往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

 

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2003年12月21日

  昨日、大学内部の仕事のために嵐山で合宿したが、その足で、きょう、京都女子大学で開かれた「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究会」に出席。子どもの権利を主題とした発表とインターネットの倫理を主題とした発表を聞く。どちらも既存の道徳的思考の枠組みから逸脱する要素を抱えていておもしろし。四条大和小路下ルの某店で忘年会。

2003年12月19日

  関西倫理学会事務局の仕事で機関誌の原稿を出版社に手交。最近の出版動向について話す。やはり専門書の売れ行きは悪し。私などの死んだあとの蔵書も遺された者には無用の長物にしかみえまい。もっと着る物や旅行に使ってくれればよかったのに・・・・・・といわれるのがおちだろう。しかし、鴎外のいうように、本は1回参照できたら、もうそれで充分な価値があると考えよう。

2003年12月16日

  大阪府内の某市の職員倫理委員会。行くたびに効果があがっているようす。とんぼがえりして授業三つ。キャンパス内を走っていて、同僚に「師走ですね」といわれてしまう。

2003年12月14日

  事務局をしている関西倫理学会の委員会。事務局は来年3月までで委員会主催はこれで終わりだが、別の用を命じられる。終了後、委員数名と飲む。論客ぞろいで、論じ来たり、論じ去るうちに、たちまち久保田の一升壜があいてしまい、燗酒を注文する。だいたい翌日になると反省モードに入るわけだが・・・・・・。もう、あまり若くはないのである。

2003年12月3日

  高大連携で京都学園高校に行き、「脳死はひとの死か」をテーマとした授業。国際コース、特進コースの高校1年生86名と先生4名が参加され、熱心に聴いてくださる。京都学園高校は妙心寺のとなりにあり、帰りは大将軍八神社に参詣。ここは神像がたくさんあるそうだが、展示はしていないようだ。境内にみかんがなっていた。学生時代に銀閣寺の近くに下宿していたが、大文字山の上り口にも八神社はあった。あそこが都の北東を守っているとすれば、大将軍のは都の北西を守っているわけか。北野天満宮のまえから千本通にぬける古い商店街を散歩。時雨の季節のこの商店街は学生時代にもときどき歩いた。にしんの煮たの、ひろうず(東京でいうがんもどき)、などが店先に並んでいる。なつかしい街並み。千本丸太町の古本屋に寄る。ここも学生時代に知った店だ。

2003年11月21日

  高大連携で兵庫県立御影高校に行き、ディベートの授業。「ディベートは勝ち負けが最後に決まりますが、勝ち負けにはこだわらないでください。自分の意見や主張が、その根拠や裏づけとなるデータとともにいえるようになること、これが目標です」と告げる。競技としてのディベートでは、自分の主張にとって不利な事実を隠したり、自分の主張にとって有利な事実ばかりを強調したりして、勝ちをおさめるということがありがちだが、そんな技能のためにディベートを導入するのでは困る。今、ディベートなるものは派手にあつかわれているようだが、もっと、手前の、「自分の意見を整理していえる」能力こそまず身につけてもらわなくては。

  2時限の講義を終えてそそくさと同校にかけつけ、帰ってから6時限の講義をする。ディベートはドイツ語ではDebatte(デバッテ)だが、きょうはデバッテ、クタバッテの一日だった。

2003年11月15日

  関西大学サタディカレッジ「心理を多方面から考える」の第3回として「自分自身へのケア」という題名で講演。この社会人むけの催しは昨年からはじまった。昨年好評だったので、今年も内容を変えて行なわれた。土曜日の午後をセミナーに時間を割かれる社会人の方には頭が下がる。

  関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第7回研究会に途中から参加。今回は、竹下賢関西大学法学部教授に予防原則と環境倫理について、丸山徳次龍谷大学文学部教授に里山からみた環境倫理というテーマで講演していただく。里山に住む動植物の種類の豊富さ。そしてまた、住民間の、場合によっては対立する利害と関心。

