日々雑記


能登半島地震

2024-1-1

遅い起床。
朝昼兼用の雑煮を食って、パソコンに向かいあれこれと。

夕刻、突如ぐらり。しばし長い揺れが続いた。ちょっと大きい地震。

揺れが落ち着いた頃にパソコンをニュースに切り替えると、能登半島先端で震度7と告げる。震度7って東日本大震災以来じゃないのか。
なんとか無事でいて、被害が少なからんことを祈るばかり。

正月どころではない気分。

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波乱の予感

2024-1-2

お昼近くに帰省中の下娘らと地元の神社へ初詣。

参拝後、恒例の御神籤。「小吉」。「学問:基礎を見直し勉学せよ」とのこと。
なんか御神籤(製造業者)が替わったようで、ご神託に口語文がちらほら。
下娘「恋愛:ちょっと待ちなさい」、小生「争事:勝ちがたし 言うな」など。
神も忙しいのか、邪魔くさいのか・・・、人間味あふれる御神籤。

夕刻、臨時ニュースが流れ、JALと海保航空機が羽田空港で衝突、炎上。
新年早々、波乱の予感。

わが身にも波乱がおこらぬよう「見ざる聞かざる、言わざる」。

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築200年、事故物件アパート

2024-1-5

明日から授業再開。
中之島美術館「テート美術館展」見学会(第3回)。
会場やや混雑のため、各自で自由見学(質問は随時受け付けた)。

ターナーの作品をじっくり見た後、ハンマースホイ。
学生が見ていた作品(2023-11-13 個人レッスン)はこれかと凝視。
デンマーク・コペンハーゲン・ストランゲーゼ30番地に建つアパート。ハンマースホイの作品は、他に《室内》(1899年)が展示。

コの字になったアパートの2階全フロアを借りていたハンマースホイ(間取りもわかる)。隣で見ていたカップルが「窓の柱、曲がってる」と。そりゃ17世紀に建てられたボロアパートだもの。

ハンマースホイの作品は人が居ない室内画が多い。人が居ない、でもさっきまで人が居た気配や隣の部屋には人が居そうな気配が感じられる“事故物件”絵画。

主催者の意図を汲んで説明すると、印象派は色彩の変化によって季節や時間の推移を示そうとしたが、ハンマースホイは部屋に差し込む光によって時間そのものの推移を表現したとでも言うべきか。

学生も思った以上に早く退出。だから言ったでしょ、半分以上は現代アートだって。
「テート美術館展」というだけで来た一見さんには、点在する中途半端な解説もあって混乱するばかりの展覧会である。

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得能良介

2024-1-9

大蔵省初代印刷局長。

明治12年(1879)春から秋にかけてキヨッソーネらとともに伊勢神宮、正倉院、桂宮など中部・関西・関東各地の文化財調査を行っている。

この時の『巡回日記』も残っているが、なぜ、大蔵省印刷局長が文化財調査?と思う。
キヨッソーネの紙幣をみても多武峰十三重塔が印刷されているが、正倉院宝物などが紙幣に印刷されたことはない。

明治12年には佐野常民が龍池会を発足、会頭に就任しており、翌年には大蔵卿(得能の上司)になっている。
どうやら佐野常民がキーマンとなっているが、明治12年以前の直接の接点が分からない。

画像は明治14年にハワイ王国カラカウア国王が外国元首として史上初めて訪日した時のもの。下段右端は佐野常民、上段中央が得能良介。

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四天王寺仁王像

2024-1-11

田中主水家「日域大仏師正統系図」(『東洋美術特輯 日本美術史第十冊 鎌倉時代上』に翻刻)には、七条仏師康正猶子の康英(右京法橋)が四天王寺修復の折に大坂に引移ったと記されている。

これまで元和年間の四天王寺仁王像が康英作と信じていたが、ちょっと違うようである。
棚橋利光編『四天王寺年表』によれば四天王寺中門仁王像に「元和八戊戌年六月、奈良大仏師侍従作」があったらしく、源豊宗『日本美術史年表』にも同様の記載。
えっ!奈良大仏師侍従!

現在の仁王像は1963年に松久朋琳・宗琳の作(2017年に修復)。
田中主水の出自が不明となった。残念。

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現状維持修復

2024-1-12

京都某所の文化財(書画・古文書)修復工房へ。
某市指定文化財(頂相)の修復。所蔵者、文化財担当課職員氏と同行。

工房にて作品を前にして修復経緯を拝聴。
修復に伴う新しい知見が披露されながら、作品自体は補絹、補彩等が著しく保存状態は悪い。どのレベルに修復するのか、悩ましい。
製作時期は像主没後まもない正平21年(1366)頃。これまで幾度も修理を経ている。

