往ったり、来たり、立ったり、座ったり

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2013年12月31日

   紅白歌合戦は、年に一度だけ、歌謡曲――と今でもいうのだろうか――を私が聞く番組である。「女々しくて女々しくてつらいよー」という歌は、前も聞いた気がするが、それを歌っているグループも含めてわりあいに気に入っている。最初に聞いたときには、「なんて歌詞だ!」と一驚したが。とはいえ、どうも歌番組というものに飽きてしまうたちのようで、ところどころしかみていない。あまちゃんのメンバーが歌う場面は見たが、大島優子引退宣言は見逃した。

   そういえば、昨年、学生向けに作った論理学の初歩の初歩の問題、

「『一位は敦子か優子かだろうが、敦子が出場しないので、優子が一位だろう』を論理式であらわせ。 解答: 「敦子が一位である」をP、「優子が一位である」をQとすると、 ((P∨Q)∧〜P)⊃Q」

は、今年もすでにずれてしまったが、来年度は別の問題にさしかえなくてはなるまい。

2013年12月21日

   日本倫理学会評議員会のために、竹橋の総合学術センターへ。終わって懇親会は失礼して、少しばかり神保町の古本屋をひやかす。大学生のころに、夏休みに訪れた古い店が今もそのままにあるのはうれしい。最も日の短い時期であまり時間もなく、二三軒ひやかしただけで、閉店時刻になってしまった。

2013年12月19日

   訪問看護のNPOをしておられ、博士後期課程で学んでいる作業療法士の方から、「担当している一人暮らしの方が亡くなっているのを発見して、警察、家族との連絡等のために、きょうは申し訳ありませんが、ゼミを欠席いたします」との連絡あり。たいへんな仕事だ。

   多くのひとが在宅死を望んでいる。しかし、独居老人の場合には、孤独死になってしまう。そういう話題をすると、「あとのひとの迷惑だから、孤独死は避けるべきだ」という意見の学生が多く、私としては、「たしかにそうかもしれないが、死ぬときまで他人に気を遣わねばならないものだろうか」などと問いなおしてしまう。生きているあいだに、異変があったらすぐに対応してもらえるような仕組みができていて、それで万一の場合にも、早く発見されるほうがまだしもよい。それが必要である以上、社会全体がだんだんとそういう態勢を整えていくだろうが、それとも、機能しなくなりつつある「家族」をなお称揚し、不幸を例外的事態に数える風潮が続くのだろうか。

2013年12月14日

      関西大学高大連携10周年記念シンポジウムで基調報告「関西大学高大連携10年間の歩み――模索、成果、展望――」をおこなう。

      最後の展望のなかでこう述べた。文部科学省の力点は、高大連携から高大接続へ動いているふうで、しかもマスコミでは、「1点刻み入試ではなく、人物評価入試へ」というところがずいぶん喧伝されている。しかし、これは、マスコミが注目するような入試評価の技術論だけが本旨ではあるまい。1991年の大学設置基準大綱化このかた、文部科学省が促してきた「大学の個性化」の流れのなかで理解すべきだろう、と。

   このシンポジウムには、文部科学省高等教育局大学振興課の里見朋香課長にご来席いただき、「高大連携――大学の果たすべき役割」という題目で基調講演をしていただいたあとに、パネル・ディスカッションにも参加していただいた。

   2003年から2006年に学長補佐をしていたときに高大連携運営委員長だったので、今回、私が基調報告をする役まわりとなったのだが、なにぶん、そういう職務から離れてだいぶになる。見通しがずれていたらまずいな、と懸念していたが、さいわいにも、「大学改革のなかで高大連携事業の意義を模索した」という私が報告した関西大学の取組は相応に評価していただいたという感触を得ることができ、安堵する。

2013年12月13日

   科研(基盤研究A「尊厳概念のアクチュアリティ――多元主義的社会に適切な概念構築に向けて――」、研究代表者:加藤泰史一橋大学大学院社会科学研究科教授、課題番号:2552440001)の共同研究のために一橋大学へ。後半はMartin Seel教授(フランクフルト大学)の自然美学にかんする講演。翻訳が出るそうな。質問は思いついたが、たいへん根本的な問いなので、その訳書を読んでから再考することとする。名刺をいただいたので、もし、質問がまとまればメールを出すことにしよう。――忙しくて、そういうことができるかしらとは思うけれども。

   参会者のおひとりから、前にもいわれたが、拙著『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』の増刷はないかと聞かれる。

2013年12月7日

   第21回関西大学生命倫理研究会を開く。今回はあまり出席者は多くないだろうと思っていた。「医療化した兵器」について、きょう発表する南木喜代恵さんに、「12人くらいかなあ」といっていたら、ほんとうにちょうど12人の出席者であった。広島という遠方から参加された方もあってありがたい。

   ナカニシヤ出版の編集者某氏がきてくださったので、拙著『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』について探しているひとが何人かいるので、3刷を出してもらうという 見通しはあるまいか、と打診するが、やはりむずかしい。なんといっても、哲学書であの値段(本体4800円)で、教科書に指定していないのに、2刷が出て、しかも完売されたのだから、出版社としては「大出来、大出来 」という反応でも無理はないのかもしれない。

   ドイツ人女性で一人ほしがっているひとがいるのだが、そのひとはアマゾンに出たと気づいたらすぐに他のひとに買われてしまったそうな。

2013年12月6日

   特定秘密保護法が成立する。日本の社会には、結局まだ、社会契約論という発想は根づいていないのだろうか。人びとであるよりもまず国民であり、人間の尊厳にもとづく基本的人権よりも国民としての義務が先にくる。 ちょうど、大日本帝国憲法で、信教の自由が保障されたのが帝国臣民としての務めをおかさないかぎりであったように。

2013年11月30日−12月1日

   日本生命倫理学会のために東京大学へ。今年度で終了する科研(基盤研究B「世界における終末期の意思決定に関する原理・法・文献の批判的研究とガイドライン作成」、研究代表者:盛永審一郎富山大学大学院医学薬学部教授、課題番号:2332001)の共同研究のメンバーが公募シンポジウムで発表するのを聴く。科研メンバーの一部で、来年3月発刊の『理想』の終末期医療特集に論文を載せることになっており、その論文は、10月末に仕上げたばかりである。

   いちょうの黄葉がまっさかり。2006年に東大文学研究科・文学部の出張講義にきたときのことを思い出す。あのときも、キャンパスが黄色い葉で覆われていたのだった。

2013年11月9日

   月末に大学院生の研究発表会がある。そのための景気づけということで、京都にもみじをみにいく。ほんとうの色づきには少し前だったが、南禅寺、永観堂とまわる。永観堂は「みかえり阿弥陀」を拝観。 おりから西日がさして、来迎のふんいきを――ほんのちょっとだけ――あじわう。哲学の道をぶらぶらと歩いて銀閣寺から帰る。バス停で中国人旅行客に中国語で説明している市バス職員のおじさんがいて、中国からの留学生の杭さんがその中国語に感心する。千里中央にもどって、イタリア料理の小さな店でコンパ。ムール貝にミラノ風カツレツ、そのほか。うーん、女子会が板についてきた。

2013年11月2−3日

   関西倫理学会のために立命館大学へ。2日目午後のシンポジウム「ケアと正義」の司会を務める。非会員だが、岡野八代同志社大学教授をお迎えする。期待のとおりの発表。ギリガンの『もうひとつの声』が登場するのに先立つ時期のアメリカの状況を中心に論じられた。佐藤義之氏のレヴィナスに関する議論は、レヴィナスとケアの倫理とにたいしてかなり異なる反応を示しているホネットの議論などを思い出して興味深く聞かせてもらった。しかし、どうもフェミニズムとはかけ離れたケアの倫理の報告もあった。ヘルガ・クーゼがケアの倫理にたいして言い放った「古いお説教を女が語っているだけ」という痛烈な批判をいいかえて、「古いお説教を男がいまだに語っているだけ」と評したくなるような見解だが……。しかし、寸鉄釘をさす質問が女性の若手研究者から出た。的確な反応というべし。

