ロンドン便り PART2(第51号〜第100号)

 

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 ロンドン便り(番外編)(第191号〜第200号)へ

  目次(興味のあるテーマをクリックして下さい。)

<第100号:西暦2000年――不思議な時間の句読点――>(1999.11.11)

<第99号:「赤い花」募金>(1999.11.10)

<第98号:ポケモン、イギリスにも本格上陸>(1999.11.7)

<第97号:ハローウィンとガイ・フォークス・デイ>(1999.11.7)

<第96号:日本の消費税は見直しを!>(1999.11.5)

<第95号:床屋さん>(1999.11.5)

<第94号:ユーロに出会わず>(1999.11.5)

<第93号:印象派と写真の関係>(1999.11.4)

<第92号:イギリスとフランス――人と食事――>(1999.11.4)

<第91号:ユーロスターに乗る>(1999.11.4)

<第90号:サマー・タイム終わる>(1999.11.4)

<第89号:マーガレット王女物語>(1999.10.21)

<第88号:マルクスもいいけど、スペンサーも忘れずに>(1999.10.19)

<第87号:婿と姑>(1999.10.11)

<第86号:党大会の季節>(1999.10.11)

<第85号:公平なペンションを、今!?>(1999.10.11)

<第84号:東海村とパディントン>(1999.10.10)

<第83号:左利きの多い理由(仮説)>(1999.9.24)

<第82号:昼食の選択>(1999.9.24)

<第81号:"Mamma Mia!"がおもしろい>(1999.9.24)

<第80号:パフォーマンスも相互作用>(1999.9.23)

<第79号:丘の話>(1999.9.22)

<第78号:習慣の違い>(1999.9.20)

<第77号:絶景だけど……>(1999.9.20)

<第76号:それでも保存する>(1999.9.20)

<第75号:OPEN HOUSE>(1999.9.20)

<第74号:ある一人の日本人女性の死>(1999.9.16)

<第73号:庭師への道>(1999.9.13)

<第72号:まるで迷路だけど……>(1999.9.10)

<第71号:なつかしい廃品回収のおじさん>(1999.9.10)

<第70号:ウィリアム王子の気持ち>(1999.9.9)

<第69号:お札に書き込みする犯人は……>(1999.9.8)

<第68号:水いろいろ>(1999.9.8)

<第67号:かなりすごいぞ、「アルバート・メモリアル」>(1999.9.8)

<第66号:やっぱり涼しいイギリスの夏>(1999.8.17)

<第65号:天井桟敷の人々>(1999.8.17)

<第64号:マルクスの頭>(1999.8.13)

<第63号:「ゲーセン」はないだろう……> (1999.8.11)

<第62号:足が痛いときはバスが一番>(1999.8.11)

<第61号:カンブリアの石>(1999.8.11)

<第60号:生・日食速報>(1999.8.11)

<第59号:ウーのお家>(1999.8.10)

<第58号:日本人の緻密さ>(1999.8.9)

<第57号:なんであんなに肌を痛めつけるのだろう?>(1999.8.8)

<第56号:好天に恵まれたけれど……>(1999.8.8)

<第55号:Fountain Abbey>(1999.8.8)

<第54号:犬のしつけはいいのに……>(1999.8.7)

<第53号:自分のベビーカーを押す幼児>(1999.8.7)

<第52号:スコットランドの首都・エディンバラ>(1999.8.6)

<第51号:湖水地方の日本人>(1999.8.5)

<第100号:西暦2000年――不思議な時間の句読点――> ついに100号まで到達しました。われながらよく書いたものだと感心しています。もしも100号まで欠かさず読んで下さった方がいたら、そのつき合いの良さに心から感謝したい気分です。まだしばらくこちらにおりますので、もう少し頑張って書き続けたいと思います。お嫌になっていなければ、今後もご愛読下さい。とりあえず、今回は区切りの100号を記念して、歴史の区切りであるミレニアムについて書きたいと思います。

 21世紀は西暦2001年からで、2000年は新しい時代の始まりではないなどという人も中にはいるかもしれませんが、一般的には、生まれてこのかた変わらなかった19○○年代が終わるのですから、時代は変わったという認識を来年の1月1日に感じる人は多いはずです。キリスト生誕を基準にして作られている西暦ですから、キリスト教国のヨーロッパでは、日本よりはるかにミレニアムが注目されています。ここイギリスでも、ミレニアム記念硬貨にミレニアム記念切手、ミレニアム・ドームにミレニアム観覧車と、ここぞとばかりいろいろなものを造って金儲けをしようとしています。2000年という年を特別の感慨をもって迎えるのは反対ではないし、記念硬貨や記念切手などの発行に目くじらを立てるつもりは毛頭ありませんが、ミレニアム・ドームやミレニアム観覧車となると、やや抵抗を感じます。ドームの方は、ロンドン東部の再開発地域に造っているので、そんなに目障りではありませんが、観覧車の方は、ウエストミンスター橋を挟んで、ビッグベンの斜め向かいに建てられています。第63号でゲームセンターにされてしまった旧市庁舎を嘆きましたが、観覧車はちょうどその目の前に建っています。景観を破壊することこの上なしです。観覧車好きの人は結構多いらしいので、人気は出るかもしれませんが、何もあの場所でなくてもいいのではないかという気がしてなりません。

 日本では、「二千円札」が発行されるそうですね。お札の図案は、表が首里城で、裏が源氏物語と紫式部に決まったそうですね。沖縄サミットを記念して出すのだから、首里城が選ばれたのでしょうが、源氏物語と紫式部はどこから来たんでしょうね。女性を使いたかったんでしょうが、他の千円札、五千円札、一万円札で使われている人物と時代的共通性はないですね。まあ、別にいいんですが……。紫式部と言えば、ほぼ1000年ぐらい前の人です。ヨーロッパでは「千年王国」思想などが生まれ、最初のミレニアム騒ぎをやっていた頃ですね。でも当時西暦と無関係に暮らしていた日本には、西暦1000年は何の意味もなかったわけです。(仏教の「末法思想」が時代的にかぶっていますが、これは一応別物でしょう。)ずっと時代を下って、西暦1900年はどうだったのでしょうか。西洋では世紀末思想が広まった時期ですが、日本では天皇制の下で元号が圧倒的に幅を利かせていた時代ですから、きっとあまり大きな話題にはならなかったのでしょう。西暦1940年にあたる「紀元2600年」の方が日本人にとっては大変重要な区切りだったはずです。西暦の区切りで日本が何かをしようというのは、今回の2000年が初めてなのかもしれません。

 こうやって考えていくと、嫌でも「時間」という概念の哲学的難しさに気づいてしまいます。日頃われわれが生活していく上で絶対的基準となっている時間は、全く相対的なものなのです。1年は地球の公転周期から来ていて、1日は地球の自転周期から来ていることになっていますが、両者の間には本来直接的関係はないはずで、ぴったり365倍にならないので、4年おきに閏年を入れ、それでもまだぴったり合わないので100年おきに閏年を入れなかったり、400年目にはやはり入れたり、それでもまだ調整が必要だったりするわけです。要するに、「時間」とは人間が生活する上で必要なので発明した相対的な基準にすぎないわけです。しかし、哲学的にはこのようにあいまいなものだとしても、実生活上では時間はやはり絶対的な基準になっています。現代社会において、時計やカレンダーを気にせずに生活することは容易ではありません。私は哲学者ではなく社会学者ですので、「時間とは何か」という問いに「時間」を費やす気はありません。市井の人々が時間を絶対的基準として生きているのなら、社会学者はそれを前提として思考していった方がよいだろうと思います。

 誕生日や記念日を祝い、1年の始まりや終わりを大切にすることは、連続的に流れていく人々の生活に句読点を与える役割を果たしてます。的確に句読点が打たれていない文章が読みにくいのと同様に、句読点の打たれていない生活もメリハリが無く、好ましいものとは言えないでしょう。このような視点から見ると、やはりドームでも観覧車でもお札でも何でもいいから記念になるものを造って、西暦2000年という年を特別の感慨をもって迎えることは、何もせず何も考えずに迎えてしまうよりはましなのかなという気もしてきます。(1999.11.11)

<第99号:「赤い花」募金> 先週末、買い物から帰ってきた妻と子供が赤い造花をつけていたので、「それ、どうしたの?」と聞くと、「駅で募金活動していたおじさんがいたので、募金したら、この花をくれたのよ。募金活動の趣旨はちゃんと見なかったからよくわからないけど、きっと赤い羽根募金と同じような共同募金じゃないの。テレビのキャスターなんかもみんなつけてるわよ。」と言います。確かに、意識してテレビを見ていると、本当にみんなつけています。

 「赤い羽根」が「赤い花」になったのだとしたら、どこでその違いが生まれたんだろうと思いながら、赤い花をよく見てみると、真ん中に"Poppy Appeal"と書いてあります。花の名に疎い私でも、この造花は一目見たときからポピー(芥子の花)だろうなとわかっていたので、わざわざ"Poppy Appeal"と書いてあるのが気になって、少し調べてみたら、これは赤い羽根のような共同募金ではないことがわかりました。この造花は、第1次、第2次両大戦の戦死者の霊を慰めるための「英霊記念日」(Remembrance Sunday)(11月11日の第1次世界大戦の休戦記念日に近い日曜日に行われる)に合わせて、在郷軍人会によって作られ、在郷軍人会の収益となる募金活動に使われているものでした。つまり、この芥子の赤い花をつけているということは、国家のために命を落としたイギリスの戦死者に敬意を表し、退役軍人にいくばくかの資金を提供したということを意味するわけです。敗戦国・日本と違って、戦勝国イギリスでは軍隊や軍人はそれなりの敬意を払われているので、こうした募金活動も胸を張って堂々と行われるわけです。

 現代日本の自衛隊は、予算の規模から言えば世界有数の軍隊と言えるのですが、あくまでも日陰の存在のような扱いになっています。また、戦争で亡くなった人たちが祀られる靖国神社を参拝すると「右翼」というマイナス・ラベルを貼られるようになっているので、関係者以外で参拝する人はあまりいないでしょう。この問題には過敏に反応する人が多いので迂闊に触れられませんが、イギリスのような国で日本人が暮らしていると、戦争で死んだ人たちに、勝った国と負けた国でそんなに価値に違いがあっていいのかなという素朴な疑問は嫌でも湧いてきてしまいます。戦争を美化するつもりは毛頭ありませんが、戦争で命を落とした人たちーー軍人だけでなく、空襲や飢餓で亡くなった人も含めてーーに対する憐憫の情を抱くことに躊躇する必要はないのではないかという気がしています。(1999.11.10)

<第98号:ポケモン、イギリスにも本格上陸> ポケモンは皆さん知っていますよね?2年くらい前までは、大学生諸君でも、「なんですか、それは?ポケット・モンキーですか?」とか素頓狂なことを言っていましたが、あの「ポケモン・パニック」――テレビアニメの「ポケモン」を見ていた子供たちがたくさん失神して病院に運び込まれた事件です――で、世代を越えて有名になりましたよね。

 あのポケモンがいよいよイギリスにも本格的に上陸してきました。私たちがこちらに来た4月頃には、ほとんど見かけることはなかったのですが、アメリカでのポケモンカードの流行、映画の公開決定などのポケモン人気の影響を受け、イギリスにも次々にポケモングッズが入ってきました。ゲームボーイのポケモンが売り出され、カード、ソフト・プラスチック人形がおもちゃ屋の店頭に並びだしたと思ったら、ついにテレビ・アニメも始まりました。こちらに来た頃、ポケモンを見つけられなくてがっかりしていた子供に、「ああいうかわいすぎるキャラクターは、イギリスでは人気が出ないんだよ」と説明していたのですが、訂正を迫られそうです。イギリスの子供たちも、"Oh,Pikachu!"とか言って目を輝かせていましたので、こちらでも大人気になりそうです。

