日々雑記


ビジネスホテル

2016-03-01

爆買いの余波?

東京方面への出張計画をたて、定宿となったホテルを確認。シングル16,900円~。見間違えたかと再入力しても同じ結果。これまでは8000円弱なのに超高騰。
思いつくホテルを探しても都内はほぼ同じ結果。特に山手線内はひどい。千葉・神奈川も然り。出張旅費の宿泊料ではとても間に合わない。やむなく出張は新年度以降に延期。

東京オリンピックも未だ先なのにと思いつつ訪日外国人旅行者の急増かもと想像。
帰宅途上の地下鉄動物園前駅。重いスーツーケースを抱えて階段を上がるアジア系の人。新今宮駅ではUSJ帰りの中国人カップル。
彼等は昔風の“日雇い労働者向け簡易宿泊所”改め格安ホテルへ向かう。泊まるだけなら全く問題ないし、Wi-Fi(無料)も利用可能。ただ「サービス」で「メイドサービス」ってどういうこと?

こりゃ、通常のビジネスホテルは空いていないはず。
東京出張はしばらく無理だと、スーツーケースが並ぶ関空快速に乗車。

top

Out~!!

2016-03-02

とある席上で、「雑用ができる教員が欲しい」とのたまう大学教員ありとの話。

大学の雑用?と思ってしまう。
何をもって「雑用」と称するのかまったく理解しがたい。雑用といえば、朝の掃除やコピー、お茶出し、電話応対、会議の準備などを思い浮かべるが、殆ど我々教員が携わることはない。細々とした仕事はあるけれどもそれが雑用と思ったことはこれまで一度もない。
だって職場(大学)内の仕事はすべて「校務」と思うのが普通でしょう。

かつて学芸員がなぜ博物館の駐車場整理や知事選挙の開票事務をしないといけないのか等々、といった不平を聞くこともあったが、ぶっちゃけ、それも「給与」のうち。

教員の誰しもが学務等の用務を「雑用」とは思っていないはず。研究と授業だけが本務で、その他は雑用と思う気持ちが既にOut~!!。

top

ハロゲンランプ

2016-03-03

民博でボヤ。原因は撮影業者が使用したハロゲンランプ。

をいをい。いったい何時の話なのか。
旧職でお願いした有名無名の撮影業者の殆どはストロボ撮影。ハロゲンランプやレフランプを未だに使う業者ってどこや?と思ってしまう。
飛鳥園は別格だが、よもや民博で飛鳥園はあり得ない選択肢。

『奈良六大寺大観』(初版)製作時のこと。
某寺でレフランプ+トレーシングペーパー(光の柔軟材)で国宝物件を撮影中、トレーシングペーパーが(レフランプの熱で)燃え出したという話を関係者から聞いた。こちらも二十歳の頃はひたすら“(レフ)ランプ持ち”。撮影中つい眠くなって髪の毛や服を焦がしたこともしばしば。

いまどき文化財撮影にハロゲンランプやタングステン・レフランプをメインライトに使う利点がどこにあるのだろうかと訝る。フラッシュ・メーターが読めない業者さん?

top

閉店ブーム

2016-03-04

何度か利用した関大前通りのモスバーガーが2月末をもって閉店。

このところ、ちょとした閉店ブーム。
今年に入ってダイコクドラッグ(もとampm)、昨秋には100円ショップSeriaが閉店。私の学生時代からあった唯一の”ゲーセン”チャレンジャーも同様。
Seriaの後には、今年に入ってダイソーが入り、チャレンジャーは学生マンションに変貌したが、ダイコクドラッグは“テナント募集中”。

大学通りは実質、半年間の営業期間。
また駅を出てすぐさま大学へ向かう新通学路(第4学舎に直結)も鋭意工事中。ますます大学前通りに人が少なくなる。(上は新アクセス・エリア完成イメージ図)
次はどこかと歩きながら、ふと周囲を見渡してしまう。

ラーメン屋→ラーメン屋というパターンもあるが、なぜかラーメン屋だけは強い。

top

消費税8%

2016-03-07

とある科研費報告をご恵贈いただく。

レターパックライトで送付。ただし10円不足との旨の「通信事務郵便」のはがきが添付。
えっ?といささか不審。
周知の通り、レターパックライトは厚さ3㎝、重量4kgまで。
普段はケーキ用の小麦粉を計るキッチンスケールを取り出して計ると、702g、厚さは1.1㎝。厚さ、重量ともクリアーしているのに、なんでやねん!
郵便局へ文句言おうと、確かめてみると、現在レターパックライトは360円。送られてきたのは値上げ前の350円のレターパックライト。確かに・・・不足。ポストに直接投函できるのは便利なんだけど。

