Diary

Sunday, August 29, 2004
京都から帰宅。当面外泊の予定はない。
仕事仕事。
月はだんだん大きくなっている。はず。
京都から名神で帰ってきた。

昨日乗ったタクシーのうんチャンは
「明日は夏休み最後の週末ですから子供のいる家庭では夏休みの宿題で
手一杯ですよ。人なんて全然出てきませんよ」といっていたにもかかわらず、
名神の車は家族連れと思われるグループが多かった。道にも自転車漕いだり
してる人いたし。あー夏休みも終わりなんだ、と。
自分はまだ終わらないのに淋しい気持ちが....

自分は終わらないけど仕事あるんですよぉ。仕事。

仕事仕事言っていると、ほんとにあるのか、暇だと思われるのがいやで言っているのか、
わからなくなってくる。個人的な好みとしては「忙しい」というのは恥ずかしいことであるように
思われる。しかし、暇だと思われるのも悔しい。複雑。

Thursday, August 26,2004
日本言語学会の夏期セミナーで京都にいる。日曜日まで。
受講してます。関連性理論が面白い。

Tuesday, August 10, 2004
串本から紀伊勝浦に移動。マグロ市場を視察。w
一昨日から快晴。

Tuesday, August 3, 2004
夏合宿二日目。今日から数日来るMFM先生を迎えに駅へ。
海は頭がぼんやりする。今日は雨。
花村萬月は読めば読むほど感服する。

Sunday, August 1, 2004
昨夜は月がきれいだった。雲にけぶっていた。
今夜が満月らしい。
満月といえば、花村萬月を読み始めた。上質である。うっとりする。無頼派だが
読んだことがない人には一読をお勧めする。
もう一冊並行して読んでいるのは、長野まゆみ「天体議会」これも超上質である。
古本屋でこの人の本を数冊見て、一番文字の詰まっているやつを選んだ。原稿用紙
にそのままみたいな文字の大きくてまばらな作品はあまり読む気はしないけど
なるほど、詩(ポエム)みたいに意味が濃縮されている。

今日から和歌山に夏合宿にいく。


Saturday, 31, 2004
また、台風が来ている。この間きてたのが六ちゃんだったのに、7号、8号、9号はいつ通り過ぎて
いったんだろう?「号」で数えるもののカテゴリーも面白い。鉄人28号、あずさ2号、6号のシャツ?
二号さん、日本語の「本」で数えるもののカテゴリー(鉛筆が1本、手紙を一本出す、映画を3本も
見た、柔道で、「一本!」など)の研究は昔有名になったが、「号」もいけるかも。

締め切りに追われて(つきまとわれて、逃げまどって)いるので、詳しくかけないが、今、
プロダクションシステムについてよく考えている。プロダクションといっても芸能プロダクションとか
いう類ではなく、自然言語処理でいわゆる、

アンダースタンディング(理解)←→プロダクション(生成)

というプロダクションである。例えば、言葉の話せるロボットを作ろうとすると、
音声に関しては、音声認識(理解)と音声合成(生成)が大別して存在する。
コミュニケーションに関して言えば、受信←→発信の発信側、である。

これは、いろいろな場面で出てくる。一番わかりやすいのは、英語学習のListeningとSpeaking
の関係であろう。ということで英語学習にも関係有るぞ。

その他でいうと、歌を鑑賞する能力と歌う能力、
人の説明の論理を理解することと、論理を組み立てて説明することと、などなど。

「cricketの読んでわかる漢字は一万語近いが、書ける漢字は千語ちょっとじゃないかなあ」って
いうのはよくネタで使って来たが、最近、とませろ(Tomasello)という人の研究で幼児の発達
段階における理解語彙と使用語彙のグラフを見たが、幼児の理解語彙は使用語彙の10倍近い。
理解語彙と使用語彙の不均衡という意味では、あながち私のネタも間違っていなかったのだと
いうことが判明。

ということで、聞けたらしゃべれる、しゃべれたら聞けると思っているが、意外と必ずしも
そうではなく、関連はするがそれぞれかなり独立したシステムと考えるのがよいようだ。


んでプロダクションシステム

cricket の今考えているのは、自分の仕事に関してであるが、仕事のアウトプットを出していく
際、どういう風にすれば一番効率よく、素早くできるかを考えている。

いまのところ、プロダクションシステムの特徴として考えたのは、次の2点だ。

1.Top-Down (トップダウン)
2. Linearity (線形)

トップダウンとはすなわち、目的を明示し、それを行うためには何をしなければならないのか、
そしてさらに、その分割した行動を達成するためにはなにをしなければならないのか、
という形でどんどん、小さなレベルにトップダウンで分割していく、ということである。

線形とは、並べる、ということである。仕事がいくつかあったら、並行してやらないで、
順番をつけて、前からたゆみなくやる、ということである。


ということで今からやります。w

皆さんは夏休み、楽しんでくださいね。

夏休みに関して

毎年、夏休みや春休みの後は、消化不良な思いでげんなりする。しかし、それは、よく
考えると、ダブルブッキングやトリプルブッキングをしているのだと思う。夏休みに
なったらこれしよう、あれしよう、遊びもしたいし、普段連絡してない人にもたまには
連絡しないと、なんて、やりたいことを山ほど計画しちゃうので消化不良になって
当たり前なのである。この対策はふたつにひとつ。

1.時間を割り振ってすべてこなす
2.全部忘れて遊ぶことに専念する

しょうこりもなく1にトライしようとしているアリ型cricketなのであった....
(もちろん遊びもふんだんに計画中)


Tuesday, July 27, 2004
23, 24, 25 とN教育大で講義。F城教授、S井さん、T中さん、K文さん、クラスの皆さん、
どうもありがとうございました。お疲れ様でした。

帰国(旅行記予告)以来どうも不規則な生活が続いている。

旅行中ずっとあまたの中を回っていたテーマ曲は、山崎まさよし(元ちとせもカバーしている)
『名前のない鳥』だ。フレーズはこんな感じ。

♪名前のない鳥
♪主のないXX
♪何にすがったときにひとつの旅は終わるんだろう?
♪裏切られるよりは彷徨う方がいい

んで歌ってるうちに(歩きながらうたったりしてたんですが)

名前=主=本当にすがる対象=創造主=意味
鳥=旅=彷徨う=人/人生

であると納得。

1.物に作られた意図があるように、人にもその人を作った(人格形成
で大切な役割を果たしたという意味でもいいし、宗教のように神と考えてもいい)
人とその意図がある。

2.人はその人と別離した/神の意図を知らない小さな生き物であり、
人生はその大切な人/意図を求めて彷徨う旅である

しかし、セビリアでは深夜を過ぎてもあちこちの街角でbar (バール)が、路地に
テーブルと椅子を張り出しており、近所の人々がカップルや家族連れで
ビールを楽しんでいる。きっと毎日毎日だ。この人たちは何が楽しいんだろう?
って考えたけど、それ自体で楽しいんだよな。そういう人生もあるんだな、って思う。
というより、人間はそれほどあくせくしなくても食べていけるのであり、日本の
方がおかしいのかもしれない、とも思った。


Friday, July 23, 2004

おひさしぶりです。ひとまずご挨拶まで。今日から3日奈良に行って来ます。
いえ、仕事です。

Monday, July 5, 2004

忘れないうちに緊急報告。cricketはちょっとフランスいってくるから。学会でてその後
スペイン刺殺。いや、視察。ブレリアというリズムを獲得しにセビリアへ。というわけで
July 20 まで更新できないけど、インターネットカフェにパリやセビリアで行けたら、
BBSの方に顔をだすのでそこんとこよろしく。^^ 写真も一杯撮ってくる予定。タイミング
よく部屋に来たらお土産もあるかも。いや、7月、8月下旬まではあんまり研究室
いないと思う。8月末に日本言語学会の夏期セミナーがありこれに出席する。学生
2万円は痛いかも知れないけどこれだけ豪勢なメンバーに一週間毎日教えを受けられる
ことを考えると大変安い。格安である。言語学に興味のある人はぜひご一考。締め切りは
7月15日まで。んでは、ちょっとの期間、A bientot, Hasta la vista!


Sunday July 4, 2004

昨夜は、Cのり(店の名前)でWater Boys 見てた。かなりいけてた。竹中直人が脇だと
ストーリーが締まるなあ。

平岩弓枝→兼高薫→戦争を知らない子供達→戦争、と脱線して、平岩弓枝の話が
止まってたので続きをば。

大企業の経営者、大病院の跡目争い、家柄、お手伝い、妾、妊娠、中絶、結婚、婚約解消、
パリ、イタリア、サンフランシスコ、といった中で、嫌な奴に囲まれた女性主人公が少数の
いい人々に支えられて結局ハッピーになるっていうのが共通したストーリーかな。

このサイトを見てる人はこういった本を読まないという前提でちょっとネタばらす。

「女の河」大企業のワンマン社長の後妻となった元秘書の若くて超美しい女が主人公。
社長夫人に横恋慕してしまうその会社で同期のモーレツサラリーマンの許嫁(婚約者)
である大学教授の娘に恋をしてしまうイタリアのツアーコンダクターのバイトの青年
が実はその社長夫人の姉一人弟一人の実の弟というのが既に笑える。

つまり 社長夫人←(同期:片想い)エリート社員←(婚約)→教授の娘←(片想い)ガイド

で、社長夫人とガイドがこの世に二人しかいない肉親の姉弟というわけだ。
これに、社長の座を狙っている腹違いの専務の娘(19)は、ガイドに一目惚れしてしまう、
教授の娘の年の離れた腹違いの姉は大阪でクラブのママをしており、そのパトロンで
政権党の有力者の息子は秘書で放蕩息子、こいつが、専務の娘(19)と見合いさせ
られるのだが、本人はモーレツ社員の許嫁の方に一目惚れしてしまい、パパを通じて
モーレツ社員の会社に圧力をかけて無理矢理自分の婚約者にしてしまう。
などなどなど。ちなみに海外旅行の舞台はイタリアだぁ。ということで:

複雑な人間関係を学びたかったらこれ。→「女の河」


「女の顔」サンフランシスコ育ちの身よりのない薄幸な美人、「まさき(♀)(23)」が母の遺骨をもって
因縁の父母の実家を訪ねる話。まさきがあまりによい子であるところ、および、会う人会う人が
まさきに狂ってしまう(ん、LOVE IS MADNESS メタファー、日本語にもあったね)ところが特徴。
気は優しくて気が付いて、おまけに若くて美人のアメリカ育ち娘って西田ひかるみたいな感じ
ですか?いや、どっちかというと内気なところが西田ひかるとは違う。西田ひかるは
「気が優しくて気が付く」だろうか.... サンフランシスコでまさきが死んだ母親とバイトしてた
日本レストラン胡蝶のモデルは、「蝶々」。cricket もいったことあるぞぉ。ということで:

けなげでやさしくてかわいい女性を追体験したかったら(またはその無防備さにやきもき
したかったら)→「女の顔」

「午後の恋人」これはもう、はっきりしている。けなげで美しくて気が利く女性が主人公だが
こちらは40才。夫の愛人(26)(モデル)に子供ができたから、という理由だけで離婚されて
しまう。しかし、夫の愛人は金が目当てのひどい奴。その子も他人の子だった。が、ともかく、
40才で離婚された女はどうなるか?うんにゃ、けなげで気が付いて美しい(その上、叔父が
高名な画家の)女性は、3人の男にプロポーズされ、一人の男に店をまかされ、叔父とその
親友には大事にされ、前の夫には復縁を迫られ、あげくの果てに26才の天才鼓師の子供を
生む。ということで:

40才になったなら、または40才以降の自分に不安を感じたら→「午後の恋人」

ちなみに、「午後」は、「盛りを過ぎて」の比喩。「昼下がりの」でもいいかな。
A LIFE IS A DAY メタファー。有名なスフィンクスの謎かけ

「朝、4本足で、昼間2本足、夕方になると三本足、なーんだ?」(答え:人間)

っていうのでも使われている。

それから、本文の中に、70才の女性が、
「女の40前後は、散る前の桜の美しさに似ている」

という趣旨のことを言っている。これもメタファー。

そういえば、「肉も腐る前が一番うまいっていうもんな」とちゃちゃを入れる向きもあろうが、
これもメタファー。

「悪くなる直前が一番いい」
って言えるかも知れないが、それだと、「桜」「肉」特有の旨味がでない。

「男の50代は腐る直前の肉に似ている」とはなかなかいいにくい。

ただ、散り際の美学っていうのは確かに存在して、これは日本の文化的なものかも。
どうすかね、比較美学/比較文化のMFM先生?

その他読んだ本

林真理子「みんなの秘密」 林真理子は嫌いだし、その才能に疑問符を呈していたのだが、
これはいけてる。オムニバス方式だが、有る話に出てくる登場人物が次の話では主人公に。
順番に回っていくシステム。だから、有る話で、主人公のK子が酒場でくどかれて寝てしまって
お金をもらった次の話の主人公はそのお金を払った人の日常が主観的に描かれる。

乃南アサ「五年目の魔女」 嘘つきで自分勝手でどうしようもない女友達の話。
これね、昔考えていました。嘘つきってどうしてあんなに自分のいいようにストーリーを
ひっくりがえせるのだろう。

例えば、ストーリーの中の「魔女」(A子とする)は、

妻子有る課長に接近、つきあうようになる。
独立を考えていた課長がやりたかった仕事は運送業、なのに、A子はパブを強硬主張。
パブをして失敗、3ヶ月で700万の借金に。
A子は奥さんと別れてくれないと死ぬといい、手首を切って自殺を図る。。

という、ストーリーが、A子の口からは:
課長に無理矢理口説かれる
一緒に事業をやってくれと頼まれる。飲食業はだめ、といったのに、彼はパブを始める。
彼から結婚を迫られる。借金の肩代わりさせられるからいやだといったのに、
一緒になってくれないと死ぬといわれ、無理心中させられかけて手首を切られる

になる。ん?どっちが真実かは藪の中、か....


