倫理学の応答能力 −生命倫理学を手がかりに
品川哲彦
日本倫理学会第50回大会共通課題「二〇世紀――倫理学の問い」基調報告、1999年10月17日、大阪大学
『日本倫理学会大会報告集』、1999年号、日本倫理学会、1999年9月15日、75-81頁
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今回、共通課題「二〇世紀――倫理学の問い」のもとにとりあげられる六つのテーマ(戦争と革命、国家、日本的なるもの、科学技術、ジェンダーとセクシュアリティ、情報倫理)はそれぞれ由来も射程もさまざまである。ひとつには、二〇世紀後半にはじめて生じたテーマがある。たとえば情報倫理がそれである。また、あるテーマは長い歴史をもつが、二〇世紀に起きた事件を契機とする論争をとおして、依然として目下の現実をまさに現実たらしめるように働いているアクチュアルな論点として捉えなおされている。たとえば、近年、従軍慰安婦にたいする賠償責任、「敗戦後論」などをめぐり、国家というテーマは戦争というテーマとからみあいながらふたたび活発に論じられるようになってきた。さらには、前世紀にすでに萌芽していたテーマで、新たな意味を帯び、大きく展開したものがある。たとえば、科学の分化と科学技術による生活の変化は、十九世紀にすでにきざしていたが、地球規模で進む環境破壊のなかでは意義も範囲も一変している。男性なみの権利の獲得を基本的な目標としていた十九世紀の女性解放論は、二〇世紀後半には性差別の成り立つ構造そのものの解明をめざすジェンダー論へと深化している。しかもまた、これらのテーマのなかには、独立の論題として他と並置されるテーマでありながら、それをめぐる議論がこれまでの倫理をめぐる思考全体を相対化する射程をもったテーマがある。たとえば、核兵器やホロコーストのまえで、倫理はどのような力と機能をもちうるのかという問いは端的にそうである。あるいは、非人間中心主義者が環境倫理学をとおして試み、また、フェミニストがジェンダー論をとおして試みているように、これまで支配的だった倫理思想が根本的に見直されつつもある。六つのテーマのこうした多様な内容をひとつにしぼりこむような論点をみつけることはできない。けれども、少なくともいえることは、これらのテーマのどれもが現実の社会生活のなかで生まれ、だれもが、程度の差はあれ、当事者たりうる実践的な問題だということである。そこで、このような実践的な問題を考察する倫理学を、実践倫理学ないしは(のちに言及するような批判は留保したうえで、しばしば実践倫理学の同義語として流布しているがゆえに)応用倫理学と呼んでおく。以下、この実践倫理学ないしは応用倫理学というアプローチの特徴と二〇世紀の倫理学におけるその位置について考えてみたい。(なお、ここでは、倫理学を道徳哲学と同義に用い、したがって、倫理学者という語も哲学者という語ととくに区別せずに用いている)。
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ある行為をすべきか、してもよいのか、してはならないのか、そうするのはよいことか、悪いことか、正しいことか、まちがっているのか。倫理的問題は社会生活のあらゆる断面に生じうる。「道徳なるものはいたるところに応用されうる」(Edel:26)。それゆえ、実践倫理学ないしは応用倫理学はいかなる領域にも成り立ちうる。
だとすれば、倫理的問題を最初に見出すのは、(また、ときには問題にたいする回答を模索するのも、)必ずしも倫理学者であるとはかぎらない。むしろそのほうがまれで、まずはその問題の発生する現場に居合わせている当事者がそれにあたる可能性が高い。だれしも社会生活を営む以上は倫理と無関係ではありえず、なにがしかの内容の倫理を身につけて生きている。それゆえ、だれもが倫理的問題を見出し、答える可能性をもっているはずである。問題の生じる現場が特定の職域と重なるなら、その職業の専門家たちがみずから指針を打ち出そうとするかもしれない。その指針は職業倫理となる。医療倫理のように古くからあった分野にかぎらず、現在、コンピュータの専門家、ジャーナリスト、土木技師などさまざまな職域で、倫理綱領が作られつつある(FINE:175-194, ASCE)。
社会生活に広く影響をおよぼす問題ならば、問題を記述し、分析し、定式化し、解決を試みる学科も倫理学だけとはかぎらない。法学、社会学、政治学、経済学などの社会科学が、問題によっては自然科学が、それに積極的に寄与することができる。
実践倫理学ないしは応用倫理学は、このように、第一に社会生活に根ざしており、第二に問題の発見と(ときには)回答が現場の当事者によって、つまりさしあたりは倫理学の外部で行なわれる可能性をもち、第三に複数の学科が関与しうることを特徴とする。それでは、倫理学および倫理学者はそこにどのように関わっていくのだろうか。