今でも50円切手を貼った葉書にいくら追加の切手を貼ればよいのか、戸惑うこともしばし。封書82円・・・とすれば葉書は51円か?(←学習していない)
消費税8%分は難しい・・・。

明日にでも不足分を払いに行くか。

top

お取り寄せ

2016-03-08

うち(の大学)は4キャンパス。もちろん、それぞれに図書館(図書室)がある。
とある史料集A・B・C。ミューズ・キャンパス(高槻駅前)の図書室に常備され、幸いにも千里山キャンパスにも同じ史料集A・B・Cが架蔵されている。

史料集のとある記述。
誤植だと思い、検索すると『史料集A・B・Cの正誤表』なる書籍があることを発見。再び検索すると、ミューズ・キャンパスのみ常置。
あらっ~。(千里山の史料集だけでは)意味ないじゃん。

大慌てでミューズ・キャンパスから「お取り寄せ」の手続き。

top

三津寺の地蔵菩薩

2016-03-09

終日雨。年度最後の会議。最終入口と出口の会議。

明日から大阪・三津寺で「三津寺仏像群」の特別公開(~15日(火)13:00~16:00)が行われる。
三津寺の地蔵菩薩像に、ちょっと気になる話。

江戸時代の大坂に丸屋清左衛門という男。普段より「行基造り玉フ」地蔵菩薩像を篤く信仰しており、他人からも深く敬われ、最近では「地蔵の権化」「生身の地蔵」との評判も。 清左衛門、在家のあばら家で地蔵様を祀るのもいかがなものかと、三津寺の本堂へ奉納。以前にも増して深く信仰。

宝永4年(1707)10月4日に地震発生。大坂は強震。多くの家屋が崩壊するなか、三津寺本堂にいた清左衛門は狼狽して逃げ遅れ、「手引物」(崩壊建材の一部か?)で倒れそうになったその時、後ろより首筋に何かが飛んできて、避けることが出来、そのまま気を失ってしまった。
気が付いて起き上がってみると、けがも痛みもなく周りの人々が不思議に思って堂内をみると、「地蔵ノ尊像御首ハカリ飛抜テ」壇前に転がっていたという。「身代わりの地蔵」。

まもなく東日本大震災から5年。

top

驚き

2016-03-10

とある史資料。

手元の観察・備忘ノートには順に「六万人」「一万人」「三万」とある。ところが、某国立大学編集の史料集には「六百人」「壱百人」「三万」と。
100分の1の数値。
きっと誤植だろうと、早速千里山に届いたばかりの正誤表を見ると、訂正がない・・・。はぁ?
ノートには全文を丁寧に書写したのでこちらのミスとは思えない。

不完全燃焼のまま、帰宅すると古書店からの書籍が届いていた。ハガキ大の書籍ながら史資料の写真が掲載されている。
眼鏡を外して凝視。件の文字は「百」にもみえるが、5角目がすべてない(日ではなく口)。同じ文面に「百」の文字があり、それはすべて「日」。どうも「万」を「百」と誤読。よっしゃぁ~!!!

ビールも開けずに真剣に書籍を凝視する姿に、家人曰く「帰る早々、何があったの?」と。
なんか殺気立っていたようで、あわてて冷蔵庫に向かう。

実はこの数字は死者の数。悪意すら感じる。

top

深謝の至り

2016-03-11

事情を話してお願いしていた写真がW氏から届く。もう文字もばっちり読める大きさである。
年度末の多忙な中、わけわからんことをお願いして恐縮かつ深謝の極み。
あまつさえ、W氏が既に発表されていることも知らずに、お願いをしてしまう失態も。
このところの不勉強がたたっている・・・。

残念ながら掲載誌は大学図書館や博物館にもなく、一刻も早く読みたくて図書館の複写依頼を頼まず、某博物館図書室(一般公開されている)へ駆け込んで、コピー。

大学に戻ると、博物館から連絡。「お昼に(博物館に)いらっしゃったそうですが・・・」と。
「某館へ行ってコピーして(大学に)戻ってきました)。」「えっ!」
なんせ尻の軽いヤツですから・・・と。(←この場合「フットワーク」が軽いというべきだったか)

用件を済ませて部屋に戻り、深く頷きながら論文を拝読。

top

氷川丸と蒸気機関車

2016-03-12

午前中、プレスチューデントプログラムにて大学。眠い・・・。

文化庁の文化審議会答申(国宝・重要文化財)が出る。世間の話題はもっぱら氷川丸と233号蒸気機関車。

その陰になりながらも、宝山寺・不動明王像及び脇侍像(江戸)や尊延寺降三世・軍荼利明王立像、清泰寺の伝文殊・普賢菩薩像、土塔の瓦(出土品)などが重要文化財に指定。
江戸時代彫刻の重文指定もここ数年増えてきた。国宝は岩佐勝以筆《洛中洛外図》や善春作《叡尊坐像》など。

