日々雑記


怒髪の仁王像

2016-02-01

出張に行くと、当たり前だが相手方から種々の質問が出てくる。その場で答えられることについては答え、答えられない事はお持ち帰りにて後日回答。

とある仁王像。髪の毛がまさに“怒髪”。一般の仁王像とは大きく異なる。はじめ深沙大将像かと思ったほど(髑髏ネックレスはない・・・)。何を手本にしたのか、類例はあるのかなどと。

すぐさまには答えられない。見た目、狩野芳崖《仁王捉鬼図》の鬼のようでもある。まず有髪の仁王像、これは東大寺法華堂金剛力士像(阿形)や執金剛神像のようにあることにはあるが裸形像ではなく、近世にリバイバルした雰囲気でもない・・・。

二十八部衆のうちにも仁王像があるが、これは「那羅延堅固王」(阿形)、「密迹金剛力士」(吽形)と呼ばれ、近世はこれをごっちゃにして「密迹金剛力士像」と「那羅延金剛力士像」とよんだりもするが、解決の糸口にはほど遠い。
しばらく考えあぐね、東北地方特有の「鬼形像」を仁王像風に仕立て上げたものだろうと推測するも、説得性はゼロ。

江戸の仏像は奥深いというか、わからぬことだらけというか・・。

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カヤとヒノキ

2016-02-02

I先生より『仏像の樹種から考える 古代一木彫像の謎―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書』をご恵贈。深謝。

たまたま、とある仏像の樹種鑑定とAMS法(C14)による年代測定の報告を頂く。
部材a:カヤ 1431-1480    部材b:カヤ 1285-1391
部材c:マキ 1691-1923    部材d:カヤ 1287-1392

もちろん伐採年代で、採取部分の偏りはあるものの、だいたい15世紀にカヤ材で製作され、17~18世紀にマキ材で補修されたことがわかる。
15世紀と言えば、寺が創建されて間もない頃である。こちらのほうも驚き。“見た目”実に近世ぽかったのだが。

美術の世界でも理科学の力に拠って明らかになることが増えてきた。恵贈頂いた書籍もそうした流れを示した高著。

ちなみにビャクダンの代用材として使われたカヤと建築部材の余材?のイメージが強いヒノキ。現在の木材相場では、ヒノキ材の高騰によりカヤ材のほうが安いとのこと。

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世界遺産の幻影

2016-02-04

「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産への推薦の取り下げ方針。

ここ でも述べたように、日本と西洋の価値観の交流、弾圧からキリスト教解禁というストレートな道筋が「顕著な普遍的価値」を持つかどうかが問題となったのだろう。
最近の世界遺産は、「明治日本の産業革命遺産」をみても“負の要素”も盛り込まないと難しい。これは“佐渡金山”でも然り。
“おらしょ教”、“迫害・弾圧、潜伏、そして解禁などのイメージで固まってしまった長崎や天草の資料館や博物館は、これからどう展示内容を変更するのか(しないのか)が気になるところ ”と、茶化したが、少し冷静にみれば、まさに歴史とイメージのギャップを埋めないといけない事態になっている。世界遺産登録も、もう「姫路城」や「石見銀山」の時代ではない。

一介の観光客がみても半分ぐらいは予想された事態。

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手帖と携帯

2016-02-05

手帖には既にダブル・ブッキングの状態となっている。「申し訳ありません」と用件1、数日前にキャンセル。よしよし。

早朝から出立、某地へ。最近、早朝は苦手で頭が回っていない・・・。あいにく携帯は通勤カバンの中(本日は調査グッズ)。
なぜか渋滞にも巻き込まれて、深夜に帰宅。

自宅で一息つきながらメールを見ると、某所より「急なご用事等で都合がつかない場合は、事前にご連絡くださいますように」とお叱りのメール。うわっ!
思い出すと、手帖に未記入ながら確かに用件がもうひとつあった・・・。

