往ったり、来たり、立ったり、座ったり
2012年
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2012年5月5−6日
忙しい日程に隙間をあけて、実家に行き、草むしりをしてそそくさと帰る。エビネ、オオバギボウシの花が咲いている。シャガの花は可憐だが、ヤブランとともに蔓延してしまい、困ったものだ。6日にショウブが開花した。マムシソウというきみの悪い草が元気よく葉を出している。これは秋に赤い実をつける。テンモンドウが明るい緑の芽を出し、シャリンバイが白い花をつけている。
6日午後2時ごろ、一天にわかにかきくもり、強い風が吹いて雷雨となる。この日、茨城や埼玉では竜巻、落雷による死傷者が出た。私の実家のあたりはそこまで荒れず、夕方には虹が出た。ふだんしない肉体労働にくたびれ、母の好んでいた天の川という蘭の鉢を抱えて帰阪する。
2012年4月20-22日
21日9:30から開始する応用哲学会のため、千葉大学へ。理事会に出て、午後、発表2本の司会を務める。この学会は、まだ4年目だから当然といえば当然だが、活気 がある(事前の原稿を含めて、若干、発表者の使う概念や問題設定に甘さを感じることもあるが)。
22日は応用哲学会のほうは失礼して、共同研究をしている科研基盤研究(B)の研究会(安楽死の問題)のために上智大学へ。今年は一時期、気温があがったが、ここにきて少し低め。そろそろ咲いてもいい藤の花やつつじはまだつぼみが多い。
2012年4月15日
私を指導教員とする大学院生も少しふえたので、花見でもしようかということになり、大阪万博記念公園にいく。散り初めだが、さいわいまだ咲いている。すごい人出。ポピーも花盛り。女子学生のひとりが四つ葉のクローバーを発見する。「わくわく……ランド」とかいう施設の中国語訳が「激○人心的」となっている。「○」が「云」と「力」を合わせた字だったので中国からの留学生にきくと「動」で「激動人心的」となり、それで熟語であるそうな。千里中央で夕食して解散。あまりこういう催しをしたことがないが、また今度、お寺や神社をみる会でも開こうかということになる。
2012年4月2日
大学院入学式。履修ガイダンスに出席し、大学院文学研究科哲学専修のなかの哲学哲学史と哲学倫理学に入学した諸君に履修指導。文部科学省が1セメンスター15回、きっちり授業をするようにという方針を徹底した関係で、今年の授業開始は4月4日である。新入生はわずか2日のあいだに履修登録を済ませることとなる。あとで変更することは可能とはいえ、知らぬ場所に初めてきたひとにとっては気の毒な日程だとは思うが、やむをえない。
2012年3月28-29日
研究分担者になっている科研に関連するシンポジウム「死の質の良さとは何か――オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの安楽死法――」のため、早稲田大学へ。質問ひとつ。loss of dignityという表現が使われているが、どのような状態を念頭においてその概念は使われているのか、と。しかし、「明確な定義はないし、ないほうが適切である。何をもってdignityを失ったとみるかは、ひとによって違うから」という回答。それはそれでもっともに聞こえるが、オランダでは、「耐えられない痛み」を理由に安楽死ないし医師による自殺幇助を望む患者に、重ねて「尊厳を失うほどの痛みか」と聞くとのこと。だとすれば、むしろ、この概念についての共通の理解のないまま、本人の自己決定を重んじていることになろう。アメリカふうのバイオエシックスではそうであるかもしれぬが、ヨーロッパでもそうなりつつあるのか。「しかし……」という疑問が残る。
2012年3月21日
修士の学位授与式。大学全体の式を終えたあと、哲学専修(哲学哲学史、哲学倫理学、比較宗教学)と芸術学美術史専修が一体となって学位記を授与するわけだが、難病を克服して修士号を得た方がいてテレビ局が入り、かつまた、修士授与式ではめったにないことに、複数のご家族の方がいらっしゃったので、例年になく、にぎやかな式となる。
2012年3月19日
卒業式。毎年ながら、送り出すとかお別れとかいうと、気恥ずかしいような気分。オレンジのガーベラ、黄色とピンクのバラを配した花束をいただいて学生と写真をとる。
2012年3月16日
第18回関西大学生命倫理研究会を開く。今回は、アメリカの生命倫理学の研究拠点Hastings Centerの機関誌Hastings Center Reportに掲載された論文から、大学院生2人と私が内容を紹介し、問題を提起するというもの。とりあげたテーマは、生まれてくる子の遺伝子を操作することを戒めるハーバマスの類倫理にたいする反論、尊厳死法(日本でいう消極的安楽死という意味のいわゆる尊厳死ではなくて、患者の要請にもとづいて直接に死の原因となる薬物を医師が与えて患者が服用することを尊厳死と呼んでいる)による死にたいするホスピスの態度と行動、苦痛を鎮静するために意識喪失にいたるまで麻酔薬を投与する終末期セデーションないし緩和セデーションだった。遠来の方に、「参考になります。学生さんもよく勉強していますね」といわれて、面目をほどこす。紹介した論文の著者・題目などは、関西大学生命倫理研究会のホームページに。
