日々雑記


寝ぼけ眼

2017-12-1

金曜日は午前中の授業があるので、淀川を越えるあたりまでは頭が回らない・・・。
1時限の授業が始まり落ち着いた頃に関大前に到着。

EVに乗って構内に向かう。
ぼうぅと歩いていると、事務室の窓に貼ってあるポスターに私の名前。
な、なんや・・・とよく見ると、来年2月の東京センターでの講座。そうやったと思いながらレジュメの締切は何時やったかなと、再びぼうっとした頭で部屋へ。

小1時間かけて意識を取り戻して、始業のチャイムで教室に向い「はいっ、おはようございます。先週の授業では…」と講義を始めるのが、金曜日の習慣となった。

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灯光器

2017-12-4

見学会の振替を今日にあてて山中の寺で調査。

本堂をみた瞬間、しまった!と後悔。電燈を持ってくるのを忘れた。暗闇での本堂では調査が出来ない。
撮影用のフラッドライトもストロボ撮影に替えてから持ち歩かなくなったし、モデリングランプではいかんともしがたい。そもそも電灯線は引き込まれているのか?

きれいな銀杏の絨毯を横目に電灯線の確認。来ていることは来ているが、”生きてる?”
ご住職が現れてご挨拶の後、すかさず「この電線、生きてますか?」「はい。」
問題はどうやって灯りを取るか・・・・と考えているうちに調査の同業者が来訪。

事情を話すと、大型カバンから工事用LED灯光器を取り出し、「これで大丈夫でしょう」と。助かった~。

調査が終わって、灯光器の御礼をいうと、「かなりの田舎(のお寺)に行くと、電気が来ていないお寺もありますので、本当は充電式がよいのですが」と。
幸いにも未だ経験がないが、灯光器1台もって調査にいけば楽だがどんどん荷物が増えていく。もうこれ以上の装備は無理。

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興福寺

2017-12-5

卒論指導も佳境に入ったが、文化財×ICTシンポ&興福寺中金堂見学に参加。興福寺会館へ。

ICT(情報通信技術)関係で、文化財といえども場違い感も否めないわけではないが、これも この人 のため。

中金堂の見学(2F)で作業の方が説明している間、ここから南円堂はこう見えるんや、奈良博の屋根はかなり目立つなどとキョロキョロしていると、「奈文研の方ですか?」と問われ、やや不審者。
いいえと名刺をさしだすと、笑って「(今回、貴兄に)ちょっと話でも・・・」と焚き付けたのは実はボクなんですと、名刺交換。

講演終了後、交流会も参加。頂いた名刺には企業名と博士(理学)や博士(工学)の肩書がずらり。やっぱり場違い。

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時間切れ

2017-12-6

昨夜は飲んで帰宅したにも関わらず、未明に起きだして原稿(某町「調査報告」)を書くという真面目ぶり。

ようやく山場は済んだ・・・とメールを開くと某教育委員会から「調査報告を頂く期限が過ぎていますが・・・」と督促。
忘れていた訳ではないが、興味ある構造だったので深入りしてしまい、つい遅くなり、本日ようやく送付。

過日のセパレートタイプの阿弥陀如来像。康雲以前の阿弥陀如来像はそう数多くみているわけではない。立像なので足枘の写真は撮るものの、盗撮のような像底を下から見上げるカットの写真を探したが、さすがに見つからなかった。像底に銘記がないので未撮影は当たり前か。

「木仏裏書」のほうも、小泉氏以降の論考は皆無。某町の報告書絡みではないなら、もっと色々とあたることができたのだが、さすがに時間切れ。

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ネジが外れている

2017-12-7

某機関からの分担執筆の原稿が完成。

大まかな原稿依頼は何時だったか覚えていないが、確か那覇でひとしきり飲んだ後のことだったような・・・。

江戸時代後期以降の仏像史という珍しい(変わった)依頼だったので、ついつい変わった資料を出して論述。
1万字ほどの原稿だが、キーボード叩いて推敲しているうちに朝になり、はや出勤ということも。字数は少しオーバーしたが、特段問題はないだろう。ちょっと充実感。

怠惰の身から大きく離れていく現実のわたし。ネジが外れているとしか思えない・・・。

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大権修利菩薩像

2017-12-8

午前中の授業を終え、東西学術研究所の研究例会で発表。

曹洞宗の大権修利菩薩像は本山も含めて一部では華光菩薩像が採用、しかも「大権修利菩薩像」と呼ぶ。

華光菩薩像であるとの指摘は二階堂先生の論考以降のこと。それまで「関帝」やら・・・。
どちらも「大権修利」と読んで文献からの解明は難しく、まずは資料集成。圧倒的に東日本が多い。

