日々雑記


田中宗祐

2021-8-2

『京都府百年の年表』8美術工芸編にかなり興味深い事項が列記。

明治19年(1886)6月2日、祇園中村楼にてフェノロサが絵画に関する講演を行った。京都の美術史的価値と東京の新気運を比較しながら京都の停滞を指摘。
周知のようにこの講演で幸野楳嶺、竹内棲鳳らが刺激を受け、7月には京都青年絵画研究会が発足する。 この年の11月21日に京都美術彫刻業組合の設立が認可される。仮事務所は岡本喜兵衛方。この年には人形業者も京都玩弄品商組合を設立。

明治24年には京都市画学校が京都市美術学校に改称、商議員・協議員には田中宗祐。同年の京都市工業物産会:彫刻品の審査員も田中宗祐と岡本喜兵衛。

明治27年6月には京都市美術学校に彫刻科が設置されるが、9月には京都美術彫刻業組合の現状の衰微を打開するため、総会が開催、組長に田中宗祐、副組長に畑治郎右衛門。

おそらく田中宗祐は彫刻を目指すべきと説いたはず(前年には大村西崖が市美術学校教諭になっている)。いっぽう多くの組合員はまだ幕末仏師だったかと想像。
「京都美術彫刻業組合の現状の衰微」は組合員が相反する方向を向いていたことに起因するものと想像。だからこそ副組長に畑治郎右衛門を据えたのかも知れない。

明治32年11月、京都彫技会が発足(会頭中沢岩太、副会頭西村治兵衛、幹事田中宗祐ら)。京都彫技会の出品作家に仏師はいない。

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人間だもの

2021-8-5

奈良・西大寺食堂院・井戸跡から数種類の魚の骨が出土との記事。

そりゃ食べるでしょう。
取材(質問)が悪いので、『日本霊異記』下6「禅師の食はむとする魚、化して法華経と作(な)りて、俗の誹を覆す縁」を引いて答えているが、僧侶と破戒はセット物。

東大寺別当に任じられた宗性だって、男色はする飲酒もするお人柄。持戒と破戒の悔悟との狭間で揺れ動いている。

文暦2年(1235)6月10日
休息の時分のほかは、断酒・不淫幷囲碁将棋など一切の勝負事はすべきでない」
文暦2年(1235)6月20日
「今日より以後千日は長く酒宴を禁断する。ただし全面禁酒は難しいので、良薬として六時(念仏)の間は三合を許す」
仁治4年(1243)正月1日
「生年十二歳の夏より四十一歳の冬に至るまで、愛して多飲し、酔うては狂乱した。(略)自今以後、尽未来際、永くこれ(飲酒)を禁断する」
松尾剛次『破戒と男色の仏教史』

ほら、ね。だって、人間だもの。

だから戒律復興運動が間断に行われるのよ。

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東京藝術大学

2021-8-6

朝から東京藝術大学(保存修復彫刻研究室)へ。

予定より若干早く到着。
東京も炎暑なので、まず東京藝術大学美術館で時間調整。竹内久一「伎芸天像」と巨勢小石「技芸天女」。竹内久一「伎芸天像」は初めて見るような気がする。菱田春草「水鏡」(1897年)も。御飾時計や増田正宗「高野山有志八幡講十八箇院阿弥陀聖衆来迎図」を見ているうちに予定時間近く。

まずは近世仏像を院生を交えて拝見。作者も判明しているので、色々と質疑応答あり。「この膝前はやや甘いですが、当初の作とみてよいでしょう」「なぜですか?」などと。まぁ、うち(関大)では聞かれないような質問が多い。丁寧に答えながら何が違うのだろうかと不思議にも(たぶん全てが違う)。
その後、別の近世仏像を拝見し、他の研究者らと色々と資料を見ながら共同研究の相談に移る。もちろん小生は仏師系譜関係の分担研究として参加予定。

保存修復彫刻研究室は大学院独自の研究科。学部生は彫刻、院生は保存修復というケースが多いらしい。鑿で彫る技術がないと保存修復ができないので当然と言えば当然か。
鑿の収納箱に貸出帖がぶら下っていて「使った鑿は必ず研いでからもどすこと!」と書かれていたことにややホッとする。
(関大芸美:図録等を借りる時には必ず借用日/返却日を記入すること!)

