日々雑記


ニワトリ

2021-10-1

小川一真出版部『東京風景』(1911年)をめくっていると、東京美術学校の授業風景が掲載。 手前の学生のかたわらに刷毛や筆が並んでいるので、日本画科だろう。

よく見ると、奥には縦長の鳥かごに入った2羽のニワトリ。周囲に6人ほどの学生が鳥かごを囲んでいるので、写生実習である。

たまたま、必要あって『百年史 京都市立芸術大学』を借りていたので、当時の美術工芸学校絵画科(1909年)の写真(10頁)を見ると、やはり中央に四角い鳥かごに入ったニワトリ2羽。
恩賜上野動物公園は1882年、京都の岡崎動物園は1903年の開園だが、教室内でも写生用の動物(ニワトリ)を飼っていたのだろうか。

ゼミ後の雑談で「え~、来週からゼミでニワトリを飼います。〇〇さんは来週から1週間、エサ当番でお願いします。」と言うと、「えっ?」「また何で?」とけげんな表情。
事情を話すと、「うちらは文章を書かんとアカンのです」。はい、その通り。
「でも誰がエサをあげていたのでしょうね?」「学生?」とも。

「今週と来週、横山(大観)君がニワトリのエサ当番です!」と橋本(雅邦)先生が指名していたら、面白い。

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履修表

2021-10-3

終日、事情あって自宅部屋を大掃除。
引き出しの奥から古い「通信簿」や「履修表」などが出てきた。

「履修表」は、左1/4ほどに現在の履修科目、その下に習得履修数や「卒業見込み」などが記載。「卒業見込み」とあるので5回生の時のもの。形式は今とほぼ変わらない。
確か、前年度はこの欄に「残留決定」とあったはず。 残り3/4には、当時履修した科目名が並ぶ。習得履修数はこの段階で150単位近く。卒業単位は124単位だが、前年は卒業できなかった・・・(語学科目の単位不足)。

「通信簿」と「履修表」を比べてみると、大きな違いがひとつ。
「通信簿」(小中高)の右にあった「ハキハキと返事ができる」「人にやさしい」「思いやりがある」「コミュニケーションが取れる」「協調性がある」などの欄が、当たり前だが「履修表」にはない。

でも、社会に出ると、「履修表」にはない「通信簿」の右側が大切であると思う。
就活の面接等でも尋ねられるのは「これまで一番”コミュニケーションが取れた”ことを述べて下さい」などと右側ばかりの質問。どの企業でも習得科目名や秀・優・良・可の数など聞きはしない。
極論ながら、学生時代は人並みに習得履修数を揃えつつ、後は見えない「右側」を如何に充実させるかにかかっていると思う。無論、昨今、英語は最小限必要。

高校時代を振り返っても、人から「思いやりがある」といわれるよりも英語が「3」から「4」に上がったことのほうがよほど嬉しかった。けれども、20歳を過ぎる頃から意識的ではないものの、他人から「思いやりがある」「人にやさしい」と言われることのほうが、だんだんと嬉しくなっていった。

現在の学生は、そうした違いを意識しているのだろうか。とはいえ、「履修表」右側にそんな欄があると、こちらも学務の上で重要な支障が生じること必至。

奥から「まだ(終わらないのか)~?」との声が聞こえる。大急ぎで後片付け、続行。

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特許権侵害?

2021-10-5

過日のゼミで、ビロード友禅(天鵞絨友禅)の質問。

天鵞絨友禅は、明治11年(1878)頃に12代目西村總左衛門(現在の「千總」)が開発、製造したもの。岸竹堂らの日本画家に下絵を依頼して、天鵞絨友禅の意匠の刷新を図った。
竹内栖鳳下絵《ヴェニスの月》タペストリーも天鵞絨友禅で、明治40年(1907)にロンドンで開催された「日英博覧会」に出品された。出品者は飯田新七(高島屋)である。