2003年11月8−10日

  日本現象学会が開かれている山形大学へ。10月1日以来、毎日のように、2-4つの会議をこなしている。どうにか学問的な刺激をうける機会を確保しようと出張したわけだが、日程がとれず、行きも帰りも夜行を利用。しかし、そのほうが昼の時間帯は有効に使えるのである。鶴岡から山形へ通じるバスからみた湯殿山のブナ林はほぼ落葉。以前、日本倫理学会で5月に訪れたときの新緑の美しさは忘れられぬ。今回は、紅葉をみるにも少し時期がおそすぎた。

  あわただしい日程のなか、昼の休みを利用して、山形美術館へ。ここの印象派のコレクションは、やはり以前訪れたことがあり、気に入っている。ピサロ、シスレーと私の好みの画家の作品もあり。山形生まれの新海竹太郎の彫刻も。新海竹太郎の名は、漱石や鴎外のデスマスクをとったひととして記憶したが、その彫刻作品をみたのはここがはじめてだった。

  途中、毎日新聞山形支局のまえに、鉄砲を売っている(売っているのは猟銃だが鉄砲といいたくなるような)古い店を発見。なにか宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の小十郎が背をまるめた姿で出てきそうな店構え。八文字屋書店というなかなか品揃えのよい本屋をみつける。

2003年11月1−2日

  事務局を勤めている関西倫理学会大会のために龍谷大学大宮キャンパスへ。龍谷大学は半年だけ非常勤講師としてお世話になったことがある。重要文化財の校舎がライトアップされるようになっており、ずいぶん美しくなった。もっとも、私が非常勤講師でお世話になったその第一日目に、ここの某先生に、「京大の校舎はきたないですなあ」といわれたくらいだから、当時――和歌山県立医大に赴任するまえだからもう15年も前になるか――も、この大学はきれいだったのだろうが。

2003年10月30日

  高大連携(高校と大学の提携)の一環として、奈良県立生駒高校に出張し、同校が総合学習で展開しておられるディベート授業のために、「ディベート入門」と題して、高校1年生320名を相手に講演。校長先生のお話では、中学生やそのご両親にも授業をみてもらう機会を設けているとのこと。きょうのように、大学の教員が高校に出向いて授業をしたり、あるいは、大学生が2週間程度企業で働かせてもらったり(ビジネス・インターンシップと呼ばれる)、また、本年度から関西大学文学部で始めた高校へのインターンシップ(学校インターンシップと呼ぶ)のように将来の勤め先が大学生に開かれたり、そしてまた、高校は高校で中学生に門戸を開く、というふうに、全体としての青少年教育がボーダーレス化している感触。

  帰途、往馬(いこま)神社を訪れる。火祭りで有名だが、ふだんはひっそりとした古さびた社であった。

  久しぶりに会議から解放された一日。

2003年10月23日

  先週にひきつづき、サンユー会のシンポジウム(於 銀座ガスホール)で講演。久しぶりの銀座を歩きたかったが時間がなかった。

2003年10月16日

  産業医の学会であるサンユー会と万有製薬株式会社が主催する第9回「産業医・実務担当者合同セミナー」、共通テーマ「産業保健にかかわる個人情報」のシンポジウム「健康情報取り扱いと事例」について」(於 大阪朝日生命ホール)でパネリストのひとりとして講演。情報倫理学とビジネス・エシックスと生命倫理学とが結び合うような話題で、もっと掘り下げて研究してから報告したかったが、いくつかご質問もいただき、ほっとして帰る。

2003年10月2日

  関西大学東西文化研究所の講演会でKlaus Held教授の講演を聴く。私がフッサールの他者の問題について卒業論文を書いたとき、ヘルト教授の間主観性の論文を参照したことを思い出す。weggleiten(過ぎ去りゆく)、ankommen(到来する)という動詞を用いてそれぞれ過去と未来の様相を語っていく現象学的分析になつかしさを感じる。なんだか、ここのところの会議続きのなかでは、こうした研究そのものが私にとってweggleitenしてしまったようでものがなしい。しかし、どのようであっても、研究を続ける姿勢を保たねばならない。

2003年10月1日

  学長補佐を命じられ、研究優先という理由では断りきれず、就任することになる。事務引継ぎその他ですでに先週末から仕事がはじまっているが、土曜日に5時間(そのため、関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第6回研究会に出られなかった)、月曜に3時間半、火曜に3時間、きょうは辞令交付から二つの会議で3時間、その後、ひとつ書類を作り、なにか先週末からずっと会議をしているような気分。

