全体討議のための報告補遺
品川哲彦
『倫理学年報』、第49号、日本倫理学会、2000年3月30日、266-269頁
第五〇回大会共通課題「二〇世紀 倫理学への問い」全体討議のための報告者のひとりとして、当日寄せられたご質問をもとにして補遺すべき点を整理しておきたい。まず、私の報告「倫理学の応答能力 生命倫理学を手がかりに」をまとめておく。
全体討議に先立つ個別のセッションのテーマ(戦争と革命、国家はなぜ必要か、日本的なるもの、科学技術と倫理学、ジェンダーとセクシュアリティ、情報社会)はどれも、現実の社会生活のなかで生まれ、だれもが、程度の差はあれ、当事者たりうる事柄である。したがって、問題を発見し、ときには回答を試みるのも、倫理学者であるとはかぎらない。むしろ、問題の発生する現場に居合わせている一般のひとびとがそれにあたる可能性が高い。それでは、こうした実践的な問題について、倫理学者はどのように寄与できるのか。たしかに倫理学者も社会の一員として当事者となりうる。しかし、倫理学者にできるのはそれだけか、それとも倫理について考察する学に従事する者としてそれ以上に特殊な貢献ができるのか。二〇世紀前半の倫理学は前者を支持するだろう。倫理学の任務は道徳言語の意義の分析にあり、倫理的判断は一個人の態度の表出であって、倫理学者の判断もこれを出ないと考えたからである。一方、実践的問題への関心をふたたび高めてきた六〇年代以降の倫理学は後者を支持するだろう。しかし、二〇世紀前半に提起された疑念は清算されたわけではない。だからこそ、実践倫理学(応用倫理学)に従事する倫理学者には、道徳の専門家を僭称するという批判が繰り返し浴びせられているわけである。だとすれば、倫理学者の役割は実践的問題に指針を垂れることよりも、むしろ実践的問題をめぐる言説に用いられる「ことばの整理」、しかも問題が生じている現場の状況を適切なことばで言い表すことにある。この見解は実践倫理学の先例である生命倫理学の近年の動向によっても支持される。そこでは、現場の個別性をくみとれない普遍的原理を事例にあてはめる原理主義が批判されているからである。
私は大略右のような報告をした(1)。倫理学者は倫理と倫理学とを、それゆえ、特定の倫理観をもつ一個人としての発言と倫理学者としての発言とを区別すべきであり、換言すれば、倫理学者は、特定の倫理的問題に自分なりのなんらかの応答を示すだけではなく、倫理学がいかなる資格と役割から応答できるのかということをも説明する責任がある。こういう考えが私の報告の根底にはあった。
以下、当日いただいたご質問から、紙幅の関係上、その一部を順不同にとりあげたい。
九鬼一人氏は、倫理学者がいかにして中立を保てるかと尋ねられた。中立ということが倫理的な意味でのそれなのか、それ以外も含めてなのか、私にははっきりしなかった。前者に限ろう。倫理学者が他のひとびとと議論する場合、自分一己の倫理的判断を語るときには、当然、中立ではありえない。一方、自分以外の発言者の倫理的判断を聴きとり、その論拠を問い、論点が全員に共有されるようにとりついでさらに考察を進めていこうとするときには、中立をめざさなくてはならない。一発言者としての立場とコーディネーターとしての立場のこの違いを自他にむかって明確にすべきである。二つの役割を誠実に果たすなら、その挙措は奇矯なものにみえるかもしれない(「私は今の発言はとりつぐ意味がないと思いますが、私にできるかぎり正確にとりつぎます」)。あるいは、いかに注意してみても、たとえば個人という観念が自由主義者と共同体主義者とで相反する価値をもつように、「ことばの整理」がまったく偏向なきままに行われるとは期待できないだろう(2)。それでも、倫理的問題についての「倫理学」者の発言はもしかすると他の発言以上に他のひとを誘導し拘束する力をもってしまうかもしれないのだから、二つの役割を演じ分けるように努めるべきである。それ以外に、(厳密にいえば、コーディネーターとしての)倫理学者の中立を用意するものはない。
大庭健氏からは、自分自身から離れたところに現場を求めているという批判が出された。今大会では二日にわたって「現場」という語が頻出した。看護に関する自由発表もあった。だが、私は「倫理的問題が発生する場」を現場と呼んだので、看護なり教育なりの特定の場だけを想定しているわけではない。また、私も(おそらくは現場という語を用いた他の発表者も)、わが身を離れた問題はないと考えている。むしろ恐るべきは、自分が問題の発生している場にありながら気づかない鈍感さなのだ。これは「現場」という表現に反発するひとへの皮肉ではない。私には「現場」を標榜して他人を「啓蒙」するつもりもゆとりもない。ただし、現場という語が多用されたあまり誤解を招いたことは、用いたひとりとして不用意だったと感じている。
