環境、所有、倫理

 

品川哲彦

『思想』932号=2001年4月号、岩波書店、2001年4月5日、69-88頁

 環境ということばが意味をなすには、それを環境として生きている生き物――したがって、それがあってはじめて、その環境のよしあしをその存在にとってのよしあしとして区別することを可能にする存在――つまり、環境の主体がその中心になくてはならない。そこで、主体と環境の関係を単純に思い浮かべるなら、主体を円で表わすと、環境は円のまわりをぐるりととりまいてその外側に広がっている。むろん、この表象は素朴にすぎる。この図のなかで円の内側として示された環境の主体の内部もまた、その主体にとっての環境を形成しているからだ。内分泌系という内部環境を最初に発見したのはC・ベルナールだった。ベルナールはこう記している。有機体とは「すべての部分作用が相互に連帯し、相互に他の原因となっている」「調和的に秩序づけられたデテルミニスムである」(1)。ところが、現在では、もともと主体の外部にありながら主体の体内に入り込んでこの内分泌による調和を攪乱してしまう物質(いわゆる環境ホルモン)があることも知られている。そもそも、たんに外をとりまいているだけでは環境たりえない。主体の内部に影響しうるからこそ環境なのにほかならない。だから、内部を純然たる内部としてとりだすことはできない。たとえそうしたところで、あたかも、自分の口から手を入れて痛む胃をつかんでぐいぐいひっぱったあげくのはてに胃壁を体表にして裏返しになってしまった、島尾敏雄の小説に登場する男のように、内と外とを反転させる結果に終わるほかあるまい(2)。主体は環境からその身を画しつつ、しかも、環境との相互作用をとおしてのみ存続する。

 ここで私は、ある哲学者のノートに書きつけられた、これまで述べてきたこととは一見関わりのなさそうな断想を思い出す。西田幾多郎の断想である。

斯の如き世に何を楽んで生るか。呼吸するも一の快楽なり(3)

このことばについて、上田閑照は、まず、「生き得るためには、生きること自身に何か肯定的なことがないと、生きぬくことはできません」と指摘する。そのうえで、呼吸という「原初的な生」「生が生自らを直接に享受するところ」に生の肯定を見出したこの断想こそ「西田幾多郎の境涯があらわれている最も単純な言葉」だと評している。西田がこの断想に思いいたった背景には、上田によれば、呼吸を死と蘇りの象徴として捉える禅の経験があるという(4)。だが、このことばはそれだけをとってみても、ひとりの人間が一個の生き物として生存の根本的な条件である環境との交わりのなかに自分の生を確かめているようすをあざやかに伝えている。

 なにか特定できる障害に出会って挫折したから世を嘆くのではない。それなら、障害をとりのぞく努力をするまでのことであり、また、そうするほかない。そうではなくて、自分の身にふりかかるあれやこれやの出来事、自分をとりまいているもろもろの事情全般のためにくずおれ、うちひしがれている。逃れようもなく、逼塞する思いである。しかし、逃れるすべがないなら、しばらくは嘆いている自分に身をそわせてみよう。息を吸い、そして、息を吐く。ただそれだけをくりかえす。息をするのはあたりまえのことであり、嘆きのもとを解消しはしない。けれども、自分をおしひしいでしまいそうな嘆きの底に、ひそやかに息づきつつ嘆きをうけとめている自分がいる。それに気づくとき、私は自分が生きているという感覚をとりもどし、快さすら感じはじめる。

 息を吸い、息を吐く。それは、私の外にあって私をとりまいているもの、したがって、さしあたりは私にとって他なるものを私の内にとりいれ、私に同化し、私の内にあるものを私の外に出すことである。私の生、私が「ある」ことは私の外にあるものと私の内にあるものとのこうした交わりにおいて成り立っている。呼吸が快楽なのは、その交わりそのものを端的に享受することだからにほかならない。そう考えるなら、呼吸ばかりではない。生きていることそれ自体を成り立たせているそのほかの行為についても、同じことがいえるはずだ。たとえば、食べること、ふれること、体を動かすこと、そして、外にある何かを変えることなどもまた同じ理由から快楽なのである。

 

 ところが、人間は、内にとりいれるべきものでありながら必ずしもただちに手に入るとはかぎらないものがあるときに、それを手に入れる偶然の機会をたんに待ちうけているだけではなく、いずれは内にとりいれられるようにすでに用意しておくこと、つまり計画的に生産する手段を身につけた。いいかえれば、人間は「ある」ために必要なものを「もつ」ことができる。私が確保したものは、現在は私の外にありながら、いずれは私の内にとりいれることが決まっているものとしてすでに私のものである。こうして、私という主体とその環境とを分かつ内外の区別に加えて、私をとりまいている環境のなかに、新たに、内と外とを分かつ第二の線がひかれる。私の所有の内と外とを区切る境界である。

 二つの境界は別の意味の次元に属している。

 主体と環境の関係は物理学的、化学的、生理学的に決定されている。ただし、ある主体の環境のなかには、他の環境の主体が属している。後者はそれ自身の環境をもっており、そのなかにもまた別の主体が属している。したがって、理念的には、すべての主体のそのそれぞれの環境はたがいに部分的に重なり合い、交わり合い、織り上げられて、ついにはひとつの全体、ひとつの自然を築き上げていることになろう。ある主体の活動の所産は他の主体の環境を構成する要素として、他の主体になにがしかの影響をおよぼしている。どのひとつの主体が失われても、その影響は他に波及せざるをえない。その相互作用はきわめて錯綜としていて、それについての研究は生態学という新たな学問を要請した。このような自然の捉え方を生態学的自然観と呼んでおく。しかし、ある主体と(他の主体および環境を内包している)その環境とのあいだの関係は、いかに複雑であろうとも、物理学的、化学的、生理学的、そして生態学的に確定されうるはずの事実である。

 これに対して、私が私の環境の一部を所有できるのは、さしあたりは、私とそれ以外の主体のあいだの力関係によってであり、それが維持されるのも力関係によってだが、そこにあるのは事実としての力関係だけではない。所有するとは支配し、消費することにほかならない。私は私の所有のなかにとりこむことによって、また、私の所有を思いのままに利用することによって、他の主体を支配し、消費してしまう。このことをどのようにうけとめるのか。それは許されることか。許されないことか。許されるとすれば、なぜか。この問いは事実ではなく、倫理に属す。したがって、私の所有の維持は、たんに力関係のみならず、私と他の主体とのあいだの権利や正義の関係にかかっている。