トリプル・ブッキングだったのか。
確実に凹み、猛反省。ひいては深酒・・・。手帖と携帯(充電済)は肌身離さずもつべし。

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墓場まで

2016-02-06

調査に行くと、黙っておいて下さい、公表や発表もしないで下さいと言われることが、ままある。
たとえ江戸時代とされていた仏像が鎌倉時代の在銘作品や見事な平安時代の作品であっても、黙して墓場まで持って行かないといけない。
若い頃は調書、ネガフィルム一切を送り返せと言われたこともあり、調査に呼んでおいて送り返せとは如何なることぞと、よく理解出来なかったが、所有者にとって重要な作品ですと言えば言うほど、盗難や紛失、管理のことで気が気でならない。

無住寺や村の御堂などに安置の仏像が盗難に遭う昨今、調査と成果の公表はもろ刃の剣である。所によっては調査報告書もF寺、G宅と寺院名、管理者を伏せた形で公表している。

博物館に寄託するという方法もあるが、地方の中小博物館は、仏像の虫が古文書に広がったら資料がダメになるとか、展示に使えない?とかいろいろ難癖をつけて、預かることを極端に嫌がるし、所有者が打診しても首を縦に振らないといったことも聞く。
展示に供しないような土器の破片や土がついたままの埴輪片が収蔵庫内で大事に保管されているというのに。

「文化財は地域の宝」と声高に叫ぶものの、肝心の地元の博物館ではどう対応しているのかが大きな問題(ネック)。

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長谷寺

2016-02-07

ハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展へ。

入るといきなり、江戸時代の長谷寺式十一面観音像。「裏観音」と称された像。裳の折り返しや胸の表現など彫り直しと思われるところがあり、キリッとしていない。図録によれば安政5年(1858)に松本康慶による修理との由。
平安時代から鎌倉時代の長谷寺式十一面観音像が並ぶ。乙訓寺の十一面観音像は必見。

あと堺市・長谷寺の『長谷寺縁起』。室町本と江戸本が並ぶ。
室町本は明応4年(1495)11月22日の火災後の再建勧進に資するために作製。十一面観音像の再建は翌年から始まったが、御衣木の余材(端木)を採取する者多く、数珠(念珠)を作る者も(後に観音の霊威をもって召し返し)。時の天皇までも余材で念珠や念持仏として小仏像をつくらせるありさま。長谷寺観音の御衣木は霊験あらたか。
江戸本では往昔の堺浦が描かれている。堺長谷寺 観音像の御衣木は奈良長谷寺の御衣木と同木というお決まりのパターン。

展示の目玉は雨宝童子と難陀龍王像の出品。
多聞院英俊は天正6年(1578)3月4日に長谷寺に参り本尊十一面観音像を「マノアタリ」に見た。その際「脇ニ吉祥天ト思シキ一丈ハカリナルト」と記している。難陀龍王像は「善女龍王ト思トアリ」とするのだが。奈良・大福寺にも三尊像(永禄3年・1560)が残る。

そのほか絵馬や宋版一切経、元代の九鈷鈴など見て、大学へ。

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ゴッホ

2016-02-08

本日で入試(2月)も終了。

左は浮世絵師渓斎英泉の「雲竜打掛の花魁」、右はゴッホの模写。
ゴッホはこの花魁を好んだようで、《タンギー爺さん》(ロダン美術館 )にも英泉の「雲竜打掛の花魁」を描いている。
ところが模写では左右反対である。《タンギー爺さん》も然り。

普通に考えれば、なぜ左右反対に模写しないといけなのかと、ながく不思議に思っていた。一作品だけなら構図の関係と受け取れないわけではないが、《タンギー爺さん》に至ってもなぜ「雲竜打掛の花魁」だけが左右反転なのだろうか。

その答えを加藤哲弘先生が明確に示してくれた。
『Paris Illustre』の編集者と製版者は、45-46号表紙に渓斎英泉作《雲龍打掛の花魁》を誤って左右逆に掲載してしまった。これをゴッホは模写したのではないかと述べられている。
加藤哲弘「『パリ・イリュストレ』45-46号」(関西学院大学『時計台』78号 2008年4月
つまりゴッホはオリジナルの渓斎英泉「雲竜打掛の花魁」を見ていないのである。
納得した次第。