2013年10月19日

   関西哲学会のために大阪大学へ。委員会に出る。午後、戸谷洋志氏の発表の司会。

   20日にも一般発表とシンポジウムがあったが、勤務先の入試業務のために不参加。

2013年10月4−6日

   日本倫理学会大会のために愛媛大学へ。5日午前は、安井絢子さん、佐藤静さん、早川正祐さんの発表の司会をする。いずれもケアをテーマとする。ケア論をテーマとする若手研究者が増えているので楽しみ。安井さんは拙著の書評をしてくれたことがあり、佐藤さんは数年前に東京大学で集中講義をしたときに聴講してくださった。H・フランクファートを論じた早川さんも拙著を読んでくれたそうな。午後は、課題設定委員として関わった主題別討議の「倫理学における自然の位置づけ」のセッションに参加。翌日は、課題設定委員、課題実行委員として関わった共通課題「倫理学は生き方の指針を与えることができるのか」に参加。日程がつまっていて、道後の湯に入らずに帰る。松山はもう少しのんびり訪れるのがいいところだが、さりとて用がなければ行けそうにもない。とはいえ、雪雀と小富士という松山のうまい酒を楽しむことはできた。

2013年9月21−22日

   第8回ハイデガー・フォーラムが関西大学で行われた。開催校の人間として会場設営、懇親会受付その他で働き、合間に、司会ひとつと総会の議長を務める。この学会は、昨年、技術をテーマにした特集があり、基調講演のひとつとして招かれ、ヨナスの技術論とハイデガーの技術論を対比した(論文「技術、責任、人間――ヨナスとハイデガーの技術論の対比)。当然、ハイデガー批判に立ち入ったわけで、前日の懇親会の席上でも「無事、帰れるか。闇討ちにあうかもしれませんが」などと冗談をいっていたが、anti Heideggerの発表にたいして、問題提起を率直に受け止めてくださった質疑も多く、みのりのある討議の機会を得た。ハイデガーの名を冠した組織ときくと、なにか独自の術語で語る秘教的な集団を連想してしまうが、その予想は外れて、開かれた研究組織という印象を受けた。

   今年も、ハイデガーにたいする厳しい批判を含んでいると思われる、あるいは、ハイデガーの側からは本質的な反論がありうると思われる講演があった。私見では、加藤泰史さんの講演は前者で、森岡正博さんの講演は後者だった。

   前者については、カントの理性の公共的使用にたいして、ハイデガーが公共的な良心を日常性の頽落したものとみなす点が指摘された。後者には、当然というか、ハイデガー研究者から反論が出た。だが、私の理解では、カントであれば普遍妥当的な道徳法則という、道徳的(倫理的)たるために満たさなくてはならない規範が明示されているのにたいして、ハイデガーでは、なるほど本来性という規準はあるにしても、それは道徳的(倫理的)な規範ではないという決定的な差異がある。だから、カントの示唆する方向がハイデガーのなかにあるというような擁護論は、なにがしかハイデガーに道徳的(倫理的)含意を読み込むという別の危険に近づくように思う。たしかに、ハイデガーの公共的良心批判が、普遍妥当性がたんなる同質性への回収でありうることへの批判を含意しているという点は認めるにしても(普遍妥当性がたんなる同質性への回収でありうるのではないかという質問は、私のほうから加藤さんにして、加藤さんから同質性を打破する統制的な理念という――カントおよびカントを継承する討議倫理学の観点からしてはまっとうな――回答を得た)。

   森岡さんの発表は尊厳概念を見直すもので、特定の人間の一生の尊厳、人間の生命ないし身体のもつ尊厳、生命の尊厳という概念が提示された。私は司会を務めていたので、自分では質問できなかった。しかし、倫理学の研究者がいれば、当然、出てくる「権利」や「正義」という観点からの質問が出なかった点にハイデガー・フォーラムの特徴があるのかもしれず、また、ハイデガー研究者からはとくに(人間ならざる生き物一般を含めての)「生命の尊厳」にたいしては「人間のみが死ぬのであって、他の動物は命を失うにすぎない。人間のみが世界をもち、動物は世界に乏しい」という観点からの異議申し立てがあってもおかしくないと思ったが、どういうわけか、そういう質問は出なかった。司会なのに、最後に前者についてはふれてしめくくり、若手研究者からあとで「あの指摘はおもしろかった」と感想をいただく。

2013年9月7−8日

   今年から始まった共同研究(科学研究費基盤研究A「尊厳概念のアクチュアリティー」のワークショップのため、一橋大学へ。7日に研究打ち合わせとワークショップ「iPS細胞研究の倫理問題」、8日にワークショップ「脳神経科学をめぐる諸問題」を行う。たいへん刺激に富んだ発表が続き、また、私の疑問と思うところを他のひととも共有できて楽しい二日間だった。

   ひとと会うために、南武線の登戸駅で降りる。私は小田急線とこの南武線とを使って高校に通っていて、登戸は乗換駅だった。そのころは川崎行きのホームの目の前に「バー どん底」という看板があって、うらぶれた気分になったものだ。車両も、今はなつかしい、戦後の復興期から使われ続けたであろうこげ茶に塗られた、床は板でできた車両だった。大勢の乗客の脚ですり減らされて、まるで二条城の廊下のように木目が浮き彫りになっていた。ところが、今は駅が高架になっていて、駅前も再開発されている。かつては駅の左手に小さな本屋があった。そこで、『海の沈黙』を買ったのを覚えている。高校一年生に岩波文庫が値上がりするときに「安いうちに」と考えて、レジスタンス文学だということも知らずに買ったのだが、読み進むうちに静かな感動が染み入るような気分がしたものだ。

2013年9月1日

   関西倫理学会委員会のために京都女子大学へ。少し時間があったので、二つ手前のバス停で降りて、小雨の降るなかを大谷御廟のあたりから散歩する。今年の夏は猛暑であったが、やはり季節は少しずつ移っているようで、木々の緑も旺盛な活力を示す盛りを過ぎた感じがする。

2013年8月3日

   昨日、「脚本の意図はともかく」と書いたが、そういえば、以前放映していたドラマ「梅ちゃん先生」では、大学教授が娘の入試の面接に立ち会ったり、近所に大きな病院ができるのを診療所の医師が病院の広告で初めて知ったりなど、ありそうもない話がいろいろあった。子どもが受験するとき、教員は受験に立ち会わないのが当然だし、かりに本人が隠してそういうことをしようとしても、面接のデータをみれば、教授の娘であることがわかるから、周囲が黙認するはずがない。病院の新設計画が地域の医師会との折衝なしに進められるはずはないから、診療所の医師は医師会を介してそれを知る。ベッド数が多ければ、医師会が反対するだろう(あのドラマには、協力者として舞台となった地域の医師会の名が出ていたが、医師会のそういう面は指導しなかったのだろうが)。

   しかし、そういうことはともかくとして、頑固だが尊敬される医師として描かれていた主人公の父親が、長男が医師になることを期待し、長女を軍医と婚約させ、できの悪い次女は早く医師と結婚するように画策したのをみて、どうもこの医師の父親は、人間を、まずは「医師仲間」、ついで「医師の手伝いをするひと(妻のほか、ナースその他のcomedicalの職種もここに入る)」、そのほかは「(現実の、あるいは、潜在的な)患者」というふうに分類しているのではないかという印象をもった。以前、 医大に勤めていたときに、そういう疑いをもたせる医学部教授がいた。脚本家はそう描こうとしたわけでないとしても、そういうふうにみえたので、奇妙に、その人物のその一面にはリアリティを感じた。