報道からは世間の文化財への関心・動向がわかるのだが、「233号機関車が重要文化財(美術工芸品)として指定」と謳った 所有者マスコミ 。重要文化財(歴史資料)なんやけど。
どこをどうみれば、あれが美術工芸品にみえるのか。

どっちも大阪。呆れるというよりも頭が痛くなった・・・。

top

読者には分からないんですが・・・

2016-03-13

昨日の記事を読んだ方が、さっそく「体系、間違っていないですよ。」とご指摘。
重要文化財―美術工芸品―絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料、歴史資料。
はい、その通りです。
でもねぇ。機関車や船舶を一般の人に紹介する時に、重要文化財(美術工芸品)ではそもそも分からないでしょう。別に国宝・重要文化財の体系を紹介する内容・ 記事ではないのに。

旧職場は現在、堺市 文化観光局 文化部 文化財課となっているが、「ニサンザイ古墳の周濠から木製橋脚跡が発見。橋の幅は約12mにも及ぶと、堺市文化観光局が発表した」とは書かないでしょ、普通は「堺市文化財課」と書くでしょ。
たとえ、そうした発表がされても「読者(オレ)には分からないんですが(怒)・・・」(←新聞記者の常套句)って、いつも質問しているじゃないの。
どうして大本営発表なら疑問に思わずそのまま記事にするのだろうか、という読者側の(怒)である。

来週には記者懇談会が予定。また「読者には分からないんですが(怒)・・・」に対応するのかと思うとちょっと憂鬱。

top

彫物大工と仏像

2016-03-14

以前、周防大島の大工吉門生運が建築だけでなく仏像までも製作したことを 記した が、周防大島の大工に限った話ではない。

欄間や木鼻、蟇股などの社寺装飾彫刻を手掛ける者を彫物大工、宮彫師、堂社彫物師というが、大坂では堂社彫物師の草花政信・正信、美濃村権左衛門、相野直信が神仏像を制作し、江戸・関東でも後藤(橘)義光が仏像を制作。肩書はおおむね「彫工」。
牙彫で有名な島村俊明も彫物大工出身。“日本のミケランジェロ”といわれる石川雲蝶も仁王像などを制作。あまり知られていない「彫物大工」でも狛犬像ぐらい手掛けた作例は多い。

翻って仏師が彫物(社寺装飾彫刻)が手掛ける例はあまり聞いたことがない。
松本良山が成田山新勝寺釈迦堂羽目板の彫刻を手掛けているが、これも彫物大工の嶋村俊表との共同制作。

仏師と彫物大工との関係が分かりづらいのは、仏師=彫刻史、彫物=建築史という研究領域に括られているからだろう。高山文五郎のように仏師のもとで修業した弟子が彫物師として活躍することも多かったはず、その逆もありうる。
「日本の木彫ふたつの流れ」というものの、殊に江戸時代後期から幕末・明治にかけての「木彫刻」の世界は混とんたる世界ではなかったのだろうかと改めて感じる。

top

練習問題

2016-03-15

午後、心斎橋の三津寺へ。最終日とあって人多し。

参拝後、愛染堂(前堂)には10躰ほどの仏像が安置。全てもと生玉宮寺持宝院の仏像。すべて江戸時代。弁財天像は下井久慶が修復。弘法大師像は見事。「木製男神像」とあるもの、差し出した手の先には龍頭が現れた鉢。十六羅漢像のうち半托迦尊者像。

さて本堂。余間には「木製男神像・二眷属像」。厨子裏には「七條大仏師」銘があるという。18世紀の鎮宅霊符神像なり。聖観音坐像(旧持宝院像)は頭部11世紀、躰部江戸時代の補作。
本堂に入ると愛染明王像に始まり、薬師三尊像、不動明王立像、地蔵菩薩立像、十一面観音像、毘沙門天像、大日如来像、弘法大師像、弥勒菩薩像といっぱい。
このうち薬師如来像(室町後期)、地蔵菩薩像(平安・10世紀後半)、毘沙門天像(平安・11世紀後半)、大日如来像(平安・12世紀前半)、弥勒菩薩像(室町・14世紀~15世紀)以外は室町後期から江戸時代。人波に流されながら須弥壇の前を3回まわって拝見。