宮本輝「五千回の生と死」
宮本輝のことは、あまり好きではなかった。才能もないのにやけにきばってる、と思ってた。
でも、ぐるーっと回ってきてこの本を読んでみると、うまくて深いね。さすが違いがわかる男だね。
それよりも、この本、一回読んだことあったんだ。どこで読んだか覚えてないけど、K大前の
古本やで買ったこの本、kinokuniya $19.17 のシールが貼ってあるんだ。サンフランシスコに
いたときは本は紀伊国屋だった。もしかして、この本、これが読んだあれ?もしかして巡り巡って
こんなところにきてたのか?......


Wednesday, June 30, 2004
A元先生の書き物。おもしろいのでリンクする。A元先生はもしかしたら、cricket サイト上で
生シネつぶ(シネつぶ=シネマのつぶやき)の連載をしてくれるかもしれないぞ。乞うご期待。

そろそろ平岩弓枝についてコメントする。平岩弓枝とは「肝っ玉かあさん」「ありがとう」
など、一時代を作ったシナリオライター兼作家である。今で言えば、野島伸司、いや、それも
ちょっと古いな、北川悦吏子でしたか、あのランクだけどもっと長い間もっと大きなヒットを
飛ばしたと思う。

読んだ本「女の河」「女の顔」「午後の恋人」(それぞれ分厚い上下巻)

結論から言えば、あんまり書くことはない。読んでいて楽しい。ハイソな感じがする。
「泥藍の大島紬」とかいわれて、ほーっと思うが、どんなものかわからない。
大時代的な感じがする。『兼高かおるの世界の旅』という番組を思い出した。戦後復興期、
安定成長期、やっと余裕が出てきて外に目が向いてきた時代だ。
「僕らの名前を覚えて欲しい、戦争を知らない子供達さ♪」などという本当にたわけた
歌が流行った時代である。当時はわからなかったが今は「たわけた」と感じる。
「戦争を知らない」ことが勲章のように語られる、「戦争を知っている」ことが屈辱の
ように感じられる。しかしまさにそのように取り扱われてきたのだ。

敗戦=シミ=汚点=悪いこと=罪=屈辱
戦争を知らないこと=汚れないこと=無垢なこと=勲章=希望=星=ハト=希求

バカじゃない?そういうメンタリティが戦争を作るんだよ。w

迷走しそうなのでできるだけ早く切り上げる所作をする。

また、誤解を招かないように、「バカじゃない?そういうメンタリティ云々」を説明する。

太平洋戦争は多くの個人にとって降りかかってきたものであって望んだものではない。
もちろん、そこには個人と社会の問題が存在する。社会として起こったことに対して、
個人はその応分の責任を追求されても仕方なかろう。

応分、というのは、その時、占めていた役割、権力などによる。

そうすると、例えば、当時10才の子供には責任はなかろう。
だから、最低でも戦争を「知っているか知らないか」で責任の所在が別れるべきではない。

そして、社会はそれ自体の自律的運動をする。黒船、明治維新、自動車や電気の発明と
家庭電化製品の普及、反動としての大不況、ブロック経済、第2次世界大戦、という
モメンタムには、ある一時代の一社会(第二次世界大戦中あるいは直前の日本)の意図と
判断だけではなかなか止めるのが難しい歴史的うねりがある。

「戦争を知らない」というのは単にラッキーなだけであって、自慢できることでも何でもない。

大体、「戦争」を「知らない」ってどういうことだ?

「戦争」という名で表現されているのは、太平洋戦争のことであり

「知らない」という語で表現されているのは、「日本国が戦闘状態にある時代に生まれてなかった」
という意味だろう。

以降、戦争は朝鮮、ベトナム、イラクなどなどなどどこにでもあり、
それはテレビなどメディアを通じて「知らされている」のである。

「航空機が墜落しました。日本人乗客はいませんでした。よかったですね。」というメンタリティである。

そういう点で、時代的にも地域的にも大変近視眼的で自己中心的である。
近視眼的で自己中心的、結果オーライ主義、因果関係をわかってないこと、こういった
ことを「そういうメンタリティ」という言葉で表現したのだ。

もちろん、「太平洋戦争を実体験したことがない世代が大きくなってきたのだ。この平和を
守ろう」という象徴として、「戦争を知らない子供達」のすばらしさを謳歌しているという解釈は
なりたつ。しかし、その場合、他者の視点がとられるべきで

「僕らの名前を覚えて欲しい、戦争を知らない子供達さ♪」

などと自分たちで歌うのは傲慢のそしりを免れない。

そして今や、「戦争を知らない」なんてうそぶいてさえいられない時代なのである。


Monday, June 28, 2004
土曜日の夜、京都駅の夜景がきれいであったが写真にはうまくでなかった。日曜日、原宿は
盛況であった。景気は明らかに回復している模様。就職活動のひとつの狙い目は、東京、
または東京を本社とした企業かもしれない。

虫メタファー
cricketは明らかに脱皮している。一皮むけた、という表現もあるが、実は脱皮というより、
羽化に近いかも。さなぎってさぁ、(さなぎの検索12, 3, 4, したところ「さなぎ幼稚園」を発見。
あー、さなぎ幼稚園園歌が気になる(しかし、さなぎ幼稚園の下位グループが
「いちごクラブ」っていうのは写像に一貫性が欠けてやしないか?言い換えれば
構造性が欠けているのでは?あおむしクラブや毛虫クラブ、みのむしクラブや繭クラブのが
いいだろ?(よくないか.....))聞くところによるとそして、インターネット検索をしたところ、
さなぎの中はやはりどろどろで、幼虫から成虫へ組み替えが行われているらしい。すごい。
んで、cricketも今そんな状態の気がする。いや、中身がどろどろ、っていうところじゃなくて、
組み替えが行われているってところね(ちなみに殻を閉じているとか、引きこもってるってとこでも
ないからね)。

検索してみると、幼虫がさなぎになる部分の不思議さや、さなぎから蝶がでてくる不思議さ
については大変多くの記事がある。

しかし、変化というのは目に付かないところで一番大きく起こっているのだ。(のはず。(希望))。


Sunday, June 27, 2004
長い話を縮めていうと今東京にいる。書きたいことはたくさんあるのだが、取りあえず
メトロン君のページを作成。

Wednesday, June 23, 2004
台風一家。「パパったらあんなに先にいっちゃって。」「ななこ、早くこいよ。」
「ちょっとまってくださいよ、あなた。八助がまだ用意ができてないんですから。」

一寸の虫にも五分の魂。約3cmの虫にも約1.5cmの魂か(でかっ)

昨晩はカンテのO本師匠のところにいく。O本師匠は、「関西屈指のカンタオーレ(カンテの謡い手)」
だそうである。私の密かな夢はO本師匠とともにデュエットでCDデビューを果たすことである。
(おひおひ、こんなところにかいちゃったら密かでもなんでもないじゃん...)かなわぬ夢であろう。
ミニCDでもいいのである。自費出版でもいいのである。ネタである。それはともかく、O本師匠の謡は
超一流である。もしその名前を見ることがあればぜひ一度聞いてみて欲しい。ちなみに奥さんが
若い。バイラドーラ(踊り手)であるらしい。未だ拝見したことはない。それはともかく、O本師匠には
大師匠の称号をうやうやしく奉りたい。(ちなみに私に師匠は一人だから大師匠でも師匠でも同じ
ようなものだが)先生の中では、個人的には、I上大先生、K上大先生、K広名誉大先生あたりが
大先生の部類である。既に大先生の風貌と実績を兼ね備えつつ実年齢がお若いため大先生と
申し上げておらない先生方、逆に、大先生の実績と年齢を兼ね備えつつ、こちらの勝手な親近感
から大先生とおよび申し上げておらない先生などが存在する。(内輪ネタですみません)(^^;)(^^;)

奄美の某女性歌手が好きだった関係上、演歌と島唄の関係に関してもちょっと考えた。
その答えは、「ま、だいたい一緒だな」であった。カンテと島唄の関係についても考えた。
カンテにもコブシが存在する。カンテにもウナリが存在する。そこで密かに考えたのは、
次の本の出版である。

世界の音楽シリーズ その1 世界のコブシ
世界の音楽シリーズ その2 世界のウナリ

もちろんこれもネタである。文学部の提供科目で「世界の音楽」というのがあるのを見たときは
はっとした。そういうことやってるひとがいるわけね。聞いてみたい.....取ったことある人が
いたら教えてください....

いちおう、言語学的にコブシについて簡単に考察しておく。コブシとはどうも音(音程)が急激に
下がるところのようだ。pitch が急激に下がる。音量が急激に上がる。(音程が急激に下がる前に
助走のようにちょっと持ち上げる場合もあろう。)いわゆるアクセントと同じだ。これに伴って、
pharynx (咽喉)あたりでベルヌーイ効果および筋肉の運動によって、強いい摩擦が一回または
数回繰り返されるもの。って感じかな。(ベルヌーイ効果を引いてたら思わぬページを発見。
言語聴覚士音韻論)今や超高速ネット接続さえあれば知識の泉は無限だぞ)

檄。

cricketは知る人ぞ知るカフェ・ジャポネーズ ファンである。(ちなみに、PJM先生は、常に
あのcafe japonaiseというスペルに関して、「cafeは、男性形なので、最後の"e" は必要なく、
cafe japonais とするのが正しい」と力説なさる)。カフェ・ジャポ特製Tシャツも持ってるぞ。
(購入した)(が、昔カフェジャポと呼んだが、「ジャポ」と呼ぶのが正しい呼び方
だそうである)。で、あそこの店長のにーちゃんの話だ。彼は、(確か)高校でアメリカンスクール
に入れられたが、すぐ中退、その後、アジアやアメリカを放浪して、調理を学んだ。んで
ジャポだ。毎日朝早くから夜8時くらいまで働いて、車で遠くから通っている。ちょっと前まで
年中無休だった。売り上げも品種別に詳細につけて、人気の動向を見ながら、在庫、仕入れを
管理してる。んで、年齢が23とか24とかなんだよ。大学生とあんまり変わらないんだ。彼は、
海外に出てからどうやって身を立てていくか真剣に考え、それを実現している。君たちは、
何も海外に放浪する必要はない。調理を身につける必要はない。会社を経営する必要はない。
がしかし、君たちが使っている同じ時間を使ってそういうことをしている同世代の人がいる
ということは肝に銘じておく必要はある。そして、自分は時間をそれだけ将来のために、
自分のために、何かを身につけるために使っているのか、何かを作り上げるために使っているのか、
と問う必要はある。自分の強みは何なのか、自分は何がしたいのか、自分のやりたいことを
実現するためにはどうしたらよいのかに関して、判断を留保している暇はない。その間に
多くの人が君の回りをすり抜けて、どんどん先へ行ってしまうからである。


Sunday, June 20, 2004
台風が来ている。

台風の目。「あの人はお家騒動で、台風の目になりそうだよ。」
お家騒動。「田中君のとこも、お母さんが家出したり、とんだお家騒動だったよ。」
台風銀座。「あーら6号さん、寄っていってよ」「いや、今日は給料日前なんで。また今度にするよ。」
台風新地。「いやー6さん、よってかはってぇ」「いや、また今度にするわ。かんにんやで」

上の発話でおかしなところを述べよ。

っつか、「お家騒動」って家庭の騒動のことじゃないし。っつか、「お家騒動」とか「とんだ」とか使わないし。
っつか、台風銀座って、バーやスナックが集まってる所じゃないし。っつか、「銀座」とくれば、「新地」だ、
ってもんでもないし。

四日市にくるとDECODEに行く。美容室である。別にどうしてもこの店でというわけでもないが、
やっぱり慣れていると勝手もわかっているし、髪を切りに四日市まで、っていうのもちょっといいし、
M崎さん達との会話も楽しいので。店長のM崎さんはちょっと(実はかなり)かっこいい三十路である。
昔からこの人には、「可能性」が「薄い」って何でだと思う、とか、「Xに手を染める」って、Xは悪いこと
しか使わないですか、とか、昔から論文に関する話を聞いてもらっている。このサイトについても
コメントをもらったが、ちょっとヘビーじゃないですか、っていうのと、ネタ、大変じゃないですか、
というものであった。早速ネタに使う。w

さあてと、もうちょっとライトにいくかぁ。

茂木健一郎の「私というミステリー」という新書を読んでいる。cricket のお友達のT本さんによると、
茂木さんは昔「ウケればいい」を公言してたらしいけど、最近、結構ウケてるなあ。それはともかく、
痛みや色、匂いや味も脳に入ったら単なる「信号」に過ぎない。これどうなってるの?という
問題提起は面白いね。身体と意識の関係に関しては、cricketにも興味深いエピソード(右腕真っ白事件)
があるのでそのうち。茂木さんは、9月18日、19日にK西大学で行われる認知言語学会
(興味がある人はご当地だし、ぜひ来てね)の前日に行われるセミナーに登場する予定(こちらもぜひ)

