往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2004年12月18日

  京都生命倫理研究会のため京都女子大へ。安彦一恵・谷本光男編『公共性の哲学を学ぶ人のために』序論と第1部の書評。ところが、この日は午後5時から、関西大学学校インターンシップ事例報告会があり、高大連携運営委員長として開会の挨拶というillocutionary actをしなくてはならず、自分の書評担当分を終えてすぐ移動。公共的な討議の空間を足抜けしたようなものだ。事例報告会はいつもながら真摯にとりくんだ学生の報告に感心。

2004年12月8日

  「原子力の社会的リスク情報コミュニケーションシステム」プロジェクト(原子力安全基盤機構安全基盤調査研究 共催 シンビオ社会研究会(京都大学大学院エネルギー科学研究所)の公開ワークショップ「安全・安心のためのリスク管理・倫理とコミュニケーション」(京大会館)で講演。環境倫理学、正義・権利を基底とする倫理と責任・ケアを基底とする倫理、インフォームドコンセントなどについて説明。

2004年12月6日

  大阪府内の某自治体の職員倫理委員会へ。案件少なく、めでたし。

2004年12月1日

  関西大学第7回FD(Faculty Development)フォーラム「教養教育を主とした学部教育改革について」で「教養教育の理念の構築に向けて」基調報告をおこなう。この10月に大学執行部として標記の諮問をした。諮問につけた改革素案についての説明。1991年の大学設置基準大綱化から来年出るはずの中教審大学分科会「我が国の高等教育の将来像」までの経過や自分の体験をおりまぜて話す。

2004年11月27日

  第1回全国大学コンソーシアム研究交流フォーラム「連携でこそ実現可能な新たな学びの探求」、第5分科会「高大連携」で、「学校インターンシップ――大学コンソーシアム大阪の新たな試み」と題して報告(キャンパスプラザ京都)。分科会の他の報告は広島大学と広島大学の近くの西条農業高校で、以前、広島大学に勤めていた私にはなつかしい。私自身が関わった教養改革でできたパッケージ別科目について、学年があがるにつれ評価する学生もいるとお聞きする。京大のポケットゼミについても同様の話を聞いたが、教養教育の成果は後から認識されるものか。

2004年11月20日

  社会人向けの講座、関西大学サタディカレッジ「人間心理への多面的アプローチIII」で「弱さを受け入れる――ケアの倫理から見えること」と題して講演。80人募集のところ110人が受講希望。

2004年11月8日

  奈良県立生駒高校に出張講義。「ディベート入門」を高校1年生360名余に講義。生駒は標高が高くて空気が明澄。そろそろ紅葉がはじまっている。

2004年11月6−7日

  関西倫理学会大会(大阪工業大学)。2日目のシンポジウム「制度としての福祉」の司会をする。厚生経済学と倫理学の接点。パレート原理を満たしているだけで、倫理的に正当化できるのかどうかが問題だけれども。

2004年10月31日

  ジェノヴァ大学のPaolo Becchi教授講演会(芝浦工業大学)に参加。題目は「ハンス・ヨナスの『責任という原理』の理論と実践に寄せて」。ヨナスを読んでいる研究者がそろい、議論が深まり、楽しい時間を過ごした。同じテーマを考えているひとがいることの喜び。

2004年10月29-30日

  シンポジウム「風土と技術の近代」(日本文化研究センター共同研究「日本の近代化過程における技術と身体の思想」)の開催(関西大学)。30日にAugustin Berque氏との対話をテーマとするシンポジウムで「ベルク教授との対話 倫理学(環境倫理学を含む)の観点から」という題で特定質問。

2004年10月26日

  ジェノヴァ大学のPaolo Becchi教授講演会(関西大学)に参加。題目は「イタリア臓器移植法の法哲学的考察」。脳死概念の見直し。ベッキ教授はヨナス研究者だが、ヨナスの存在論的基礎づけにはコミットせず、基礎づけでは義務倫理学を支持するらしく、その点を確認した。ヨナスの存在論とどのように関わるか、きょうの話とは別だが、そこに関心の共有。

