往ったり、来たり、立ったり、座ったり

 

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2006年12月26-27日

  京都生命倫理研究会(科研費研究「生命の尊厳をめぐるアメリカ対ヨーロッパの対立状況と対立克服のための方法論的研究」代表盛永審一郎、科研費研究「子どもの医療をめぐる法的・倫理的諸問題についての比較法制研究代表横野恵、と共催)でヘルガ・クーゼの『生命の神聖性説批判』の書評。司会は加藤尚武氏で、水野俊誠氏、坂井昭宏氏と私がコメントをする。この本については8月に週間読書人で書評した。私のコメントはだいたいそれが基本だが、せっかくだから、きょうのレジュメを そのページにも載せておこう。

  関西大学の大学院生ふたりがきてくれてありがたい。私が学部生、大学院生のころ、精力的な研究会が開かれていて、わからぬながらに聴きにいった。ここ3年間の私自身の多忙から、関大生命倫理研究会を開けないでいる。学外の研究会に積極的に参加してほしいところだ。

 

2006年12月18-21日

  東京大学で集中講義をおこなう。

  人文社会系研究科・文学部向けの「応用倫理」という授業科目群のなかの「生命倫理特殊講義」で、18日は13:10-18:30、19-21日は10:20-18:30。東大の講義時間 は1時間40分。始業と終業にチャイムが鳴らないのがいいね。いかにも、大学の授業という感じ。

  プリントを教務で刷ってもらおうとしたら、「非常勤講師を受け入れた研究室で刷ってくれ」とのこと。研究室が閉まっていたから頼むのだが、各コピー機が部署に分属していて予算費目 上の垣根があるようだ。とうとう「あちらで相談してください」といわれて、研究支援課にいくと、あっさり事務室のコピー機でコピーさせてくれた。さすが官僚の総本山。

  いちょうが色づいていて美しい。授業をした113教室からは、永井龍男の小説「いてふの町」に出てくるコンドル博士の像がみえる。

  通りすがりに麟祥院というお寺に入ってみ た。ここは春日局ゆかりのお寺だった。墓石の真ん中に丸く穴をあけてある。日陰のためか幾日かまえに降った雨を含んで土が黒々としている。ぬめっこいが、中身がつまってかたい関東ローム層の土。そこへ乾いた、ほこりっぽい風が枯葉を運んでくる。木陰に咲く椿の花。多摩丘陵の一角に生まれた私にはなつかしい冬のたたずまいだ。湯島にかけて、ところどころにあるせんべいや栗蒸しようかんを売る店もなつかしい。

 

 

2006年12月13日

  学校インターンシップの事後報告会。教職志望者ではない学生の報告が数例あり、学校インターンシップを体験して「自分は教えるのではなく、子どもと遊びたいだけなのでは」と思い、教員志望を考え直したという学生も一例あり。そうなのだよなあ。特色GPのような競争的資金では、何か数値にあらわれる達成度(学校インターンシップなら、この体験者の教員採用率の向上など)がもとめられている圧力を感じるのだが、もともと、この取組の目的は、学生が年少者に接することでおとなになること、広い意味でキャリアデザインを考えるきっかけになることだったのだ。それに、教員養成に特化した取組で、ほんとうに教員に適した人物が育つか、も疑問。そのあたりを来年1月15日の特色GPシンポジウムで議論する予定だ。

 

2006年12月6日

  1年生に専修の内容を伝える授業「学びの扉」のなかで、卒業生ふたりに話してもらう。哲学倫理学、比較宗教学を学んだ元学生だが、ひとりは製造業、ひとりは銀行に就職しているから、経済の情勢にも言がおよぶ。「働く」ことの意味をとらえなおしているところが、哲学科の卒業生らしいところ。「資格だけ頼りにしているひとを、企業は望んでいない」「自分自身を商品として押し出せなくては」「就職活動は人生で最初の営業」といったメッセージに、受講した学生はショックをうけたようす。

  昨今の大学は、学生の「付加価値」を要請されているが、付加価値ときけば資格や語学の話になる傾向をみると、大学自身が学生といっしょに、大学のつけうる付加価値について近視眼的な見当ちがいをしているのではないか、と思う。大学(教員)と学生が同じ近視眼的なあやまちをおかしているとすれば、どちらもガッコウの外の社会を知らないために、社会が要請するものについて誤った憶測をしてしまっているのだろう。実際には、大学ですべきことをきっちりできた学生は、就職後に必要な知識を仕事をしながら身につけていき、対応していけるものなのだ。その対応能力の一部は、(「大学で学ぶことは役に立たない」と考える大方のひとびとの予想に反して)テクストをきっちり読んだり、自分の考えを論文に組み立てたりする作業のなかでやしなわれていくもののようだ。

 

2006年12月1日

  文献資料を集めに東京に出かけた博士前期課程の院生、春風道人が、おみやげに漱石原稿(県立神奈川近代文学館)と二松学舎大学漢詩コンクール入賞作品集をもってきてくれる。漱石の原稿用紙に何を書くべきや? 後者は、高校生の漢詩人に感心。 「読書す 居室の裏」などという句をみて、鉄筋コンクリのマンションで書いたのかなあ、などと考えてしまう。 

 そういえば、私も会議でうんざりしているときに、王維の「空山 人を見ず 但だ人語の響きを聞くのみ」にはじまる絶句を思い出して、気をまぎらせていたことがあった。 作れといわれたら「滋養強壮養命酒」みたいな句しか思いつかないが。

 