ま、今日言いたかったのは、ちょっと引き続き文化のことだ。発端は先週末、研究会で聞いた、
コロコロコミックの話だ。コロコロコミックってcricketのころはなかったんだけど、M崎さんの時には
もう存在した小学生向けの漫画雑誌らしい。君達の方がよく知ってるだろう。その発表は、
コロコロコミックがいかに、玩具を売るために仕組まれているか、という話であった。

ミニ四駆、スーパーヨーヨーなど、すべてこの雑誌から出てきてという。方法は、何かを「売る」と
決めたら徹底的にやる。その商品を中心とした漫画をかかせ、その中で、遊び方や種類の
説明を含めてストーリーを展開させる。もちろん、種類の紹介には値段や発売元も入っている。


その中で、発表者は「本来あるべき子供の文化を衰退させている」というような表現をしたんだけど、
それはちょっとだけ違う。子供はすごく熱くなっているはずで、コロコロ禁止、とかいうと、子供は、
興味あるものを見つけられなくて右往左往するかもしれない。

Cricketが子供の時を思い出した。けんぱ、というタイルを使った石蹴りが流行って、
タイルが貨幣のように
流通したのが小学校一年生のときだ。少しでも大きなタイル、
少しでもきれいなタイルを探して、
道を歩いていても改築工事現場などあると目を皿のようにして
探したものだった。小学校2年生の時には
「ぴっしゃん」と地元の言葉でいうメンコが流行った。
3年生の時には仮面ライダーのライダーカード。
アメリカンクラッカーが流行ったときもあった。
高学年のときにはジオラマのモデルが流行ったな。流行はいつもぽつりぽつりと始まり、
いつかみんながそれなくしては生きていけないようになり、そして
いつか、それをもっていたりすると
恥ずかしいようになって終わった。


流行は熱病のように拡がり、熱病のように収まっていった。

今、コロコロコミックは、児童の流行に関するそのような性質を利用しているにすぎない。
子供は「人と同じ」
ことを求めるものなのである。文化の研究に、発達の研究は
避けて通れないように思われる。ミームと呼ばれる
物まねが幼児期においてどのように
発現していくか、といった時系列の視点が必要かも知れない。


cricketは先日、タンダーパーニー(インドカレー屋)に行った。2時過ぎだったので、
オーナーと奥さんが並んで昼飯をすませていた。二人は、細切りタマネギをご飯に和えていた。
ぴぴんっと来たね。cricketは今までルーの方に和えていて、あんまりおいしくないなあ、
と最近タマネギは
かけなくなっていた。サフランの黄色いライスにじっくり煮込で焦げ茶色の
チキンカレーが来たとき、
cricketはおもむろにご飯にタマネギをかけてルーと和えて食べた。
うまい気がした。同じ行動を
ることで同じ集団に入る。自分が入りたい集団に入るには
物まねから始める。cricketの
インド通グループへの小さな第一歩は、
ちまたにあふれる文化行動の身近な一事例に過ぎない。
そして今回のように本人がそれと
意識することは稀である。


Wednesday, June 16, 2004
今思ったが、「はなつ」と「離す」は同語源だろうなあ。「話す」はどうだろうか。
土曜日、K大学で「ことばとメディア研究会」というのがあって、面白かったが、
東洋大学と二元中継であった。すごいなぁ。メディアの進歩。東京から一人、大阪から一人
発表。すごいなぁ。T先生大活躍お疲れ様でしたー。ところで、マイクのせいか、大阪の
音声が東京に伝わりにくかったらしく、東京の美人w司会者M先生から、
あーしてくれ、こーしてくれ、と指示が飛んでいた。一度、

「話してもらえますか」

と、言われて大阪の発表者はこうですか?とマイクを離していた...(^_^;)ぼけてたわけではないが...
発表者のキャラからいうと、東京会場では「さすが関西人だなぁ」という空気だったのでは?w


多分、発声するという意味で「発砲する」ように声を出すということで、「はなつ」と「話す」も
同語源だろう。日本語の「はひふへほ」は昔は「ぱぴぷぺぽ」だったことはよく知られている
ことで、「ぺっぺっ」みたいにはき出すことを意味するのに「は行」が用いられることに
違和感はないし、それを高らかに行う場合、母音としてaが用いられるのは自然である。

そうすると、「離す」と「話す」が同語源ということになる。だとしたら、K広 大先生、
どうご説明されますかぁ?

さて、月曜日は、ゼミ生のU田さんの教育実習見に行った。岸和田市の中学校である。
かいがいしく授業をしていた。がんばってますねえ。中学校1年生というと生徒が小さい。
これが第一印象であった。教頭先生、指導の先生、どうもありがとうございます。


実はcricket は幼稚園の年長さんくらいまで岸和田市の春木というところに住んでいた。
紡績会社の社宅である。何十軒くらいあったのだろうか、いくつもの家庭がひとつの
敷地の中に住んでいる。その頃の印象は断片的である。社宅の敷地にはひょうたんと呼ばれる
芝生の場所があったとか、タンクと呼ばれる訳のわからないコンクリの塊が裏手の方にあったとか、
家には家には葡萄の木(つる)があってカナブンがきたとか、そぐわない籐の椅子があったとか。

その社宅はcricketが引っ越したすぐあとに売却されてしまったらしいが、それとは別に、
cricketは確かめたい印象深い記憶があった。

三歳児版Stand By Meって感じもするのだが近所のやや年かさの子らに誘われて、
社宅を抜け出して外へ出て行ったらしいのだ。「らしい」というは、「社宅を抜け出して
外へ出て行った」という表現が自分の印象を表現する用語にそぐわないからだ。

僕たちは、フェンスの下の穴を潜って排水の流れるどぶ川みたいなところへ出た。
家と家が迫っている細いところだ。苦いようなくさい匂いがする。



ただそのとき、白い花が咲いていた気がする。水芭蕉(右)だと思うのだが、そんなものが
あんなところにあるわけがない気もする。ドクダミ(左)だったのかもしれないが、ともかく、
白いつるんとした花だ。

そして、海に行った。排水路のどぶ川からどこをどうでていったのかは覚えていない。
僕達は、防波堤のちょっと高くなったところに乗って歩いていた覚えがある。そのときに
誰かに見つかって連れ戻されたようである。


ってことで、春木を見に行く。駅の前の古い交番。



商店街を歩く。


近くにきたらしい。角のお菓子屋で「社宅があったところは」と聞くと、
50メートルくらい先を指す。または、裏手の道に入る団地が見えるという。
ネクタイを外しビール片手のcricket は髪の毛ぼさぼさで、店のご主人は
やや身構えていたが、質問を聞いて、だいたい事情は合点したらしい。



泉州名物「豆板」をほおばりながら緩やかな下りの路地を入る。すると、小さな公園が。
そしてその門の前にあるクルミを抱いたリスとおぼわしきがれきが....



これ、見たことあるなあ。「泉浜公園」とある。懐かしいものなんだろう。木漏れ日。

その回りの家々を回る。なんとなく懐かしい雰囲気がある。僕は夢の中で、何度この
路地を回って家路についたのか。記憶の中の映像を目の前の映像に貼り付けてみる。

ただ、どこが社宅だったのか、特定はできない。そこで、話に聞いていた海への道を行く。
排水路を探すがみつからない。

海へと続くなだらかな道をゆっくりと下っていく。民家を右に左に迂回しながら。

と、幹線道路にでた。これは予想だにしなかったことだ。三歳の僕たちはこの幹線道路を
どうやって越えたのか。それとも当時、この道路は存在しなかったのか。それは考えがたい。
もっと細かったかも知れないが何にもないところに新たに道路を作るより既存の道路を
拡充する方がずっと考えやすい。

それではどう通ったのか。僕たちは海までいかなかったのか。

海はあったのである。その道路越しのずっと先に、きらめく海が見えたのだ。
その時、僕らは、今の僕のようにはたと止まってどうするか、考えたんだろう。
その時、道路脇のコンクリートの上に乗って遊んだかもしれない。
そして海が見えたんだろう。それで、僕たちは道を渡ることにした。当時、
はまだ車もあまり走ってなかった!?

それにしても五歳から二歳のグループが6,7人、この道路を渡ったすれば、
かなりあぶなっかしい情景だ。

僕たちは、道路を目の前にして、思い思いにうろつき始めた。
道路脇の店屋を覗くもの、虫を眺めるもの、遊びを始めるもの。
もうかえろうよと言うもの、リーダーの不明(見識がないこと)をせめるもの、
そんなとき、一人が海を見つけて指さす。みんなは息をのむ。
よし、じゃあ、行こう!どうしたらいけるんだろう、と考える。50メートルほど
先に横断歩道がある。そこを渡ろう。

なんて様子が頭に浮かんだ。本当にあったことかどうかはわからない。

その地点から垂直に入った海岸線は工事中だ。多くの車が駐車している
フェンスに並行に南へ進む。材木会社の門をこっそり抜けて、海に出る。

ここは、港だったんだ?

海岸ではなかった。記憶の中では、防波堤のある海岸線だったが
そこは港であった。小さな木製の段がいくつか並んでいたが、頭の中にイメージ
しているような太腿まであるコンクリートの防波堤はなかった。大体そんな
ものだったら当時の僕には上れなかったに違いない。

それでもあのきらきらした海はそこにあったし、水は汚れていたが
波と夕陽の美しさは水の汚れとまったく無関係である。
(「波」というのは、構造体であってその媒体である「水」とは独立したものである)



僕はコンクリートの上に座って波を眺めていた。そして、当時の自分に思いを重ね合わせて
いた。三歳の自分がみた残照。今の自分には当時の自分が想像できるが、当時の自分には
今の自分は絶対想像できないだろう。こんな風にYシャツの胸をはだけて、こんな風な髪をして、
こんな風に缶ビールを手にして。だからまったく他人に話すみたいに三歳の自分に話すことが
できる。優しく、慈愛をもって。「坊主、がんばって早く大人になれよ。
大人になったら楽しいことたくさんあっからよぉ」
ま、それが本当か嘘かは本人が身をもって経験するってことで。^^



海岸線から戻ってきたとき、「入り口のところにある」といってた魚屋らしきものを発見した。
そこのおばあちゃんに聞くと、社宅の入り口はすぐ裏手、「雇用・能力開発機構 春木職員宿舎
になっていた。中に入ってみると4階建てのアパートが4棟くらい建っていた。ぐるっと
回ってみたが、「ひょうたん」もなかったし、「タンク」もなかった。それはわかっていたことだが
ちょっと淋しい気がした。しかし、確かにそれは一時代存在したのだ。そしてそれはその時代を
共有した人たちの記憶の中に息づいている。

そして、その一時代を取り囲んでいるものはゆっくりとしか変化せず、
さらにそれを取り囲んでいる海は今もそこにある。
今もここで同じような子供達の生活が営まれているのであろう。

水が変わっても波はそのままなように。


Sunday June 13, 2004
電車で放出(はなてん)、というところにいる。赤ん坊を連れた二人連れ。

橋田信介
読売テレビでは、戦争ジャーナリスト、橋田信介という人のドキュメンタリーを放送している。
ロバート・キャパもそうだが、戦争の写真をひたすら撮る人には、敬意と自分にないものを
感じる。

Sunday, June 13, 2004
鈴木光司の「生と死の幻想」および唯川恵の「病む月」を並行して読んでいて、ほぼ同時に読み上げた。
堪能した。唯川の解説小池真理子の言葉と同じ言葉をcricketも考えていた。「上質」である。

さっき気が付いたのは両者が対照的であることだ。偶然にも並べて読み始めた両者は対比して見ると
結構面白い。昨日の記述に基づいて、類似性と相違に分けて見る。


類似性
・どちらも短編集である。
・どちらも上質
・どちらもそれぞれの短編にオチ/どんでん返しがうまい
・二人とも1950年代後半生まれ。年が近い。
・金沢生まれと浜松生まれ。どちらも特徴ある中都市 ←うーん、これはあんまり....かな。

相違点
・男と女
・背表紙が水色とピンク(パステルという点では類似)

唯川恵の「病む月」はすべて金沢を舞台にしている。その中の主人公(複数)の大半が
かなり年上の男と不倫してその後ろ盾を得て社会的成功を勝ち得ている。
不倫していないストーリーの場合子供が亡くなったり、おばあちゃんが病気だったり。
一方で、結婚して家庭を持っている女は「つまらない」女として描かれている。
つまり、「病んだ」家族/無家族が寂しさを表現しながらも肯定されている。

一方、鈴木の方は、6つの短編のうち5つが男性の目から書かれている。頻出する設定は、
「子供が生まれたときに安定した職に就いている妻の方が仕事を続け、主夫になった」男、
「フリーターと育児をしながら、ボディビル大会で優勝を目指すようなマッチョとなった」男で、
共通するストーリー展開は、家庭への外部からの攻撃に男が腕力で反撃を開始する話である。

家庭は崩壊しかかっている。女は割り切り、男は幻想にすがっている。
男も女も、「男が女を庇護する」という現実?・幻想?は受け入れている。
女は社会的成功(権力)を指向し、男は腕力を指向している。