  夜遅く、テレビをつけたら、ドラマの登場人物が「仕事をひきうけるのは流れに乗るのだからかんたんだけど、断るには3倍の力が要るのよ」といっていた。OLむけのドラマのようだったが、つまり大学の教員をしていると、一般の企業や役所なら、若いOLさえ知っているようなことで中年になってから身につまされる思いをするわけか。

2003年9月16日

  関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第5回研究会を開く。寺島俊穂関西大学法学部教授の報告「市民的不服従と規範的政治理論」と角田猛之大阪府立大学総合科学部教授の報告「宗教をめぐる公共性 西洋と日本の対比をも視野に入れて」。少人数だったが議論は活発。疲れなおしに天神橋筋の縄のれんで一献。

2003年9月13日

  関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第4回研究会を開く。杉本健郎氏(関西医科大学附属男山病院小児科部長)の「子どもの脳死・移植」についてのご報告と、関大の修士課程を昨年修了した森下雅一氏(広島市立観音中学非常勤講師)の養護学級での教育経験をふまえたご報告をしていただく。杉本氏のご報告は臓器移植法改定の動きに関わるものだが、むしろもっと広い文脈、子どもの意見表明権、さらには現代の日本の社会で子どもという存在にどのようにむきあうべきかといった問題に通じるもので、まさに「現代の倫理的諸課題」のひとつに関わるものだった。

2003年9月8-9日

  修士論文の中間発表のため、関西大学飛鳥文化研究所で合宿。当然、未完成の内容ではあるが、学生が集中して打ち込んでとりくむうちに急速に伸びていくのにいつもながら驚く。

  朝4時まで飲み会につきあい、翌日は数人の希望者とともに飛鳥を散策。石舞台、岡寺、飛鳥資料館、飛鳥寺を歩いた。今年は冷夏のあとに残暑が厳しいが、石舞台にはすでに萩が咲き、水田からは実った稲のにおいがし、飛鳥寺ではぎぼしの花が咲いていた。飛鳥寺は床を張りなおしたのか、これまできたときにはくすんだ印象があったが、少し印象が違う。まえにきたときからだいぶたっているのかもしれない。前の住職は亡くなられたようだ。飛鳥寺から南をみると、橘寺の白壁が稲穂の上に浮かんでみえる。

2003年8月6日

  COE採択校が新聞紙上に出る。関大が入らなかったことは事前に知っていたが、学内の関連委員会に関わっていた者として気落ちを新たにして(というのも変な日本語だが)研究室に出かける。

2003年7月30日

  関西大学サマーキャンパス。受験生の質問をうける。関西大学文学部はこれまで学科ごとに入学者を決めていたが、2004年春の入試から学科(たとえば、哲学科)を廃し一括入試にして、2年生になる時点で、たとえば、哲学専修に分属するシステムに変えた。それについての質問、多し。

2003年7月27日

  日本倫理学会の和辻賞選考・自由課題研究発表応募の審査のため、東京へ。かなり時間をかけて論議する。この和辻賞選考委員・自由課題選考委員・年報編集委員の仕事の任期(2001.11-)はこれで終わり。私が専任の研究職ポストを得たのは1989年だった。15年前まえ、審査される側だった身が審査する側にまわったわけだが、審査することをとおして、どれほどこちらに読み解き、理解する能力があるか、審査されているのにほかならない。督励されたような気もする。

