応用倫理学に関わる理由

 

品川哲彦、『哲学の探求』30号、哲学若手研究者フォーラム、2003年5月17日、3-15頁

 

 

1. 問題の前提

 テーマレクチャー「哲学の現場? 哲学の応用性とアクチュアリティ」で講師を務めるよう、慫慂してくださった、世話人からの手紙には、「近年、若手の研究者は応用倫理学に関心を抱かざるをえないが、応用倫理学では、哲学の問題を考えるときの緊張や戦慄がなかなか味わえないように思う」という一節があった。それを読んで、私は今回のテーマをこううけとめた。すなわち、「現場」「応用」「アクチュアル」という用語で念頭におかれているのは応用倫理学のことであり、しかも、応用倫理学をもって哲学の「現場」「応用」「アクチュアリティ」と称することへの遅疑、明言するなら「応用倫理学は哲学なのか」という疑念がテーマである、と。さらに、私が「現場」という言い回しから思い出したのは、このことばが会場をとびかい、私自身もパネリストのひとりだった日本倫理学会第50回大会である。今回のテーマを別様に理解することもできるかもしれない(争点1)。だが、私は上記の理解に立って当日の議論に臨んだ。以下に、私見の骨子を記し、そのあとに、当日、展開された質疑応答における議論を、記憶のかぎり、「争点」としてまとめることとする。

 

2. 私見の骨子

2.1 哲学とは何か

 大上段にふりかぶる稚拙なやり方かもしれないが、哲学とは何かということからはじめたい。私はフッサールの現象学から研究をはじめた。フッサールはデカルトの精神の継承を宣言しながらこう記している。「真摯に哲学者たらんとする者はだれでも、一生に一度は、自分自身に立ち還り、一切の先行する学問を倒壊して自分自身で学問の新たな構築を試みなくてはならない」。「ここでいわれているのは、無限に進んでいく知――しかも、哲学者たらんとする者がその出発点において、またそのひとつひとつの歩みにおいて、自分に絶対的に洞察できた根拠にもとづいて絶対に責任をとることのできるほんとうの知である」(1)。私の哲学観はこの系譜の哲学観に発している。ただし、この徹底した無前提性、自己責任への憧憬には留保をつけておかなくてはなるまい。いったい、一切の先入見についての判断保留が可か。いかに自己責任を貫徹しようとも、すでにひとびとが共有してい能なのる概念り、「われ思う」とはなにがしか「われわれは思う」なのではないを用いて思索をするかぎか、と疑われるからだ。その意味では、メルロ=ポンティの指摘するとおり、「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということ」(2)にちがいない。しかし、メルロ=ポンティがそれを発見しえたのは、メルロ=ポンティ自身、徹底した無前提性、自己責任をめざした思索を敢行したからにほかならない。

 私は以上の性格づけを平板な表現でいいかえて、ここでの哲学の暫定的な定義とする。すなわち、哲学とは、自明に思われることがら、むしろあまりに自明なために気づかれないでいるようなことがらをあらためて剔抉し、根底から考えなおそうとする営みである、と。

 さて、そのうえで冒頭の「応用倫理学は哲学か」という疑念に戻ってみよう。応用倫理学は自明性を根底から考えなおす哲学の営みなのか否か。ところが、そこに直進するまえに、この問いが二つの襞を含んでいることに気づく。ひとつは、「そもそも倫理学は哲学か」という問いであり(争点2)、もうひとつは、「倫理学が哲学であるとすれば、それと同様に、応用倫理学は哲学か」という問いである。二つの問いを順にみていこう。

 