2006年11月29日

  この九月に学内の審議にかけた「研究倫理規準」が、紆余曲折をへてだいぶ平俗な文に変更されて教授会の審議にかけられる。なんだか、根拠になる観念と項目とのつながりが薄れてしまい、努力目標のようなものを箇条書きにしたものになっている。しかし、こうした文章こそが関係者一同に「わかりやすい」倫理規準だというわけであろう。 他大学のを調べていたときも、「どうしてこの概念が使われ、この条項がここにあるのだろう」と不審に思ったことがある。複数の意見でつっつきまわされた結果だろう。さもあらばあれ、 学内行政にもう関わらなくてよいことをありがたく思う。

 

2006年11月21日

  慶應義塾大学と共立薬科大学との統合のニュース。関学と聖和大のときは建学の理念の共有という前提があったが、今回の統合は共通の利益を純然たる理由とした最初の私大統合かもしれない。他の大学と足並みをそろえる程度のことを気にかけ、実際には孤立している大学は、おいおい、さきゆきが難しいことになってゆくだろう。企業でも自治体でも、同じことだろうが。

  研究室の窓の外のさくら、すっかり色づく。花のころもよいが、紅葉もよい。木々が多いキャンパスなので、鳥があつまってくる。ひよどりの高い声に秋を感じる。

 

2006年11月9日

  佛教大学の平成17年度教員養成GP総括シンポジウム「未来を拓く教育のあり方と人間づくり」にコメンテイターとして出席。報告のあと、山田啓二京都府知事、門川大作京都市教育長、Michael Omizoハワイ大学教授と私とがコメントする。小学校教員と大学教員が協力して授業を組み立て、学生もそこに入り、発案するという画期的な試み。教職科目の担当教員に、学校現場にくわしいスタッフをそろえているからこそできる試みだろう。私が取組責任者をつとめている関西大学の特色GPの学校インターンシップは、まあこれとくらべれば、教職志望者だけを対象にしているわけではないので、大人数を派遣できるかわりに、わきがあまいところがある。

 

2006年11月8日

   日本学生支援機構平成18年度「大学等の地域的な連携を促進する事業 支部における学生生活支援プログラム」シンポジウム「学校インターンシップの意義ともたらす効果」(日本学生支援機構・大学コンソーシアム大阪共催)が大阪大学中之島センター佐治敬三ホールで開かれ、13:15-14:15に「学校インターンシップ 学生・学校・大学にとってのメリット」と題して講演。その後、パネルディスカッションのパネリストをつとめる。大学コンソーシアム、学校・園、教育委員会、学生の報告もあり、なかなか充実。この取組を今年から始めた大学が、府内に2校ありと聞く。

 

2006年11月6日

  熊本から長崎にまわり(もちろん私費でござるよ)、品川の家の墓地の掃除。とはいえ、長崎に住んでいたのは江戸時代のことで、埋葬されているひとも、父を除いて私とは血のつながりがないのだが、不思議な縁で、現在、私が世話をしているわけだ。江戸時代のころに姻戚関係のあった 某家の墓地とひとつの区画をなしているのだが、私と連名でこの墓地を借りていた方も、一昨年、亡くなってしまわれた。 某家の跡継ぎがなかったところへ品川の家の者が養子に入り、品川の家の跡継ぎがなかったところを某家が夫婦養子を迎えて品川を継がせたりというふうに、江戸時代から、両家とも、どうも繁殖力の弱い家系らしい。草むしりをして、ふだん使っていない筋肉、いたし。

  長崎の市電が20年くらいまえからずっと100円なのに感心。 だが、気に入りのちゃんぽんの店は狭くなり、小じゃれた装いになり、マンションはますます増え、この街も変わりつつある。

 

2006年11月3-5日

  関西倫理学会大会(4-5日)のため熊本大学へ。熊本は始めて。熊本城を散策。加藤清正というのは優れた内政家でもあったのだなあ。城中、井戸多く、井戸掘りは地質を調べるボーリングを兼ねた由。ヴュルツブルクのマリーエンブルク要塞の深さ100メートルの井戸にはおよばぬが、40メートルの井戸もあり。加藤神社をまわって、坪井町の漱石の旧居をたずねる。からくり人形の漱石(右手に筆、左手は猫の上)には恐れ入ったが、庭も広いし、けっこうな借家だ。上通に舒文堂という品揃えのよい古本屋をみつける。水前寺公園と江津湖(漱石がめでたという。ここで行われたボートレースにも参加した由。学生時代の回顧に「勉強せずに、腕押しなどしてあばれていた」とあるが、意外にスポーツ好きだったのだ)をみる。市内にこうした水辺がある町はうらやましい。  

  学会は二日続けて、早朝一番の司会。なかなか聞き応えのある発表あり。一方、勉強はしていることはわかったけれども、何か大枠の問題設定が見当はずれのような感じのする発表もあり。シンポジウム「サンクションの正当化と限界」は委員のひとりとして提題にかかわったが、時間の制約上しかたないけれども、もう少し、サンクションの正当化根拠につっこんだ論争を進めたかった。

 

2006年10月31日

  出張講義で神戸市立夢野台高校へ。春に2年、今度は3年が対象。総合学習の時間だけれど、体育のあとでは、つらいでしょうね。

    私自身のダブルブッキングのせいで出られなくなったが、ひょっとするとと思い、11月8日の日本学生支援機構の学校インターンシップに関するシンポジウムの打ち合わせにかけつけるが、散会のあと。意見は事前に通じているので問題はないのだろう 。いろいろ面倒ありて、広報がいきわたらぬが・・・。天神橋筋で少酌。

 

2006年10月25日

  医の倫理についての非常勤の授業(13:30-21:00)、きょうで終わり。急いで資料を作ったものだから、スキャナで読み込んで作成したプリントには誤植が多い。「凰臥」とあるので何だろうと思ったが、これは「思想、」を読み間違えたのだ。「思想」が「鳳凰の臥せっている姿」だとは、ずいぶん気のきいた読み違え。一方、「患者」を「愚者」と読んだものすごい読み違えもあった。

 

