日々雑記


新年おめでとうございます

2020-1-1

昨夜は年賀状も佳境に入った頃に、「長谷寺、行く?!」と家人。はぁ?

車を走らせ夜の長谷寺にお詣り。家人のお目当ては「観音万灯会」。観音は帳が下りており、後3時間ほどで開帳。

まだ献灯を受け付けていたので、そっと一灯。 帳が下りた観音の前で手を合わせ、フライング気味の初詣。

帰宅すると、除夜の鐘。TVは初詣でごった返す寺社を映し出している。
まるで別世界。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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神籤の沙汰も金次第

2020-1-3

親元への挨拶等が済み、ようやく我が家のお正月。
初詣でも行く?すかさず某神社!と。

某神社はアップアップの時に詣でてお神籤をひくと「大凶」が出たところ。
あまり気乗りはしないが、娘夫婦とともに初詣。

参拝で並んでいると、珍しく昇殿参拝受付中。ぜひぜひと4人並んで昇殿参拝。
その後お神籤。神籤箱を念入りに振って出たのが「十一番」。
頂いた神籤を恐る恐る開くと「半凶」。もうありえへん。

新年早々に落ち込んでいると、家人が神社に由緒ある小さな動物に入っている神籤を探し出し(普段からある)、再チャレンジと促す。
もちろん初穂料は先の神籤よりやや高額。
三宝に置かれた動物と目があって、これ!と。

底を開けて神籤を取り出し、恐る恐る開くと「大吉」。やったー!
神籤の沙汰も金次第なのか。

「大吉」ながらちょっと複雑。

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京都仏師の伝統

2020-1-5

授業準備のため大学へ。
送って頂いた龍谷大学ミュージアムのポスターを合研に貼り、まずは乱雑夥しいPC画面の整理。不要なものをゴミ箱へ。

「辻井岩次郎」ファイル。なんだこれは…と開いてみると、某所の仏像と台座。
明治31年11月の年紀とともに「京都寺町通佛光寺□□中ノ町 大佛工 辻井岩次郎」の台座銘。知人からの問い合わせ。

「今でも仏師やってるので、直接問い合わせたら」と助言した記憶がある。
「舊名 乾清」って?との質問に、乾清太郎、乾大仏堂の分家かもしらんなぁと。

この時期の京都仏師は現在でも活動しているところが多い。龍谷大学ミュージアムの畑治郎右衛門も平成まで15代を数えたというし・・・。
もう「京都市職業別電話帳」をくったほうが早いかも。
全国的にもそのような傾向。

保存ファイルに納めて、さて授業準備。

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藤原布輩

2020-1-6

SNSで某寺の銅造釈迦如来坐像(寛延3年・1750)の紹介。

こちらにも通知が来ていた。銘記には「智積院大仏師 法橋 福岡主水 佐 藤原布輩 作」。
弟子か?とされていたが、難問。
弟子とされた根拠は「佐」の字。近世からみれば非常に古風な表記。

「佐」を肩書とするのは、建保7年(1219)閏2月の長谷寺炎上の復興。翌3月に造像用途中支度注文が出されるが、「大仏師法眼快慶」と並んで「佐法橋 行快」。
この時の「佐」は「補佐」の意味に捉えられている。快慶と行快は師弟関係なので特に問題はない。
近世で「佐」とするのは管見の限り、初見。補佐=「佐」?

帰途、高架工事中の千里線をみながら考えていると、「JV(共同企業体)」が想起。

大手ゼネコンと中堅ゼネコンがJVを組む時もあるが、地方ではゼネコンと地元有力企業。 事業自体が終了すれば、地元有力企業はゼネコンのノウハウを習得し、再び地元で活躍。事業が終わればゼネコンとの関係は一応終了。
そういうことなのか・・・。

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「佐」「助伴」「中間見舞助人」

2020-1-7

昨日の続きを考えている。

「佐」はあくまで「補佐」の意味とは思うが、近世にあっては師弟関係とは限らない。
「佐」(補佐)と似た用語に「助作」(源四郎源次・西念寺十一面観音像)、「助伴」(八田主膳・東大寺中門二天像)、「中間見舞助人」(高野佐京、藤田与左衛門、前川市兵衛、沢村市兵衛・岐阜瑞林寺弥勒仏坐像修理銘)、「加勢」(加勢 同悴職之助・同 弟子豊蔵・和歌山・金剛峯寺四天王像修理銘)などがある。

「助作」は師弟関係、「助伴」や「中間見舞助人」はその場限りの助っ人、「加勢」は倅や弟子の字がないと微妙。
古風な表記の「佐」もあくまで「助伴」や「中間見舞助人」と同じ意味にとれるのだが。