 所有は私が生を、生きていることの快楽を確実にするためのものである。倫理はなんらかの尊重すべき存在を前提とする。尊重すべき存在の存続とその快楽、幸福の擁護――倫理はそれを志向する。だから、私が生きぬくことが倫理的に許されることならば、私の所有もまた原則として倫理的に許されているにちがいない。たんなる自己犠牲は倫理的ではない。私の生、私の快楽を視野に入れない倫理があるとすれば、それは、おそらく、血の気の失せた無力な倫理にほかなるまい。しかし、倫理の基本的な価値のひとつ、正義が成り立つためには、尊重されるべき存在はかならず複数であり、しかもその複数の存在のどれについても公平に配慮しなくてはならない。その複数の存在のなかに、通常、少なくとも、人間は数え入れられる。だとすれば、私がもち、囲い込んだものは、たしかに、私の環境のなかにあったものではあるが、それは同様に、私以外の人間の環境にも属していたものである。それなのに、私以外の人間ではなく、この私がそれをもち、私のものにすることが許されるのはなぜか。さらには、人間以外の環境の主体もまた倫理的に尊重されるべき主体のなかに数えられるのであればどうであろう。私が私のうちにとりいれ、私と同化すべく用意しているもの、たとえば、一片の肉、一匹の魚、一個の野菜はもともとそれ自身の環境をもって生きていた。なるほど、すべての生き物が共存するということは事実としてありえない。事実として不可能なことを要請するのは倫理ではない。けれども、ほかの生き物の活動では、それぞれの生物種の取り分は環境の制約によって調整されている。人間の活動はそうではない。だとすれば、正義の秤がほかの生き物ではなく、人間の生存の確保を擁護するほうに傾くと安んじて決めてかかることができるのはどうしてか。

 むろん、答えはたやすく差し出される。そのために、第三の線がひかれる。倫理の内側と外側、倫理的に尊重されるべき存在と、その存在に対して何をしようともその行為がその存在それ自身のためには倫理的な意味でよいとも悪いとも評価されない存在、つまり、それにおよぶ行為が倫理上の問題とされることのない存在との区別である。

 この第三の境界には、他のいくつかの区別が付随していて、それを強化している。まず、人格と物件の区別がある。つぎに、人格と物件の区別に根拠づけられて、人格の活動はたんなる物理的な運動ではなく労働と呼ばれ、労働をとおして、人格と物件は所有する者と所有される物とに分けられる。しかし、労働は働きかける対象、労働を混入すべき物件なしにはありえない。しかも、人格は生きるために今必要としているものやさまざまな快楽といった特定の目的のために労働するわけで、したがって、労働によって作り出される物はそのつどの目的にかなった物、いいかえれば、特定の内容の使用価値をもった物である。物が特定の使用に耐える性質をもつようになるのは、たしかに労働によってだが、それだけではなく、労働を加える材料としての自然物がすでにその目的に適した特有の性質をもっているからである。だから、使用価値は労働と自然物の両方から由来しているはずである。さて、そうして作られた物が市場のなかで商品として交換されれば、使用価値は交換価値に転化する。この過程のなかで、労働する人格が労働手段を所有していないで、それを別の人格に依存しているなら、後者の人格、つまり資本家は商品の交換価値からその一部を割いて労働に対する賃金として前者の人格、つまり労働者に支払うだろう。周知のように、商品の価値と賃金とのこの落差のなかに、資本家による労働者の搾取という事態がひそんでいる。けれども、搾取がとりざたされるのは人格と人格のあいだのことにかぎられている。使用価値を生み出すのに、どれほどかははっきり確定できないにしても、かならず寄与していたはずの自然物は搾取される存在とは認められない。

 したがって、だれがどこまで所有してよいかということは、他の人間に先んじてその労働をしたのはどの人間か、他の人間にくらべて相対的にどれほど労働したかによって定められる。場合によっては、配分された結果が搾取を根拠に匡正されることもあろう。しかし、人間以外の――いっそう正確にいえば、自然的人格および法的人格ではない――環境の主体は、そもそも、倫理的に尊重されるべき範囲から排除されているのだから、それが所有されることはなんら倫理的に問題ではない。人格と物件、労働と所有、搾取といった観念を援用することで、このことはまったく自明のこととしてうち立てられている。

 

 まさにこの自明性を揺り動かすこと、そのことに、環境という観念が倫理学において注目される所以はある。

 依然として、ひとりひとりの人間は小さい存在であり、その個別の活動がおよぼす影響は微々たるものかもしれない。だが、生態学的自然観が教えるように、人間の活動を集合的に捉えたなら、それがおよぼす影響は時間的な射程においても(たとえば温室効果ガス)、空間的な射程においても(たとえば酸性雨)、従来とは比較を絶して拡大している。その影響を受けるほかの生き物の、ときには種としての絶滅までをも含めた反応は、あらかじめ明確には洞見しえないかたちでふたたび人間の身に返ってこざるをえない。ここに人間にとっての環境の危機、ヒトを含めた全生物種にとっての生態学的危機が生じてくる。

 この危機に対処しようとする倫理を環境倫理と呼ぶなら、環境倫理とは、つまるところ、先に記した第二、第三の境界をあらためて検討しなおす試みにほかならない。

 たしかに、人間だけを尊重し、第三の線を動かさないしかたで事態に対応しようという環境倫理もある。だが、この立場でも、個人の選好のままに自然から経済上の利益をひきだすことは許されない。この立場はそうした態度を強い意味での人間中心主義と呼んで批判し、かわりに、自然物からうけとる美、雄大さなどの精神的価値を含めて人類の長期的な利益を考える弱い意味での人間中心主義を推奨する(5)。ところが、そのためには第二、第三の境界に保留条件を付け加えざるをえない。というのも、人類の長期的な利益には未来世代の利益が含まれており、現在世代がたんに先に生まれたという偶然の要因によって未来世代が自然を所有し利用する権利を蹂躙することは許されないからだ。

 さらには、第二、第三の境界そのものを動かそうとする立場がある。

 そのひとつは、動物福祉の倫理である。そのなかには、快と苦を感じる能力をもつ存在を道徳的に尊重すべき対象とする功利主義にもとづく立場(6)と、哺乳類のように知的能力の優れた動物には自分自身の生を生きている主体性を認め、したがってほかの存在にとってのたんなる手段としてみなされてはならないという立場(7)とがある。いずれの立場も、一部の動物に人格を認めるように第二の境界をひきなおし、したがってまた、それらの動物を倫理の内部に入れるように第三の境界をひきなおすことを主張している。