本尊十一面観音像は脚間に渦文風の装飾をつけるなどいかにも模古作。不動明王像も古様。
弘法大師像は延宝8年に「大仏師将盛」が制作、月光・日光菩薩像も延宝9年に制作され、延宝8年から翌年にかけて仁和寺僧真空が再興したとの由。恐らく十一面観音像もこの頃に制作されたものだろう。もちろん10世紀の地蔵菩薩像もじっくりと。(もとより頭躰一木造なので「地蔵ノ尊像御首ハカリ飛抜テ」はない)

まず、配布資料を見ずに制作時期を推測。次に愛染堂・本堂の「江戸時代」仏像の制作年代を推測。近世仏像のよい練習問題である。

top

なごみのガラス展

2016-03-16

夕刻、大学にて記者懇談会。

先生方の研究成果の報道発表に引き続いて、博物館春期企画展のご案内。
「なごみのガラス―坂崎幸之助 和ガラスコレクション―」展(4月1日~6月30日)。休館日は日・祝日(但し4月3日、5月15日、6月12日、6月19日の各日曜日は特別開館)

坂崎幸之助って、あのTHE ALFEEの?ご名答です。
ただTHE ALFEEの坂崎氏ではなく、一コレクターとしてというご本人のご意向もあり「坂崎幸之助 和ガラスコレクション」展である。

この企画は当然ながら様々な人を介している。
「船頭多くして 船、山に登る」の諺ではないが、ここに至るまでかなり紆余曲折、胃が痛むこともしばし。今日も某船頭から「『アルフィー』をえらく抑えていますね。それって方針でしょうか。」と小言をたまわる(事情を知らないので仕方ないが…)。
企画展が終了するまで、しばらく胃薬を手離せない。
そんなことは楽屋裏の話。

限定ながら日曜日も開館していますので、大学博物館まで足をお運びいただき、ちょっと古くて懐かしい、きれいなガラスの品々をご覧いただければと思います。

top

たちの悪い世代

2016-03-18

お仕事のひとつに、非常勤講師(新規)の履歴書・研究業績書の確認。
全ての学部・学科からあがってくる総合基礎科目を担当していただく非常勤講師(新規)の履歴書と研究業績書。もちろん事務職員氏が点検、確認したうえで、こちらが最終確認。

ネイティブの先生は履歴書をみると、在日歴がよくわかる。日本で長く勤められている先生は、「アメリア」「Charlotte」などと彫られた丸い印鑑が丁寧に押印。まだ来日して日が浅い先生はグジャグジャと(失礼!)サイン。(別に問題なし)
若い先生は、もっぱらワープロで作成。
履歴書をみると、ここに至るまで苦労されていることがわかる。「予備校の授業担当はカウントに入らないし、それまでの他大学での非常勤歴でクリアしていますので、すみませんが、ここの部分、削除してもらえますか。」などと。ワープロなので、すぐさま訂正してもらい書類を差し替えて、会議(審議・了承)へと持ち込む(役目)。

一番困るのが、我々よりちょっと上の世代。ぶっちゃけ、現場の第一線を過ごし定年後も「俺は偉いんだ」と錯覚している御仁たち。
ワープロも使えるのに、手書きかつ走り書き。書類に規定された事項もガン無視。おまけに大学院や留学をカウントするとトータルで年齢が合わない者も・・・。
どうみても「オレの事ぐらい、知っているやろ」との意思表示が履歴書からありあり。
アンタなんか、知らねーよ。
もちろん再提出を求む。届いた履歴書も乱暴な走り書きで、修正事項もそのまま。会議でバツ!と烙印を押すのもありかと思うものの、非常勤をお願いした学部・学科のメンツもあり、再々提出を求む。何回、あんたの履歴書に目を通したらええねん!

もう少し上の世代や(他大学での)定年後、来て頂く先生は、ワープロや定規をあてたように丁寧な楷書体。もちろん記述すべき事項は完全網羅。

非常勤講師なのでそこまで求めないが、就活する現役学生の方が、教壇上の非常勤講師よりも履歴書をちゃんと書くことが出来るということは、採用する側(小職)に問題があるのではないかと、つい思ってしまう。

ええ歳した大人なんやから、履歴書ぐらいしっかり書けよ。

top

はかまの個性

2016-03-19

昨夜来の雨もあがり、午後より卒業式。

女子学生の多くは「袴にブーツ」という大正めいたハイカラさん的な出で立ち。駅の濡れた階段も母親に裾を持ち上げってもらったりして、たいへん。たぶんそれは草履用の袴?

