長谷川伸「政府系三大製鉄所体制とブラジル・モデル」 『研究年報経済学』(東北大学)第55第1号,93-109頁,1993年。


はじめに

 ブラジル鉄鋼業は,77年に粗鋼生産高で1000万トンを突破,79年に鉄鋼自給を達 成,鉄鋼製品(1)貿易収支は79年から黒字に転じ,85年時点で20億ドル余の黒字を計上した(図1図2)。現在ブラジルは,粗鋼生産高2057万トンで世界第8位(2),2.7%を占め,発展途上国では中国・韓国に次ぐ鉄鋼生産国となっている。

 こうしたブラジル鉄鋼業において,現在,膨大な累積赤字(3)を原因とする政府系企業の民営化に象徴される産業再編成がすすんでいる。この再編成は,政府の鉄鋼産業政策の決定機関で68年設立のConsider(4)の消滅,政府系鉄鋼企業を統括してきた73年設立のSiderbrasの解散,及び鉄鋼業からの政府系企業の全面撤退と特徴づけられる。これは,40年代における大規模銑鋼一貫製鉄所CSN(5)の建設・稼動以来,鉄鋼業の主力であり,鋼板生産を独占してきた政府系企業が消滅し,これに代わって外国系・民族系企業で鉄鋼業全体を担うことを意味する。この点で今日,戦後における鉄鋼業,とりわけ政府系鉄鋼企業の発展経路が問われている。


 この問題を検討するにあたっては素材産業である鉄鋼業ゆえ,他産業との関係に注目して分析することが必要である。この点で小坂允雄氏の論文「ブラジルの工業化と産業組織」(6)はそのための分析視角を提示しており,示唆的である。小坂論文は,「工業化を担った企業の成長,役割,さらには,それに伴う市場構造の変容など,いわゆる産業組織」を検討課題とし,1.において工業化の進展とその担い手である企業の役割・位置を政府系・外国系・民族系に分けて検討した上で,2.において鉄鋼業と自動車産業の事例研究を行なっている。

 小坂氏が企業を政府系・外国系・民族系に分けて考察を進めているのは,その三者で産業別に棲み分けており,各々の工業化における位置と役割が異なるからである。すなわち,政府系企業は基礎的投入財産業(鉱業,鉄鋼,石油・石油化学等)やインフラ(電力,通信,運輸等),つまり大規模投資を必要とし懐妊期間が比較的長い産業を担っている。外国系企業は技術集約度が高くかつ製品差別化が強い,そして国内調達不能な技術を要する産業(自動車,電機,薬品,情報機器等)を担っている。民族系企業は食品,繊維,アパレル,木材・家具,紙・セルロース,窯業といった非耐久消費財産業や非鉄金属,商業を主に担っているのである(7)表1)。そして,この三者は「相異なる役割を追求し,ある程度まで補完的」(8)であり,政府系と外国系との間には,「国家が基礎的投入財と外部経済を低コストで国内市場に供給する重大な責務を担うとともに,多国籍企業がそれを国内市場と輸出市場における自らの拡大に利用するという分業体制」(9)があると考えられる。

 これが,ブラジル経済は政府系・外国系・民族系企業の「三つの脚」(tri-pe)で立っていると言われる(10)所以であり,この「三つの脚」企業体制とも言うべきものこそ,ブラジルの工業化の担い手としての企業のあり方と企業間の相互関係の総体に他ならない。工業化戦略はこの企業体制を媒介として展開され,また政府系企業中心の鉄鋼業の発展のあり方もこの企業体制に規定されてきたと思われる。こうした視角から,戦後から80年代に至るブラジル鉄鋼業の発展過程の概観を,工業化過程に即して得ることが必要である(11)。本稿の課題は,この作業をさしあたり政府系鉄鋼企業に注目し,戦後から「ブラジル奇跡」(68-73年)までの期間を対象として行なうことである。

 


(1)標準国際貿易分類(改正SITC)コード 670.00。

(2)重量ベース,90年。IBS, Anuario Estatistico da Industria Siderurgica Brasileira, 1991, p.1/4 による。なお,以下重量(トン)はメトリック・トンで示してある。

(3)ブラジルの粗鋼生産の約66%を生産している政府系鉄鋼企業10社を統括していたSiderbras(Siderurgica Brasileira S.A., ブラジル鉄鋼株式会社)においてその赤字額は88年約23億ドル(William T. Hogan, Global Steel in the 1990s, Lexingtons Books, 1991, p.79)となっており,90年3月の解散の時点で約67億ドル(国内約23億ドル,対外約44億ドル)もの負債を残した(『海外鉄鋼情報』第45号,1990年,25頁)。こうした経営悪化は,鉄鋼製品のコスト構成に反映しており,金融コストが合衆国3.0%,日本7.6%,西独3.5%に対して,Siderbrasにおいては37.1%も占めている(Fischer,op.cit., p.203)。

(4)Conselho de Nao-Ferrosos e de Siderurgia, 鉄鋼非鉄審議会。

(5)Cia.Siderurgica Nacional, 国立製鉄会社。

(6)小坂允雄・丸谷吉男(編)『変動するラテンアメリカの政治・経済』アジア経済研究所,1985年,所収。以下小坂論文とする。

(7)小池洋一「ブラジル」(伊藤正二(編)『発展途上国の財閥』アジア経済研究所,1983年,所収),187頁。

(8)Celso Furtado, "The Brazilian 'Model'", Social and Economic Studies, Vol.22, No.1,1973, p.128.

(9)高田裕憲「ブラジルにおける開発政策と累積債務問題」『商学論集』第59巻第6号,1991年,18頁。

(10)Furtado, op. cit., p.128,小池洋一,前出,184-189頁など。

(11)管見によれば,ブラジル鉄鋼業の発展過程に関する代表的な研究としては,Werner Baer, The Development of the Brazilian Steel Industry (Vanderbilt UP, 1969) および, Francisco Magalhaes Gomes, Historia da Siderurgia no Brasil(Ed. Itatiaia, Ed. da Universidade de Sao Paulo, 1983) が挙げられる。日本においては上記小坂論文,同じ小坂氏による「鉄鋼業」(大原美範(編)『ブラジル 経済と投資環境』,アジア経済研究所,1972年,所収)がこれまででは最も適切な概観を与えている。しかしながら,これらの発展過程分析はいずれも60年代あるいは70年代前半までに限られ,またブラジル工業化の各発展段階における鉄鋼業の位置と成長要因が明らかにされているとは言い難いがために,80年代までの鉄鋼業の発展過程の概観を得る必要がある。


I 1950年代までの輸入代替進行局面
II 1960年代における工業化の停滞局面
III 「ブラジルの奇跡」―高度成長局面
むすびにかえて
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