 もうひとつは、生態系中心主義である。A・レオポルドの土地倫理をみてみよう。レオポルドによれば、倫理とは共生するためのルールである。したがって、生態学的観点から共生を考えるなら、倫理が適用される範囲は、共生を可能にしているひとつのまとまり全体をおおわなくてはいけない。レオポルドはこのまとまりを土地と呼んだ(8)。土地とは、そのなかでさまざまな種の生き物が共生しているひとまとまりの生態系を包括するエネルギー回路をさしている。食物連鎖は生きるためのエネルギーが循環している回路のひとつである。しかし、レオポルドのいう土地はさらに広く、無生物をも含んでいる。呼吸や光合成などに明らかなように、生き物は無生物からもエネルギーをとりいれているからだ。したがって、水、日光、土壌成分なども土地に属している。この回路のどの要素が欠けても回路全体は維持されない。生態系内部の共生こそが土地倫理では尊重されるから、生態系の安定に貢献することが倫理的に善であり、その逆が倫理的に悪である。生態系が安定するには、土地の構成員である生物種がそれぞれ適正な個体数を保つ必要がある。したがって、適正な個体数とは、土地という全体のなかでそれぞれの種が占める割り当てについての配分的正義にほかならない。人間もまた土地の一構成員である。その意味で人類の存続は善である。しかしまた、同じ理由から、人間の活動もまた土地倫理によって制約されなくてはならない。なぜなら、人間が人間だけの利益を追求して他の共生者を征服すれば、人間を含んだ生態系全体の崩壊と破滅に通じているからである。

 動物福祉の倫理は個体としての特定種の動物を尊重し、生態系中心主義はすべての生物種と生態系を尊重する。両者は根本的に異なり、対立してもいる(9)。ただし、ここでは、人間以外の自然物を道徳的に尊重すべきものとする両者の共通点に注目して、人間中心主義と対比して非人間中心主義と呼んでおこう。非人間中心主義によれば、人間以外の自然物(の一部)は人間にとっての手段となるからのみ価値があるのではなくて、それ自身として固有な価値(intrinsic value)をもっている。H・ロールストンはこう記す。

固有な自然の価値とは、人間に貢献することとは関わりなく、自然のできごとのなかに認められる価値である。アビは、人間に聞かれていても聞かれていなくても、鳴きつづけるべきである。アビは人間ではないけれども、それ自身、自然の主体である。アビであるということはおろそかなことではない。アビの苦と快はその鳴き声のなかに表現されている(10)

 およそ、ある倫理にむけられる批判のなかで、第三の境界を誤ったしかたでひいているという批判ほど苛烈な批判はあるまい。もし批判のとおりなら、その倫理は排除してはならないものを排除することによって成り立っているからだ。それゆえ、その倫理それ自体が反倫理なのである。その倫理はそれが尊重すべきとしているものの内部では正義を貫徹しているかもしれない。けれども、その正義はそれ自体、その倫理の外部とのあいだの不正義によって支えられていることになろう。

 生態系中心主義における自然全体、動物福祉の倫理における動物は、第三の境界の外に位置づけられてきたものである。人間中心主義における未来世代の人間は、理念上は第三の境界のなかに収められていたはずだが、顕在化されてはこなかった。だとすれば、環境倫理とはこれらを排除してきた倫理に対する外部からの異議申立てにほかならない。なるほど、環境危機は、まずは、この私の、また、子や孫といった私に連なる人びとの生に対する脅威とうけとられる。このとき、環境倫理は人類の存続と環境の保護というそれがもたらすはずの実利的な効果からのみ評価されよう。だが、環境倫理が既得の利益の確保ではなく、利益の根拠を問いなおすものなら、環境倫理の本質はこれまでの倫理の反倫理性を摘出するところにあるはずだ。その意味でこそ、環境倫理は新たな倫理と称しうる。しかし、それは実際にそういうものたりえているだろうか。このことは、環境倫理が従来の倫理の外部におかれてきたものへの正義をいかに克明に主張できるかにかかっている。

 

 以下、J・ロックの所有論を参照する。というのも、ロックの『統治論』は所有論にとって最も基本的な二つの問い――なぜ、ほかの人間ではなく、特定の人間に所有権が認められるのか、また、なぜ、人間には人間以外の自然物を所有する権利が認められるのか、という問い――に真っ向からとりくんで答えている卓抜した先例だからである。しかも現在、ロックの説いているような社会契約は、非人間中心主義の立場をとる論者、たとえば、M・セールからすると、「自己閉鎖的であって、諸物の巨大な集団たる世界は蚊帳の外に置かれ、所有の受動的対象という地位に貶められてしまった」(11)と批判されてもいる。だが、ここで行なおうとしているのは、環境危機の遠因を短絡的に探すことではない(12)。所有を正当化し、正義を人間同士に限定する論拠にさかのぼろうとする作業である。

 『統治論』では、およそ次のような論理が展開されている。

 (一) 神は人類に自然を共有物としてゆだねた。『創世記』第一章二八節において、神はアダムに「地を治めよ」と命じている。この命令はアダムに他の人間を支配する権利を授けたものではない。人間以外の被造物を支配する権利を授けたものである。しかも、授けられたのは、私的に支配する権利ではなくて、全人類が人間以外の自然物を「共有する権利」(13)である(『統治論』第一篇第四章二四節)。

 (二) 私的所有の権原。だが、自然が人類に共有物として与えられただけなら、だれも自然の一部を自分の体のなかにとりいれ、身の養いとすることは許されない。それでは、つきつめていけば、だれも生命を維持することは正当化できなくなる。けれども、@人間はすべて神によって創造され、「神の所有物(property)」であり、「ほかの者ではなくて神の嘉みするかぎり(during his, not another's pleasure)、永らえるように造られている」(第二篇第二章六節。以下、引用は第二篇第五章から)(14)。人間の存続も神の命じるところである。生存しつづけるべきなのは、人類全体のみならず、ひとりひとりの人間である点に注意しておきたい。それゆえ、個人が生存するために自然の一部を自分のものにすることがなんらかのしかたで正当化されなくてはならない。A「人間はだれしも自分自身の身(person)を所有している」(二七節)(15)。Bだから、身体の動き、働き、労働も本人の所有に属している(同)。Cしたがって、「自然が供給し、残しておいた状態から、人間がとりだしたものは何であれ、人間が自分の労働を混入し、自分自身のものである何かをそれに付け加えたのであり、そのことによって、それを彼の所有にする」(同)(16)。以上から、ある特定の個人が、すでに他の個人の所有物にはなっていない自然の一部を自分だけのものにする権原が確保された。

 (三)所有の制約。ただし、@所有物を腐敗させてしまうようなしかたで所有することは許されない。というのも、腐敗させるということは自分の使用する範囲、本人の分け前を超えて、他人に属すはずのものを所有し、自然の法に違背することだからである(三一節、三七節)。Aまた、ロックは、ある人間が自然の一部を所有しても、他の人間にも「なお十分に、同じようによいものが残されている」(三三節)(17)なら、他の人間に損害を与えることはないということを何度か述べている(二七節、三三節、三六節、三七節)。この指摘は、自然がそれだけ豊かだという事実を示唆しているとも、他の人間にも十分に残しておかないかぎり、所有は正当化されないという制約を示唆しているとも読める。後者で読むこととする。というのも、特定の人間だけが生きるのに必要なものを専有してしまい、他の人間が生存できないようにするなら、たとえ、その可能性はロックにとっては反事実的仮定にすぎなかったとしても、それを許せば(二)@に記した、神に命じられた個人の生存の維持に抵触するからである。