現実に少ないから小説として面白いのかもしれないが、どちらもリアリティのある上質な物語群だ。


Saturday, June 12, 2004

実はちょっと弱っている。困っている、という方の意味ではなくて、疲れている、という方の意味だ。
更新が遅れているのもそのためだ。しかしK大通信で卒業生向けにああいうメッセージを送っている手前、
cricketだけが無傷で常に平穏&Happyでいるわけにもいかんだろう。生身を晒(さら)してなんぼ、
という気もする。ここではいつもリアルでナイーブで生でありたい。ま、人生、浮き沈みもあるさ、
雨の日があれば晴れの日もある、ってことで。それに一緒に話をしてくれた同僚や学生の皆さんには多謝。

ことわざの逆説
ことわざは柔軟な思考を提供してくれる。「二度あることは三度ある」に対して、「三度目の正直」
というのがあり、「帯に短したすきに長し」に対して「大は小を兼ねる」など、矛盾、逆説、
諧謔(かいぎゃく)などは、均一的な考え方より強く安定する場合がある。

「固い木は折れる」(Oak may fall when reed may stand storm)

ということわざがあるらしい。聞いたことないね。しかし、大変よくできたことわざだ。
英語の方を見た方がわかりやすい。

「嵐の時、固い樫の木は折れるが、柔らかい葦は折れない」

ということで、これはきっと、誰かが実際にタイフーンかハリケーンかサイクロンかを見た後で
なぎ倒された樫の木を見て驚く。ふと目をやると、河原の葦は平然とたたずんでいる。
こういう事実を目にして、そうか!とこの不思議な教訓に思い当たったのではなかろうか。

つまり、

なにか困難な出来事があった時、普段強い人はもろく、普段弱い人は意外に強い。

という意味であろう。

メタファーの観点から見ると、いくつかのメタファーが複合的に働いているようである。

サキ領域        モト領域
困難な出来事  ←     嵐       DIFFUCLUTIES ARE DISASTERS

強い1 ← 固い STRONG IS HARD
弱い1 ← 柔らかい WEAK IS SOFT

弱い2 ← 硬直した WEAK IS RIGID
強い2 ← しなやかな STRONG IS FLEXIBLE

機能する/成功する ← 立つ FUNCTIONAL IS STANDING

という感じか。真ん中の二つは、メタファーかどうか、定かではないが。
ともかく、一見、肯定的価値を持つように見える「固い」という概念を「硬直した、融通の利かない」
と読み替え、「柔らかい」という概念を「しなやかな、柔軟な」と読み替えることがこのことわざの
キモのようである。

昨日今日考えているのは、このような、逆説に関連しそうな、ちょっとぬめっとしたことが、とりとめもなく
頭に浮かんでいる。

クレタ人のパラドックス
まず、火曜日の授業でJK先生が、(文化に関して)教師の言うことを信じてはいけない、と言っていた。
大変面白いのだがその後の授業をどうやって聞いたらいいのか。クレタ人のパラドックスのようだ。
まあ、もちろん、"Don't believe what your teacher says." というのは、教えられたことを*無批判に*
受け入れてはいけない、ということである。

類似と相違
別の授業で家族的類似(family resemblance)(言語ゲームも参照)(用語集にも加えました)に
ついて考えたが、その際、the Smith Brothers という絵を使った。いろいろな顔のじーちゃん
がある。それぞれ、少しずつ顔が違う。髪が薄い人、約X名。眼鏡を掛けている人約Y名、
口ひげを生やしている人約Z名、などなどなど。そうすると全員が共有している特徴は、記述する
必要がない。

車が欲しいとする。A,B,C,D,Eという車を比較するとする。A,B,C,D,Eに共通する特徴
(オートマだとか、パワステだとか)は比較対照する必要がない。

一方、月と馬だとか、テキサスとレアチーズケーキなど、全く異なるものは比較しようがない。

つまり、比較の中には、二つの手順がある。

1.似ている点を見つけて比べる
2.似ている点を忘れた上で相違点を考える。

1を行う際、ひとつの類似点があるだけでは意味がない。例えば、黒いもの、ということで、
エクレアとつばめを比べても有意義な比較になるとは思えない。

ま、いずれにせよ、類似と相違はあざなえる縄のごとし、である。
類似があるからこそ相違が目立つ。図と地だな。

慣れと捨象
図と地に関しては別のことも考えた。

Tuning in(チューニング・イン)ということだ。

静寂の中では騒音が目立つ
一方で、騒音の中では一瞬の静寂が浮き立って感じられる。

匂いのない世界に一筋の香り
騒々しい匂いの中で無臭となる一瞬/スポット

闇の中の一抹の光
光の世界の中の小さな暗黒。

そういえば、希望がいっぱいの中でひとつだけ不安があるのと、
嫌なことばかりの中でひとつだけ希望があるのと、

どっちがいい?みたいなことを誰か聞いてたな。


Tuesday, June 8, 2004
天気と感情。
どんよりとした天気、どんよりとした気分
晴れ晴れした日、晴れ晴れした顔
からっとした天気、からっとした人柄
今にも泣き出しそうな天気、今にも泣き出しそうな顔
明るい空、明るい顔
曇り空の中に時々覗く太陽、曇った表情の中に時々覗く笑顔

宮部みゆきの「夢にも思わない」と「今夜は眠れない」を読む。児童書。児童書だとは知らなかった。
主人公が中学生だから。三冊目も児童書と判明したのでやめた。獣医の友人から最初に借りた
のが、「パーフェクトブルー」。私とほぼ同年代の宮部女史は名古屋の出身の(はずの)天才。
児童書でも読み続けられる。しかしてさすがに2冊が限界。
今、鈴木光司の「生と死の幻想」を読んでいる。『リング』『らせん』の作者だ。この人も天才。
この本は、どうも短編集らしい。幻冬社(村上龍の元担当編集者かつ現在の友人が社長となって
作った会社)出版。
この人の文体で気が付いたのは、「認知過程」が文章になっているところ。

「紙おむつとレーサーレプリカ」の出だし

忍び足で部屋から出ていく妻の影が、夏の朝の蒸し暑い空気を揺らしていた。
起こさないように気をつかっていくつもりでも、かすかな気配におれはいつも目覚めてしまう。
おぼろげな視野の中、敷居のところで立ちすくむ妻の姿が、濃い影となって網膜に定着していった。


「乱れる呼吸」の出だし

集中治療室の分厚い窓ガラスによって、外気は完全にシャットアウトされている。にもかかわらず、
夜半に目覚めたとき、雨の降る気配を感じた。雨音を実際に聞いたわけではない。
付き添い用の簡易ベッドから置きだし、そっとカーテンを持ち上げた。左手でひさしを作って
ナースセンターから漏れる光を避け、水滴で覆われたガラス窓を拭う。闇に目が慣れるにつれ、
病院の中庭のコの字形が徐々に浮かび上がってきた。

特に二つ目の方は、「集中治療室」「付き添い」「簡易ベッド」「ナースセンター」で病院という言葉を
使用せずにすっかり病院の雰囲気を立ち上げ、一方で、「外気」「夜半」「気配」でなんとなくざわざわする
予感を醸し出している。

「認知過程」が文章になっている、ということで意図しているのは次の3つ。

1.感覚が最大限に生かされている
2.因果、特に因果に対する思考=理由付けが言葉にされている
3.感覚から判断への認知過程自体に触れてある


1.「影」「夏の朝」「蒸し暑い」「空気を揺らす」「かすかな気配」
「外気」「雨」「気配」「光」「水滴」

2.XXのつもりでもYYしてしまう
  Xにもかかわらず、Yを感じた

3.おぼろげな視界→(妻の姿が)網膜に定着
  「闇に目が慣れるにつれ」(病院の中庭のコの字形が)「徐々に浮かび上がって」きた

しかも両方とも、この順番だ。感覚→理由(XXなのにYY)→視覚的認知過程

視覚的認知過程に対する言及。これが鈴木光司の希有な才能ではないか。

Sunday, June 6, 2004
熱でもう少し引っ張ってみたいのだが。

ゼミのKさんから「読んでます」とメール。(ゼミ休みます、っていうのがメッセージの主内容だがw)
ありがとうございます。

熱でもっとひっぱってみたいのだが。

違う話。

昨日、学校インターンシップの面接官をやった。学校インターンシップっていうのは、関西近隣の
幼稚園、小中高に学生を派遣するものだ。

いやあ、面白いよ。

ベテランの先生と延べ30名近く面接したけどね。

何が驚いたって、6月5日(当日)が誕生日の人が2人もいたことだな。(wおひおひそっちかよ)
いちいち学生の誕生日なんてみてるんですか、っていわれたら、m(_ _)mすみません。
一人の人の誕生日が6月6日だったので、隣の面接官の人に「この人、明日が誕生日ですね」って
言ってから目に付いちゃったんで。

(話が脱線続きだが、脱線続きで)

誕生日が同じ、って話では、ちょっと面白い、っつかおバカな逸話がある。
アメリカでのある年のクリスマス・パーティの話。

cricket と同じ誕生日の人がいたんだ。で、すでにアルコールがかなり入った
面々は、20人いる中で誰かと誰かが同じ誕生日の可能性はどれくらいか、という議論になった。
んで、違う家族のおじいちゃん同士が言い争いになった。
鳥打ち帽子に眼鏡のハンティングの好きなおじいちゃんは、その可能性はすごく低い、と言い、
元弁護士のおじいちゃんは、いや、20人もいれば、一組くらいはでるもんだ、と言った。
メンツをかけた争いみたいになり、じゃあ、50ドル賭けよう、ということになった。

翌日、鳥打ち帽子のおじいちゃんに連れられて朝10時にLucky's (近所のスーパー)へ。
来る人来る人20人にインタビュー。アメリカでそんなことするとうさん臭がられて時には
撃たれたり、警察呼ばれたりするかもしれないけど、12月26日だから
「あークリスマスのテーブルで、バカな賭けをしたのね」みたいなもんだ。
19人まで同じ人はおらず、鳥打ち帽子のおじいちゃんは、したり顔。が、しかし。
20人目で3番目の人と同じ誕生日の人がでてしまった。

あとで計算したら、5割程度だったな。俺の計算が正しければ。

同じ誕生日の人が出ない確率を計算する。

一人目は、なし。
2人目は、364/365 つまり、2番目の人の誕生日が最初の人以外の日の確率。
3人目は、364/365 x 363/365 なぜかというと、2人目が最初の人と異なる確率、それと
同時に、3人目が前の二人と異なる確率だから。
4人目は、364/365 x 363/365 x 362/365
5人目は、364/365 x 363/365 x 362/365 x 361/365
.....
という風にやっていくと、20人目の確率は、約6割。それでもまだ同じ人がいない確率のが
高いんだ。だから、この計算が正しければ、元弁護士のおじいちゃんは単にラッキーだっただけ。

とまあ、20人中、同じ誕生日の人はいてもおかしくないのだが、30人中、その日が
誕生日の人が2人いる可能性は低いとみたぞ。

30/365 x 29/365 ではないか?

とまあ、面白いインターンシップ面接だったわけだけどw 大学生が小学校や中学校、高校、
場合によっては幼稚園に行く。期間もまちまち、仕事もまちまちだ。クラブ活動の補助だったり
授業の補助だったり。大学生を見る生徒たちの目、教諭達の目、生徒達や教諭達を見る
大学生の目、そして、それぞれが、「どんな人くるかなあ」「どんなところかなあ」と思いを
巡らせる。ある種の明るい出会い系のノリだ。

こういうことやってみようっていうのは建設的な人が多いんだろう。はきはきしてて、
いってることが理屈にかなってる。先生になりたいから、というのはもちろん、司書になりたいから
図書館研修を、とか、4才からピアノ/テニスやってきたので、音楽の補助/テニス部の補助を
とか、場合によっては、教師になりたいかどうか知るために、とか。
目的がはっきりしているのである。そして、彼らは正しい。
いわば、「19才のハローワーク」的だよね。

学校インターンシップ以外に社会人インターンシップ?企業インターンシップっていうのもあるから
それもいいよね。政治家になりたい人はまず事務所インターンからだ!

一緒に面接をされてたS川先生(一緒に、というよりは実はcricketはこの方のお手伝い程度
であった)が面白いことをおっしゃってた。

「明るい先生ばかりになったら、暗い子はどうするんでしょうか」

このご時世、学校の先生になりたい、っていう人は増えてきていて、
(団塊の世代が引退するので先生の需要も増えているが)
それから、先生の事件とかもあったし、いきおい、学校は「性格重視」ってことを強調する。
勉強ばっかりやってきた人より、明るい人、はきはきした人、気持ちいい人を雇いたいですよ、
そういう点もしっかり見ますよ、ってことだ。

で、あっかるい先生が増えるとする。「みんな!悩みなんか忘れて笑顔で登校しよう!」
とか、「身体を動かせば嫌なことなんてふっとぶぞー」とか。

長くなってしまった。あとはわかるね。んじゃ。

Friday, June 4, 2004
うんちくのパレードみたいになるのはちょっと....だが、あまり知られてないトリビアなんで。
「摂氏30℃ の真夏日となるでしょう」という時の摂氏は、Celsius(セルシウス)さんが発明したから、
摂氏。では、華氏は?