第一に、倫理学者も社会の一員にほかならないから、他の成員と同様に、市民として特定の問題のなかにまきこまれて当事者となる可能性が当然ある。
けれども、第二の特徴に記した問題の発見と応答の過程に、倫理学者が関わっていくときにも、倫理学者は一市民として寄与するにすぎないのか。それとも、倫理について考察する学に従事している倫理学者としてそれ以上に特殊な貢献ができるのか。もし、後者だとすれば、それは倫理学者たることのいかなる能力、いかなる資格によってだろうか。倫理学者個人は、たとえばカントなり功利主義なりのある特定の(多くは、自分が信奉している)倫理思想にもとづいて、当該の問題について提言することができるかもしれない。しかし、特定の倫理思想は倫理であって、倫理学そのものではない。たとえば、問題を検討する委員会に招請された研究者が「倫理学のお立場からのご発言」を促されたとき、たんに自分一己の倫理観を披瀝するにすぎないとすれば、たとえ、その見解が論理的に整っていて学識に裏づけられていたとしても、倫理学者が発言する資格は同じように各自の倫理観をもっている倫理学者以外のひとびとのそれと基本的に変わりあるまい。
同様に、第三の特徴に記した他学科との関わりのなかで、倫理学者はどのような位置を占めるのだろうか。とりあつかわれる問題が倫理的問題だということは、倫理学者に、他の学科の研究者以上に専門家たる資格を保証するのか、それとも、あらゆる学科からの発言を共通の討議の場にとりつぐコーディネーターの役割を要請するのだろうか。
倫理学および倫理学者の役割をめぐって、実践倫理学ないしは応用倫理学には、倫理学の内部から批判が加えられてきた。当の問題に即して考える以前にすでに前提されている原理や基準をあてはめるかのような「応用」倫理学という呼称と発想が批判されるのはその例である。そのうえ、問題の及ぼす社会的な影響力や緊急性に応じて、その問題に関する発言は市場的価値を帯びてくる。市場とは、時務をめぐる競合する主張がとびかい、それについて賛否いずれかをいわずにはすまされない場であるならば(Nietzsche:62)、倫理学者もまたじゅうぶんな準備のないまま応答してしまうおそれがある。だとすれば、倫理学および倫理学者の応答能力とは、もちろん、生じた倫理的問題をうけとめ、それについてなんらかの考えを表明する能力であるが、同時にまた、倫理学はいかなる資格と役割からそうできるのかを説明する能力でもなくてはなるまい。後者は、倫理学はいかなる学問かという自己理解を前提とする。自己理解も実践的な問題への関心も、倫理学が学問として成り立つには欠くことができない。しかし、二〇世紀の倫理学では、主たる関心が前者から後者へ際立ったしかたで移っている。周知のことだが、その経緯にふれておこう。
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二〇世紀の前半、とくに英米圏では、倫理的判断に用いられることばのもつ意義の分析が倫理学のわけても主要なテーマとみなされていた。メタ倫理学の隆盛は、一部には、倫理的判断は判断する者の感情の表出だという情緒主義に支えられていた。それにしたがえば、社会生活のなかに生じる倫理的問題にたいして、規範にもとづき、是非をいうことは個人としてはなしえても、倫理学という学問の任務ではない。ところが、およそ一九六〇年代から、倫理学者は実践的な問題にふたたび積極的に関わりはじめた。さらに、七〇年代に登場したロールズの正義論は、社会全体を視野に捉えて考察を進めるひとつの範型を提供し、実践倫理学ないしは応用倫理学を推進した。それでは、六〇年代における転換は、それ以前の主潮を否定したうえでなされたのか、それともむしろただ主たるテーマが交代しただけというのに近いのか。
はじめにとりあげられた実践的な問題のひとつは医療問題だった。倫理学は医療問題ととりくむことで救われたという論者がいる(Toulmin)。論点が主観の態度・感情から制度・必要・利害といった客観的な基準に照らして論じうるものに移ったのを歓迎するからである。したがってこの立場は、倫理的判断をただちに主観的な態度に還元する情緒主義を批判し、倫理的判断はひとびとが共有できる理由づけによって客観性を獲得できると主張する。だが、それによって論駁されたのは情緒主義の性急さであって、倫理的判断の主観性そのものではない(岩崎:240-246)。別の論者は、むしろ、転換以前の主潮は論駁されたわけではないと明言している。それが退潮したのは、それを組み立てていた分析的真理や意義の分析にたいする信頼が薄れたからであり(Darwall:6)、あるいは、あふれかえる大量の実践的な問題のなかに埋没したにすぎない(Edel:6)。だとすれば、転換以前の主潮が専心していたメタ次元の問いは、たしかに、もはやことばの意義の分析ではなくて「倫理学とは何か」という一般的なかたちをとるにしても、転換以降にも依然として課題でありつづけている。それゆえ、二〇世紀の実践倫理学ないしは応用倫理学は、実践的な問題に応答すると同時に、2に記した、倫理学はいかなる資格と役割から応答できるかという問いを鮮烈に意識せざるをえない。たとえば、「道徳哲学者は医療倫理学の問題に役立つことができないなら店を閉めるべきだ」と明言したヘアは、しかしまた、道徳哲学者がなしうる唯一の寄与を指針の示唆よりも、「ことばの整理」に見出している(Hare:1,4)。これは二〇世紀の倫理学の経緯からしてもしかるべき性格づけなのである。