あれもジャポニスム、これもジャポニスムとされるなか、一服の清涼剤。

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折紙

2016-02-09

入試が終わると、再び会議等が連続開催。

街なかは、バレンタインデーのチョコ一色。
そのためではないが、通勤途上、桜井英治『贈与の歴史学-儀礼と経済-』(中公新書)を読んでいる。

マルセル・モース『贈与論』では「贈与」に(1)贈り物を与える義務(提供の義務)、(2)それを受ける義務(受容の義務)、(3)お返しの義務(返礼の義務)が生じるとされる(後にモーリス・ゴドリエが(4)神々や神々を代表する人間へ贈与する義務(神にたいする贈与の義務)を付加)。

以下、日本中世の「贈与」の実態が様々に語られる。贈答品が多く集まる寺社は贈与シーズンになると寄進物で溢れるが、寺社主催のオークションが開かれて武士や貴族、領主らはオークションに参加して商品を落札、それを贈答品として再利用(もちろん寺社は売上収入を得ることに)したり、「折紙」(目録)をつけて贈られる贈答品が次第に贈答品なしで「折紙」だけが贈られ、「折紙」だけがまた贈答品として流通するなど、「御折紙ばかりは納むべからず。現脚(現金)をもって進上いたすべし」(『北野社家日記』延徳2年(1490)8月9日条)とまで暴走。

帰途、車内で隣に座ったカップル。「チョコレート」とのみ書かれた折紙だけ渡されたら、彼氏に返礼の義務が生じるのだろうかと、ふと想像。

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第1回関西大学建築学科卒業設計展覧会

2016-02-10

各方面から「なんで、考古(資料)の展覧会、せーへんねん」と、個人的にお叱りを受けている博物館運営。
時には「大学のHPにも『約3万点の考古学や歴史学の資料を所蔵し、広く一般にも公開しています。』と謳うとるやんか」とも。
「考古(資料)の展示は常設展でしていますよ」とうそぶくものの、度重なると正直、滅入ることも・・・。

確かに4月からは大学連携の各大学収蔵品展、現代美術、博物館実習展、北摂の絵画展と続いている・・・。
しかしめげてはならない。
今回は「関西大学と村野藤吾」展(2/16-2/18・2/23-2/25)と第1回関西大学建築学科卒業設計展覧会(2/23-2/25)のド短期展覧会。

実技系の学部学科はここしかなく、「第1回」と銘打っているので、これから恒常的に展示計画に組み込もうかとも。

新たにスタッフも入り、若い感性で展覧会や博物館運営を開いていきたいと思う。もう(老齢の)館長が展示室でちょこまかと動く時代ではない。
「ドーンといきなはれ。後の責任はこちらが持つので、安心しぃ」とまで言えるようになった(旧職では一度も言われたことがなかった)。
ただ別の御用で足繁く博物館に向かえないのが残念至極。

立ち位置がようやく分かってきたが、確実に老いてきたことを実感。

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検討会(4)

2016-02-11

午後から某所で検討会。気温23℃、街角には既に桜が咲いている・・・。

16世紀の院派仏師の作品についてあれこれ・・・。
院勝の作品は、石川・法住寺金剛力士像(享徳2年・1453)、京都・仲禅寺金剛力士像(文明13年・1481)と続くが、院派仏師の事績は文亀3年(1503)福岡・坊の薬師堂薬師如来像(院徳)を最後に作品の上からも史料上からも消える。ありゃ。

ともかく年度最後になってようやく到達点が見えてきた。とりあえずは安堵。この間、O先生にはひとかたならぬご無理を申し上げ、恐縮の至り。
後は「御恩奉公」ということでなにとぞご容赦のほどを。

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眠い・・・

2016-02-12

お昼から千里山で会議あり。7:20のJTA002便で帰阪。早朝は苦手ながら、逆算すると5:30起床。むぅ・・・。
乗客のほとんどは機内で睡眠。窓は閉めたまま、機内サービスもメニューをもって通路を通るだけ。こちらも四国上空で目覚める有様。