仏像拝見と共同研究の打ち合わせを終えるとあっという間に日没近い。
帰途の新幹線でノンアルビールを飲みながら、院生向けの資料を作らねばとメモ。

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夜逃げではない

2021-8-8

日曜日ながら大学。

明後日から工事に入るので、指定の工事部分に置かれた書籍等を避難。

これまで長く2口コンセントひとつで研究室が稼働。
いくら文系とはいえ、流石に2口では役に立たず、皆5~6口のコンセントタップを使用。
どっかで電子レンジなど使おうものなら周囲2,3の研究室共々ショート・停電。これを回避するため、ブレーカーと2口コンセント4つの増強工事。そのための移動作業。
いくら建物が古いと言っても・・・。

あとは、WIFI工事かな。現状では無理と言っているが(今は有線1本の交代仕様)。

まぁ、よく1年半もオンライン授業をこなしていたものだと嘆息。

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拙稿!

2021-8-10

個研も工事中、定期も切れたので、昨日から自宅にて。
こういう時に限って、必要な拙稿が手元にない・・・。
やむなく近隣の図書館でコピー。

30年以上前の拙稿。
パソコンという便利なツールはまだなく、ワードプロセッサー(Rupo)で書いたもの。
読みかえすと、びっくりするほどぎこちない文章で、記述もまだまだ硬直。 こういう小結なのになぜ、こういう展開に持って行ったのかと不思議に思うことも。

有難いことにその後、被引用文献にしていただいたこともあったが、今や大幅に加筆修正したい気分。 拙稿そのもの。
我ながら赤面しきりである。

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寺御幸麩屋富柳堺

2021-8-12

院生(他大学)から「『"偽"京仏師』はどのように判別するのですか?」と質問。

江戸時代、地方の在地仏師で少し名が知られると、すぐさま「京仏師」や京都っぽい地名を肩書に使用し、京都出身であると誇示する。でも在地仏師は京都の通り名を知らないので「四条通御池上ル」などと書いてしまう「烏丸御池」はあり)。

南北と東西の通り名があっておればよいと返答しながら、頭の中では「丸竹夷二 押御池・・・」と京のわらべ歌が流れる。
寡黙にも南北にも「寺御幸麩屋富柳堺・・・」があったとは知らなかった。

これまで手帳に「通り名ミニ地図」を挟んでいたが、これ を暗唱すれば、現地調査でも京仏師の"真贋"がある程度可能・・・。

奈良出身大阪育ちながら、やっぱり京の通り名は難しい。

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左右3材矧ぎ

2021-8-14

Twitterで、山形(東北芸工大そば)の某仏頭を知る。

175年前ということで、1846年(弘化3年)の作なのだろう。前の大仏は天保3年(1832)の火災で焼失し、14年後に頭部を再建するも資金不足で頭部のみで断念との由。

意外に思うのは、頭部が左右3材矧ぎ。いくら漆箔、彩色仕上げでも無理があろうもの。
せめて面矧ぎであれば、表面上は問題ないのだが。内部は丁寧に鑿で梳いている。
中央材真ん中に正中線が来ているが、それにしても不思議な構造。

大工の仕事かもしれない。

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サロメ

2021-8-15

終戦記念日。
アフガニスタン(カブール)、タリバンが実効支配とのニュース。

春学期の授業で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は"同根"であると言及。
ニュースを見ながら真っ先に思ったのは、ISがよくやる処刑の「斬首刑」。
思い当たることがある。

新約聖書には、ユダヤ王エロドは、兄である前王を殺し妃ヘロディアを奪って王座についた。エロド王は娘の王女サロメに魅せられる。
エロドの視線に耐えかねサロメは幽閉された洗礼者ヨハネに会いに行く。洗礼者ヨハネは妃ヘロディアに兄嫁が弟に嫁ぐのはよくないなどと指弾し嫌がられている。
洗礼者ヨハネとの接触は禁じられていたが、サロメは幽閉の洗礼者ヨハネを見るが、ヨハネは彼女の忌まわしい生い立ちをなじるばかり。
ある日、エロド王は自身の誕生パーティでサロメに対し強引にダンスを求め何でも好きなものを褒美にとらせると参加者の前で公言。
ダンスが終わり、サロメはヘロディアに褒美の品を尋ねると、ヘロディアは「洗礼者ヨハネの首!」とアドバイス。参加者の前で公言した手前、エロド王は洗礼者ヨハネを斬首。