質問は天鵞絨友禅が西村總左衛門の発明した技法ながら、なぜ出品者は飯田新七ですか?である。「調べてみて下さい」と言ったものの、その前にも竹内栖鳳下絵の天鵞絨友禅が飯田新七の名でパリ万博に出品しており、西村總左衛門の名が見えない。西村總左衛門は高島屋の下請け?とも考えたが、西村總左衛門の経歴からみてそうではない。
色々と調べると、意外な事情がわかり、理解できた。

3代飯田新七の次女タカ(1893年生)は、12代西村總左衛門の養子である總太郎(後の13代目西村總左衛門・1911年に養子)の妻である。つまり12代西村總左衛門と3代・4代飯田新七の間柄は、親族?関係にあった。

親族を通しての特許使用。これでは誰も何も言わないはず。

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フランスでは常識?

2021-10-7

いっぱい仕事が溜まっているのに、いらんことに気づかなければよかったと、ちょっと後悔。

睡蓮で有名な「クロード・モネ」。1880年頃のモネとオシュデ一家の写真。めっちゃ子だくさん。
アリス・オシュデは2番目の妻。最初の奥さん(カミーユ)との間にはジャンとミシェルだけ。カミーユは病に伏し、ミシェルを産んでまもなく亡くなる・・・。
カミーユとの結婚(ジャンの出産も)はモネの父が猛反対したので、仕送りは途絶えて絶縁状態。
貧困のなかパリ郊外を転々とするなか、重病のカミーユ、ジャンと共に暮らすモネの家に突然、アリス・オシュデは6人の子供を引き連れてモネの家に居候。
はぁ?モネ、断れよ・・・。なぜか、モネは承諾。重病のカミーユ、かわいそうやん!
カミーユの死後にモネはアリス・オシュデと再婚。

そうしたところで上の写真。
待て待て。アリスの前に座っている少年はミシェル・モネ(お母さんはカミーユ)、アリスの右横にいる少年はジャン・ピエール(お母さんはアリス)。似てなくない?
どうやらよからぬことをモネはしていたようにも・・・。

このままでは講義ではなく、久々の美術スキャンダル講義(上村松篁の父は誰?)になるので、必死になって調べてみた。そうするとWikipédia(フランス語版)にces six enfants ne sont pas de Claude Monet (sauf peut-être le dernier, Jean-Pierre) とあった。
これ以上の裏付けをとると、マズいので紹介という形にとどめる。
「いらんことしぃ」のモネ。

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本日の失敗(1)

2021-10-10

夏を思い出させるほどの暑さ。

午前中、大学院入試。
予定より5分ほど超過し終了。
弁当をかっ込んで、百周年記念会館へ向かう。

今年度は明日香村中央公民館が耐震工事のため、教育後援会「飛鳥史学文学講座」が百周年記念会館に変更。
関係者(含 学長)に挨拶を済ませ、演題のパソコンへ持参のUSBを差し込むも当該ファイルが見つからない・・・。

大急ぎで個研に戻り、USBに当該ファイルをコピーして再び、百周年記念会館。

何とか講演前にスタンバイでき、講演を始めるも、途中で流れた汗が目に入る。
無事に115分の講演(途中、換気と休憩のため10分休憩)を終了。

終了してから百周年記念会館での開催でよかったと。
大阪-明日香村往復10分では済まず、大変な事態になったはず。

個研に戻り、ひとまず安堵。

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本日の失敗(2)

2021-10-12

スライド準備。

まぁ、秋学期の初年次授業(オンデマンド)はボロボロな気分。
学生が授業を舐めてるのか知らないけれど、20名ほどの受講生で、画像+音声をオンデマンドで上げており、毎回(音声で)課題を課しても反応するのは3、4名。残りはどうも受講していない模様。
もう一つの授業もオンデマンドながら、こちらはパワポ画面で最後に課題を提示。
ところが、頓珍漢な回答が寄せられる。どうやらパワポを最後まですっ飛ばして課題だけを提出。