2012年2月22日ー3月7日
ドイツへ出張。フランクフルトから列車でワイマールへ。夜9時前に着く。 テレビニュースに、メルケル首相が出てきて、テロルに関する新たな法について説明している。イスラム教徒にたいする右翼のテロルが続いたためである。
翌朝、ワイマール中央駅から1時間に1本の6番のバスに乗ってワイマール郊外のブッヘンヴァルト強制収容所へ。途中、収容されたひとたちが切り開いたBlutstraße(直訳すれば、「血の通り」である)をとおる。周囲は林。
これまでダッハウの強制収容所、アウシュヴィッツの強制収容所をみた。しかし、どうもここから受ける衝撃は、両収容所とは別なしかたで重くどんよりしたものだった。門の両翼にBankerと呼ばれる小さな囚人房がある。そこで、拷問が行われ、死者も出た。
門の右手には火葬場がある。それらの建物からあまり離れていないところに、収容所を管理するSSたちが住居を構え、しかもそこには鹿や鳥を飼った動物園までこしらえていた。所長のKoch夫婦とその子どもたちの「健全であたたかな家庭」の写真がMuseumのなかにあった。どうも、その落差――すぐそばで殺人が行われていることを十分に知って いながら、しかもその殺人を行っているその人間が「健全であたたかそうな家庭」を営めるというそのことが、アウシュヴィッツやダッハウで受けたのとは違うしかたで、見るものをめいらせるのだ。
火葬の機械を作った会社はTopf。固有名詞だから偶然ではあるが、「鍋」という意味のその文字が、火のようすをみるためののぞき窓に麗麗と打ち出されている。あたかも、悪い冗談のように。
火葬場のすぐ横に厩がある。ここはソ連の捕虜の首をねらって撃ち殺すためにも使われた。なぜ、馬を追い出してここを使ったのか。火葬場が近いから 。おそらくただそのためだけである。火葬場の下は死体置き場で、大きなリフトによって、死体を階上の炉のそばに引き上げることができる。死体置き場のぐるりの壁には、外套でもかけるよう に鉤が打ち込まれている。かけられたのは、外套ではなく、人間である。
見学にきているドイツの高校生の集団がいる。全体として熱心にみているようだったが、一部の男子がMuseumの2階にすわりこんで、高い声で談笑していたものだから、係員のドイツの中年女性が激しく怒り出し、追い出してしまった。当然である。しかし、断固としていたなあ。160センチ台なかばくらいの(しかし幅は相当にある)女性だったが、自分より2-30センチ 背の高い若者を「概念」の力で押し切ったという印象。
日の短い時期だから16時すぎに展示は終わる。バラックが撤去された荒漠とした斜面を歩きまわる。ところどころにおかれた犠牲者を追悼する碑をみてまわった。風が耳元で音を立てて吹いている。小雨がぱらついている。
ベルリンへ移動。 暗くなってから着いた。Zooの駅を下りてすぐにみえるはずのライトアップされているKaiser Wilhelm Gedächtnis Kirche(カイザー・ヴィルヘルム教会。第二次大戦の空襲のあとをそのままにとどめている建築物である)がみえないのでまごつく。高い塔をもつ教会全体を包み込むようにして壁で囲んでいる。保存工事のための一時的な措置という。
テレビや新聞では、ドイツはギリシアを助けるべきか、小学校教師による性的虐待と殺害、ベルリンの家賃と市内運賃の値上げ、空港のストライキ……。昨年の今ごろにおとずれたときと、ほぼ内容が変わらないような。昨年は、小学校教師ではなく、聖職者による合唱団内部での性的虐待が話題だった。ストライキは、毎年、行われているが、こちらは「労働者の権利」という共通認識があるのだろうか。昔、日本で、鉄道ストライキのさいに、乗客が駅員を殴ったというような、乗客とのトラブルはきいたことがない。
ゲシュタポ本部の跡地に2010年に開設された「テロルのトポロギー」Museumを訪問。ここはなかなか資料が整っている。「ゲシュタポは、あたかも、全知全能のように思われていた。しかし、全知全能であるはずはない。そうみえたのは、ゲシュタポに協力していた大勢の市民がいたからだ」という趣旨のことが書いてある。ひとを殺すことをあれほど合理的に処理していたドイツという国に、一面、信頼を失わないのは、こうしたしっかりした反省があるからだ。