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事態を具体的に考えるための(模範ではなく、反面教師という意味も含めて)手がかりとして、実践倫理学ないしは応用倫理学の先蹤である生命倫理学をみてみよう。
この分野の最初のテーマは人体実験の倫理性だった。このテーマは十九世紀なかばに医学が実験科学になった時点ですでに存在している。したがって、ここでも、最初に問題を見出し回答を試みたのは現場の専門家だった。実験医学の提唱者ベルナールは、患者に害を与えないことを医師としての良心に照らして判断できる場合のみ実験を容認するという指針を示している。ところが、ナチスの医師による強制的な人体実験は医師自身による裁可にたいする信頼を失わせた。そこで、この事件を裁いたニュルンベルク軍事法廷は人体実験についての倫理綱領を提示し、被験者の自発的な同意を実験の不可欠の要件として打ちだした。この要件の根拠は何だろうか。自己の身体に関する自由・自己決定権、人格の尊重といった医療以外の領域にも通用する規範である。その後、専門家も世界医師会の宣言などで実験・研究についての倫理綱領を示すが、その内容は医療でとくに重視される規範を強調して医師に主導的な位置を与えようとする傾向にあり、普遍的な規範を医療の分野に応用する医療倫理とのあいだで、せめぎあいがつづく。この過程のなかで、倫理学者が果たしえた役割は、医療現場に生じる倫理的問題について医療以外の場面で起こる問題にもあてはまることばを用いて定式化し、指針を出すことである。倫理学者が医療問題に積極的にとりくむようになったのは一九六〇年代以降のことだが、それがもたらした変化には、医師の善意から患者の自己決定の尊重への基本原理の移行、たんに指針を提示するだけではなくて指針の根拠を明確化する努力への傾注があげられる(Brody:62)。自己決定の尊重をはじめとする普遍的な原理を医療問題に応用する、いわゆる原理主義によって推進された考察は、七〇年代にかけて、生命倫理学というひとつの分野を形作るにいたった。それによって、この分野は応用倫理学の先蹤とみなされるようになったわけである。
ところが、原理主義にたいしては、問題が生じるまさに現場が帯びている(たとえば、患者・家族・医療関係者それぞれの意向がおりなす錯綜とした関係や患者をとりまく独自の状況などの)個別性をないがしろにしているという批判が起きてきた。倫理学者に現場を無視した原理を課する資格があるのか。倫理学者がその資格ありと主張するなら、倫理学者は現場にいる他の当事者を超越した倫理の専門家を自任していることになろう。だが、2に記したように、だれしもなにがしかの倫理を身につけているのだから、倫理学者ひとりが倫理の専門的知識を有していると主張することはできない。しかも、倫理学者が現場に対応しない原理主義をふりかざすなら、「ベッドサイドにいるよそ者」(Meilaender:1)でさえあろう。このことから、医療における倫理的問題に関わりながら、みずから生命倫理学者と呼ばれるのを拒む論者もいる。それらの論者が代わりに示す処方は、たとえば、かつての職業倫理の再評価だったり、人間関係を重視する共同体主義だったり、たがいに孤立して欲求をやりとりするだけの関係からの脱却を説くケア倫理だったり、さまざまである。しかし、少なくともこれらの立場が共通して指摘しているのは、倫理学は、問題が生じている現場の状況をくみとる営みでなくてはならないということである。
ここ数年、日本で提唱されつつある臨床哲学も同じ方向を示唆している。それによれば、哲学者(倫理学者)の任務は、医療現場の状況と問題を当事者の視点から当事者に代わって記述して精確に描き出すこと(清水:12)であり、あるいは、自己の見解を主張して他を諭そうとするのではなくて、現場で発せられる声に聴き入り、問題をともに考えることで「内側から超えでてゆくこと」(鷲田:11,55)である。けれども、このように現場の個別性から出発すれば、社会全体を鳥瞰するしかたで問題を捉えることは、不可能とはいえないにしても、遠い課題にならざるをえない。しかし同時に、倫理学は、効率的に指針を出すのに有利な社会工学的な発想にのっとるよりも、あえて当事者のおかれている現実に繋留することによってこそ、他の社会科学との差異のひとつを示すことができるだろう。