2006年10月22日

  関西哲学会のシンポジウム「倫理と現実」の特定質問者にあてられているので、神戸大学へ。昨年は、日本倫理学会が「倫理学の現実(リアリティ)」を題目にして開かれた。学会がちがうから、論点が連続して深まっていくということは期待できないが、討議による決定プロセスの暴力性をついた報告、徳倫理にも理論が必要だという報告などに刺激をえた。

 

2006年10月18日

  学校インターンシップの事後報告会。特色GPの取組責任者の任務はまだ続いているので、例のごとくあいさつと報告。ところが、そのあと、これまでにまして熱のこもった学生の報告があいつぎ、40分を超過する。時間のよみちがい で、聞く側にも報告する側にもめいわくをおかけした。受け入れる学校・園も、学校・園全体で学生を受け入れてくださる態勢をととのえているところが増えてきた。

 

2006年10月16日

  修士論文題目提出の締切日。漱石をこよなく愛する春風道人の出陣祝いを兼ねて、漢文に長じた新進気鋭の博士、應草堂庵主をまじえて一献する。文人たちの集まりのはずだったが、歌仙を巻く才もみせず、秋の夜長をちゃんこ鍋でお酒を飲んだというのでは、取的の会合さながらだ。

 

2006年10月11日

  先週と同様、1コマを行って、13:30-21:00に別の場所で授業。きょうはその合間に会議が入る。委員会の引き継ぎで、これまで3年間のその仕事の理念や内容を説明した。何人かは熱心に聴いてくださったが、パワーポイントに背をむけていたり、うつろな視線を泳がせていたりといった委員もいて、忙しいさなか、 するまでもなかった。なんだか、やる気もなければ、能力もない学生を相手にしているときのような 、ドイツ語にいうtruebな気分。専門学校の授業のほうは、学生が熱心に聴いてくれた。heiterな気分をとりもどす。

 

2006年10月4日

  1コマ目(9:00-10:30)は「学びの扉」のコーディネーター。2年次から専修に分属する1年生を相手に専修の内容を伝える授業。「関西大学文学部哲学専修 驚異のラインナップ トップバッターはだれだぁ!」などと、リレー講義の授業担当者を紹介して、その後、医療系の専門学校から依頼された医の倫理の授業をしに、移動。13:30から昼間部、17:50から夜間部で、同じ授業を二度くりかえす(なにか、舞台上演みたいだが)。授業開始が9:00で、授業終了が21:00というわけだ。大学教員をつとめていると、ときに、こうした「荒行」みたいなことがある。きょうを含めて3回やらねば。

 

2006年10月2日

  9月30日で学長補佐を退任。この3年間、毎週月曜午前には会議が入っていた。きょうから会議なし。「おお、なんとしあわせを予感せられる朝だろう」と室生犀星の詩の一節が口をついて出る。

 

2006年9月20日

  研究倫理規準の文案を学部長会議にかける。この文案をまとめる仕事が学長補佐としての最後の仕事となるだろう。しかし、席上、「内容が倫理的すぎてわかりにくい」という意見が出る。なにぶん、倫理規準だから、倫理的なんだが・・・・・・。要するに、法の用語・用法とちがうから理解しにくい、というわけだろうが、社会のきまりがすべて、「法の方言」で運営されなくてはならないわけでもなし。法の支配には賛成するが、法の方言・ジャーゴンの支配には反対だ。

  

2006年9月19日

  大阪大学医学部の社会医学の講義を2コマ。基礎課程に入ってから倫理学関連の講義があるわけだ。和歌山県立医大に勤めていたとき、年次があがってから哲学や倫理学を学ぶほうがいいと考え、専門課程の教員(つまり医師)にも同じ考えのひともいたが、専門課程のカリキュラムがぎっしりつまっており、実現しなかった。医学教育のカリキュラムは、(1)ぎっしりつまっていて、選択の余地がない、(2)医学部同学年の学生ばかりがうけていて刺激がない。そのためにベルトコンベアみたいに授業をうけるだけで、学生に覇気がないという印象をもっていた。阪大の試みは、こうした弊を、一部、解消しようとする試みのようだ。

 

2006年9月12日

  大学の通常授業の一部に高校生の受講をうけいれる15セミナーのオリエンテーション。今期は増えて70余名。高大連携運営委員長としてあいさつ。図書館、教室、生協食堂への案内にも同道する。

  昨日、自民党総裁選の候補者同士の討論会があった。谷垣候補について新聞紙上に載った某東大教授の評。「聞く人をみんな東大生と考えているような感じで、原理原則を話せば分かると思い込んでいるように見えた」。うーん。私が学長補佐として作成した文書や提案も、原理原則を素直に出しすぎたと評されたことがあった。私の場合、聞き手を東大生と思ったわけでなく、大学教員の同僚と思ったんだけど。

 

2006年9月2−3日

  関西倫理学会委員会のために同志社大学へ。それがすむと、大学院生の合宿のために関西大学の飛鳥文化研究所へ直行。懇親会から参加したようなものだ。3日午前の発表ふたつを聞く。

  解散後、ひとりで久しぶりに長谷寺を参詣。帰途、大和八木で乗り換えて、大和郡山で下車。学生時代に奈良をよく歩いたが、ここは近鉄で通るばかりだった。車窓からみえるお城が気になっていた。そのお城を散策。天主台を築く石垣に、うつぶせに頭から突っ込まれているお地蔵さんあり(さかさ地蔵)。なんてことするんだ!  築城当時、石が不足して、羅城門の礎石とか近くの寺院の石仏とかをだいぶ使っている由。 城跡の一角に、明治時代に建築された奈良図書館あり。町並みにも、古い家が散在する。道の狭いこと。駅前に啓文堂というそれなりの品揃えの本屋があり、記念に1冊、文庫を買う。大都市近辺の衛星都市というより、歴史のある地方小都市のたたずまいで、旅行気分をあじわう。

