はじめに


I 1950年代までの輸入代替進行局面


第1節 経済構造


 ブラジルでは40年代までに,非耐久消費財の輸入代替はほぼ完了していたが,耐久消費財・中間財・資本財はインフラ(電力等)の未発達のために,依然として相当部分を輸入に依存しており(表2),それが工業化の隘路となっていた。そのため政府は50年代において,インフラ建設と基礎的投入財産業設立をはかる一方で,自動車,造船,機械を「成長拠点」として育成し経済成長を実現しようとした。この「成長拠点」産業の政策機関としてGEI(12)が結成されて,主として政府官僚指導の下で部門別目標が設定され,それに向けての誘因提供と調整作業が実施された(13)

 こうした産業を経済成長の基軸にすべく,輸出入の調整を通じた産業構造の転換,積極的な外国資本導入と優遇が実行された。産業構造の転換のために,自国通貨の過大評価,通貨信用管理局(SUMOC)指令70号(53年10月)による為替競売制(14)を含む新為替制度導入によって,輸出の多様化,国産化めざす品目の輸入抑制,資本財・原材料の輸入優先を行なった。その結果,コーヒー輸出の相対的な地位低下と工業製品の輸入代替が進み,産業構造が変容した(15)

 上記の新為替制度は,ブラジルに進出し国内市場確保を狙う外国資本にとって有利に働いた。これに加えてSUMOC指令113号(55年)によって,機械設備の無為替輸入制度が創設され,機械等による現物出資とそれに対する関税免除を実施し,また利潤送金に対して有利な措置が設けられた。そうしたもとで,外国からの直接民間投資は55-61年で,47-54年の時期の約8倍にあたる年平均1億ドル以上に達した。自動車産業においては,欧米企業を中心とする自動車組立企業の対ブラジル進出を招いた完成車輸入禁止措置(53年施行)に基づく,急成長期(59-62年)を迎えており (16),この期間においては年平均成長率53%(ユニットベース)を記録し(17)図3),そしてVWやGM,Fordの市場独占が顕著になった。

 基礎的投入財産業・インフラの建設は結局,政府が担うことになった。というの も,それらには大規模投資が必要であるために民間企業では資金調達上困難であっ たし,外国系企業の場合にはナショナリズムと軍部の国家安全保障戦略の関係で進 出が事実上不可能であったためである。政府系企業は言わば最後の切り札であった (18)。基礎的投入財産業で目覚ましく進展を見た分野は,石油と鉄鋼であり,前者にお いては国営石油会社Petrobrasが53年設立され,石油の採掘と精製を独占した。イン フラの建設においては特に,戦前外国資本によって担われていた電力産業分野での 政府系企業設立が顕著であり,50年代から60年代前半にかけて政府系電力会社が相 次いで設立され,電力生産の主力をなすに至った。こうした電力会社の設立は,そ の立地からUSIMINAS(19)と COSIPA(20)への電力供給が念頭に置かれていたと思われる。 また,このような政府系企業を金融的に支えるために,52年に国立経済開発銀行(BNDE(21))が設立された。このBNDEの当時(52-62年)の融資配分は,政府系企業が 担当する基礎的投入財産業(37%,大部分は鉄鋼),電力(32%),輸送(29%)となっている(22)。こうして政府系企業は,工業化を進めるために―したがって成長の基軸として位置づけられた産業を担う外国系企業のために―最後の切り札として,基礎的投入財生産とインフラ建設(外部経済の提供)を担ったのである。

 以上に見た外国系・政府系企業の行動は,外国系企業が既存の民族系企業の買収をも通じて,主として技術集約的な産業へ参入し(23),民族系企業や外国系企業では担 当不可能か担当しきれない産業に政府系企業が進出する形で「三つの脚」企業体制を形成し,経済成長を実現するものであった。その結果,55-62年で見て資本財,中間財,耐久消費財が各々10%以上の急成長を記録し,製造業全体も9.8%成長した(表3)。また輸入代替が進み,輸入依存度は製造業全体で49年13.9%から64年6.1%へと半減した(表2)。