2013年8月2日

   NHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の人気が高いが、私もみている。きょうはNHKのかつての人気番組「プロジェクトX」のパロディ「プロダクトA」が出てきた。そのなか で敏腕プロデューサーとしてまつりあげられる人物について「天才ですね」と評するその人物のお付きの者(マギーという俳優だった)のおもねるような、本心からそう思い込んでいるような、自分でもどっちかわからないような言い方――というか、本人が本心だと思い込めば思い込むほど、他人から見るとますますうそくさい感じ――も、 また、感動を演出する番組作りのふんいきも、マスコミ上で「カリスマ何々」が「作られて」いくうそくささが伝わって秀逸。

   主人公の母親が売り出し中の女優の影武者として使われ、搾取されていたという話は、東京中心の経済成長を東北出身(にかぎらないが)の労働力が支えていたこと を(脚本の意図はともかく)暗示しているようにみえる。その下支えがあって出世した女優が、主人公や主人公の故郷からくる客にまで寿司をごちそうしている。本人は好意でしている。おごられるほうに、おごってもらう権利はない。だが このシーンもまた、経済成長のよりいっそうの受益者が、労働ほどに利益を得られなかった側や明らかに搾取された側に、 そのひとたちの支えがあって成功した人間がそれと気づかずに自分の気前よさをみせているという皮肉な光景にみえないこともない。

2013年8月1日

   麻生副総理兼財務・金融大臣が7月29日に国家基本問題研究所月例研究会というところで、「ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」と発言し、1日にその発言を撤回した。「喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例」としてナチスに言及したと釈明しているが、「あの手口に学んだらどうかね」といったのなら、このいいわけは無理だろう。報道のとおりであれば、もとの発言は、「ナチスの手口がもたらした不正義から学ぶ」ではない。「国民によくわからないうちに憲法を変えるのがよい」という趣旨なのは明らかだ。「ナチスの手口を学ぶ」という発言はドイツやアメリカでは議員辞職につながると報じられているが、ナチスとの関連にたいする各国の反応の違いをたとえ別にしたとしても、「国民によくわからないうちに進める」ことを支持する有権者はどこの国でも多いはずはないから、どの国でも議員辞職に値する発言だろう。もちろん、この発言の支持者もいるにはちがいない。「国民によくわからないうちに進める 」政策で得をする人びとは支持するだろうから。

   安倍首相がすっぱりと更迭したら、かえって株があがるかもしれない。ポスト安倍をねらっているらしいひとを切るのだから、「強さ」をみせつけることにもなるだろう。だが、景気回復がこの内閣の命運を握っているから、むしろ「弱さ」を露呈するのを避けて、財務大臣を切れないことも衆目の一致するところ。それにしても、アメリカのユダヤ人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターのクーパー副代表が、「この発言が北朝鮮で出たなら気にならないが、価値観を同じくしてきた隣人から出たからこそ耳目を集めた」(朝日新聞8月1日夕刊)といっていたのは、きわめて辛辣。日本維新の会の橋下代表は麻生発言をブラックジョークと説明しているが、むしろ、この発言のほうがブラックジョークというべし。「日本は自由主義陣営だと思っていたら、北朝鮮のようだった」というふうにとれるのだから。

2013年7月30日

   昨年5月におこなった国際シンポジウムをもとにして、Oxford大学のthe Oxford Uehiro Centre for Practical EthicsからEthics for the Future of Life: Proceedings of the 2012 Uehiro-Carnegie-Oxford Ethics Conferenceとなって7月に発刊。拙稿”The Status of the Human Being: Manipulating Subject, Manipulated Object, and Human Dignity"がそのpp.144-155に収録されている。紙媒体のものが送られてくる。こちらでウェブでも読むことができる。

   私の論文のすぐあとに山中伸弥教授の論文が載っている。おやおや、ノーベル賞受賞者と並んでいるわけだ。

2013年7月27日

   日本倫理学会評議員会のため一橋大学へ。昨年に命じられた共通課題設定委員の任期がもう一年あるので、評議員会終了後、その打ち合わせ。懇親会は失礼する。

   実家の草むしり。五月の連休以来だからたいへん。初めて蜂にさされる。警戒しているらしく飛びまわっている蜂をみて、裏庭のどこかの木に巣をかけたのではないかと推測。草茫々だが、そのあたりに近づくのはあきらめた 。しかし、その手前に、ひこばえから伸びつくした木があったから木バサミで切ったところ、私の視界を外れたところから不意に襲撃。手許のごくわずか、皮膚ののぞいているところをやられた。すごいものだ。さされた周辺の腫れた部分にふれると痛い。保冷剤でひやして、アンモニア(キンカンという古典的な薬)をつけたら、さいわい一日で腫れはひいた。五月の連休には、鳥が戸袋に巣をかけたのを片付け、昨年、毛虫にやられた椿にまたしてもついていたのを処理した。その椿は葉が出揃ったが、裏庭にある同種の椿は五月に見落としていてやられてしまった。人間からすれば、留守宅に蜂や鳥や虫が巣くって迷惑しているのだが、蜂や鳥や虫からすれば、私のほうが侵入者にちがいない。

2013年7月20日

   第20回関西大学生命倫理研究会を関西大学で開催。今回は、Hans Jonasの哲学と題して、吉本陵さん(大阪府立大学客員研究員)の「ハンス・ヨーナスの生命の哲学――「像Bild概念を巡って」、戸谷洋志さん(大阪大学大学院)の「『乳飲み子』を『看る目』――ハンス・ヨナスの責任倫理学の認識論」という若手の発表に加えて、私が「『神にたいする人間の責任』という概念は成り立ちうるか」という発表を行う。Jonas(表記がヨナスとヨーナスで一定しないからこうしておく)をテーマにひとつの研究会が開けるとは本邦初ではないかしら。お聞きになる方も、遠くは九州からお出でいただき、小さな研究会としては盛況だった。小さな研究会ではあるが、電子ジャーナルを発行しようかと思っているので、励みとなる。懇親会もだいぶもりあがる。

2013年7月12日

   高校への出張講義で伊賀市の三重県立上野高校へ。鶴橋から近鉄に乗り、伊賀神戸で伊賀鉄道に乗り換える。単線、二両編成。つり革のとなりにてるてる坊主がつる下がっている。先頭車両の正面に女忍者の顔が描かれていて、車両の横腹には女忍者が走っている絵が描かれている。 途中、依那古などといういかにも古代からありそうな名前の土地を通る。お城のまえにある上野高校で2年生を相手に「脳死はひとの死か」を講義。おとなしい生徒たちだった。 伝統ある木造校舎が保存されている伝統ある高校で、グラウンドに面した通りには横光利一がここで学んだという石碑があった。

   松尾芭蕉記念館と、少し離れたところにある松尾芭蕉生家、芭蕉が「貝おほひ」を奉納した上野天満宮――ついでにそこにいく途中にあった市立図書館――をまわる。上野の町は、裁判所やカトリック教会があってこの地方の中心地らしく、碁盤目状の通りには割烹旅館や結納の品を売る店や老舗らしき菓子屋、味噌屋、酒造業などが散在。ねずみいろの内側の土が見えるように八角形に白壁をぬりのこした土蔵、低い二階の屋根の下の虫子窓のある昔の建物もところどころにあり。駅前のうどん屋に入ったら、最後に玉露を入れてくれた。その店特有のサービスであろうが、この町に昔から伝わる生活様式の名残りのようなものだろうか。夏の長い夕暮れどきをゆっくりとすごしてみたいような町だったが、そうもならず、まだ暑い日盛りに帰途につく。