 考えてみれば、子供向け商品に関しては、日本はかなり強い国際競争力を持っていますね。かつてフランスで、あまりに日本のアニメがたくさん放映されているので、子供たちがフランス文化ではなく、日本文化を身につけて育ってしまうので、日本のアニメの放映を禁止すべきではないかという議論がなされたことがありますが、確かに危惧したくなるだけのことはありそうです。イギリスでのポケモン人気は、どの辺まで行くのか楽しみに推移を観察してみたいと思います。(1999.11.7)

<第97号:ハローウィンとガイ・フォークス・デイ> 10月31日にハロウィンがあり、11月5日にガイ・フォークス・デイがありました。前者は、最近日本でも一部取り入れられてきているので、ご存知の方も多いと思いますが、大きなカボチャのお面と魔女の姿が有名です。この日に合わせて、多くのショー・ウィンドウが、橙と黒でディスプレイされました。元々は、ケルト人のお祭りだったそうですが、キリスト教の万聖節前夜祭と融合して、にぎやかなお祭りになったようです。最近では、子供たちが仮装して家々を巡り、お菓子をもらうことのできる日としても有名ですね。でも、かつてアメリカで、日本人の高校生が、知らない家を訪ねて行って射殺されたことも、このハローウィンの記憶として忘れられません。そういう思いがあるので、私はうちの子供たちに、他の家々を回ることはさせなかったのですが、子供の友達の中には、知らない家を訪ねた人もいました。そのうちの一人は、最初に訪ねていった家で、顔を見るなり、"Go Away!"と言われ、ショックを受け、後は知り合いの日本人の家ばかり回ったそうです。ちょっとかわいそうだったなと思いつつ、やはりいくらハローウィンだからといって、日頃からつき合いをしていない家を訪ねるのは、やはり無理じゃないかなという気がしました。特に、子供が家々を回ってお菓子をもらう習慣というのは、イギリスでは1980年代になってアメリカから逆輸入された新しい習慣のようで、あまりなじみがない人も多いようで、ハローウィンというと、あまり良い顔をしない大人も多かったです。

 ガイ・フォークス・デイの方は、イギリスだけのお祭りで、17世紀初めにジェームズ1世が即位したことに反対する一部のカトリック教徒たちが、国会議事堂を爆破しようとしましたが、事が露見し未然に防がれたことを記念するお祭りです。11月5日は一味の一人ガイ・フォークスが逮捕された日です。この日には、花火を打ち上げ、ガイ・フォークス人形を燃やして、楽しむのだそうです。酔っぱらいが多いから市内には出ない方がいいよと忠告されたので、家にいたのですが、あちこちで花火の上がる音がして深夜までうるさいほどでした。しかし、花火はともかく、人の形を形取った人形を燃やすというのは、どうも私の感性には受け入れにくい習慣でした。まあ、いずれにしろこのハローウィンとガイ・フォークス・デイが終わり、街は一斉にクリスマスに向けて模様替えされつつあります。(1999.11.7)

<第96号:日本の消費税は見直しを!> イギリスの間接税は、17.5%もします。しかし、必需品と見なされる食料品や衣料品には税金がかかっていないし、内税の形になっているので、あまり高い税金を取られているという気はしません。他方、日本は5%ですが、すべての商品にかかる上に、外税で最後に税金分が乗ってくるので、ひどく高い税金を払わされている気がしてしまいます。大いに疑問です。単純な一律間接税率は、結果的に貧しい者に重く、豊かな者に軽く感じさせる逆進効果を持ちます。日本もかつては、物品税という形で、品物ごとに異なる税率の内税でやっていたのです。それを税収増大と煩雑さの解消を狙って、一律の消費税にしてしまったわけです。今さら、かつての「物品税」には戻せないでしょうが、多くの国でやっている日常生活に必要な食料品や衣料品の無税化ぐらいはしてほしいものです。(1999.11.5)

<第95号:床屋さん> 日本人御用達の床屋さんに行けば、日本の床屋さんと同じようなやり方でやってくれるのでしょうが、それではあまりにチャレンジ精神がなさすぎるので、私は家の近所の床屋さんに行っています。カットが8ポンドと安く、手際良くスピーディーにやってくれるのはいいのですが、切った髪の毛が洋服や下着にいっぱいついてしまうのが困ります。この床屋さんに行った後は、即、家に帰ってシャワーを浴びないとチクチクしてたまりません。夏はまだ良かったのですが、セーターを着るようになってからは、この床屋さんに行くのは、ちょっと考えものです。先日初めてセーターを着て髪を切ってもらったら、後が悲惨なことになりました。次回は、どうしようか思案中です。(1999.11.5) 

<第94号:ユーロに出会わず> フランスでは、今年からユーロが登場しているので、どこかで手に入るかなと思っていましたが、結局全く影も形も見られませんでした。確かに、値段表にはフランとユーロの両方の額が出てはいたのですが。それにしても、貨幣の単位を変えてしまうというのは、大変な変化でしょうね。確か2002年からは、ユーロに1本化するはずでしたよね。うまくいくんでしょうか?第31号にも書きましたが、私はどうもこのヨーロッパ統合が「大国家主義」的行き方に思えて、好感が持てないのですが……。(1999.11.5)

<第93号:印象派と写真の関係> オルセー美術館で、印象派の絵をたっぷり見ながら、写真の誕生と印象派の登場との関係に思いを巡らせていました。そのままの姿を写し取るだけなら、絵よりはるかに正確な写真が19世紀の後半に登場してきて、画家たちは戦略の変更を余儀なくされたのではないかと思います。徹底して写実的にという方向ではなく、印象を画布に写し取るという選択をすることによって、絵画の生きる道を見いだしたのが、印象派ではないでしょうか。

 それにしても、同じ画家の絵でもいろいろなレベルのものがあります。一般的に言えるのではないかと思うのは、画家が自らの画風を確立した初期の頃のものがすばらしいということです。新たな画風でありながら、伝統的な鑑識眼を持った人にも理解できる程度の新しさになっているのがいいのだろうと思います。画壇で地位を確立してからの作品は、しばしば画家の名前だけで絵が売れるので、絵そのもの完成度は低いものが少なくないように思います。印象派で言えば、その典型はモネでしょう。印象派として売り出した頃のモネの作品は、見る者を間違いなく引きつけますが、晩年の作品は、モネというサインが入っていなかったら、通り過ぎてしまうようなものも少なくないと思います。イギリスの画家のターナーなどもやはり安易に流れていった典型的な例だと思います。まあしかし、こうした傾向は画家だけでなく、作家等にもあてはまることです。受容する側がしっかりした鑑識眼を持たなければいけないということでしょう。(1999.11.4)

<第92号:イギリスとフランス――人と食事――> なんか芸のないタイトルですが、半年以上イギリスに暮らしていて半分居住者の気分になっているので、どうしてもこういう比較をしたくなります。かつてヨーロッパ周遊の旅をしたときには、2〜3日づつで次々に別の国に入ったので、日本との比較はできても、ヨーロッパの国と国を比べるということは、実感として難しかったですが、今回はイギリス居住者の目からフランスーーと言ってもパリだけですがーーを照射することができました。

 まずやはり住んでいる人たちが異なりますね。イギリス人の方が背が高く金髪の人が多く、フランス人の方は栗色の髪でそんなに背が高くない感じです。ゲルマン、アングロ・サクソン系とラテン系の違いを実感しました。白人ばかりでなく、有色人種も異なります。黒人――アフリカ系と言った方がいいのかもしれませんがーーも、かつて両国が支配していた地域の違いでしょうが、顔の造作や肌の色の濃さがずいぶん違っているように思いました。インド人や中国人を見かける割合も当然のことながら、イギリスーーロンドンーーの方が圧倒的に多いです。

 次に愛想の良さは、イギリスの方が断然上ですね。ロンドンでは、地下鉄とかに乗っていても、目が合うと微笑んだりしてくれますし、よく知らない同士でも向かい合わせに座ったりすると、なんとなく会話したりしていますが、パリではほとんどの人が無愛想でした。

 食事はやはり何と言ってもフランスの方がおいしいですね。もうこれは比較にならないほど違いますね。ちゃんとした料理に大きな差があるだけでなく、ただのパンでも味が違いますし、路上で売っている焼き栗でも、パリの方がずっとおいしいです。こういう食事がちゃんとしているところでは、極端に太った人が少ないように思います。イギリスにしてもアメリカにしても、おいしものがないから、ジャンクフードばかり食べて太ってしまうのだと思います。とりあえず今回は、人と食事の比較でした。(1999.11.4)

<第91号:ユーロスターに乗る> ユーロスターに乗って、パリまで行ってきました。ユーロスターに乗るのは、日本から楽しみにしていたのですが、思ったほどぱっとした列車ではありませんでした。座席の向きは変わらず、乗客の半分は後ろ向きのまま進んでいきます。窓と座席の位置関係もあまりきちんと考慮されておらず、席によっては、外の景色が非常に見えにくくなっています。通路は狭いし、食堂車もないという有様です。近鉄特急の方が絶対優雅な気分を味わえます。しかし、これは2等車乗客のぼやきで、1等車に乗っていたら、食事にワインもつくそうですから、印象も変わってきたかもしれません。でも、列車のスピードが遅いというのは、1等でも2等でも一緒です。特に、イギリス国内が遅いですね。途中で徐行のようなスピードにもなりました。本当にこれがあの有名なユーロスターなのだろうかと何度か首を傾げてしまいました。3時間でロンドンからパリに着くというので、ものすごく早い列車のような気がしていましたが、もともとロンドン−パリ間が360km程度しかないんだそうで、言ってみれば、東京−名古屋を3時間で走るようなものですから、日本の新幹線と比べたら、かなり遅いというわけです。

 もうひとつユーロスターがつまらないのは、当たり前のことですが、ドーバー海峡が見えないということです。以前、船でドーバー海峡を渡った時には、イギリスに近づくにつれて、あの石灰岩の白い断崖がどんどん迫ってきて、ロマンと迫力を感じたものですが、海の下のトンネルにもぐってしまっては、何のおもしろさもありません。わかっていたこととはいえ、残念でした。旅を楽しむのではなく、早く簡単に行きたいと思う人には、ユーロスターはお奨めできますが、列車の旅を楽しみたいと思う人には、あまりお奨めできないように思います。(1999.11.4)

<第90号:サマー・タイム終わる> 今週の日曜日の早朝にサマー・タイムが終わり、1時間時計の針が戻りました。10月31日午前2時になった瞬間に午前1時に戻ったのです。つまり、今年の10月31日午前1時からの60分間は2度あったわけです。サマータイムの終了など毎年あることなので、誰も特別に話題にしていませんでしたが、サマーターム制度に慣れていない日本人の私には、非常に不思議な感じがしました。この間に事件とか事故があったら、ややこしくならないのでしょうか。午前1時45分に始まった停電が午前1時15分まで続いたというようなことが起きるんですよね。もちろん、2回目の午前1時台は、「(GMT)午前1時15分」といった表し方をして区別しているようですが、なんかこの2重の時間とかを利用して、犯罪とかできないんでしょうか?西村京太郎あたりなら、小説の題材にできそうですね。まあでも、これも、時差のある国々を容易に行き来できるヨーロッパ人や、国内に時差があるアメリカ人にとっては、たいして気にならないことなんでしょうね。こんな所にも、高い統合度の文化を閉鎖的に享受している日本人感覚が出てしまうのかもしれませんね。でも、ビッグベンの時計は、サマータイムの開始と終了の日には、約3時間ぐらいかけて大汗をかいて直すそうで、ビッグベンの案内をしてくれたおじさんは、「サマータイムなんか必要ない!」とぶつぶつ言っていました。(1999.11.4)