「藤原布輩」に関してもうひとつ思う。
18世紀半ばに「藤原」姓を名乗る仏師は、意外にも地方に多い。百年ほど前には康猶(藤原康猶)や吉野右京(藤原種次・藤原種久)もいたのに。
弟子とする藤原布輩が京都仏師だとすれば「まぁ、どこの藤原さん、どすか?」と京雀に揶揄されることは火を見るより明らか。

露坐の銅像であることも気になる。鋳物師なのかもと。わからない・・・。

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温度差

2020-1-9

今日から卒論提出受付。
念のために提出前の確認(授業)。なんとか提出できそう。

その後一般教養を挟んで、授業は図書館で掛幅、巻子装の熟覧。
耳鳥斎「別世界巻」、同「福禄寿」、上田耕夫「寿福図」。

以前はきゃっきゃっと言いながら作品を熟覧したものだが、この学年は静か、というより通夜の雰囲気に近い。

「作品を見る」というのも学年によって温度差がある。
ひとつ上の学年は、展示替えに乗じて2度も見学をし「おにぎり!」なんか言っていたのだが、この学年は図書館で作品を見ていてもなんとなくつまらなさそう。

以前はあえて色々小言を言ったものだが、今は、淡々と自分が楽しんでいる。
「そは切好の地こく」「衆道好の地こく」を楽しんだ後は、地デジカが描かれた「福禄寿」、描表装と様々な字体の「寿」を描き寿老人などを添えた「寿福図」を楽しむ。

温度差によって時折、教員失格?と感じることも・・・。

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仏像ひな形の世界

2020-1-10

龍谷ミュージアム「仏像ひな形の世界」展。

60点ほどの仏像雛形。たいへん充実した展覧会。おかげでリーフレットもメモだらけ。

リーフレットには各銘記も書き起こされており、銘記部分の写真も展示。木寄せ(木割)や賽の目、錐点など長い時間注力して見ていた。
坐像の像底にも賽の目。以前調査した坐像の木寄せ図とそっくり。

展示パネルのひとつに畑家系図(原本不明)。 初代定玄(寛永5年〈1628〉没)、2代宗順(正保3年〈1644〉没)、3代宗玄(享保7年〈1722〉没)・・・と続き、15代定康(平成26年〈2014〉没)で終了。

ところが、2代と3代の間に78年の大きな開き。
さらに寛保2年(1742)の奈良・定願寺弘法大師像には「先祖従定朝法橋廿七代之末流大仏工/畑定玄子定祐造者也大仏師/畑治左ヱ門」とある。
定祐が「2代宗順」とすると、初代「畑定玄」の没年は寛永5年ではなく寛保5年だろうか。このあたりちょっと辻褄あわせを計ったのだろうとも。

展示品だけでも近世七条仏師の歴史が理解できそう。
関係者必見の展覧会。

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七条左京家の没落

2020-1-11

午後から大学。

昨日はそのあと大急ぎで歴彩館へ行きパネル展「山伏山町文書の世界」をみた。

七条仏師の雛形をなぜ畑治良右衛門が所蔵しているのか、それは七条仏師(七条左京)が没落し、最後は雛形群を畑治良右衛門に譲与したことに他ならない。

明治3年に康教は「官人(大仏師職)」を廃され、一応は「士族」身分だが、困窮は極まるばかりで、「山伏山町文書」によれば明治6年に山伏山町から梅忠町へ転宅、明治8年には屋敷、建屋、土蔵を平田平七に売却している。
明治15年に康教は亡くなり、息子の彦一は明治32年に長崎・佐世保へ移転、「家計貧シクシテ」小売商となる。系図最後の勝大が「佐世保海軍工廠」に勤務したのは最後のプライドだったかもしれない。

「山伏山町神事器具録」によると、浄蔵貴所像の岩座は「七條法眼忠圓之作」とする。京都大仏雛形の譲与目録には、「藤村家渡世没落之砌り、大佛師七条左京氏之を譲請け七条家又も没落之際吉村宗雲之を譲り請く」とあって 明治31年には吉村宗雲から竹内久一、その後東博に譲られている。

明治27年には京都美術彫刻業組合が総会を開き規約を改正しており、その折の組長には「改革派」の田中宗祐、副組長には「保守派」の畑次郎右衛門が就任。

没落する七条仏師とその弟子、そのなかで存続した弟子の畑治良右衛門、雛形群の行き先はおのずと限られてくる。

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失念

2020-1-12

はい、すっかり忘れていました。

過年度は発表→報告だったのだが、今年は報告→発表との連絡。
来週には〆切との由。10頁。

既に発表の構想は出来ていたものの、大慌てでアウトラインを整え、手元にない文献を府立図書館でコピーし、大学にて執筆。
相変わらずのドタバタ。

〆切に間に合うかちょっと不安。

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火の用心

2020-1-17

午後、歴彩館パネル展示を某大学の先生とともに見学。
自ずと「七条左京」の話題。

『京都町触』で「『大切成御用之品』を造る時、『用のない者は周囲をうろつくな』とか『五町四方は火之元入念(火の用心)』などと念を押されていますが、仏師は(造像で)火も扱うのですか?」と。