 

2006年8月30日

  研究室のデスクトップ型パソコンのハードディスクがこわれ、修理に出す。たいへん酷使を要する時期にこわれて往生するが、酷使しているといえばいつだってそうだが。ずいぶんまえに、研究発表のさいに、パソコンをセットしながら、「私の記憶は一部、パソコンにつながっているので」とのたまうた先輩がおられたが、気持ちとしてはそんな気分。マックス・ピカートはオートバイ乗りを「現代のケンタウルス」と評したが、われわれは「パソコンに縛られた、プロメテウスの末裔たち」といったところか。

2006年8月28日

  組織の改編で学長補佐室も移り、その場でお客さんに応接したり、ちょっとした会議ができたりするほどに広くなった。任期はあとひと月だから、どうということもないが。広くて落ち着かない気分。学生時代、京大文学部の旧館(今はない)の2階の廊下、哲学閲覧室に曲がるあたりで、廊下に垂直に机をおいて、図書カードを作成していた事務員がいたのを思い出す。ひとの通るのを阻むような配置だが、彼としては左手から採光するために、そうしていたのだろう。なんだかカフカの小説に登場する官僚みたいだった。きょう、新しい部屋で机の配置を所在なく感じるうちに、自分自身がカフカの小説の登場人物のような気がしてきた。

2006年8月26日

  オープンキャンパス(Summer Campus 千里山 2nd)でミニ講義をする。まだ33度を超える暑さだが、風のなかに一筋、秋風がまじっているような。昨日、キャンパスでつくつく法師が鳴いているのを聞く。私の好きなヒグラシはいないようだ。季節の移り変わりはどれも思いを深めるものだが、ヒグラシが鳴き始めて、萩の花が咲くころまでの季節の移り変わりは好きなひとつ。

2006年7月27日

  仕事にとりかかるまえに、なんとなくそこらにある文学書をのぞくことがある。中野重治「和解の道 『わが処世法』を問われて」に「しかしそこで、おれのなかの一種の泣きごと哲学をやっつける必要がある。おれが笛吹けども、ひと踊らずという泣きごと哲学。曳かれものの哲学」(定本版全集13巻425頁)。きのう、「また、たしなめ・戒めがくるだろうが」と書いたが、なるほど、さっそくやってきた。

2006年7月26日

  学長選挙を控えて組合主催の候補者討論会。3年前は院生の合宿と重なり、出席しなかった。だれが学長になろうが、私には直接の関係はないと思っていたからだ。ところが、学長補佐に任命されて、3年間、塗炭の苦しみを味わった(などと書くと、また、たしなめ・戒めがくるだろうが)。陸続として続く難題、度を強める競争的環境、すみやかに対応できぬ大学文化、理念をもって提案すれば「具体的ではない」と反対し、理念を実行するための指針を示せば「教育に競争的原理はいかがなものか」といった一般論の理念をふりかざして反対する人びと――。自分の研究を重視するひとが役職につきたがらないのはもっともだ。

2006年7月25日

  試験、レポートの採点作業に追われる。学内のWebで提出させたレポートはパソコン上で添削、採点し、返却。目には負担だが、作業は楽だ。何といっても、筋の通らぬ文章をコピー、ペーストで直して、学生に修正してみせることができる。朝、提出されたレポートを、夕方に返却することもできる。漱石の『道草』に、主人公が学生の答案に赤インクで○や△をつけているうちに、くさくさして家をとびだすくだりがあったが、紙の答案もかなりあるものの、パソコンの採点は、趣が異なる。まあ、成績評価は、気分がくさくさするのは同じだけれども。努力して伸びない学生は気の毒だし、努力せず伸びない学生は腹が立つし。

2006年7月12日

  10日に勤め先の大学で起きた事件についての会見が行われた。ある学生が幻覚作用をおよぼすきのこを購入し、他の学生に分け、後者の学生が服用して興奮状態になりマンションから飛び降りたと報道されている。飛び降りた学生は亡くなった。十九歳まで育てたご両親の心中を思えばなんともお気の毒である。

  事態の推移をみると、腹立たしいばかりに軽々しく、ことが進んでしまっている。若いときには自分の体に無条件な信頼があるのかもしれない。大学が大学としてできることは教育だが、体や生のもろさに気づくような内容の教育、薬物に手を出すまで自分を軽んじない態度を身につける機会を配慮しなくてはならないようだ。

  (*その後、7月18日に、摂取したのはきのこではなく、化学的に合成された薬物――麻薬取締法の対象ではないそうだが、都は条例で規制しており、幻覚作用をめあてに作られた薬物とわかる。事実関係はそうだが、ここに記した考えに変わりはない)。

2006年7月11日

  ナウカ書店が倒産したという報を聞く。大学生のころ、丸太町通りの南、鴨川の東側に支店だか事務所があった。広島大学に勤めていたときには、広島大学の旧キャンパス(千田町)近くに事務所があってよく利用した。旧ソ連関係の書籍の輸入で歴史の古い本屋だが、やはり今は、本屋という商売は成り立ちがたいのだろう。昨年、京都河原町通りの丸善が店を閉めたし、その数年前には京都の駸々堂書店がつぶれた。

2006年7月10日

  このところ、諸大学の研究倫理や職員倫理に関する規定(綱領、規準、規程等を一括してこう呼んでおく)を参看している。複数の大学で研究費の不正利用やデータの偽造等が相次いでいるから研究倫理に関する規定の制定がurgentだというわけだ。そこへ、遅刻した学生から罰金100円をとっている某国立大教授(62)の報道。「教室においては、教授が司法」とでもいうつもりだろうか。だが、ただの60代のオヤジであれば、金100円也といえども、街角では若者からカツアゲすることはできないだろう。大学の権威失墜の一例にはまちがいないが、皮肉にみれば、大学・教授・教室なるsettingにまだ何らかの「権威」あったればこそ100円を徴収できたというべきか。