 これらは外資の流入及び,政府支出による基礎的投入財産業・インフラ建設に支えられた結果だが,それが今度は,国際収支圧迫要因(外資流入の結果としての利子支払い・利潤送金)あるいは財政悪化・インフレ高進要因として立ち現れ,成長阻害要因に転化した(24)。国際収支においては,利子支払い・利潤送金の増大に加え て,主たる外貨獲得手段である輸出収入が停滞してしまった。これは,貿易政策は戦前から基本的に変わっておらず,一次産品輸出によって外貨を獲得し,それにより工業化に必要な資・機材の輸入を賄うことであったので,50年代半ばからの一次産品価格下落が輸出収入停滞につながったのである(25)。このため貿易収支は,53年以 降59年までは黒字であったが,60年には2300万ドルの赤字に転じた。こうした結果国際収支の赤字は,59年の1.5億ドルから60年には4.1億ドルにのぼった(26)。また輸入代替が一定の限界に達し(27),輸入代替による成長の余地が限られてきた。こうして60年代初めに財政赤字膨張,インフレの高進と国際収支困難に陥り,輸入代替による成長路線は一定の限界に達し,ブラジル経済は再調整が迫られて停滞局面に移行する。


第2節 鉄鋼業―政府系三大製鉄所体制の形成


 ブラジルでは,20年代の圧延製品生産開始,30年代にはブラジル初の一貫製鉄所(Belgo Mineira)の建設,初のLD転炉の設置など,鉄鋼業は戦前から一定の発展を遂げていた。しかし,Belgo Mineira以外は,鉄屑使用の電炉か小規模木炭高炉による企業(28)であり,そのBelgoMineira も木炭高炉によるものであり,40年において,圧 延製品で9.6万トンを生産するに過ぎなかった。そして,いずれの企業も生産は非鋼板に限られていた。そのため,「ブラジルは1930年代末まで依然として小鉄鋼生産国であった。1940年においても圧延製品消費の約70%は輸入されていたのである」(29)

 41年に,ブラジル初のコークス高炉による大規模一貫製鉄所 CSN が, U. S. Steel の技術援助とアメリカ輸出入銀行の資金援助を得て設立され,初めて鋼板が生産可 能となった。CSNは政府が直接生産活動に関与する嚆矢であり,ブラジル鉄鋼業史 の画期をなすものであった(30)。また,44年には ACESITA(31)が民間資本の手で設立され たが,相次ぐ救済融資の結果52年には政府系企業となった。このため,ACESITAは 政府系としては小規模で(32),木炭高炉によるものであり,また特殊鋼を主として生産 する点で,独自な位置を占めている。

 50年代に入ると,鋼板に特化した大規模一貫製鉄所2社(COSIPA, USIMINAS)が 設立された。これにより,CSN,COSIPA,USIMINASによる三大製鉄所体制が形成され,鉄鋼製品の輸入代替が急速に進行することになる。この三大製鉄所体制の形成は,政府系鉄鋼企業の戦後的特徴を以下の2点において確定した。(1)当時輸入 代替の重点がおかれた自動車,造船,機械の3部門に必要であり,民間企業では生産不可能であった鋼板に特化した生産体系でCOSIPAとUSIMINASは出発した。このこ とは,政府系鉄鋼企業の役割―鋼板供給―を象徴的に表現している。(2)政府系企 業はCSNの時から,外国からの技術援助・借款を受け入れてきたが,USIMINASに は一歩進んで外国資本(日本)が出資参加している(33)。こうした外国資本の出資・経 営参加を含む結びつきは,戦後における政府系鉄鋼企業の特徴である。

 こうした政府系企業の動きの一方で,外国資本のMannesmannの子会社が52年に設 立され,54年に稼動した。これは,(1)同社資料によれば,Petrobrasによる石油 開発向けの鋼管調達のためにブラジル政府が誘致した点,(2)そのために,その後 Mannesmannが最大の継目無管メーカーとしてブラジル鉄鋼業において独自の位置を 占め続けることになる点で重要である。

 CSNが稼動した46年において,鋼塊ベースで前年比66%の大幅増をみて以来,鉄 鋼生産は急激な増加を続け,62年には,46年の生産水準(34万トン)の約6倍の237 万トンに達した。圧延製品ベースで輸入との関係を見れば,48年から国内生産量が 輸入量を上回るようになり(34),鉄鋼自給率は40年代後半において6割を越え,60年代 には9割まで上昇していく(35)

