日々雑記


ぼったくりバー

2021-3-1

コロナ以前の他大学でのお話。

某教授が助手、院生、学生らを率いての大コンパ。
まぁ普通は料理は既に用意されているか、「好きなものを注文しなさい」となるが、教授ひとりメニューを見て(教授が好む)料理をどっさり注文。
宴たけなわながらも解散となり「お会計」。
教授は参加者を数え「ひとり5000円!」と宣う。一同、え゛っ~!!
「(教授の)オゴリじゃねーのか!」「これなら、私たちにもメニューを見せてほしかった!」と解散後、憤懣やるかたない学生たち。首を下げて学生をなだめる助手・・・。

そんな話を聞きながら複数で飲んでいた私。
大枚しかなかったので、隣席の人が5000円出したのでそれを取り、会計役に渡した。
帰途の車中、色んな話が出来て楽しかったと反芻するうち、隣人は車で参加していたのでノンアルコールビール1本しか飲んでいなかったのに気づく。あちゃ~。
某教授と同類。ぼったくりバーのマスターである。

帰宅後、返金とともに平身低頭のお詫び状を書く。最低なヤツと反省。

top

どうした?

2021-3-3

午後、他大学(国立大学)の大学生、来室。
これがうちの学生ならとも思うが、まぁ「仏の顔も三度まで」ですから・・・。

用件はもちろんマニアックな近世彫刻史の件。2時間ほどあれこれと対応。

素朴な疑問だが、近頃、他大学の学生や院生から近世彫刻史の質問や疑問をメール等で送ってこられることが多い。できる限り返答するが、私が言うのもなんだが、まだまだ”発展途上”の世界。地道にやらなければならない事も当然多い。
最近までこんな世界(「百姓にも歴史はある」(2015-06-30))だぞ。

学生が帰った後、「日本彫刻史」業界はどうしたんだ?と思う。

top

早春

2021-3-6

昨日の雨で、早咲きの桜も既に”落花盛ん”。
一昨日までは「ヲイヲイ、そんなに早く咲いたら入学式には”青葉の桜”やで」と眺めていたのでひと安心。

各地でサクラの早咲きのニュースが伝えられる。
もうすぐ卒業式&入学式。特にこの時期は年々早くなっていくような気がする。
恒例となったキンコーズ通いも早や終了。

手帳には、既に新2回生や新入生ガイダンスの日程も。
まさに「去る」3月。色々とニアミスに近いほどタイトな予定になっているのもお決まりのパターン。

ちょっと息抜きが欲しい。

top

再び浄而

2021-3-8

とある仏像の修復履歴を調べていたら、なんと塩釜浄而。

「大仏師職 京都住 塩釜浄而法橋」「文化十二乙亥年四月吉日」。
そもそも堂宇は文化元年(1809)に類焼し、仏像は嘉永7年(1854)に仏師 某(29歳)が再建と記録にみえる。かなり長い間再建できなかったと思っていたが、12年後に再建していたとは。 記録に見える仏師 某は修復(再興)なんだろうと、合点。

ところがまたもや問題。
某寺の「大仏師職」は、天保年間は大坂仏師。天保以前の大仏師職は塩釜?
だとしたら、京都仏師でもかなりの実力者。

再度、記録類をみることに。

top

半ば場当たり

2021-3-10

某所で村野藤吾建築の耐震補強が話題に出た。

診断は公共建築ながら避難所に使用しないため、広い間取りである1Fのみに数か所の壁を補強すればよいとの判断(2F・3Fは問題なし。もちろん外観も改修なし)で、さすが村野建築ですねと、建築史の先生が絶賛。
思わず、俯いてしまったわ。

「厳しいコストの条件下で、半ば場当たり的に造られたものが多」い村野建築は、外観は鉄骨の格子が嵌められ、内部も補強の×印が並ぶ。挙句の果てに費用がかかるのか、壊して新たな(チープな)建築に替えてしまう。

違う意味での「安物買いの銭失い」を地で行くありさま。

top

空海 入定

2021-3-11

高野山奥の院御廟橋。これより先は撮影禁止。
この奥の建物(燈籠堂)の奥に御廟がある。

空海は承和2年(835)3月21日に閉眼、入定(永遠の禅定)したという。ここから「入定信仰」が出来、今日でも維那が1日2回、御廟の空海に衣服と食事を届けられている。
延喜21年(921)10月には、東寺長者観賢の奏上により醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られる。
観賢は、空海に大師号の報告と下賜の檜皮色の衣を渡すべく「奥の院」を訪れたところ、