壇上に進んで卒業証書を受取る姿を見ていて、ふと思い出すことあり。
平安時代の藤原貴族。
“おっさん”からみて、卒業生の袴や小袖(振袖)は全部同じように見えるが、微妙に細部の意匠などが異なる。それは一見些細なことに思うものの、当人にとっては一大事。他人と同じような姿で、本人もひと安心。
誰がみても「今日、卒業式やわ」と理解できる無難さが彼女たちの評価基準である。
「スターウォーズ」のダース・ベイダーもどきで証書を受け取る者は皆無。そこには、強い個性の排除と「ほどほど(中庸)」の論理が働いている。
しかしながら、他人とまったく同じ姿では「没個性」と映るので、そこは小袖の意匠を矢羽根柄にしたり、髪型や髪飾りで個性の表出を図っているようにも見える・・・。
定朝仏と同じ理屈だと納得。

このあと院政期には「過差」の時代がやってくるが、さて現代は・・・。
ともかく卒業、おめでとうございます。

top

現地説明会

2016-03-20

午後より米子八幡神社で神像の説明。建築技術史研究所所長 渡邉 晶先生のご講演のあとに説明。

背後に神像群が並び、パワーポイントも使用。
今回は新たに確認できた7躯(柱)も含めた神像19躰の総括だったのだが、宮司が期待された“マスコミ関係者”は皆無。連休の中日でおおかた地方イベントの取材だろう、きっと。K先生も来られているというのに。

上は調査時の写真(格狭間は別)

右から2番目の大きい像が“例の”僧形八幡神像。像底を観察すると、立膝の女神像(B)と瓜二つの材質と木目(年輪)。側面から背面にかけて“鉈彫り”風の筋目。立膝の女神像(B)は年輪年代測定によって、ムクノキ・950-1063年という時期が想定されている。とすれば、これは11世紀前半の僧形神像である可能性が高い。幅広い年輪を参考にすると、中央にウロがある材木(ドーナッツ状)の左右を利用したのかも知れないと。

向って左端上段の女神像。像容、材質とも別の女神像(C)と同一。像高も33.8㎝(1尺1寸)、別の女神像(C)は33.2㎝(1尺1寸)と対であることが明らか。別の女神像(C)は墨で衣文線を描く特徴。墨の衣文線は僧形八幡神像(D)にも認められ、僧形八幡神像を中央、左右に女神像2柱が併座する三神像と考えられる。

最後に謎の木箱。すべて木箱に収納されていた。
八幡神社は昭和42年の日野川の堤防築堤によって神門のみを旧方向に残して本殿等は移築、再建。おそらくその折、先代宮司が神像群を集められ、木箱に収納されたとみられる。

5時過ぎに神社を出てホテルに向かう。

top

佛谷寺

2016-03-21

快晴。境水道大橋を渡って島根の美保神社・佛谷寺へ。

拝殿は1928年伊藤忠太の設計。本殿は文化10年(1813)の再建。大社造の本殿を並置し、扉を中央に寄せて庇を両殿に掛かるように配置された特殊な「美保造(比翼大社造)」。参拝後、拝観のお願いをしていた佛谷寺。久しぶり。

収蔵庫には「出雲様式」と世間では称される重文指定の5躯(薬師と観音像4躯)その他に毘沙門天像と阿弥陀如来坐像の計7躯。
『雲陽誌』(享保2年・1717年)では、仏谷寺はもと「古三明院」と呼ばれ、中世衰退したが、天正年間に再興とあり、「堂のうちに七躰の仏像あり、弥陀釈迦東方の四(世)尊といふて四躰毘沙門すへて七仏なり」とある。
記述と合うのは阿弥陀と「東方の世尊(薬師如来)」のみ。『雲陽誌』のいう毘沙門天像4躰は現在の毘沙門天像ではなく、観音像と思われるのだが、よもや観音像と毘沙門天像と間違うわけはない。不思議。

その後、名残惜しく八幡神社の前を通り大山を見ながら帰宅の途につく。
連休最終日、渋滞もひとしお。

top

そりゃそうだ

2016-03-22

図書館での写真撮影や校正など、学内で諸々。

京都のとあるお寺(現存)。本尊は「三尺之恵心仏」とされる阿弥陀如来坐像。
ところが、何を思ったのか、元文2年(1737)に恵心の阿弥陀如来坐像を取り除き、新たに木食正禅(養阿/1687〜1763)に「彫刻いたさせ候丈六之新仏」を本尊として迎え入れたいとの申し出。理由は本尊が「小仏」であること。
この件に関しては本山は小仏と言えど「聖作」であり後々まで本尊が重宝であるじゃないかと説得。しかし某寺は門主の母から寄進の銀子も受け取っている、だから認めろと。
もちろん本山は烈火の如くお怒り、「甚だ順理にあらず」と。