<第89号:マーガレット王女物語> 3週間ほど前から、土曜日ごとに、"Daily Mail"紙が「王室の世紀」というタイトルで、ロイヤル・ファミリーに関する興味深い物語を新聞の付録としてつけています。1回目が、チャールズ皇太子の愛人として有名なカミラ夫人、2回目がエリザベス女王とフィリップ殿下の夫婦の物語、そして3回目がエリザベス女王の妹・マーガレット王女についてでした。どの回もおもしろく、日本の皇室については絶対ここまで書けないだろうなと思うレポートです。すべてご紹介したいところなのですが、そうもいきませんので、日本人にはあまり知られていないのではないかと思われるマーガレット王女の物語だけここで紹介してみたいと思います。

 マーガレット王女は1930年生まれで、現在69歳。エリザベス女王のただひとりの妹です。エリザベス女王も結構きれいですが、おそらくどちらがきれいかと言えば、マーガレット王女の方がきれいだと誰もが口を揃えて言うぐらい、若い時は美人でした。国王の娘に生まれ、それほどの美人だったら、さぞや素晴らしい人生を送ってきたのではないかと思われるでしょうが、あにはからんや波瀾万丈の人生を歩んで来ています。良き娘、良き妻、良き母、良き王女とはとうてい言えないような人生を歩んできたこのマーガレット王女についての特集に、"Daily Mail"紙は「不機嫌な王女」というタイトルをつけています。

 18歳の時には公衆の面前でタバコを吸う姿を見せたりしていた王女の大きな逸脱行動が広く明らかになったのは、エリザベス女王の戴冠式の際だったそうです。当時22歳の美しい王女は、亡き父王の侍従で第2次世界大戦のパイロットでヒーローでもあった38歳のピーター・タウンゼントのジャケットのゴミを戴冠式の最中に払ってあげたそうです。そこには、あきらかに恋人同士だけが持つような雰囲気が漂っており、2人の関係は広く世間の知るところとなってしまいました。タウンゼントは当時離婚していましたが、その離婚にも王女の存在が関係していたようです。王女が14歳の時に2人は出逢い、16歳になるまでには、王女はすっかり恋する娘になってしまっていたそうです。2人の関係が明らかになって以降、結婚も考えられたようですが、結局ふたりは別れさせられることになりました。

 マーガレット王女は、その後30歳でスノードン卿と結婚し、2児をもうけます。2人は、1978年まで婚姻関係にありましたが、2人の間には早い時期から愛情の交流はなく、形だけの夫婦でした。マーガレット王女は、夫がありながら、作家でピアニストだったロビン・ダグラス・ホームや、俳優のピーター・セラーズと次々と浮き名を流したようです。(ちなみに、ロビン・ダグラス・ホームは、マーガレット王女の気持ちが、ピーター・セラーズの方に移ってしまったことを嘆いて自殺したそうです。)この頃マーガレット王女が住んでいたのは、ケンジントン・パレスですが、ここは後にダイアナ妃が住み、やはり夫チャールズ皇太子との愛情が得られない寂しさから、夫以外の男性と寝たと告白した場所でもあります。

 マーガレット王女の恋の遍歴はこれでもまだ終わらず、43歳の時には、息子と言ってもおかしくないような25歳の青年ロディ・レウリンと出逢い、恋をします。それ以降、マーガレット王女はどこへ行くにも、このロディを伴うようになり、ついにこれがエリザベス女王の不興を買うことになりました。しかし、この時もマーガレット王女は、姉の忠告に素直に従うのではなく、大量の睡眠薬を服毒するという対応をしました。このロディとのゴシップが、形式だけではあっても続いてきていたマーガレットとスノードン卿の婚姻関係を完全に破綻させました。(この離婚は、その後次々に生じる王室関係者の離婚に弾みをつけたとも言われています。)

 こうしたマーガレット王女の逸脱的な生き方は、様々なものに対する反抗と解釈することができるようです。マーガレット王女は、誕生の時から男児を期待していた両親をがっかりさせ、小さい頃に祖母に指摘されて以来背が低いこと(150cm強)をコンプレックスとし、常に姉のエリザベス女王の影のような存在と周りから見られることで、自らを低く評価して成長してこざるをえなかったというライフ・ヒストリーを背負っています。さらに、初恋を結婚まで成就させた姉と違い、マーガレットの初恋は無惨に引き裂かれ、ますます反抗心が強まったようです。こうした否定され続けてきた経験が、彼女をして自分に愛と心地よさを与えてくれる人間を常に周りに置き、自己満足を感じていたいという生き方を選ばせたと言えるようです。マーガレット王女の反抗的な姿勢は70歳近くなった今でもまだまだ健在なようで、今年99歳を迎えた母親(Queen Mother)の誕生日の記念写真を撮る際には、靴に履き替えずにスリッパを履いたまま写ろうとして(注1)、他の王室メンバーを憤慨させたそうです。

 こんな奔放な生き方をしてきたマーガレット王女ですが、決して弁解をしないその堂々たる態度を国民は好意的に受け止めているそうです。こんな生き方をする王女もすごいけれど、これを受け止められる国民もなかなかすごいなあと思わず感心してしまいました。(1999.10.21)

注1:マーガレット王女は、昨年軽い脳卒中に倒れ、車椅子を使うようになっています。

<第88号:マルクスもいいけど、スペンサーも忘れずに> 第64号で、マルクスのお墓のことを書きましたが、先日この話をこちらの社会学者にしていたら、「じゃあ、ハーバート・スペンサー(注1)の墓も見たかい?」と言われました。「いや、見てないよ」と言うと、「そりゃ、残念だったね。君の立っていたすぐ後ろにあったのに」と言われました。「えっ、すぐ後ろ?」「そうだよ。マルクスの墓のほぼ真向かいさ。」「ええっ!」社会学者の端くれに名を連ねる者としては、この話を聞いたら、行かないわけには行きません。ということで、早速ハイゲイト墓地を再訪問してきました。

 いやあ、本当にほぼ真向かいでした。びっくりしました。でも、マルクスの墓が大きさといい、形といい、異様に目立っているのに対し、スペンサーの墓は、とてもシンプルなものでした。私がスペンサーの墓の前にいる間に、マルクスの墓を見に来た人たちが何人かいましたが、そのうちの誰一人として、スペンサーの墓は見ませんでした。それどころか、マルクスの墓に見向きもせず、古びた墓の前でメモを取ったり、写真を撮ったりしている日本人を見て、みんな一様に奇妙な表情を浮かべていました。

 スペンサーの墓は、高さ1m、幅1.5m、奥行き1mくらいの直方体の大理石で、上部は少し庇が張り出した屋根のような形になっていました。そして、正面に「ハーバート・スペンサーの遺骨、ここに眠る」、左側面に「1820年4月27日誕生」、右側面に「1903年12月8日死去」、裏面に「年齢83歳」とだけ剥げかけた文字で書いてありました。生前何をした人か、誰がこれを建てたのか、全くわからないシンプルすぎるほどシンプルな墓でした。

 ほぼ同時代を生きたマルクスとスペンサー。その後の世界に与えた影響の大きさから言えば、この2つの墓の相違は仕方がないところかもしれません。でも、半世紀前には勝負がついたと思われていたマルクスの唯物論的立場からの歴史観とスペンサーの社会進化論のどちらがより妥当な歴史解釈なのかという問いは、20世紀の終わりに来てまた判断が難しくなってきました。いずれにしろ、もし社会学に携わる人で、ハイゲイト墓地までマルクスの墓を見にいらっしゃる方がおられましたら、スペンサーの墓もぜひお見落としなく。(1999.10.19)

注1:ハバ−ト・スペンサー(Herbert Spencer)は、イギリスの社会学の創始者とも呼ぶべき人物で、社会進化論を唱えたことで有名。日本には明治初期から紹介された。その意味では、日本の社会学は、スペンサー社会学から始まると言っても過言ではない。

<第87号:婿と姑> ヘンリー8世(エリザベス1世の父親)が6人の妻を持ったことは有名ですが、先日その話が出たときに、ある人が「6人の姑とつき合ったなんて奇特な奴だ」というようなことを言っていました。日本通でもあるその人によれば、「日本では嫁と姑の仲が悪いらしいが、イギリスでは婿と姑の方がぎくしゃくしやすいんだ」ということでした。おもしろい相違だなと思いました。これが事実だとすると、どうしてこうした違いが起きるのでしょうか?

 理論的に考えてみましょう。人間関係に衝突が起きるということは、共有している場があるということです。(同じ土俵に上がらなければ、相撲も取れません。)日本の嫁と姑の場合は、何と言ってもイエ制度の下で同居を余儀なくされ、料理の仕方から子供のしつけ方まで否が応でも場を共有せざるを得なかったという状況があります。それでも戦前までの民法のようにフォーマルに姑の方が地位が上――戸主の妻としてーーと決まっていれば、対立もあまりシビアなものになりにくいのですが、戦後民法のように、イエ制度がインフォーマル化され、嫁も姑も平等ということになってしまうと、衝突はシビアなものにならざるを得ないわけです。特に、戦前に教育を受け自分自身は姑に仕えてきた女性と、戦後の教育を受けた嫁との間での対立がもっともシビアなものになっていたはずです。婿と姑――他にも、嫁と舅、婿と舅――などの対立関係が日本であまり目だたなかったのは、それだけ日本の男性が、家庭の問題に関わらず、場を共有していなかったことの表れでしょう。他方、イギリスで婿と姑の対立がよく起こるということは、それだけイギリスの男性が家庭の問題に関わっていることの証左とも言えるでしょう。

 しかし、日本も変化してきています。戦後教育を早い時期に受けた女性たちが今や姑になる立場です。自分が元気な間は同居しようとは思わないでしょうし、料理やしつけの仕方で嫁のやり方に口を出しすぎることも少なくなるはずです。しかし、嫁のやり方には口を出さないが、自分の娘のやり方には結構安易に口を出してくる母親は少なくありません。(これを、私は、日本の隠れた「(母娘)マザコン問題」と呼んでいます。)他方で、「男も家庭の問題に関心を持つべきだ」という考えを持った男性は増えてきていますので、今後は日本でも婿と姑が衝突する可能性は高くなってくるのではないでしょうか。(1999.10.11)

<第86号:党大会の季節> 9月から10月初めにかけて、こちらでは政党の年次大会が次々と行われました。と言っても、基本的には2大政党制の国ですから、労働党と保守党にもっぱらマスコミは注目し、第3政党の自由民主党も少し取り上げられる、といった感じでしたが。

 労働党は華やかでした。政権を取っている上に、党創設100年目に入るということで、盛大な党大会になったようです。これに対して、保守党は悲惨で、現在の党首ウィリアム・ヘイグ氏は30歳代の若いリーダーですが、若さを全面に押し出したはつらつさが見られない上に、EUへの対応をめぐってサッチャー元首相とメージャー前首相という二人の実力者が対立しています。9月末の世論調査によれば、労働党の支持率は52%もあったのに対し、保守党の支持率は25%にまで下落したそうです。自由民主党の支持率が17%ですから、支持率だけで言ったら、もう保守党と自由民主党との間に大きな差はありません。2002年の総選挙で保守党が労働党に負けるのは確実と予想されており、保守党にとってはつらい冬の時代が続きそうです。(1999.10.11)