以下、Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2000より。

華氏温度
「中国でファーレンハイトに「華倫海」の字をあてたことから、
華氏という名称がついた。記号はーF。ファーレンハイトは当時えられた
最低の温度(氷と食塩の混合寒剤でえられる温度)を0ーFとし、水の凝固点を32ーF、
人間の体温を96ーFとして、その間を等分した。こうすると真夏のひじょうに暑い日の気温とか、
発熱した病人の体温は100ーFになり、真冬の地球上最低かと思いたくなるような
寒い日の気温は0ーFになって、日常生活に便利な温度目盛りとなり、
現在でも欧米では日常的にひろくつかわれている。」

F=(9/5)C+32

Fahrenheit(ファーレンハイト)さんが中国で、「華倫海(ファー・レン・ハイ)」と呼ばれたから、華氏
なのだ。

香水にFahrenheitというのがある。熱は喚起力があるし、昔のいびつな温度の数え方というのは
ちょっとノスタルジックな感じでいいネーミングな気がする。English Patient, っていう映画があった。
ストーリーを忘れてしまったが、砂漠が出てきて、静かな情熱のような話だった。第2次世界大戦か
もしかしたら第一次世界大戦の話だったかもしれない。(とりとめのない話ですみません)
果てしなく拡がる砂漠。黄色いフィルターのかかった映像。Fahrenheitという語からcricketは
あの映画を思い出す。ノスタルジックっていうのはそういう意味で。

XX熱にうなされる。熱望。熱烈歓迎。熱愛、熱情、熱心、お熱、熱中。熱血。



Wednesday, June 2, 2004
昨日はPJM先生と焼き鳥食いながら宗教について語る。私は、死というのが
とてつもない穴なのでそれを見えないように紡いでいるのが「人生」、文化、幻想
である、というのが持論で、PJM先生は、人生はこれほど美しいのに、なぜ、仏教は
「輪廻」だとか、「諸行無常」だとか、あんなに暗いのか、という。うーん。
それはあなたすでに解脱してるんですよ。

東京外大のA川先生から御本をいただく。うーん。やられた。ッテ感じ。
いい装丁にできあがってます。

土喰黒女(つちはみくろめ)の答え。
つばめ、だそうです。土をくわえて巣をつくる黒い女。なんで女なのか謎ですが。
ツバメのことをつばくろ、って言ったりする用語もあるはず。つ(ち)は(み)(くろ)め
または、つ(ち)は(み)くろ(め)ってわけです。「は」が「ば」に変化するのは、
回りの母音に影響されてるから、ってことで。gatemouth cafeの、
南方熊楠(みなみかたくまぐす)という人の書いた本で知ったんですよ。
若いツバメ、っていうのはなんでか知らないけど、鳥は時々多産の象徴だそうです。

Monday, May 31, 2004
Itと呼ばれた子3部作の三冊目を読み終わった。身をつまされた。彼の出身地、Daly City
は、cricketが長く住んでいたSan Francisco ベイエリアに位置するので余計イメージが湧く。
Daveのホームページ
があるらしいので興味のある人は要チェック。

最近読んだ本:
島田雅彦 「やけっぱちアリス」島田雅彦の本は「彼岸先生」を読んだことがあって
まあ、変な書き方するけどそれなりかな、とおもってたけど、最近よむいろいろな他の人と
比較すると、これは共感できるものがあるな、と。作品は洗練されているわけじゃないけど
素材は悪くないなと。

水村美苗 「私小説 from left to right」横書きで日本語の途中で英語が頻出する前衛的
な小説。それだけ。英語に英語の作品として自身在るなら英語だけで書くべきだし、
日本語の作品として見せたいならカッコつけた英語は省くべきだし、バイリンガルに読んで
もらいたいなら、書くのは楽だけど読むのは面倒だぞ、ってこと、知ってもらいたいね。
んで結局ほとんど読んでない。

(補足)まったくおなじことでも、音楽でやるとOKだ。
What can I say? 目の前で
Where can I go that you trun to me?
How can I go? 教えてよ、Again to my heart.
(歌詞違ってると思うけどすみません)m-FLO の orbit -3 だ。

んで、これ、LOVE IS A PHYSICAL FORCE メタファーだよね。惹かれあう3人の軌道は
いつもやるせなくて、って感じか。リサの声、いいなぁ。

この間捨てた本。2冊。

村上春樹「中国行きのスローボート」
まだるっこしいけど面白い。賢げなスタイル。僕は、この作品のことをよいとも思わないし
悪いとも思わないんだけど、この作品のことをまんざらでもないって思う人達がいることは
認めてもいいかもしれない。それは、ロシア川にチョウザメが流れてきてもおかしくないって
ぐらいのまんざらでもなさで、それを見つけたクマが一撃でしとめてキャビアをむさぼり食っても
おかしくないってくらいのまんざらでもなさだ。んーパロディになってない?村上春樹のクマは
もっとかわいいもんね。

村上春樹「約束された場所で-Underground 2-」
オウム真理教(元)信者達のインタビュー。オウム脱退者の会が「カナリアの会」という名前
なのが笑った。オウムからカナリヤへ。どちらもきらびやかではある。あー歌っちまった
(警察に自白した)っていう自虐的アイロニーかぁ?

cricketがいまどっぷり浸かりたいのは花村萬月かなぁ、という思いとは裏腹に書棚に
並ぶのは宮部みゆき、平岩弓枝。板東眞砂子というお友達を失った(ほとんど読み切った)
cricketの読書前線は迷走中。いや、百円古本屋(丼ぴしゃの向かいの)で購入してるので
かなり選択の幅に問題が。

ちなみにお線香、関大前と千里山の間(すっぽんや、カレー屋タンダパーニーがある道)
のスーリァという店で買っています。このサイトを見てきた、といったらプレゼントがあるかも。

神戸の中華街でりゅうぜんこう(竜涎香)のお線香を買う。竜涎香とは:
香料の一つ。マッコウクジラの腸内からとれる蝋(ろう)状の物質。
香料として用いられるが他の香料と併用して初めて芳香が得られる。りょうぜんこう。
国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

板東眞砂子の短編でその存在を知った。海岸に打ち上げられた変な蝋状の大きなボールみたい
ものを拾う話だった。

sandalwoodとsandal がもともと同じ語か調べてる。Old French では、両者ともsandaleらしいので
多分同じだろう。製品とその材料間のメトニミーというわけだな。candanamがサンスクリット語
らしいので、栴檀とsandaはまず同根とみてよかろう。sandalから作った履き物の方が名前が
うれちゃったので、逆に木はwoodをつけて、sandalwoodといわなきゃいけなくなった、という
展開だと読むがいかがなものか。

Monday, May 31, 2004
土喰黒女(つちはみくろめ)ってなんのことだと思う?ヒント:鳥です。

Monday, May 31, 2004
くたばっちまえ、というのはgo to hell の定訳なんだろうか。

Monday, May 31, 2004
失うのが恐くて自分から捨ててしまうことがある。
そういう心理はよくあることだ、と認めた上で、
それは馬鹿なことだと思う。失いたくないほど大切なのだから
大切にすればいいのだ。

いいかえれば、失うことが恐いという
自分の感情を
(人であろうともものであろうとも経験であろうとも)大切な
他者
よりも重要と考えているという点で馬鹿だ。

もし失ってしまったら、大切でなかったことにしたらいい。
*********************************************************************
それでも大切でなかったことにできなければ?......

それは失っていないのかも知れない。あなたの中でいつまでも息づいているわけだから。

神戸の韓国屋台で
降り出した雨の中を行き来する人を眺めていた。
49才の時に日本に来たというオムニと一緒に。


Saturday, May 29, 2004
昨夜はK林先生のゼミコンパに乱入。どうもお世話になりました。
ゼミ生一人一人の方のキャラがとても立ってますねえ。ジェンダーの話など。
イスラムの女性がチャドル(チャドという言葉が頭にあったのですが、
チャドは国名以外にパンチ穿孔くず、という意味しかありませんでした。)を
好きか嫌いか、本人達に聞け、ということですね。
(チャドルもチャド(の両義)も古くさいことには相違ない、なんて言って、
チャド大使館から苦情がくるようだったらこのページもすごいなw いえ
嘘です。そんなこと思ってません<(_ _)>)

ただ、聞いてみると、「私はイスラムの歴史と伝統、チャドルを誇りに
思ってます。」と答える女性はきっと結構いるかもしれないな。

自分から自力で外に出られない人をどうしたらよいのか。

極端な話、「itと呼ばれた子」だって、毎日捕虜のように手の上に座らされたり、
洗剤を混ぜて毒ガスのような中で風呂場の掃除を洗わされたり、
ご飯を食べさせてもらえなくてゴミ箱あさったり、犬の糞を食わされたりしていて
これはおかしい、と思いながら同時に、「僕が悪い子だからこうなるんだ」と
自分のせいだと考えさせられていたんだ。

子供からのすり込みというのは強力であり、
外の世界に触れられる程裕福な人は地球上に少ない。

だからといって、他人の家の土足で乗り込んで
お前の家は汚いから俺が掃除してやる、っていうのもないもんだ。

(あーメタファーがこんなところで生きるとは!)
(メタファーの機能のひとつに「意味わからなくする」っていうの入れなくちゃ)

T森さんが、「女子供が死んで」ということがよく言われるが、男は死んでいいのか、
ってなことをいっていたが、軍隊にはアメリカでもやはり男が大半であること
とともに、逆差別の問題も同時に議論していくべきだね。
(それからどうして女と子供が同じカテゴリーなのかという問題もメモ)


Friday, May 28, 2004.
確率論の話はおいておいて。
明日は研究会で自分の発表、その後、京都に行ってほかの懇親会にだけ
参加する予定。最近天気がよくて気持ちいい。曇りが嫌いでなくなった自分を
うむ、大人になったなぁと感じたのは、ここ数年のことであったが、雨の中を大きな荷物
をもって行き来するのは大変手間だから。

メモには「Colin Turner」と書いてある。
どうしてColin Turnerのことなんか、今時思い出したのだったか。それはどんよりとした
雨雲の日だったからかもしれない。んで、何がいいたかったのかなぁ。有名な人の裏舞台、
ってことかな。

何年か前、通訳でこの人にあったことがある。XHP出版の本社が麹町の方にあって
そこに行った。(その節はお世話になりました)すでに彼の本は何冊かでていて売れていたようだ。
(今ネットで見ると下火のようだが)彼はイギリス人で、くりくりしたブロンドでがたいがかなり
大きいかっこいい奴だった。(ネットで検索しても、今、彼自身の写真がでてこないのは、
彼のプロモーションにはちょっともったいないな)それは、出版社が企画した来日で、
いくつかの雑誌記者が来て、インタビューなどをするというものだった。

彼は、会社を作ったり、破産して(私の記憶が正しければ工事現場で働いたり)、また、
大金持ちになったり、また低迷したりと、ジェットコースター的な人生を歩んできたのだと
思ったが、ひとつだけ、印象に残ったこと、そして自分のひとつの行動指針にしていることが
ある。

「厭うな」ということである。この用語が正しいかどうかわからない。「忘れろ」と言い直しても
いい、正しいコンテクストを付け加えるならば。

自分が本を出す。次の本を書き始める。でも、前に書いた本の売れ行きは気になる。
あちこち見たりする。気をもむ。で、今の本が全然進まない。

という状況と心理状態のことである。

自分のやったことは大変気になる。いい意味でも悪い意味でも。

例えば優勝した。うれしい。いつまでもそれについて考えていたくなる。

例えば、失敗した。悲しい。いつまでもそれについて考えていたくなる。

例えば、作品や論文を提出した。いいものだったらそれについて、どんな評価がくるだろうか、
とか、あれ、あの辺がよかったよね、とか、

悪いものだったら、あーあそこをああすればよかったとか、みんなに変に思われないだろうか
とか、ああ、評価が悪かったらどうしようとか、批判されたらどうしようか、とか。

自分の行いや作ったものに対して、いつまでも考えていたくなる。
そういう「囚われ(とらわれ)」を「厭い(いとい)/厭うこと」と呼びたいのだが、
「自分の行為や産物に対する囚われ」といってもいい。
行為も産物に含めれば、
「自分の産物に対する感情的囚われ」と言い直せば一番わかりやすいかも知れない。

終わったことは終わったことだ。

自分のやったこと、作ったものはある時点で自分の手を離れて一人歩きしていく。

それを絡みついていたい感情を私たちは断ち切らなければならない。

そうしないと先に進んでいくことができない。

そういった意味のことをColinは言っていた。

そういう位置にいる人だからこそ考えた、言えた言葉だと思う。

とても貴重なことを学んだ気がした。

僕はそれをさらに敷延して考えている。
感情はあるときに断ち切らなければならない。感情は重要でそれを味わうことは大切だが
いつまでもいつまでも同じところをぐるぐる回っていることがないようにしなければならない。
ある時に息をふっと吐き、すべてを断ち切って目の前にあるものに感覚と思考を集中する
べきタイミングがあるのだと思う。(多分、Colinはそこまで含んでいったのだろうが)


Tuesday, May 25, 2004.
快晴。洗濯指数100 日焼け指数90だそうだ。
確率論の話。
自分は何を目指さなければならないか、ということである。
結果を目指すのではなく、確率を目指すのである。
例えば、ピアノコンテストがあるとする。10人出場者がいて、自分がベストのパフォーマンス
をすれば優勝できるとする。それが重要なのだ。実際に優勝したかどうかではない。