許せないが、ISの「斬首」の起源はサロメにあるのかもと。

上:ゴッツォリ「サロメの舞」1462年(左端に斬首される洗礼者ヨハネ)
下:カラヴァッジョ「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」1609年

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嘘は犯罪

2021-8-18

・・・というぐらい、厳しく処さないといけないのではないか。

8月10日付保健管理センター所長名で学生向けに、「保健所からの積極的疫学調査に対する協力について」。
ようは保健所からの感染者の遡及調査、濃厚接触者の範囲調査に学生は「積極的疫学調査に真摯に協力しろ」とのこと。つまり虚偽報告した学生がいると。

こんなところで先輩(野々村竜太郎・籠池泰典)のマネしたらアカンやろ。

虚偽申告者からは有無を言わさず30万円以下の過料(罰則)を徴収したらええとは思うが。

悪質・迷惑の極み。

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天祥院襖絵

2021-8-21

MIHO MUSEUMへ「高台寺蒔絵」展を見に行く予定だった、行けそうにない・・・。

次の「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」展(巡回展)概要をみてちょっとびっくり。狩野山雪の天祥院襖絵が出品。

よく知られるように、この襖絵の裏は山雪「老梅図襖」(現メトロポリタン美術館蔵)。
1960年にハリー・パッカードが天祥院襖絵を5000ドルで購入。パッカードは襖の表裏を剥がして、「老梅図」裏面をミネアポリス美術館へ5000ドルで売却。つまり、パッカードは山雪「老梅図襖」をタダで購入。襖絵ならではの荒業。
こうしたことを実際におこなうことは必要ないが、こうした発想を持つ学生が現れても有かなと思う。

ハリー・パッカードは早稲田大学大学院美術史修了生。

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山形行

2021-8-24

空路、蔵王越えにて山形へ。

お昼過ぎに東北芸工大文化財保存修復研究センター。

久闊を叙し、さっそくX線フィルムや修復中の羅漢像、関連資料などを見せていただく。一部に作風がやや異なる像があるとの指摘。

肝心の「錐点」。
額(髪際位置)・鼻根・上下唇結部が等しいとの指摘(『令和2年度文化財保存修復研究センター紀要』80~95頁)がある。
羅漢像で髪際位置を見出すのは困難で、髪際から鼻根までは別の基準があるかもしれない・・・と思いながらも、「錐点」は表面からは判別しづらく、また彫刻が進むにつれ失われる錐点もあるが、何らかの基準がないと統一した群像とはならない。
錐点(の基準)が畑治郎右衛門独自なのか七条仏師康朝直伝なのか、京都仏師共通の理解なのか、非常に興味がある。京都仏師共通なら共作もありかなと。

研究室に案内していただいた院生に「センセの論文、参考にしました~」と言われ、気をよくする。
かつて一緒に作業した学生だろうか。

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仏師 加賀阿闍梨

2021-8-25

終日、雨。

山形・某所の持国天像(市指定:天正8年〈1580〉「仏師 加賀阿闍梨」作)。
須弥壇から自然倒壊でクラファン修理。

状況をみると、本躰と邪鬼とは緊結ながら、邪鬼は台座に載せられただけのようである。
天部像ではよくあること(像を持ち上げると邪鬼まで持ち上がる)だが、須弥壇が水平を保っていなかったのだろうか。

「仏師 加賀阿闍梨」。これも造仏僧のひとりだろうか。
このあたりの時代などが非常にあいまい。いいのだろうかと憂慮する。

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上杉本洛中洛外図屏風

2021-8-26

上杉博物館「狩野派」展。

上杉本洛中洛外図屏風は後期展示ながら、永徳関係の作品が展示。上杉本洛中洛外図屏風は複製B本にて。

周知のとおり、上杉本は足利義輝が上杉謙信に上洛する(味方になる)ようにとのメッセージを込めて狩野永徳に描かせた屏風。永禄8年(1565)5月に義輝が非業の死を遂げ、同年9月3日に完成した屏風は永徳のもとにとどめ置かれる。上杉本は改めて天正2年(1574)3月に信長から謙信に贈ったとされる。

複製ながら上杉本をじっくり見ると、不思議。
右隻1~4扇、鴨川の鮎?漁、祇園祭(夏)。5・6扇、正月(冬)。左隻1・2扇、雪景色(冬)・田おこし(早春)。3・4扇、正月(冬)。5・6扇、紅葉、稲刈り(秋)。
春がない!と思いきや、左隻3扇に北野社の梅花、2隻に千本閻魔堂の桜花、1隻に鞍馬寺の桜花が。季節バラバラ・・・。
口性ない公家なら、「永徳殿もあきまへんがな。こないな景色、京の都や、おへん!」と一蹴されるだろう。
そんな洛中洛外図、どうして永徳が描いたのかという不思議。