大越愛子氏は、倫理学者が現場の個別的状況を普遍的に解釈してしまう危険を指摘された。江原由美子氏は、社会学者は現場からの聴きとりをするだけではなく、さらに他に伝えようと努力すると示唆された。現場から回収したものをどこにさしだすのか(たとえば、委員会か、現場で苦しみ迷っているひとにか)とは、森岡正博氏の問いだった。
大越氏の指摘された点はまさに生命倫理学における原理主義の欠点である。だが、「ことばの整理」ならこの幣を免れているというわけでもない。ことばは必ず個別の状況を離れて問題を一般化してしまうからだ。これと江原氏、森岡氏の指摘を合わせて考えると目立ってくるのは、現場という語で呼ばれた事態の多層性である。図式的にいえば、一方には、ひとつの倫理的問題が共有され、解決され、思い悩んでいたひとがいれば立ち直ることで解消されるような個別の状況があり、他方には、固有名を捨象して類似の事例として統計された数値をもとにして組織や機関として指針を決定する状況がある。先に記したように、私の現場の定義は緩やかだからこれらの層のどれかに限定して用いているわけではない。しかし、私の報告した内容からすると、現場で「苦しみ迷っている」特定の個人へのケアが倫理学者の第一の目標になるわけではない(3)。もちろん、倫理学者が現場に関わっている一市民として特定の個人をケアしようとすることもある。けれども、「ことばの整理」はある特定の個人にむけられてはいない。
ただし、それが結果的にあるひとのケアにつながることはあるだろう。私の経験はこの点においても乏しい。一例をあげるなら、以前、私の講義を、家族をガンで亡くし、今はガン患者の家族を支えるボランティア活動をしている方が聴講されたことがある。講義にガン告知をとりあげた日があった。家族は、病状と見通しを知らされた病人のうけた衝撃が癒しえぬほど重かった場合、逆に、衝撃を恐れたり転帰が早すぎたりしために知らせることができなかった場合、病人の死後も自分のとった行動の是非を思い悩みがちである。私の考えでは、その行動が病人本人の(知りたい、知りたくないという)本意を蹂躙したのではないかと悩むのは正当だが、あたかも病人の幸福ないし不幸が自分の行動だけによって決定しえたかのように悩むのは不遜である。講義のあと、意外にも、前述の聴講生は、久しく抱いていた悩みがほぐされたという感想を語られた。私はそのひとが実際にとった行動や悩んでいたことを知らないし、私の説明は責任のおよぶ範囲についての一般論にすぎない。問題の整理が図らずも特定の個人の悩みを緩和する役割を果たすことはありうる。
安彦一恵氏は、ことばの整理ならば倫理学者でなくてもできるのではないかと問われた。たしかにそうである。だが、ここでは、倫理学が「よい」「べし」「ひと」といったごく日常的なことばがもっているきわめて複雑な多義性に繊細な注意をむけてきた学科であることを強調したい。それゆえ、他の学科がジャーゴンによって論点を専門的な議論に回収するのに比べて、倫理学によることばの整理は議論をいっそう開放する力をもつはずだ。
森岡正博氏は、しかし、日本の倫理学はことばにたいする鋭敏な感覚を示してきたかと疑念を表され、これを養う教育のありようを問われた。それについては、継続する課題であるというほかない。私たち研究者は、(ほとんど欧米の)倫理学者たちが過去になしてきた達成からことばにたいする明敏さや犀利な論理を学んできている。だが、それを授業で学生に語るとき、既存の固定した見方として「伝達」してしまいやすい。志水紀代子氏が指摘されたように、倫理学の授業はまさに現場である。授業は問題発見の場であるというこの意識を保つのに役立ちそうなことばをいくつか、私の傍聴できたセッションのなかからとりついでおく。「技術者の経験主義的な謙虚さに比べ、倫理学者にはオールマイティな自己意識が感じられる」(清水正之氏)。「『何々とは』という本質主義ではなく、歴史―文脈主義的アプローチ」(竹山重光氏)。「学問自体がジェンダーを構築し再生産してきたことを自覚すべきだ」(江原由美子氏)。
註
(1) 『日本倫理学会大会報告集』一九九九年、七六―八一頁、日本倫理学会。(なお、Web上では、「倫理学の応答能力 生命倫理学を手がかりに」のページでごらんになれます)
(2) これと類似する問題点が、伊勢田哲治氏の自由発表と質疑応答のなかで「道徳的談話のexplication」をめぐって議論された。『報告集』九八頁。
(3) この点で、臨床哲学の役割を「ケアをケアするひとのケア」(鷲田清一『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』TBSブリタニカ、一九九九年、二三三頁)として強調する説明には、私は全面的には同意できていない。
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