<第85号:公平なペンションを、今!?> 先日、トラファルガー広場の前を通りかかったら、ネルソン提督像の台座に、「Fair Pensions NOW」と書かれた大きな横断幕が掲げられ、集会が行われていました。「なんだあ?ペンションがそんなに不公平なのか?余程待遇の悪いペンションでもあるのかな?」と一瞬思いましたが、妙に集まっている人がお年寄りばかりです。「ああ、そうか!公平な年金か」と気づきました。時間がなかったので、集会をじっくり見ていることはできなかったのですが、かなりのお年のおじいさん、おばあさんが、相当ボルテージを上げていました。

 専門じゃないのであまりよく知らないのですが、イギリスの年金は、男性が65歳、女性が60歳から支給されるそうです。これについては、男女双方に不満があるらしく、男性は「なんで65歳にならないともらえないんだ!」という不満を持ち、女性は「年金が60歳からあるために、もっと仕事を続けたいと思っても、60歳前でやめなければならなくなってしまう!」という不満を持つのだそうです。今回見た集会は男女仲良く壇上に上がっていましたので、たぶんこれが問題になっていたわけではないと思います。たぶん、自分たちの長年の国に対する貢献の割には、年金が少なすぎるということが、問題にされていたのではないかと思います。それにしても、イギリスは、お年寄りが元気でいいです。(1999.10.11)

<第84号:東海村とパディントン> 日本とイギリスで大きな事故がありました。東海村の事故はこちらでもトップニュースでした。なんという信じられないほどずさんな事故だという論調でしたが、その話題の冷めやらぬうちに、パディントン駅近くで大きな列車事故が起こり、あっという間に世間の関心の焦点は、イギリスの交通機関のずさんさに移っていきました。

 ともに事故の直接的なきっかけは人為的なミスにあるようです。特にイギリスの交通機関のいい加減さは、私も幾度か書いてきましたが、槍玉にあげようと思えば、いくらでもあげられます。曰く、列車の運転手が雑誌を読みながら運転をしていた、待てど暮らせど列車が来ない、渋滞に巻き込まれたバスが5時を過ぎたら、運転手と車掌が自分の従業時間が終わったと言って終点まで行かずに客を全部降ろしてしまった(これは私自身の経験です)、バス停のそばの看板にぶつかって壊してそのまま行ってしまった(これも私自身の経験です)等々。さすがにあの事故以来、今はちょっとましみたいですが、どうせすぐに元に戻ることでしょう。

 しかし考えてみれば、人間のやることにミスはつきものです。教育によってミスを減らすことはできるでしょうが、皆無にすることはできないでしょう。つまり、人間がどこかで関わる限り、ミスをあらかじめ考慮に入れておかなければならないのです。人間のミスをカバーするシステムをどれだけ作れるかが安全性を左右するわけです。しかし、この安全性システム自体も人間が作る限り、ミスがまた考慮に入れられなければならないということになります。そうやって考えていくと、結局完全に事故のない社会を作ることは不可能だということになります。

 そうした発想で今回の2つの事故を見た場合、より心胆を寒からしめたのは東海村の事故の方だという気がします。パディントンの事故では、多くの人が亡くなりましたが、ある意味ではあれは単純な衝突事故です。その被害も、物理的なものに限って言えば、そこに居合わせた人だけに対するものです。しかし、東海村の事故の方は複雑な事故です。一体どれほどの被害が出たのか、実は誰もはっきりとは把握できていないのではないでしょうか。原子力は本当に人間が制御しきれている技術なのでしょうか?事故が起きるたびに疑念が深まります。今年は大きな地震が世界各地で次々に起こっています。地球物理学的には、日本はどこで地震が起きてもおかしくないような場所に位置しているはずです。直下型地震が原子力関連施設のあるところで起きたらという発想は、ちゃんと計算に入っているのでしょうか?不安です。原子力だけではありません。遺伝子操作もクローンも何か人間が踏み込んでは行けないところまで行ってしまっているという気がして仕方ありません。もしミスが起きたら……。(1999.10.10)

<第83号:左利きの多い理由(仮説)> 日本にいた時より左利きの人に多く出会うような気がします。たぶん気のせいではなく、間違いなく多いのではないかと思います。「なんでだろう?」と前々から不思議に思っていたのですが、今日昼食時に皿の上のコーンをフォークでつつきながら、あるひとつの仮説が頭に浮かびました。「そうか、ナイフとフォークで食べるからだ!」と。

 ナイフは右手、フォークは左手で持ちます。口に物を運ぶのはフォークの役割です。コーンのような小さなものを一粒一粒つついて口に運んでいるとなんだか左手が器用になってくる気がします。フォークの持ち方とペンの持ち方は結構似ています。フォークを上手に使えるなら、ペンも使えそうです。もちろん、一般的に多くの人間は脳の働きから右手の方がより上手に使えるようになっているのでしょう。しかし、生まれた当初は右手と左手の働きにそうは違いがないので、訓練次第では左手も右手と変わらないぐらい、あるいは右手の訓練を怠れば左手の方がより上手に使えるようにもなるのでしょう。

 「おはし」を使う文化圏は、基本的に片手――大体右手――のみを器用にさせることになりますが、ナイフとフォークの文化圏は両手を使いますので、左手も上手に使える人が多いのではないでしょうか。あくまでもひとつの仮説です。うまく行けば、デュルケームが『自殺論』でやったように、一見個人的な――あるいは先天的な――問題と見えることを、社会的要因で説明できるということになるのですが。検証するためには、しつけ方や書き文字の違いなどの要因をうまくコントロールできないといけませんね。実際にはなかなか難しそうです。(1999.9.24)

<第82号:昼食の選択> 久しぶりに食の話です。外で昼食を安くあげようと思ったら、"Take away"("Take out"をイギリスでは"Take away"と言います。)のサンドイッチやピザでも買って食べるのが一番でしょうが、雨が降っていたりすると食べる場所に困ります。そこで代替案として一番安易に浮上するのがハンバーガー屋さんですが、これも飽きます。特にポテトが。そこで次に向かうのが、中華料理のBuffet(バイキング・スタイルのことをこう言います。)ということになります。4.5ポンドぐらいで17種類ぐらいの中華料理が食べ放題というお店がロンドンにはたくさんあります。これに初めてチャレンジしたときは「なんてリーズナブルなんだ」と感激したものですが、これも飽きます。別に中華料理のお店はチェーン店ではないのに、みんなそろいもそろって同じメニューなんですよね。味もほとんど変わらないし。中華がだめなら、インド料理ということになるのですが、どうもカレー味ばかりの食事は今ひとつ惹かれません。もっと生野菜とかが食べたいという欲求がふつふつとわき上がってきたら、"Pizza Hut"のBuffetがいいでしょう。4.99ポンドで6種類ぐらいのピザ、2種類のパスタ、それに生野菜が食べ放題です。これはなかなかいいのですが、個人的にもっとお奨めしたいのが、"Gurfunkel's"というレストランーー日本のファミリー・レストランのようにチェーン店化していますので、あちこちにありますーーの、"Unlimited Salad Bar"(£5.95)です。これは要するにサラダの食べ放題ですが、このサラダ・バーは通常のサラダの枠をはるかに超えています。一般的な生野菜が豊富にあるのはもちろんですが、それ以外にロースト・ビーフ、ハム、ソーセージ、ミートボール、卵、ニシンの酢漬け、鯖の薫製といったタンパク源もたっぷり置かれています。細い乾パンのようなものもありますので、このサラダ・バーだけでバランス良くお腹一杯になります。機会があったらぜひ一度チャレンジしてみて下さい。(1999.9.24)

<第81号:"Mamma Mia!"がおもしろい> 前号に続き、パフォーマンスについてです。今回はミュージカルについてです。と言っても、そうたくさん見たわけではないので、偉そうなことは言えないのですが、今ロンドンで一番人気があって、おもしろいと評判なのが、"Mamma Mia!"というミュージカルです。今年の3月に始まったばかりの新作ですが、「レ・ミゼラブル」、「キャッツ」、「ファントム・オブ・オペラ」、「ミス・サイゴン」といったロングラン・ミュージカルを抑えての一番人気ですからたいしたものです。このミュージカルを先日見てきましたが、評判通り、いや評判以上におもしろかったです。最後は観客全員総立ちでした。

 ストーリーは単純で、かつて3人組のアイドル歌手――スリー・ディグリーズのような、と言っても若い人にはわからないですねーーのメイン・ボーカルとして一世を風靡した女性が、未婚の母として育ててきた娘が明日結婚するというところから話は始まります。結婚式なので、かつて母とともに歌い踊った仲間もやってきます。その上、全く偶然ながら父親だった男性もその友人2人とともにやってくるのです。(このあたりマンガ的ですね。)で、父親は3人のうちの誰?と娘が悩み、結婚式の当日を迎えるといった話です。コミカルな話なので、ストーリーは結構適当です。にもかかわらず、なんでこんなにおもしろいかというと、音楽がすべてABBA(アバ)のヒット曲を使っているからです。ABBAというグループは、1970年代の後半から80年代の前半にかけて数々のヒット曲を出したスウェーデン出身のグループです。ディスコ華やかなりし頃のグループですので、ほとんどのヒット曲がダンス・ミュージックです。ノリのいい曲ばかりなので、ABBAの曲に青春を重ね合わせられる私のような世代ばかりでなく、今の若い人にも十分受け入れられる要素を持っています。

 説明臭くなりましたが、とにかく見たらその楽しさはわかります。特に3人のおばさんがかつての派手な衣装に身を包み、歌い踊る場面は最高です。日本でも絶対にあたるミュージカルだと思います。きっともう誰かが上演権を入手しているのではないかと思いますが、個人的には「劇団・四季」あたりにはやってほしくないですね。「四季」のメンバーに限らず、ぴったりの配役で上演してほしいなあと思います。特に、おばさん3人組がポイントなんですが……。「夜もヒッパレ」的発想で配役を決めた方がうまくいくような気がします。(1999.9.24)

<第80号:パフォーマンスも相互作用> ロンドンと言えば、様々なパフォーマンスのメッカでもあります。コベント・ガーデン、ラッセル・スクエア、ピカデリー・サーカス、そして地下道とそれなりの空間と人が集まる条件が整ってさえいれば、そこは大道芸人たちの立派な舞台になります。みんな上手ですよね。特に曲芸関係をやる人は、観客を乗せるのがうまいです。いつのまにか観客が曲芸師の小道具に早変わりしています。でも、引っぱり出そうとしても固辞する人、突然割り込んでくる酔っぱらいのおじさん、近くにいるのに背を向けたまま見てもくれない人などもいて、それなりに苦労しているようです。