其の(入定)後、久く有て、此の入定の峒(ほら)を開て、御髪剃り御衣を着せ替奉けるを、其の事絶て久く無かりけるを、般若寺の観賢僧正と云ふ人、権の長者にて有ける時、大師には曾孫弟子にぞ当ける。彼の山に詣て、入定の峒を開たりければ、霧立て暗夜の如くにて、露見えざりければ、暫く有て霧の閑まるを見れば、早く、御衣の朽たるが、風の入て吹けば、塵に成て吹立てられて見ゆる也けり。 塵閑まりければ、大師は見え給ける。御髪は一尺許生て在ましければ、僧正自ら水を浴び、浄き衣を着て入てぞ、新き剃刀を以て、御髪を剃奉ける。水精の御念珠の緒の朽にければ、御前に落散たるを拾ひ集めて、緒を直ぐ揘(すげ)て、御手に懸奉てけり。御衣、清浄に調へ儲て、着奉て、出ぬ。僧正、自ら室を出づとて、今始て別れ奉らむ様に、覚えず無き悲れぬ。其の後は、恐れ奉て、室を開く人無し。(『今昔物語』「弘法大師始建高野山語」巻11-25)
86年間、高野の僧は何してたんや!

御廟橋の手前に御茶処(頌徳殿)があり法話が行われている。
以前、グダグダな法話(良い法話もある)があって時間が余り「何でも聞いて下さい」と振られたので、素直にこのことを尋ねてみたら、顔を真っ赤にして「嘘です!ずっと入定されています」とキレられてしまった。

『今昔物語』の記述は真実を語っているように思っていたのに、残念。

top

世が世なら

2021-3-13

山梨・恵林寺不動明王坐像から「七條大仏大貮法印 康住造」「元亀三年四月□日」の銘記が確認されたとの報。

『甲斐國志』巻75では、「信玄が京から仏師を招き、自らと対面させてその姿を模刻させ」「信玄の頭髪を焼いて著色した」像とされる。

七条西仏所康住。
このあたりは複雑ながら『系図』では、康清(豊後法印)の長子として康清(宰相法眼)、次男として康住がいる。
「康清」は織田信長坐像、康住は豊臣秀吉坐像を制作している。この間に信玄ゆかりの不動明王坐像を制作。

時の権力者に沿って仏像等を制作した七条西仏所である。
世が世なら、徳川政権になっても京都仏師の筆頭になっていたはず。
これを覆したのは、南光坊天海だと思うのだが・・・。

top

関大明神

2021-3-14

「カンダイ明神」ではなく「関(せき)大明神」である。大阪府島本町所在。

龍谷ミュージアム再訪。阪急大山崎-JR山崎を歩くが、JR山崎駅近傍に鎮座する。関大明神社横には「従是東山城國」の石碑。このあたりが摂津と山城の国境。
本殿扁額には「鎮疫神」。平安時代の「畿内堺十処疫神祭」のひとつ。
「コロナ退散」を祈って龍谷ミュージアムへと向かう。

ミュージアムでは、前回、気づかなかった部分もあり、閉館近くまでじっくり見学。

top

帰ります!!

2021-3-16

3月18日から庄内交通の高速バスが再開。
これで鶴岡(庄内観光物産館)で山形行バスに乗り換えれば、10:00前に到着、朝から活動(仕事)・・・と喜んでいたところ、沖縄での会議の連絡(10:00開始)。
”テーゲー”な土地柄、終了予定17:00とされてもあまり信用ならない。

コロナ禍の状況下、那覇発大阪行(伊丹・関空)は18:05が最終便、神戸行は20:10(到着は22:05)が最終便。
神戸行では、どう頑張っても終電1本前、午前様の帰宅は必至・・・。

