日々雑記


入試 開始

2021-2-1

今日から入試。
キャリアセンターの窓にも受験生への応援メッセージが貼られている。

夕刻、試験が終了すると学生がちらほらと帰っていく。えっ、今年の受験生はこんなに少ないの?
毎年、関大前駅が大混雑するので、試験終了後、猛ダッシュで駅に向かう受験生もいるというのに・・・。

試験監督を終えた先生に聞くと、分散して下校させているとの由。教室によっては試験終了後30分ほどは教室で待機らしい。

後期入試もなくなり、今年の入試は例年とはちょっと違う様子。

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曳覆曼荼羅

2021-2-3

昨年某日。
須弥壇に並ぶ仏像を調査し終わって、さぁ撤収!と片付けていた時、同行の方がライト照らしながら「こんなところに”版木”ありますけど。なんか『慶長』ってありますが・・・」と。
片付けた機材を再びセットし、採寸と表裏両面を撮影。さぁ今度こそ撤収!!
こんな五輪塔の版木、何かの書籍でみたことがあるような・・・。

一昨日、(例によって)調査報告の催促があり、したためるものの「版木」で行き詰る。
書籍も思い出せず、「五輪塔」「版木」でググると「曳覆曼荼羅(ひきおおいまんだら)版木」と。
経帷子等にスタンプして亡者に着せる死出の装束。

ciniiで検索すると、三木治子「曳覆曼荼羅の真言について-広島県府中市青目寺曳覆曼荼羅版木を中心に-」以下3件の文献。三木氏の論考は2004年だが、他は1978年、1963年と古い。

ともかく説明しないといけない。
再びググると問屋真一「五輪塔形曳覆曼荼羅について-中世版木資料からの考察を中心に-」(『神戸市立博物館研究紀要』8)、同「続五輪塔形曳覆曼荼羅について」(『喜谷美宣先生古稀記念論集』)がある。問屋氏はこういうことを研究されていたんだとやや驚き。見た書籍も『寂照院総合調査報告書』と判明。

本日、両論文のコピーを入手しようやく解説執筆。古くはないが、紀年資料として貴重。
あの時、同行の方が見いださなかったら、忘れられた資料であった。感謝。

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定勝

2021-2-4

恒例の答案採点。今年も色々と迷回答。

「治承4年の南都焼き討ち後、東大寺の復興再建に尽くした僧侶は(   )である。」に運慶を入れるのは相変わらずだが、「日本初の日本美術史概説書は1900年のパリ万博を機にHistoire de l’art du Japonが出版され、翌年に(       )の題名で邦訳されたもの」の問題文にHistoire(歴史) de(の) l’art(美術) du(の)Japon(日本)とひらがなで和訳を書き込み、導き出した答えが「日本芸術史」。
成績がよかったのでなおさら困惑。フランス語の授業じゃございませんから・・・。
あと「平重衡」が書けずに「平清盛五男」と書いた者も。文意が通るので正解にしたが、これは作戦勝ち。

採点中、ドキッとすることも。
以前、快慶と書くところ梵字でアン阿弥陀仏と書いた学生(大正解)がいたが、今年は、「東大寺南大門金剛力士像(吽形)からは仏師の定覚と(   )の名を記した経巻が発見された」の問題に、「定勝」と書いた学生がいる。
確か居たはずと、思わず配布プリントを確認。

採点が済み、小仏師 定勝を改めて確認。
東大寺南大門仁王像に名を遺す前、中門二天像の「西方天絵仏師」として定円と共に活動している(『東大寺続要録』)。同名異人とも思われるが、この時期、木仏師と絵仏師は案外近いかもしれないと思ったり。

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本朝大仏師正統系図幷末流

2021-2-7

昭和5年12月「仏師 清水正光」書写の「本朝大仏師正統系図幷末流」。未だネットに上がる(2020-11-21)が、売却済(65,000円だったような気がするが)。

清水正光の素性がわからないが、系図は康彦(彦一)で終わっている。美術研究本の当該項には、康彦は60歳とあり、また「明治三十二年ニ九州長崎縣佐世保ニ住シ家計貧シクシテ小賣商人トナル」の記述がある。
明治32年は、系図に最後の執筆を終えた(息子勝太の名を記す)時期とみられ、後者は近世仏師の終焉を示すものと考えられている(現実には京都仏師は活動しているが)。

美術研究本の公刊は昭和7年(1932)なので、美術研究本を書写した写しではない。
先代の康教は、明治6年(1873)に京都・梅忠町に移転後、明治15年11月に亡くなっている。従って美術研究本(原本)を明治15年から32年(1882~99年)までの間に京都で書写されたものとみられる。
明治33年には、竹内右門が仏師系図を帝国京都博物館へ寄贈している。