2013年7月3日

   隔週で大学院生たちと行っているカント読書会。『純粋理性批判』の「純粋理性の二律背反 超越論的理念の第二の抗争」のくだりを読む。独断論の哲学が主張する二つの見解、定立(Thesis)と反定立(Antithesis)のどちらも成り立つようにみえるが、それは、カントの立場からすれば、感性的直観の支えがないのに悟性と理性で推論しているから認識にはたどりつけず、決着がつかないからそうみえるだけだという話。プロレスにたとえると、定立と反定立とがリング上で戦って膠着しているところへ、「リングとルールがまちがっているんだよ」と解説者のカントが 指摘して、ゴングを連打して没収試合を宣言するわけだ。ところが、定立・反定立それぞれの立場を解説するうちに、カント自身が定立や反定立を演じる覆面レスラーとしてリングにあがっているようなところもあり、さらには、かぶっている覆面が落ちてしまってカント自身があらわになるところもあり、解説者カントが 連打するためにゴングをとりあげたと思いきや、そのゴングでレスラーの頭をなぐりつけているみたいなところもあり……。

  そんなふうにみえると話すうちに、以前、WWEをみていた頃のことを思い出し た。読書会のあとで、アンダーテイカーとかクリス・ベノワとかエディ・ゲレロとかミステリオとかの話になってしまう。私はアンダーテイカーとベノワとには、なんとなく「精神」みたいなものを感じ ていた。ところが、WWEを見なくなってだいぶたってから知ったことだが、ベノワは家族を殺して自殺してしまったそうな。なにか強度の抑圧があったようだ。解剖したら、脳は80歳以上の老人の脳のよう であった由。「そういうひとに 『精神』を感じていたんですか」といわれそうだが、まだ40なかばだったろうに、80歳以上の老人の脳になってしまうほどに、何度も頭を打つような試合をし続けたひとなんだから、「精神」の強さを感じたといってもおかしくあるまい。

   いずれにしても、WWEのプロレスラーは、むろん全員とはいえぬものの、それぞれ与えられた役割、キャラクターを演じるのがうまく、なんだかほんとうにそういう人柄のようにみえたりするのだ。日本のプロレスでも、マイクをもったプロレスラーが相手方を挑発している台詞を吐いているシーンをみたことがあったが、筋書きもちゃちなようだし、なんだか伝わるものが感じられなかった。ちょうど、アメリカの政治家と日本の政治家の違いに似ている。

2013年6月29日

  関西大学哲学会春季大会。M2の小田絵理子さんのルドンについての発表、D2の南木喜代恵さんのカントの宗教論についての発表、新しく赴任した酒井真道准教授の諸行無常についての発表。学内の学会だからそう大規模ではないが、OBを中心に相応の参加者があった。学生の参加数が少ないのが残念。レベルの低い大学なら学会はないだろうし、大学院生がもっといる大学ならもっと参加者が多いだろうが。

2013年6月28日

  今月なかばに依頼原稿の締切があり、この2ヶ月ほどそれで心せわしくすごしていた。原稿は締切日どおりに提出できたが、その後も雑用多し。きょうは久しぶりに時間があいたので、大阪中之島の国際美術館の「美の饗宴」展にいく。関西の美術館が所蔵している20世紀の絵画を中心にした展覧会。予想以上に見ごたえがあり、私の好む画家の作品もずいぶんとあるのだなとわかる。青の時代のピカソの「道化師とその息子」、ジャコメッティの「鼻」などに心ひかれる。パスキンという画家は、おだやかで気持ちが落ち着くような画風だが、自殺していたのだった。とくに現代美術についての説明が親切だった。併催のピカソの版画展もよかった。ピカソの版画と陶器がケルンのルー トヴィヒ美術館に展示されていたのを思い出す。そういえば、今回、海辺の光景を描いて、にょきっと女性の足の一本が逆立ちしている絵が出展されていたTom Wesselmanはルートヴィヒ美術館に"Bathtub 3"という作品があったし、今回、「コーヒーをつぐウェイトレス」という作品が展示されていたGeorge Segalは、やはり、同美術館に"The Restaurant Window 1"という作品があったひとだった。

2013年6月22-23日

  京都ユダヤ思想学会大会のために同志社大学へ。同志社大学の(もともとあった今出川キャンパスのさらに北にある)烏丸キャンパスは初めて。1日目はシンポジウム「論争としての啓蒙」で、ユダヤ教内部にある啓蒙への動向について学ぶ。 ベルリンのユダヤ博物館、シナゴーグ、フランクフルトのユダヤ博物館などの展示をみてきたはずだが、私の理解では、フランス革命前後の啓蒙の時代の影響のもとで、メンデルスゾーンなどがユダヤ教の近代化を行ったというものだが、それだけではない独自の動向があるわけだ。ところで、哲学・倫理学関係の学会だと、委員会、編集委員会などに出なくてはならぬことが多く、この学会だけはただ聴講しているだけで済んでいたのだが、2日目は丸山空大氏の発表の司会。ローゼンツヴァイクの回心譚を見直す新たな動きについての発表で、刺激的だった。

2013年6月9日

  科学研究費基盤研究(B)「世界における終末期の意思決定に関する原理・法・文献の批判的研究とガイドライン作成」(研究代表者:盛永審一郎富山大学医学薬学研究科教授、課題番号23320001)の研究打ち合わせと第1回研究会のため、上智大学へ。朝6時台の電車に乗り、11時からの打ち合わせをして、午後に研究会。帰宅したら時計は0時をまわっていた。しかし、アメリカの終末期医療の研究報告やヨーロッパ人権裁判所の研究報告など、刺激的な研究報告が多く、充実していた。

2013年5月20日

    遅ればせながら、哲学倫理学専修に分属した新2年生の歓迎会。どうもますます年齢差が広がり、共通の話題に乏しいが。学生はそれなりに楽しそうで、会がお開きとなる。2年生だから、アルコールぬき。ウーロン茶、コーラ、ジュースで渇をいやす。

2013年5月19日

  教育後援会、つまり、学生の保護者の方々との懇談の会。大学の教員はあくまで研究者だから、小中高の先生のように生徒の人生や生活に立ち入ることはあまりないのだけれども、近年は研究者然としてそれだけですむわけではない。保護者の方の不安や懸念をうかがっていると、親身になって話している自分に気づく。とうてい十分といえるものではないかもしれないが。

2013年5月18日

      関西倫理学会委員会のために京都女子大学へ。今年の大会のシンポジウム(11月2−3日)のテーマは「ケアと正義」で、私が司会兼コーディネーターのひとりを務める。提題者とのこれまでの折衝を踏まえて具体的なプログラムを提案し、承認される。提題者は、岡野八代同志社大学教授、立山善康徳島文理大学教授、佐藤義之京都大学教授とつぶぞろい。それなりに緊迫感があるシンポジウムになりそうだ。

   委員会のまえに京都市美術館へ。ゴッホ展(19日まで)かリヒテンシュタイン展(6月9日まで)かと迷ったが、ゴッホはアムステルダムのゴッホ美術館でみたものもあるが、リヒテンシュタインは行ったこともないし、これから先も行くことがあるかどうかわからないので、そちらにする。ルーベンスの絵の、青い陰影がうっすらとついている白い肌は、ヨーロッパでみるたびに思うことだが、写真版では十分にわからない。数枚展示されていてありがたかった。

2013年5月11-12日

   日本哲学会のためにお茶の水女子大学へ。九大のムフタル・アブドゥラフマンさんのウイグル哲学についての発表の司会をする。ウイグルの哲学についての研究発表が日本哲学会で行われたのはおそらく初めてだろう。私はウイグルの哲学についてよく知っているわけではないので、どうして私に司会があたったのかわからないが、しかし、他に適任というひともいないのだろう。ムフタル氏の発表は時間の制約もあってユプス・ハス・ハジプの思想の内容に深入りできなかったと受け止めたが、古代ギリシア哲学がアル・ファーラービーを介してウイグルに伝わっていった経緯ということからすると、アリストテレスのアラビア経由での中世ヨーロッパにおける受容かつ変容と、中央アジアにおける受容かつ変容とを比較する研究などもありうるだろう。

