日々雑記


南都藤原大仏師法橋侍従

2023-12-1

ずいぶん昔、島根で見た制多迦童子像の足枘銘。もとは北野天満宮寺の護摩堂にあった不動三尊像。

探すと、色々事績が出てくる。
慶長13年醍醐寺如意輪堂如意輪観音像(侍従良賢)、慶安3年長谷寺御造営方諸色入用銀目録、元禄6年『正倉院御開封記録』にみえる英慶法橋、号侍従など。
東寺五重塔塔本四仏像も視野に。

変わったところでは、「久重茶会記」寛永8年卯月朔日晩の茶会は、亭主が大仏師侍従。掛物は藤原定家『後撰和歌集』断簡。

仏師とはいえ、流石に町衆。

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甚助

2023-12-2

『奈良町北方二十五町家職御改帳』をみると、小西町に「仏師屋仕候」甚助がいる。
周辺を探すと北御門町や東笹鉾町の寺院に「山口甚助」の作例。これこれ・・・。

別件で、鈴木喜博「岡寺仁王像の修理後の新知見-銘文と構造」(『鹿園雑集』10)を読んでいると、吽形像に正保4年(1647)の年記と「作者南都小西甚助」。ほかには京大仏三介、同徳右衛門。

やっぱり奈良小西町の甚助かなぁ。

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近世奈良町の仏師

2023-12-3

奈良市中部公民館で講演。
非常にマニアック(仏像オタク)な演題。

講演前に職員氏らと生まれ故郷で話すのは初めてと、ちょっとだけ紹介し雑談に及ぶ。

講演では、中部公民館のある上三条町にも「与右衛門」なる仏師がいたことも紹介。最後は椿井仏師の東大寺再興まで。仏師に限らず近世奈良の話はいろいろと面白い。
講演後、この件をご紹介下さった西山厚先生と色々と懇談。

後日、公民館館長から心温まる御礼状が届き、感謝。

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レジュメ

2023-12-6

近づく稲敷市のシンポジウム。

過日も茨城新聞に各パネラーの講演概要を書いたばかり。他の先生方の講演概要の記事も送っていただいた。

大ホールで行うので、パワポだけでいいと思っていたところ、レジュメが必要とのこと。
既にパワポが出来上がっていたので、講演内容に沿って大急ぎで作成、送付。

誤字脱字のチェックをしながら、康祐が余計な事をしなかったならば、仏師人生を全うしたはずなのだが・・・としみじみ思う。

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シンポジウム

2023-12-9

歴史民俗資料館シンポジウム「稲敷市に花開いた近世仏教芸術の諸相」。

昨晩、龍ケ崎市のホテルに投宿。目覚めると、この光景。遠くまで来たものである。

公用車で会場へ送って頂き、濱島正士先生(建築)、佐伯英里子先生(絵画)、中川仁喜先生(コーディネーター)と共に楽屋へ。

雑談で「もう大学の講義並みの時間だからパワポもたいへん」と。ん?
チラシを確認すると、こちらは13:50~15:20(90分)。ありゃ、~14:20(30分)じゃなかったのか。

平静を装い、館外に出て一服。
持参パソコン(有)、持参の彫刻史USB(有)ということで楽屋にて急遽パワポを増強。
モニターに映る他のパネラーの講演を聞きつつ、講演内容に沿って20枚ほど追加。
お昼前に完了。

午後の講演は無事に終了、安堵。
よく知る関係者曰く、「フツーに話されていましたが、これまで調べられた史料(の裏付けによる講演)でしたね」と。
シンポジウムでは、補足説明と質疑応答。総じてこれからの新(最先端)領域であることが強調。行政現場関係者向けでもよいほどのシンポジウムの内容であった。

終了後、龍ケ崎市駅前で関係者と一献。

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七條大仏師大蔵卿康温

2023-12-11

七条西仏師康温。

近世七条西仏所は、康清がやや信のおけない人物であったので、西仏所内で混乱を生じて16世紀後半以降に没落し、中仏所が勢力を伸ばしたと理解されている。

ただ16世紀後半以降、京都の実権を握る人物が誰であるかは未確定であって、絵師や仏師も時世に応じて生きぬくことしか出来なかったのではないか。

狩野派だって永徳の死後、山楽、光信、孝信に分かれて生存を図った。西仏所も信長・秀吉らの戦国武将、石山本願寺などで制作し、音湛は江戸に向かい、その後も日蓮宗寺院で活動、造像依頼者の多角化を図って生き延びようとしたのではないだろうか。

七条西仏所は、時代に見る目が敏であったゆえの不幸かもしれない。近世、中仏所が正流となり、西仏所は町仏師駒井として命脈をつないでいったように思われる。

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ゼミ分けガイダンス

2023-12-13

午後、ゼミ分けガイダンスあり。
来年は5名で、卒論テーマはばらばら。

今年に比べれば、何とかなるだろう。

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正木直彦

2023-12-15

上京。某所で講筵、講筵前に東京藝術大学で正木直彦像を拝見。

正木直彦は堺市生まれ。
個性的な作家の卵が集う東京美術学校の第5代校長を1901年から1932年まで務めた。
「正木先生と言えば美術学校、美術学校と謂へば正木先生、(中略)美術学校の発達、美術其のものの発達、美術を学校化したところの其の御功績は、若し維新以後の美術のことを述べ、若し明治中年以後の美術史を叙するに際しては、正木先生が其の重要なる位置を占めると云ふことは信じて疑いませぬ。」とまで言わしめた人物。

正木直彦像は、陶磁彫刻家で同校教授の沼田一雅が3年かけて昭和11年(1936)に完成した作品。京都にあった国立陶磁器試験所で製造。
何でもいいけど、工芸科(陶芸)と文化財保存学専攻合同でホコリを払わなくきゃ。