 50年代の圧延製品需要構成の動向は以下の通りである。建設と伸線等加工業は56 年においても60年においてもそれぞれ需要の3割・2割を占め最大の需要部門となっ ているがそのシェアは安定的である。一方,輸送機械全体では56年12.0%,60年15.6 %とそのシェアを拡大している。自動車は国産化が始まった56年において,4.3%を 占めるに過ぎなかったが,60年には7.1%を占めるに至った。造船も0.1%から0.6%に そのシェアを6倍に拡大している。鉄道は7.6%から7.9%へとシェアを微増させた。 この期の鉄鋼業の成長要因は,見掛消費が56年132万トンから60年213万トンへと急 拡大しているので,輸入代替過程を伴いつつ産業全般にわたって需要が伸長したこ とであるが,とりわけその中でシェアを拡大した自動車を中心とする輸送機械は注 目に値する(36)。自動車産業による需要伸長は先述の急成長期に符合しており,造船業 によるシェア拡大は後述のように,59-60年における大規模造船所の相次ぐ稼動に よって輸入代替過程が開始されたことと関連している。


(12)Grupo Executivo de Industria,産業実行グループ。

(13)小島眞「ブラジルの工業化と産業政策」『千葉商大論叢』第28巻第1号,1990年,12頁。
(14)輸入品目を緊要度に応じて5つのカテゴリーに分類し,政府はその緊要度に従って為替配分を行なう。 輸入業者はこの配分された外資枠のなかで,自由競争によって輸入権を獲得する仕組みとなっており,この緊要度が低くなるほど相場が上昇する,すなわち為替競売価格が高くなるようになっている(岸本憲明「ブラジルの工業化と貿易構造」『海外投資研究所報』第4巻第5号,1978年4月,25頁)。
(15)農業部門の対GDP比率は49年26.4%,55年25.1%,60年22.6%と低下し,工業部門のその比率は各々23.2 %,24.4%,25.2%と年々上昇し,50年代後半に工業が農業部門を陵駕するようになる(岸本憲明,前出,20 頁)。
(16)田中祐二「ブラジルにおける自動車産業の発展」『アジア経済』第31巻第1号,1990年1月,28頁。
(17)ANFAVEA, Anuario Estatistico 1957/1990, 1991, p.65 より計算。

(18)Werner Baer, "The Role of Government Enterprises in Latin Amreica's Industrialization", Fiscal Policy for Industrialization and Development in Latin America, David T. Geithman (ed.), UP of Florida, 1974, p.266.

(19)Usinas Siderurgicas de Minas Gerais,ミナス・ジェライス製鉄所。56年設立,63年稼働。
(20)Cia.Siderurgica Paulista, パウリスタ製鉄会社。53年設立,65年稼動。
(21)Banco Nacional de Desenvolvimento Economico.
(22)小島眞,1990年,前出,10頁。
(23)小池洋一,前出,191頁。
(24)利子支払い,利潤・配当送金は47年以降増大傾向を辿り,60年には 1.6億ドルに達した。財政赤字も,50年代を通じて膨張し,60年には歳入の35.6%,GDPの3.3%にあたる777億クロゼイロ,62年には各々56.4%,5.0%にあたる1304億クロゼイロに達した。こうした赤字がブラジル銀行からの借入とそれに伴う通貨の増発によって補填されたため,インフレ高進(59年40%,60年30%)を招いたのである(大原美範,前出,110-111頁)。
(25)岸本憲明,前出,22頁。
(26)以上国際収支関連の数値は全て IBGE, Estatisticas Historicas do Brasil, 1990, 2nd ed., pp.582-583 による。 以下,特にことわりのない限り,国際収支関連の数値はこれによっている。
(27)56年において,耐久消費財と非耐久消費財に関してはほぼ輸入代替を完了しており(各々92.5%,97.7 %という自給率),資本財,中間財に関しても62年には各々87.1%,91.1%という自給率であった(小島眞, 1990年,前出,13頁)。
(28)大原美範,前出,292頁。
(29)Baer, op. cit., pp.63-64.
(30)小坂論文,117頁。
(31)Cia. Acos Especiais Itabira,イタビラ特殊鋼会社。この設立経緯の詳細については,Baer, 1969, op. cit., p.68 を参照されたい。
(32)50年初期において高炉の日産能力はCSNの1/5であった(H.G.Cordero (ed.), Iron and Steel Works of the World 1952, 1st ed., pp.369-370より計算)。
(33)COSIPAは,フランスと西ドイツの技術協力によって建設された経緯がある。
(34)大原美範,前出,296頁。
(35)Baer, 1969, op.cit., p.84.
(36)大原美範,前出,297-298頁。


II 1960年代における工業化の停滞局面
         III 「ブラジルの奇跡」―高度成長局面
         むすびにかえて


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