2004年10月24日

  第57回関西哲学会のシンポジウム「人間は特異な存在者か」で「人間はいかなる意味で存続すべきか」というテーマで報告。ヨナスと討議倫理学者の対立をとおして、ヨナスが近代の正統的な存在論とは異質な存在論を「ミュートス」というかたちで語らざるをえなかった理由を説明。他の報告者、杉村靖彦氏、須藤訓任氏ともに、期せずして三人とも、形而上学に接する哲学的ディスクールを論じた結果となる。会場は立命館大学で、はじまるまえに平野神社の境内を散歩。秋草、紫苑が美しい。

2004年10月22日

  「高大連携のあり方と大学コンソーシアム大阪の役割」というテーマで、大学コンソーシアム大阪の第9回大学・高校間交流専門部会と府内高校の校長会等との懇談会が開かれ、「大学からみた高大連携の理念と目的」について発表。ある校長先生に「元気をもらった」といわれ、それなりの報告ができたのかと思う。しかし、私はやはりガラッパチだな。そこにいるのはみんな先生なのに、宮沢賢治の「鳥箱先生とフゥねずみ」を引いて、「学校は生徒をとじこめる牢屋みたいなところがあるのじゃないでしょうか」などといってしまった。

2004年10月20日

  「教養教育を主とした学部教育改革」についての改革案と「21世紀COEプログラム」不採択についての反省と課題を記した文書を大学執行部から学部長会議に提出。どちらも私の勤め先にとって大きな改革を迫る案件。おりから台風23号が上陸、嵐のなかの提案となる。

2004年10月16日

  学校インターンシップ事後報告会(10月期)で学校インターンシップに派遣した学生5名の報告をきく。派遣先の生徒個々の性格をつかもうとつとめた姿勢に感心、かつ、送り出した大学側として安堵。

2004年10月9−10日

  日本倫理学会で中央大学(多摩キャンパス)へ。他用のため欠席しようと思っていたが、来年度予定されているシンポジウムの打ち合わせのため、台風22号のさなか出かける。帰りがけに廊下で某氏に出会う。「懇親会には出でざるや。出席者少なければ、いとすさまじかりなむ。今お帰りとはうらめしき御仁かな」「つれなきいらへなれども、雨もぞふる」「飲むうちに、嵐は過ぎ去るべし。よし、え帰らずなりぬるとも、思ひわづらふなかれ。某君の研究室にてともども泊まれよかし」と迫られたが失礼する。今年は日本列島に上陸した台風が多い。出張とかちあったのも2回め。

2004年10月4日

  先日、インタヴューをうけた「週間東洋経済」10月9日号「特集/本当に強い大学2004」に、関西大学の高大連携、学校インターンシップの紹介が出る。東洋経済新報社に問い合わせて、転載の許可をいただき、記事の一部を大学のホームページに載せることとする。

2004年9月18日

  日本文化研究センター共同研究会「日本の近代化過程における技術と身体の思想」第3回共同研究会へ。4つの報告を立て続けに聞くが、神社合祀令に関する報告は、以前、環境倫理学の講義をした(広島修道大学)ときに話した内容がかなり裏づけられたようでありがたかった。日文研のある桂に行くまでの車中、実った稲田をみるが、今年の大阪はまだ真夏日が続いている。

2004年9月4日

  関西倫理学会委員会のため、同志社大学へ。烏丸通りに面して立てられた寒梅館が会場。マンチェスターで焼かせた煉瓦の壁、グランドピアノをおいたホール、「学生食堂のイメージを一新したコンセプチュアルなカフェ・レストラン」という売り込みのレストラン。幼稚園の説明会とかちあう。「お受験」路線だねえ。しかし、キャンパス・アメニティへの力の入れよう、侮るべからず。

  私の学生時代の京都大学教養部吉田食堂は暗くて、狭くて、ほこりっぽくて、「やきそばのなかに輪ゴムが入ってた! 輪ゴムを食わす気か!」と殴り書きの投書があったのを思い出す。

