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2005年07月13日

「広告」の本質-「市場」における「非=市場的なるもの」-(桜井 1994)

要約
 この論文では,広告における数多くの研究・調査・議論の中で,現代社会における「広告」の意義を肯定はすれど,そもそも広告とは何か?なぜ広告が存在するのか?を考察しているものが少ないことを指摘している。普段の我々にとって,あまりに見慣れてしまった広告は,その「慣れ」によって,思い込みをしている部分もある。本論では,広告を見慣れないものとしてとらえた上で,広告の本質を探っている。

 現代社会において広告は,大きな意義を持っている。消費によって支えられている現代社会・市場において広告は一つの産業になりつつあり,その比重も大きなものである。しかし,「我々は,現代において広告があまりにあたりまえになってしまっているがゆえに,広告の本質を探求しようとさえしなくなっているのではないだろうか」(47ページ)。既存の広告論は広告の「存在をあたりまえ」のものと見なし,素朴だが本質的な問い,「なぜ?」に答えてくれないように見える。「あたりまえ」という前提を払拭してこそ広告の本質を探る事ができると著者は主張している。また,なぜ現代社会(市場社会)で広告が繁栄しているのかを考察している。現在,市場と広告の結びつきは非常に強く,切っても切り離せない。それが前述の「あたりまえ」を生み出しているのではなかろうか?
 広告を「見慣れないもの」としてみるための事例として,「ぴあ」がある(ぴあ=映画館の上映情報などが掲載された有料情報誌)。今では「ぴあ」は都市情報誌の一つとして「あたりまえのもの」として受け入れられているが,出回り始めた当初は,「ぴあ」に対する「大人」と「若者」ではその反応が対照的であった。若者のほうが合理的で,自分たちにプラスになるものや有用性のあるものに対しては躊躇無く代価を払いその情報を取得する。しかし大人達にとってみれば従来,街や新聞の紙面広告で「無料-タダで」提供されていた情報に対してお金を払うこと違和感を覚えた。大人にとってみれば,情報=タダのイメージがより強かったため「ぴあ」のような情報誌がしっくりはまらなかったのであろう。
 「なぜ広告においては情報の無償譲渡がなされるのか?」(49ページ)。広告においてもたらされる情報が消費者にとって重要なものであれば,まさにその「情報」にお金を払うのが本来の市場社会なのではないか?
 「広告とは,すくなくとも,情報の『流通』であることはまちがいないだろう」(51ページ)。そしてその,情報の譲渡に代価・コストが本来発生するのは言うまでもない。しかし広告によって情報は消費者に「譲与」される。この点において広告は「非=市場的なものである」(51ページ)。このことを筆者は「市場メカニズムの不十分さを,なんらかの仕掛けでもって広告が補っている」(52ページ)と考えている。
 情報の譲渡においてはいくつかのパラドックス・困難が見受けられる。①「立ち読みのパラドックス」と②「スパイのパラドックス」と著者は呼んでいるものである。①は,情報の中身は開けてみないと自分にとっての価値は分からないが,本を購買しなくても立ち読みでその情報を取得してしまったらもはやその本を買うには及ばないことを指し,②はスパイがある情報を握りある会社との商談のテーブルについたとき,その時点で,その情報の中身を開示する前に競合他社が「新製品の開発に成功した」という有益な情報をその会社に(無償で!!)提供した事になる。これがスパイのパラドックスである。「情報流通に関する2つのパラドックスは,実は情報財として意識されていない多くの商品にもあてはまる」(54ページ)。このようなパラドックスに対処しているのが広告ではないだろうか?広告とは企業の販売促進のツールであり,一見「情報の無償譲渡」をするがきちんと「モトをとる」のが広告である。立ち読みのパラドクスによって情報の中身を知ってしまったら,「買う」ことをしなくなるかもしれないが,情報が流通しなければ当該商品は売れないのである。そこで広告はその情報を「あげてしまう」のである。消費者は広告によって「そこに有益なものがあることを知っており,従って,他の場所にも効用のある商品がある可能性があっても,そのための『探索のコスト』をかけるよりも『既に知っている』商品を買うほうが功利的になるのである」(55ページ)。
 しかし広告にも困難さ,無効性はある。1つは広告が成功した事によって「情報上のギャップ」(56ページ)がなくなってしまった時。2つ目は他社との相対的な無効性である。今日さまざまな企業が存在し,それぞれが独自の広告戦略をとっている中で,同じ「手」で対抗する可能性は否定できず,相対的優位性・アドバンテージは薄れていく。3つ目は「賢い消費者のパラドックス」(57ページ)と呼ばれるものであり,商品の中には広告をされていない「隠れた名品」の可能性があり,消費者はそれを探す可能性もある。また広告をしていない商品のほうが企業はその製品に自信があるのだ,と消費者は学習し広告が無力になってしまう場合もある。
 上記の問題の解決策として「マルチ商法」(58ページ)がある。それは「消費者を自分の階層性の内部に取り込んでしまうことで,広告の無効性に対抗しているように見える」(58ページ)。1・2の情報ギャップを消失させ,消費者をマルチ階層の中で「昇進」させることで,他商品の魅力に気付いても,当該のほうが有利であると思わせるに足るように読みこむのである。しかし著者は長期的なマルチ商法は不可能であるとし,広告の困難性と物を売る事の困難性を述べている。

結論
 広告の本質とは何か?それは情報譲渡のパラドックスを逆手に取り,まず消費者に有益な情報を無償で提供することで消費者の情報探索のコストを省き,消費者の効用の期待値を大きくさせることである。市場メカニズムだけではうまくクリアできなかったことを,無償譲渡によって広告は突破したのである。

出典:桜井芳生(1994),「人文学科論集」『鹿児島大学法文学部』,40巻,47-59頁。

投稿者 02tsukazaki : 2005年07月13日 16:27

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