そんなことをする癖が付くから全学部中、就職内定率が最低になるんやで。

今日も実質3、4名の受講生に対して「フレデリック・バジール」のスライドを準備。
バジールが戦死した後、モネがルノアール筆「フレデリック・バジールの肖像」を購入、第2回印象派展に「バジール追悼コーナー」が設けられ、バジールの肖像画を含む作品が展示される・・・。
ここで、クールベの肖像画がややボケていたので、過去のパワポから拝借し取り敢えず「一時保存」とするが、誤って「バジール」のパワポを「保存しない」にクリック。
改めて画面を見ると「過去のパワポ」が写っている。朝からの作業が無に帰した・・・。

落ち込みながら、夜半まで”修復”。

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新聞記事

2021-10-13

知己の研究者から新聞記事が送られ、この京都仏師「浅田」ってわかりませんよね?と問合せ。
新聞記事は昭和37年(1962)6月30日付某新聞。

記事によれば、体内からは「京都仏師、金屋こと浅田」、台座には「寺町四条下 髙(金)屋事、大仏師浅田忠べ」との墨書があるとし、関係者が京都に出向いて聞いてみるとある。 しかし今日までわからないまま。

「浅田忠兵衛」。どこかで見たような記憶があるも思い出せないまま。金屋忠兵衛も記憶にありそうな、なさそうな・・・。

もしやと思ってノートをひっぱり出すと、ありました!
天保4年 (1833)の『京都買物獨案内』「仏師」に「御仏像 御位牌 寺町四条下ル 金屋忠兵衛」と記載。
その旨を返信すると、さっそく地元に知らせますと。

昭和37年のことだから小林剛氏ぐらいしか、この時代のことは分からなかったはず。

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東京日日新聞

2021-10-15

新聞ネタをもうひとつ。

明治期の美術を語るうえで欠かせないのが、当時の新聞記事。
かつて卒論で竹内栖鳳を扱った学生が『京都日出新聞』の記事を確認したいために足繫く同志社大学図書館に通っていた(うちの図書館にはマイクロフィルムがない)。

このたびは『東京日日新聞』。
もちろんKOALAでは該当なし。やむなくググってみると「毎索(マイサク)」で検索・確認できるという。
学内のみながら、「毎索(マイサク)」は利用可能。

学生の喜ぶさまが目に浮かぶ。せいぜい利用して頑張ってくれたまえ。

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円覚寺仁王像

2021-10-18

明日から九州国立博物館で特集展示「手わざ-琉球王国の文化-」が開催。
昨日は記者発表もあったらしい。

そもそもだが、金剛力士像の研究は個々の作品については多数の論考が認められるが、仁王像の時代的変遷については、至文堂の倉田文作『日本の美術 仁王像』ぐらいしか思い当たらない。
南北朝・室町から近世における仁王像は、全くと言ってよいほど不明である。

今回の復元制作も「慶派風の仁王像ではないか」とおっしゃる研究者もいるが、院派仏師の確証ある金剛力士像を参考にしている。だから「慶派風の仁王像」であるとするなら、単なる印象ではなく、根拠を示した上の反論が必要だと思うのだが・・・。

空いた時間を見ながら、九博へ見学に行こうと思う。
写真は九博のtwitterから。奥の展示ケースには破片も展示。

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田舎者

2021-10-20

事情あって、ここしばらく家人の実家から通勤(家人ともども)。
大阪市近傍にあるため大学まで通勤時間は1時間弱。普段の半分以下。楽々である。

街中なので至極便利。ところが、ベランダに立っても遠景に山並みが見えない。民家の屋並みやマンションが遠くまで群立し、その隙間からわずかに生駒山がみえ「あっ、あっちが東か」と。

家人とそんな話をしていたら「絶対、関東に住まれへんで」と。上娘が東京近郊に住んでおり、家人は時折、遊びに行っている。

奈良の田舎育ちだからかもしれないが、窓から山並みが見えないのは、ちょっと寂しい。
家人の実家に居候するのももう少しである。

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調査

2021-10-23~24

昨年に引き続き、山岳地の仏像調査。

これまで長く仏像調査に携わってきたが、仏像も平安時代後期、台座の大半も平安時代後期というのは初めて。一応、町村指定にはなっているが、なぜ県レベルではないのかと訝しむ。