 先日この3番目のパターンをコベント・ガーデンで見かけました。ナイフを使った曲芸をしていた大道芸人さんが、すぐそばのベンチに背を向けて座って本を読みふけっている女性を見つけました。ノリが悪いと芸がやりにくいのでしょう。この芸人さん、女性の本を横からのぞき込んだと思ったらさっと取り上げて自分のカバンにしまいこんで、こっちを見なさいという態度を示しました。こうやって文章で書くと、ずいぶん強引なことをしたんだなあと思うかもしれませんが、一連の行動はあくまでもコミカルにやっているので、他の観客はずっと笑って見ていました。本を取り上げられた女性は苦笑いしていましたが、あくまでも見る気はないようで本を返してもらい、再び本を読み始めました。芸人さんは顔はずっと笑顔でしたが、この女性の態度は非常に不快だったのでしょう。その後も「ブーブー笛」やラッパを彼女の耳元で鳴らして、なんとかその場に引き込もうとしましたが、女性の方もかなり意固地になっており、断固として見ようとはせず、ついには立ち上がって去って行ってしまいました。

 その女性からすれば、自由に座っていいベンチに腰掛けて本を読んでいただけで、なんでこんな目に遭うのかという気持ちだったでしょう。しかし、見ていた観客のほとんどは、彼女の方が悪いと思っていたのではないでしょうか。やはりこのパフォーマンスが行われている間は、このパフォーマンスを取り囲むように置かれているベンチに座る人はこのパフォーマンスと一体化しなければならないというのが、ここでの暗黙のルールとなっていたと思います。(ちなみにそのルールは理解できるが、引っぱり出されたら恥ずかしいと思う私は、決してベンチには座らず、少し遠くから見ることにしています。) 

 この一連の推移を見ていて、しみじみパフォーマンスも芸人と観客の相互作用だなと実感しました。大学の講義でも似たような状況にしばしば直面します。一番前に座って関係ない本を読んでたり、寝てたりする人がいたら、私は必ず注意しています。「前の方に来て寝たり内職したりしないでほしい。講義も、話す教員とそれに反応する学生との相互作用なのだから、目立つところで聞く気がない態度を示されたら、こちらも話す気力が萎えてくる」と言います。しかし、大学教員はこのように注意することができますが、いつも笑顔でパントマイムをし続けなければならない大道芸人さんは、そうはいかないんですよね。(1999.9.23)

<第79号:丘の話> 第77号で「ニュージランド大使館」の「見る場所」としてのすばらしさと「見られる場所」としての問題点を書きましたが、「見る場所」としても「見られる場所」としても高く評価できるのが丘です。イングランドーー特にロンドン周辺――はほとんど高い山がないので、高いところと言ってもせいぜい丘ということになります。「○○ Hill」という場所が結構あちらこちらにあり、そこに上ってみると、実にすばらしい眺望が得られます。また、丘の上に視角上のポイントとなるものがある場合には、下から見上げた景色もまた格別です。

 私が好きなロンドン周辺の丘をいくつか紹介してみたいと思います。まず、バーン・ヒル。これはうちの近所の丘ですが、ここからはイギリスの国立競技場とも言うべきウエンブリー・スタジアムが美しく見えます。次に、ハーロー・オン・ザ・ヒル。この丘の頂上には、あのウインストン・チャーチルも卒業した有名なパブリック・スクールのハーロー校があります。それから、グリニッジ・パーク。ここはヒルと名前がつきませんが、間違いなく丘です。頂上にはあのグリニッジ天文台があります。この丘からは、現在は海軍大学として使われているグリニッジ・ロイヤル・パレスや現在工事が急がれているミレニアム・ドームなどがよく見えます。この一帯は世界遺産にも登録されています。まだまだあります。田村明さんの本(『イギリスは豊かなり』)にも紹介されていますが、豊かな自然の残るハムステッド・ヒースには、パーリアメント・ヒルがあります。ロンドンの中心部を広く見渡せるのと、ハイゲイトの街並みがきれいです。パーリアメント・ヒルはハムステッド・ヒースの南に位置しますが、逆の北の方も少し小高くなっていてここにはケンウッド・ハウスがあります。映画"Notting Hill"(邦題は、「ノッティングヒルの恋人たち」になったんですよね。)にもこの場所が出てきます。(最後の方でジュリア・ロバーツがロケをしていて、ヒュー・グラントが会いに来た場所です。)そういえば、ノッティング・ヒルもヒルでしたね。頂上には教会があり白い壁の連続住宅が並ぶ街並みがとてもきれいなのですが、ここは丘全体が住宅地になってしまっているのが、ちょっと残念と思われてしまうかもしれません。(映画の中では、妹の誕生日パーティの後、ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントがぶらぶら散歩しているあたりです。)最後に、そんなに遠くないのに観光客がほとんど来ない穴場のような丘としてプリムローズ・ヒルを紹介しておきましょう。ここはロンドン動物園のすぐ北側にあたる場所なので、動物園にまでもしも来られるようでしたら、ここまで足をのばすことをお奨めします。パーリアメント・ヒルより近くからロンドンの中心部を見渡せます。丘もなだらかな斜面で、子供でなくともつい駆け下りてみたくなるような丘です。

 でもこうやって並べてみると、ロンドン周辺にはずいぶんオープンな空間として残されている丘が多いことに改めて気づかされます。日本だったら、すぐに住宅地として開発されてしまうところでしょう。「○○台」「○○が丘」なんて住所を日本ではよく見かけますが、みんな丘を開発して新たに地名をつけたことの表れです。確かにこうした丘は、価値の高い住宅地にもなるのでしょうが、公的なオープン・スペースとして残してくれるならば、はるかに多くの人がその丘の名前を覚え、愛してくれるのは間違いないはずのですが……。(1999.9.22)

<第78号:習慣の違い> セントラル・ヒーティングの調子がおかしくなったので、British Gusの人に来てもらいました。12時から6時の間に来るというので、午後一歩も外に出ず、ずっと待っていたのですが、6時を回っても来ず、やっぱりいい加減なんだと思っていた6時10分頃、ピンポーンとなって、British Gusの人がやってきました。まあ来ただけよしとしようと思い、文句も言わず、ただ「靴を脱いで上がって下さい」と言ったら、「それはできない」と言うので、「どうして?」と聞くと、「セイフティ・シューズだからだ」と言うのです。「セイフティ・シューズ」ってよく知りませんが、たぶん編み上げの靴かなんかで脱いだり履いたりが結構面倒な靴なのでしょう。これまでにも、何人かこういう技術関係の人は来ましたが、全員靴を脱いでくれていましたので、対応に困りました。結局、「いつになるかわからないけど、改めて別の人を来させるよ」と言って帰ってしまいました。6時間10分待って、この結果です。後で聞いたら、たまにこういう人がいるらしく、こういう場合はビニール袋などで靴ごと包んでそのまま上がってもらうしかないそうです。習慣の違いや恐るべしです。(1999.9.20)

<第77号:絶景だけど……> これも「OPEN HOUSE」で見学したところのひとつですが、Haymarketの南西角にあるニュージランド大使館18階の"Penthouse"からの景色は絶景です。数々あるロンドンの展望箇所の中でも、市内中心部を眼下に見られるという点ではNo.1と言えるかもしれません。

 外観はいかにも1960年代に機能のみを重視して建てられた四角いオフィスビルなので、トラファルガー広場からすぐのこの場所では、ほとんど浮き上がっている建物です。すばらしい外観を持った建物がたくさん公開されていた「OPEN HOUSE」の中で、この建物は見た目には魅力に乏しく見学するのをやめようかとも思ったのですが、大使館の中なんかめったに入れないだろうし、取りあえず行ってみようと思って行ったのですが、予想外の大当たりでした。周りに背の高い建物が全くないので、東西南北どの方向もはるか遠くまで見渡すことができます。観光旅行で来られる方も何か無理矢理にでもニュージランド大使館に用事を作ってここに登ることをお奨めしたいぐらいです。(可能かどうかわかりませんが……。)

 しかし、ここで「絶景かな、絶景かな」と言って喜んでいるだけではいけないようにも思いました。考えなければならないのは、「見る塔と見られる塔」という問題です。(これは、私の敬愛する友人N氏の長年のテーマのひとつです。)このニュージランド大使館の「見る塔」としての魅力は確かにすばらしいものがありますが、他方で「見られる塔」としては、このあたりの景観を悪くしていると言えます。前号で書いたように、古い建物を維持するのは経済的に大変ですから、こうした建物が建つのも仕方がないのかもしれません。エッフェル塔だってはじめは酷評されたのですから。しかし、このニュージランド大使館がこの街の風景にとけ込む日が来るとしたら、それは周りの由緒ある建物がすべて崩壊した時しかないでしょう。そうなっては欲しくないものだと心から思う人間は、あの18階からの景色も喜びすぎてはいけないのかもしれません。(1999.9.20)

<第76号:それでも保存する> 「OPEN HOUSE」で見学したところのひとつに、St.Pancras駅と一体となった旧The Midland Grand Hotel(現在は、「St.Pancras会館」と呼ばれています)があります。St.Pancras駅はBritish Railの駅で、地下鉄駅としては、すぐ隣にあるもうひとつのBR駅であるKing's Cross駅とひとつになって、King's Cross & St.Pancras駅という名称の大きなターミナル駅になっています。

 King's Cross駅の方はシンプルな建物なのですが、St.Pancras駅の方は壮麗なビクトリア朝ゴシック建築で、一見するとまるでお城のようです。初めて見たときに、一体この建物はなんだろうとびっくりしたほどです。しかし維持が大変だったようで、駅部分は使われていますが、ホテルの方は1876年のオープンから約60年後の1935年には閉鎖され、その後は鉄道会社の事務所として使われてきましたーーその名称が「St.Pancras会館」ですーーが、1980年代以降は空き屋となっています。1960年代には取り壊しの話も起こりましたが、保存を求める市民運動が起こって救われたという曰く付きの建物です。

 通常期間も公開していないわけではないのですが、15人から25人のグループに入らないといけない上に入場料を7.5ポンドも取られるので、今回のような「OPEN HOUSE」で見学するのが、絶好の機会というわけです。さすがに同じような考えの人が多いらしく、ここも中に入るまでに40分かかりました。

 さてわくわくしながら入ってみると、まさに「幽霊ビル」状態でした。あちこちの天井から電線が垂れ下がり、壁は薄汚れ、床のタイルは剥げ、椅子や机の取り払われた部屋はがらんとしていました。現在空き屋だというのは知っていたので、この程度のことは想像できても良かったのですが、外観が見事なだけにちょっと予想外な印象を受けました。後で資料を見たら、外観の方は修復工事を1000万ポンド(日本円にしたら20億円ぐらい)かけ、1995年3月に完成したそうですから、外観と内部との間にこれほどの差ができているのも仕方がないようです。(私はビデオを見ていないのでよく知りませんが、資料によれば、この「St.Pancras会館」は、スパイス・ガールズのファースト・ビデオで使われているそうです。興味のある方は見てみて下さい。)

 でも、古いものを大事にするイギリス人のことですから、きっとこの「St.Pancras会館」の内部もいずれ修復して使えるようにするのではないかと思います。なにせ場所は非常に便利なところにありますので、修復さえすれば借り手はすぐ見つかりそうな気がします。しかし、あの内部を修復するのには一体いくらかかるのでしょうか?(1999.9.20)

<第75号:OPEN HOUSE> 日本で「オープン・ハウス」と言えば、なかなか売れない中古マンションなどを自由に見てもらうことですが、こちらの「OPEN HOUSE」は違います。年に一度、日頃一般公開されていないような公的な建物の内部を無料で見学できるイベントです。それがこの土日にありました。2日間、ウェストミンスター周辺を中心に歩き回りましたが、いやあ、実にすばらしかったです。

