日々雑記


新傾向

2024-2-1

今日から入試。
入試業務終了後、恒例の答案採点。

いつもなら、100名前後で2~5名の100点満点が出るのだが、今年はゼロ。97~32点の間でやや上振れの成績。

「東大寺南大門金剛力士阿形像の金剛杵からは(   )と(   )の仏師名が確認された。」に(法眼)や(重源)が入るのにはもう慣れたが、今季は「平安時代の美意識は中庸を重んじることから次第に「美麗、風流、(   )」といった方向に進んでいった」に(和様化)(尽善尽美)と書いた学生が多い。
ほら、この話(2021-3-27 タケノコ親爺と拉麺娘)だよ。

答案の新傾向がまた出現・・・。

top

研究会

2024-2-2

昨夜は入試終了後、梅田で旧友(私以外、考古学専門)らと一献。
「実測図トレースはデジタルで・・・」と若い人たちとのギャップをしみじみ語りながら愚痴めいた雑談。
そのなかで「日本考古学協会、もう辞めたわ」と。

そういえば、日本史合研の前に「考古学研究会」の入会案内ポスターが貼ってあり、学生半額も記されるなど、非常に驚いたことがある。
門前の小僧ながら、以前は「考古学研究会(『考古学研究』)」、「古代学研究会(『古代学研究』)」、「日本考古学協会(『考古学雑誌』)」は、”三種の神器”と呼んでいたほどの必読必携の学術雑誌であった。
日本考古学協会は発掘報告書(刊行済)の主担・編集・執筆でなければ入会できなかったが、今でも川西宏幸「円筒埴輪総論」(コピー)は書架にある。

考古学はその他にも「九阪研究会(埋蔵文化財研究集会)」や「関西近世考古学研究会」など“3人よれば研究会”と揶揄されるほど当時の研究会は「梁山泊」のごとく、多分野に及び、活動も非常に活発であった。

美術史に改宗した私が言うのもなんだが、考古学のみならず、今の学生に当時の高揚したワクワク感に満ちた学問、研究会への熱意はあまり感じられない(うちだけのことかも知れないが)。

ジジィたちの無駄口。

top

自分には傘がある、大仏様は露座のまま風雨に晒されている

2024-2-5

本日も入試日。終日、冷たい雨。

萬治3年(1660)12月9日、13歳の公慶は、東大寺大喜院に入り15日に初めて盧舎那仏(奈良の大仏)を拝す。その日は大雨で、公慶は「自分には傘がある、大仏様は傘もなく、露座のままで百年あまりも風雨に晒され続けている」と。
この時に公慶は、大仏殿再建を決意。以後、大仏を拝するたびに涙を流したと『公慶上人年譜』は記す。
そんなことを思った朝の学内。

今日の試験監督は、2023-2-10「うち(のゼミ)は行わない」の総合情報学部の長谷海平先生と小生。ダブル ハセ。
挨拶の時、「かいへい」です、「よーいち」ですと。

問題は英語、数学、物理・化学と理系揃い。問題をみてもまったく分からん。
物理ではX線の問題もあったが、何を解答すべきか全く理解できず。ド文系の典型。

top

ドレスコード

2024-2-7

入試最終日。
入試には、ドレスコードがあることを知る。

Q&Aで「背中に英語の文章(3行程度の長文)が書かれた服があります。外国語の時間に配慮すべきでしょうか?」
A:「寒さ等の影響がなければ、服を脱ぐように指示」「寒いようであれば、裏返しあるいはコート等の着用を指示」。
試験場は若干弱めの暖房。
事が事だけに女子生徒の場合、前者の対応だとハラスメントに繋がりかねない(もちろん女性教職員も必ずいるが)。
冬季なので、画像のようなTシャツ1枚で受験する猛者はいないが、このようなTシャツでは則対応案件。最近は「矜持」とかの漢字Tシャツもあり、外国語のみならず国語もあって気が抜けない。

そのうち、入試要項にドレスコードの欄が設けられるであろう。
無事に終了。

top

南画

2024-2-8

明治13年(1880)6月に京都府画学校が東西南北の四宗の学科を置いたが、南宗は南画(文人画)で谷口藹山が指導。南画の源流は江南山水画にたどり着く。

文展でも明治45年(1912)に日本画を1科(旧派←南画も含む)と2科(新派)に区分したが、1科の無力ぶりが露呈、大正3年(1914)に再び統合、大正10年(1921)に京都の南画家が日本南画院を発足、13年には帝展不出品同盟を結ぶに至る。
日本の南画は少し歪で、憧憬の中国であった頃は文人のたしなみとして持て囃されたが、北京まで飛行機で3時間という現代では、周知のように南画より東宗画(四条・円山派・大和絵系)が好まれる。