その後関西空港から千里山へ。11:30大学到着。まだ頭がぼぅとしたまま会議に臨む。

会議終了後、帰宅。1日中眠い・・・。

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仏像再興

2016-02-13

牧野隆夫『『仏像再興 仏像修復をめぐる日々』(山と溪谷社 2016年2月)。

珍しいことだが、通勤途上に何度も何度も読み返している。
吉備文化財修復所代表の著者とはこれまで2度ほどお会いしている。

世間の理解が再興≒修復(時折「新造」も)ではなかったことにまず驚き。冒頭、鎌倉後期以降の仏像が「だしのないスープ化」であるとされているが、読み進めるうちに、 牧野氏は江戸時代(特に中期まで)の仏像修復に関して、それほど悪意を持っていないことが読みとれる。

とある仏像修復にかかる内容。
薬師如来像の制作当初部分は、現在では頭部と体幹部の一部だけで、全体の量からいえば半分以下であり、そのほとんどが江戸時代中期に修理で付け加えられたものである。そのときの修理では、左体側部、右腕、手先、両脚部などがその当時の仏像が持つ、ごく平均的な技術で補作されている。最初からすべてを造る以上にややこしく、面倒で困難な仕事であったろう。当然それなりの費用もかかったと思う。直すことにここまで手間ひまかけるなら、江戸時代の人々はなぜ新しいもので代替しようとしなかったのだろうか。
(同じ仏像に関して、江戸時代)の仏像修理が当時の制作技法に基づいた漆を多用した入念なものに対して、江戸時代後期以降、現代に至るまで民間の修理では、(反古紙とデンプン糊も用いた)この紙貼りして彩色する手法はよく用いられている。
修復に精通した人の言葉だけあって、紙貼り修復は幕末以降の流れ。幕末までは費用や時間など様々な制約のもと、考えながら修復をしている。えっ~と思うほど複雑な木寄せもオリジナルを残すための方策である。「江戸だから・・・」といった利いたふうな口調はまったくない。

読み返すたびに深く頷いたり、深く考えることも。

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南蛮屏風

2016-02-14

月日指定の会議(入試関係)。

某地方寺院(廃寺)の古文書目録を繰っていると、南蛮屏風関係書類の項目。
明治39年(1906)の東京帝室博物館高橋健自書状 1通や嘉永以前西洋輸入品及参考品目録(東京帝室博物館)1冊、明治39年・40年・43年の東京帝室博物館書状 5通など。
明治39年からしばしば東京帝室博物館に出品展示されたものと思われる。

興味深くなって南蛮屏風の行方を追跡すると、なんと旧職でよくみた南蛮屏風。
こんなところからやって来たのかと感慨深げ。

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ヴィルヘルム ウーデ

2016-02-16

終日、口頭試問(学部)。

提出の卒論を読んでいると、ウーデ(1874~1947)の名前が挙がっていた。
ピカソが晩年に「(ピカソが若い頃)作品をひと山いくらで買っていた」画商・コレクター。(瀬木慎一『絵画の見方買い方』)

アンリ・ルソーの伝記を書き、ピカソを世に出るきっかけを作った人物。女流画家セラフィーヌ・ルイも援助している。

現代美術作品の購入は、いささかギャンブルに似た感覚がある。
これから大化けするであろうと予想される画家に少なからぬ投資を行うのだが、画家自身が伸び悩んで画壇から消えるとか、駄作ばかり生産するとかで藻屑と消える画家が絶えない。もちろん他者とは違う新しい表現を目指しているので、信じるのは画商自身の感性と眼。なんだか予想屋に似ている。

画商からみた現代美術という切り口は洋の東西を限らず、絶対に面白い。「ウーデの生涯と現代美術」といったテーマで卒論、書いてくれたら絶対「秀」の評価なんだが・・。
(写真はピカソ《ウーデの肖像》(1910))

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30代康伝

2016-02-17

お昼に会議。

七条左京30代康伝は享保18年(1733)生まれ。宝暦8年(1758)法橋位(26歳)、明和8年(1771)法眼位(39歳)、寛政5年(1793)死去(60歳)。