2.2 倫理学は哲学か

 倫理(ここでは、倫理と道徳とを用語上区別しない)とは、この私がよく生きること、そしてまた、私もまたその一員である尊重されるべき存在のあいだで正しい関係を保つことである。この定義は異質な倫理観を含んでいる。前半部分の目的は自己の人格の完成であり、後半部分の目的は社会的正義である。両者を1980年代以降の対比に対応させれば、ケアの倫理と正義の倫理、もう少し一般化するなら、徳に立脚する倫理と行為についての普遍化可能な原則の定式化に立脚する倫理、さらに話を広げれば、どちらかといえば古代・中世で比重のおかれていた倫理観と近代以降に顕著な倫理観といってもよい。そのいずれにくみするかはそれ自身争点だが、ここでは射程の広さを優先して、二つの目的を包括して倫理の課題としておく。そして、この課題の実現をめざすさまざまな内容の倫理を考察する学問を倫理学と呼んでおく。しかし、それなら、倫理学は同じ主題に関わるその他の諸学、たとえば、よく生き、正しく共存するための制度的条件を考察する政治学、そのための最低限の、かつ国家による制裁に裏打ちされた規範を論じる法学、あるいはまた、よく生き、正しく共存するために必要な物、よきもの(goods)の生産と配分の過程を考察する経済学といった社会科学と通底していることになろう。ところが、社会科学にとっては、通常、社会の存在は否定されえない所与として前提されている。すると、同様に、倫理学にとって、倫理的に尊重すべき存在(の共同体)はそれ以上遡及しえない所与であるのか。もしそうなら、そのような存在を否定するような探究はそもそも倫理学においては「反倫理的」の名のもとに排除されてしまわざるをえないのではないか。だとすれば、倫理学とは、畢竟、一切を根底から問いなおす哲学とは異なる種類の知的営みなのではあるまいか。

 私はこの問いに対して、一面では然りと、他面では否と答える。つまり、倫理学には、哲学とは異質な面と、哲学に属す(この意味では、道徳哲学という呼称のほうがふさわしい)面とがあると答える。その事情を「なぜ、ひとを殺してはいけないのか」という問いを引き合いにして説明してみよう。

 この問いが横行することで「殺すなかれ」という規範が掘り崩されていくおそれがあるなら、倫理はこの問いを反倫理的と処断して封じることができる。哲学の名のもとではどんなことでも純粋な知的な関心から問いなおすことができるのだとする立場からすれば、そのような対応は抑圧にほかならない。実際、この問いにみずから“有効な”答えを出そうとしているひとの多くは、既存の倫理を墨守する立場からそれを試みている。この点では、倫理(倫理学ではない)と哲学とは、一見、相対立するようにみえる。

 ところで、「なぜ、ひとを殺してはいけないか」という問いを問う者が「ひと」のなかに自分自身も含めているなら、問う者はそれを問う権利を主張するに先立って本人自身の存続も主張しているはずである。だとすれば、このひとは「殺すなかれ」に加担しながら、あたかも、「殺してはいけない/殺してよい」のいずれの答えも等しくありうる中立的な問いであるかのように問うている。おそらく多くの場合、上の問いはこうして斥けることができるだろう。しかし、これは倫理の名のもとに問いを封殺したのではない。問う者の無自覚な自己欺瞞を指摘したのだから哲学的な対処であり、そしてまた、ひとつの倫理的な問いについてその構造を論じているという意味では倫理学的な対処である。したがって、哲学的思索と倫理学とが相重なり合うことはありうる。