補絹、補彩をどうするか、3案が提示。
聞きながら、脳裏に(2016.11.25 マジか)この仏像が想起される。
まずは所蔵者に修復の意向を尋ねられるも、「センセはどう思いますますか」と所蔵者。
えっ~、しばし熟考。
件の仏像の件が頭にあって、「基本的に可能な限り、補絹、補彩は残しましょう」と。
補絹、補彩を除去すると頂相の図様は大きく変化、取捨選択すれば画面の統一感が失われてしまう。共に指定文化財の修復としてはまずいことに。
結局、小生の意見が通り、補絹、補彩等が原則残すこと、図様の変化、統一を損なう点があれば、以後協議のうえで判断することに。

工房を後にし、文化財担当課職員氏に「ホンマ、あれでよろしいんでしょうか?」と。
職員氏曰く、「所蔵者も背中を押して欲しかったでしょう。あれでよかったと思います」と。安堵。

最寄り駅そばの川縁で一服しつつ、作品が辿ってきた歴史の痕跡も一つの証拠であり、「現状維持修復」というのも修復にとって大切なことなのだと実感。

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べた足(偏平足)

2024-1-16

旧聞ながら、善光寺仁王像が自立構造であったとの報道
ということは、足裏はべた足(偏平足)なんだ。

記事にもある通り、一般の仁王像の場合は足枘と背面と門とを繋ぐ鉄製支持棒で像の自立を支えている。 仁王像の自立を意識して造像すれば、足は自ずとべた足となる。

某所の仁王像雛型も自立している。無茶な造形ではない限り、肩から立脚部分までを同一材で製作すれば、後は「ト」の2画にあたる部分でどのように支えるかに尽きる。雛型では裾部分と遊脚部を一材製としているが、これはあまり現実的ではない。

懸案の仁王像もべた足。大好きなイラストを前にして「べた足」を考えている。

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美人局

2024-1-17

先週の一般教養終了後、とある男子学生が教壇へ。
「あのぅ、大掃除で2~10回のレジュメ、誤って捨ててしまったんですけど・・・。」
なにをアホなことを・・・と思いながら、紙片を差し出し「ここに学籍番号と名前を書け。控えのあるレジュメは、どうにかする」と(小生、甘ちゃん野郎)。
ところが、学籍番号がkで始まっている(普通は社‐××× 文‐×××)。あれ?「ちゃんと書けよ!」。
件の学生、しばし教室後方の自席に戻ってそばの女子学生となにやら・・・。
改めて紙片に学籍番号と氏名。学籍番号は聞いて確認したものの、氏名はごく小さい字で走り書き、不明瞭で判読不能。

部屋に戻って、学籍番号で確認すると、学生の性別欄は「女」。
男子学生とどういう関係かわからないが、自席そばの女子学生が男子学生に強要してレジュメを得ようとした模様。もちろんレジュメを送付するわけにはいかない。

今日、件の女(氏名を晒しても問題はないと思うが)から「まだ送られてきていません」とのメール。ブチギレ。
「あなたが直接、相談に来たならば配慮したかもしれませんが、自分の不始末・不注意の尻ぬぐいするために他人を遣わすなどとは言語同断、人として最低の行為だと考えます。自分自身の不始末・不注意の尻ぬぐいはご自身で処理して下さい。」と回答 。

世間ではアンタのような人間を、美人局(「美人局」って読めないか)っていうんやで。

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仁王像

2024-1-19

どうにも理解できずに、奈良国立博物館へ金峯山寺金剛力士像を見に行く。

だいたい阿形像は、威嚇のために左手を肩の位置より上に上げて金剛杵を握っている。
倉田文作『仁王像』をみても肩より低い位置で構えているのは福島・法用寺像と金峯山寺像のみ。
金峯山寺像にしてもせっかく肘を上げていながら左手をやや下げて、掌はほぼ肩の位置くらい。
全然、威嚇のポーズになっていない。

福島・法用寺像があるように、平安時代後期からみられる異種のポーズ。

金峯山寺金剛力士像をじっくり見ても、なんで下げたんだろうかと疑問にも思う。
岡寺仁王像(阿形像)も下げているので、奈良独自の地域性?それとも近世の変形バージョン?

この根拠はどこにあるのだろうかと悩むばかり。

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寒糊炊き

2024-1-20

冬本番。この時期に行われるが、「寒糊炊き」
この時期はごく一般の大学では、最終授業やレポート、試験などで微妙な頃合い。

某私立大学保存関係学科。
この時期に学生ともども「寒糊炊き」を行う。 これまで問題なく行っていたが、ある時期に「授業として扱われるのですか?」と学生。
教員は「困った時代になりました。」と嘆息。
私なら、「授業ではありません。嫌なら参加しなくて結構です。但し不可を付けますが・・・。」と返答。

「寒糊炊き」で作った糊は、毎年、表層のカビを取りながら10~15年ほど寝かせる。そうすることで柔らかく耐久性のある「古糊」が出来上がり、ようやく修復に使用できる。
学生がふだん修復実習に使っている糊は10~15年前に先輩が「寒糊炊き」した古糊。
そんなことも判らずに単位だけ気にしているようでは見込み、将来性ともにゼロ。