 どれもこれもすばらしいものばかりだったのですが、圧巻はやはり外務省でしょうか。その直前に大蔵省を見学していたのですが、1時間以上待って漸く入ったにも関わらず、見学できるところが非常に限定されていた上に写真も撮ってはいけないと言われ、かなり欲求不満になっていました。ところが、外務省の方はすぐに入れた上に、すばらしい中庭、たくさんの豪華な部屋、美しくデザインされた廊下や天井まで、すべて写真撮影も可でした。その上、無料で飲めるミネラル・ウォーターをあちこちにセッティングしてくれているし、子供たちにはスタンプ帳のおまけまでくれました。この両省の違いは、やはり両省の国家の中で果たす役割の違いが反映したものなのでしょうが、それにしても大蔵省は厳格すぎる感じでした。

 他にどんなところを見学できたかと言うと、ウエストミンスター・ホール(国会議事堂の中で、もっとも古い建物)、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカの各大使館、王立裁判所、王室地所事務所、旧セント・パンクラス・ホテル、などなどです。ロンドン市内だけで、全部で450カ所以上も公開されていたし、1時間以上の行列ができているところも何カ所もありましたので、私が行けたのはほんの一部ですが、めったに行けないところばかりですから、実に貴重な2日間でした。

 この「OPEN HOUSE」を見学に来ている人たちは、ほとんど白人で知的な感じの人が大多数でした。イベントの性格からそうなりがちなのでしょうが、繁華街でよく見かける入れ墨の人、あちこちピアスの人などは皆無でした。英語もきれいで聞き取りやすい発音でしゃべっていました。こんなところにも、イギリスの階級社会は厳然と表れるのだなあと感じました。いずれにしろすばらしい企画ですので、観光旅行では難しいでしょうが、もしも来年以降ロンドンで暮らす方がいらっしゃったら、この「OPEN HOUSE」は是非とも有効に使われるようにお奨めしたいと思います。(1999.9.20)

<第74号:ある一人の日本人女性の死> 地下鉄の駅に無料で入手できる"METRO"という新聞が置いてあります。その9月15日付け"METRO"に、かなり大きく日本人女性の写真入りの記事が出ていました。何だろうと思って読んでみると、なかなか考えさせられる記事でした。ここに紹介してみたいと思います。

「買い物症候群の女性、借金を恥じて首を吊る」

 お金持ちを対象としたファッション・アドバイザーだった女性が、自らの買い物症候群のため10万ポンド以上の借金を残して自殺した。雇い主によって秘密を暴露されてしまったマサミ・ドーソンは、恥ずかしさに捕らわれ首吊り自殺をした。絹のひもを首に巻き付けた姿で死んでいるのを発見したのは、彼女の6歳の息子ジョシュアだった。

 ドーソン嬢(36)は日本生まれで、ロンドンのウエストエンドのセルフリッジで4年間、富裕な顧客相手に最新のファッション・デザインを紹介するファッション・アドバイザーとして働いてきた。彼女と一緒に買い物をするためには2週間前までに予約をしておかなければならないほど人気があった。

 ファッション・アドバイザーとして雇われている間に、彼女自身が買い物中毒になってしまい、自分の買い物の支払いをするために、セルフリッジのクレジット・カード口座から10万ポンド以上を彼女自身の名義に移していた。この詐欺行為が2ヶ月前に発見され、セルフリッジはドーソン嬢に対しお金を返還するよう民事訴訟を起こし、ただちに彼女を停職にした。また彼女は窃盗の罪で告発もされた。

 先月、ジョシュアとモーリン・ドーソン(59)――ドーソン嬢の前夫・ギャーリーの母親――が、ハートフォード州のボアハムウッドにあるドーソン嬢の自宅階段で倒れていた彼女を発見した。警察の報道官は次のように語った。「彼女はノートに、使うことをやめられなかった、混乱して不必要なものにまでお金を使ってしまったと記していた。彼女にとって、恥とは文化的にみて、うまく処理することのできない何物かだったのだろう。」

 昨日ドーソン夫人は、次のように話した。「ジョシュアは今は私のところにいます。マサミは買い物に取り憑かれてしまい、自分でコントロールできなくなってしまったのだと思うわ。彼女は洋服にお金を使ったのでしょうが、だからといって彼女が贅沢に暮らしていたとは思わないわ。ほんの小さな家に住み、車はフィアットだったのよ。彼女はノートにごめんなさいと書いているわ。きっと苦しんでいたんだと思うわ。」

 亡くなった彼女のことをよく知っていたデリバリーの運転手のデビッド・スターは、次のように語った。「彼女は典型的な日本人で、とても静かで控えめだった。いつも最高級のデザイナーの服を着ていた。買い物に取り憑かれ、自分で自分をコントロールできなくなったんだろう。」

 セルフリッジは、彼女に対する民事訴訟を取り下げ、「残されたご家族に深い同情を禁じ得ない」と述べた。(記事・デビッド・フィーシャー)

 以上が新聞記事の全文です。物静かで控えめなのに買い物に目の色を変える日本人女性、悪事がばれたらその罪を償ってやりなおそうとは考えず、恥ずかしさから死を選んでしまう日本人。このニュースは、きっとイギリス人が抱く典型的な日本人像をさらに強化させる役割を果たしたことでしょう。(1999.9.16)

<第73号:庭師への道> 夏までは庭はその美しさを楽しめばいいので、手入れは全部ガーデナーがやってくれるものと思っていましたが、ここに来て、遅蒔きながらそれではだめだということに気づきはじめました。ガーデナーは、芝刈りや枯れた植物は抜いてくれますが、それ以外のことはほとんどしてくれません。水撒きはもちろん、雑草を抜いたり、枯れてしまった植物の後に、新たな花を植えたりというのは自分でしなければなりません。本来もっと早くからやるべきことだったのですが、夏までは雨も適当に降っていたし、ガーデニングの知識もないし、ガーデナーも途中で交代したりで、基本的には何もせずに来てしまいました。しかし、例年になく雨の少ない今夏はさすがに水を撒かなければ植物がだめになると思い、7月頃から水撒きをはじめました。その甲斐あって、芝生は青さを取り戻し、バラは新たなつぼみをつけはじめました。

 手をかけ、その結果が出ると、かわいくなってくるのは何でも同じです。最近では、シャベルやはさみや鍬なども使って、雑草を抜き、新たな花を植えたりしています。ついに私も「庭師」の仲間入りをしたような気持ちがしつつあります。(1999.9.13)

<第72号:まるで迷路だけど……> 私がお世話になっているLSE(ロンドン経済大学)の図書館が移転しました。21世紀を間近に控えたこの時期に、大学の情報拠点となる図書館が移転したとなれば、新しいインテリジェント・ビルでも建てたのかと思われるでしょうが、全く違います。LSEは、ホルボーンという昔からの法曹関係の建物がたくさん残る地域にありますので、地域にそぐわないような新しい建物は建てません。以前からあった古い建物――かつてはある法学院の建物だったようですーーを購入し、そこに移ったのです。古い物を守ろうというその心意気はすばらしいと思うのですが、内部のわかりにくさと言ったら尋常なものではありません。前の図書館も決してわかりやすい図書館ではありませんでしたが、今度の新図書館は、現在整備中ということもあるかもしれませんが、ほとんど迷路と言ってもいいのではないかと思います。4階のコンピュータ室にたどりつくのに、約30分を要してしまいました。しかし、どこかの国のように使える物でも、スクラップにし何でも新しくすればいいという発想ではないこの試みを、私はあたたかく見守ろうと思っています。(1999.9.10)

<第71号:なつかしい廃品回収のおじさん> 先日家で本を読んでいたら、「チリン、チリン」となつかしいハンドベルーー「用務員のおじさんの鈴」って言った方がイメージが湧きやすいかもしれませんーーの音が聞こえてきました。何だろうと思って窓越しに見てみると、軽トラックの荷台に冷蔵庫や廃材を積んだ廃品回収のおじさんの車でした。なんだかなつかしい気持ちになりました。

 バブル経済以降、日本では「毎度お騒がせいたします。古新聞、古雑誌、その他ご不要になりましたものは……」っていう車すらほとんど来なくなりましたが、あのテープが出回る前は、日本でもハンドベルを振りながら、廃品回収車がやってきていました。「きんぎょ〜え、きんぎょ〜」や「たけや〜、さおだけ〜」には敵いませんが、それなりの風情を醸し出していました。久しぶりに聞けて嬉しかったです。でも、おじさんの廃品選択は厳しいようで、向かいの家の奥さんが何か持ってもらおうと呼び止めましたが、チラッと見て、首を横に振って去っていきました。(1999.9.10)

<第70号:ウィリアム王子の気持ち> イギリス人はカードが好きです。おみやげ物屋や文房具店はもちろん、駅の売店、雑貨屋等々いろいろなところで売っています。形も四角いものばかりでなく、ハンバーグの形をしたもの、公衆電話の形をしたものなどいろいろあります。よく見かけるのは、有名人の顔をそのままカードにしたものです。きちんと調べたわけではないので正確なデータではありませんが、一番多く出回っているのは、たぶん故ダイアナ妃のカードではないかと思います。そして、ここに来て急速に増えてきたのが、故ダイアナ妃とチャールズ皇太子の長男ウィリアム王子のカードです。

 未来の国王になることが約束された1982年生まれの17歳の若者は、父親の不人気もあって、イギリス国民の注目を一心に集めつつあります。17歳ともなれば、恋の似合う年頃であり、多くの国民の関心もそこにあるようです。この夏の話題は、ウィリアム王子が父親の恋人であるカミラ夫人をバカンスに招待するように、父親であるチャールズ皇太子に言い、実際にカミラ夫人がチャールズ皇太子一家と夏のバカンスを過ごしたということでした。新聞報道によれば、ウィリアム王子は、自分たちだけがガールフレンドを連れてきて楽しむのではなく、父親のチャールズ皇太子も好きな人とともにいる幸せを味わってほしいと言ったそうです。恋を知りはじめた若者は他人の恋心にも理解を示すことができるようになるようです。(一説によれば、現在ウィリアム王子がつき合っているガールフレンドがカミラ夫人の姪だという話もありますが……。)

 しかし、ウィリアム王子の成長ぶりには感嘆するマスメディアも、チャールズ皇太子とカミラ夫人の再婚話となると相変わらず好意的ではありません。何かと言えば、2度の離婚歴のあるシンプソン夫人との恋を貫いて王位を放棄したエドワード8世の例をあげ、もしもカミラ夫人と結婚するなら、エドワード8世のように王位継承をあきらめるべきだという論調を作り出しています。こんな時代なのに、今さら離婚歴のある人は王妃になれないなんて考え方は古すぎるような気がしますが……。

 古いと言えば、日本の皇位継承法は、もっと古めかしいですよね。イギリスの国王は、現国王がエリザベス2世であることからわかるように、女性にも王位継承権があります。(ただし、直系男子優先。)しかし、日本では女性の皇位継承権は剥奪されています。もしも、イギリスと同様の継承法にするなら、皇位継承順位は、皇太子、秋篠宮についで、第3位に秋篠宮の長女のまこちゃんが来て、第4位に次女のかこちゃん、第5位に紀宮という順番になるのですが……。(1999.9.9)

<第69号:お札に書き込みする犯人は……> 第37号でお札のことに触れましたが、その中でお札に数字が記されており、計算用紙代わりに使われているのではと書きましたが、先日その犯人がわかりました。なんと犯人は銀行員でした。