 関西では例年より十日近く遅れてつゆあけしたが、関東はまだ。

 電車に塾の広告がある。有名中学の入試問題を載せたものだが、某中学の問題として、グラフから出生率の変遷を読み取り、その後、「女性が子どもを安心して産める社会にするにはどうすればよいか、あなたの考えを書きなさい」とある。「女性が」とわざわざ書く必要があるのかな。それにつられて「男がもっとしっかりすればよい」といった答えを書いたら、どう評価されるのだろう? こう答えたからといって「男が生活費を稼ぎ、女は家庭で子育てをする」というマッチョ的小学生であるとはかぎるまい。「男がもっと家事や子育てに協力する」という意味で「しっかりする」と書いたのかもしれない。主語を「女性が」とすることで解答が「男性だけの問題」や「女性だけの問題」(「働きながら子育てする女性が不利にならないような社会制度を作る」とか)になるように誘導してしまっていないかしら? それとも某中学を受験する小学生はそんな単純な答えは書かないものなのか? そもそも、いったい、どんな解答が理想的なんだろか? 「女性が働きながら子育てができるように出産休暇・育児休暇をはじめとして社会制度を整える一方、家庭では男性が家事と子育てに協力し、さらに、地域も子育てを援助する態勢を作る」とでも書けばよいのだろうか? 塾で仕込まれたcleverな小学生ならこれに似たことが書けるかもしれない(逆に、この程度の答えが書けない大学生もいるだろう)。それでも、12歳くらいの子どもが未来世代のことを顧慮しているとすれば、なんとなくそぐわない。

2003年7月26日

  大阪大学でひらかれた文部科学省科学技術政策提言「臨床コミュニケーションのモデル開発と実践」公開シンポジウム「先端医療技術をめぐる倫理・社会」を拝聴。論客ぞろいの発表でおもしろかったが、科学技術政策提言ならば、先端医療技術に対する資源配分の問題が避けられない。配分の問題は私も不得手だが、今回のシンポジウムでも表立って論議されたわけではない。フロアから、重い病気を患ったと名乗られる方が医療の利益追求の面へのとりくみを促された。適切な質問と思う。しかしまた、現行の医療資源配分システムの内部で語るのではなく、医療以外の分野への資源配分も含めて、社会資源をどのようにわりふるか、そのうえで、医療資源の内部でどのように資源を配分するか、というテーマはきわめて大きすぎるので、なかなかとりくみがたいのだ。

2003年7月22日

  調べ物のため、京都大学附属図書館へ。現在翻訳中の英語で書かれた生命倫理学の本のなかに日本や中国の古医学書についての言及があった。きょうはそのひとつ、安土桃山時代の医学書をマイクロフィルムで閲覧する。日本や中国の文献を英訳したものをもう一度和訳する際、英文和訳としては間違いでないにしても、元の日本や中国の文献とは似て非なる訳になるおそれがある。たとえばの話、福沢諭吉の『学問ノススメ』をIntroduction to Scienceと訳した英文を『科学入門』と和訳しても、英文和訳としてはいちがいに誤訳とはいえないが、これでは『学問ノススメ』からかけ離れてしまう。きょう、調べにきたのは、他の文献から原語(つまり日本語のほうだが)のあたりはついていたものの、原書(つまり日本語文献)で確認しておきたかったからだ。その書物が京大図書館に貴重図書として収納されている富士川游氏の蔵書のなかにあったので参照しにきたわけだ。

 この図書館は、私が大学3年のときにできたのだと思う。開館当時の記憶から比べると、中はずいぶん古び、コンピュータ関連の機器などで狭くなってしまった。この図書館の先代の図書館は座席が少なく、朝早くからつめかけて、毎日、同じ席に座っているひともいた。私も、夏の朝、一番に席をとったことがある。当時の学生にとっては普通のことだが、下宿に冷房などないので、図書館に来るのだが、京都の夜の蒸し暑さに眠れず、結局、図書館で睡眠をとるあわれな結果に終わりがちだった。

 キャンパス内で国立大学独立法人化に反対する学生の演説。国会は通ってしまったが、学生にとっては少なくとも学費の値上げの可能性という理由からも反対者が出るのはもっともである。

2003年7月19-20日

  「独仏生命倫理研究会」「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究会」合同の研究会のために、京都女子大へ。ストラスブール第二大学のJ.F.Colonge教授の講演などを聴く。アメリカのbioethicsとはまた、支えとなる概念が違い、おもしろし。

 20日の帰り、京都女子大から四条河原町まで歩く。宮川町の通りに舞妓が歩いていた。付近がいささか区画整理されたためか、ただその通りのみが花街の雰囲気。

2003年6月21日

  大阪大学で行われたHolger Burckhart教授(ケルン大学)講演会で、霜田求氏、舟場保之氏とともに特定質問をする。Burckhart教授には、昨年3月のやはり阪大での講演会で質問したが、向こうも覚えておられた。討議倫理学がヨナスの責任という原理をいかに統合していくかに興味。内容は別掲する予定。