 以上の論理のなかで、所有の権原が発生する節目に、自然物に対する労働の混入があることはたしかである。だが、混入という表現はきわめて素朴に表象しやすいとともに、その実、分かりにくい。というのも、たんに体を動かした結果が自然の一部におよんだだけで所有権が確立するなら、R・ノージックが指摘したように、缶ジュースを海にあけただけでジュースが広がった範囲の海の一部を所有できそうにも思われるからだ(18)。ここでは、森村進の解釈にしたがい、所有を実質的に正当化する要件として、たんなる労働の混入だけではなく、その労働によって価値が創造されるということを数えることとする(19)。そのほうが少なくとも腐敗の制約といっそう整合的であり、また、のちにみるように、ロックはしばしば労働による自然物の価値の増加について語っているからである。

 

 さて、まず、(一)に注目しよう。人間は自然を支配する権利を神の命令によって授けられている。これが出発点である。このことはロックの生きた政治状況ではぬきがたい意味をもっていた(20)。しかし、現在、この神学的前提にそのまま与することはできない。かりに、この前提が無効だとしてみよう。すると、どのようなことが帰結するだろうか。まず、人間は自然物を共有する権利を失う。その条件のもとで、人間が労働によって他の人間から自分を差異化し、入手したものを私的に所有しようとしたところで、もともと自然物が共有されていない以上、私的所有の権原は失われている。したがって、人間が自然物を所有し、利用し、消費することはなんら正当なことではないといわざるをえない。

 それでは、人間による自然物の所有は神学的前提なしに正当化できるだろうか。どの人間も神の被造物ではないとしても、自分の生命を維持する権利をもっている。このことが――ロックの表現を借りれば、啓示と対比された「自然な理性」(21)には――明らかだとしてみよう。だとすれば、まだほかの人間が所有していない自然物を所有し、利用し、消費する権利も保証されなくてはならない。人間がおかれている自然状態と自然法をこのように描くことはできるだろうし、この見解は自分の生と快楽を視野に入れた血の通った実効性をもつ倫理に通じうる。ところが、非人間中心主義の主張者はこれを支持しない。というのも、この論者によれば、自然物(の一部)にも同じ論法はあてはまり、したがって同様の権利が保証されなくてはならないからだ。自然の法が真に自然全体を公平に支配する法であるならば、そう指示するだろう。だから、人間だけに自己保存の権利を認めて所有を正当化する主張は、この論者からすれば、論点先取の虚偽にほかならない。

 ちなみに、ロックが引用した『創世記』の一節は、L・ホワイトが「生態学的危機の歴史的根源」(22)と評して以来、しばしば否定的に言及されてきた。だが、右の神学的前提から環境倫理を展開することはできる。それによれば、神がアダムに「地を治めよ」と命じたのは楽園追放以前のことであり、神の命令はその文脈で理解されなくてはいけない。人間が楽園ではたすべき役割は楽園の秩序の維持にあったはずである。したがって、神は、人間が人間以外の自然にたいして専制君主のようにふるまうのではなく、自然を神から信託されたとおりに管理する者(steward)としてふるまうように命じている(23)。ここから、公共的な価値をもつ自然物を公共信託によって守ることが推奨される。

 同じ結論には、人間中心主義の環境倫理からもいたりうる。自然からできるかぎり長期的な利益をひきだすためにも、賢明な管理は推奨されるからである。もちろん、神学的前提の立場は神中心であって、人間中心ではない。しかし、この立場が人間中心主義と同じ結論にいたるのは、管理者という謙抑した態度を勧めながらも、人間が被造物のなかで特権的な地位を占めていることをやはり認めているからである(24)。いずれにしても、公共信託による環境維持は、自然のどれほどの部分を共有財産として残し、どれほどの部分を私的所有にゆだねるのかという具体的な配分によって裏づけられなくてはなるまい。ロックの観念でいいかえれば、十分性の制約による私的所有の限度の設定である。十分性の制約についてはのちにふれる。

 

 (二)に進む。ロックによれば、労働を自然物に混入すると、その物は価値を増す。それでは、労働が加えられる以前はどうだったのだろうか。自然は端的に無価値なのだろうか。それとも、価値をもっているのだろうか。非人間中心主義の環境倫理は自然に固有な価値を認めている。同じような観念はロックの議論のなかにも見出されうるのか。また、もし、自然物が労働を混入されるまえに価値をもっているとすれば、その価値と労働を混入されたあとの価値とはどのようにして秤量、比較されるのだろうか。

 労働した人間にとって、労働が自然物に価値を賦与することは明らかである。最も単純な労働として採集、狩猟・漁労を考えてみよう。ロックはインディアンの食べる果実や鹿肉を所有物の例にあげている(二六節)。果実・鹿は自然にあった。その状態では、たんに食べうるものだった。採集・狩猟することで実際にそれを食べることができた。だから、労働が増加した価値とは、採集・狩猟した本人が直接使用する価値である。

 興味深いことに、ロックはしばしば労働混入以前と以後の価値の変化について数値をあげて論じている。とりわけ農耕による土地の価値の増加についてである。

自分の労働によって土地を専有する者は、人類の共有財産を減らすのではなくて増やしている。というのも、囲い込まれて耕された一エーカーの土地がもたらす人間生活を支えるのに役立つ食糧は(きわめて控え目にいっても)同じくらい肥沃ではあるが共有されている荒地の産み出すものの十倍はあるからである(三七節)(25)

ここで、労働が私有財産だけではなくて共有財産を増やすといえるのは、土地の売買、つまり交換がすでに視野に入っているからだ。だから、よく開墾されているが通商の便のないアメリカの奥地を囲い込む気にならないとも論じられる(四七節)。労働が増やした価値と自然のままの状態での価値との比率はここでは十倍と算出されているが、もちろん比喩であろうが一定せず、百対一ともいわれている(三七節)。いずれにせよ、「自然と土地とは、それ自身としてはほとんど無価値」(四三節)だというのがロックの趣旨である。