結論めいた事はいえずに、現状の紹介に留まる。
こんな事項は本山傘下の研究所や大学が取り組むべき問題ながら、相変わらず「道元」だの「禅とは」などに留まっているのは、実に惜しい。

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近代彫刻としての仏像

2017-12-9

朝方までPC画面とにらめっこし、メールで送信してしばし仮眠。午後、関空から成田へ。意外に都心まで遠い。
目黒・五百羅漢寺講堂での「らかん仏教文化講座『近代彫刻としての仏像』」。

松雲元慶の五百羅漢像をじっくり拝見したかったが、師走&怠惰ゆえままならない。
夕刻、目黒到着。講座を拝聴しながらも、この後、都内に勤務の娘たちとの一献が楽しみ。

講座のスライドで平櫛田中「熊野速玉大神像」をみる。「熊野女神像」から(インスピレーションを受けて)のオリジナルとされるが、伝教大師像の頭に宝珠を載せた像に過ぎない。 せめて高村光雲―五百羅漢寺像を称賛―に絞って講演すればよかったのにと思う。

講演後の休憩のあとに質疑応答があるが、ここで思いをぶちまけると「ちゃぶ台返し」になるので質疑応答の前に退出。ただ近代木彫家が「仏像」を志向していなかったという点には大いに賛同。

その後、娘たちと会い「おとーやん、飲みすぎ!」と叱られるほど痛飲。娘には頭があがらないが、飲まずにいられるかと愚痴りながらも楽しいひと時。今宵は娘宅にご厄介。

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テロリスト

2017-12-10

テロリスト長谷。
LCCで成田から関空へ。搭乗後、座席(14A)に座る。
しばらくすると、HT氏と小生に対して「おられましたら乗務員にご連絡を」と機内アナウンス。は~い。…何の反応もない。

離陸後、男性乗務員が近寄り「HTさんですよね。搭乗券を拝見」と。ちゃうでと言いながら、指摘され改めて見ると搭乗券の名前は「HT」。えっ!

本日同便同座席ながら名前が違う・・・。復路の搭乗券は昨日、関空で往路と共に発券済。関空→成田の搭乗券は長谷。行程表と往路搭乗券を差し出し、身元確認のために免許証までも提示。男性乗務員が再び戻られて、氏名訂正された搭乗券が戻って「チェックインの時を思い出して下さい」と。な、なんやねん・・・。

ぶー垂れながら1時間で関空到着。搭乗口を出る際に呼ばれて男性乗務員から次の説明。
昨日と本日の(長谷さんと)まったく同便でHT氏がチェックインされた。共にA・Fの座席を指定。
ところが、HT氏は昨日の関空のチェックインで復路の搭乗券を取り損ねた。そこへ小生が来てチェックイン。こちらは往路とあわせて搭乗券が2枚出たことで、復路の搭乗券はそのままリックサックの中へ。HT氏は復路の搭乗券がないことに気づき、直前にチャンセル。行程表をみると、小生の本来の座席は「17A」、よく見ると予約番号も違う。
彼が座るべき14Aの搭乗券は小生の手元にあり、本来私が座るべき17Aは空席状態。

アメリカなら直ちに航空機から降ろされて、別室で尋問を受けるテロリストでもある。
機内でのもやもやも乗務員の説明を受けて解消したが、復路の私の搭乗券はいずこへ。

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高村光太郎『手』

2017-12-11

改めて『近代彫刻としての仏像』の印象。

高村光太郎の作品『手』(1918年頃)という作品がある。これを「仏像の『手印』のひとつである、怖れを取り除く『施無畏印』からヒントを得たといわれています。西洋近代彫刻と東洋的な精神とをあわせもつような作品です。」(科研費研究「美術館の所蔵作品を活用した鑑賞教育プログラムの開発」)と講演者は論じた。その思いつきにも近い発想は、いったいどこから来るのか。

こちらに反論する前に光太郎『手』と「同じ手の形ができるかな」(小学1・2年生向き、上記科研費研究より)をやってみよう。
まず左手を立てて手首を少し曲げて親指を少し曲げる。次に掌を少し丸めて人差し指と中指をくっつけながら共にまっすぐ伸ばす。その後、薬指は第2関節から曲げて、小指は第1・第2関節を曲げる。さて、出来ましたでしょうか。
私は出来ないが、出来た人も左手にかなりの「力」や「緊張(無理強い)」が必要ではなかったでしょうか。そこで、改めて「施無畏印」をやってみましょう。自然に無理なくできたはずです。力や緊張(無理強い)は必要でしたか。
「力」とか「緊張」というワードは近代彫刻の定番じゃなかったですか。