悩んだあげく、18:05便で帰阪予定。
会議がそう長くならないことを祈るばかり・・・。
「会議途中ながら、帰ります!!」

top

伊勢と源氏

2021-3-17

久保惣記念美術館へ。
常設展としながらも興味深い内容。

かつて、源氏物語色紙の展示をしたことがある。
その時、伊勢物語の研究者が来られて「『伊勢物語』が流行る時には『源氏物語』が不評で、交互に流行のピークがくるのです」とおしゃっていた。
また『本阿弥行状記』中巻(江戸時代中期あたりに光悦の子孫が書いたとされる)にも「今時めける林道春など、太子をそしり、兼好法師のつれづれ草、源氏物語などをそしらるるがごとき、」とみえる。

土佐光吉『源氏物語手鑑』をじっくりと見た後、源氏絵と伊勢物語絵の競演。
伊年印(宗達派)の「関屋図扇面」や益田家旧蔵の伝探幽筆『源氏物語画帖』をみると、どうもそうした感じではないようである。静嘉堂文庫美術館「関屋澪標図屏風」もあるし・・・。でも嵯峨本「伊勢物語」(角倉素庵)をみると、やっぱり宗達光琳は「伊勢」を重視しているとも思ったり。
展示場をあちこち徘徊。小林清親「伊勢物語東下り小襖」には、ちょっとびっくり。

奈良絵本「伊勢物語」や第3室の「蒔絵芥川硯箱」は、大和文華館色紙(宗達)と同じく東博「異本伊勢物語絵巻(模本)」系。盗んだ女性をおんぶして逃げる男。
久保惣美術館『伊勢物語絵巻』「芥川」(鎌倉時代)とは構図が異なる・・・。
構図としては異本のほうがよかったのだろう。

疑問は解消できなかったが、久しぶりにじっくりと鑑賞。
表に出ると、もう春はそこまで。

top

卒業式

2021-3-19

午後から卒業式。
教室に集まってYouTubeを視聴。式場には各学部総代と学長、理事長ら。

学長はガウンのコスプレにフェイスシールド。
いやいや大学一広い会場やろ、マスク外してもOKじゃないの。祝辞はジャルジャル・福徳との対談話・・・。
さすがに見かねて、一時退出。むぅ。

その後、卒業証書授与式。
お決まりの記念撮影があり、学生らとの雑談後、部屋に戻る・・・。

いくつかの書類を整えて、新大阪へと向かう。
これからだとホテルに着くのが精一杯なので弁当と缶ビールを買って東へと向かう。
夜も更けた頃に某所到着。

top

仏像梱包

2021-3-20

朝から検討会と最終チェック。
さっそくメンバーから揶揄。「どうしたんですか。その恰好。なにごと?」「昨日は卒業式だったので」。普段はジーンズとジャンパー姿。今日はスーツにネクタイ。そりゃ聞かれるわ。

検討会(最終チェック)は午前中で終わり、午後からは日通精鋭部隊による梱包作業&輸送。

久しく梱包作業をみていなかったので、作業の邪魔にならぬように拝見。梱包している資料は これ(2017-12-17)である。

梱包作業を見ながら、これまでの様々なことが蘇ってくる・・・。ちょっと感慨深い。
とはいえ、追っ付けこちらも行かねばならない。

"美専"を見送って、帰阪の途につく。ひとまず、車内でプチ・祝杯。

top

龍谷大学 新2回生?!

2021-3-21

この頃のTwitter(通知)。
龍谷ミュージアムを見ていたからか、龍谷大学広報からのお知らせTwitterがよく届く。
4月3日、4日に瀬田、深草で新2回生を対象とした入学式(昨年の入学式はコロナで中止)の案内、多くの授業が「予備・事前登録」が必要、本登録だけでは必修科目が履修できないので3月28日までにポータルサイトから登録することなどなど、色々と大事な情報が発信される・・・。

Twitter内部で、「コイツ、ひょっとして龍大生じゃね?だったら龍大広報のTwitterも必要だよな」って、なって通知が届くのかもしれない。

流石に「いいね」は押さないが龍大生の反応も面白く、しばらくは通知されるままにしている。

top

指定

2021-3-23

午前中、新2回生ガイダンスを終えて、ソッコーで某所の文化財審議会へ向かう。
指定候補作品は仏教絵巻。
美術(絵画)担当ではないが、やや不安があるかも知れないとのことで駆け付ける。
当方も調書をもとに既に事前学習済。