大学関係者から大学OB(遺族)からの南画寄贈申し入れの相談。
作家を調べると、地方で活躍した南画家。南画のみで生計を立てるのは難しいので、地方の生活を絵本にして活躍。大学OBは「どれでも好きなだけどうぞ」というが、大学関係者はどうしようかと困惑。

博物館実習用に全部貰って実習生に、「一幅、ン百万円。破損したら実費弁済やで」と脅しておいて掛幅の取り扱い実習用に供したらとも思うが(今の実習生は掛幅を扱えない〈泣〉)、それではOBのメンツが立たない・・・。

ちょっと困った相談。

top

口頭試問

2024-2-9

9:00より卒論口頭試問。
午後からは2回の5分休憩を挟んで10本、計16本。西洋・日本はもとより時代もボッティチェッリからイヴ・サンローランまで、多種多様。終了する頃にはもうクタクタ。

疲れながらも嬉しいことがあった。
長谷ゼミの甲斐荘くんが芸美の卒業論文優秀者に輝いた。もちろん、こちらの指導ではなく甲斐荘くんの地道な努力の賜物である。
部屋に戻り帰ろうと思っていると、表彰に関わる書類が届く。疲れながらも嬉しい悲鳴。

top

首里城

2024-2-12

ANA1735便にて那覇へ。窓から青い海が見える。久しぶりのバケーションモード。

午後から首里城。
焼失後に一度見学(2020-7-19)したが、巨大な覆屋のなかで素屋根の木組が見え、唐破風の概形がみえつつ再建も進んでいる様子。

「見せる復興」というが、不満な点も。
赤瓦の破片、龍の目の破片などが野外展示されるが、「眼」「鱗」など大きな名称板が置かれているだけで、山積みされたまま展示され、どの部分なのかまったく見当がつかない。
本土各地の発掘調査の現地説明会でももう少しまともな展示をしているぞ。

往々にして沖縄の文化財、文化遺産はPRがヘタである。
2026年の正殿竣工に向けて、タイトな予定が組まれて大変な状況と仄聞するも、単に復興現場を見せるだけでは「見せる復興」とはならない(しかも有料エリア内で)。復興の見せ方も大切だと思うのだが、さほど気にしていない様子。

気になる円覚寺山門復元も見てみたが、礎盤が幾つか据えられているだけで、説明もないので、のんびりした復元工事にみえる。

いつものことながら、本土とは感覚が違うので驚くばかり。

top

はぁ?

2024-2-13

朝から快晴、気温22℃、桜も満開。県立博物館・美術館で全体会議。

絵画・木彫・石彫・漆芸・陶器・染織・金工・楽器の8分野に加え今年度から発信も加わった全体会議。
ほぼ事業の具体的な復興対象が決定。他分野ながら興味ある資料もいくつか含まれる。

発信分野ではターゲットが対象案。一案に「ものづくりやおしゃれな文化に興味がある20代潜在顧客」と。はぁ?
はっきり言って、そういう20代は、おらへんがな。
どういう考えでそうなったのか・・・。
うちで法隆寺や京都の障壁画に関心ある学生(大半が20代)が存在しないのと同様、琉球漆器や三線、陶芸に関心ある県民20代はいない。
普段、興味も関心もない20代に関心を向けさせようとどれほどの努力を強いられていることか。

会議に20代も参加しているので露骨に指摘するのもどうかと思ったので、第1期の紹介(発信)も不十分であると指摘。
他人様のことを言えた義理ではないが、県民の琉球美術の理解度がほぼゼロに等しい。

若い頃、高名な先生が沖縄の大学で非常勤を勤めると聞き「琉球の美術史ですね」と応えたところ、「いや、平等院や運慶、狩野永徳なんだよ」と返答されて驚きを越して呆れたことがある。
失礼ながら沖縄県民誰もが琉球美術史を学んでいない(これは関西人の大半が日本美術史を知らないことにも通じる)。

他の先生ともども各分野の琉球美術史連続講座を開くべきとも。

top

涅槃図

2024-2-15

本日は涅槃会。

近世において仏教彫刻もそうだが、仏教絵画についてもあまり研究されていない。 (近世仏教美術は美術史の対象の埒外という研究者〈2015-06-30 百姓にも歴史はある〉は除外)