 それでは、「なぜ、ひとを殺してはいけないのか」と問う者が「ひと」のなかに自分自身を含めていないという一種の哲学的離れ業をしている場合はどうか。それでも、この問いが本人のたんなる「殺したくない/殺したい」という欲求によって答えられる問いではなくて、あくまで倫理的な問いであるならば、倫理的に肯定しうるか否定するかを本人がそれのまえで判定する何かを想定しているはずである。その存在は、たとえば、他者かもしれない。この場合には、他者が自己と対等の存在だからではなくて、自己とまったく異なる存在だからこそ殺してはならないという可能性もある。あるいは、その存在は自分自身かもしれない。この場合には、殺す選択も殺さない選択もいずれも選びうる自己がみずから殺すことを禁じる可能性もある。あるいはまた、その存在は神かもしれない。いずれにしても、これらの回答は複数の対等な存在を前提とする通常の意味での倫理とはちがう。しかし、世界のなかに起きるできごと、あるいは、世界のなかに存在しているものをどのようにうけとめるのか、どのような構えで相対するのかという意味で倫理的な回答と呼んでよいと、私は考える。なお、私は今挙げたどれかひとつに答えが決まり、結局「殺すなかれ」という結論に至ると強調しているわけではない。ここでの力点は、倫理への問いは、複数の対等な存在(の共同体)を必ずしも前提としないということである。しかも、上述の思考過程は、根拠を問いつめる哲学的思索であり、その根拠が倫理の根拠であるゆえに倫理学であり、さらにまた、その結果示されたのが論者の倫理的態度であるという意味で、哲学的思索、倫理学、倫理の相交わるところに成り立っている。

 以上述べたことをまとめておこう。倫理は、たしかに、既存の倫理によって尊重されている存在を所与とみなす場合がある。このとき、倫理学の役割は、尊重すべき存在の共同体内部で整合的な調整を図ることによって倫理的葛藤を解消することにある。それは、つまり、共同体内部の規律、デリダの表現を借りるなら、家(oikos)の法(nomos)、経済(oikonomia)の適用にほかならない(3)。しかしまた、倫理学は倫理への問いを精錬しながら倫理の根拠をあらためて問いなおす場合もある。このとき、問う者が不適切な問いをしているなら、問う者の倫理的態度の不整合があらわにされる。問われている倫理の根拠の不整合や恣意性があばかれるなら、問いはその倫理を――しかも、倫理であるからにはなにがしか自明のものとして流通していたものを倒壊させる端緒となるだろう。倫理の根拠を問うとは、その倫理が尊重すべき存在として認めるものと尊重すべき存在から外しているものとの線引きが恣意的、独断的ではないかと問うことにほかならない。もし、その線引きが恣意的ならば、その倫理がその倫理において尊重されている存在のあいだでいかに正義を実現していようとも、そのこと自体が、尊重されている存在の外部との関係では不正義を意味している。善が独善に、倫理が反倫理に反転するわけである。さて、それでは、その問いを発する者はどんな地点に立っているのか。問われているのは、それが尊重し保護する存在のみに妥当する「家の法」なのだから、その根拠を問う者は、いわば、「家の法」の外から「家の法」の正統性を問うていることになろう。既存の倫理をして恣意や独善に転落せしめるおそれをつねに意識して進んでゆく倫理学のこの一面は、自明なことがらをあらためて問いなおす哲学と同質の、おのれを賭けた緊張に満ちた思索の営みだと、私には思われる(争点3)。

 

2.3 応用倫理学は哲学か

 しかし、今述べたことは応用倫理学にもあてはまるのだろうか。

 尊重すべき存在を確定し、その共同体の内部で整合的な調整を図ることによって倫理的指針を出し、尊重すべき存在にはその指針に反する行為を許容するという考察の進め方は、つまり「家の法」の運用は、応用倫理学のなかにたやすく見出せる。たとえば、人格と人格ではない存在とを線引きし、もっぱら人格に対する倫理的に適切な(たとえば、「本人の意志に反した安楽死はしない」などの)行為を特定し、一方、人格ではない存在にはそれと逆の行為(たとえば、「その生死は利害関係のある人格が決定してよい」)を許容する医療生命倫理学の議論はその一例だし、あるいはまた、現在生きている人間だけでなく、未来世代や、さらには動物の一部にまで存続する権利を認めていく環境倫理学の議論もその一例である。後者では、尊重すべき存在の範囲は拡大するものの、拡大した範囲の内部ではなんらかの点での同質性を想定しているわけで、やはり「家の法」の運用――ただし、家を拡大しての運用にとどまる。これらの議論から実践的な指針を出すには、細部を詰めなくてはならない。たとえば、安楽死の意志を確認する方法を明記する、現在世代の利益と未来世代の利益とのあいだで利害を適切に配分する等々である。これらがきわめて困難な課題であることはまちがいない。だが、その困難は、基本的に、手続きや経済的解決を考える際のむずかしさにほかならない。応用倫理学がここにとどまるなら、応用倫理学は哲学ではないといってよい。