2006年7月4日

  高校への出張講義(Kan-Dai1Seminar)で大阪学芸高校へ。「脳死はひとの死か」という題目で話す。終了後、質問にくる生徒もいて熱心。つゆの晴れ間の暑い一日。長居の駅が高架線になっている。和歌山県立医大に勤めていたころ、阪和線のこのあたりは「開かずの踏切」が多くて有名だった。

2006年6月28日

  学校インターンシップの研修先が内定した学生たちへのオリエンテーション。昨年の学生の業務日報、研修報告書などを紹介。学生が成長するように配慮してくださっている学校・園が多いが、率直にいって、手助けを求めているだけのようなところもあり、いちばん困るのは、学校・園の教員同士の意思疎通ができていない場合だ。学生を送り出す側には、事前にその学校・園の内情は把握できない。そういうなかでも、しっかりした学生は得るところを得て帰ってくるところがありがたいが。

2006年6月25日

  溝口宏平先生の告別式。59歳で亡くなられた。他人が口をはさむべきことではないけれども、大学改革のなかでだいぶ時間と精力をとられたように伺っているうちに、二年前にご病気の報に接した。

  大学院生のころ、自分の研究能力に疑問を感じたときに、溝口先生から「そんなこと、自分でわかりますか?」といわれたのを思い出す。ほっこりした口調でそういわれて、そこに励ましも、そして、たしなめもまた、含まれているのだった。

2006年6月19日

  ある筋の要望で講義にテレビカメラを入れてもいいかという問い合わせがくる。私の講義を映したいのではなくて、ある受講生がめあてなのだけれども、テレビクルーが数分でも入れば、講義のふんいきは変わるだろう。学生の授業評価によると「おもしろいけれど難しい授業」だそうで、学生の緊張を要する授業のようだから断ることにする。大学の宣伝を重んじる向きからは「さばけない教員だ」といわれそうだが。

  そういえば、ずいぶんまえ、ある大学でヘルメットと角棒で武装した数人が授業半ばに乱入してきて「5分だけ時間をくれ」と要求したことがあるのを思い出した。「今、肝心なところを説明しているからやめてくれ」といったが、押し問答になり、かえって時間のむだになると気づいたので、時間を与えた。アジテーションを終えたら、最初の威丈高なふんいきからは意外なことに「失礼しました」といって帰っていった。

2006年6月11日

  学校インターンシップを希望する学生を面接する。授業のない休日を選んで16名の先生方と一日がかりで全員をこなす。授業とのバッティングがないか、受入校・園の所在を地図で確かめたか等々、聞いては、いっしょに地図をみる。そんな世話の要らぬ学生もいるが、大方の学生はまだ支えてやらなくてはいけないのだ。われわれは学者であるだけでなく大学「教員」なのですな。つゆに入ったが、風のあるさわやかな一日。

2006年6月7日

  教養教育改革は頓挫するか、一部了承をとりつけて、先送りせざるをえぬ気配。「教養部を作るのか、教養担当教員を学部分属にするのか、方針がわからない」とのたまう御仁までおられる。多くの大学が教養教育を大学全体で分担するように改革した1991年の大綱化以前の発想のままだ。こちらの示した改革案をどう読んでも、そんなことはいっていないのだが。だからこそ、「わからない」のかもしれないな。そのひとが期待している解答肢がないから、答えられないというわけだろうか。

偶成 迷ったと怒れるひとの古地図かな

2006年5月30日

  出張講義(Kan-Dai 1seminar)で兵庫県立夢野台高校を訪問。高校2年生180名を対象に「脳死はひとの死か」という話をする。反応はおとなしかったが、高校の先生のお話では、前を向いてしっかり聞いている生徒が多かったとのお話。雲気を孕んだ京都の新緑と違い、六甲の若葉の景色は海の光を映して透明感がある。神戸の街を散歩したかったが、用は山積。とんぼがえりで帰る。

2006年5月29日

  学校インターンシップのマッチング作業。学生が希望する学校・園と学校・園が設けた受入学生数の定員とのあいだで調整するわけだ。今年は、150名弱の派遣に留まりそうだ。なぜ? 「学校インターンシップは大学授業の一環であり、研修だ」と、学生にしっかりした態度を求めたので減ったかな。

2006年5月21日

  関西大学教育後援会。学生のご父母が関大キャンパスを訪れる日である。さいわい晴れて、楠の青葉、うつくし。

2006年5月20日

  「地球環境学(仮)研究会」で、環境をテーマとした授業科目の関連づくりについて、広島大学の経験をふまえて話す。この研究会は関大の複数の専任教員が集まってできたもので、環境をテーマとしたリレー講義の可能性を検討しているそうだ。今回はじめて出た。複数分野の教員が意思疎通してひとつの科目を作るという動きは関大にはこれまでなかったが、一部のひとはその必要に気づいているわけだ。

2006年5月17日

  学校インターンシップの学生向け説明会。200名弱だが、最終的には今年も300名程度か。

  教養教育改革は、表面的な科目改編は受け容れられそうだが、根本的な体制変革は受け容れられず、なんだか骨抜きにされそうなふんいきもある。私の提案は、実際の授業担当者の立案・企画を生かし、また、その仕事に就くひとに手当てを出そうというものだ。ところが、実際にその仕事に汗をかくひともそれほどでもないひとも交えた委員会で細部まで決めようとする護送船団方式の意思決定システムに執着するひとが多い。「自分が口を出さないと、とんでもないことが起こる!」というわけだろうか。私は「口だけしか出さないひとが口を出すと、本気でやる気のひとのやる気を殺ぐ」と思うのだけれども・・・・・・。