例えば、100m走があるとする。自分のタイムは、11秒前後、ベストタイムは、10秒7だとする。
ある年の優勝者のタイムは10秒8で、自分は10秒9で2位だったとする。
相手はどれくらいの確率で10秒8を出すのか。自分はどれくらいの確率で、10秒7が出せるのか。
それが問題であって結果は問題ではない。

何回か試行すれば落ち着くところに落ち着いていく。例えば、その相手とは、3回やって、
1回勝てるかもしれない。それが実力であって、その実力を上げればいいのである。
1回毎の勝ち負けは問題ではない。

何か結果を保証しようと思ったら、確率を上げることと回数を増やすことがある。
あんまりいい例ではないようなのでまた説明することにする。


Saturday, May 22, 2004
以下の21日の内容にちょっと加えた。
ブラウザを変えた。エクスプローラからネットスケープにした。
今日は研究会のあと友だちの家のパーティだ。

「やってやれないことはない」には二つの意味があるが、後者の方の意味、なんでもできる、
という意味について検討を加える際、下記の「台風論」ともう一つ、「確率論」を述べておかねば
ならない。ということをひとまずメモしておく。

Friday, May 21, 2004
僕は手広くやりすぎている。すごく分散して散漫になっている。しかしそれを喜んでいる自分がいる。
いろいろなものに浸って分散して幅広くやってやりすぎて疲れている自分を喜んでいる自分。
疲れている自分は、喜んでいる自分とよく話をしてみなければならない。
多分、ひとつを残してすべて一度手放すのがいいのだろう。多分残すのはメタファーだ。

U先生に「(あなたこそ)先ではなくて今やってくださいね。」と言われた。檄、ありがとうございます。

ほらね、大人だから教えが必要ない、ってわけじゃない。

檄。

言語学習に関しては、主にListen Up に書く。

「夢はいつかかなう」なんて嘘っぱちだ、って言った人がいた。
だれだっけな。O槻だっけな、そこそこ有名な人だ。「夢はいつかかなう」なんて嘘っぱちを
聞いていると虫酸が走る、だれか本当のことを教えてやれ、と。

「夢はいつかかなう」は、本当か嘘か。

cricket は、一番いい答えは、「やれば進む(@K上大先生)」だと思う。

「夢はいつかかなう」の反例を挙げよう。

90才の富山にすんでいるおじいちゃんが(実在しませんが、なんとなく。富山ってちょっと、
気にかかりません?)「わしゃ、アメリカ大統領になるのが夢じゃ」と言ったとする。
この夢はかなうか?多分かなわないだろう。1.アメリカ国籍がない 2.アメリカに生まれていない、
3.民主党にも共和党にも属していない、4.今度の選挙に出るのは遅すぎるし、次の選挙は
先すぎる。5. などなどなど。

では、「大学生の夢はいつかかなう」か?
かならずしもかなわないだろう。反例を挙げよう。
関大生の君が、「俺/僕/私、アメリカ大統領になるのが夢なんだ」と言ったとする。
この夢はかなうか。1.シャレだと思われ面白い奴と評判がたち関西で成功するのでアメリカに行く
暇がない→アメリカ国籍が取れない→アメリカ大統領選挙にでる資格がない。

では、「俺/僕/私、首相になるのが夢なんだ」といったとする。
これは可能性ないわけじゃないぞ。まずは、吹田市議を目指して、松下整形塾にも入って、などなどなど。
やれることは一杯ある。まず弁護士を目指してもいいし、国家公務員も登竜門だし、コネがあったら
政治家秘書も考えられる。コネなんて探せば意外となんかあるだろ。

ひとつの方法だけだったら、それが頓挫したらきついぞ。いくつかの選択肢を用意し、ひとつの
シナリオがだめでも別のシナリオを選択できるように柔軟にしておけ。国家公務員がだめでも、
政治家の秘書の秘書になる、みたいな。同時に市民運動に参加してオーガナイザー目指してもいいし
その時は年金をちゃんと払っておけよ。

ポイントは自分のやりたいことを達成しようとあれこれ考えている時にでるアドレナリン(エンドルフィン
)の量である。(アドレナリンとエンドルフィンは全然違うと思うんだけどともかく「くわっ」とか、
「ふわぁぁぁ」とか、ガッツがでたり、気持ちよくなったりするあれね。)

目標を持ち、それを少しずつでも実現していくのは気持ちいいのである。
そして、目標を自覚することによって、自分に力が生まれるのである。
脳内快楽物質、という形で。

やる気がでるんだ。

普通だったら実現できないことができるようになるんだ。

自分は変われるんだ。

大きな目標を達成するために小さな目標を達成できたらもう君は違う人だ。

(こんな檄の飛ばし方でいいのかなぁ...自信なさげ...かも,,,)

えっとですねえ。何が自信を持って言えるかというと:

1.「夢は必ずかなう」というは嘘だが「夢は必ずかなう」と思うことのエネルギーは莫大である。
2.やれば進む。やらなきゃすすまない。これは間違えない。
(例えばやっているの進んでないように見えたとしたら、どこかに何かの障害があるという
ことに気づくという点で一歩進んでいるのである)
3.やってみたら、どこまですすむのにどれだけの時間がかかるかわかるはずだ。
  その時間が自分に許されているのかどうか計算すればいい。

まず、目標を持つこと。
次に、それをするために何をすればよいのか考えること。
そして、実際にやってみること
最後に、自分がどれだけ進んでいるかチェックし、
このままでいいのか、ペースを上げるのか、目標を下げるのか、調整してまたやってみる。

やれば進む。やらなければ進まない。、
そして、やらなければ、それが実現可能な目標なのか判断できないのである。

「夢」という嘘で固めた気持ちいい毛布にくるまって現実から逃避したいのでなければ、
今すぐ何かを始めるべきなのである。

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行く先を設定しなければどこへもいけないし、
自分がどこかに近づいているのかどうかもわからない
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無計画な行動は結局散漫になってなにも変えないことが多い。
行動は移動である。状態は場所である。変化は移動である。行動は自らの力による移動である。
(Lakoff 1993: 興味のある人は参考文献を参照するように)
何かを達成する、ということは、自分が変わることでもある。自分が何かになる。自分は全く違う場所
へ行く。違う場所の違う景色が見てみたいと思わないか?
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もちろん、何もしなくても自分は変化していく。年老いていくのだ。何もせずに変化してきた
人の顔つきと、何かして変化してきた人の顔つきが異なるのは言うまでもない。

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人生とは台風の目のようなものである。

その心は どこに進むかわからない、ではなく、「コースを変更するのが大変時間がかかる。」
重いのである。ある地点にある速度で進んでいる台風の行く先は、ある程度予測できる。
まったく異なる方向に行くためには、多大なエネルギーをかける必要がある。

そして、自分を含めて多くの人が、男性も女性も30才前後に、
「自分はこの道でいいのだろうか」と問い直す時が来たのをcricketは見ている。
そのうちの多くの人がコースを変更している。
コースの変更は不可能ではない。ただし、多大な労力が必要なのである。
その労力は、社会的、経済的、心理的、場合によっては身体的労力ですらある。

南大東島あたりをうろついている君たちは富山にだって四国にだって大阪にだって
名古屋にだって東京にだって北海道にだっていけるが
紀伊半島を越えてから「あ、やっぱり九州に上陸したかった」と思っても手遅れなのである。


Tuesday, May 18, 2004
新月が近づくと僕は乾いた感じになる。満月が近づくと逆に満ち溢れる感じになる。気のせいかな?
でも、人が死ぬのが新月の時が多く、生まれるのは満月の時が多いらしい。また、満月の夜には
荒くれた交通事故が多く、半月のときにはうっかりぼんやりの事故が多いらしい。

ここ数日、「Diary」が面白かった、特に「悩める人」のところが考えさせられた、というご意見を2つ
いただいた。N中さん、S宅さん、ありがとうございました。そういえば、水曜日の「扉」のコメントにも、
「檄を期待してました」というコメントがあり、これは、最初のシラバスに「檄を送る」と書いたからだが、
このコメントの意味は、「檄が少なかった!」ということか?

よし。

檄るぞ。

.....................................

激昂しないとなかなか急にでるものではない。しばし待つように。


天才博士のこと
今、大阪に面白い人が来ている。1960年代、機械翻訳の草分けで、現在80才前後にはなろう
という東欧出身の博士のことだ。
知り合いから、この人が大阪に10日間くらいくるので、お手伝いして欲しいと頼まれた。
「最近結婚して奥さん若い人らしいから、30代、もしかしたら20代かも」とも聞いていた。

んで、昨日会ってきた。若いと聞いていたが.......

18才であった......

もちろん美少女。

はは。彼は80才。

足して約100才

割って約50才だ。

割っても、cricketよりずっと上だぞ?

ま、それはともかく。

彼の研究範囲は広く、機械翻訳、音声自動翻訳、ナノテクノロジー、などがあるが、
今、人体冷凍保存その他のリンク)の話を広めたがっている。

して、すべての動物実験が成功したら
人間最初の実験台に自分がなるといっている。

テレビカメラの前で、彼が装置に入る。
62才年下の妻が彼に「さよなら」といってキスをする。
彼は笑って冷凍。
5年後に解凍。
彼はゆっくり起きあがって身繕いをしたのち、
「じゃあ、イタリアンでも食べに行こうか」
と二人で街角へ手をつないで出ていく。

そんなプロモーションを考えているらしい。ははは。笑っちまったぜ。
やはりこいつは天才だ。

そんなネタ拾いだけでも価値あったミーティングであった。


Monday, 17, 2004
新月が近づいている。


Saturday, May 15, 2004
梅雨のような日が来て夏のような日が来てまた梅雨のような日に戻ってしまった。このまま
梅雨に突入するのかなぁ。

昨日は、夜、なんだか千里山の中華の五目焼きそばが食べたくなった。家を出るとき、今、読んでいる
本を持っていこう、と取りに帰った。本の名は「不夜城」。 馳 星周という比較的若い作家のハードボイルドで
中国人の父と日本人の母を持つ新宿のごろつきが人種の派閥抗争に巻き込まれながら生き残ろうと
頭を使う本だ。名詞止めが多い。悪くない。というか、かっこいいぞ。(新宿鮫はかっこよかったが、
最期があまりの予定調和的であった。これならもうすこしいびつでリアルな花村萬月の方がいい。)

北京語に「プートンファ」っていうルビが振ってあってこの響きが頭から離れない。なるほど。このせいか?
俺が中華を食べに行きたくなったのは。単純じゃん?。

そうか、この店の名前が「長城」だからか?単純すぎ。こおろきの頭の中は石ばかりだ。

新宿に確か「不夜城」という喫茶店は本当にあったと思う。ノスタルジックなついでにアンチハードボイルドな
「私の不夜城物語」を付け足しておこう。東京にはじめて住んだのは大学生になったときだった。
住んだ街は東高円寺っていうところだ。JR線高円寺のやや南。地下鉄丸の内線が通っている青梅街道と
環状8号線の間の街だ。新宿からは中野坂上、新中野の次、3つ目かな。この時期、つまり、4月5月6月、
物珍しくて理由もなく歌舞伎町やコマ劇場の前を歩いたな。そんときゃ何にも知らなかったな。アメリカには
行ったことあったけど、ギリシャもバリも韓国もいったことなかった。チーズのおいしさも知らなかった。
近所のスーパーで猫のマークのはいった1000円の白ワインをたまにかってきて飲んでた.....同じアパートに
同郷の看護婦さんの卵がいるっていんでときめいたり、隣の栃木の今市市出身の予備校生と夜更けまで
飲んだり、はじめて納豆食べたり、.cricket が片思いしてた子が友だちと東京に遊びに来るっていうんで、
「ディスコ」に連れてってね、っていわれて、行ったこともないディスコの下見をして、知ってる中で一番
男前の友だちにお願いして一緒にいってもらうことにして、準備万端だったんだが、緊張のあまり、その夜
早くから酒を飲み始めて...深酒して寝てしまい、約束をすっぽかしちまったり....自転車で新宿までわけもなく
いったり。一回はジョギングしにいったこともあったな。帰りは地下鉄で帰ったかも....