室町時代特有の“奈良絵本チック”な作品で、筆者のみ不明だが、製作時期、依頼者、製作事情などが明確にわかる作品。
どんな疑義・質問が出るのか、緊張しながら審議。滞りなく審議が済み(建築史の先生からイレギュラーな質問)、無事に新指定の方向となる。

審議会終了後、やや長い相談があって帰宅の途につく。
気疲れもあるが、車中で爆睡。 危うく乗り過ごすところだった・・・。

top

那覇行

2021-3-24

朝から快晴、気温も18℃、すっかり春の陽気。

JTA005便にて那覇に向かう。
沖縄に近づき下降しだすと厚い雨雲に覆われ、天気 小雨、気温 摂氏20℃とのアナウンス。

那覇空港も以前に比べると観光客がやや多いが、国際通りも店を閉めたところもかなりある。

事前の打ち合わせも兼ねて安里で一献。相変わらず、小雨程度では傘をささない人もちらほら見かける。

色々な話もあって、明日も朝から仕事ながら深夜に及ぶ。
(沖縄では「終電が無くなりますので・・・」という逃げ?口上は通用しない)

top

金剛力士像、ついに立つ。

2021-3-25

朝から快晴。気温も急上昇。持参のかりゆしウェアに着替える。
開梱と取り付け作業。ついに仁王像が立ち上がった。

あの時(5/26)から始まった。
いや、そもそも1998年10月の沖縄初調査の時からかも知れない。
4日間の調査を終えようとした時、担当者が資料(木片群)を出してきた(「あの時」の写真)。
既にその時にこの計画が脳裏にあったのかも知れない。

相談を受けて逡巡し関連資料を訪ね歩き、試行錯誤しながら、ふとしたことから最良の研究者に巡り合い、その縁で最良の製作者に出会って、ここまで来ることができた。
深謝以外の言葉はみつからない。

現担当者から連絡が入ったようで、職員氏がぞくぞく来室。(記念)撮影したり、まじかでしげしげ眺めたり・・・。

午後からは仁王像を見ながら、製作者、関係者を交えての最後の会議。尽きぬ話題を重ねているうちに、もう4時過ぎ。
車でゆいレール最寄駅まで送ってもらい、大慌てでJAL2088便にて帰阪。

top

本の耳折り

2021-3-26

沖縄の道中、通勤途上の吊り広告にあった柳広司『風神雷神』を読了。
歴史エンターテイメントながら、はっとすることも。

豊臣秀吉7回忌を記念して慶長9年(1604)8月の豊国祭礼図を描いた屏風。この時、「不思議なことに」方広寺大仏殿はなかったと記される。
確かに慶長7年(1602)12月4日に「仏ノ左之膝二足シロノ穴アリ。其穴ヲ鋳懸時。金湯餘ヲ入懐中。身内全身成火焼上リ。仏ノ背ニ二尺ノ風穴アり。自其火出テヽ。光ニ付テ。御光ノ仏皆焼却シテ落堂」(『鹿苑日録』)と、流し込んだ銅が漏れて大仏と大仏殿は全焼。
豊国祭礼図屏風の方広寺は、舟木本「洛中洛外図屏風」に描かれた方広寺と同一。

元興寺五重塔が焼け落ち、焼失後に描かれた屏風でも五重塔が描かれているなど、絵画では、たまに起こる現象。

歴史エンターテイメントながら、ちょっと気になる箇所は耳折りにしている。

top

タケノコ親爺と拉麺娘

2021-3-27

豊国祭礼図屏風について、もうひとつ。

この時代、人よりも一歩でも二歩でも目立つことが肝心であった。
豊国祭礼図屏風といえば「タケノコ親爺」である。
徳川美術館本や豊国神社本でも描かれる存在。
徳川美術館本では髭を生やし、サンタのような赤い帽子を被っての登場。
2m以上の二本足のタケノコ男、目立たないわけはない。

代わって現代。
2019年渋谷のハロウィンでの仮装。醤油拉麺娘、登場。

皆が有態の仮装(背景のミニーやマリオ)をするのは、「流行に遅れたくない、しかし目立ちすぎるのも困りもの」の表れである。
でも拉麺娘は、「他人よりひとつでもふたつでも(目立つことで)抜きん出ることが重要」と発想したはず。
どことなく、タケノコ親爺と拉麺娘の意識が通底しているとしか思えない。