2004年8月29日−9月1日

  坂井昭宏北大教授を研究代表者とする科研「応用倫理学各分野の基本的概念に関する規範倫理学的及びメタ倫理学的研究」第1回研究会、ワークショップ「応用倫理学の倫理学研究への貢献」に招かれ、「倫理学「者」の役割」と題して話題提供。他の4人の方の話題提供、質疑応答を含めてなかなかおもしろい議論になる。会期中、めずらしく台風が北海道をかけぬけたが、室内も嵐のごとき議論が展開したというべきか。ポプラ並木やとうもろこし畑もさることながら、街のナナカマドの赤い実、風にひるがえるポプラの白い葉、小暗い林のなかの白樺の幹が印象にのこる。

2004年8月20日

  民主教育協会(IDE)近畿支部2004年度学生生活研究セミナー「少子化時代における大学教育」で「高大連携について」報告。京大の時計台2階にある国際交流ホールが会場だった。私が学生のころ、ここの2階は学生の立ち入り禁止だった。なにぶん、時計台に「竹本処分粉砕」と書かれていたころだったから。1階東端に経理課があって、学費をおさめたものだが(銀行振り込みではなかった)、文書館教授室となっている。隣接の歴史展示室もみてくる。京都帝国大学以来の歴史資料が展示されている。戦前の学生の下宿風景などが展示されており、旅行先で博物館をみるのと変わりないが、なんだか落ち着かない気分。「帝国」大学このかたのあれやこれやが、どうも私自身に関わりのあるような、ないような。

2004年7月28日

  私立高校の先生方と話す機会を得る。大学での導入教育と一部の高校で行われている教育とが、学生の情報収集能力、文章作成能力、発表能力、討議能力の向上という点を共有しており、高校・大学での学びの連続性に言及したが、「しかし、ほんとうにそういう能力のある子は京大に行くのです」という反応もあり。全体としては、現在の関西大学の低落傾向に痛棒を加えられ、こちらの勉強になったが、一方、進学校がなにか塾や予備校と同じ価値観に支配されているようで、若干の疑問も感じる。

2004年7月24日

  日本文化研究センター共同研究会「日本の近代化過程における技術と身体の思想」第2回共同研究会へ。共同研究は論点の収斂がむずかしいが、話題はおもしろい。日文研の裏山にひぐらしを聞く。ひぐらしは好きで、子どもの頃の晩夏の夕方を思い出す。広島大学に勤めていた頃は八月はじめから耳にした。大阪に来てからは、めったに聞かない。

  ある大学で要職についていた某先輩の言、「学長補佐はたいへんだろうが、やっているあいだは『この仕事がなければ、もっと研究を進めることができたのに』などと後ろ向きに考えないように。役目が終わったとき、君なら研究に必ず戻れる」。励まされた、とともに、引導を渡されたような。

2004年7月23日

  箕面市教育委員会と関西大学との連携協力締結のため、箕面市へ。

  COE採択校の記事。5月ごろに分っていたことだが、関大は今年も採択されなかった。この半年、競争的な研究環境を整えるために「関西大学研究プロジェクトユニット」規程を制定し、PD、RAの範囲も広げる努力をしてきた。これらはCOE応募にともなう副次効果であった。とはいえ、副次効果ばかりで、採択につながらなくては。

2004年7月17日

  関西大学重点領域研究「学校インターンシップ」公開研究会。高大連携の一環である学校インターンシップについて運営主体の文学部が主催して研究会を開催。この事業は昨年から始めて今年急増し、来年も増加が見込まれるが、派遣学生へのこまかな配慮がこれまでのように続けられるかがポイント。

  午前中はカリキュラム改革に関する文書を作り、午後は上記の研究会、夜は先日、学内で規程のとおった時限的な研究組織「関西大学研究プロジェクトユニット」のWebページの設計。きょうは祇園祭の山鉾巡行の日で、私の誕生日であり、かつ、京都の梅雨明けの平均日である。つゆはあけ、祭りはおわり、一日書類を作り、年をとった。

2004年7月14日

  茨木市教育委員会と関西大学との連携協力締結のため、茨木市へ。これで関西大学が教育委員会と協力関係を協定した自治体は大阪府、神戸市、大阪市、長岡京市、高槻市、吹田市、東大阪市につづいて8番目。