公家(永徳)にとっては、足利将軍家も成り上り、上杉謙信も田舎者といった意識があるのだろう。

そんなことを想像しながら改めて企画展を見ると、京博「仙人高士図屏風」右隻。
元襖絵なので空間的な理解が必要。(屏風にはない)右側に何が描かれていたのだろうか。
檜図屏風は、記憶にないほど久しぶりの拝見。4曲1双で扱いもラクそう。

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廃仏毀釈

2021-8-27

各地でこういう風景をたまに見るにつけ「廃仏毀釈」とはなんだろうかと考える。

「出羽国屋代庄八幡宮」として栄え、神宮寺、金蔵院、千殊院など十二坊を数えた。
三重塔は寛永2年に建てられるも、寛政2年(1790)に強風で倒壊、同5年に伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁とし再建が開始され同9年に完成する。
その後、明治の神仏分離令によって寺院は廃絶、仏像は亀岡文殊(大聖寺)に移された。その後の火災により塔だけが残ったとされる。
廃仏毀釈と一口に言ってもその被害は千差万別。

再び、蔵王を越えて仙台に向い、帰阪の途に。

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九州行

2021-8-29~30

再び九州へ。
九博「范道生」展。9月に入ると色々と仕事があり、この予定になる。家人曰く「東奔西走」。
先方で約束があるのではないので、ゆっくりと航路にて。

コロナ禍も1年半。経済を初め我々の研究も動いている。科研を初め諸々の調査研究も「コロナ禍で調査・研究は無理でした。てへっ、ペロ!」って許される訳はない。

翌朝、九州国立博物館。
受付で「企画展では『皇室の名宝』は入館できませんが」と何度も念押し。ハイっと言いながら、見たけりゃ、新装の三の丸尚蔵館に行くがなと。

第11室「范道生」展へ。誰もいない・・・。
じっくり見ながら入口で取ったパンフを見る。出品リストの下に
「No.10 十八羅漢図巻(兵庫・白鶴美術館所蔵)の展示期間は9月14日(火)~10月10日(日)となります。また、この作品についてのみ撮影禁止です。」
とある。この作品についてのみ?マジか?
以前は、構造をメモしただけで怒られた(2011-4-17)ので、半信半疑、長くあれこれ見ている不審人物が若い女性監視員(彫刻は全て露出展示)に質問。
「たいしたことではないのですが、No.10 以外は全て撮影許可でしょうか。」
「フラッシュなしで全て可能です。どんどん(SNS等に)あげて下さい」とお返事。
OK!オッシャ!

写真を撮りながら「黒漆に朱の下地、その上から金箔。」「漆線彫は・・・」などとメモ。
長崎制作・京都搬入は肯首できるものの、萬福寺での開光、請来の記事はない・・・。
どうしたのだろうか。
気がつくと、既に午後もずいぶん過ぎている。
帰らんとあかん時間・・・。
出口に迷っている(広い!)と、先ほどの女性監視員にばったり出会う。丁寧に御礼を述べて出口を乞う。

後ろ髪を引かれながらも北九州に戻る。
響灘に沈む夕日がことのほかきれい。
夕食後、写真をみながら取ったメモをまとめる。翌朝、大阪到着。
再度、来訪すべき特集展示。

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再び、皇陵巡拝

2021-8-31

8月も終わり。年々、体感時間が短くなっている。

今頃になって気づいたのだが、来月下旬に東京にて旧友が「藤澤南岳の『皇陵巡拝』活動」についてご講演の予定。
専門家なのでこんな内容(2019-10-25)よりも、充実した内容と確信。

まぁ「オトナのための教養講座」なので「(講師の)先生は右翼ですか?」などのアホな質問は出ないだろう。(職務上「当然です」と言ってみてはいかが)

マスクして(常時している)サングラスを掛けて、身元がばれぬように後ろの座席で俯きがちに拝聴したい(余計に怪しい!)ものであるが、無理。
思えば、4月に大阪で会おうとしたものの非常事態宣言かマンボウかで流会し、久しく会っていない。

機会があれば、またお聞かせください。

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