本山の指示は、寄進の銀子も返却し、丈六仏像も木食へ戻せとのお達し。しかし交渉は難渋し、本山は「其方、勝手ニ可仕旨(勝手にせぃ!)」と。(元文2年(1737)6月20日『日鑑』)

安永9年(1780)『都名所図会』には何事もなかったかのように、「○○寺と号し、浄土宗なり。 本尊阿弥陀仏は恵心の作なり」とある。
さすがに本山の意向は無視できなかったと思える。

top

石棺仏

2016-03-23

暖かな一日。
大学にて打合せ後、午後から某文化財審議会へ。

昨年諮問を受けた案件について承認後、指定候補物件の視察のため山間の集落に向かう。地元からの要望があったとの由。
古民家や「正和二年癸丑」銘の石棺仏(竜山石)、順手ではなく逆手で錫杖を握る石仏などを拝見。

天候もあってちょっとした散歩みたいなものだと、気楽に構えていたら、石棺仏や石仏は「民俗」と「美術」担当の先生方にと、委員長。
石棺仏は考古学っぽいが仕方ない。は、はい・・・。

途中に大峯山三十三度記念碑(文政8年・1825)。形が「碑伝」型。役行者像もしっかりと。

top

人事異動

2016-03-24

昼から会議と打ち合わせがあり、夕刻から梅田で、博物館の歓送迎会。

事務職員氏の人事異動は3月下旬。
今年の異動は、あの人もこの人もといった具合に、お世話になった事務職員が大幅に異動。
博物館・年史編さん室スタッフでも5名の退職、異動があり、新たに5名のスタッフが着任及び着任予定(新任)。

各々の健康と益々の活躍を願ってやまない。これまで長い間ありがとう、そしてどうぞよろしく。

top

宝永の地震

2016-03-25

昼に会議があり、その後東西研での発表。

内容は この話題

明治5年まで地蔵菩薩像は河内国交野郡星田村愛染律院にあり、銘記は昭和29年の美術院の修理時に判明。東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第3巻別巻(1983年)に所収。ただし、大坂の死者数「六百人」、淡路では「壱百人」と記しており、銘記をよく見るとそれぞれ「六万人」と「壱万人」。

宝永4年(1704)10月4日午下刻~未上刻頃に、紀伊半島沖を震源として発生(震源には異説あり)。現東大阪市・八尾市は震度7。その他の大阪も震度6強~6弱。倒壊家屋から逃げた人々は上荷船・茶船、あるいは橋上に避難。2時間ほど過ぎた申上刻頃に津浪が大坂へ襲来。川口に停泊中の菱垣廻船などの大型船舶が津浪とともに河川を遡上、大型船舶は橋や岸の家屋をなぎ倒し、上荷船などの小型船舶を巻き込んで、日本橋まで至る(「日本橋ニて船止リ申侯」)。研究によれば、津浪は標高3.6mまで遡ったとされる。

大坂での死者数。
同時期に成立した史料のみを抽出した一覧表。これには訳があって『新収日本地震史料』第3巻別巻では、同時代史料のほか安永地震(1854~1859年に各地で頻発)の際に記された宝永地震の情報や戦前に編纂の市町村史の記述、「郷土むかしばなし」までが混在して網羅(?)されている。
その結果、柳沢吉保『楽只堂年録』の260人は論外として、「諸国大地震大津波一代記」の15,620人から「宝永四年丁亥十月四日大地震之由来」の30,661余人まで。
やや史料の幅を広げると、浦田家(伊勢御師)文書の『蔵人日記』に17,600余人、「地震津浪聞記」の29,981人、「京師大地震例」30,000余人、『若松市誌』所収の「三好家記録」では46,644人。
銘記が地震発生2ヶ月後に記されたことを思えば、「六万人」という数字もあながち「想定外」ではない。

思いつきと思われてもどうかと思い、銘記の「其外中國四國二て三十万程志(死)する」は『基熙公記」の「四国土佐大震、人民四十萬死云々」(大坂の死者は25,000許とする)にみえ、「十一月ふじの山屋(焼)くる事よるひる十五日が間」も、富士山噴火は宝永4年11月23日から12月9日未明までの16日間とほぼ符合。時間の都合上、富士山の噴火についてはほとんど割愛。
ただ矛盾がないわけではない。午下刻~未上刻頃に地震発生、津浪は申上刻頃に到達とされるが、「大地志ん昼四つ時つなミ晩八つ時也」と。