2004年7月11日

  京都で研究会。ヨナスの責任原理と討議倫理学とに言及して発表をする。祇園祭の鉾の組み立てがはじまっている。阪急の四条までいかず、烏丸でおりて、少しばかり見物する。

2004年7月10日

  1日に出張講義でおじゃました住吉高校から受講生の感想をいただく。たいへんありがたい。出張講義といっても、1回行ったきりで終わるのではなく、聴いているひとの反応は知りたい。今回は、「このテーマのむずかしさが『ひとの死』というところにあることがわかった」という私の意図が通じた感想もあったが、その話はむずかしいという感想が多く、話の前半の「脳死のメカニズム」については「よくわかった」が多かった。なかに「関西大学にいきたいと思った」という感想あり。勤め先に若干貢献しているのかな? 

2004年7月8日

  大阪大学COE「インターフェイスの人文学について」の一環として行われている公開講義「医療・生命の倫理」で「インフォームド・コンセントの倫理学的意義」というテーマについて話す。医学部のある吹田キャンパスは、豊中キャンパスより整備されているような。豊中の建物のアレチノギク(?)などが咲いている中庭も好きだけれども(これはあくまで私の廃園趣味で、阪大に悪気があって申しているのではございません)。

2004年7月3日、10日

  学校インターンシップに派遣する学生への講習会。開会の挨拶をしたあと、学生と一緒に拝聴。もと高校の先生の「教師は人間が好きでないといけません」というお話、いささか耳が痛い。私が好きなのは、学問と人間とどっちかな? どうしようもなくくだらなくみえる人間やこの世界がそうでもないようにみえるそのわずかに差し込む光をもとめて哲学・倫理学の文献を読んでいるときもなきにしもあらずだが・・・・・

2004年7月1日

  高大連携の高校への出張講義(Kan-Dai 1セミナー)で大阪府立住吉高校へ。「脳死はひとの死か」という話をする。脳死の起こるメカニズムを話したうえで、脳死はひとの死かという倫理学的・哲学的問題を話すわけだが、「むずかしい」という反応もあり。「むずかしい、には二種類ある。ひとつは、脳死や脳死のメカニズムの話のように、聞いたことのないことばが出てくるのでむずかしく感じるということ。これは勉強すればわかる。もうひとつは、きょう話したように、『脳死はひとの死か』という問いが、実は、『死』や『ひと』の意味についての問いであったように、一見わかりきったように思えることをあらためて考えるむずかしさということもある。大学までの勉強は、勉強してわかることの積み重ねです。大学に入ったら、それを使って『考える』ところに進んでください」といった話をして帰ってくる。

2004年6月25日

  学校インターンシップの説明会。私の役割は挨拶だけだが、7月以降の派遣をまえにして保険その他の説明、同じ学校を訪問する学生同士の顔合わせ。

2004年6月18日

  大学コンソーシアム大阪の大学・高校間交流専門部会第8回府内高校の校長会等との懇談会のため、大阪教育大学(柏原市)へ。大阪教育大と八尾高校、近畿大学と布施高校のように特定の大学と特定の高校との連携の話を聴く。関西大学では大学の授業への高校生のうけいれ(Kan-Dai15セミナー)、出張講義(Kan-Dai1セミナー)などすべてどの高校を対象としている。高大連携といっても、高校・大学間の関係によって意味と効果が違うだろう。高大連携の意義を問う際に、そのあたり整理する必要を感じる。

2004年6月17日

  吹田市教育委員会と関西大学との連携協力協定の締結のため、吹田市役所へ。私は学長補佐と高大連携運営委員長の役職上、締結の際に同席したわけだが、この2年間で急速にこうした地域連携が進んでいる。

2004年6月7日

  朝、毎週の定例会議。昼、珍しく会議がなく、2時間ほど研究室で過ごす。夕方には大阪府内の某自治体の職員倫理委員会。

偶成 梅雨ぞらやまたも議案のらちあかず

   疑義出して霖雨の窓をながめやる

  ドイツの知人からメール。Schoene Tsuyu-Zeitと。Schoenes Wochenende(「よい週末を」)を応用して「よい梅雨を」というわけだが、うーむ、そうもいえるか。