  しかし、まあ、私の提案がとおらないならとおらないで、以前の勤め先の同僚がいっていたことばをもって慰めとすべきか。「学内の役職についたら、失敗することです。そうしたら、仕事がまわってこなくなりますから」。

2006年5月13日

  関西倫理学会委員会のために同志社大学へ。そのまえに、初夏の雨のなかを真如堂から銀閣寺道を散歩。学生・大学院生のころ、よく飲んだ店がまだ残っていたり、代替わりしていたり、駐車場になっていたり。若いとき、どんな気分でここを歩いていたのかなあ。研究職に就くまえに漠然と思い浮かべていたことで、できたこともあれば、できないでいることもある。たしかなことは、こんなに学内行政で精力を奪われながら老いていくとは思っていなかったということだ。栗や椎の木、楠、桜のまだやわらかな緑の若葉に覆われて、むくむくとふくらんでみえる東山のそこここから立ちのぼる霧をながめながら、(まだ、そんなふりかえる年でもないだろうが)と、気持ちの回復につとめる。

2006年5月10日

  懸案の教養教育改革の審議がまだ結論をみず。1991年の大綱化に対応した改革をほとんどしてこなかったのだから、もめるのはわかるが・・・・・・。議論の俎上に載せただけ、功績とすべきか? 午後、学校インターンシップの件で日本学生支援機構の方と面談。夕方は、学校インターンシップの学校業務講座を行う。

2006年4月24日

  関西大学のなにわ・大阪文化遺産学研究センターの竣工記念を兼ねた、創立120周年記念事業の一環として関西大学博物館で「インカへの道 アンデスの秘宝」の展示をみる。生死に関わる物(食物、人を襲う獣)を神格化して壺にあしらう。交合を描いた壺もあり。当然、性も生死に関わるわけだ。生の根元とつながっているようなこういう物には、その土地に生きていた人びとの霊のようなものが宿っているようで、目をうばわれる。殷時代の器物について記した藤枝静男の小説「在らざるにあらず」を思い出す。

2006年4月22-23日

  産業医の研究会であるサンユー会の座談会「喜びのある働き方、自分らしい働き方、意義ある働き方と産業保健」(うーん、すごい題名だ)に出席するため東京へ。別用で前日に移動。曇天だが、雪をかぶった富士をみる。今年は春が遅く、八重桜を除いて、桜はさすがに散ったが、木蓮がまだ咲いている。

2006年4月19日

  いくつか会議がある。そんなことはめずらしくはない。だが、むにゅむにゅもにょもにょ議論が続く会議には心底つかれる。だんだんこらえ性がなくなりつつあるか。その提案から予想される悪い結果をつぎつぎと並べて、結局は、協力しないとうれしそうに結論するひと、具体的なことを細かく記せば「拘束が強い提案で審議できない」と拒否し、大枠だけ示せば「具体的でないので審議できない」と拒否するひと・・・。どれもこれまでの大学教員生活で既知のタイプだが、よくも同じタイプがどこにもいることよ。

2006年4月15-16日

  哲学専修、芸術学美術史専修合同の新2年生の合宿に参加。場所は高槻キャンパスの高岳館。以前の哲学科は哲学倫理学、比較宗教学、美学美術史の下位区分を含んでいたが、文学部が一学科(総合人文学科)になり、哲学科は哲学専修に変わり、そのなかから、この春、美学美術史が芸術学美術史専修となって独立した。来年度はさらに、比較宗教学専修、哲学倫理学専修に分かれる。2年生の自己紹介を聞いていると、マンガ家、ミュージシャン、その他、知らぬ単語がほとんどだ。「カクゲー」というは、格闘技ゲームのことなる由。「カフカ」とか「三島由紀夫」とか「安部公房」とか聞くとほっとする。

  今年は気温が低く、桜がようやく散り初めたくらい。山つつじも咲いている(つつじはあまり好きではないが、山つつじの花の色は透明感があって好きだ)。久しぶりに摂津峡を歩いて、JR高槻で解散。

2006年4月13日

  16:30から18:00まで、学校インターンシップの学校向け説明会。教育委員会、学校・園から70名を超えるご参加をいただいた。今年から始めるWeb上のエントリーシステムの説明やスケジュールの説明。

  きょう午後、来年4月に開設する4学部についての記者会見が行われたが、午前にはその学部のひとつである政策創造学部の授業に主として使う校舎の地鎮祭。私立大学だから憲法に抵触するという問題はない。役職上、私も参列したわけだが、民俗学的・宗教学的・言語学的におもしろい。「○○にはかりごとをゆだね、××のたくみのわざにうけおはせ・・・・・・」。なるほどねえ、「○○に設計を委託し、××工務店に建築を依頼し」は、祝詞(のりと)ではこんなふうに翻訳されるわけか。だが、「鉄筋コンクリート6階建」といった語句はそのままだった。「くろがねの柱を立て、そのまわりにもろもろの土を練りかため、むたび屋根を重ねて、大いなるたかどのを築かむと」などと訳さぬものかしら。

2006年4月6日

  授業がはじまる。このところ、学内行政の仕事に時間をとられ、授業の準備が充分できないまま新学年に突入し、「年のうちに春は来にけり」という感慨を繰り返している。あすは1年生に、教員の専門とはあえて関係のない題材を用いて大学での学習のスキルを教えることに特化したゼミ(知のナヴィゲーター)がはじまる。その受講者たちが生まれたときには、私はもう大学で教えていたのだなあ。

  私より十数年年上の同窓の某先生が大学で最初に受けた授業の思い出――「教員がつかつかと教室に入ってきて、すぐにわれわれに背を向けて、黒板いっぱいに大きな字でギリシア語を板書した。度肝をぬかれた。それはヘラクレイトスのことばであった」とのお話。ちなみに、そのギリシア語を書いた教員は、のちのち私にとって、卒業論文、修士論文の指導を受ける方になるのだった。万物流転。

2006年4月1日

  入学式。今年も多くの大学で「厳しい難関をくぐりぬけ」といった祝辞がくりかえされたのだろうか。一部の大学では今後も競争は続くだろうが、総体的に実質的な競争率は落ちているのだし、もはや陳腐な祝辞であるまいか。「記憶主体の受験勉強とは違う、大学での主体的な学びを」などと聞くと、(しかし、そういう受験問題を出しているのは大学だろうに)とか(受験勉強程度で耐えられない学生が、どうして大学での学びに耐えられるのだろうか)などと思ってしまう。もっと辛口の歓迎の辞でもいいのでは?