そんな学生には、木工用ボンドかアロンアルファでも渡して「はい、あなたはこれで修理ね」と言ってやればよいのに。

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竹崎石見

2024-1-22

鋳造史研究者から多数の論文をご恵与。

内容にあった香取秀真『日本鋳工史稿』(1994年)見ていると、椎名伊予守、粉川市正などに混じって「竹崎石見入道法橋浄閑」。正徳2年に増上寺・文照院霊廟前燈籠を献上したとする。弘化8年には「『武鑑』に神宝方棟梁に『京ばし南てんま丁3丁目』竹崎石見とあるのはこの後ならんと香取は記すが、文化6年(1809)には「神宝方御用取/京橋南伝馬三丁目/大仏師竹崎石見」と名乗っている。

仏師と鋳物師。隣接した分野ながら、あまり言及されていない。
そうした点を補って余りあるご高論。

金銅仏ばかりに目を向けていると、視野狭窄になると実感。
反省の意も込めて、あつく御礼申し上げる。

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鈴木修理日記①

2024-1-23

天和3年(1683)8月16日
一大仏師左京、会所江呼寄、三仏堂本尊見分可致之由、御奉行衆御申渡。

同年8月25日
大仏師左京・同式部・同伝右衛門、三仏堂幷十二神修覆之直段書積参、然処に左京方三仏堂修覆金五十両、十二神修覆銀壱枚、右落札付、則左京御申付け可被成之由相極ル。
一大仏師左京三仏堂之本尊・十二神、弥御申付被成候付、則手形御申付、則左京事、明日江戸帰候筈。

同年9月11日
一大仏師左京参り候付、三仏堂此度破損之所、念ヲ入見積り候様とと申付ル、右之御用相達候内、追付八ツ時に成候付而、各々御帰、

同年9月12日
一大仏師左京、昨日於会所、三仏堂破損見分候様と申付候間、則見候処、事外破損仕候間、先日之積と都合金子百両而仕上可申之旨、乍去直段少々高直之間、今少引さげ申候様と申し、書付則左京返ス。

同年9月15日
一大仏師左京、頃日申付候三仏堂積書、致持参、金子九拾両にて仕上ゲ可申之由、則其通被仰付ル。

同年10月3日
一大仏師左京、御宮廻廊新規三間之彫物、其外繕彫物之儀、金四拾両而被仰付、則手形御申付。

康祐は、たぶん何か企んでいる・・・。

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予告編

2024-1-25

今年の飛鳥史学文学講座は「国華余芳」をめぐるお話。

大蔵省印刷局で一番の高給取りであったお雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが見た正倉院宝物や伊勢神宮神宝は何か?
正倉院宝物や伊勢神宮神宝など、今日ではあまり有名でない(マニアックな)作品を選んだのは、なぜか?などの謎に迫ります。
画像は正倉院蔵「紫檀金鈿柄香炉」。現品と比べると、獅子の位置が異なっている。

というような自らハードルを上げてどうすんねんと不安な回答をした後、恒例の定期試験会場へと急ぐ。

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おバカ極めり

2024-1-29

久しぶりに、ルーブルの「モナリザ」にカボチャスープをかけたバカ者。

「芸術と健康的で持続可能な食料を得る権利、どちらが大切か?」って、芸術に決まっているじゃないか(あくまでも個人的意見)。

リポスト・アルメンテール(フード・レスポンス)の仕業だが、こうした馬鹿者に食料の話をする資格は全くない。
カボチャからカボチャ・スープを作るのに、どれだけの人の手が加わっているのか、かけたスープだって何処かの一人の子供の飢えを救えるじゃないのか。
やっていることがもう支離滅裂。目立ちたいなら、他の方法もいくつもある筈。

もうマスコミも「環境活動家」じゃなくて「桐島聡」のように「非公然活動家」「環境テロリスト」って書けばいいものを。
いったい誰に忖度してんねん?

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調査

2024-1-30

某古刹で仏像調査。

江戸時代と室町時代(天文の紀年銘有り)の仏像。

江戸時代(18世紀後半~末)の作品は台座一式が最近の修理によって一新される。おそらく旧台座には銘記があったと思われるが・・・。
仏師側の記録では、このほか長崎で四天王像を製作していると記すが、現在では長崎に該当寺院はない。
ちょっと困った・・・。

天文の紀年銘の仏像は未完成。墨書銘がかなりたくさん。比較的丁寧に記されているので判読もそう難しくはない。

思うに、安置すべき堂宇と共に製作したが、堂宇の建設先行で製作されたが、そこで資金や喜捨が尽きたのかも知れない。

推測を裏付けるように、調査終了後に見せて頂いた境内古地図には堂宇が立っている。

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お泊り

2024-1-31

光陰矢の如し。明日から入試。

9:30大学集合。逆算すると6:30までに起きねば。
最近は就寝が非常に遅く、朝、起きるのが辛い時も。
早く寝ればよいものをあれこれ考えているうちに丑三つ時にも。

大学の一大イベント、遅刻はご法度。
齢も考え、天六のビジホに宿泊。

日頃ホテル前を歩いているが、よもや泊まることになろうとは。

随分快適なので、卒論口頭試問(9:00スタート)にも利用するかも。

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過去ログ