 それでは、自然と土地のそれ自身としての価値とは何を意味しているのだろうか。一見、労働を混入する以前の価値のことがいわれているようにみえる。しかし、右の引用でもわかるように、ロックが実際に比較しているのは、労働を混入して使用(交換)が可能になった状態の価値と労働混入以前の状態での使用価値(交換価値)である。ところが、後者は、先の採集・狩猟の例でいえば、食べうる価値であって、つまりは人間にとっての価値でしかない。同様にまた、労働を加えていないまったくの荒地を売買すること(交換価値をつけること)はできるけれども、そこでつけられている価値とは、明らかに、その荒地に労働を混入したあとにそこから得られるだろうと見込まれている価値からその労働の対価をひいて算出されたものにほかならない。したがって、労働と関わりなく、自然と土地がそれ自身としてもっている価値などというものはけっして算出されてはいないのだ。

 もっとも、自然に固有な価値(natural intrinsic value)という表現は、ロックにも見出される(四三節)。だが、その語義は先に引用したロールストンのそれと対蹠する。

この国で二十ブッシェルの小麦を産出する一エーカーの土地と、同じ経営をすれば同じほど産出するだろうアメリカの一エーカーの土地とは、疑いもなく、同じ自然に固有な価値をもっている(26)

ここにいわれている自然に固有な価値とは、人間が労働を加えたあとで自然からひきだせる価値のことにほかならない。非人間中心主義者では、自然に固有な価値とは人間にとっての手段としての価値ならざる価値である。これに対して、ロックの考察は、あくまで人間にとっての手段としての価値の範囲を出ない。

 人間は労働によって賦与した価値だけではなくて、労働を混入した自然物そのものを所有する。もちろん、物を食べるときには、労働によって増えた価値だけではなく、物そのものを所有し、消費するほかない。だが、こうした物理=身体的(physical)な理由が、なぜ、そのまま、倫理的にも正当化されうるのか。そのわけも以上のことから理解できる。労働によって賦与された価値を除けば、自然物は無だからである。この点で、森村が次のように述べているのは、ロックの解釈としてまことにまっとうな見方だと思われる。

「無からの資源の創造」は決して神秘的な奇跡ではなく、ごくありふれた活動である。海の魚をとった漁師はその魚を人間にとって利用できるものにした。荒地を開墾したロックの農夫はその土地を肥沃な農地に変えた。これらの資源は漁師や農夫の労働によって無から創造されたのである(27)

 ところが、それにもかかわらず、注目すべきことに、ロックは労働が混入される以前の自然を無価値だとは言い切らない。価値の極小部分をもっているというにとどめる(四二節)。なぜなら、人間はいかにしても自然物そのもの、つまり労働によって価値を混入すべき素材を創造することはできないからである。しかし、だとすれば、自然はやはりもともと価値をもっているのではあるまいか。人間がそこから人間にとっての価値をひきだすことを可能にする、いわば、基盤としての価値をもっているのではないだろうか。しかも、この基盤としての価値は、人間には創造できず、しかも人間にとって不可欠なのだから、極小どころか、無限に大きく見積もることもできるのではないか。けれども、極小部分といおうが、計り知れぬほど大きいといおうが、そうした比率はいずれにしても決定できない。というのも、人間にとっての価値と自然そのものの価値とは、比較しうるための共通の約数をもっていないからである。ロックの分析はまさにそのことを示している。だから、ロックが労働によって引き出されうる価値と労働が賦与した価値とを比較し、その増加分をもとにして、だれがどれほど労働したかを比較し、したがってそれにもとづいて、だれがどれほど所有すべきか、すなわち正義を論じているのは、もっぱら人間にとっての価値の内部でのことである。それでも、ロックは自然の寄与する「極小部分」にふれないわけにはいかなかった。なぜなら、人間にとっての価値と正義とはとうとうそこでは論じられることのない自然物の存在によってはじめて成り立つからだ。ここに、外部としての自然の存在がぬぐいさろうにもぬぐいさることができないしかたで意識されざるをえない。それをまともにうけとめるなら、自然に負うているという負債の意識である。

 

 所有は、(三)に記したように、所有物を腐敗させたり、他の人間の利用に供するために十分に残さなかったりする場合には正当化されない。

 十分性の制約に違反することは、ロックの時代では、反事実的な仮定であったかもしれない。しかし、未来世代をも視野に入れれば、ありうることである。再生不能なエネルギー資源を例にとると、現在世代が資源の一部を使えば、未来世代はそれだけ減った分しか使えない。他の者にも同じ量だけ残しておかないというふうに十分性の制約を厳格にとるなら、再生不能な資源についてはいかなる所有も正当ではなくなる。まったくの単純再生産を主張するほかあるまい。しかし、ロックの議論からすると、そうならない。というのも、先に引用した箇所で土地の耕作についていわれたように、労働が人類の共有財産を増やしていくのなら、十分性の制約は生産とともに緩められていくはずだからである。だとすれば、現在世代は自分たちが創造した価値の一部を未来世代が利用できるように残しておくことで十分性の制約に違反しないですむだろう。ここにJ・ロールズの社会契約論を援用するなら、無知のヴェールのもとでは、自分がどの世代に属しているかは隠されている。したがって、最も不利な世代に属する場合を考慮して、不利な世代の利益を配慮するように動機づけられる(28)。同時代の社会のなかで不利な状況にある構成員の生活を向上させるために格差原理が適用されるように、世代間においては貯蓄原理が適用される。

 しかし、この論法はあまりに楽観的にすぎよう。というのも、価値の創造が価値の破壊に転化することこそ環境危機にほかならないからだ。

 当然、ロックはそうした可能性を知らなかった。ただし、ロックも労働が負の価値に結果する場合を考えていた。それが、もうひとつの制約、すなわち、所有物を腐敗させてしまうときには、所有権は認められないという制約である。ここにいう腐敗とは、もちろん、人間からみた価値づけである。ところが、腐敗ということを生態学的自然観のなかにおいてみると、まったく別のしかたで考えられるだろう。というのは、腐敗したものは他の生き物の活動をとおしてふたたび人間にとっての価値をもつものに変わりうるからだ。しかしながら、生態学的危機では、多様な生き物の共生が脅かされているので、この機能もまた低下している。その結果、現在、ロックが指摘したのとは別の、再生しがたいという新たな意味で、資源はむだに使われている。プラスチックのように、腐敗しないことが問題である場合さえある。したがって、腐敗の制約にあたるものを現代にあわせて考えなおすとすれば、自然に還元しがたいような物質を作らないという規範をも含むべきである。