いくつもの平安・鎌倉時代の仏像を調査し、最後の作品。こちらも本体・台座・光背がほぼ平安時代後期の制作。
おまけに光背裏には同時期と思える“落書”。

とある集落にある御寺(無住)の仏像・什物が根こそぎ盗難に遭い、戸籍台帳ならぬ仏像・什物台帳を作らないといけないと危惧され、人を介してこちらに調査依頼があった。

これまで、これほど古い仏像が多数知られてこなかったのが不思議でならない。

山岳地ももうすぐ冬支度。春が来るまでに調査報告書を作成。

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比叡山戒壇院

2021-10-26

平素は閉扉している比叡山戒壇院が、今秋初めて、開扉。

戒壇院は、創建期以来その姿を留めていたが信長の叡山焼討に際して焼失、秀吉の庇護を受け叡山復興を目指し、まずは根本中堂と戒壇院が再建、延宝9年(1681)に戒壇堂が再建される。

内部は、延宝9年と思える僧形の文殊菩薩・弥勒菩薩の両倚像。中尊は同時期とみられる釈迦如来坐像であったが、損傷がひどく昭和62年に西村公朝氏が再興。

大講堂には旧戒壇院伝来と伝える銅造釈迦三尊像が安置されていたが、昭和31年10月の大講堂火災により焼失。〔『戦災等による焼失文化財 美術工芸編〔増訂版〕〕

大昔、学内発表で戒壇院内部の写真が必要になり苦労したことがある。ようやく見つけ出して複写して発表したが、「スライドが汚い!」と酷評。
発表内容(叡山戒壇院の重要性)が全く分かっていないと憤慨したことを覚えている。

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永観、遅し

2021-10-28

大学院での授業開始早々、院生が「永観堂の阿弥陀像はなぜ横に向いているのですか?」と質問。どうも禅林寺永観堂に行ってきたようである。

永観は阿弥陀如来像のまわりを念仏して行道(常行念仏)していた。ある日、阿弥陀如来像が須弥壇から降りて永観を先導し行道を始めた。驚いた永観は呆然と立ちつくしたが、その時、阿弥陀如来が振り返り 「永観、遅し」と声をかけた・・・と、説明。

「じゃ、永観堂オリジナル(独自)ですね」。
「いや、数は少ないけど、山形や埼玉・群馬などにもある。」
「永観が(各地に)行ったのですか?」
「そうではないが・・・」と、こちらがやや詰んだ状態。

ただ、永観堂の阿弥陀如来像は、頭部は胸の肉身部と着衣の境界で割り矧いでおり、下半身も袈裟と裙の境で割り矧いでいると説明。この発想が鎌倉彫刻の「身体と着衣の分離」に繋がるのですと述べて授業再開。
今日の授業テーマが「鎌倉彫刻の誕生」でよかった。伝香寺の地蔵菩薩像も紹介し、授業終了後、学生は納得の表情。

折を見て「見返り阿弥陀」を集成しないと。

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田村式部

2021-10-30

知己の研究者から「『田村式部』って、どういう仏師?」との問い合わせ。

京都から江戸に移った近世仏師は数多くいるが、早い時期に江戸に移った京都仏師として「音湛」や「康與」。音湛も京都での居所が不明。
次いで、「京五条 大仏師 田村式部」、そして次に「玄慶広峯」や「運節」。彼等は京都の居所が判明する。

ややこしいことに、後には「安阿弥末弟/京五条大仏師 田村式部/武州江戸浅草 法橋正重三代目」もいる。
田村式部=江戸浅草 法橋正重三代目?

近世江戸仏師も喫緊の課題となってきたと実感しつつ、返答に窮する。

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