2003年6月14-15日

  「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究会」のために、京都女子大へいく。14日は「生命の尊厳」のテーマの報告。およそ自分の問題意識と重なり、頭のなかを整理するのに役立つ。15日は、昨今のアメリカの外交政策と国連安保理の関係の報告と公共性をテーマとした報告。

 雨の降るつゆびえの週末。こういう日の京都では、部屋にとじこもって本を読み、夜は、どちらかといえば(いつもは好まぬ)甘口の酒をぬるめに燗をして、肴には、そら豆と出し巻きなどが合いそうだ。実際には、そういうしっとりした酒ではなく、大勢で、報告の内容やらそれぞれの職場の現状やら今後の計画やらさわがしく語り合った。それはそれでいいけれども。

2003年6月7日

  「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」の第3回研究会。石山文彦氏(大東文化大学法学部教授)と孝忠延夫氏(関西大学法学部教授)にそれぞれ「人権と多文化主義――その対立、協調、統合の可能性」「『国民』形成・国民『統治』とマイノリティ――インドにおけるマイノリティ代表をめぐる論議を手がかりに」という題目で講演していただく。ひとがひとりの人間として生活していくには、人権という抽象的・普遍的な観念だけでは足りず、固有な文化という具体性を要する。それゆえに、文化への配慮が要請されるのだが、「国民」国家がそれについてなすべきこと、なしうること、なすべきではないことについては、意見が分かれよう。哲学・倫理学の研究者である私には、自由主義、共同体主義、Moral、Sittlichkeit、カント、ヘーゲルなどさまざまな連想を呼んで触発的だった。

2003年6月5日

  大阪府内の某市の職員倫理委員会へ。帰途、ふらりと立ち寄った大阪市内の古本屋で、かねて買おうかと迷っていた16,000円の本を新品同様で8,000円で売っているのをみつける。それはこの本が私にとって真に必要な本だというあかしだ(あたかも、「取って読め」という子どもたちの声がアウグスティヌスの耳に届いたときのように、とまでいえば大げさだが)――と、にわか運命論者になって購入。

2003年6月2日

  教育実習生をうけ入れてくださった学校への挨拶まわり。今年は、神戸の学校を2校、まわった。神戸は海にむかって開けているし、六甲の山も近いので、風が涼しい。帰りに三宮でドイツパンを買おうと思ったが、神戸ドイツパンの店がなくなっていた。少し歩いて、フロインドリープに寄る。若葉の季節の明るい日差しのなかから老舗の店内に入る。天井の高い、小暗く、ひんやりした室内が清潔に感じられる。

2003年5月29日

  関西大学大学院文学研究科の招聘講演会。Andrew Feenberg 教授(サンディエゴ州立大学)の講演。西田幾多郎の場所の観念と技術とを結びつけて論じるもの。多様な文化を媒介するものを人類性や人格といった抽象的な観念にではなく、技術にみる具体性に富んだ議論とうけとめた。しかし、技術の本来もっている(なにかを定立するものという意味でも)positiveな性質、隠蔽されながらももっている文化的ルーツその他を考えると、技術と場所とを重ね合わせる点は疑問。場所の観念は定立的限定を離れたものだと思うからだ(西田の熱心な読者ではない私には、一種の「清め」のイメージがそこにつきまとうが)。とすれば、場所とは、技術が多様な文化を媒介することを可能にする基盤にとどまるのではないか。一方、場所の観念にイデオロギーが潜在しているのと同じように、技術のなかにイデオロギーが潜在しているという面もある。Feenberg 教授は、西田のなかの“ultra-nationalist”の可能性を指摘されたが、しかしまた、globalization of technologyのほうにもamericanizationというイデオロギーが潜在している面も明らかだろう。

