日々雑記


畑治郎右衛門

2020-6-1

畑治郎右衛門に関して小文の依頼。
何でと思ったが、某学会の発表に名を連ねている・・・。よく一緒に調査しているので、どこで了承したのか覚えていない。ところがコロナの影響で紙上発表となった次第。

畑治郎右衛門については昨夏の思い出が甦る。昨秋の「庄内日報」には、記憶にある学生の姿が写っている。
(他大学ながら)学生のためにも、頑張らねば。

畑に関しては「西六条」という西本願寺に近い場所に居所がありながら、恐らく明治以降、つまり「西本願寺仏師」渡辺康雲が消えた後、西本願寺などとの関係を持ったと思われる。

明治に入り、仏師の保守層を取りまとめた畑治郎右衛門。
大雑把な推測ながら「吉田源之丞」老舗なら何らかの記録(記憶)があるかもしれない。

〆切は来週あたりが目途なのかも。
非会員なのでまずは「事前参加登録料」を払わないと。

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472番

2020-6-3

東京国立博物館デジタルライブラリーに『五百羅漢持物名記』が収録されている。
元禄8年(1695)榎並甚兵衛刊。
以前、岩瀬文庫でノートしたのだが、紛失中で改めて見てみる。岩瀬文庫本も東博本も「右」の250体。基本的に10の羅漢を1組として、各持物が記してある。

某所の五百羅漢像には、「四百七十弐」「上ケ手乃る塔ヲ持」とある。『五百羅漢持物名記』の472番と同じ記述なら『持物名記』を参照した可能性がある。472番は「如意雑尊者」。『持物名記』では「立テ手ヲ拱抜ク」とあって、ちょっと違う(持物亡失)。

岩瀬文庫の書誌情報では、完本が函館市立図書館にあるという。「左」も記した上巻も含めての1冊なのか。
特別定額給付金で、いざ北海道へと言いたいところだが、残念ながら授業準備に追われてそれどころではない。

忸怩たる思い。

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和田浄慶

2020-6-5

函館なら、ぜひとも高龍寺蔵の和田浄慶・和田九右衛門の五百羅漢像がみたい。

最初、幕末明治の京仏師と思っていたが、佐渡・玉林寺に正徳4年(1714)の大日如来像があるらしく、ボストン美術館にも天保15年(1844)の羅漢像があって、18世紀から続く仏師。ところが、管見の限り記録類には出てこない。

他の京仏師と同じく真言宗、禅宗とオールラウンドメーカー。
なぜか幕末明治の仏師については、行き詰まること多し。

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思考の迷走

2020-6-07

ふとしたことから明治期の二大問題(「論社」と「聖蹟顕彰運動」と勝手に思っている)のひとつである「聖蹟顕彰運動」を調べていた。

明治23年(1890)頃(橿原神宮創建)から奈良県下で「鳥見霊畤(れいじ)顕彰運動」に端を発し、この運動が昭和15年 皇紀二千六百年の「神武天皇聖蹟調査」へとつながっていくことを知る。

ここから皇紀二千六百年奉祝事業の一環として、橿原神宮外苑の「大和国史館」(現:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)に繋がり、金子淳『博物館の政治学』(青弓社)、名古屋市博物館の『新博物館態勢』展(1995.9)に辿り、前職の頃によく見ていた犬塚康博氏(少し上のOB)のHP「博物館風景」に行きつく。

えっと、今、何について調べていたんだろうか。

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関大前通り

2020-6-8

所用にて午後に大学。
昼夜逆転のなか就寝時間にそのまま大学行とあって意識朦朧。普段なら西門から上がってエスカレーターに乗るのだが、そのまま関大前通りに。

駅を出て東側(西門は大学から見ての西側)の「水谷歯科」はいつの間にか更地になり、元銭湯(現タイムス)を挟んで、横のラウンジ?(バー?)も貸店舗。その隣は丸作食茶(タピオカ)〔モスバーガー→肉丼屋→〕と続き、また台湾タピオカの「ピタくん」(お好み焼→メロンパン→)。

普段でさえ半年で1年の収益を上げないといけない土地柄。
折々の流行と経済事情が実感できる通りでもある。

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熊谷市史

2020-6-10

熊谷市から「『熊谷市史調査報告書』仏像・仏画1」を御恵与。あつく深謝、御礼。

悉皆調査はたいへん。
単に寺院の仏像台帳を作成するだけなのに、拒否されることも。しかも頑なに拒否していたのに、いざ報告書が刊行されると聞くと「うちは掲載されないのか」と理不尽なこともおこる。

でも台帳があるだけで心強い。
最近は、調査員不足なのかやや不振の傾向。某所に行って「台30坐」などと記号化された一覧表(もちろん写真無)をみせられ、面食らうこともある。
当方でも何を意味しているのか理解不能。

そうしたなか文化財の重要性から挑み報告書まで刊行されたことにあつく感謝、御礼。

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九郎と四郎

2020-6-13

授業準備で殺伐とするなか、九郎(20171127) に引き続き、四郎が我が家にやってきた。
家人たちは名前を考えているが、オスだし、九郎(黒)と四郎(白)でいいんじゃないの。