今日、各地で懸架される涅槃図。展示をしようとも、質問が出ても答えに窮する場面がたくさん。書籍をみても記述がない、学芸員も答えられないことが多い。

涅槃図に阿那律が2人描かれるのは有名だが、釈迦が入滅時に枕をしていたのか、手枕であったのか?なんて質問が来れば、お手上げである。
枕か手枕かは誰も調べていないし、別れた時期もよく分からない。

よくよく考えれば、明恵「四座講式」には沙羅双樹の下で釈迦が頭を西に向けて北枕にした「頭北面西右脇臥」と記されるが、枕の有無は記されていない。
仏像と同じく経典などに記されていない事がらについては、制作者や依頼者等の自由な意思表現に拠るという”約束事”がある。螺髪の大きさと同じ発想。
そうした意味で涅槃図は恰好の題材。

ちなみに有名な涅槃図は“枕派”が大半。

top

口頭試問

2024-2-17

午後より修論の口頭試問。

2年間はあっという間に過ぎるが、時間を疎かにした者、貴重な時間にした者、それぞれの評価。

パソコンもネットもない時代、明朝から仕事というのに明け方まで勉強に没頭していた頃が懐かしく思える。
振り返ると大変だったことは間違いない。でも独り身で自分の時間を使って好きな事をしていたのだから幸せであったことも間違いない。

もうひと踏ん張りである。

top

就活の背景板

2024-2-18

久しぶりに30年近い付き合いのある知人と遅いブランチ。
知人は、新幹線各駅及び新幹線車内に広告を出すほどの大手IT企業(リクルート部)勤務。

しばらくして、「関大さんはおもろい学生を出しますな」と。なんやねんと、やや不機嫌に問う。

「過日、Web面接でおたくの学生さんを面接したんやわ。面接しながらやけに他人の会話なんかの雑音が入るなと思ったが、(面接を)進めているうちに、ボケた背景ながら大きな本棚が見えたんや。それで『ご自宅のお部屋でしょうか?』と聞いたら、『某ネットカフェです』と答えよった。
「どこぞの学生や企業がネカフェのパブリックスペースで、面接する?」
「『はい、わかりました。それではこれで(Web面接を)終了します』と切ったわ。あぶない、あぶない・・・」(もちろん不採用)。

「それなら、コロナの時みたいに関大生だけは“背景板”を背負わせて面接させたら?」と小生。
「そりゃ、おもろいな。段ボールの折り方、間違って関大生の背景だけ『有田みかん!』ってあるのは新鮮やわ。」
「やろ、お笑いの関大生らしいやん。」
ブランチ後、共に一杯きこしめして、散会。

帰途、「卒論ルーブリック」や「卒業時アンケート調査」など内々のアンケート調査だけじゃなくて、出口先の満足度、採用企業からのアンケートも大事ではないかと思う。
ただ、現状アンケートの様式センスでは、企業からうざがられるだけやけど。

追伸
ノンフィクションです。
キヤリアセンターからの正式依頼があれば、ブランチの相手方を紹介します。耳痛い話がたいへん多いと思いますが、ご覚悟の上で。

top

論文講評

2024-2-20
〇〇〇〇「□■□■□考」(『▲▲▲▲』✕✕号)も、水墨画の発生期に重なって絵巻物を初めとする、多くの設色画の中に伝来中国画の筆墨法の影響を見ようとする、重要な問題に着手している。伝統的な美術史の方法にとらわれないで、物事に根本的な疑問をさしはさむ〇〇氏の勇気には感心な点もあるが、論拠不足のまま勇み足になって珍説、奇説を生む部分がないでもない。周文が相国寺僧ではなく等持寺の僧であって相国寺には都管職がなかった、という風な、事実とすれば一大事であるようなことと、すでに証明ずみの手あかのついた考え方とがいとも無造作に一緒くたに提出された日には、読者は戸惑うばかりであろう。一作の絵巻に集中して本格的に宋元画の影響を論ずるという、いわば実証的な美術史に立ちうちするだけの方法意識が稀薄であるからこういう結果になるのである。
(19✕✕年の歴史学界「回顧と展望」『史學雑誌』)
下手な論文を発表すると、こうした形で(激辛の)講評が公刊され、末代まで講評と論文がコピーされて、「あぁ、この論文か」と言われる・・・。