以上のべてきたことにしたがって2で発した問いに答えるなら、つぎのようになろう。すなわち、倫理学者は一市民としてだけではなく、まさに倫理学者たるゆえに実践的な問題に寄与できる。ただし、その寄与とは、倫理の専門家を自任して特定の指針を示すことではなく、問題や提案された指針を適切な、しかも問題が生じる現場に即したことばで言い表すことにある。そのことによって、倫理学者自身や他の学科の研究者も含めて現場に居合わせているすべてのひとびとが論点を共有し、さらに考えを進めていくことができるようにするという意味で、倫理学者の役割はコーディネーターに近いものである。
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倫理学が現実の社会生活のさまざまな領域で重要性をもつことがあるとすれば、右記の役割を果たすことをとおしてだと思われる。最後に、倫理学がそのような意義をもっていることを伝えるひとつの特殊な場である倫理学教育についてひとことふれておく。
倫理学の授業のなかで実践的な問題をとりあげることで期待される効果のひとつは、学生が(まだ問題の生じる現場に居合わせているのではないにしても)みずから倫理的問題を見出し、答えを模索する能力をもっているという意識を呼び覚まし、また、ひとつの問題をとおして社会生活のさまざまな領域や複数の学科の相互の関わりを認識する機会を得ることにある。もちろん、問題の考察にはこれまで蓄積されてきた倫理思想が援用されるが、それらの思想は、先行する別個の概論の授業を介してではなく、むしろ実践的な問題を契機として発見されるしかたで導入されるのがふさわしい。しかし一方、倫理学はいかなる資格と役割をもつのかというメタ次元での考察は、カリキュラムのなかにくみこまれていなくてはならない。なぜなら、それを欠くなら、実践的な問題をとりあげても、既存の倫理思想をただあてはめるだけのこれまで批判されてきた応用倫理学を(故意にも、心ならずにも)演じてみせるはめに陥ろうし、場合によっては、授業担当者個人の倫理観の披瀝に終わり、倫理学という学問にたいする関心と信頼を失わせてしまうからである。
[参照文献]
引用は(筆頭)編著者の姓に引用箇所の頁をカッコ内に入れて本文中に注記している。
ASCE(American Society of Civil Engineers Code of Ethics, 1976).
Brody, H., “ The Physician/Patient Relationship “, in: Medical Ethics, Veatch, R.(ed.), Jones and Bartlett Publishers, 1989.
Darwall, S., Gibbard, A. and Railton, P., Moral Discourse & Practice, Oxford University Press , 1997.
Edel, A., Flower, E. and O’Connor, E. W., Critique of Applied Ethics, Temple University Press, 1994.
FINE(日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業「情報倫理の構築」プロジェクト)、『情報倫理学研究資料集I』、京都大学文学研究科、広島大学文学部、千葉大学文学部、一九九九年。
Hare, R. M., Essays on Bioethics, Clarendon Press, 1993.
岩崎武雄、『現代英米の倫理学』、勁草書房、一九六三年。
Meilaender, G. C., Body, Soul, and Bioethics, University of Notre Dame Press, 1995.
Nietzsche, F. W., Also sprach Zarathustra, Werke, Bd.VI1, 1968, Walter de Gruyter & Co.
清水哲郎、『医療現場に臨む哲学』、勁草書房、一九九七年。
Toulmin, S., " How Medicine Saved the Life of Ethics ", in : New Direction in Ethics, DeMarco, J. P. and Fox, R. M.(eds.), Routledge and Kegan Paul, 1986.
鷲田清一、『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』、TBSブリタニカ、一九九九年。
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