 いつもは払い込みを小切手でしていたのですが、今回たまたまある支払いを現金でしたところ、受け取った銀行員が紙幣の入っている引き出しを開け、そこからキリの良い枚数になるように紙幣を取り出し、私の渡した紙幣と合わせてその一番上の紙幣に枚数を書き込み、輪ゴムで止め、再び引き出しにしまいました。実際には銀行員だけでなく、もちろんいろいろな人が紙幣に書き込みをしているのでしょうが、とにかく日本の銀行ではまず見かけられない光景で、ちょっとびっくりしました。(1999.9.8)

<第68号:水いろいろ> イギリスは日本に比べたらかなり乾燥しているので、外を歩いているとかなりのどが渇きます。こんな時、日本なら「十六茶」か「爽健美茶」というのが私の選択だったのですが、さすがにこちらではそうはいきません。はじめのうちは、ジュースやコーラなどもよく飲んでいたのですが、後口が悪いので、結局ミネラル・ウォーターが一番いいという結論になりました。今では、出かけるときにはいつでも500ccのペットボトルをカバンに入れていくようになりました。

 で、いろいろ飲んでいるうちに味の違いに気づくようになってきました。よく出回っているのはやはり「エヴィアン」ですが、これはあまりおいしく感じません。息子に言わせれば、「エヴィアンなら、水道水の方がまし!」とのことです。ともに硬水なので、軟水に慣れた日本人の口には合わないのでしょう。最近では、「エヴィアン」しか水が売っていない場合は、ちょっと我慢して他のところで買い求めるようにしています。割においしいなと思うのは、「ヴォルビック」や「ハイランド」でしょうか。

 上で書いたことからわかるように、水道水はそんなにおいしくはないですが飲めます。よく外国で生水を飲んではいけないと言われますが、イギリスの水は大丈夫です。もっとも、石灰分などが多いので、そんなにお奨めできませんが……。紅茶も日本茶も注いでしばらく放っておくと、石灰分とお茶の成分が化学反応を起こし、色が全く変わってしまいます。(1999.9.8)

<第67号:かなりすごいぞ、「アルバート・メモリアル」> ロイヤル・アルバート・ホールの向かい側に「アルバート・メモリアル」(ビクトリア女王の夫君だったアルバート公の記念碑)があります。お世辞にもあまり美しいとは言い難かったビクトリア女王を誠実に愛し、国政上もよき相談相手としてビクトリア女王を支え、1861年に41歳の若さで亡くなってしまったアルバート公を偲んで、ビクトリア女王が1876年に建てたものです。アルバート公はロンドン大博覧会――アルバート公が生前にもっとも力を入れたイベントーーのカタログを膝に置いた姿で座っています。このアルバート公の像は金色にきらきら輝いています。ビクトリア女王としては、最大限の愛情をこうした形で示したつもりかもしれませんが、はっきり言って趣味がいいとは言えません。日本でも、豊臣秀吉が大阪城内に金の茶室を造ったことが有名ですが、秀吉のような成り上がりものならともかく、世襲で王位を継いだ人にしては安っぽい趣味だなあと感じました。

 まあでも、その程度のことだけならそれほどたいしたことでもないのですが、この記念碑のすごさは周りの文字や像をじっくり見ていくとわかってきます。このアルバート公像の上には屋根のような部分があるのですが、そこにはビクトリア女王と思しき人の絵が描かれ、そのすぐ下に、"QUEEN VICTORIA AND HER PEOPLE"と書いてあります。で、さらにその下にずっと視線を移していくと、アルバート公像の周り四隅に工学、農業、製造業、商業を表す像があり、全体の台座になっている部分にビクトリア時代のイギリス人だけでなく、古今東西のーー主としてヨーロッパですがーー著名人たちがレリーフとして彫り込まれています。ソクラテスもいれば、ダビンチもモーツアルトもいます。こうした人々がすべて「ビクトリア女王の人民」と受け取れるような記念碑なのです。さらに驚くことには、記念碑全体の四隅にも4つの大きな彫像があり、それはそれぞれヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアを表しています。つまり、この「アルバート・メモリアル」は、ビクトリア女王が世界を支配しているというコンセプトの下に造られているわけです。19世紀後半の大英帝国の自信と傲慢さが見事に表れた記念碑と言えるでしょう。(1999.9.8)

<第66号:やっぱり涼しいイギリスの夏> 日本では残暑が厳しい頃でしょうが、こちらは涼しいです。8月の上旬ぐらいまでは、26〜27度くらいまで気温が上がる日が結構あったのですが、最近は雨も多くせいぜい22〜23度ぐらいまでしか上がりません。夜なんかは家にいても、セーターが欲しくなります。今年の夏は残暑知らずです。それにしても、このまま秋に突入するかと思うと、ちょっと寂しいですね。日本のあのむし暑い夏が恋しいような気持ちにもなります。

 しかし、この気候が草花にはいいようで、一時は乾燥気味でずいぶん茶色になって心配していた芝生も、すっかり青さを取り戻してきました。5月末から咲き始めたバラもまだ咲いています。まさかこのまま冬まで咲いているなんてことはないでしょうが、長くもつものだと驚いています。(1999.8.17)

<第65号:天井桟敷の人々> 有名なロイヤル・アルバート・ホールでコンサートを聞いてきました。バイオリンとピアノだけのシンプルな演奏でしたが、わかりやすくて良かったです。後半演奏が一段落したところで、子供がトイレに行きたいというので、仕方なく席を離れました。きちきちの席なので、周りの人たちに謝りながら、通路までなんとかたどり着きました。こんな会場に子供を連れてくる方が悪いと言えばその通りなのですが、なんか窮屈すぎる感じがしました。トイレが済んでも、さすがにもう同じ席には戻れないので、立ち見の天井桟敷で聞くことにしました。

 でも、ここが予想以上に良かったです。天井桟敷で聞いている人たちって、ちゃんとした席で聞いている人より、音楽好きなんじゃないでしょうか。服装はみんなリラックスした格好で、サンダル履きの人や、寝転がって聞いている人たちもいましたが、思い思い好きに楽しんでいる感じがして好感を持てました。私たち親子も、ちゃんとした席でしゃちこばって聞くより、ここの方がいいねなんて話していました。音楽って、本当はこんな風に気楽に楽しむべきものではないでしょうか。(1999.8.17)

<第64号:マルクスの頭> ハイゲイト墓地にカール・マルクスのお墓があります。マルクス主義を信奉している者にとっては、ある種の聖地のような所です。私も立場は異なりますが、長年運動論に携わってきた者として、ぜひ一度は訪ねてみたいと思っていたところでした。

 行ってみて驚いたのですが、その墓には、巨大なマルクスの頭が乗っていました。マルクスの像がと言いたいところなのですが、胸像と言えないほど頭の部分だけの像なので、私には頭が乗っているとしか表現できません。大きな直方体の石の上にマルクスの頭が乗っているその墓は、まるでマルクスが石のロボットか何かなってしまったような印象でした。造った人には、何か意図するところがあったのでしょうが、正直言ってあまりセンスのいいお墓だとは思いませんでした。

 平日の昼間だったせいもあるのでしょうが、見に来ている観光客も少なく、花すら捧げられていないマルクスの墓を見ていると、嫌でも「マルクス主義の凋落」に思いは至ってしまいました。(1999.8.13)

<第63号:「ゲーセン」はないだろう……> ウエストミンスター橋を西から東に渡った所に、旧市庁舎があります。バブルの頃に日本の不動産会社が買い、ホテルにする予定だったようですが、資金が行き詰まり、一部はマリオット・ホテルになりましたが、後は水族館と、そしてなんとナムコのゲームセンターに使われています。20世紀初頭に建てられた優雅な建築物の中に、「ゲーセン」ですよ。その貧困な発想に、私はほとんど涙が出そうになりました。多少日銭稼ぎにはなるのでしょうが、歴史と周辺環境を無視したほとんど暴挙とも言える使用法ではないでしょうか。

 それでも「何でも見てやろう」の精神で中に入ってみたのですが、そこは日本のゲームセンターとほとんど変わりがありませんでした。セーラー服を着た少女が画面に現れる機械もいくつかありました。私以外日本人がいなかったこととお客さんが少なくがらがらだったことがせめてもの救いでした。(1999.8.11)

<第62号:足が痛いときはバスが一番> 5月頃からかなり町を歩き回っていたので、最近になって足の裏が痛くてちょっと歩きにくくなってきています。地下鉄の乗り換えでも、上に行かされたり、下に行かされたり、結構歩き回らされるのでしんどいです。今、お気に入りはバスです。特に車掌さんがいて後ろからぱっと乗り込める旧型車両がいいですね。正規のバス停でなくても、バスが止まっているときなら、乗り込んでも降りても、何も言われません。1〜4ゾーンのOne Day Travel Cardを持っていれば、すべてのバスに乗り放題ですので、行きたい方向だけ定めて適当に乗っても、適宜乗り換えれば、大体行きたいところに行けます。(最短コースで行きたい場合は、ちゃんとバスマップを見た方がいいと思いますが。)行きたい場所の一番近そうな所でバスが止まっているときに、ぱっと降りてしまえば、あまり歩かなくて済むというわけです。(1999.8.11)

<第61号:カンブリアの石> 旅行の話に戻るのですが、湖水地方はカンブリアという地域にあります。カンブリアというと、「カンブリア紀」という化石時代の名にも使われていることからわかるように、非常に古い地層から成っています。行ってみてよくわかりましたが、本当に岩盤ばかりの土地でした。木なんかとてもじゃないけれど大きく成長できるような土地ではありません。芝生も妙に固いなと思ったら、芝生のすぐ下が全部岩になっているのです。

 この岩盤は、簡単に剥がれるように割れます。その剥がれた石は、よく図鑑などで化石が入っているようなものばかりなのです。思わず子供たちと何かの化石が入っていないかなと探してみましたが、よくわかりませんでした。この石は石同士でぶつけると、容易に割れ、石包丁に使えそうな鋭利な小片ができます。きっと大昔の人はこうした石で肉とかを切ったんだろうなと想像できました。カンブリア紀の化石探しと原始時代の石器作りというのも、湖水地方のしぶい楽しみ方ではないでしょうか。(1999.8.11)

<第60号:生・日食速報> 「日本食堂」の速報ではないですよ。太陽が隠れる「日食」です。もちろん、日本でも中継があったことと思いますが、今日こちらでは画面を通してではなく、直接日食を観察できました。イギリスで皆既日食が見られたのは南西部の一部だけでしたが、ロンドンでも96%ぐらいは隠れましたので、なかなか見応えがありました。ちょうど雲が適度に出ていたので、雲をフィルターにして細い三日月状態になった太陽を肉眼で見ることができました。直接見てはいけないとわかっていても、やはり見たくなってしまうものです。皆既日食だと一時的に本当に夜のようになってしまうようですが、4%でも光があるとそこまでのことはなく、弱々しい太陽って感じでした。でも、三日月になった太陽っていうのも、なかなか感動的な光景でした。(1999.8.11)

<第59号:ウーのお家> 「ブーフーウー」って、若い人は知らないですよね。「3匹の子ぶた」って話なら知っているでしょ?あれを昔NHKが放映していたときに、3匹の子ぶたに「ブー」「フー」「ウー」って名前をつけていたんです。確かウーの声は、若き日の黒柳徹子がやっていたと記憶していますが、自信はありません。さて、そのブーフーウーがーー3匹の子ぶたがと言った方がいいかもしれませんがーー自分の家を造るのは、皆さん、ご存じですよね。長男のブーは藁の家、次男のフーは木の家、3男のウーは煉瓦の家を造り、狼の襲来を防げたのは、ウーの煉瓦の家だけだったって話です。