   お茶の水女子大学は地下鉄の茗荷谷の近くだが、受験生のころに模擬試験のためにこのあたりに来た記憶がある。跡見女子学園が会場だったか。もう、およそ35年前のことだ。

2013年4月20-21日

   応用哲学会のために南山大学へ。若手の研究報告のなかでは、ヨナスを研究している阪大の戸谷洋志君の発表、それに私が指導している関大の南木喜代恵さんの発表、むかしむかし『週間読書人』に書評を書いた『なぜ、悪いことをしてはいけないのか――Why be moral?』のなかで展開された大庭健・永井均・安彦一恵による論争をとりあげた京大の杉本俊介君の発表などを聞く。この時期としてはだいぶひんやりとした気温だったが、木の芽はもはや初夏のふんいきになっている。

2013年4月16日

    拙稿"Der nicht omnipotente Gott und die menschliche Verantwortung"(「全能ならざる神と人間の責任」)を収録した、ベルリン自由大学ハンス・ヨナス・ツェントルムのDietrich Böhler教授の退官記念論文集Dialog - Reflexion - Verantwortung. Zur Diskussion der Diskurspragmatik (『対話、反省、責任――討議遂行論のディスカッションのために』) Königshausen & Neumannから発行され、手許にとどく。ドイツ語圏の方にも読んでもらえるのがありがたい。寄稿をお誘いいただいたベーラー教授にあらためて感謝する。なにぶん、ドイツ語で論文を書く訓練ができていないものだから、たいへんであり、一昨年に寄稿したあと、しばらくぽっかり穴があいたような気分であった。

2013年3月23日

     私を指導教員としている大学院生4人と遠足。ひとり修了者がいるのでお別れの会でもある。北野天満宮を参詣。紅梅はすでに散っていたが、白梅はまだだいぶ咲いていた。梅苑で香煎と(もなかの皮のような)古典的な煎餅をいただく。

  お茶屋の古い建家の並ぶ上七軒を通って、千本通りに出て、バスで大徳寺へ。寺内に入るまえに大徳寺納豆という食べ物について説明したら、誰も知らない。歩いているうちに、それを売っているお店があったのでみにいく。もちろん、お店のひとが出てきて、大徳寺納豆や昆布や漬物について熱心に説明。試食の結果、買う学生もいるところへ、店先に立っていた私にもお店のひとが「おとうさんもいかがですか」と声をかける。はからずも四人娘の父親になってしまった。父親であるかのように大徳寺納豆を買う。学生のときに実家に買って帰ったところ、あまり評判がよくなく、「関東の者にはわからないのであろう」などと憎まれ口を叩いたが、そう大量に食べるものではない。「無門」とか「小口」とかの和菓子に少しだけ入っている。味のアクセントとして気に入っている。大仙院の石庭を拝観。私は中学三年の修学旅行のさいにここを訪れ、そのときのご住職の尾関宗園師から庭の説明をうかがった。「渡り廊下は人生の壁」という塩辛声の説明が耳に残っている。今回は係のひとの案内をうけたが、宗園師もおられた。学生がサインを頂戴し、ゼミの遠足できたといったのだろう。宗園師から「どちらの大学ですか」と私に問われ、お話しする。40年前に中学生としてお話をうかがったお坊さんと話す機会を得たとは意外なことであった。「命なりけり 小夜の中山」というところであろうか。40年前は鋭鋒のするどさが印象に深く残ったが、今回はその老熟した人格が印象にきざまれた。

  四条木屋町の(女子会向きの)レストランで夕食。下調べによると「おとなのふんいき」という店だったが、どこがそうなのか私にはわからないが(調べたなかには「かわいい系」という店もあった)、昨年10月20日に同じメンバーで食事した、やはり女子会向きの店よりも、学生には「ちゃらちゃらした雰囲気がなくてこっちのほうがいい」という評価だった。それで、「女子」とか「女子力」とはどういうことだろうといった話題になる。まるで、プラトンの対話篇でソクラテスが概念の定義を求めるがごとし――「私が聞いているのは、君、あれこれの『女子』がどういうふうかということではなく、それらの事例に一般に共通する『女子』であるとはどういうことなのか、というまさにそのことなのだよ」。要するに、現今よく存在している(と思われるような)いわゆる「女子」のあいだで調子を合わせることは、生物学的な意味で女子であってもそれに順応しない者、ないしは、順応する気のない者にとってはなかなかむずかしいようである。オジサン、あるいは、偽のおとっつぁんは、「女は女に生まれるのではない。女となるのだ」というボーヴォワールのことばを思い出しつつ、ただ聞いている。八時に散会。修了した学生は、あす、勤務地の東京へ転居する。

2013年3月21日

  修士課程の学位授与式。夕方より予餞会に出席。「予餞会」という名称は、私が大学生のころに使っていたが、今年はどういうわけかそういう名前 で連絡がきた。高校のときに『土佐日記』に、土佐の国人が京に上る(貫之)一行の道中の無事を祈って「馬のはなむけす」という一節があったのを思い出す。「追い出しコンパ」などというよりは雅致があってよいように思う。――で、「がち」でうったら、「雅致」に変換できないことがわかった。「ガチ」なら出るのだが。

2013年3月19日

  卒業式。翌日20日は謝恩会だが、失礼する。謝恩されるほど指導できたかどうか、うたがわしい。

2013年2月26日−3月14日

   ドイツへ出張。

   「北ドイツの真珠」という異名をとる美しい都市Celleに宿泊。といっても、その美しい都市をみるためではなく、近くのBergen-Belsen強制収容所を訪ねるためだ。BergenはCelleからバスで30分ほどの町で、そのBergenの町の中心に近いCellerstraßeというバス停で別のバスに乗り換えて20分ほどいったところにBelsenという集落がある。CelleからLüneburgのあたりは、Heide(荒れ野)が広がり、低木の散在するその荒れ野が自然保護地域になっている。Heideは英語でいえばヒース(heath)で、『嵐が丘』を思い出す。そのハイデをを回る観光客をめあてにしているバスが強制収容所にもまわっているのだが、冬には 便数が減る。そこで、とりあえずは朝の便でBergenまで行ってしまい、Bergenでタクシーに乗ることとする。Googleの地図でタクシー営業所は確認し(便利なものだ)、地図どおりにその地点にいったが……ない!  予想では、2台くらい入る車庫があって、1台は出ていて、もう1台に運転手がたばこをふかしながら客待ちしているといった風景があるはずだったが、そもそも2台入る車庫のある家がなく、 タクシー営業所だという看板もない。しかたなく、にぎやかな通りのほうに出てみたが、Googleの地図は正確で、タクシーの溜まり場はみあたらない。さいわい、道の向こう側に電話ボックスがみつかる。先ほど探していたタクシー営業所に電話するが、話し中。もうひとつ、これからいくBelsenのタクシー営業所の電話番号を控えていたのでかけてみる。さいわい通じる。「タクシー 1台頼みたい。BergenのCellerstraßeのバス停に立っています」というと、5分くらいで行くという。

  ナチスはこのハイデに目をつけて、そこで暮らしていた農家に強制移動させて、巨大な兵舎を作った。その関連で、あとから強制収容所ができたのだ。今は、兵舎の跡にイギリス軍の駐屯地がある。だから、Belsenの町でも、強制収容所でも、ひっきりなしに大砲の音や機関銃の音が聞こえてくる。タクシーで通り過ぎたその駐屯地の門には、どういう効果を狙っているかわからぬが、戦車が展示品のように置いてあった。

   Bergen-Belsenは、敵国に在住しているドイツ人と交換するための捕虜としてユダヤ人を収容したところだった。その捕虜たちは他の強制収容所と比べてまだしもよい環境にあった。とはいえ、戦局が進むと、栄養状態、衛生状態を保つことはできず、結局は、他の強制収容所と同じ く栄養失調と腸チフスその他の伝染病が蔓延する悲惨な状態に陥る。交換捕虜とは別に、ソ連の捕虜が大量に収容され、強制労働を課された。さらに、ドイツが占領した地域、とくにポーランドやデンマーク等々ヨーロッパ各地から人びとが連行されて、強制労働をさせられたのだ。それには、ここがHamburgに近く、企業との連携がとりやすかったからでもあった。同じ強制労働でも、ソ連からの人間は「一段下の人間」とみなされていて、もともと栄養状態、衛生状態が悪かった。どうして また、そう差別が幾重にもつみ重なるのだろう。敗戦が迫ると、強制収容所は放置状態のようになり、カニバリズムもあったようである。