仏師系図が要らなくなった20世紀でもある。

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デジタル資料

2021-2-8

用務の合間に卒論読み。
どこで教えているのか、コロナ禍の影響か知らないけれど、註や参考資料にURL
例えば「日々雑記 2021-2-8」『長谷研究室へようこそ』http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~hasey/days/diary.html(2021年2月8日閲覧)」と記す卒論が目立つ。
これを列記している論文はたいてい評点が低い。

国立国会図書館のデジタル資料などどうしてもURLを記さないといけない註や参考文献もある。『金工万国博覧会報告』(農商務省、1887年)なんか、ほぼ国立国会図書館しか架蔵していないので、これはやむを得ないとしても、某「『佛造之僧』と室町時代彫刻 云々」(西部会 第268回研究発表会、例会・研究発表会要旨、2008 年) とあって
URLがhttps://www.jstage.jst.go.jp・・・ やったらおかしいでしょう。
そこは(図書館で閲覧せずに済んで)ラッキーと思って『美学』 59 巻 2 号、175~176頁などと原典引用元を記さないと。

このレベルはまだ許せるものの、URLを打ち込んで調べると(オレは暇人か?)、一般の人のブログや展覧会紹介などなど。かつて、このURLがもとでブログからのコピぺが発覚した事例もある。自業自得。「ネット時代、仕方ないでしょう!」と強弁する者もなかにはいたが、落第の覚悟はお有りか。

卒論にとって、どうでもいい情報のURLとこちらが判断したら、評点からURL1件につきマイナス5点引きとしましょうか。まったく。

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婚姻届

2021-2-9

大昔、本庁窓口を通りがかった際に、窓口業務(戸籍住民課)の同僚が若い市民と言い争っている。おっ~、タイヘン。
数日後、件の友人と飲みに行った際に「こないだ、何、もめてたん?」

聞けば、若いカップルが婚姻届を提出したが、持参したのが「戸籍抄本」。しかも本籍地が他市。「戸籍謄本」要りますので・・・と説明したが、なんで「戸籍抄本」じゃアカンねん、ちゃんと本人の名前があるやないか。今日中に本籍市にいくのは無理や、と。
(一部では「戸籍抄本」でも受理可能)。
何度も説明したが、結婚は本人(成人)の合意だけでいいやないかとまで・・・。

あれ、絶対“駆け落ち”やで。婚姻届出したら、元の戸籍から抜かれる(受理市長小判印有)こと知らんねんで。
戸籍謄本は必須、元の戸籍から日付と受理市が判明して親にばれてしまいますが、それでもよろしいかと説明してあげればと私。
そんな立ち入ったこと、言われへんやろと友人。

卒論読みながら、ふと大昔のひとコマを思い出す。

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口頭試問

2021-2-10

終日、口頭試問。主査、副査ともに卒論11編。
タカラヅカ、歌舞伎からボナール、ミュシャ、小野竹喬、熊野観心十界曼荼羅まで。

終了後、成績確認をして署名・押印した成績表を事務方へ可及的速やかに持参提出。
朱肉が悪く、三度目でようやく押印。ちゃんとした朱肉を買わないと。

さすがに疲れた・・・。
次は大学院(修士論文)の口頭試問(4編)。16日也。

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FIX

2021-2-12

とあるところとメールで打合せ(初見)。返信が来る。
ところが、相手が若い方らしく返信に「内容がFIXすれば」と。はぁ?

思わず、ググってしまった。「確定する」とも「修正する」ともとれる。
どうやら文意からは「確定」のようである。

しかし、微妙な内容だったら双方に誤解が生じかねない。
在阪企業だったら、「これでええってゆうたやないか!」「これでは修正せなあかんやないか!」とバトル勃発の恐れも。

「まぁ、その件は考えときますわ。」ぐらいの市民権をもった「FIX」なのか、単に時勢に遅れているシニアなのか・・・。
メールのやり取りがひと段落して、かなり落ち込む。

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註と参考文献

2021-2-16

一部の修論が凄まじい有様。
枚数無制限なので、頁末脚注でも大丈夫ながら参考文献でもまったく同一の典拠名をあげている。なんやこれ。枚数水増し?