2004年6月5日

  学校インターンシップ応募者の面接に立ち会う。昨年から行っている学校インターンシップは、昨年約100名の派遣が今年は約300名の派遣に急増した。大学生の派遣に対する期待が高校、中学、小学校に強いのと学生の関心も高い。応募者がしっかりした意図をもっているかどうかの見極めと応募者の希望と受け入れ先の要望とをつなぐ仕事。

2004年6月1日

  大学コンソーシアム大阪の高校大学間交流専門部会のため、午後、柏原市の大阪教育大学へ。ここは坂がきついと聞いていたが、たしかに。そのかわり、遠く京橋や梅田あたりの高層ビルを望む眺望はすばらしい。うぐいすの声などもしている。

2004年5月22-23日

  日本哲学会のため名古屋の南山大学へ。はじめて学会発表したのは名古屋大学だった。もう十五年以上まえのことだ。当時は地下鉄の本山から歩いたが、その地下鉄が名古屋大学まで伸びている。街のたたずまいに見覚えがあるような。大学院教育のシンポジウムその他を聞く。名古屋までの往路、沿線の水田、田植えが済んで、まわりの山影を映して美し。

2004年5月18日

  大阪府の府立高校の進路指導研究会で高大連携について説明をする機会をいただき、今宮高校へ。関大の高大連携の取り組みと意図について、ちょうど、同じテーマの原稿を書いていたので、それをもとに説明する。9:45−11:10にその仕事をして、折口信夫や宇野浩二の生まれた場所はここから近かったのではないかと思いつつ、12:10-13:30の会議に間に合うようにとんぼがえり。

2004年5月8日

  関西倫理学会委員会のために同志社大学へ。時間のゆとりがあったので真如堂を散歩。ここから黒谷、岡崎神社へぬける道は私の学生時代の散歩道だった。もみじの新緑、美し。以前、この寺の庭の世話をしているひとが「これは木の名前としてももみじなのです」と教えてくれた。それまで私は「もみじ」は古語の「もみづ」から出て紅葉の時だけをいい、木の名は「かえで」なのだと思っていた。

2004年4月30日

  関西大学と高槻市教育委員会との連携協力の覚書締結のため、高槻へ。関大はすでに大阪府、大阪市、神戸市、長岡京市の教育委員会とも同様の関係を結んでいる。高槻は大学の専任教員になるまえに塾で生活費をかせいでいたところでなつかしい。しかし、それはそれとして、こうして協定・覚書を結んだ自治体にたいしては、まえよりも関心がわくような気がしてくる。

2004年4月28日

  大学コンソーシアム大阪の学校インターンシップ推進委員会のため、梅田へ。関西大学は学校インターンシップを昨年から行っており、高大連携運営委員長でもあるので、この件に関わっている。しかし、一般の大学は企業インターンシップのほうに興味があるわけで、すべての大学がこれに関わる必要もあるまい。大学コンソーシアムは京都がさかんで、大阪でも大学間の連携をとりあって事業を進めようという組織全体の意向はわかるが、複数の大学がどの問題についても「足並みをそろえ」なくてもよいようにも思う。

2004年4月10日

  2年間、事務局をつとめていた関西倫理学会の用件で京都、奈良をまわる。この事務局の仕事はこれで終了。やれやれ。ほとんどひとりで会計、雑務をしていたのでくたびれた。帰りに、久しぶりに海住山寺の十一面観音像をみようかと思ったが、時間不足で、興福寺の宝物館のみ寄る。ここでは、阿修羅はもちろん、今にもなにか語り出しそうな富楼那像や夢をみているような沙羯羅像が、学生時代からの好みだったが、どうも疲れがたまっていて、あまりひきつけられず。こういうときには、天燈鬼・龍燈鬼のような像のほうが心がほぐれるようだ。

2004年3月20-21日

  福井・金沢へ。用をすませて、さいわいにして梅をみることができた。夜、ホテルで室生犀星の「われはうたへどもやぶれかぶれ」を読む。晩年の犀星の詩は、女ことばと男ことばとがないまぜになって、生と死もまた錯綜している。筆致は融通無碍、中身は最後まで性と生とを思いめぐらしたひとの詩だと思う。