 十分性の制約と腐敗の制約は、ロックでは人間のあいだの正義を意味していた。だが、これらの制約は人間以外の生き物の活動や無生物の機能によって影響されている。たんに、人間の労働は労働を加える対象を要するというだけではない。人間以外の自然は、たとえば腐敗をはじめとする複雑な生態系の反応をとおして、人間にとっての負の価値を人間にとっての潜在的な正の価値に転化し、あるいは、その逆の方向に転化している。だから、人間と人間以外の自然とのあいだには、価値のやりとりがあるわけである。だとすれば、非人間中心主義者の「われわれは世界に何を返さなくてはならないのだろうか」(29)という問いをまともにうけとめることができよう。すなわち、人間と人間以外の自然とのあいだの正義を問う問いである。とはいえ、非人間中心主義の環境倫理が主張するように、実際、人間と人間以外の自然とのあいだに正義は成立するのか。また、成立するとすればいかなるしかたで説明できるのか。次に、非人間中心主義の議論をみてみよう。

 

 非人間中心主義に対しては、それ自体の内部に矛盾を含んでいるという批判が加えられてきた。二つの種類の批判がある。

 第一に、環境倫理にいう環境とは人間にとっての環境を意味している。だから、環境倫理の目的は人間にとっての利益の回復にある。それゆえ、人間以外の自然物の利益と人間の利益とが競合する場合には、人間は後者を優先せざるをえない(30)。この点で、非人間中心主義は破綻するという批判である。しかし、この批判が、人間はなによりも人間自身の利益を優先するという心理上の事実に訴えているなら、非人間中心主義者はまさに自分たちが人間を超えた正義を現実に考えているということを示して反論できるだろう。ディープ・エコロジスト、A・ネスはこう記す。「人間は、人間だけがものさしをもつという意味で万物の尺度かもしれないが、人間が測るものは人間自身や人間の存在より大きいかもしれない」(31)。また、功利主義に立脚する動物福祉論者ならば、人間と動物(の一部)とからなる全体の幸福量を基準にすることで両者の矛盾を排除できるというだろう。

 第二の批判は、倫理的に尊重すべき対象を画定する第三の境界をひきなおすと同時に、倫理的な観点から評価されるような行為主体の範囲をも拡張しているのではないかという批判である(32)。たとえば、土地倫理は生態系の安定に貢献することを善、その逆を悪と考える。その主張を文字どおりにうけとれば、ある生物種が繁殖しすぎたときにその個体数を減らしにかかるその生物種の天敵は善い行為をしていることになろう。しかし、これはどうみても比喩でしかあるまい。他の生物種を尊重すべしという倫理的義務を要請され、また、はたしうるのは人間でしかない。したがって、意図して生態系の安定に貢献する倫理的な意味での善と生態系の安定という自然的な意味での善とを分けなくてはならない(33)。同様に、動物の権利や自然物の権利といった観念も、義務を欠いた非対称的な権利にとどまる。こうした留保によって、非人間中心主義は第二の批判を斥けることができる。

 以上で、非人間中心主義は自家撞着をまぬかれたとしよう。しかし、それだけでは、自然に固有な価値を認める立場が存立する可能性を確保しただけである。さらに進んで、人間と人間以外の自然物とのあいだの正義を主張しうるには、自然物と人間とのあいだにそれぞれの正当な取り分を確定しなくてはならない。というのも、正義とはその存在に属すべきものをその存在に帰することだからだ。動物福祉論では、固有な価値をもつのは特定の種の動物だけである。したがって、尊重すべき動物種の一個体が生きるのに必要なものを尊重すべき対象ではない生物種から摂取することは正義にかなっていることになろう。生態系中心主義では、先にも述べたように、ある生態系のなかでそこに属すそれぞれの生物種ごとに生態系の安定に資するだけの個体数を割り当てることが正義である。

 けれども、これは自然物のあいだの正義である。問題が人間と人間以外の自然物とのあいだにひきうつされるなら、両者のあいだの互恵性や交換こそが問題である。すなわち、人間が人間以外の自然物にもたらした利益および損害と、それに応じて、人間が人間以外の自然物から正当に得ることのできる報酬と支払わなくてはならない賠償とを論じなくてはいけない。この提案は荒唐無稽に聞こえるかもしれない。しかし、人間と人間以外の自然とのあいだの正義への問いを真摯にうけとるなら、それを愚直に考えるほかない。たとえば、人間が家畜の生活の便宜をはかるとき、人間は家畜から何をどれほど手に入れる権利をもつのだろうか。宮沢賢治のある小説では、家畜を殺すときには家畜自身の同意を得なくてはならない。そこで、農学校長は豚から死亡承諾書をとりつけようと、「その身体は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ」と豚を嚇しにかかる(34)。いうまでもなく、動物福祉論者なら豚の屠殺それ自体を否定する。植物であれば、動物福祉論者には支障がない。しかし、動物であれ植物であれ、六節に記したように、人間は自然物を無から創造できない。それゆえ、人間の労働は豚の「全体みんな」を作り出したわけではないのだから、人間が世話した報酬として豚の全身をとりかえす権利があるという農学校長の論理は成り立たない。ただし、これは個体レベルで考えた場合である。生物種レベルでは、同じ問題を土地倫理にしたがって考えることになろう。豚の個体数は人間の手で増やされた。だから、人間はその増加分だけ間引くことが許されるはずである。だが、まさにこの豚という例が示しているように、人間は畜産業、農業、漁業をとおして特定の種の生き物を生態系のなかにもちこみ、保護し、さらには種の改良に励んできたし、これからもそうするにちがいない。そのもとで、土地倫理の指令するように個体数を調整して生態系の安定をはかったとしよう。しかし、それによって守られるのは、原生自然を除けば、人間の活動の影響下で成立してきた均衡状態にほかならない。しかも、生態学的自然観からすると、原生自然さえも人間の活動に影響されないわけではない。だとすれば、人間と人間以外の自然とをともども支配してそれぞれの正当な取り分を定めるはずの正義にかなった配分結果そのものもまた、すでに人間の活動が作り出してしまっていることになろう。

 ロックの議論では、正義は人間だけに限定されていた。それでも、自然に負うているという負債の意識は残る。だが、議論はこの負債をできるだけ少なく見積もることで人間の内部の正義に抵触しないようにして進んでいく。自然そのものの価値と人間にとっての価値とを比量する共通の約数がないからである。これに対して、非人間中心主義は自然という外部からの異議申立てをとりつごうと試みる。それゆえ、共通の約数を模索する。しかし、今みたように、その約数はすでに人間の活動を含んだうえで算出されるほかない。セールは「われわれは世界に何を返さなくてはならないのだろうか」(35)と問い、みずから答えて「われわれの働きの地球規模の力と全体としての地球とのあいだの新しい均衡」という基準を示したが、この均衡もまた同様のしかたでしか算出されない。そのようにして定められた正義を、あたかも、人間の上位にあって人間も服すべき正義のように語るとしたら、自己欺瞞に陥るほかあるまい。たしかに、生態系の急速な破壊の進むなかでは、現状の維持を提言することすらすでに実利的な意味をもっている。そのことは疑いない。だが、人間と人間以外の自然とのあいだの正義によってそれを根拠づけることはできない。その正統性が疑わしいからだ。そのもとで語られる正義は修辞としてのみ力をもつだろう。