   戦争が終わっても、連行されてきた人びとは住まいを初め、資産をすべて奪われてきたのだから、もとに戻ることはできない。ドイツに住んでいたユダヤ人は、アーリア化で財産を奪い、生命も奪うつもりだったその国に帰りたい思いがするはずもない。 パレスチナへの移住は、イスラエルが建国されてからはしやすくなったが、北米、南米を希望するひともいた。ポーランドからはワルシャワ蜂起に関わった市民も多く連行されてきたのだが、ポーランド人の3分の1はソ連支配下の祖国に帰るのを拒み、北米に向かおうとした。したがって、強制収容所が解放されたあとも50年代まで、Displaced People Campとして、Bergen-Belsenは機能するのである。移住の希望がかなうかどうかは、その国が労働力を欲しているかどうかに関わっており、強制労働と自由労働の大きな違いはあるにしても、結局は、人間は労働力としてしか評価されないのだろうかという思いを強くする。

  ここにはアンネ・フランクの墓――といわれているが、正確には記念碑であろう。墓石ともみえる石がいくつも散在しているあたりには、「ここは墓ではなく、記念するための場である」という掲示があったから――がある。強制収容所のバラックは撤去され、 切り開かれた平面のかなたには白樺の林が広がっている。その向こうで、ひっきりなしに、大砲の音と機関銃の音がしている。

  帰りは強制収容所からBergenまでバスに乗る。Celleの町のInformationの女性は「強制収容所からCelleまで通しの切符は、バスの運転手から買うべし」と教えたが、運転手に聞くと「私にはわからない」と答える。驚いて問いなおすと、強制収容所からBergenまでは無料だったのだ。客は私ひとり。Cellerstraßeで下りるときに「どうもありがとう。無料だとは予想していなかった」というと、一緒に下りてきて、「うんうん。おれはそこのカフェでコーヒーを一杯やって帰るんだ」という。Celle行きがくるまえに、その運転手はカフェから出てきてバスに乗り込み、私の立っているバス停の前を通りすぎるから、手をふったら、むこうも手を振ってこたえた。

* * *

   Celleの町のSynagoge(ユダヤ教の教会)は一般に公開されていると知って訪ねてみた。念のため「私は研究者でユダヤ人ではないが、中をみて かまいませんか」と許可をとる。写真撮影も許される。ところが、「これをかぶってくれ」と黒いKöppchen(帽子)をわたされる。Berlinや(ポーランドの)KrakowでもSynagogeに入ったこと があるが、神への敬意をあらわすための帽子をわたされたのは初めて。それをかぶって、トーラーの前にいき、祭壇を撮影する。Displaced People Campのユダヤ人とCelle市民との関わりを記した本を購入。

   斎藤茂吉の随筆に、Synagogeに入って、思わずキリスト教会のように帽子をとったら、「ここでは帽子をとらなくていいのです」と注意され、「なるほどユダヤ教の教会だった。帽子をとったのは滑稽だった」と述懐する文章があった。しかし、茂吉の場合も、ユダヤ帽をかぶったとは書いていない。これはまた、貴重な経験をしたものだ。

   Synagogeにいく途中にHonig Institut(蜂蜜研究所)を発見。ハイデ(荒れ野)で可能な貴重な産業として蜂蜜の最終があるのだ。Bohmann Museumでハイデの暮らし、それからそこが兵舎になり、強制収容所になった歴史をしらべる。

* * *

   Hamburgに移動し、霧の深い朝、Neuengamme強制収容所を訪ねる。Hamburg中央駅からStadt-Bahn(近郊電車)でBergedorfまでいき、そこからバスに乗る。Bergedorfは直訳すると「山村」だが、大都市近郊の住宅地であった。強制収容所は蛇行しているElbe川の内側なので、その圏内に通用する1枚の切符で電車とバスを乗り継げる。ドイツのこのシステムはありがたい。 バスはしばらくすると牧草地のなかを走る。牧草地の向こうに川が走っているらしい地形にみえるが、霧が深くて見通せない。ドイツにもかやぶき屋根があるのだなあ。ふるい農家をいくつかみる。

   ここはいっそうHamburgに近いので、強制労働が大規模に行われた。河川の運河化、建築、兵器工場、時計工場、 縫製工場、空襲が始まってからは破壊された町の片付け(不発弾の爆発で多くの捕虜がなくなった)等々。 どこの国から、どれほどのひとがl強制労働のために連行されてきて、なんという企業のもとで、どのような労働に関わったかが記されている。ドイツのこういう点を、私は信頼する。占領した国の市民を強制労働にかりだしたドイツが、今、EUの最も中心にいるようになったのは、たんに経済力だけではなく、第二次大戦での行動にたいする反省の姿勢を、近隣諸国が受容するほどに、明確にしているからだろう。

   加害者であった側の国の政治家が被害者であった国にむかって「未来志向でやっていきましょう」などといっているそのあつかましさにあらためて寒心させられる。

* * *

   Kölnに移動。ここでは、近郊にあるJonasの生地Mönchengladbachの市立図書館、KölnのNeumarktにあるドイツ語によるユダヤ関係文献のコレクションがある中央図書館、それに、2007−8年に一年だけ客員研究員だったKöln大学の図書館などで、資料を探し、コピーをとり、閲覧し、幸福な時間をすごす。――しみじみとうれしい。ほんとうに――。なんだか、ドイツに出張しているあいだだけ、学者でいられるような気がしてくる。日本の大学では、学者でなく、たんに教育をするひとになってしまいそうだ。

* * *

   今回、Kölnで泊まったのは、Köln在住時にその前をとおる たびにその看板をみてなんとなく失笑がもれたホテル、Hotel Eliteであった。しかも、予約したときに、正式名称を知った。Hotel Elite an der Universität(大学のそばのエリートホテル)だったのだ! チェックアウトする朝に、受付に下りていくと、アジア人の二人連れの若い女性客が"Good morning!"と声をかけた。こちらも"Guten Morgen!"とドイツ語で答えそうなところをあわてて英語で返す。受付のはげ頭のじょうきげんのおじさんがチェックアウトに手間取るあいだに横からみていると、この二人連れは町の地図をみつめて思案中だ。おそらく、おじさんに観光の相談をしていたのだろう。そこで、”I recommend you to visit Schnütgen Museum!"と声をかけると、若い娘らしく”Thank you!"と高く声をあげて、どこだどこだと地図を探す。Museum LudwigとWallraf-Richarz Museumも勧めておく。「Dom(大聖堂)はどうか」と尋ねるから、「もちろん、ドームは見る価値がある。しかし、Museum LudwigとWallraf-Richarz Museumはドームの近くだ。ただ、月曜日は美術館や博物館は閉まっている」と答える。おそらく、きょうはドーム見物だけにするだろうと推測する。"Where do you come from?"と尋ねてみる(英語で尋ねて、相手が日本人だったらお笑いぐさだ)。Koreaだと答える。最近の韓国の若い人には漢字が苦手なひともいると聞いたから、”Do you understand Chinese letters?”と聞くと、"Of course!"というので、Schnütgenに「中世美術」、Wallraf-Richarzに「中世〜近代美術」、Ludwigに「近代〜現代美術」と書き添えたら、喜んでいた。ついでに、「ライン河畔には、Chocolate Museumもあるよ」というと、若い女性のことだから、それは、もちろん、先刻ご承知であった。そんなやりとりを聞いていた受付のおじさんが”Super! Hotel Elite is international!"と歓声をあげた。