 今、近所でまさにウーの家のような煉瓦の家を建てているのですが、そのできあがっていく過程を見ながら、煉瓦の家って、本当にウーの家みたいに造るんだと初めて知って驚いている次第です。ものすごく簡単な造りなんですよ。煉瓦ブロックをセメントでくっつけて積み上げていくだけなんです。「えー、こんなに簡単に家ができあがっちゃうの!?」っていうのが、正直な感想です。日本でも、ブロック塀とかはこんな風に造っているんだろうと思いますが、こちらでは本体の家がこんな風にできてしまうのです。日本のような地震国では考えられないほどの単純な構造です。地震がほとんどない国だからできるのでしょうね。

 ロンドンを中心にイギリスには、古い立派な煉瓦造りの建築物がたくさんありますが、ああいう建物もこんな風に造られているのでしょうか?だとしたら、すごいと言うべきか、おそろしいと言うべきか……。これからは、こうした建物の中ではそっと歩くことにしたいと思います。(1999.8.10)

<第58号:日本人の緻密さ> 6月から8月にかけて、ロンドン中心部の環状線であるCircle Lineが走っていません。その上、Northern Lineも一部区間不通になっています。観光客の一番多いこの時期にもっとも主要な路線を工事のために不通にしてしまうなんて、日本では考えられないことです。もう慣れたとは言え、駅や車両内のインディケータの不正確さにも、急いでいる時はやはりイライラさせられます。「後3分」という表示が出てから10分くらい電車が来ないなんてことは日常茶飯事ですし、行き先の違う駅が表示されていることもしばしばあります。間違いなく北行きに乗ったはずなのに、南の終点駅がインディケータで表示されていて、ドキッとしたなんてことはもう何回もあります。

 日本で当たり前のように享受していた正確さをこちらではなかなか享受することはできません。しかし考えてみれば、時間通りに電車が来たり、乗り口に合わせてピタッと電車が止まるなんて、世界的に見ても珍しいのかもしれません。こうした日本人の緻密さ、正確さは、どこから来ているのでしょうか?狭い国土を有効利用しなければならなかったから?向上心が強いから?教育の成果?この解答はなかなか難しいように思います。しかし、日本人が器用で優秀な民族であることは間違いないでしょう。特に細かい作業に向いていることは、その製品が証明してくれます。車、家電製品、オーディオ機器、ビデオ、カメラ、コンピュータ・ゲームなど、器用で緻密な日本人の特質が製品に反映されたものは、国際的な競争力が非常に強く、日本製品が最良品としての評価を受けています。ブランド品などを買いあさり金をむやみに使う日本人は好感を持たれませんが、優れた物を作り出す力を持つ日本人は好感を持って受け入れられています。消費大国になるのではなく、やはり優れた物を生産できる力を持ち続けなければならないと思います。

 よく日本の教育は画一的だと言われますが、一人の天才を生み出すより、百人の優れた凡人を生み出すような教育をしているのだと思います。それゆえ、ノーベル賞をもらえる人は少なくとも、電車は時刻通り走るし、SONYは世界のSONYになれたのだと思います。どっちの教育がいいかは価値観にもよるでしょうが、社会全体の底上げのためには、日本の画一教育も一概に悪いとは言いいきれないように思います。(1999.8.9)

<第57号:なんであんなに肌を痛めつけるのだろう?> Tattooのことは15号でも書きましたが、もうすっかり見慣れてしまいました。(でも、あいかわらず好きにはなれません。)ロンドンの中心部に出かけて、入れ墨をした人に一人も会わずに帰ってくることはまずありません。Tattoo Studio もあちこちで見かけます。今は、漢字入れ墨が人気なのか、しばしば漢字の入れ墨をした人に出会います。でも、みんな稚拙な技術でなされた入れ墨ばかりです。もし日本のその筋の人が入れ墨を見せて歩いていたら、きっと"Beautiful!"とか、"Incredible!"とか言われて、賞賛されることでしょう。(まあ、私も日本の本格的な入れ墨はまともに見たことはないので、ヤクザ映画のイメージで言っているのですが……。)

 入れ墨とともに気になるのが、ピアスと日焼けです。耳のピアスはまあ仕方ないとしても、唇に鼻に眉毛にとどうしてあんなに穴を開けたがるのでしょうか?先日も新聞で、ピアス穴を開ける器具はきちんと消毒されていないものが多いし、開けた穴から黴菌も入りやすいので、非常に危険だと書かれていたのですが……。日焼けの方も気になります。日照時間が少ないので太陽が出ているときに日光浴をしたいという気持ちはわからなくはないのですが、皆さん無防備に焼きすぎています。白人の白い皮膚は焼けやすく、若い人でも顔、背中、腕とシミだらけになっている人がたくさんいます。なんで、こんなに肌を痛めつけるのでしょうか?そこには、それに見合うだけの一体何があるのでしょうか?(1999.8.8)

<第56号:好天に恵まれたけれど……> 私は基本的に「晴れ男」なので天気には恵まれるのですが、5月の末にコッツウォルズの方へ行ったときは、雨に降られかなり寒かったので、今回は同じ轍は踏むまいと、コートまで詰め込んで出かけました。幸い「晴れ男」の面目躍如で、好天に恵まれほとんど半袖を着て過ごしました。しかし、予想以上の天気の良さで、スコットランドではここはどこだろうと首を傾げたくなるほどの暑さでした。旅行は天気次第と言われますので、今回は本当についていたと思います。

 今年は例年に比べ、イギリスは雨が少ないそうで、公園の芝生も枯れ気味です。うちの庭も旅行から帰ってきたら、大分水不足で苦しんでいましたので、大急ぎで庭に水撒きをしました。これから徐々に雨も増えるのではと思いますが、今のままだとちょっとDraught気味になってしまうのではと少し心配しています。(1999.8.8)

<第55号:Fountain Abbey> 今回の旅行でいろいろ魅力的なところを回ってきましたが、穴場的な場所をひとつ紹介しておけば、ヨークから車で40分くらい北西に行った所にあるFountain Abbeyでしょう。ここは中世の寺院跡で、屋根は崩れてなくなっていますが、壁はしっかり残っているので、その偉容が十分偲ばれます。こうした寺院跡としては、ヨーロッパ最大級のものだそうです。敷地内には、かなり大きな池や川や牧場もあり、のんびり過ごすのにはもってこいの場所です。ナショナル・トラストの所有になっているのですが、毎年もっとも訪問者の多い施設だそうです。日本人観光客は、ヨークをはじめこちらの方面にはあまり来ないようなのですが、結構いい所なので、お奨めしておきたいと思います。(1999.8.8)

<第54号:犬のしつけはいいのに……> こちらの犬はよくしつけられています。通りすがりに吠えられることも、じゃれつかれることもまずありません。日本では、突然吠えられたりじゃれつかれたりで、あまり犬に対して好印象を持っていなかったのですが、こちらで犬の印象がよくなってきました。ところが、これに引き替え、子供たちのしつけが……。特に電車やバスなどの公共交通機関の中が良くないですね。手すりにぶら下がって遊ぶ子、はしゃぎ回る子、バスから外の人たちに向かって奇声をあげる子など、眉をひそめたくなるような子供たちに、最近続けざまにでくわしました。

 子供だけでの外出は許されない国なので、親かあるいは親でなくとも大人の監督者はいるのですが、やさしく「やめなさい」というだけなので、子供たちはちっとも聞きません。日本ならもっと厳しく注意するような場面でも、小声で"Don't do it, please!"と言うだけです。確かに、あまり厳しく叱る親も見たくはないのですが、もう少しなんとかならないものかと疑問に思っています。こういう状況を見ると、B&Bの案内などで、犬はOKだけど、10歳未満の子供はだめなんて条件がついている所があるのもうなづけます。(1999.8.7)

<第53号:自分のベビーカーを押す幼児> こちらの人は、日本人の感覚で言えば、十分歩けそうな子供でも、ベビーカーによく乗せています。込んでいるところではベビーカーに乗せ、広場などではベビーカーから下ろし、好きなように歩かせています。結果として、しばしばおもしろい光景を見かけます。自分のベビーカーを押して遊ぶ子供、ベビーカーに自分で乗り込み、まるで車のシートベルトを締めるように、自分でベビーカーのベルトを締める子供など、日本ではあまり見られないシ−ンではないでしょうか。双子用のベビーカーもよく見かけますが、必ずしも双子が乗っているとは限りません。年子くらいの子供が乗っている場合も多いのです。これも日本ではあまり見られない光景かと思います。ベビーカーの利用年月が長いので、こういうアイデアも出てくるのでしょう。

 私たちもそうでしたが、日本では小さな子供がいると出かけるのをあきらめる傾向がありますが、こちらではそんなことはないようです。アウトドア好きな夫婦は、ベビーカーに子供を乗せて、どこにでも出かけていきます。おんぶやだっこでは、そう遠くまでいけませんが、ベビーカーがあれば大丈夫というわけです。社会のシステムもそれを受け入れていて、地下鉄などにベビーカーをそのまま持ち込んでも何も言われません。(もちろん、混雑する時間帯などは、皆さんちゃんと避けて乗っています。)日本なら「ベビーカーはたたんでください」と言われてしまうのですが……。(1999.8.7)

<第52号:スコットランドの首都・エディンバラ> スコットランドの首都・エディンバラは、ロンドンとは雰囲気の異なる街でした。街自体が起伏に富んでおり、その中心には中世そのままの城が厳然と建ち、バグパイプの悲しいような楽しいような音色があちこちで流れているところから、そんな風に感じるのかもしれません。エディンバラ城は中もいいですが、Princes Street Gardensの方から見上げると、その偉容をもっとも強く感じます。火山岩の上に建つ石造りの城は、見ているだけで圧倒されます。その他にエディンバラですばらしいと思ったのは、カールトン・ヒルからの眺望です。文字通り360度見渡すことができます。「エディンバラはすばらしい」という感想を行った人から聞いていたのですが、納得しました。(1999.8.6)

<第51号:湖水地方の日本人> 旅をしてきました。日本にいたときからぜひ行ってみたいと思っていた湖水地方とスコットランドへ。湖水地方と言ってもわからない方でも、あのピーター・ラビットの物語を書いたベアトリクス・ポターが住んでいた地域で、ピーター・ラビットの物語は、この地域を舞台に書かれていると聞けば、大体イメージが湧くのではないかと思います。

 最近この地域は日本からの人気のツアー・コースとなっているので、日本人観光客がたくさんいるだろうと思っていましたが、予想通りでした。ただし、日本人観光客に会う場所は限られていました。もちろん、ピーター・ラビットに関係した所には、たくさんの日本人がいました。「ベアトリクス・ポターの世界」というエンターテイメント施設では、紹介ビデオがなんと日本語で流され、イギリス人たちがヘッドホーンで英語を聴くという信じられないサービスまで行われていました。これで、いかに日本人がたくさん来るか想像していただけるでしょう。おみやげもの売場の日本人は目に余るものがありました。ある中年の婦人はおおげさではなく山のようにおみやげを(それも同じ種類のものをほとんど根こそぎにするといった感じで)買っていました。ちょっと顰蹙ものでした。同じ日本人であることが正直言って恥ずかしかったです。こういう買い物風景を見ていると、日本人のお金の使い方が好感を持たれないのも当然だろうなという気がします。

 もしも本当に湖水地方を味わいたいと思うなら、ピーター・ラビット関係は無視して、湖の周りをサイクリングやドライブしたり、湖にボートを浮かべたり、水際で遊んだりすることをお奨めしたいと思います。(1999.8.5)