振り返ると、この意識は平安時代後期から現代まで高低はあるものの、「ハレの場」の意識のようにも思える。

長寛2年(1164)の平家納経。これまでの紺地金銀泥による写経が、金銀をふんだんに使用したクオリティの高い装飾経に変化。同年の蓮華王院本堂 (三十三間堂)千手観音像の造立。凡人は1体でも千体でも功徳は同じだと思うのだが、後白河上皇は圧倒的なボリュームを求めた。

こういう発想こそが、現代の文化を動かす原動力だと思う。

top

サクラ街道

2021-3-28

朝から小雨。
密にならずにサクラを堪能したいと家人と末娘。また朝からムリなご要望を・・・。

吉野に出て国道166号線を東へ向かう。紀州藩の本領と東の領地である松阪を結ぶ和歌山街道。

三重県境(高見山)にほど近い宝蔵寺。大般若経600巻は県指定(1953年指定)。
境内には大きなシダレザクラ(東吉野村指定文化財〈天然記念物〉)が幾本もある。共に満開。

こちらはサクラを眺めつつ指定案内板をみる。
貞応2年(1223)から嘉禄3年(1227)にかけて製作された春日版。
巻53には「奉為慶圓上人滅罪生善彫刻/當巻資彼菩提矣/貞應二年三月二十九日/佛子貞縈」、巻46にも「相當沙彌政阿彌陀佛十三年周忌引/奉彫供養親父安陪時資/嘉禄元乙酉九月一日」などの奥書。
所在は山辺郡上菅田(天理市二階堂)蓮華寺から天文期に当地の地蔵院、文政期には現在の宝蔵寺へと変遷。實尊、雅縁、信圓など興福寺別当の名もみえる。
ここは、やはり大和国。

雨も本降りとなったが、車窓からほぼ消えることのないサクラを眺めながら松阪到着。
満開の"サクラ街道"は堪能しましたか。

top

復古と革新

2021-3-30

なんだか訳が分からない。

「(隠元の渡来は)正に禪宗革新の曙光となったものである。臨濟宗も曹洞宗もこれによって大きな刺戟を與えられ、生氣をとり戻すこととなったが、それは復古と革新という二潮流の抗爭過程を通して釀成されたものである。」(鏡島元隆「古規復古運動と其思想的背景」(『駒澤大學研究紀要』16, 1958年)

曹洞宗にとっては復古派(古儀順守)と革新派(黄檗受容)が交互に主導権を握った近世暗黒史。でも黄檗宗は「臨済正宗」。なにゆえ曹洞宗が大きく影響を受けたのか。
臨済宗こそ危機感を持たないといけないのだが、めちゃ不思議。

宗旨に関わることだけなら看過できるが、造像面にも及んでいる・・・。

臨済宗は黙殺なんだろうかと、ふと思う。

top

片岡友輔

2021-3-31

大学も桜が満開。明日は入学式。
諸事が片付き、ようやく落ち着いたと思ったら、もう年度末。週明けから早や授業開始。

昨日は大阪で432人の感染者。明日から「まん延防止等重点措置」である。
入学式でも新入生の家族や在学生はキャンパス入構を”ご遠慮いただ”くとの由。

『松井乗運翁行状』を読む。
松井乗運(1815~1887)は金沢仏師の松井家の末裔。14歳で京都に出て「座光師」萬助に寄寓し、「大仏師」片岡友輔に入門する。
台座と光背を製作する「座光師」も初耳だが、片岡友輔が仏師としている点に驚く。祇園山鉾の破風彫刻を手掛けているが、『平安人物志』では「良工」となっている。
『京都美術雑誌』1号(1890.9)には、田中宗祐「仏工片岡友輔伝」となっている。こちらを見ると「名ハ康道友学」。友学の末裔?
片岡友輔は三河岡崎の某寺の徒弟で、大仏師七条某が某寺に来、片岡が器用であったので、京都へ連れて帰ったとする。
これまで「良工」(彫刻師)と思っていたが、俄然注目。

幕末明治の仏師は奥が深い。

top

過去ログ