 しかし、上に例示した応用倫理学の問いはそこにとどまらない面をもつ。たとえば、人格が人格ではない存在に対して人格でないがゆえに行なってよいとされている行為の倫理性をあらためて問うとき、あるいはまた、人間が人間以外の自然物に対して行なってよいとされている行為の倫理性をあらためて問うとき、問われているのは、人格や人間と呼ばれる尊重されるべき存在の線引きであり、線引きの正統性なのだ。したがって、その問いは、既存の倫理の根底を再検討し、場合によっては、既存の倫理を根底から覆す緊張に満ちたものとなりうる。私が応用倫理学に関わるようになったのはなかば偶然的な理由からだが、依然としてなお応用倫理学に関わり続けているのはこのためである。

 実際に、私自身の仕事が緊張に満ちた思索であるかどうかは、そのつどの私自身の評価と論文を読んだ読者の評価にゆだねるしかない。私自身の関心のありどころを示すためにひとつ例を引くなら、私は2001年4月号の『思想』に「環境、所有、倫理」という論文を載せた。その号は所有論の特集号で、私は環境とからめて所有を論じることを要請されていた。所有と環境の結びつきなら、たとえば、貴重な生態系を含んだ土地の所有者にどこまで利用を規制しうるかといった問題が考えられる。しかし、これらは手続き的な課題である。私の興味はむしろ所有の正統性の根拠にあった。そのため、ロックの労働所有論をとりあげた。そして、ロックが労働以前の土地を無価値だとはいいきらないところに、ロックが意図していたかどうかに関わりなく、人間が自然に負っている負債の意識を読みとった。労働を権原とする所有は人間同士のあいだでの正義にすぎず、この正義は自然なしには存立しえないと同時に、自然を正義の埒外におくことで、つまり得たものの代償を払わなくてもよい相手として自然をみることではじめて成立する。私が読みとったのは、そのことに対する負い目の意識だった。負債の返却は正義にかなう。自然物の権利を認める論者はまさにこの返却を主張する。ところが、人間の活動の所産と自然物とは分かちがたく混淆しているので、どちらにどれほどを帰すべきか、適切な配分は成り立ちがたい。だとすれば、自然を排除した社会契約は負債の意識を隠蔽した独善のようにみえる一方、人間と自然とのあいだに自然契約を結ぼうとする提案はやはり修辞の域を出まい。労働、所有、それにもとづく正義を考えなおすこの一連の考察は、環境倫理学に関わらなくとも手がけたかもしれないが、環境倫理学に触発されたことはたしかである。

 とはいえ、「今述べたような例は応用倫理学ではない。応用倫理学とは、家の法という意味の倫理のほうではないか」という反論があるだろう。

 これに対してどう答えるかは、応用倫理学の「応用」ということばの意味にかかっている。

 

2.4 応用倫理学の「応用」の意味

 最も素朴な解釈では、応用とは個別の事例に既存の倫理理論をあてはめることである。マッキンタイアが「倫理学と応用倫理学との関係についての支配的見解」(4)と呼び、ブラウンが「理論の果実モデル」(5)と呼ぶこの解釈には根強いものがある。この解釈のとおりであれば、応用倫理学とは家の法の運用にすぎない。運用はこんなふうに行なわれるだろう。まず、事例に応用すべき理論があるとすれば、それをもちよるのはおそらくは哲学者や倫理学者であろう。すると、一方で、事例が理論を応用されるべく待ちうけている現場とはもともと哲学者や倫理学者とは無縁の場所にちがいない。たとえば、生命倫理なら医療現場だ。ビジネス・エシックスなら企業や工場だ。環境倫理なら、たとえば、ダム工事現場や空港敷設現場だと、こういうふうにみえてくる。このように理論と事例、哲学者や倫理学者の役割と倫理的問題が用意される場とを二極化してしまえば、「哲学の現場はどこか」とか「哲学に現場性(アクチュアリティ)はあるか」という問いはかなり不毛なものにならざるをえない。