2004年3月12日

  大阪府内某市の職員倫理委員会へ。帰りに近くの梅を見にいこうと思っていたが、学内の規程改正のための書類山積。そのまま帰ってくる。今年はまだ梅見にいっていない。白い花弁に赤いガクがおっとりした風情の豊後梅、白い花弁に緑のガクが清冽な緑萼、燃え立つようなくれないの鹿児島・・・・・・散らないうちにみたいものだ。

2004年3月9日

  大学コンソーシアム大阪の大学・高校交流専門部会のため、夕方に天王寺の大阪教育大学へ。京都の大学コンソーシアムの活発な動きに触発されて、いろいろ意見が出る。国公私立の垣根なく「大同連携」する時代か?

2004年3月6−7日

  広島へ出張。広島に住み、広島大学に勤務していたころ、山陽本線の瀬野と八本松のあいだに群集しているまんさくの花を楽しみにしていた。あいにく小雪の舞う日和で、まんさくの花はちらほらとしか見つからない。春先の黄色い花は光がそこだけ宿っているようでいいものだ。広島大学へのバスの発着する西条駅前は来るたびに変わっている。所用をすませたあと、宮島の姿をみたくなって宮島口まで行ってから帰阪。いかにも山岳信仰の地らしい山のかたち。宮島は三鬼大権現を祀る。三鬼大権現とは、その名からして活力に満ちている。

  3月初頭が締切だったCOE申請の大学調書の作成のために、だいぶ疲れがたまっている。なんだか山岳信仰は(信仰なき人間にも)そういう疲れによくきくような気もする。そういえば、広島大学で教養的教育カリキュラム改革に尽瘁し、疲弊してしまったときには、たまたま山形に行く機会があった。あのときは、羽黒山の杉林、湯殿山のブナ林、それに、蜂子皇子の奇怪な画像にも、疲れをいやす効果がありそうに思えたものだった。

2004年2月12日

  関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第9回研究会。今回は、長谷川晃北海道大学大学院法学研究科教授に「〈均しい自由〉(equal liberty for all)の規範伝統」と題して、ロールズ、ドゥオーキンについて講演してもらい、ついで、木岡伸夫関西大学文学部教授に「風土と倫理学の問題」を講演してもらう。自由主義vs共同体主義という図式的な見方ではよみとれない、リベラルな価値そのもののもっている伝統性、社会文脈性。この研究が1年かぎりの助成なのが残念。そのうえ、後半は学内行政に時間をとられたのがきわめて残念。

2004年2月4日

  平成16年度COE公募要領説明会に、学長補佐の役目上、出席する。開場15分前くらいに着いたらすでに大学関係者が大勢集まっている。一瞬、職業安定所(ハローワーク)に集まる職を求める人群れのように錯覚してしまった。集まっている人びとの思いが姿にあらわれたわけか。席上、たくさんの質問のあったなかで、「募集分野は『革新的な学術分野』ということですが、審査委員は革新的な方なのですか」という質問あり。すなおすぎる問い方であったが、反面、辛らつな問いでもあるような。

2004年1月31日

  第84回福岡応用倫理研究会で「ケアの倫理」について報告。昨年、ご縁ができて、その後、中心人物の篠原駿一郎長崎大学教授とある研究会でお目にかかり、一度うかがうつもりであった。それが実現したわけ。大学教員以外の方も参加しておられ、アットホームなふんいき。懇親会のゴマさば、うまし。いや、冬の博多の魚につられてまかり出たわけではございません。

2004年1月24日

  関西大学重点領域研究「現代の倫理的諸課題に対処しうる規範学の再構築」第8回研究会。今回は、安野正明広島大学総合科学部助教授に「ドイツ社会民主党のゴーデスベルク綱領と「社会主義の基本的価値」」、植村邦彦関西大学経済学部教授に「欧米のマルクス研究の現在」についてご報告していただく。前者は、綱領の基礎づけを断念して、その結果、価値を共有できる勢力の宥和に進んでいった道程が興味深い。後者では、マルクス主義からマルクスを救い出し、資本主義社会や個人主義社会を批判する民主主義者としてのマルクスを見出す解釈が多いことを知る。われわれの社会で、どのような価値がどれほど共有されており、また、共有が可能であり、相対立する陣営がそれらをどのような根拠から受容しているのか、という問題が浮かび上がってくる。