「仏師は火を扱うことはないので一般的な事柄と思いますが、随筆の『籠耳集』には、『京四条向ヒ屋敷』には大仏師七条左京(30代康伝)が居住し、孝恭院の逝去(徳川家基:安永8年〈1779年〉)で御像や位牌を制作中に出火し、八町四方が焼けた」とする記事があるので、それを意識したかも知れません。随筆ですから真偽はわかりませんが・・・」と。

あとは『大切成御用之品』の仮設小屋などの話題。「すべての御用品(の代金)は(幕府からの)後払いなんです」と。

随筆ながら真実だったのかも。

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試験

2020-1-23

定期試験。

終始、騒がしかった一般教養科目。この状態が来年度も続くと思うと既にげんなり。

そこで筆記試験は、記述問題を工夫して臨んだ。2教室、300名弱受験。
普段は開始40分頃(試験時間60分、開始後30~50分までは退室可能)から提出する者が続出し、その頃はこちらや職員も回収した答案と残っている学生数を数えて、受験者数と一致しておれば、終了後は答案の回収のみで試験監督もラクだった。

ところが、今回は少し“凝った”設問だったのか、50分までに提出された答案はわずかに数枚。
授業内容を聞いておれば自然に解けるはずだし、実際に正答している受験生も多々いる。
効果てきめん。

来年度も採用予定。

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学生対応諸々

2020-1-25~26

午後からプレスチューデントプログラム。
自己紹介と教員による模擬発表、諸連絡など。
ここ数年、受講生が多い傾向・・・。

終了後、阪急六甲へ急ぐ。3回生ゼミ合宿。
バス、ケーブル、バスを乗り継いで六甲山荘。

夕食のすき焼を楽しんだ後は、お持ちかねの懇親会。前回は学生の希望に合わせて飲物、菓子等を購入したが、今回は各自で調達。こちらのほうがずっとラク。
盛り上がっているところを中座し、ひと足早く就寝。ちょっと疲れているのか・・・。

翌朝下山し、小磯記念美術館へ向かう。流石に麓は暖かい。

美術館では、『黄昏の絵画たち-近代絵画に描かれた夕日・夕景-』最終日。
当方は既に見学済で、また展覧会最終日で混雑していることから、入口付近で簡単な説明を行い解散。

いくつかの作品を再度見て帰宅の途につく。

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新型コロナウイルス

2020-1-28

昨日はそう気付かなかったが、乗換駅での中国人観光客がめっきり少なくなった。

たいてい22:00前後の電車に乗るのだが、いつもは一目でUSJ帰りと思われる出で立ちで、手には「ドンキ」や「コクミン」のビニール袋を持っている。あるいは大きなスーツケースをホームでガラガラと引いている。乗車するのが、関西空港行なので後者は帰国する人たち。

ところが、今日はほとんどいない。車内は仕事帰りの人ばかり。普段は邪魔にも思えるスーツケースがどこにも見当たらない。

静かな車内にむしろ恐怖を覚える。

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むぅ・・・

2020-1-29

所用の後、某資料館へ。

そう広くもない企画展示室では、主に文書、絵図類の展示。
展示台はもとより壁面に至るまでパネルがびっしり。
展示内容はどうも担当学芸員の専門分野らしい。

これまで幾度も見た光景だが、門外漢ながらも、何がなんだかわからない。
誤解を恐れずにいうと、博物館の展示は自身の研究成果の場ではない。ごく普通のおっちゃんやおばちゃんが見て、わかるように展示は工夫、加工しないと、学芸員の自己満足の場に過ぎない。当然入館者も期待薄。

もっと展示(資料)やポイントを一般の人にも理解できるように絞らんといかんとは思うのだが。

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大般若経転読

2020-1-31

某所の会議が終わり、夕刻に帰宅。
なにげなくTVをつけると、
「“新型コロナ対策”で奈良・春日大社が『疫病除け特別祈願』終息宣言まで毎日執り行う」(MBSニュース)。
朝夕2回の祈祷。おっ。

疫病退散で祈祷と聞くと、中世の世界に戻ったような感覚。
ここは、やはり興福寺僧に来て頂いて「大般若経転読」だろうか。
南都六大寺で、国家安泰、疫病退散で大般若経転読すれば、まさに中世世界。

色々なニュースをみても政府はのんびり対応。大丈夫かいな。

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