・・・と思っていたところ、「高野四所明神図」は、高野(狩場)明神と丹生明神、気比明神、厳島明神と白黒の犬。男神は高野明神のみで、他は女神像。
ほら我が家の家族構成とぴったりやん。猫だけど四郎に決定だよ、君は。

高野明神率いる九郎と四郎は空海を高野山まで導いたが、君らは誰を導くのだろうか。

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ダウン

2020-6-15

体調急変。
14日午後に授業準備(月曜ひとつめ)をUPした後、急に頭痛と悪寒。

市販薬を服し、2つ目の授業準備に取り掛かるも、だんだんひどくなるばかり。
どうしようもなくなって、今年度初の「休講通知」を出して横臥・・・。幾度か目覚めるも体が動かず翌夕刻までほぼ丸一日就寝。

朝に就寝する生活が続いていたので家人も不思議に思わなかったが、さすがに日没あたりには「死んだかも・・・?」とやや不安。

幾つかの用件を済ませたものの、まだ、ぼぅとした感じが続いている。
ちょっと、怖い。

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風間壮慶

2020-6-18

函館市立中央図書館で『五百羅漢持物名記』を検索していると、風間壮慶「五百羅漢尊像彫刻志願書」(1902年2月)が出てきた。
「高龍寺住職上田大法の承認書あり」とあって高龍寺・五百羅漢像の一件。

和田浄慶・九右衛門じゃないのかと『高龍寺史』(コピー)を見ると、本堂須弥壇上の左右羅漢像が和田親子の製作。須弥壇上の左右羅漢像とは、迦葉・阿難のことだろうか。
「一式」と考えれば、釈迦・文殊・普賢が明治3年(1870)なので同時期に製作なのだろう。
五百羅漢像はすべて明治35年(1902)以降に風間壮慶が製作したのかも知れない。

風間壮慶をググると、北海道では有名な仏師らしい。初代は安政6年(1860)~大正8年(1919)。「五百羅漢尊像彫刻志願書」をしたためたのが、42歳。

なにか複雑な予感。

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再びダウン

2020-6-22

またもやダウン。

1コマの授業準備に6~8時間がかかる。曜日によっては、新規科目もあり複数コマも入っているのでそれだけで無理。

パソコンでの画面で見やすいようにと、画面変更(4:3→16:10)したので(字幕の文字数も増える)、画像・キャプションのサイズ変更、字幕付と新規のパワポ作成とほぼ同様の時間がかかってしまう。
加えて、学内・学外関係は通常通りなので様々な書類も処理しないといけない。

なんとか省力化しないと睡眠をとらないと思うものの、こういう事態に陥ることに。
このまま玉砕してしまいそう。なんとかしないと身がもたない。

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現場監督

2020-6-25

某所での修復に助成が認められたとの吉報。

確か、年始に推薦状を書いた。
同時に送られてきた要項には「修復指導」(あるいは「現場監督」)という文字があったことを思い出した。

さすがに、働き始めた頃のようにヘルメット被って「監督さ~ん、ここはどうする?」とかの対応はないだろうが、修復現場に行かねばならない。

机に坐して沈思黙考しながら論文を書くタイプではないことを改めて実感。
今から楽しみにしながら、本業での悪戦苦闘が続く。

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亡霊?

2020-6-28

とある報告書。

元禄5年(1692)12月11日に「京大仏師 法橋康祐」が制作したとの体内文書入りの仏像が報告。点眼(開眼)導師の名まで記してある。

報告者は「さすが一流の京仏師の出来栄え」と絶賛するものの、康祐の作風にしてはやや弱い。そもそも康祐は元禄2年12月2日に亡くなっている。逝去前の僧綱位は「法印」。

制作依頼を受け制作中に逝去し、息子などの後継者に引き継がれて完成後、受け渡しする場合もあるが、その際の受領(書)には、亡くなった先代仏師の名義。

ところが、この仏像は像高6寸余の厨子入仏像。余裕をみても1週間ほどで出来る作品であって3年の制作工程がかかったとは考え難い。
どこでどうなったのかちっとも分からない納入文書。

最初はカラーで掲載された黄檗様の仏像だと思ったのだが、こちらは無銘。

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茅の輪くぐりと祇園会

2020-6-30

終日雨。

今日は「夏越の祓」。好天なら「茅の輪くぐり」で、無病息災を願うのかもしれないが、あいにくの雨。

速水春暁斎描く『諸国図会年中行事大成』4には、「茅の輪くぐり」が描かれており、見れば、押すな押すなの大盛況。三密どころではない。

前後を見ると、祇園山鉾巡行が記されている。
6月朔日に「鉾立幷児社参」、7日に「山鉾引渡(巡行)」、14日も同、16日には「祇園輿洗」と記載。
今は行事の前後が逆転。

「茅の輪くぐり」と祇園会があると、それぞれの趣旨が合って理解しやすい。

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