2003年5月24日

  第4回岡山生命倫理研究会に参加するために岡山大学医学部へ。なかなか活発。異なる分野のひとが顔を合わせて議論するむずかしさもあるが、刺激的でもある。類推していえば、おそらく、医療現場の職にあるひとからすれば、倫理はあいまいで、法ほどすっきりしておらず、法学者からすれば、倫理は、法と比べれば私情に近く、頼りにならず、私などからすれば、倫理が明文化した遵守規則になってしまえば空疎化するし、研究者が法制度の変更を主張するときには、一市民としての発言と法学者としての発言とを意識して区別しなくていいのか、という疑問を感じる。「私などからすれば」といい「哲学・倫理学の研究者からすれば」とはいわない。哲学・倫理学の研究者のなかにも、研究者としての発言と一市民としての発言とを区別しなくてはならないという要請を感じていないひともいるからだ。しかし、分野ごとのスタンスの違いが議論を生むのでもある。テーマについての実質的な議論と、テーマに対するアプローチのしかたについてのメタレベルの議論とが、平行してできればいいのだが。

  2時間ほどゆとりがあったので、内田百間(ほんとうは「門」に「月」を入れたいが、本人も戦前はこう記していたことが多いから、これですませる)の生まれた古京町を訪れる。古京町に入る角の、きびだんごの廣榮堂、生家跡の近くの文房具屋の廣江は読者としてなじみのもの。生家跡の郵便局は、凹型の生家の建物に挟まっていたという煎餅屋にあたるのか。途中、感義稲荷というのがあったが、これが「稲荷」に記されているお稲荷さんかしらと思う。第六高等学校、現在の朝日高校はたしかにすぐ近くで、これでは寝坊した時間を途中とりかえすことができずに毎朝遅刻し、「牧浅智谷」と自称したという事情がうなずかれる。夏にむかい、旭川から藻のにおいがする。ねずみもちの甘い香り。毒だみの花が目についた。空き地ばかりでなく、わざと植えているらしい家もあった。

2003年5月18日

  関西大学の教育懇談会。学生のご父母がキャンパスを訪問される会である。場合によっては成績や就職の相談もある。しかしまあ、親御さんからすれば、お子さんが毎日どんなところで暮らしているのか、そこを見たいというのがまず第一だろう。

  毎年、日本哲学会と教育懇談会と、今住んでいるところの自治会の草むしりの日程が重なってしまう。きょうも、正午に大学にかけつけてくるまえには、午前中、草むしりをしていたわけ。隣に住んでいるひとの顔も知らないような集合住宅だが、こういう機会には話をかわすこともある。妻はどこかの奥さんに「窓があいてると、見る気ィなしに見てしまうんやけど、いつも、お宅のだんなさん、勉強してはるねえ。たいへんねえ。いつまで、するの?」と聞かれた由。「ずぅーっと」と答えたそうだが、聞いたほうは昇任試験か資格試験とでも思っているのだろう。私の“勉強”は、永遠に受かることもなく、“ずぅーっと”続くわけだ。

2003年5月17日

  日本哲学会大会のために東洋大学へ。科学技術と倫理についてのシンポジウムをきく。科学技術が社会体制の構成要素となっていること、それゆえ、シビリアンコントロールが要請されること。しかし、会場でも質問が出たが、この場合、シビリアンとは誰か、どのような意見集約から合意形成のシステムを作るか、ということが問題。シンポジウムはいつも時間不足で終わってしまう。しかし、問題がはっきりしてきたのだから、このシンポジウムは成功か。あすの教育懇談会のため、2日目は出られず、帰阪。

2003年5月10日

  「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」の第2回研究会。ethics of engineering をテーマとする。齊藤了文氏(関西大学社会学部教授)に報告してもらう。医療倫理学にしても、コンピュータ・エシックス(ないし情報倫理学)にしても、また、この工学倫理にしても、職業倫理という一面をもつのだが、医者のような古典的な専門職とは違う職種のそれは、他面、一般市民の徳みたいなところもある。どこまで専門職として性格づけられるか、が大きな問題。責任の軽重は部分的には力に対する函数によって決まってくる面があるので、どれほどの権能をもった専門職としてその職種をみるかということがその職業従事者の行為規範と直結する。そしてまた、製造物責任法が糸口となって、無過失責任の問題がやはり議論の焦点となった。打合せを含めて4時間あまり。