その後「大学院美術研究科博士審査展」を見て緊張も解け、講筵も巧くいった。帰阪。

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神仏混淆像

2023-12-17

知己の学芸員氏から仏像の問い合わせ。

「大永三年(1523)卯月吉日」、「甲斐国住人跡部惣二郎木作」の観音立像。俗人仏師でしょうかと。
大永3年、俗人(仏師)で問題ないと回答。

その後何度かやり取りがあって、地域にお住まいで、修復もされる仏師さんが「御神木」じゃないかと。御意!
大腿部中央やや下に大きな節。節があると大切なノミの先が欠けるので、専業仏師は嫌がる・・・と写真をみながら説明していると、天冠台(紐2条+列弁帯)も肉髻と地髪との際に彫られている。
「節子、それ髪際やない。肉髻や。」と思わず呟く。

神仏混淆像と思える像。内刳りも背面に対して垂直に彫り込み、平滑に浚って墨書。角材を抜き取ったような内刳りも既に某所の神像でみた。

造仏僧が活動していた地域で、俗人(仏師)の活動はある程度予想していたが、大永3年という早い時期に活動していたとは。

どこかで神仏混淆像展、やらないかな。

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耳切り事件

2023-12-18

西洋美術史は今日からゴッホ。
パワポを作ったら、98コマにも及び、前半と後半に分けるしかない。
中途半端に授業が終わると、前回の復習から始まり正直、面倒くさい。
あれこれと語りながら、無事「耳切り事件」まで終える。

授業の後片付けをしながら耳を切ったのは、ゴッホと明恵上人くらいかと思う。
「いよいよ形をやつして、人間を辞し、志を堅くして如来(釈尊)の跡を踏まむことを思ふ。然るに、眼をくじらば聖教を見ざる嘆きあり、鼻を切らば洟垂りて、聖教を汚さん、手を切らば印を結ばむに煩ひあらむ。耳は切るというとも聞えざるにあらず。しかも形を破るにたよりあり」(『明恵上人行状』)。

次週に紹介しようと思ったが、過去の悪例ー「(「比叡山」や「洛北修学院村」などは)速水御舟の『青の時代』ですねとコメントしたら、ピカソとなぜ関係するのですか?」と聞き返されたーもあるので、やめることに。

次回の講義はレジュメを忘れないように。

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棕櫚・椰子

2023-12-20

昨夕、授業が終わって関空。
ANA1739にて那覇。その後ゆいレールで23:40にホテル着。荷物を置いて一息つくと日付が替わる。
朝、フロントにキーを返しチェックアウトと告げると聞き返された。滞在僅か8時間。言わずもがな観光ではない。

午前中は材質調査。ヒノキ、クスノキ(中国?)と仮判断ー薄葉紙に散らばる小片で最終確認ーし、問題の樹種。
どうも”樹木”ではないらしい。 棕櫚や椰子のような”植物”。確かに棕櫚や椰子に小枝はない。
その他、意外な樹種が使われており、記録にみえる時期と材木流通の動向と一致。

遅い昼食を済ませ、午前中から置いてある仏像を見ながら学長先生を交えて会議。
午前中の棕櫚や椰子の話をすると、学長先生曰く、「過去に棕櫚で(彫刻を)彫ったことがあります」と。もうびっくりである。

いくつかの発見や確認もあり、無事に会議終了、空港に向かい最終便で帰阪。

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ベツレヘムの星

2023-12-25

ベツレヘムでイエスが誕生すると、頭上の空で星が輝き、東方の三賢者(博士)がそれを見てイエスの誕生を知る。

三賢者は贈物を持って星に導かれてエルサレムに辿り着き、ヘロデ王に会い「ユダヤ人の王として生まれた男の子はどこですか?」と尋ねる。
「知らん。でも分かったら帰りに教えて」と答える。
三賢者はそのまま星に導かれてベツレヘムでイエスに贈物を渡し礼拝後、神からヘロデのもとへ寄ってはならないとのお告げにより別の道でそれぞれ帰る。

そのことを知ったヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男児を皆殺し。ヨセフの夢に天使が現れて、この災難を語ったので、ヨセフは子イエスとマリアを連れてエジプトへ脱出。

ケーキ屋でバイトしている芸美の学生、「聖書も読まんと、クリスマスって言うな!」。
けだし名言。なんか似た話(2021-12-21 不思議なクリスマス)、聞いたことあるぞ。
バイトも多忙中のピークとの由。頑張れ。

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衆愚の関西経済

2023-12-27

関西経済同友会の代表幹事が、コロンビア大学ビジネススクール教授の講演を聞いて「ピカソの画風が変わった理由」として「カメラが登場したから」と話している。「社会の変化、イノベーションに対して自分たちがどう対応するか」とも。
講演するほうも真に受けるほうも、なんだかなぁと思ってしまう。

一般には、ピカソの画風変遷は付き合っていた彼女や妻の遍歴に対応。
「写真は写真、絵は絵」と絵画の独立?を果たしたのはカイユボット「パリの通り、雨」(1877年)の頃。小説家のエミール・ゾラに、写真すぎないか、写真でええやんと批評されている。第1回印象派展(1874年)会場は、写真家ナダールのスタジオ。
その頃のピカソ(1881年~1973年)はまだ生まれてもいない。

なんだか周回遅れの与太話を記事にする方も衆愚極めり。誰か社内で助言する人はおらんかったのか。

ちょっとは木村泰司『西洋美術史』『名画の読み方』でも読め。

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仕事納め

2023-12-28

午後より卒論演習(補講)。3名来室。

ともかく終わった・・・。
本日で仕事納め。お持ち帰り資料をまとめて帰宅。

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