 しかし、この解釈は根本的な弱点をもっている。というのも、理論が事例に応用されるさいには、事例が理論に包摂されるように解釈されると同時に、理論のほうでも、事例に応用しうるほどに解釈されなおし、包摂したあとには、場合によっては、それまでの事例がもっていなかったその事例の特性によって変容をこうむることもあり、さらには、その事例の特性をくみとりつつ定式化するために新たな理論的枠組みが要請されることさえあるからだ。この方向をつきつめていえば、応用とは、倫理理論が維持されるだけではなく、修正、変容され、新たな規範が生成する現場にほかならない。

 冒頭に言及したように、「現場」ということばは、1999年の日本倫理学会で何度となく飛び交った。むしろ、「現場」という表現があまりに多用されために混乱し、不毛な議論を招いた面もある。共通課題「20世紀 倫理学への問い」の全体討議で報告したひとりである私自身もそれについての責任の一部を感じている。しかし、私が一貫して「現場」と呼んでいる場は、倫理的問題が発生する場所、すなわち、その問題がはじめて倫理的問題として発見され、認識され、それにどのように対処したらよいか考えあぐね、指針を見出そうと苦慮している場のことにほかならない。それでは、その場に哲学者や倫理学者はかならず居合わせているだろうか。居合わせている場合もあろうし、居合わせていない場もあろう。居合わせていなくても差し支えないとさえいってよい(争点4)。というのも、倫理は哲学者や倫理学者の専売特許ではないからだ。いいかえれば、哲学や倫理学の研究者ではないひとびとも、倫理的に裏づけられた決定を望み、その裏づけになるような倫理を模索し、ときには、既存の倫理に由来する抑圧に不満を覚え、いっそう適切と思われる倫理規範を求めて生きているだろうからだ。それでも、哲学者や倫理学者がその場に居合わせていれば、貢献することができるかもしれない。というのも、哲学者や倫理学者は、事例を解釈するさいに用いられる倫理的な概念や倫理理論にほかのひとよりは精通しており、また、当該事例から出発した過度の一般化や別の事例とのあいだに生じるかもしれぬ矛盾を取り除く助けができるだろうと期待しうるからだ。

 だとすれば、倫理学者は必ずしも応用倫理学に関わる理由はないのではないか。私はそれを否定しない。それを全面否定するということは、応用倫理学のみが根底を問う哲学的思索たりうると主張することにほかならないからである。

 すると、哲学者や倫理学者のなかで、応用倫理学に関わる者と関わらない者とが、いわば、棲み分けることになるのか。事実としてはそうだろう。しかし、その事実をそのまま正当とみなすまえに、哲学・倫理学の研究者であれば、応用倫理学が登場してきた歴史的経緯に留意しておかなくてはなるまい。というのも、研究者たる資格は、なかば、専門分野の歴史のなかに主題を位置づけることで確保されるからである。

 20世紀の、とりわけ英語圏の倫理学の主たる流れは、1903年のムーアの『倫理学原理』のなかの「倫理学が科学(science)であるなら、倫理的意味をこめたことばの意味の分析から始めねばならない」という主張を端緒とした、メタ倫理学こそが倫理学の核をなすという倫理学観である。メタ倫理学のみに倫理学を狭隘化する流れは、エイヤーの1936年の著作『言語・真理・論理』に盛られた、「倫理的判断は真偽を決定しうる命題ではなく、叫びに類する」という情動主義の主張において頂点に達する。1960年代前後を転換点として、社会生活のなかの具体的問題に倫理的指針を示唆しようとする応用倫理学が登場してきたのは、上述の流れに対する反動としてであった。したがって、それはメタ倫理学に収斂する倫理学観や情動主義に異議を唱える哲学者たちにも歓迎されたのだった。ところが、現実の応用倫理学は具体的問題を具体性において考察するというよりも、むしろ普遍妥当的な原理や観念を個別の事例に適用して処理するという抽象的な方向に進んでいった。それゆえ、その原理原則にのっとる手続き的な思考法が批判されていったのだった。応用倫理学に対する期待と失望は、トゥールミンの二つの論文「いかにして医療は倫理学を救ったか」と「原理という暴君」のなかに端的に表われている。