 そののち、事務局をしている関西倫理学会の委員会。こちらも2時間半かかる。

 しんの疲れる一日であった。春野菜のてんぷらで小酌。

2003年4月26日

  事務局を務めている関西倫理学会の用件で京都へ行き、奈良へ回り、大阪に戻ってくる。京都は若いときに住んだ街だからなつかしい。15分程度のゆとりがあったから、鴨川の岸辺に出る。一ヶ月足らずまえに来たときは、北山が雪をかぶっていたのに、きょうは、下鴨神社の糺ノ森は濃緑に、上加茂神社のあたりは新芽で白っぽくみえる。もう梅雨が近いようなたたずまい。京都は湿気が強いので、雨もよいのこうした日には、遠くの景色が霞んで遠近が強調される。小さな盆地だけれど、広くみえるのだ。

 奈良への途次、ところどころに藤の花、はなみずきの花をみる。

2003年4月19日-20日

  関西大学文学部哲学科新入生歓迎セミナーの合宿で、関大のセミナーハウス、高槻の高岳館へ。町を離れて、摂津峡という渓谷の近く。途中、山つつじをみる。山つつじは広島大学に勤めていたときに、よくみかけた。つつじの花はごてごてしていて好きではないが、山つつじは水彩絵具で描いたような透明感のある薄紫色の花で可憐である。

  広島大学のあった東広島市西條町の安芸国分寺の本堂の奥に「隠沼(こもりぬ)」とでもいいたくなる小さな沼があり、その小暗いやぶのなかの、どんよりした水面のまわりを、山つつじの花が囲むようにして咲いていたのを思い出す。安芸国分寺はその後整理され、山霊でもひそんでいそうなそのふんいきはすっかりなくなった。

2003年4月12日

  関西大学の学内の研究助成、重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」の第1回打合せ。私が「規範学の再構築にむけて」と題して、研究の背景、意図、見通しについて提題する。これには研究代表者として関わっているので、書類の山である。これにかぎらず、最近の大学教員たる者は、なにかずうーっと書類ばかりみているような・・・・・・。しかし、さいわいにしてメンバーは有力で、申請がとおったのだから励まなくては。

 

  偶成 八重桜あらたな企画を立ち上げぬ

 

 実際、関大キャンパスにヤエベニオオシマという種類の桜が咲いているのでもあったが、八重桜で共同研究の行く先をことほいだつもり。共同研究ってむずかしいんですよね。自分の研究テーマに専心している研究者ってものは、まわりを蹴とばす悍馬みたいな一面があるし、また、自分の研究内容に他人が容喙するのを嫌ってふたを閉めがちな貝のような一面もあるし・・・・・・。そういえば、執筆中の論文のことで頭がいっぱいの若手研究者が銭湯でまちがえて他人の籠のなかのパンツをはいてしまったという話を聞いたことがある。はいたのが他人の脱いだパンツなら本人にとって悲惨だし(もう一度、風呂に入りなおさねば)、他人のこれからはくつもりのパンツならその持主にとって災難だが、ともあれ、そのはいてしまった若手のことだけ考えれば、それだけ研究に熱中できていたとは、苦しくも至福のひとときを迎えていたことにまちがいない。

2003年4月5日

 「関西公共政策研究会」で「正義と、正義と境を接するもの」という題目で報告するために、京都大学へ。

 哲学・倫理学の研究者は「自分のしている学問が学問として社会問題について指針を示す資格があるのかどうか」という問題になやむものだが(残念ながら、全員がそうとはかぎらないが)、政治学や法学や経済学の研究者にその感覚が通じるか、むろん、ウェーバーの価値中立性の議論があるのだからその問題意識は認知されようが……と懸念していたが、理解してもらえたような、また、こちらの提起した問題があくまでこちらの問題としてのみうけとられたようで全面的には通じなかったような。

 別の話だが、最近、政策科学部といった学部も増えてきた。いったい、政策提言をして社会(のその他のメンバー)をリードする人材をつくる意図なのか、それとも、採用された政策を受容して(粛々と?)執行する人材(たとえば公務員)をつくる意図なのか、いずれにしても、そういう役回りになるひとは「私にその資格があるだろうか」と自省しながらとりくんでほしいものだ。