* * *

   12日にFrankfurtから発つつもりが、ものすごい雪で空港閉鎖。乗るべき飛行機はヘルシンキに行ってしまった。あいにく、Frankfurtで見本市でもあるのか、この時期、ホテル代が3倍近くあがっているのは出発前から把握していた。当然、部屋はない。そこで空港で一泊する。

   初めてのドイツ旅行のときにロスト・バゲッジの目にあった。ドイツで最初にしたことは荷物紛失のクレームをすることだった。クレーム受付係の女性は「すみません」という意味のことばを使わなかった。さらに、突如、立ち上がって、私の背後にむかって怒鳴った。私の次のお客(当然、このひともロスト・バゲッジのためにきたのである)が次の順番の客が止まるべき場所に止まらなかったのを注意したのだった。怒鳴られたのは白人の男性だったが、もごもごいって所定の場所にもどった。(きついなあ)と私は感じた。しかし、考えてみれば、荷物を乗り継ぎ便にのせそこねたのは航空会社(そのときはルフトハンザ)で、クレーム係はベルリンのテーゲル空港のスタッフなのだから、クレーム係には、ロスト・バゲッジについてあやまる責任もないし、権限もないわけだ。だから、クレーム係があやまらなかったのは正しい。最後に、「あなたのドイツ語の 発音はいい」と用件以外のことばもいってくれたので、別段、不機嫌だったわけではなかったのだろう。

   今回の航空会社は日本航空。地上業務員の日本人女性が開口一番、「申し訳ございません」と謝罪し、その後もこのことばをくりかえす。(あなたが雪を降らせたわけではないでしょうに)と思ったが、口に出してまではいわなかった。日本の対応はそういうものだからだ。けれども、 ドイツの感覚からすれば、責任のないことについて謝罪するのはおかしくないだろうか。

* * *

  12日から始まったコンクラーベ のようすがテレビニュースに映し出される。空港のラウンジでDie Welt紙の解説記事を読む。   

「今回のコンクラーベは45カ国115名の枢機卿が選挙権者で、必ずしも信仰の内容によらない諸グループからなる。(1)外交派と呼ばれるバチカンの管理統制スタッフ(官僚)の集団。85歳のAngelo Sadonoを中心として、アルゼンチンのLeonardo Sandriを推す。(2)Betrone派。前教皇のときのStaatssekretär(バチカン教会=バチカン王国でもあるので、王国としてのバチカンの教皇の地位に次ぐひとだろう)のFerciso Bertoneを中心とする。(3)前教皇派。退位した教皇には選挙権はないが、退位した教皇は半数以上の枢機卿の指示を受けていたから力がある。ミラノの大司教Angelo Scolaを推す。(4)イタリア大僧正の集団。イタリアは南北に別れ、今は南では人心が離れ気味で、北のほうが力がある。Scolaに共感。(5)Opus Dei(「神の御業」という名だろう)派。保守的な平信徒(Laien)に支持され、スペイン、アメリカ、ラテンアメリカに基盤。(6)スピリチュアル運動派。チリの枢機卿Ossaを中心とし、Commune e Liberazione(「共同体と解放(自由化)」のグループ。(7)その他、伝統的な宗派の代表として、サレジオ会4名、フランシスコ会3名、ドミニコ会2名、イエズス会1名」。

  ラウンジのテレビでは、第1回の投票ではきまらず、黒い煙があがったのをみたまで。

  結局、官僚派と改革派のどちらも多数を得られず、第三の候補の新教皇が決まったのは夜7時ごろだったとあとから知る。ということは、遅れに遅れた出発が午後4時ごろだったから、新教皇が決まったころに、私はヨーロッパにいたことになる のだろう。上の記事には、選出されたアルゼンチンの枢機卿Bergorioの名はなかった。

  ちなみに、フランシスコ会はドイツ語ではFranziskanerで、同じ銘柄のビールがある。修道士の絵がビンやカンについていて、私もよく飲んだ。

* * *

  資料を入れた重いリュックを背負って歩き回ったので、腰が痛くなりかけていたところへ、1日空港で出発待ちをして、それから11時間のフライトはきつい。成田に着いたが、到着時間が伊丹への連絡の悪い時間帯だったので、羽田へまわる。羽田にきたのは、小学校3年生のときの遠足以来である。あのとき、自分が飛行機に乗って外国に行くとは想像していなかった。家族のなかに海外旅行の経験者もいなかったし、まだそういう時代ではなかった 。なによりそういう人生が自分に待ち受けていると思い描くほど夢のある子どもではなかったのである。  

2013年2月19日

   今度は修士論文の試問。私の指導する学生が、400字詰め100枚程度がふつうのところ、400枚ほど書いてくる。分量から言えば博士論文である。もう少し削れば削れたのだが、いろいろな論点をいちから書き記したために、その分量となる。こちらもそれに併走して添削していたのだから、なんだかこちらのほうも一仕事終えたような気分となる。

2013年2月15-16日

   卒業論文の試問。24本の論文を読んで、試問に立ち会う。

   今年、急にそうなったというわけではないが、2−3人、「欧米の個人主義」という表現を無造作に、かつ批判的に使っているのに耳をそばだてた。日本の社会はこれから個人を大切にしなくてはならないといったふんいきは鳴りをひそめてしまったのだろうか。別段、ネトウヨのような主張を書いてきたわけではないけれども、ある表現が無造作に語られるようになるということに社会の流れが反映しているのだろう。その時期を生きているときにはわからないが、あとから考えて、あのへんが曲がり角だったなあというような時期にさしかかっているのかもしれない。

2013年2月1−8日

  入学試験の監督。一日がかりで行い、ひとつの科目の試験時間は長ければ100分、短ければ60分である。監督とは、受験生が問題を解いているのをひたすらみている作業である。途中でトイレにいきたい受験生がいれば、受験生が無言のうちに挙手する。試験は静粛のうちに進められなくてはならないから、まちがっても、「せんせい、うんこ」などと 口に出してはならない。監督者が確認し、つきそっていったん退室する。手をあげるひとがだれもいないことも多いけれども、いつ、だれが手をあげるかわからない。その他、えんぴつや消しゴムがころがったり、受験票が落ちたりすれば、監督者が拾う。これも、いつ、どこで起きるかわからない。だから、こちらもずっと緊張しているわけである。

  入試は対外的に最も気をつかう行事だから、監督要領はきちんとできている。大きな地震が起きたら、受験生に机の下にもぐりこむように指示し、そのさい、地震で試験を中断した時刻を確認し、地震のゆれがおさまって再開したときには、その時刻も確認し、どちらも記録せよ、というふうに――。ただし、「問題用紙のページ数は 何ページ、大問数は何問です」という箇所があって、私は「大問数」以下を「大きな問題のかずは何問です」と言い換えている。字で読めばわかるが、音で聞いて「ダイモン」でわかるかしらと思うからだ。古代ギリシア哲学を勉強したいと思っている受験生なら、「私にもひとりのダイモーンがついています」と思うかもしれないし、やくざ映画が好きな受験生なら、「代紋ならひとつにきまっとるやんけ」と思うかもしれない。もっとも、これは試験問題に落丁がないかの確認をうながすための説明だから、実際には「ダイモン」がなんだかわからなくても、ページを確認すれば用は足りるのである。だから、私の配慮に意味があるとも思われない。

  受験票の写真と実物とを照合する作業については、以前は「毎時間、目をかえてください」と指示された。これは、1時間目は右目で見て、2時間目は左目で見るといった、視力検査のような作業を求めていたのではなかった。別の人間が確認しろという意味である。数年前から、こちらのほうは明確な表現で伝えられるように改善されている。

2013年2月5日

  日本では、「純粋」が「幼稚」と区別されていないのではないかと、おととい、書いた。しかし、それなら、日本で「おとなになる」ということはどういう意味なのか、という点も疑わしく思えてきた。どうも、「自分で考える」ということよりも「周囲にあわせる」「自分に期待されている役割をふんいきから読みとる」ということが「おとなの反応」と思われているのではないかしらん。ということは、純粋だろうが純粋でなかろうが、日本では、おとなもまた「幼い」のではないだろうか。