この間『京羽二重大全』は初版を含め四度改訂。
a:『延享版京羽二重大全』(1745):「二條通寺町東江入町 七条左京法橋康伝」…まだ12歳。
b:『明和新増京羽二重大全』(1768):「二條通寺町東江入町 七条左京法橋康伝」
c:『天明新増京羽二重大全』(1784):「四條東洞院西江入町 法眼康伝」…引っ越し?
d:『文化増補京羽二重大全』(1810):「室町錦小路上ル町 七条左京法眼康伝」…既に死去。

いったいどうなってるのだ。

調査に行っても、天保6、7年(1835-6)に康伝、康朝が造ったとされる仏像。根拠となった資料には「室町錦小路上ル町 法眼七条左京」。
いや、天保6、7年といえば、康伝はもとより康朝も亡くなっているし・・・。

まったくもって不思議。

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外パス

2016-02-21

学部の口頭試問後、修論試問や大学院入試、そしてプレスチューデントプログラム、会議と続き久しぶりのOFF。

ちらかり三昧の調査道具を整理していると、「外パス」がない。何処で置き忘れたのだろうか。
これがないと、面奥や胸厚を計ることが出来ない。
業界の方々は、割竹を火にあぶって曲げて自作した「外パス」をお持ちだが、こちらはそう器用ではないので市販の陶芸用の外パス(木製:30㎝)を使っている。近世彫刻の場合、これでたいてい間に合い結構重宝していたのだが。

片付けが終わった後、何処に置き忘れたのか記憶をたどりながらも天王寺区の陶芸用品店へ向かう。

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竹乃絵

2016-02-23

某市で書画類の相談。

特に際立った作品はなく、写真撮影しながらあれこれと。なかに一通の書状。
さすがの私でも「画所預光貞竹乃絵・・・」と読めた。
土佐光貞(1738~1806)。 土佐光芳の次男。

残る未調査の木箱から「竹乃絵」を探したが、どうも見つからない。残念。

「竹乃絵」が出てこずテンションが下がりつつ、黙々と写真撮影しながら思う。
近世土佐派もなかなか研究が進んでいない。彫刻にしろ絵画にしろ中世、名をなした流派の研究は不思議なほどに進んでおらず、若冲や蕭白ばかりが関心の俎上にあがるのは、何故なんだろうかと。

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等伯日帰りツアー

2016-02-24

京都本法寺春期特別寺宝展(3/14~4/15)の案内を頂く。
メインは長谷川等伯筆の大涅槃図(792.8㎝×521.7㎝)(描表装まで含めると10m×6m)。
等伯61歳の作。
他にも狩野正信《日親上人像》や狩野山楽《唐獅子図屏風》などなど。

《日親上人像》には款記等はないものの、『等伯画説』には「開山之御影ヲハ狩野元信之父法眼奉写之、小幅殿施主也」とある。等伯の眼を信じるか、己の眼を信じるかというところか。
『等伯画説』にはもうひとつ興味深いことがある。等伯の養父である長谷川宗清の絵の師匠は雪舟の弟子とされる等春。『等伯画説』に「奈良ノ番匠童子也、清僧也非俗人」とある。『等伯画説』にもたびたび登場。

それはさておき、本法寺、智積院、円満院を訪ねれば”等伯日帰りツアー”の完成。

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私だけではないはず

2016-02-25

「 文化庁を京都に全面移転 数年以内に 」のニュースを聞いて、「平成○○年 新指定 国宝・重要文化財」展が今後、東京国立博物館ではなく京都国立博物館で開催されると思うのは、私だけではないはず、たぶん。

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転法輪石

2016-02-26

とある絵画資料(幕末頃)の四天王寺。
中門・塔・金堂の微妙な位置に方形の石らしい描写。大阪・四天王寺には、「四天王寺 四石」と称される四つの霊石(「転法輪石」「引導石」「熊野遥拝石」「伊勢遥拝石」)がある。

このうち回廊内にあるのは転法輪石のみ。おぉっ、転法輪石!
1.5m×1.2m、高さ50㎝ほどの石が確かに存在(現在は地下)し、鎌倉時代の慈円の歌にも歌われているらしい。位置からすれば遥拝石かと思われる・・・ って、印刷屋さんが原稿を取りに来るまであと30分しかないじゃないの。そういう枝葉末節のことは後にしないと。

結局、原稿を半分残して入稿。残りは初稿時までには確実にお渡ししますので、と確約保障。

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僧形八幡神像?