 会場は大学院の人間環境学研究科棟で、私の学生ころには教養部のキャンパスだった。多くの授業をうけたA号館が改築中である。吉田グラウンドと門のあいだに新しい建物も建っている。全体にせまくるしくなった。私の入学したときには、まだ、A号館の裏の中庭には第三高等学校以来の木造の校舎が建っていた。大学の外では、東大路に市電が走っていた。もっとも、市電のほうは2年生になったときに廃止されたが。

 

   偶成  花曇り変はる母校にとまどひぬ

2003年3月16−17日

 「近未来の法モデル研究会」のために、国際高等研究所へ行く。法学者ならぬ私が、なぜ参加したかといえば、テーマが修復的正義・修復的司法(restorative justice)だったから。修復的正義とは、刑事事件の被害者が適切な仲介者の立会いのもとに加害者と対面、話し合い、その過程をとおして、加害者のほうは自分の行為がひきおこした不幸をまざまざと知ることで責任を自覚し、被害者に謝罪し、被害者のほうはその謝罪によってなにがしか癒されることをめざすものだ(そうだ)。ケアの倫理が主張する状況の個別性や人間関係への配慮と通じるところがあるので、門外漢ながら参加した。門外漢だから理解が行き届かないかもしれないと不安だったが、実際参加してみると、「正義と配慮(ケア)とをどのようなしかたで組み合わせできるのか」、また、「正義と配慮(ケア)とはやはり異質の原理か」「人間関係への配慮を強調する考え方は不可避的に共同体主義と親近性をもってしまうのか」などなど(私の答えは、前者にはYes、後者にはnot necessarilyだが)、私の関心と共通する話題が多く、充実した時間をすごせた。

 国際高等研究所があるのは京阪奈学研都市。ここははじめていったが、土地をならしたものの、工事中の建物さえ少ない。荒野のごとしというと大げさだが。実家が東京近郊だったので、山林をきりひらき、丘も谷戸もおしなべて地ならしし、造成しているこういう景色は、私が子どものころ、みなれた景色だった。なにか「ご無体な」という気持ちがしないでもない。

 大学生、大学院生のとき、よく奈良に出かけた。京都からいくので近鉄を利用したが、高の原あたりも、できたばかりの街というふうだった。その高の原の住宅地はもうそれなりの落ち着きを帯びていて、造成はその奥に進んでいる。平城の駅の手前にお稲荷さんがあって、やぶのなかだから赤い鳥居がめだつのか、記憶に残るが、このあたりは変わっていない。今年は三月に入ってから寒く、梅は咲いているが、こぶしはつぼみである。

 

  偶成  やぶつばきのなまめかしさや谷戸の道

2003年3月10日

 大阪府下の某市の職員倫理委員会へ。案件ほとんどなく、開店休業のごとし。それだけ、規定が周知されたということだろう。

 ガラスのふたを上にもちあげる木の枠でできた小さなケースに菓子を入れて売っている駄菓子屋。たらいやばけつを並べた荒物屋。そういう店の並んだ古い街並みを通って帰る。

2003年3月9日

  「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究会」のために、京都女子大へいく。きのうもあったのだが、教授会があって出られなかった。きょうは、ケアと正義をテーマとした研究報告があった。ケアと正義の対立および両立可能性を論じるレベルと、ケアの倫理と正義の倫理との対立および両立可能性を論じるレベルとを分けるべきだとあらためて思う。

2003年1−2月

   研究助成の申請書の審査をして憔悴する。そのテーマがいかに重要か、いかにこれまで着目されていなかったか、自分に研究助成金がおりたあかつきには、いかに成果があがることと予想されるか――申請者は当然こういった点を訴えるべきだし、かつ、それを要求されている。それに対応して、審査する側は、申請者が発案する研究計画がいかに中身のある、しっかりと裏づけられたものか、という基準で読んでいくわけだが、書類をめくるたびに、「この研究はまだ緒についたばかりである」「わが国ではこのような試みはまだ着手をみない」「喫緊の課題である」「今やこの課題にとりくむ素地はできた」といった文言のシャワーを浴びた。やむをえぬこととはいえ・・・・・・。COE応募書類の学内での選考に関わる委員会も平行して関わっていたのでなかなかくたびれた。

     

   偶成  申請書のかさの高さや底冷えす

       煮こごりや学問するにも金の沙汰

 

 

 

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