 今となっては、論理実証主義の流れを引く情動主義の主張は、たとえば、その科学観、真偽を一義的に判定する手続きへの素朴な信頼、言語の働きを命題にしぼった限定された言語観などから過去のものといってよい。倫理的判断を判断主体の態度の表明にすぎないとするその拙速さを批判することもできる(6)。けれども、同時代にその主張を真摯にうけとめたならどうだったろうか。メタ倫理学でも、また、応用倫理学でも、ひとかどの仕事をなしえたヘアは「道徳哲学者は医療倫理学の問題に役立つことができないなら、店を閉めるべきだ」(7)といっている。戯画化すれば、情動主義のもとでは、形而上学、神学、美学とともに、倫理学は学問から追放され、倫理学者はメタ倫理学をする以外には「店を閉め」なくてはならなかった。その後の転換をへて、規範倫理学や社会生活に直結する問題にとりくむ倫理学者もまた店を再開することができるようになり、逆に、今では、応用倫理学の店を開かざるをえない風潮に対する不満を耳にするようになっている。こういうと、戯画化がすぎようか。しかし、その経緯を思えば、応用倫理学をめぐる問いは、たんに応用倫理学をする研究者とそれに携わらない研究者との棲み分けによって答えられる問題というよりは、退避できる安全な住処をいったんは保障されていなかった倫理学者(道徳哲学者)がその痛烈な意識をもって答えるべき問いではないか。とりわけ、おそらくは戦争によって同時的な対応がじゅうぶんなされていなかっただろう日本では、以上の経緯を追理解する必要がいっそうあるように思われる。そして、こうした理解こそ、たんにとりあげる問題の新しさからだけではなく、倫理学の歴史的文脈にしたがって、応用倫理学の問題提起のアクチュアリティをうけとめるために必須のことだと、私は考えている。

 

3. 争  点

争点1: 「応用倫理学のアクチュアリティについてはおよそ理解できたが、哲学のアクチュアリティはどう考えるか」。最初に寄せられたこの質問には、自明性を根底から考えなおす営みである哲学はつねにアクチュアルだと答える。だが、このアクチュアリティは超歴史的であって、私にとってはいわずもがなのことのように思える。

争点2: 当日の講師のひとり、高橋久一郎氏は倫理学を「生きるための技術」として哲学と区別された。哲学と倫理学との微妙なずれを思えば理解できない区別ではないが、私には「生きる」という概念はあまりに根底的、総括的すぎ、それゆえ、倫理学を他の諸学と並置するよりも哲学に近づけるほうが自然に思える。もっとも、当日、確認したように、高橋氏の倫理学/哲学の区別と私の「家の法」/「家の法ではない倫理および倫理学」との区別は構造的に相似である。おそらく、それぞれの前の項は内容もまた重なり合う点が多いだろう。ただし、倫理学の哲学の主題として、高橋氏が倫理の自然的基礎の解明を示唆されたのは、高橋氏が自然主義的倫理学の可能性を追求している以上、理解できるが、私自身は形而上学上のちがいからそのまま賛同するものではない。