ちょうど、子どもにたいする人体実験に関する展示も併設されている。病院の紹介のために、かわいい女の子の患者と写真に写っている親切そうな医師が、他方では、精神障害児の親に安楽死をひとつの可能性として提案している。ナチス自体は、対外的な信頼の喪失を懸念して、障害者の安楽死について情報を広げないようにしていたが、そこに関わっている医師のなかには、平然と、その情報をやりとりしている人間もいたのだ。いわく、実験材料を、実験組織を手に入れたいために。
ベルリン郊外のオラニエンブルクにあるザクセンハウゼン強制収容所へ。ブッヘンヴァルトで、たんに火葬場に近いからという理由から厩でソ連捕虜を射殺したのに気がめいる思いをさせられたが、こちらでは、移動式の火葬炉というものが写真に写っていた。これならどこでも――。
ここもブッヘンヴァルトと同様に、強制収容所における強制労働についてくわしく展示している。クルップ、ジーメンスなど、日本でも知られている大企業の名が挙がっている。ソ連がこの収容所を解放したのだが、そのソ連がひきつづきこの収容所を自分たちのためにラーゲリとして利用しつづけた。結局のところ、人間が他の人間に求めているのは、 人間そのものではなく、労働の成果それだけなのではないかといった疑問がわいてきてしまう。
どこの強制収容所でも、強制労働は行われていた。だが、アウシュヴィッツでは、鉄道で送り込まれて、おろされた瞬間に、死ぬ者と死を猶予された者とが選別され、死ぬ者はただちにガス室のある建物のなかへ引き入れられ、一切をとりあげられ(髪の毛までも刈られたのだ)、ガス室に送られた。ガス室の近くには、火葬場の灰を捨てた池がまだ残っていた。透明な水面がまわりの白樺の影を映していたが、由来を思い浮かべると、その水は、通常以上に、ひとの油を吸ってぬめぬめと輝いているように思えたものだ。――アウシュヴィッツでは、すぐに殺されてしまったひとについての想像が重くのしかかってきた。これにたいして、ブ ッヘンヴァルトとザクセンハウゼンは、人間から得られる最後の利益までしぼりとるその所行のどんよりしたむごたらしさが気持ちをよどませる。
それでも、ドイツでは企業による強制労働にたいする補償を進めてきた。日本では、この問題は解決していない。2007年に1年間、ケルンに住んでいたとき、日本の自民党が参院選で大負けしたニュースを南ドイツ新聞で読んでいると、「この大敗でAbe政権はもたないだろう。次期首班はAsoと予想されている。しかし、Asoは、朝鮮や中国のひとに強制労働をさせた麻生コンツェルンの一族の出で、Asoが首相になったら、アジア各国はこの問題をとりあげるのではないか」という指摘があった。その目のつけどころに感心した。同じころ、インターネットで日本の新聞に「麻生はアキバの若者に大人気」といった記事をみつけて、げんなりしたものだ。
ケルンへ移動。 途中の駅のホームに、スカーフをかぶっているトルコ人の中年女性を写して、その横に"Nicht Einfalt, sondern Vielfalt"という見出しがついている。ドイツという国はひとつの民族から成るのではなくて、多くの集団から成り立っているのだという公共広告。
Neumarktにあるユダヤ関連文献を収蔵しているGermania Judaicaのあるケルン中央図書館、ケルン大学図書館に日参。いくつかはじめて目にした資料があってありがたい。ずっといられたらいいが、むろん、それはむりである。
休日、シュヌットゲン博物館へ。おやおや、2005年に初めてきたときからずっと工事中だったところに大きな建物が立ち、その一部にシュヌットゲンが入っている。ステンドガラスの展示が前よりもゆたかになった。 私のお気に入りの聖家族のレリーフや聖ヒエロニムスの像などは、もとの場所にあって、ただ、もとの展示場の裏側から入るようになっているわけだ。もっとも、私が一度だけみて強い記憶に残っている、とても朗らかな笑顔のウルスラ像が展示から外れている。なんだか、いっしょに歌いたくなるような明るい顔だった。あの像はもう一度みてみたいものだ。
コルンバ美術館にはじめて立ち寄る。中世の絵のなかに、なんとも愛嬌のあるサタンを発見。聖人にいさめられているようなのだが、なんだかふたりは仲良しにみえる。牛のような顔でへべれけに酔っ払っているみたいで、聖人のほうをふりかえって、もう一杯飲ませろとおねだりしているのを、聖人がにこやかに「もうお帰りなさい」と説いているみたい。サタンの股についているひとの顔は、首の上にある顔と逆に、口笛をふきそうな表情で、二本の足と同じく、もう行き先のほうを向いている。
フランクフルトへ。ユダヤ博物館を訪問し、新装なったシュテーデル美術館も。ここは、ノルデのキリストと、マッケの少女がなんともいい。6日夜に出発、7日に帰国する。今回は、ベルリンも3度から7度程度であたたかく、ケルンにいたっては17度ぐらいまであがったので、かえってかぜをひいてしまった。
2012年2月15-18日
15日、16日に卒業論文試問(24人に立ち会う)、17日に修士論文試問(2人に立ち会う)、18日に大学院入学試験(4人に立ち会う)……と荒行のような日々。もっとも、試問され、受験したほうはもっと抑圧だったろうが。やれやれ。