 

 正義を人間と人間のあいだだけに限定する議論は、自然に対する負債の意識をよびおこす(四−七節)。この意識をまともにうけとめて、人間と人間以外の自然とのあいだの正義を語ろうとする試みは、しかし、適切な説明を与えることができない(八節)。だが、それでもやはり、自然に負うているという指摘には、否定できない説得力があるように思われる。アナクシマンドロスはこう述べている。

もろもろの存在者にとってその生成がそれらから来たるところのそれらへ、またその消滅もそれぞれの負目によって、到る。何故ならそれら存在者は時の指令に従って、また相互にその不正の償いをなすものゆえ(36)

ここで語られているのは、人間でも特定の生物種でも生態系一般でもない。時の支配を受けるもの、かぎられた時間しか存在しえないものについてである。だとすれば、話は冒頭に――第二、第三の境界ではなくて第一の境界にもどる。私たちの生は内と外との交わりにおいて成り立っている。かつて私ではなかった外のものをとりいれ、今、私の内にあるものを外に解き放って続いていく。所有できるのは、とりいれて、ないしは、とりいれる用意をして、解き放つまでのあいだだけである。だから、「もつということは時間の函数である」(37)。所有は一過的であるがゆえに、所有する者にさしあたりの安堵と恵みを受けることの快楽と、それとともに、いずれ返さねばならない負目と失うことへの不安とをもたらす。しかし、返す先は永久不変の自然ではない。ほかの環境の主体もまた、私と同様に、時間のなかで移ろいゆく存在だからだ。それゆえ、所有についての倫理がありうるとすれば、それは、所有する側も所有される側も衰滅しうる、また、現に衰滅しつつある存在であるという意識に根ざした倫理でなくてはなるまい。

 その候補のひとつとして、H・ヨナスの議論をひくことができよう。ヨナスの議論は二つの要素から組み立てられている。ひとつは、善は自然のうちに内在しているという自然哲学であり、もうひとつは、責任にもとづく倫理である。ヨナスの議論と生態系中心主義は前者の点を共有し、後者の点で異なる。というのは、責任を担いうる倫理的な行為主体は人間だけであり、ここに人間に倫理上の特別な地位を帰することになるからだ。責任は、交換による互恵的な関係における正義と違って、不均衡な力関係に由来する。ある存在が消滅の危機に瀕しており、それを存続させる力が私にあるとき、その存在に対する責任が私にかかってくる(38)。さて、ヨナスによれば、善とは、目的をもつ存在が目的を達成することにほかならない(39)。すでに生物の体の各部分はその部分に固有の目的をもち、それらの目的はその生物が生きるという目的に統合されている(40)。ところが、人間のもたらした環境破壊は、他の生物種の存続も人類自身の存続も脅かしている。人間が存在することが全世界にとって喜ばしいことか、恐るべきことか、その帳尻を考えれば、人類の存続を支持するのはかなりむずかしい。しかし、そのような帳尻とは別に、人類は存続すべきである。なぜなら、責任をひきうける主体は人間しかいないからだ。人類が存在しなければ、倫理そのものを問うことができない。したがって、人類の存続こそがなによりもはたされるべき責任である(41)

 だが、この議論にはいくつか疑問が出されよう。たんに危機を察知するたびごとに応答(Antwort)し、責任(Verantwortung)を担わなくてはならないのでは、ときに、やらずもがなの努力を強いることにならないか。責任の遂行が行為者の応答次第だとすれば、責任を遂行させる拘束力を欠くのではないか(42)。近代の哲学の常識からすれば、善と存在とを結びつける自然哲学は独断論にすぎない(43)。こうした疑問を抱きつつ、しかし、人類の存続と自然への配慮という提言には賛同する論者は、ヨナスとは別の根拠づけを求めることになる。討議倫理学者であれば、コミュニケーション共同体での討議を通じた正当化を要請するだろう。たとえば、ヨナスの議論に触発された論者が、環境を維持するために経済活動を制限したり、稀少な生態系を含んだ土地の私有を禁じたりするような政策を提案するとしよう。ひとびとはそれを討議する。そして、合意が形成されたならば、その政策は推進されなくてはならない。こうして、責任の遂行は実効性をもつにいたる。

 ヨナスの議論とそれに対する討議倫理学の批判は、これまで論じてきたことを整理するのに役立つ。コミュニケーション共同体への参加者は人間だけにかぎられている。だから、それが具現するのは、人間と人間のあいだの正義にほかならない。ただし、この正義が樹立しようとしているのは、いかなる意見をも発表できる権利である。したがって、人間にとっての利益よりも人間以外の自然に配慮した提案も排除されるわけではない。そうした提案を促すのは、むろん、討議される内容から中立なコミュニケーション共同体そのものではない。ヨナスのいう責任がそれであり、六節に記した、自然に負うているという負債の意識がそれである。したがって、これらの発想は人間以外の自然という外部からの異議申立てをコミュニケーション共同体という人間同士の正義の次元にとりつぐ役割をはたしている。しかし、ヨナスのいう責任や自然に負うているという意識は、それがとりついだ内容が討議をへて承認されることではじめて正義に関わるようになるわけではない。なぜなら、排除してはならないものを排除してしまっていはしないかという、外部への意識こそ、倫理を反倫理に、正義を不正義におとしめない唯一の歯止めであり、したがって、外部を意識する態度は、不正義を阻もうとするその意図ゆえにすでに正義だからである。だが、それはあくまで外部を意識するということであって、この正義はすぐさま人間同士の正義のなかで具体的な指令を出せるような実質をもっていない。八節に記したように、非人間中心主義はその点を見誤っている。一方、外部への意識は内部のなかで実質的な意味をもたないからといって抹消することはできない。それを示したのが四−七節である。以上、小論は、環境と所有という観念が人間だけを視野におさめた倫理と正義に対してその外部からあらためて問いなおす契機であることを認めつつ、外部を意識するというそのこと自体が帯びている正義についてその意味と限界とを示したわけである。

 

(1) クロード・ベルナール『実験医学序説』三浦岱栄訳、岩波書店、一九七〇年、順に一四九頁と一四七頁。

(2) 島尾敏雄「夢の中での日常」、『島尾敏雄作品集』第一巻、晶文社、一九六一年、一〇二頁。

(3) 「断想 第一」、『西田幾多郎全集』第十三巻、岩波書店、一九五二年、四三九頁。山内得立の解説によれば、ノートの古さから「金沢時代」の断想と推定される。西田が第四高等学校教授だったのは、明治三二年(二九歳)から明治四二年(三九歳)までで、この時期、西田は日露戦争で弟を失い、のちの『善の研究』の一部を印刷し、大徳寺孤蓬庵に参禅して無字の公案を許され、五子を得、二子を失い、本人も肋膜炎にかかっている。