2006年3月25日

  民主教育協会(4月1日からIDE大学協会と改称)の高等教育研究フォーラム「日本の高等教育―2010年までのシナリオ」を聴きに、東京一ツ橋の学術総合センターへ。

  小宮山東大総長の「大学の個性化は、研究領域を限定して特化しないと意味がない」という提言には、東大にしてそういうことをいうかという気分。東大、京大はひととおりどの研究分野もそろえておく大学と思っていたが・・・。もっとも、東大の重点領域から外した例にあがったpowder engineeringは京大との棲み分けができているそうだから、それならそれでいいが、東大、京大がこぞって切り捨てた分野はどこがになうのかとも懸念する。学問の細分化を補って多様な分野のつながりを教える「学術俯瞰講義」を構想中というお話には賛同。自分の専門分野の外まで俯瞰できる教員がいなくてははじまらない企画だが、東大総長によれば「トップの学者による」由にて、そのいかにも東大的発想に苦笑。

  清成前法政大学長は、いつものように、公的補助の国立大・私立大間の不均衡を批判。「公共的とは誰にでもアクセスできることを意味する。授業料をとっている大学はその意味では公共的といえない。ただ大学教育全体の社会に及ぼす効果から公共的といえる」という前提から、「だから、大学は国立、公立、私立を問わず、平等に援助すべきである」という結論に進んだ。そのなんとも辣腕の展開に心のなかで哄笑。

  竹橋のお濠の紅梅、白梅、咲いており。神保町の古本屋で、ほしかったシモーヌ・ヴェーユの『神を待ち望む』を入手。

2006年3月3-19日

  ドイツ出張。フランクフルトはおりからの大雪。ミュンヘン行の便が欠航し、列車で移動。その後も列車の運休、遅れに旅程の狂わされた出張だった。日本語訳を書評したフランクファートの On Bull Shit のドイツ語版がミュンヘンの本屋に平積みされている。

  ミュンヘン近郊のダッハウに強制収容所跡を訪ね、ニュルンベルクのドク・ツェントルム、ニュルンベルク裁判の行われたフュルトの陪審法廷、フランクフルトのユダヤ人街跡の資料館などを訪ね、ケルン大学、ミュンヘン大学などを訪問。

  「人間の尊厳」という観念が、ヒト・クローニングや着床前診断に関連してふたたびとりあげられるようになったが、この観念について論じるとすれば、この観念がずたずたにされた史実をいつも念頭におきながら言及しなくてはならないとあらためて思う。

2006年2月28日

  大阪府内の某市の職員倫理委員会。公益通報者保護法に対応する措置について議論。あの法律は「内部告発するほうが社外で告発されるよりも企業の利益になりますよ」というような企業にとってのメリットに配慮しすぎている、と私などには不満だが、こういう議論をしている自治体はまだ少ない由。そういうものか。

2006年2月16-20日

  特色GP第1回研究会を終えてほっとしたところへ、某官庁に出した事務書類が返されてくる。昨年と同じ様式、類似の項目がひっかかったのだ。おいおい、そちらの役人言葉の書き込み例にしたがって書き入れたんですぜ。それでわからないといわれれば、役人言葉は役人にもわからないものなのかもしれない。締切間際の大学行政関係の原稿1件を仕上げ、書評1件を仕上げ、問題の書類を書き直し、目前に迫った卒業論文試問のために18本ある卒論のうち読めていなかった12本に目を通し、学内から出すある申請書に加筆修正を加え、それから、依頼されている辞典の項目の翻訳1件にとりかかり、20日の試問に立会い・・・・・。

  うーん、すごい。大学生の頃まで、自分には事務能力が欠けているので世間で生きていけるか、と案じていたが、なんとかなるもんですぞ、社会に出るのを恐れている学生諸君! ま、こんなふうに暮らしたいと思うかどうかは別ですし、私自身もそうは思っていませんが。

2006年2月16日

  特色GP「人間性とキャリア形成を促す学校Internship 小中高大連携が支える学外型実践教育の大規模展開」第1回研究会を関西大学で開催。基調報告をおこない、そのあとのシンポジウムのパネリストとなる。この取組は関連サイトで紹介。学年末であまり出席者がこられないかと心配していたが、遠方からお出での方もおられ、ありがたかった。学校インターンシップの趣旨、成果の報告だが、たんによい話だけで終始したくはなかったので、学校インターンシップがもたらす人間形成つまり教養教育としての意義を確信しつつも、大学がどこまで人間形成に関われるかという問題も意識していること、学外型教育の効果をしたたかに感じつつも、大学教育にどこまで学外での活動を組み込むかという問題も意識していることを話し、教員養成教育としての成果を検証しつつも、資質の高い教員」とはどのようなもので、どのように育成できるかという問題を提起する。

2006年2月15日

  一昨年から手がけていた教養教育改革の提案を学部長会議に出す。私が専任で勤めた大学はこれで3つめだが、どこでも教養教育改革に関わってしまったわけだ。どんな改革ができるかはそれぞれの大学のいろいろな意味での資源によって決まってくる。提出した以上は、さもあらばあれ、という気分。