試みに重複した典拠を参考文献から抹消していくと、残った文献はわずかに2件のみ。
註と参考文献はどう違うんや、「参考(にした)文献」はどのレベルまでを書くのか、と恨めしそうにこちらを見るが、これまで知らなかった、ググらなかった君が悪い。
滋賀大学
・引用文献(註にあたる):レポート中で引用・言及した文献
・参考文献:引用文献の他にレポート作成過程全体を通じて利用した文献
自分が書いたレポートのどの部分にどの文献を参考にしたかを具体的に示したい場合には、「注」の形をとります。

理系Days
脚注に文献情報を記載していれば参考文献リストは不要
著者や出版年、タイトルが載っていなければ出典元としては不完全です。
脚注を簡略化して載せる場合は、改めて参考文献リストを論文末尾に作成してください。
などなど・・・
つまるところ、学生の受講態度に拠るのだろう。

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イワン・クラムスコイ

2021-2-17

仕事過積載過重のなか、プレ・ステューデント・プログラム課題レポートが舞い込む。添削、講評をして返却しないといけない。
レポートは、小磯良平、ドガ、ルノワール、そしてイワン・クラムスコイ。って誰っ?

イワンで分かるようにロシアの画家(1837年~1887年)。左に掲げた作品は「曠野のイイスス・ハリストス 」。もちろんロシア正教。

背景を除けば、朝、新今宮駅周辺でよく見かける「あぁ~、今日も仕事にあぶれてしもぅた。どうしょう?」といったポーズ。
本当は荒野で悪魔と対峙するハリストス(キリスト)を描いているのだが、なんか、既に完敗ムード・・・。
講評して返さないといけないのだが、さすがにロシア正教の知識はない。
「イワン・クラムスコイ・・・。どうしょう?」と今の心境をよく表した1枚。

終電帰宅、タクシーのなかで、この学生は入学後、第2語学に「ロシア語」を履修するのだろうかと漠然と思う。
月末を目途に返却予定。

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彼を知り己を知れば百戦殆からず

2021-2-19

今日は大学院入試。事情あって終日従事。

大学院(修士課程)は基本2年間。
2年の間に出来ること(達成可能な範囲)は自ずと限られる。
にも拘わらず、まじめに考えれば、生涯かけて研究するであろうテーマを研究テーマとして取り上げる学生が多い。
欧文読解も不十分ながら、彼の地でもあまり取り上げられていない作家作品や仏像における日中交流など、???な研究テーマをあげてくる。

コロっている(学生用語:コロナ禍)間は、留学は無理だし、交流や影響関係というのは双方の研究を十分理解したうえで、初めて可能なことである。
学部の試問でも似た話(「とりあえずジャポニスム」)はしたが、残念ながら他大学からの受験生。

「彼を知り己を知れば百戦殆からず」と孫子はいったが、大学院のみならず社会生活でも通用する名言。

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製材

2021-2-22

終日、某所で会議。
面白いような怖いような話を拝聴。

原木っぽい材を厚い板材に製材していると、製材機から金属が当たるような異音がする。刃が欠けると大変なので製材機を止め、確認すると原材のなかから鉄釘。釘を引き抜いて再び作業。
なぜ原木の中に釘が・・・?

かつて神社境内にある樹木に、藁人形を釘で打ち込んだ(丑の時参り)。藁人形は朽ち、釘だけが打ち込まれた樹木は成長し、そのうち釘は樹木のなかに取り込まれていく。時が過ぎ、事情あって境内の樹木が伐採されて市場に出回り、製材した時に釘の存在が初めてわかるという。
時には高値で購入した原木に無数の釘が打ち込まれていて使い物にならない原木もあるという。 そうした時には”お祓い”をするそうだが、”お祓い”の対象は”原木”それとも”製材する職人”?

御神木も受難。

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セット像の製作法

2021-2-23

写真は東大寺大仏殿にある四天王像(多聞天像)。

大仏殿に行けばわかるのだが、持国天像・増長天像は頭部のみ(素地)、広目天像は完成(素地)、多聞天像も完成(箔押し・白土下地一部彩色)である。
これを一連の工程で考えると、4躯の頭部製作→2躯ずつ躰部を制作→箔押し等の加飾→(残り2躯の躰部製作→加飾)となる。

この工程をそのまま鎌倉時代にあてると、大仏両脇侍像が「各作半身、後合各一躰」(『続東大寺要録』)に該当(従来は右半身、左半身で合体としたが、上半身を頭部、下半身を躰部とみる)と大昔に発表したが、反応はいまひとつであった。
近世の記録からは現脇侍像も両像頭部製作→如意輪観音像の躰部・台座光背の製作→虚空蔵菩薩像の躰部・台座光背の製作→両像の納入品納置・仕上げという工程が知られる。

當麻寺金剛力士像頭部(天文23年・1554)や興福寺南大門金剛力士像頭部、あるいは畑治郎右衛門伝来の頂妙寺二天像頭部雛形など、やはり上の推測が妥当であると自画自賛。

仕事過積載過重がわずかながら軽くなって、冗舌も。

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山も春の装いに

2021-2-25

朝から調査報告を持参し、山岳地へと向かう。

午後、ようやく到着し、出来上がった調査報告を見ながら、あれこれと相談。
年末に仏像を移動させようと思って、持ち上げたところ、その衝撃でニカワが外れて壊れてしまった・・・等々。
そのうちにお伺いして状態を見てみますと返答。