だから、たまにそんな新宿の夜更けや夜明け間際に、その喫茶店の前を通ると、
あー良くできた名前だなあ、ほんとに新宿って不夜城だなぁ、っていつも思ったもんだよ。

雨の日にはぼんやりと昔のことを思い出す。曇り空は記憶に似てるのかも知れない。


課長 島耕作
お気に入りの漫画に、『課長 島耕作』っていうのがある。作者は、広告会社につとめてて、電機メーカー
のことにもとても詳しく調査がしてある。crickdetも電機メーカーに勤めてたことがあり、島耕作は多分
10才くらい先輩にあたる。まあ、「初芝」のモデルは多分「東芝」、cricketがいたのは、ソラー電気の名前で
登場するライバル会社の方だが。シリーズは現在も続いていて、今、島耕作は取締役である。
イブニングという同系列の雑誌に「ヤング島耕作」という名前で係長になる前の島耕作についても
連載されている。会社に後輩の子が入ってきたり、時々僕も島耕作と自分を重ね合わせてみたりした
もんだ。昭和という時代について知りたい人、会社の人間関係について知りたい人は必読だ。
話もリアルでよくできてる。結構、胸を打たれるぞ。

黒米
飛鳥にいったとき、古代の米、黒米、赤米、っていうのがあって、「黒米」を買ってきた。最近になって
使ってみた。ご飯にほんの少し混ぜるだけで赤飯みたいな色になる。味はあまり変わらない。でも
焚いているときの香りがすごくいい。何のような匂いっていったらいいんだろうか、独特だ。聖徳太子
の時代の人々の生活に思いを馳せながら食べるととてもノスタルジックだ。

今日は大学時代、社会人時代、古代と、ノスタルジックな三題ネタで。(次回は時代をさらに遡り、
始祖鳥飛ぶジェラシックパーク、ジュラ紀の話題をお送りします。(^_^)/~(いかん、ネタが滑ってる)(@_@)


Wednesday, May 12, 2004

空気が湿っている。連休明けである。だるい。文字通りの意味で。ちょっと読書日誌。

新宿鮫 大沢在昌  ミステリーとかハードボイルドとか読んだことがなかった。かっこいい。
マークスの山  有名になった直木賞受賞作。おもしろかったのは面白かった。多重人格、
半狂気の犯人の内面の言葉の描写がおもしろかった。

旅涯ての地 板東眞砂子 長々と4月の終わりから読んでいたやつ。今までの本とかなり違った。
今までは日本が舞台だがこれは、イタリアが舞台だ。成功したか失敗したかと言えば
失敗だと思うのが、眞砂ちゃんだから許す。前半と後半がまったくぶっちぎれてる。前半は
ベネチアでの奴隷生活、後半は、修道院みたいなところでの生活だ。
「(マグダラの)マリアの福音書」(僕はこの名前を頭の中で「グラナダ/グラダナのマリア」だと
漠然と思ってたことが判明)が四大福音書以前に存在した!という着想が面白いが、その
内容が...... あーここまでネタばらしちゃいかんな。

ITと呼ばれた子 これね、泣けますよ。3巻あるけど、全部、文字間隔広いから大丈夫。
虐待された少年の主観世界です。あまりにひどすぎて気持ち悪くなるので
心の安定を求めている人は読まない方がいいね。


Monday, May 10, 2004

地軸ネタを放りっぱなし、りすなねたも放りっぱなしなので、ここら辺で続きを。
北が決めにくいので、地軸は心持ち太陽向きからずれているとする。



日本の春から夏にかけては、どうもこんな感じで太陽が昇っていくようである。
ずーっと夜ばかりの冬が続いた後、1月終わりか2月頃、太陽が南の空にちょこっと出て
すぐいなくなる時期がくる。その後昼の時間は少しずつ増えていく。太陽は常に
東から昇って西へ沈むが、最初は南の空を心持ちかすって申し訳程度に30分出たり
しているが、だんだんその時間が長くなるにつれて、東から出て西へいくようになる。

彼岸に真東から出て真西に沈む。日照時間も12時間づつになる点は現在と同じ。
だんだん北に近い東から出始めるようになって、4月か5月くらいに(ちょうど今くらい?)
に真北から出るようになって太陽が沈まなくなる。その後、軌道は円を狭めつつ
だんだん、上に昇っていく。

夏至に至ると太陽は再頂点(天空近く)に達し、ほとんど
動かなくなる。そして、まただんだんもと来た道を降りていって、冬には太陽がまったく
見えない夜ばかりとなる、という算段。

次なる質問は、こういう地球で生物が発生するのか、だとしたらどんな生物か、だが
またまた複雑になるのでこの辺でやめておこうと思う。りすなの続きはまた明日にでも。


Saturday, May 8, 2004
土曜日の綴りがわからなくなった。ベイシティーローラーズ(爆)の
S−A−T−ん−R−D−A−Y! ナイト!
というスペルを頭の中で回しても、TARだったか、TURだったか、
TERだったかわからなくなった。もともとスペリングには強い方ではなく、
どちらかというと書き言葉より話し言葉の方が得意なのだが。しまいに
DARだったか、TERだったか、DURだったかわからなくなってきたので
辞書を引いた。これは英語の話というか、昔からエレベーターとエスカレーターの
区別がつかなかったし(というか、エレベーターという語を聞いてまず
思い浮かぶのが、エスカレーターなのである。)こういったブラインドスポットみたい
なのは日本語にもある。

MSNで、スガシカオの記事があった。「夜空ノムコウ」について語っている。
スガシカオについての僕の最大の疑問は、「こんだけ普通の人がどうして売れるのか」
ということである。その前提には、スガはすごい、というのがある。なんで
すごいかというと、その詩および曲がねじくれているところだ。それはもう。大変に。
今日、記事の中で「自分は『超現実派』というスガシカオさんが」という表現があり、
へー、シュールリアリストを自認しているんだぁーとちょっと納得がいった。
シュールリアリズムはcricketは好きである。「窓の外ではリンゴ売りー声をからして
リンゴ売りー、きっと誰かがふざけて♪リンゴ売りのまねをしているだけなんだろー」
(どうもインターネットの著作権に対する扱いは甘いようであるので、これくらい
いいかな、と思う。)と言われると、をを!と思う。ん、シュールリアリズムを表現する
例としてはよくないな。

いびつな妄想を胸の小箱から過去へと切り刻んでゆく君は @cricket.

みたいなやつですかね。

飛び立とうとする過去を浸した雨蛙の滝が夜とお前を引き裂く @cricket

みたいなやつですかね。

Colorless green ideas sleep furiously @Cmsky

みたいなやつですかね。最後のやつはできのわるいシュールリアリストが作った
作品ですが。

これあこれで面白いテーマではあるが、今日はスガシカオの詞について。

ここまでのあらすじは、

「スガは確かにすごいが、そのすごさは通常の人にはわかるべきものではなく、
そんなスガが売れてしまったのはなぜか」

というスガの大命題についてであった。

結論から言えば二通りあって、「やっぱりいいものは伝わる」という結論と、
「プロモーターの良し悪しって大きいなあ」っていう2種類である。

もしかしたら両方かもしれない。両方が成立したときかもしれない。
でもよくないものでも売れるし、良いものでも売れないものがある。

ま、いずれにせよ、どうしてスガが良いのか、という話と、どうして、こんなやつ売れない
と思うのか、の話をせねばならぬであろう。

どうしてこんなやつ売れない、と思うのか。
声が小さい。声量がない。顔が(すごく)いいわけではない。年だ。名前がカタカナだ。
じめじめしてる。さわやかじゃない。暗そう。お礼参りとかしそう、しかもこっそりと。

ではどうしてスガがいいのか。
はじめてスガの良さに気がついたのは、スガ自身が歌う「夜空ノムコウ」を聞いたときだった。
エスMAPの歌うそれと全く違う!いいたいことが伝わるのだ。心情が。それは、
意味を理解しているからである。自分の思いが現実にそこにあるからである。
エスMAPはただ歌っているだけだ。歌うことに一生懸命だ。(ついでにいっておくと
あれがそれほどひどいとは思わない。でもうまいとはけっして思わない)
しかし、スガは感情の話をしている。雰囲気の話をしている。そしてそれは伝わってくる。

「♪君が何か伝えようと握り返したその手は」

握り返す、という行為は通常:
「愛してるよ」「あたしも」
「好きよ」「僕も」
という往信の行為である。

通常、「何か伝えようと」握り返すことはない。
「なにか」わからないことを伝えようと握り返すことはないのだ。

この場合、二人はベンチの後ろに隠れてる。そこからして妙でリアルだが、その状況で、
「僕」が「君」の手を握る。

「愛してるよ」「僕たちはいつまでも一緒だよ」

それに対して「君」は「何か伝えようと」握り返す。

「それはわかってる。でももう、終わりにしましょ」

それは優しい握りかえし方であったに違いない。諭すような。

そして、その「手」は、僕の心の「やらかい場所」を「今でもまだ締め付ける」のであり、
そのイメージのすっとび方、ねじれ方、展開の速さは、現在のライターの中でスガに
比類なき地位を与えているのである。

「君に話した言葉は
どれくらい残っているの?」

そんな切ない、力ない問いかけが 「握り返す」と同じさびのフレーズの所に来る。
僕は歌っている時に泣いてしまったことがある。スガは明らかに僕の中の「やらかい場所」
に住み着いてしまったのである。


Friday, May 7, 2004
その回答のすべてはまだわかっていないし、どうやって描いたらいいのかも難しいのだが、
夏、日本では、天頂を中心として、何十度の角度かで太陽がぐるぐる回る。ずーっと出っぱなしだ。
逆に、秋から春にかけての一定期間には太陽が全くでない。
春の一定日に太陽がはじめて顔をだす日がある
その後、太陽は、小さな円弧を描いて少しずつ「昼間」の時間を増やしていく。
ある時点で、円弧は完全な円となりそのひとつの点は地平線に接する。
それから、その円弧はだんだん天頂に近づいていく。

ということであろうと思う。ついてきてる人、何人くらいいるかなぁ。

この世界で、東西南北がどうなっているのかまではまだ考えが至っていない。


Wednesday, May 5, 2004
昨日は、リスナにたらふく書いたのでちょっと見てみて。

別世界のことを考えるのが好きだ。
2ヶ月ほど前にLAで(どうしてだったか思い浮かばないが)地球の地軸の傾きが、90度だったら?
というのを考えた。確か、現在、地球の地軸は、確か23.7度だか傾いているはず。
(本当はもっと太陽、大きいんだが)



どうも下手な絵だが、ともかく、太陽に対して水平な面(名前があるんだったな)から垂直に出した
線に対して幾分かの傾きがあり、これが春夏秋冬をもたらしているのだと言う。つまり、



あ、なんでこんな話をしていたか思い出した。
北半球では、北極星が不動の星なので、北が特別な地位を得ている。地図は北が上である。
ところが、南半球では南十字星がその役割を担っている。南を上にした方が便利なことも多いので
地図は北半球が上の地図と南半球が上の地図があるという。
これをさらに一般化すると文化の周辺地域では身の回りのことと押しつけられるものが衝突する、
と言える。関西人が東京の番組を見て標準語を覚えちゃうようなもんだ。
ま、中心は均質で整合性のある価値観ができあがり、逆にヒエラルキーと締め付けが厳しいが、
周辺は野放図で多様で柔軟でなんでもあり、とも言える。

んで、別世界の話に戻るが用はこの回転軸が、90度頭を横にしちゃってたらどうなるだろうか、
ということである。



すなわち、太陽に向かって垂直にぐるんぐるん回ってる。こういう状況では、日本はどうなる?
アフリカ(赤道直下)はどうなる?南極はどうなる?北極はどうなる?朝と夜はどうなる?太陽は
どっちから昇ってどっちに沈む?東西南北は存在する?春夏秋冬はどうなる?ちょっと考えてみて。


Tuesday, May 4, 2004
あんまり書くことがない(この多義もおもしろい:二つの意味、わかりますか?)ので、
リスナのページで英語学習に関して更新します。


Monday, May 3, 2004
今日はすき焼き。たらふく食べた。←すっかりたんなる日記に。


Friday, April 30, 2004

板東眞砂子のこと
板東眞砂子はタヒチに住んでいる。島が好きなのであろう。四国の出身であるが故に。
Cricketも島好きである。大島、新島、式根島(伊豆)、神島(伊勢)、松島(東北)、久米島(沖縄)
マウイ島(ハワイ)、バリ島(インドネシア)、パロス島、アマルゴス島(ギリシャ)ってところに
いったことがある。ん。たいしたことないかな。対馬は韓国へ船で行った際に停泊した。今ちょっと
気になっているのは隠岐だ。昔から一度は行ってみたいと思っているのはイースター島(石像)だ。

板東眞砂子のことを知ったのは、2000年に「狗神」という映画を見たときだ。(そのとき
天海祐希も結構好きになったし、つるんとした顔のアメリカンホームダイレクトの宣伝に出ている
男優もちょっといいな、と思った。)映画のことはよくわからないが、B+級の映画だったのでは
なかろうか。その割には映像がきれいでストーリーも変なところもあったが胸に迫る部分もあった。

でそのときからずっと「狗神」のことは忘れていたのだが、昨年度から「小説を読もう!」運動を
個人的に始めていて、100円古本屋で見かけた「狗神」を映画の印象と比べてみようと思った。

映画と小説とは媒体が違い比較が難しいことがわかった。結構違ったような気がする。しかし、
どちらも独特の雰囲気を持っている。「狗神」は四国の山村で他の村の人々から忌み嫌われ、
恐れられて生きている女系の霊媒師の家系とその近親相姦の血、およびその家と村社会との
軋轢の話である。

板東眞砂子の主要な作品には、その他、同じく四国を舞台にしたミステリー「死国」、明治維新から
第二次世界大戦、戦後復興まで、明治から昭和の四代にわたる山村の変化を背景とした
「道祖土家の猿嫁」、明治初期の四国の漁村に珊瑚船と美しい珊瑚を巡って起きる様々な人間模様を
描く「桃色浄土」、奈良を舞台にした「蛇鏡」、山に住んで人を食らうといわれる山姥に実はいかなる
人生があったかを描く新潟を舞台にした「山妣(やまはは)」レディコミの小説版(矮小化してすみません)
ともいえる「13のエロチカ」などがある。現在私は、マルコ・ポーロのポーロ家の奴隷として使われる
日中の混血がいかに昔は栄華を極めた商人であって彼が再び自由を取り戻して東に帰る(はず)の
「旅涯ての地」の上巻を終わろうとしている(のだが、上巻の最後辺ですでに彼は老人になってしまって
いて、下巻はどうなるのだろうと、ちょっと心配してる)

