えを用意する。大根、サトイモ、ごぼう、にんじん、小松菜を塩を入れずにゆで(どういうわけか、神仏にたいしてはそうなのだ)、大根とにんじんとみつばとゆずとでなますを作り、小さく切ったこぶを載せ、神様には、このほか、ごまめと ナルトを載せる。(なんでナルトなんだろう。海のものと山のものというわけで、なにかしら海のものを入れるというのはわかるが、ナルトがここに出てくるのがわからない。まさか、「の」という字で大海の渦潮を思い出せというわけでもあるまいし、子どものいう「のんのさま」の「の」でもあるまいし)。母親はなますにせりを使っていたが、 スーパーにせりがみつからなかったので、みつばで代用する。五つの種類の野菜は雑煮にも入れる。人間が食べる分は塩を入れてゆでるのだが、分けて作るのもめんどうなので、人間用も「無塩(ぶえん)」にしてしまう。やっぱり、ちょっとうまくないな。

  おそらく神仏用に塩を入れないのは、新鮮という意味ではないかしら。『平家物語』のなかの、木曽義仲が猫間中納言をもてなすさいに、新鮮なものをなんでも「無塩」と呼ぶと心得て、誤ってきのこだったかにその語を用いて、「猫殿は少食にておはしますかや。かいたまへ、かいたまへ、とうとう」とお代わりを強要する場面に出てくるあの「無塩」かと思う。

  三宝のうえにうらじろ、ゆずりはを載せ、その上に鏡餅、さらにそのうえにだいだいを載せる。だいだいに冬の薄日がさしているけしきは好きだ。冬でも青々した葉をつけて、まばゆく輝く実は、まさに、徐福が探しに出た「ときじくの木の実」のようにみえてくる。

 

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