近代彫刻(史)の研究者は近世仏像に無関心で、近世までの彫刻史研究者は近代彫刻に無関心。
研究者が「断絶」を勝手に「忖度」しているとしか思えない。

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高村光雲の苦悩

2017-12-12

そうした折に登場するのは高村光雲。
彼は岡倉天心の使者である竹内久一に説得され、天心から「多くの生徒に就つくことなどが鬱陶しいなら、生徒に接しなくとも好いのです」「お宅の仕事場を学校へ移したという風に考えて下すって好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教える必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見ていれば好いわけで、それが取りも直さず、あなたが生徒を教えることになるのです」と言われ、東京美術学校の教員となった。

光雲は教員として頑張ったと思う。『国華』6・7号に江戸末期の「仏師木寄法」が載っているが、これを公開して講義をしたり(今なら大量のレジュメを配布する教員)、学校のために共同製作で楠木正成像を製作したりしていた。
ところが、明治30年に入学した息子の光太郎(教員は父光雲)は「明治以来の日本の彫刻界は甚だしく知性を欠いてゐた。明治に於ける彫刻の先達として東京美術学校に教鞭を執ってゐた彫刻家が悉く徳川末期の伝習に養われた職人であったことも其後の日本彫刻界に大きな影響を与へたに違ひない。」と父を非難している(現在なら授業評価でボロカスに書かれるようなもの)。

以後、光雲は江戸末期の仏師として「東京に於る徳川期の殿堂彫刻」(大正元年)、「彫工高橋鳳雲」(同2年)、「羅漢寺の五百羅漢」(同4年)、「左甚五郎」(大正5年)と雑誌に発表して自らの正当性を誇示し、大正7年には善光寺仁王像を“小仏師”米原雲海と製作している。
大正に入って光雲は再び大仏師に回帰したと考えられる(光雲の工房には仏像がいっばい〔『芸術新潮』1995年3月号〕)のだが、近代彫刻(史)研究者はその点について完全にスルー。

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近代木彫刻の始点(視点)

2017-12-13

もっと意見すれば、光雲を近代木彫刻の始点ととらえるから議論がややこしくなる。
光雲の弟子である山崎朝雲、米原雲海あたりを始点とみれば、そんなに議論は複雑にならない。

我ながら大阪人らしい発想と思いながらも、“仏像もどき”の彫刻を展示して賽銭が集まるか。江戸末期いや明治の仏像ですら展示すれば賽銭が置かれ、美術館・博物館はその処置に苦労する。単に「仏像が置かれる場」という問題ではない。

偶々だが、伊丹中央公民館で発言した「円空仏を有難い、手を合わせて礼拝する仏像と思わなかったのではないでしょうか」と、信仰の対象として見られなかったことが「仏像」という認識ではなかったことを示している。
まずもって裸体表現の近代彫刻としての仏像などあり得ない。

21世紀にもなって光太郎の言説に従って光雲を見るからジレンマに陥るのではないか。

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某山村での調査

2017-12-14

粉雪舞うなか、朝から某山村の古寺で年内最後(…と思う)の調査。
身体の前後と足元に使い捨てカイロを貼って調査に臨む。

地蔵菩薩像と不動明王像を主に調査。前者は寒さを忘れるほど端正な顔立ち(かなり厚化粧)。製作時期は言わずもがな。

不動明王像は当初材と後補材の見分けがつかず調書も難渋。しかも用材はケヤキ?ホオ?との意見。結局、用材は不明ながらほぼすべて当初材の判断。こういう場合、おおかたは地元の仏師が製作。

どちらもちゃんとした修復を経れば、県指定はまず間違いないと大胆に発言。問題はないと思うが、上品な作風にやや口がすべったかも。

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レポート試験

2017-12-15

はや「授業評価」アンケートの実施。

過日のゼミで、発表がことのほかスムーズに終わったので、学生と雑談していたら、「あの授業はヒドイ!」と名指しで非難ごうごう。些細なことで先生が突然“キレて”、最終日にレポート提出だったはずが、「習熟度の試験」に変更となったらしい。しかも参照文献一切なし。
「そりゃ、ひどいな」と思わず相打ち。シラバスも完全無視だそう。

「センセ、レポートってちゃんと読んでるんですか」と学生が尋ねる。
「もちろん、(ひとつのレポートを)最低3回は読んでる」と答えながら、「一般教養の200名近い授業でレポート試験を課す非常勤の先生がいてはるけど、それこそちゃんと読んでいるんかな?ミカン箱3箱が郵便で自宅に届くようだが」と。

「読む方もたいへんやで。そりゃ、こっから(高台の3F教室)からバサッバサッ~とレポートを投げて、遠くまで飛んで行った順から秀・優・良・可、手前に引っかかったレポートは不可って、すれば楽やけど、みんなは納得せえへんやろ」。
「もちろん」「当たり前や」と。