2016-02-27

とある地方で調査。

像高2尺、一木造(内刳りなし)、両手首先(亡失・後補)の像。耳朶不貫。左衽の衣に袈裟(吊り紐なし)。両脚中央袈裟の下に平緒状のものあり。

右手は形状不適合だが、どうも錫杖を取る形。僧形八幡神像と思しき姿。地方で製作されたものなので時代判定が難しい。
滋賀・金勝寺僧形神像は吊り袈裟の紐が表わされている、本隆寺僧形神像はこの像と同じく耳が正面向きで強調されている・・・などと比較するもどの時代に置けばよいのか全く分からない。困った・・・。
膝の衣文はそんなに深くないが、高さ(厚み)はそこそこある。

こうした地方作の神像類のモノサシはほとんど皆無に等しく、色々考えているうちに10世紀後半から11世紀あたりかと漠然と想像。

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ケシ炭四躰

2016-02-28

こうした神像をみると思い出すことがある。

佐藤眞人「近世社家の吉田神道受容-日吉社司の事例をめぐって-」に詳しいが、比叡山延暦寺と比叡山の地主神である日吉神社(大社)との争論。
江戸時代、日吉神社は行政的にも経済的にも延暦寺(山門)に牛耳られていた。そこで日吉社は京都町奉行に訴え出る。その背景に「習合之神道」を嫌って「唯一神道」にしたいとの意向。その後も争論が続き、寺社奉行の僉議にまで至る。

僉議で日吉社は「七社之神躰元来御座無候」と驚くべき主張。山門側は康正の「七社神躰新造の綸旨」を提出し反駁。 そこで日吉祭の折、社殿を検分すると神体はなく、新しい箱に納められた幣帛が代わりに置かれていた。

後日、事実が発覚。日吉社司が社殿の鍵を預かる宮仕法師の立会いのもと神体を取り出して密かに京都へ運び出して竈の前で焼却され「ケシ炭四躰はかり有之」(『堯恕法親王日記』貞享2年2月8日条)となったことが判明する。「僧形も見へ申候」とも。

社殿の奥深く安置し続けているのも考えものであると思いつつ調書をとる。

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フルボッコ

2016-02-29

某文化財保護審議会へ。

報告事項の最後に、博物館の指定管理者制度の導入。昨冬の議会で既に可決。
審議会委員長を筆頭に私を除く全員が反対意見。各委員の先生はいちおうに研究・啓発拠点が失われたと非難ごうごう。こちらはその指定管理者選定委員になっていたので、非難の矛先は自ずとこちらに。

財政問題が重くのしかかり、市立病院は独立行政法人、図書館、体育館、公民館等社会教育施設は悉く指定管理。そうした中で博物館だけが治外法権であるという根拠は見出しがたい。
首長から「廃止」か「指定管理」かの二者択一(これもおかしいとは思うが)を迫られた当該部局に「直営・継続」の選択肢はない(辞表と引き換えに直訴しても難しい)。

地域情報の蓄積や地元に即した展示への不安意見が相次ぐ。でも財政問題が厳しいさなか、準備室以来の学芸員が次々と退職した事実を忘れてはいまいか。器(博物館)を失うことのほうが将来に禍根を残すのではないかと、うつむきながら思う。
審議会は長時間に及んだが、それまでの議案にあった文化財保護事業を遂行するにもかなり人手と時間が必要。器を維持することで肝心の人材を削られては保護事業全体が弱体化するのではないかと必死に防戦。

我々は別に首長や教育長に嫌われようが問題はない。しかし、現場(第一線)で働く人びとは、首長に嫌われてしまえば、予算縮小、人員削減の“しっぺ返し”が待っている。
委員のごもっともな意見は尊重するが、十数名の職員の生活がかかっていると思えば、お気楽な建前論だけでは済まない。

今日は完全にヒール役。別に構わないけど。

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