争点3: 哲学が根底を問う営みであり、倫理学が哲学であるなら、倫理学は倫理の根底を問う営みである。これに対して、「倫理に根拠はない」という反論があるかもしれない。その場合、「倫理」がいわば不定冠詞つきの倫理的判断を指しているのか、それとも定冠詞つきの「倫理なるもの」を指しているのか、区別してもらいたい。前者について理由づけできないとすれば、後述の情動主義になる。情動主義は2.4に示唆したように批判しうる。後者について理由づけできないという答えが出るとしても、その答えはまさに根底を問う営みをとおしてしか得られない。したがって、倫理を主題として哲学的思索をすることはやはり可能である。

争点4: 当日の講師のひとり、森岡正博氏は、哲学者や倫理学者の意見が委員会などに反映されることは少ないものの、臓器移植法の見直しに抗して各人の意思表明を尊重する現行法の精神を擁護する方向に議論を向けていこうと努めているご自身の経験と成果を紹介された。力点は後者にあったが、懇親会の席上で、複数の出席者から哲学者や倫理学者の意見が聞き届けられないことを遺憾とする感想を聞かされた。しかし、たんに哲学者や倫理学者の社会的な効力の乏しさを慨嘆するだけなら的外れだろう。応用倫理学批判の文書には、生命倫理学者(bioethicist)は自分たちだけが適切な倫理的指針を出せると思い上がっているソフィストだという非難をみたり、応用倫理学擁護の文書には、哲人支配を否定する民主主義の支持をみたりすることがある。応用倫理学の主たる争点は、哲学者や倫理学者が社会生活に根ざした倫理的問題について回答を出す資格があるのかどうか、あるとすればどのようにしてか、ないとすればどのように寄与できるのかという問題である。当日の森岡氏のコメントも、私の印象では、その線にそったものだった。社会的有効性だけが応用倫理学の是非を問う基準であれば、問題は、2.2に示した意味での経済的問題であって、哲学・倫理学の問題ではない。

 

* 本研究は、平成14年度科学研究費補助金萌芽研究(課題番号14651006)、および、平成14年度関西大学学術研究助成基金(奨励研究)による研究成果の一部である。

 

文献表

Ruth Chadwick and Doris Schroeder (eds.), Applied Ethics: Critical Concepts in Philosophy, vol.1, Routledge, 2002(以下AE1と略記)

Don MacNiven, “Practical Ethics: the idea of a moral expert”, in AE1

Stephen Toulmin, “How medicine saved ethics? “, in New Directions in Ethics, Joseph P. DeMarco and Richard M. Fox(eds.), Routledge and Kegan Paul, 1986(AE1に再録)

――, “The Tyranny of Principles”, in the Hastings Center Report, vol.11, n.6, 1981.

アルフレッド・J・エイヤー『言語・真理・論理』、吉田夏彦訳、岩波書店、1955年。

ミシェル・セール『自然契約』、及川馥、米山親能訳、法政大学出版局、1994年。

品川哲彦「環境、所有、倫理」、『思想』923号、2001年4月。

――「倫理学の応答能力 生命倫理学を手がかりに」、『日本倫理学会大会報告集』、日本倫理学会、1999年。

――「全体討議のための報告補遺」、『倫理学年報』49号、日本倫理学会、2000年。

――「書評:大庭健・安彦一恵・永井均編『なぜ悪いことをしてはいけないのか Why be moral?』ナカニシヤ出版」、週間読書人2363号、2000年11月24日(同上)。

 

(1) Edmund Husserl, Husserliana I, Martinus Nijhoff, 1950, S.4

(2) モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』I、竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年、13頁。

(3) ジャック・デリダ『歓待について』、廣瀬浩司訳、たとえば、137頁。

(4) Alasdair MacIntyre, “Does applied ethics rest on a mistake?”, in the Monist, vol.67, n.4, 1984, p.498 (AE1に再録)

(5) James Brown, “On applying ethics”, in AE1, p.216

(6) James Rachels, Can Ethics provide Answers? , Rowman & Littlefield Publishers, 1997, pp.36-39

(7) Richard M. Hare, Essays in Bioethics, Clarendon Press, 1993, p.1

 

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