 引用部分のまえには、ヘーゲルについての論評につづいて、「人は小なり、理事一致は到底完全に実現する能はざる理想なり。人は之に達せず、故に人生に悲哀多し」と「運命と自己。運命は外より来るにあらず、実に吾人の心内にあり」という断想がならんでおり、直後には「老いて益々其光輝を発する者は人格なり。人格より出る行為は老いても衰へず」とあって、そのあとに決定論についての論評がつづいている。前後四つの断想からは強い内省の志向と状況の悲痛さがうかがわれるが、引用した断想にいう「斯の如き世」がどのような事情をさしているかはさだめがたい。

(4) 上田閑照『西田幾多郎 人間の生涯ということ』、岩波書店、一九九五年、一七三頁−一七四頁。

(5) Bryan G. Norton, “Environmental Ethics and Weak Anthropocentrism”, in Environmental Ethics (以下、EEと略記する), Environmental Philosophy, Inc. and The University of Georgia, vol. 6, n. 2, 1984, p. 135.

(6) これについてのまとまった議論は、ピーター・シンガー『実践の倫理』山内友三郎・塚崎智監訳、一九九一年、昭和堂、第三章と第五章。

(7) これについてのまとまった議論は、Tom Regan, The Case for Animal Rights, University of California Press, 1983, Chapter 3.

(8) アルド・レオポルド『野生のうたが聞こえる』、新島義昭訳、森林書房、一九八六年、三一四頁。

(9) J. Baird Callicott, “Animal Liberation: A Triangular Affair”, in EE, vol. 2, n.4, 1980.

(10) Holmes Rolston, III, “Are Value in Nature Subjective or Objective?”, in EE, vol. 4, n.2 , p..145.

(11) ミッシェル・セール『自然契約』、及川馥・米山親能訳、法政大学出版局、一九九四年、五八頁。セールは社会契約にかえて自然との契約を主張している。かれが環境という語を避けるのは、環境はすでに人間を中心におくことを前提しているからである。

(12) 環境の擁護者としてのロックをその『教育論』のなかの「すべての被造物にたいする義務」を説いている箇所に見出そうとする試みもある。Kathleen M. Squadrito, “Locke's View of Dominion”, in EE, vol. 1, n.3, 1979, pp.258-259.

(13) John Locke, Two Treatise of Government, in The Works of John Locke, vol. V, Scientia Verlag, 1963, p. 229. 自然が人類の共有物であるという主張は、周知のように、アダムを「全世界の主権者」とみなすことを論拠としたロバート・フィルマーの王権神授説を論駁するものである。

(14) ibid. p.241.

(15) ibid. p.353.

(16) ibid. p.354.

(17) ibid. p.356.

(18) ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、嶋津格訳、木鐸社、一九九六年改版、二九三頁−二九四頁。

(19) 森村進『ロック所有論の再生』、有斐閣、一九九七年、とくに一一六頁−一三一頁、六三頁−六七頁、一〇五頁−一〇六頁。

(20) 註13を参照。

(21) J. Locke, op. cit. p.352.

(22) リン・ホワイト『機械と神』の副題。青木靖三訳、みすず書房、一九七二年。

(23) 人間を自然の管理者としてみる態度については、間瀬啓允『エコロジーと宗教』、岩波書店、一九九六年、二九頁−四四頁。

(24) もっとも、神学的前提を認めるからこそ、自然を管理するという発想を批判する論者もいる。支配(dominion)と訳されているヘブライ語radahが聖書のなかでは「正統性をもった支配」という意味で用いられていることを指摘してホワイトを批判したステファンがそうである。ステファンによれば、アダムが楽園において人間以外の被造物を命名したことが象徴しているように、支配とはことばと理性とによって自然の秩序を保つことを意味している。それにしたがえば、管理者という発想は、自然から疎外された人間が自然を力で支配するさまを含意している点で誤っている。Lloyd H. Steffen, “In Defense of Dominion”, in EE, vol. 14, n.1, 1994, pp.65-78.

(25) J. Locke, op. cit. p.359.

(26) ibid. p.365.

(27) 森村進、前掲、六六頁。

(28) たとえば、Russ Mannig, “Environmental Ethics and Rawls' Theory of Justice”, in EE, vol. 3, n.2, 1981, pp.161-164. ロールズは健康を自然的基本財とみていたが、マニングによれば、健康が医療・公衆衛生・環境汚染規制などによって管理されうる以上、社会的基本財であって、だから健康に必要な環境への配慮は社会正義の領域に属す。

(29) セール、前掲、六二頁。

(30) Richard A. Watson, “A Critique of Anti-Anthropocentric Biocentrism”, in EE, vol.5, n.3, 1983, p.252.

(31) Arne Naess, “A Defense of the Deep Ecology Movement”, in EE, vol. 6, n.3 , 1984, p.270.

(32) J. Baird Callicott, Earth's Insight, University of California Press, 1994, p.22.また、オギュスタン・ベルク『地球と存在の哲学 環境倫理を越えて』、篠田勝英訳、筑摩書房、一九九六年、七一頁。

(33) 自然的な意味での善と倫理的な意味での善とを分けることは、価値と存在とを分けることに直接にはならなくても、その区分に近づくことになる。生態系中心主義者のなかには、その区分自体を否定する論者もいると思われる。

(34) 宮沢賢治「フランドン農学校の豚」、『宮沢賢治全集』第七巻、ちくま文庫、一九八五年、一四六頁。

(35) セール、前掲、七五頁。

(36) 山本光雄訳編『初期ギリシア哲学者断片集』、岩波書店、一九五八年、八頁−九頁。

(37) ガブリエル・マルセル「存在と所有」、『マルセル著作集2』、渡辺秀・広瀬京一郎訳、春秋社、一九七一年、一七六頁。

(38) Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Suhrkamp, 1984, S.166, 175. なお、品川哲彦「自然・環境・人間――ハンス・ヨナス『責任という原理』について」、『アルケー』七号、関西哲学会、一九九九年を参照されたい。

(39) ibid. S.154.

(40) ibid. S.185, S.232, 245-246.

(41) ibid. S.185.

(42) Micha H. Werner, “Dimension der Verantwortung : Ein Werkstattbericht zur Zukunftsethik von Hans Jonas”, in Im Diskurs mit Hans Jonas, Dietrich Böhler (Hrsg.), C. H. Beck, 1994, S.311.

(43) Karl Otto-Apel, “Die ökologische Krise als Herausforderung für die Diskursethik”, in ibid. S. 389.


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