2004年1月23日

  大学コンソーシアム大阪の大学・高校間交流幹事会(関西大学は幹事校で、学長補佐なので幹事になっている)に出席。いくつかの大学の高大連携の取り組みと高校側の意向を聞く。高大連携は高等教育のボーダーレス化とも思うが、そういう把握は必ずしも共有されていない。しかし、大学がいつまで既存のイメージを保ち続けていられるのやら。

  私見をいえば、高校までの教育は詰め込みでもいいからひたすら勉強。大学に入って、「これまでの勉強には何の意味があったのだろう?」と考える機会があれば、大学の妙味があると思う。この感想はあまりに現状からかけ離れたものだろうが。

2004年1月20日

  発表の遅れていたCOEの募集が日本経済新聞に載る。一昨年の5分野、昨年の5分野と異なり、1分野にしぼって募集。しかも、書類提出日は3月初め、と。予算が減り、来年度の募集の目算も立たないためにこうなったのか、それとも、もっと別の理由からか知るよしもないが、私個人が応募するわけではないものの、たいへん気忙しい施策である。(罪なこと、しやはるわぁ、いけず・・・・・・)と嘆息している方々がほうぼうの大学におられるだろう。(日本学術振興会のサイトに正式の情報がのったのは1月26日)

2004年1月7日

  きょうから授業再開。年末年始はさすがに会議はなかったが、かわりに会議の夢をつづけざまにみる。予算編成の会議だったり、将来構想だったり、大学史編纂の会議だったり・・・・・・初夢は人事に立ち会っている夢だった。模擬授業を要請して、応募者が私より目上の方なので心苦しく感じながら拝見している。仕事の夢もあり。書評の締切に遅れた夢。私は教わっていないが、著名な、すでに物故された哲学者(その方とわかっているが、ただし、顔は現存している別の著名な哲学者だった)と向かい合って座っている夢。どうも私がその方の部屋にお邪魔しているようだった。出されたチョコレートを食べていると、「どの哲学者の研究からはじめましたか」と尋ねられる。「フッサールです」と答えると、「フッサールでは思い出す一節がある」と老哲学者は語りだした。めがねの奥からこちらを見据えながらいうことには、「フッサールはこう書いています。『洪水、旱天、雷雨、戦争、疫病、地震、津波・・・・・・』。ええと、津波はドイツ語でなんといいましたっけ?」と尋ねられる。「申し訳ありませんが存じません」と答えると、相手は「困ったもんだ」とつぶやく。どうもこちらの無知を嘆いているみたいだ。こちらは(フッセリアーナのどの巻の一節だろう? 具体的な事例についてふれているとしたら、13巻から15巻の間主観性についての遺稿か、それとも、イデーンII巻か危機書のBeilageあたりだろうか)などと考えているが、なんだか相手も思いつきでしゃべっているようで、たいした内容でもないようにも思える。老哲学者はさらに天災、人災を並べていったが、フッサールがそれらについて何と述べているかはわからなかった。夢がとぎれたからである。さめたあとで、津波は英語でもtsunamiだから、そう答えたらよかったと思いつく。ドイツ語でもTsunami。しかし辞書をみるとFlutwelleという語もあった。

  「同姓同名の学生がいるんですね」とメールで教えられ、不思議に思っていたところ、教えられた「キャンパスWeekly」というサイトに、現代日本のファッションと社会をテーマにした関西大学の授業「日本学II」の記事があった。授業中にファッションショーが開かれたと報じて、「モデルとして参加した品川哲彦さん(文・3年)は『こういう服は普段着ないし、服を着たこと自体楽しかった』と話した」とある。なにかのまちがいだろうが、授業に参加していたひとに聞き合わせてみると、モデルをつとめた学生が恥ずかしがっていたそうで、とすると、名前を尋ねられてとっさに私の名をかたったのかもしれない、とも。なにか、知らないうちに花道(ただし、教室)に立っていたような不思議な気分。

 

 

 

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