大坂の死者が2万1千人超であると推定しただけでも新聞沙汰となる現状。他所で話をするわけにはいかない。
思考のプロセスは正しかったと思うが、誰か反論してくれと切に願うばかり。

top

源氏絵と歌仙

2016-03-26

ようやく春休み。

久保惣記念美術館「源氏絵と和歌―和のこころ」展へ。
重要文化財の土佐光吉《源氏物語手鑑》は「柏木 一」「横笛 二」「竹河 一」など9面が展示。じっくり拝見。もっとじっくり味わいたいと思った昔の人もいたようで《白描源氏物語絵巻》は竹河だけの巻子本で絵5図からなる白描絵巻。
益田鈍翁旧蔵の伝狩野探幽(「筆峯」)《源氏五十四帖》も秀逸。

別室(第6展示室)に入ると古筆切に続き、土佐光吉の門弟である土佐光陳(みつひさ)改め住吉如慶《三十六歌仙画帖》、如慶の嗣子具慶の《西行物語画帖》。 土佐光陳から住吉如慶への改名は後西天皇の命により寛文3年(1663)に住吉大社の絵所預(住吉絵所)に任じられたことから。如慶の代より御用絵師として江戸出張が続き、天和3年(1683)に具慶は京都から江戸へ転勤。
《西行物語画帖》は俵屋宗達模写《西行物語絵巻》(原本は禁裏本)と近似。三十六歌仙と土佐派繋がりで土佐光成《新三十六歌仙図》、伝土佐光成《六歌仙画帖》。《六歌仙画帖》は六家集からそれぞれの和歌を2首、そのうちのひとつを絵画化したもの。《東下り・佐野渡り歌絵図屏風》は見事。「東下り」(右隻)はどこかで見たことのあるような気がする。
緒方月耕《源氏五十四帖》は上品ながらもどことなくうら寂しい雰囲気が漂う。

優品の数々を堪能しつつもやや不満足。実は、《有明図蒔絵硯箱》(明治)には「葦手絵」として「聲」「春る」など4文字があるとするが、肉眼(老眼)では2文字しか見つけられなかった。明治の職人に負けたか・・・。
忸怩たる気分でショップにて絵葉書を選んでいると「単眼鏡貸出」とある。すぐさま借りて展示場に舞い戻りしばし凝視、観察。「おっ、ひとつみっけ!」「これは2文字分か!」と。
満足し展示場を出ると、ばったりA先生とお会いする。失礼ながら意外。

top

憧憬の山水

2016-03-27

本日は大和文華館「山水-理想郷への旅-」展。

唐招提寺総持坊の僧である鑑貞《瀟湘八景図画帖》。各画面をみても瀟湘八景図のどの場面に該当するのかはわからないが、解説に「鑑貞自身の解釈」とある。律僧の余技と思える作品だが、なかなかのセンス。
伝周文《山水図屏風》は余白を生かして奥行きを浅くみせる構成。素直にいいと思う。『(原)三溪帖』によると家康から松平直忠に贈った「周文筆四季山水図屏風」二双のうちのひとつで「狛帯刀」に贈られたものとされる。
伝狩野元信筆《奔湍図》はもと襖絵。とうとうと流れる滝壺あたりが掛幅となっており、失われた上も見たいと思ったり。渡辺始興《金地山水図屏風》の裏面には仔犬の姿がちらりと見える。

少し変わったところでは森徹山《暑中芙蓉峰図》。文化元年(嘉慶9年・1804)に江戸上りした琉球書家の古波蔵親方(鄭嘉訓)による賛。賛文は名護親方(程順則)による。朝鮮前期の《雲山図》6図は、もと八曲屏風の内の6扇分。「李長孫」「徐文宝」「崔叔昌」の落款。

中国山水図は作風も興味がわくものの、伝来や由来にも歴史を感じさせる。管道昇《紫竹庵図》は内藤湖南の鑑蔵印、方士庶《山水図冊》は羅振玉・長尾雨山の題跋、収めた帙題は内藤湖南、宋至の肖像を高士に見立てた《聴松図巻》は「(張)学良」の白文朱印。

最後は《京畿遊歴画冊》。「六田ヨリヨシノヘノボル道」と吉野・六田からの遠望。

しばらく近世絵画の優品に縁遠かったからか、久しぶりに絵をみてドキドキ・ワクワクしつつ充実感にひたる。

top

素顔がいちばん

2016-03-29

午後より調査。以前に調査した分の補足調査。特に後補部分。指定候補としてあげたいとの由。

両手肘から先、天衣遊離分、足首先、瓔珞、天冠などの金属金具、表面の漆箔、右指先も5指とも欠損などと。
あれもこれも指摘し筆記しながら、担当課職員氏の表情が徐々に曇るのをみて「ぜんぜん大丈夫ですよ」と。