教員も学生もレポートはたいへん。

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師走ならぬ師坐

2017-12-16

調子にのってあちこち調査に行くと、事後の報告がたいへん。

市町村向けの報告だと、できれば指定をしたいとの依頼があれば、それなりに貴重な資料であることを類例でもって説明しないといけないし(指定が難しい時は現地でちょっと無理・・・と説明)、お寺さんへの報告は、寺の歴史と絡めての説明と用語に使い方に注意が必要。
鬢髪→「ほつれ毛(鬢髪・びんぱつ)」、耳朶環状→「耳たぶに穴が開き」等々。

抱えている原稿もあって、終日PC画面とにらめっこ。

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仁王像

2017-12-17

やっとというか、ようやくというか、ここまで来たかという思いである。本日の「沖縄タイムス」
まだまだ道半ばだが、ここに至るまでどれだけ、那覇で 飲んだ 議論したことか。

疑義を持たれないために補足説明。
仁王像の断片はもっとたくさんあるが、分析をかけたところ、13片がカヤ材、残りはすべてイヌマキ材。琉球の木彫はほとんどイヌマキで、カヤは琉球で採れない。
年輪分析で1450~1500年ごろに伐採されたとわかり、部材の組み方から院派仏師の作と推定。

同時期前後の院派仏師作の仁王像(ごくわずか)を参考にして、復元を依頼。

今から完成が楽しみながら苦労も続く。これからもしばらく、那覇通い。
一度でいいから街中の庁舎とホテル・空港の往復で終えるのではなく、青い海と白い砂浜が見たい。

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”万引き”

2017-12-18

卒論指導も佳境に。再び夜叉の如く鬼神、登場。
考察(ともかく自分で考えた)、引用(こんな本にこう書いてある)、そして盗作。

とある作家について「遺族の証言では・・・」という文章。
「ええか、文章には考察、引用、盗作がある。衣服でいうたら、考察というのは購入したもの、引用というのはレンタル、盗作というのは万引きにあたる。 ここに『遺族の証言では・・・』と書いてあるが、君はホンマに遺族にインタビューしてこの証言を得たんか!遺族も30年前に死んでいるんで、アンタが遺族にあうことはでけへんやろ!さっきの話だと、万引きしましたって商品タグがついたまんまや。出典を明らかにして、はよ、商品タグ、取らんか!」と一喝。

引用も盗作も分かっていないようでは、卒業もおぼつかなし。
またも血圧、急上昇。これでぷちっ!っていったら労災となるんかいな。

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日出新聞

2017-12-22

授業が終わって、日出新聞(マイクロ)を閲覧するために同志社大学図書館へ。

呑気に構えていたら、相互利用は土曜日休み、日曜日・月曜日はクリスマスとあって休館。大急ぎで向う。
丁寧にリーダーの操作方法をご教示いただき、2面ほどコピー。

明治に入ると、京都仏師は意気消沈。
その原因をつくったのは、フェノロサであったことに大いに納得。
世の”美術”を変えたのは、よくも悪くも天心とフェロノサ。
現在をみるようでなかなか興味深く、阪急の車内で明治の新聞を熱心に熟読。

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会議

2017-12-26

終日、某市文化財審議会。
午前中に審議会、午後から建造物の現地視察(見学)。

1件目は過日の小さな銭湯。
戦前からの銭湯(廃業)。登録有形文化財の候補。前回の審議会終了後に「町カフェにして活用すれば」と暴言。今でも時折、湯をはって関係者が入っているらしい。2階は休憩所(現在物置)。「じゃ、銭湯復活で」と。
1日2組限定の家族風呂でもいいなと思いながら、次は式台のある豪農屋敷(重要文化財)。
もう誰も住んでいないのでやや荒れた感。同行する職員に「(活用は)料亭やな。〇市の奥座敷で売り込めば…」と軽口。
たしか旧職では人事異動が近づくと、職場付属の茶室に管理職が集まっていたような気がする…。
最後に神社本殿(重要文化財)の修復工事の状況。「ブンケンキョウ」の方から説明を受ける。

建造物は人とともに生きていることを実感。

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原稿

2017-12-27

まだネジが外れている・・・。

卒論の添削もそこそこに別件の分担原稿。
年末のゴミ出しなどを手伝いながらもひたすら原稿に向かう。夜、晩酌を挟んでさっと寝て、丑三つ時に置きだしてまたもや原稿。明け方に完成。

もはや、どうしたんだという状況を越えて、大丈夫かというレベル。
完成後の充実感とともに何か起こらないかと一抹の不安も。

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あちこち

2017-12-30

写真で振り返る2017年。

初弘法(1月)

神像(2月)

彼岸の四天王寺(3月)

講演しました(4月)

僧形八幡神像の手(5月)

海住山寺(6月)

頓阿作人麻呂像(7月)

相変わらず沖縄(8月)

釈迦十六善神像(9月)

天部像(10月)

椿井次郎(11月)

興福寺中金堂(12月)

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過去ログ