あな恐ろしや。

top

常住寺の寺宝

2024-2-22

岡山県立博物館「岡山藩主祈りの寺 常住寺の寺宝」展へ。

池田綱政、池田宗政時代の仏像、仏画が展示。
仏画は宗政による作品が大半。 仏像も毘沙門天立像、厨子入阿弥陀如来坐像を除いてすべて江戸時代(18世紀:SNSにUPしたら要説明のメールが来た・・・)。
ほぼ京都仏師の作。

池田綱政と田中弘教との関係が大きい。
綱政像製作時には「仏師弘教ヲ御後園ヘ被召、御束帯ヲ被成、仏師弘教ニ御見せ被成候、御側ニ而とくと奉写候、御面相御座相共ニ御生身ニ寸分茂違無之候、」にて制作し称賛されて、綱政と弘教との良好な信頼関係から、田中弘教の作品かと思うのだが、一代による作品ではなさそう。
ちらしにあった不動明王像は湛海っぽい。初代清水隆慶だろうか。

仏画は、宗政の病気平癒の御礼など玄人はだしの作品。残念ながら宗政は宝暦14年(1764)3月14日、父継政に先立って38歳で病死したが、親子これほど仏教美術に傾倒していたとは意外。
綱政・宗政に仏画の手ほどきをしたのは誰だろう。
元禄16年6月10日には奥絵師狩野養朴(常信)が綱政の御前に召し出されており、上位の狩野派だろうか。少なくとも仏画師ではない。
池田綱政像がらみもあって色々と興味深く拝見。

その後、密命?を帯びて、高松市美術館「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」展へ。

top

京都国立博物館

2024-2-23

「泉穴師神社の神像」展、拝見。

拙宅から自転車で15分ほどの泉穴師神社。何時でも行けるが、神像は何時でも見ることは出来ない・・・。

三道を表現した女神像(10世紀)や面部のみ金箔の押された男神像、同木から彫出された男神像や女神像など、みどころたくさんの神像群である。
女神像(NO.58)像底の不規則で、コンパスでいたずらをしたような小さな丸い彫り紋?は何だろうか。
企画展用パンフレットも拝領。

大阪・興善寺釈迦如来像・薬師如来像なども拝見し、「雛まつりと人形―古今雛の東西―」展。

雛人形にはあまり関心がないが、古今雛の「玉眼」には大いに関心。
2代目原舟月作の「古今雛」は、お雛様の眼に玉眼を嵌入している。雛人形の小さな面部に、玉眼に押木をし竹釘を打つといった仏像と同じ技法が使われていないと思ったこと、白眼も綿や和紙を当てたとも思えない。そこから妄想すれば、別に人形に水晶製を用いることもないんじゃないという疑問も生まれる。文献では調べが済んでいるが、実物を拝見していない。
ガラスを挟んでお雛様とにらめっこ。
どのように留めたかまではわからないものの、パンフにあるように、玉眼はガラス製、白眼はレンズに胡粉塗りをした点までは確認できた。

満足しながら大学へ向かう。

top

大学院入試

2024-2-24

朝から大学院入試。芸美は志願者3名、欠席1名。

終了したら、残る展覧会はハルカス美術館「円空」展かなと思案している。

top

古物と文化財のあわい

2024-2-25

國學院大學博物館から展覧会図録を御恵与。
2月17日~4月14日まで「榧園好古図譜‐北武蔵の名家・根岸家の古物(たから)」展が開催。

冒頭に五姓田義松による「根岸友山」の油彩。解説によると明治11年(1878)4月25日にH.Vシーボルトと共に吉見百欠を見学、根岸家に宿泊している。E.S.モースが描いた器物画もあり、展示品は専ら考古資料が主だが、根岸家と人との繋がりが、なんだかとっても興味深い。
どこかも似たような展示をしているが、御恵与いただいた図録を見ながら、なんだかなぁ~と嘆息しまう。

来月には三浦泰之さんの講演会もあるので、思い切って上京するか。

top

悩ましい

2024-2-29

過日、上のような話を旧友としていたら、旧友が「こんな展覧会もありまっせ」と紹介。チラシは武四郎涅槃図。

2018年秋には武四郎涅槃図についてここで発表したことがある。翌日は台風上陸で大急ぎで帰阪したが・・・。

松浦武四郎と根岸武香も好古仲間。
武四郎涅槃図(明治19年)は河鍋暁斎による。チラシの裏面には河鍋暁斎「地獄極楽めぐりの図」。
こちらは静嘉堂美術館@丸の内。4月13日~6月9日。
再上京を思案。

なんだか、今春の東京はウキウキ!ワクワク!である。

top

過去ログ