慰めではなく、この程度の後補ならよくある話である。
逆にオリジナルがかなり残っているが、現代風の漆箔や“極彩色”に施された像はやや躊躇。
いくら当初の造形が残っていると訴えても、最近の修復でピンクや青に塗られた像は他の委員からかなりの疑義が出てくる。いっそ現代の彩色をすべて除去してしまうほうが話はすんなり行くが、新しい修復ゆえ、そういうわけにはいかない。

「人は見た目が9割」というが、厚化粧した仏像は本性を隠してしまう。仏像も素顔がいちばん。

top

涅槃図

2016-03-30

午後、京都・寺之内本法寺へ。京都の桜は今が見ごろ。

涅槃会館(宝物館)は名の如く、長谷川等伯の涅槃図を掛けることを意図して建設。2階ぶち抜きの巨大壁面。
まずは大涅槃図を前に立つ。圧巻。

画面右には「願主 自雪舟五代長谷川藤原等伯 六十一歳 謹書」左には「叡昌山本法寺 常住 慶長第四己亥年卯月廿六日吉辰 従持沙門日通(花押)」とあり、 等伯自身が願主で、還暦の節目に描かれた作品。
香机上の貼紙には『御湯殿上の日記』に慶長4年閏3月26日の事として「はせかわと申す物かき候とて、大なるしやかのゑ御目にかくる」と後陽成帝の叡覧に供せられたことが記されている。
(見えないが、)裏面に等伯自筆の願文。「浄松(久蔵の弟カ)/道順(久蔵)/妙浄(先妻 静子)/祖母妙祐/祖父法淳(無文)/教行院日受/慈父道浄(宗清)/悲母妙相/等伯 逆修/妙清(後妻 清子) 逆修/妙福(清子の母)」とある。
慶長4年は長谷川久蔵の7回忌。それにあわせて一族の菩提と自ら夫婦の逆修のために描き、本法寺に寄進。
監視係の方と見学のご婦人との会話。
「久蔵の7回忌」まではよかったが、「摩耶夫人が描かれていないのですが・・・」と聞かれ、監視係曰く「久蔵は先妻さんの子ですんで。」には、思わず苦笑。

普通の涅槃図には純陀がいる位置に、頭頂部だけを剃った髭ずらの男が片肘つきながら釈迦を見ている。目はうつろ。誰だろうか。大涅槃図の傍らに傳大士像と普建像。江戸時代初期か。
2階からも拝見し、舐めるようにじっくり。

その他、赤楽茶碗には、宝暦年間に楽吉左衛門(長入)が本法寺に奉納した茶碗10個が天明の大火で2個しか残らなかったので、紛失を恐れて十乗院日泰が新調したとの箱書。 2階には片山尚景《日親上人徳行図巻》、等伯筆《日堯上人像》などが展示。《螺鈿四方盆》と《堆朱香合》はセットで伊丹某からの施入。狩野元信《猿猴図》はご愛嬌。
別室では明兆十六羅漢図のうち1幅と山楽「唐獅子図屏風」、胸中央に謎の▽マークのある釈迦如来像が安置。庫裡入口には、狩野永祥門人の渡辺祥益による墨画獅子図の衝立。

境内に出て、仁王門内を覗く。仁王像は寛政9年(1797)林如水の作ながらよく見えない。

かなり時間を費やしたため、表千家や裏千家、妙顕寺など通って帰途に。妙顕寺塔頭泉妙院には尾形(光琳)家の墓所あり。光琳の作品に日蓮宗関係がないのはなぜなのかなどと考えながら・・・(こちらが知らないだけなのかもしれない)。

top

ウランガラス

2016-03-31

大学博物館「なごみのガラス展」展示完了。

今回の見どころのひとつに「ウランガラス」。
暗い中で紫外線ランプをあてると蛍光を発するというガラスの器。
坂崎コレクションにウランガラスの鉢器がある。

学芸員諸氏が展示作業で忙しくしている中、ふらりと展示場を見学。件の鉢器をみて、似たようなものが我が家にもあることに気付く。
普段、素麺や黄色のピーマン、プチトマトのサラダを盛っているが、ガラスということもあって家人は使うことを嫌がる・・・。
25、6歳の頃、神戸の古道具屋で何気なしに買ったもの。値段はチャーシューメン1杯分。

後日、相変わらず大忙しの展示場に持込んで、そっと紫外線ランプをあてると、“光った!”
さっそく“寄贈”の手続きを取ろうと、自宅に帰って事情を話すとなんだか渋っている。
「もっと使い勝手のよいガラス器を(代替として)買うので・・・」と説得するも、「あなたが買ったものだからどうぞご自由に!」とそっけない。
しばらくは研究室にて保留。

夕刻過ぎまで関係者と話し込む。

top

過去ログ