2012年2月9日
大阪大学の授業を1回休講にしたため(本務校が月曜の授業を1回、木曜にすることにしたために、阪大のほうを休講せざるをえなかった)、その補講を行う。試験はもう済ませてしまったから、授業内容の本筋から離れてヨナスの話をすることにした。だれもこないかと思っていたら、20名弱のひとが参集。えらいものである。感心して、時間が延びてしまった。そのあと、関大に移動して、 隔週しているカント読書会。
2012年2月4日
連日の入試監督。それでも、受験生が少なくて困っているというよりははるかによい。
一昨日の阪大での講演がYoutubeにアップされている。うーん、なんだか、みるにたえぬ。このところ床屋に行くひまがなかったので、道端で寝ているひとみたいだ。Googleの検索ページに出てくる小さな画面でみると、ひげが目立ってバカボンのパパのよう――それはそれでいいけれども。
2012年2月2日
大阪大学の非常勤の授業の試験。登録230余名で、試験を受けたのは、めのこ勘定で160-170名ぐらいだろう。これから採点しなくては。そのあと、大阪大学待兼山会館で行われた第14回Handai Metaphysicaで「ケアと正義」と題して講演する。活発な討論。講演後は、非常勤の労をねぎらわれる。
2012年2月1日
入試がはじまる。さっそく、入試監督に。第1日目だから、テレビカメラが入る。受験生の顔は特定できないように写すわけだ。問題用紙を配布しているあたりで撮影おわり。
2012年1月25日
5月に東京で開かれる予定の国際学会での発表の依頼がくる。私を推薦してくださった方は、お名前は存じ上げているが、直接にはお話ししたことのない方である。少し考えてからおひきうけすることとする。なにぶんチュニジアでなく東京だから近い。何を論じようか。
2012年1月24日
Tunisian Mediterranean Association for Historical, Social and Economic Studies(チュニジア地中海学会というのだろう)からCall Paper(案内状)が届く。別段、その分野の研究をしているわけではない。なにか手広く案内状の発送リストを作成する過程で私の名前がひっかかったのだろう。チュニジアかあ! アウグスト・マッケの絵を思い出す。透明な空と明るい日ざし。石でできた壁の影がくっきりと大地に落ちている感じ――。しかし、政情のことはともあれ、なにぶん研究領域が重ならないだろうから、行くわけにもいかない。
2012年1月21日
推薦入試で合格した学生(というか、今の段階では高校生だから生徒だ)への事前指導(プレ・ステューデント)。文献の紹介をさせるのだが、大学生とやはりちがって、どこまで厳しく要求するか、こちらも間合いの取り方にいささかゆれる。
夕刻から、昨年卒業した学生の誘いをうけてコンパ。雨を避けて地下通路をうろうろして、梅田新道の店がわからなくて遅刻してすまなかった。まだそれほど変わっていないが、やはり社会人になっただけ違っているか。
2012年1月14日
今年は1月5日に授業が始まった。実家に飾った輪飾りをそのままにしておくわけにもいかず、4日に外してもって帰ってきたのを某神社に納めにいく。15日のどんど焼き(左義長)で焚きあげてくれるのである。 燃やすことのできない、鏡餅の入っていたプラスチックの容器(鏡餅の「殻」といいたくなる)や鏡餅に載せるこさえもののみかんなども分別回収している。そういえば、母も鏡餅の入っていた箱などをとっておいた。歳神さまだからゴミとして出せないというわけだろう。同じ考えのお年寄りがここにもってくるわけか。本物の餅を重ねたほんとうの鏡餅ではもはや食べきれないから、プラスチックで型だけ作ってなかに切り餅を入れたお鏡が売られるわけだが、いったい、やはりあのプラスチックも「聖なるもの」なのだろうか。
2012年1月1日
東日本大地震のあった翌年だから、今年の賀状には、「謹賀新年」等と書くのをひかえたひとが多い。私自身も、
皆々様のご健勝とご多幸を祈念いたします。本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年はこの国に住む者にとって、例年にまして、来し方行く末を思わずにはいられぬ年でありました。状況の一挙の好転は望めぬにしても、今年は、やわらかな日差しに恵まれて、少しずつ歩みを進める年にいたしたいものです。
としたためた。「少しずつ歩みを進める」と書いたのは、一挙の好転が見込めないということもあるけれども、昨日よりもあすが、あすよりはあさってが……というふうによくなっていくほうが「しあわせ」なように も思えるからだ。
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