こんなところに誰が仏像があると思うのか、最初は私も思っていなかった・・・。
ちょっと長いお付き合いになりそう。

山もそろそろ春の装いに。

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バリアフリー

2021-2-26

荷物を台車に積んで研究棟(旧棟4F)から生協まで運ぶ。
如何に大変か、身に染みて理解。

旧棟4Fから渡り廊下(傾斜有)を通り新棟へ向かいエレベーターで3F。
そこから再び渡り廊下を使って旧棟3Fの端まで行き、C棟との接続口を通って反対側の端(B棟そば)まで行って再びエレベーターで1F。
B棟前からスロープを使って大学院棟へ向かうも起伏もあり、小雨で台車もあらぬ方向に迷走。
大学院棟3Fに到着し、EVで1Fで降り、また院棟端まで向かって右折。図書館通用口まで向かい、イノベーション創生センター傍の通路を通って飛翔の庭そばの歩道(1ヶ所のみ歩道の切れ目)を使って、凜風館の端(KU シンフォニーホール近く)のスロープに至り、再びEVで3Fに上がってようやく生協。寒さ残るものの汗びっしょり。

車椅子の学生にとってみれば、難行苦行そのもの。考えてみれば、関大前駅もEVは南口にしかない。
もしうちのゼミ生に車椅子の学生が来たなら、個人研究室ではなく自動車送迎前提ながら卒論ゼミで新関西大学会館北棟会議室を使用させてくれるだろう。
立地も関係しているが、このあたりがあまりにお粗末なことがよくわかった。

分かりやすく、キャンパスマップ を貼っておく。
(法文研究室棟〈1-研〉から凜風館〈25〉までの車椅子ルート)

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ひな型の世界Ⅱ

2021-2-27

長く仕事が詰んだままだとさすがに脳内も硬くなり、龍谷ミュージアム「ひな型の世界Ⅱ」展へ。

前回よりもパワーアップ。す、すごい。
ひな型はもちろん、再興文書、清水正光書写の「大仏師正統系図幷末流」(パネル)まで。もうじっくり拝見するほかはない。
像底部のマス目や錐点、銘記などの情報も盛りだくさん。

東寺金堂十二神将像のひな型や寛政年の畑常治郎の延暦寺根本中堂十二神将像の再興(情報)。『叡山文庫文書絵図目録』によれば寛政5年(1793)から寛政11年(1799)にかけて「法橋七条左京」(康朝)が根本中堂関係の修復に携わっており、系図の「康朝弟子 畑治郎右衛門」とぴったり符号。
きゃぁきゃぁ言いながら(心のなかで)ひな型や写真パネルを見ていた。

でも解せぬことも。
黙山元轟(もくさんげんごう)胸像ひな型。明和元年(1764)の年紀と「三十世左京父 法眼湛茹」。関係者とみられる「旦條」「旦徐」のひな型も展示。
三十世左京は康傳。『地下家伝』によると康傳の父は康音のはず・・・。
そもそも法眼湛茹は未見の仏師。

詰んだ仕事を早く片付けて、再来しようと決意しつつ京都駅へと向かう。

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天皇像製作の場

2021-2-28

続「ひな型の世界Ⅱ」展。

四条天皇像ひな型と現品を所蔵する泉涌寺四条天皇像の調査報告がパネルで展示。

四条天皇像製作については『泉涌寺再興日次記』に詳しく、寛文6年(1666)4月13日に後水尾院自らが大仏師に仰せ付けるとし、7月9日には康乗が参内して拝命される。10月5日には御衣木加持が「大仏師康乗四条之家」で行われたと記す。
ところで、製作はそのまま康乗の「四条之家」で行われたのだろうかと疑問。

徳川将軍像の場合は、製作のため仮設小屋を工房内に建てて密室で行われる。四条天皇(在位:貞永元年〈1232〉~仁治3年〈1242〉)がいくら過去の天皇とはいえ、無防備に工房内で制作するとは思えない。「天顔は絵師も恐て御簾で置」(誹風柳多留)とされるほど、秘匿すべき製作である。この頃、不幸?にも徳川家綱(延宝8年・1680没)は存命。

想像ながら、泉涌寺内で製作したのではないだろうか。「四条之家」から泉涌寺まで直線距離で3km強。毎日日参できる。他者が拝見できない泉涌寺内に一室を借りそこで製作したのではないだろうかと。

これだと、「美しかったら、似てなくってもいいのよ」(2014-10-02)の名言 を残した後水尾院もひと安心だと思うのだが。

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