  辞任した柔道の監督がみるからにマッチョタイプなのではなくて、なんだかキューピー人形を思わせるような、おそらく「組織の内部ではまじめに」勤めているであろうひとらしい顔立ちだったのが意外なような、しかしまた、奇妙に納得してしまうような。むろん、そのひとだけの問題ではないだろうから、この特定のひとのことをあげつらっているわけではない。擁護論でもむろんない。「」の箇所に「」がついているのは、日本の社会一般にむけたアイロニーである。

2013年2月3日

  大阪の桜宮高校その他の部活動、オリンピックの柔道の強化合宿での「体罰」が問題になっているところへ、AKB48の峯岸みなみというメンバーが男性の家に宿泊したと週刊誌で報道されて髪を丸めて謝罪した件がむすびついて、あれこれと論議されている。二つのことに関連があるのか、あるとすればどこか――スポーツについても 芸能についてもくわしくないからわかりもしないが、2007年にドイツにいたときに読んだ、北京オリンピックへのボイコットが論じられていたときの新聞記事を思い出した。当時、中国政府のチベットにたいする政策が人権蹂躙であるというので、オリンピックのボイコットが提案されていた。出場する予定のドイツの選手のなかに、

スポーツよりも人権のほうが重要だから、私はボイコットに反対ではありません。

という意見を述べたひとがいた。中国政府のチベット政策を人権蹂躙とみるかどうかという政治的判断に賛成するか反対するかは別として、私はそのひとに、スポーツマン/スポーツウーマンであるまえに、ひとりの独立した考えをもつ人間を感じた。

   これにたいして、日本ならば、「せっかく厳しい練習を積んできたのに、出場できないのはかわいそうだ」とか「政治とスポーツを切り分けろ」といった意見が「正論」のように流通するだろうと思われた。こうした意見が「正論」のように流通するのは、

スポーツ選手はスポーツだけ考えていればいい。

という発想が裏にあるからではないか。しかし、そろそろ成年に達しつつある青年や、すでに成人となった人間がスポーツしか考えられないなら、それは幼稚ということである。どうも、日本では、ひとつのことに打ち込む「純粋」さと、ほかのことは考えられない「幼稚」さをとりちがえる傾向があるのではないかしらん。

   それなりの年齢になった女性に、その仕事の関係から恋愛を禁じるというのは、「幼さ」をうりにしているからだろう。芸能ビジネスの話にすぎないから、「幼さ」をうりにしていることそれ自体が、ただちにその本人の人権を無視したことにはならないし、そういう問題としてうけとめようとも思わないが、「純粋」と「幼稚」とをとりちがえるような風潮は不快である。

2013年1月23日

   秋学期の正規の授業が終了、定期試験を残すのみとなった。この学期は、同僚が病気で倒れ、その授業の代替をしたためにだいぶくたびれた。8.5コマ(0.5というのは学期の半分を担当したもの)が 自分ひとりで担当する授業で、ほかに1コマ、3分の1くらいは自分で授業をしてその他の時間はコーディネーターとしてつねに臨席している授業があり、さらにまたリレー授業がひとつ、 それに加えて、卒論、修論についての面談やメールによる指導があったわけだ。私立大学では、えてして研究者ではなくて、もっぱら教育者にならざるをえない。

     自分の担当している授業の最終週に授業アンケートを行う。いわゆるE-learning(大学のサーバーにインターネットを介してアクセスしてテストを受けたり、レポートを出したりするシステム)で、毎回、復習の小テストをしている。ところが、思いのほか、「毎週の復習テストで自分の理解度がわかった」とか「まとめになってよかった」という感想が多い。全体に、大学生はまじめになっているのだが、毎回のテストに好意的な学生が増えているというのはおどろき。改善点は「板書の字をもっときれいに」という指摘が多い。それなら、もう、パワーポイントで説明しようかと考えていたら、「パワーポイントはやめてほしい。書き写す時間が足りない。板書がいい」という声もあり。要するに、丁寧に板書すればいいわけだが、時間に追われてどうしてもそうならない。

2013年1月19日

   第19回関西大学生命倫理研究会を開催。ふたりの大学院生の発表のあとに、アウシュヴィッツ博物館のDVDをみる。きょうはセンター試験。アウシュヴィッツ博物館のDVDめあてで多くのひとが来ても困るので情報をまわさなかったせいか、参加者は少ない。私がとった写真も写す。実際にアウシュヴィッツに行ったことのあるひとが3名来ていて意外。

2013年1月12日

   科学研究費基盤研究(B)「世界における終末期の意思決定に関する原理・法・文献の批判的研究とガイドライン作成」(研究代表者盛永審一郎富山大学大学院教授)の一環としてAlbin Eser教授の講演会"Sterbehilfe und Suizidbeihilfe im Licht der neueren Rechtsprechung"「新たな判例からみた臨死介助と自殺幇助」に出席するために、早稲田大学へ。

   ドイツでは、後見(Vormundschaft)裁判所が世話(Betreuung)裁判所と名前を変えたという経緯に、「後見とは、英語でいえば、advocacyで、本人自身の主張や意向がはっきりあって、それを法律的な手続きにしたがって代弁するという意味だろうが、そういう能力も失われかけた認知症の方などが増えてきたから、世話という概念を使うのだろうか」と考えて、その点を質問すると、そうではないようで、後見という発想が後見される人間を一人前ではないようにみなしてしまうニュアンスがあるためだという。だとすれば、世話されるひとはそれなりに対応能力がある、あるいは、かつてあったとすればそのあったことを強調する方向で解釈しなくてはならないわけで、私の推測はちがっていたことがわかる。私には、対応能力を失ったひとについてもケア(世話)しつづけなくてはならないという発想があるから、そう推測してしまったのだ。

   私の若い頃に、早稲田通りに「音楽喫茶らんぶる」というたいへん古めかしい建物があって記憶に残っていた。今、まわりを囲って工事中。補強工事か、それとも、とりこわしになるのか。そういえば、京都大学の近くにも、私の学生時代に、「名曲喫茶らんぶる」というのがあった。こちらは味もそっけもない建物で、もうとっくに店は代替わりしている。

2013年1月1日

   実家で正月を迎える。雑煮、お供え、例年のごとく。午後、私にとっての産土神(うぶすなかみ)である何がし神社に参詣。驚いたことに、長蛇の列。私の子どものころには、まわりに家がなかった。鳥居の両脇の杉の太い根が空洞にでもなっていたのか、そのうえでとびはねると太く響く音がしたものだった。杉もだいぶ枯れてしまった。まわりは平たく整地され、どこまでも同じ調子で住宅地が続いている。 ほんのわずかに残っている畑は、針金をめぐりわたして囲われ、市の名前のついた「生産緑地」という看板が立っている。 みれば畑だとわかり、勝手に入ってはいけないと思いそうなものだが、畑というものが、所有者のいない、誰でも足を踏みいれることのできる自然ではなくて、商品となるものを現に生産しつつある誰かの所有物であるのだと宣言するごとし。

   お札を売っているひとたちのなかに地元の知り合いを見出し、ご挨拶。昔は農家の親爺さんたちが酒を飲みながら一杯機嫌で対応していたものだが、今はそんなことはなく、皆、(見た目は)しらふのようで、むしろ、甘酒を参拝客にふるまっている。まあ、当然といえば当然だ。昼も小暗い鎮守の森は滑り台のある小公園となり、かつてはなかった獅子舞やお囃子があたかも昔からそうであったかのように伝統芸能然として境内で披露され、参拝客のなかにはかつてこのあたりでは聞かれなかった地方のことばが聞きとれ、昨年行った海外旅行の話などをしており、 畑は生産緑地と化し、そうするなかで、集落の親爺たちはコミュニティの有志となったのだろう。

 

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