2006年2月14日

  関西大学の総合学生会館凛風館の竣工式。この大学に赴任したとき、学生食堂が、私が京大生だった頃の学生食堂(教養部にあった吉田食堂)を思い出すほど古びていて驚いた。1962年にできたものの由。今回ようやく、新しい施設ができたわけだ。率直に言ってしゃれているとは思えないが、環境には配慮している。建物の正面に関西大学のエンブレムがついている。「あそこが開いて、鐘が出てくるんですよ」と教えてくれるひとがいる。ところが、一瞬「蟹が出てくる」と聞き間違え、有名なカニ料理店の飾り物を思い浮かべてしまった。私の頭のなかはだいぶ大阪化してしまったようだ。するうちに、学章が左右に開いて、鐘が現われ、静かに学歌を奏でた。

2006年2月9日

  昨年に共訳で出したフィッシャーの『クリティカル・シンキング入門』の書評を読む。「第5章でclarifying ideasを『考えを明確化する』と訳しているのは『概念を明確化する』と訳さなければかえって章の趣旨が伝わらなくなるのではないか」。おやおや、私が担当したところじゃわいの。なるほど、その章では、「使用することばの意味をまずはっきりさせよう。あなたの頭のなかでその意味がはっきりしなければ、専門家に聞いたり、参考文献・辞典にあたってみよう」という指示がまず書かれているから、「概念」でもいいのだが、訳者一同、クリティカル・シンキングを広めるには、できるだけかみくだいて訳すという方針をとった。「概念」ということばになじみの薄いひと、「概念」とみただけで「むずかしそうだ」と感じて本を閉じてしまいそうなひとにも、とっつきやすくするためだ。

  それで最も困ったのはbelief(信念)で、術語としてのこれは「私は・・・と思う」(I believe that...)の「・・・」に相当する内容を意味するにすぎない場合があるが(訳す場合には「と信じる」と訳して原語をほのめかすが、その結果、日本語としてはぎごちない表現になることも多い)、日常用語では本人のゆるがぬ価値観・人生観といったニュアンスを帯びている場合が多い。結局、「信念」という訳であきらめたが、日常の語法にしか接していない読者には違和感が残るかもしれない。

  それにしても、哲学用語は「念」がつくことばが多い。観念(idea)、概念(concept)、理念(カントのいう意味でIdee)・・・・・・。『現象学事典』を作ったときに、「思念する(meinen)」の解説をあてられて苦労したのを思い出す。

  「次の語の意味を説明せよ。観念、概念、理念、信念、情念」という問題を出したら、どんな答えが返ってくるだろうか? 「仏道に精進する兄弟。このほかに、疑念、懸念、無念がいる。別々に育ったが、修行するうちにめぐりあう。それぞれが生まれつきひとつずつ玉をもっていたことから兄弟とわかり、八人が一致団結して仏教の再興をめざした。その再興した寺は今の千葉県のあたりにあったとされる」などと答える学生がいやしないかと想像してしまう。

2006年2月1日−8日

   本務校の入試で、ほぼ毎日、朝から学長補佐室に詰めている。試験監督をするわけではないから、その間、孜々として(おお、このことばを自分自身の形容に使うことがあるとは! 今一度、申さん。「孜々として」)書類を作成する。カリキュラム改革関連にA4、37枚、競争的資金関連にA4・・・・・・何枚になったか、わからん。USR・・・・・・昔のソ連の略称に似ているが、「大学の社会的責任」のことなり・・・・・・。

  そんな仕事をこなしながら、その原著者に関心があるものだから、Harry G. Frankfurtの『ウンコな議論』という訳書の書評を引き受けている。もったいぶった、もっともらしい、えてして本人も何か意味深い表現だと思っているが、実は何をいっているかわからないような表現(bullshit)を訳者が表題のように訳したのだが、お役所の文書、新聞の社説その他と同様に、大学関係の文書にもそうした表現は入り混じっている。ということは、その種の議論を文献資料から読み取り、自分の作成する文書のなかにその種の議論を(奇妙なことに、説得力を増すために)とりいれて薬味とし、そしてまた、その種の議論を批判的に論じた本をまた、ご丁寧にも書評しようとしているわけだ。

2006年1月19日

  某高校のディベートの授業に出講講義。「制服を廃止すべきか否か」というテーマで先方の教員と関西大学の院生とでモデルディベートをする。先方の教員が廃止論の立場。現在のその高校には制服があるが、廃止論の根拠は「自由を重んじ、自主的な判断力をつける」というもの。肯定側、否定側双方の主張の要点をまとめて、どちらが優れているかをチェックしている生徒もいるけれども、授業中だというのに、おしゃべりする生徒が多い。しかし、先生方は怒号して黙らせることはせずに、根気強く注意を繰り返している。そのようすをみながら思う――つまりはこの高校では、「自主的な判断力をつけてほしい」というメッセージを伝えたくて、このディベートの授業を計画されたのだな。抑圧すれば自主性は育たないだろうし、自主性を期待していれば放恣に堕する。むずかしいものだ。

2006年1月6日

  新年交礼会。今年の賀状に「9月に学長補佐を退任します。(中略)研究の場に戻ることができるのを楽しみにしております」と書いたところ、法人上層部の方にいささか心外の面持ちで「あの賀状はなあ・・・」といわれる。あとのことばはうやむやになったが。うーん、しかたない。経営の立場から要求される私の役割と、私が私自身に望んでいる研究者としての立場との違いというもので御座候。

 

  学校インターンシップ内定者のオリエンテーションを行う。1時間の予定だったが、1時間半かかる。応募者が増えるほど、この事業の質の確保に心せねば。

 

 

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