と書いているところに、二期前のゼミ生Y内さんからメール。がんばってください!二期前と
いっても卒業したのは一年ほど前ですよね。

実は、今日書きたいのは板東眞砂子の小説についてではない。(がくっ)その履歴について
である。眞砂ちゃんは高知県の山村(のはず)出身、その後大学が奈良女子大。奈良女ね。
関西にでてきたわけだ。四国から関西の大学っていうのはま、割とあるよね。入った学科が
居住科、というのがちょっとユニークだがそれ以外は普通だ。卒業後、「イタリアで建築とデザイン
を学ぶ」とある。これが違うよね。留学してるわけ。イタリアに。いつイタリア語習ったんだ?
遊学か?ま、「居住科」→「建築とデザイン」でかろうじて関連性が見いだされるけど大きなステップ
だよね。帰国して82年に第七回毎日童話新人賞を獲得してる。ん、いつ小説なんか書いてたんだ?
んでもって、帰国後通訳やライターもしてるはず。で、子供向けの話から賞を取ってだんだん
一般向けに移行してきたわけだ。
僕は眞砂ちゃんが四国から始めて関西にでてきたときの気持ちを想像できる。それから、
奈良女でどんな学生生活を送ってきたか、も。きっと、優秀な人で才能に満ちあふれていて、
自分は何かできることがあるような確信がありながらそれが何なのかわからなくて不安になった
こともあったのではないだろうか。ただ、自分ができること、自分が好きなこと、自分の興味を
羅針盤にして、海を渡って海を戻り人の波を乗り越えて今の高みにいるだろうと思う。そして
タヒチ。(この人はB型か?)
もちろん、板東眞砂子は超超超優秀な人だ。しかし、いいたいことは、自分の価値を決めるのは
自分だけだ、ということだ。まず自分が信じてあげなければ、誰も背中を押してくれない。
行く先を決めるのも、実際の最初の一歩を踏み出すのも自分だ。そして、自分の興味にまかせて
それを行動に移している。ちょっとでも自分の可能性を信じる人はその実現に努力するべきだ。

留学しろ、といっているのではない。でも、自分なりのユニークなストーリーを構築したければ
ちゃーんと少しずつ行動に移していこうよ、ってことだ。そうでないと本当はすごくユニークな人に
なれるのにふつーの人で終わってしまうこともあるってこと。それは個人にとっても、社会にとっても
不幸だ。そして板東眞砂子のずれ方/ずらし方は参考になる。

板東眞砂子の写真は撮り方によってすごく変わる。お人形のように見える写真もあれば、
奔放なニンフのように見える写真もある。それだけ自分の幅を自分で許容しているように思える。


Thurs April 29, 2004

メタファー関連。ちょっと前に撮った写真。


このままだとなんの写真かわからないよね。これを斜めからもう少し引いて撮ると:

こんな感じになる。鉄柵にはさまってしおれたバラの蕾。
これをみて、「苦しそう」とか「ギロチンみたい」とか思いません?蕾を頭に見立てて
枝を首や身体に見立てる。すごく日常的なメタファー的認識。


Wed, April 28, 2004
今日も雨。かぐや姫の「雨」に関する歌があったが、歌詞を書くとJASRACが恐いので
割愛。だいたい、かぐや姫ってだれだ?南こうせつは知ってるのか?
昨日はCのり(←店の名前)でI坂先生とラーメンで〆。んー日記らしくなってきた。
つうか書きっぱなし?

チーズを梅田のS城石井で買ってきた。L'ami とMunster. 保存状態がちょっと?だが
ともかく安い。一時、ここのL'amiを買い占めたことがある。ムンステールは、いわゆる
cricketの好きなムンステールとは異なる。若さが違うような。十分熟成させない種類の
ようだが、それでもカビは好きなタイプのカビである。

植物のメタファー
花も実もある (花とは見かけ、実とは内容ですね、この場合)
枝葉末節 (枝葉は重要でない付随的なもの、根幹が重要、ということですね。)


Tue. April 27, 2004
雨だ。梅雨の始まりみたいな空気だ。

昨日は温泉にいった。
スーパー温泉の一種である。釜湯という洞窟または遺体安置所(カタコンベ)みたいな
温泉の一番奥にある蝋燭の火で日本人女性が書いた日中混血の奴隷がベネチアで
自らの命を救うことになる一枚の飾り板を手にいれる13世紀を舞台とした小説を読んで
いると頭がくらくらしてきて自分が誰だかわからなくなり、「永遠」に触れたような気になる。
単なる湯あたりだと思うが。

A先生のこと
このネタで最初に自分で書いたメモも話題をだいたい書き尽くしたことになると思う。
A先生は日本語がうまい。大変うまい。私がそれに気づいたのは、百科事典かと
見まがうほど分厚いブルーでジャズィな装丁の彼の主著「ニューヨーク知識人云々」
という、流れるような名前の出版社から出た本を、毎朝の音速読トレーニングの一貫として
読んだときである。(この本が梅田紀伊国屋の「文化何とかフェスティバル」で特設コーナー
に並んでいたときには驚くと共に「をを!この人しってる(@_@)」と歓喜したものである。)
時々来るメールにもよく知らない漢語が使われていたりして私の近年の日本語力の向上は
この人によるところが多い。映画評論のメルマガを出していて出だしの日々のつれづれ
なる描写が面白い。私の文体もA先生の文体の影響を受けている部分があるように思う。
(cricket は憑依されやすい。もう一人のA先生にもときどき憑依される。)
A先生、あなたこそこういうHPをもつべきなんですよ。どうです、それまでここで
コラム書きません?


April 26, 2004
LINKのページを改編。ずーーっと昔に人に作ってもらったcricketのサイトから
持ってきたので、ずいぶん急に充実しますた。わしらのころは、インターネットも
CDもケーブルテレビもDVDもなーんもなかって英語の勉強といえばFENと
進駐軍の兵隊さんと話するくらいのもんじゃった(←いきすぎ)。しかし、FEN
(Far East Network: 米軍極東放送)と自転車乗った二人連れのモルモン教のクルー
カットの兄ちゃん達くらいだったかな。それがいまや!世界のありとあらゆるニュースや
ドラマが思いのままにお茶の間に。もー英語に触れる機会がなくてとはいわせん。


April 25, 2004
昨日は京都に研究会に行って来た。京都っていいよね。夕闇のさしかかった京都の
三条を歩いていると、なんとなく永遠みたいなものを感じてしまって、うっとりとする。
民家のような店のような入り口の中のカウンターにおばちゃんが座ってる。
「もろみあります」とある。
どうも、みそを造っている工場か問屋のようである。
350円でもろみを一袋かってきたcricket. これ、何につかったらいいのかなあ。
ひとまず、キュウリにでもつけて食べるか.....

同僚のK林先生も読んで頂いているということでありがとうございます。K林先生も、
聞くところによると他人のシナリオによる舞台を途中で降りて、自分のシナリオを
新たに書き始めた方のようで、ま、機会があれば御本人に聞いてみてください。
さて、今日はメタファー。

"He had a crew cut here," Stafford recalled. "He was straight-laced. He got down there and
formed his own identity. It seemed out of character for him really. But you can't judge people
by how they look. He's big-hearted


http://sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/news/archive/2004/04/24/sports1535EDT0412.DTL."あたr

新しくドラフトでアメフトのオークランド・レイダーズに入団したRobert Gallery 選手のことを
高校のときのコーチが表現しているんですが、ポイントはbig-hearted ですね。
心が大きい、と辞書にに書いてありましたが、普通は「心が広い人」っていうでしょう。
では、どうして英語では、big-heartに、日本語では、「心が広い人」になるのか、
というなぞなぞです。今のところ答えはありません。

言語が違うから。(あたりまえだろ)

っていう答えもあるでしょうが、それでは、例えば、

I am crazy about rap music.
僕はラップに狂ってる

ってどうして似たような表現が存在するのでしょうか、という質問が生じます。


April 24, 2004
同僚の先生で読んで頂いている方がいることを発見。(I坂先生ありがとうございます。)
それは美味しいお寿司の席で発見(H川先生ありがとうございます)。

すでに「隔日更新」となっていますが、はい、今日の話題。

What about life?
What about X ? という句のひとつの意味は、「Xはどうなるの?」とか、「Xについても
考えてよ」ということだが、ここでlife というのは生命ではく、人生の方です。

「悩める」人々へ
「(゚Д゚)y-~ < 取り合えず藻前らに一言言っておく

 初 心 者 を い た ぶ る ん じ ゃ な い ぞ」

っていうフレーズを2チャンネルの言語論争で見つけてちょっと気に入ってるんだけど、
それ流にいうと、

「(゚Д゚)y-~ < 取り合えず藻前らに一言言っておく

 自 分 で 決 め な きゃ だ れ も 助 け て く れ ね え ぞ」

って感じですかね。

「悩める人々」がいる。「悩める」というのは、「自然に悩んでしまう」という
「思える」など「自発」の「える/れる」ではなく、「悩むことが可能である」という
「可能」の「える/れる」である。悩むことが得意な人々がいるのである。
特に人生なんて大仰な話だとそうである。

「13才のハローワーク」を読んだか?ということである。

いまや、他人と同じなんて人は社会にいらないのである。いや、それは言い過ぎ
かもしれないが、自分が欲しいもの、自分が好きなことに合わせて、自分が
なにをして飯を食っていきたいか(シネクドキ)を早く考えないと大変なことになる
といいたいのである。

ここに、The Story of Your Life という本がある。
これは、カリフォルニアの臨床心理士兼パフューマー兼怪しげにケバいねえちゃん
(年齢不詳)がかいた本であり、Narrative Therapy という臨床心理メソッドに基づいた
本で私は一時これを翻訳したいと考えていたのだが(このコラムを読んで興味を持った
出版社の人がいたら連絡してくださいね_(._.)_)言っていることは簡単である。

人生はストーリーだ。

というメタファーで人生を考えてみよう、ということである。ちょっと専門用語を使う。

サキ領域     モト領域
人生       ←   ストーリー(物語)
自分       ←   主人公
重要な人    ←   共演者
周りの人    ←   登場人物
やりたいこと   ←  テーマ
人生計画    ←   シナリオ
?        ←   著者
面白い人生   ←  面白いストーリー
ユニークな人生 ←  ユニークなストーリー
幸せな人生   ←  ハッピーエンド

っていう感じでしょうか。人生の中で起こっている出来事は様々あって、注意
していないと一貫性のないいきあたりばったり的な出来事の羅列になってしまう。
これはいいストーリーじゃないですよね。
また、世間によくあるシナリオを使う、これも面白くないよね。
普通の会社→普通の昇進→普通の停年→普通の老後
普通のOL→普通の寿退社→普通の奥さん→普通のママ→普通のおばあちゃん
なんてものは、1面白くない 2今時求め得ない。
周囲の人のシナリオを使う
「うちをついで立派な医者になるために大枚はたいていいから医学部へ行ってくれ」
「海外なんて行ったら日本社会になじめなくなるからとにかく普通の会社に入って」
こういうのはちょっと美味しかったりする場合もあるだろうが、本当にそれでいいのか
自分が心から納得する必要がある。

もうわかるよね、自分のシナリオを自分で選ばなければいけないし、「悩める」人は
いつまでもシナリオを決められない困った作家でそういった人は周りに流されて
ずっと自分の望んだ配役を与えられないままなのだ。

追記
「悩める」人々に一言
まず、自分が「悩むことが好きなんじゃないか?」「単に決めたくないだけじゃないか」
と問うてみる必要があります。
それから、
1.直感を信じること
2.ともかく決めること(うまく行かなかったらいつでも変えられる)
3.小さなことでもいいから少しずつ現実に行動に移していくこと

もし、本当に理由があって悩んでいるとしたら、どうしたらその決定を助けられるのか
どういう情報があれば、その決定/判断がしやすくなるのか、と考えてみるべきです。
そして、次にその情報を得るためには何をしたらいいか、具体的にいつどこで
なにをするか考えて現実にしていくべきでしょう。
例えば、「英語を学んでいるけどラップが目茶好き」だったら、音楽関連の仕事に
どんなものがあるか調べてみるとか、「コンピュータ・プログラミング」に興味がある
けど、やったことないから向いているかどうかわからない」という人はプログラミング
のセミナーや授業を取ってみるとかね。一番いけないのは、「悩む」ことで
自分がなにかしているような気になって無駄な時間をどんどん費やしていくことです。
私の人生これでよかったのじゃろか」と60になってから悩んでいることのないように
今行動しなければだめです。

(追追記
英語の勉強も一緒。英語は話せるようになりたけど、何をやったらわからない、
から何もしていないという人がいるぞ。ともかく何かはじめて継続してください。
(あーそういう人は「りすな」をやりましょう))

April 22, 2004
毎日、といいつつすでに1日抜け。三日坊主っていのは3日目からだめになるん
だっけ?
たくさん話したいことがあったはずなのだが、メモがどこかに。
今日の疲労をたゆたう波の色がいやしてくれる。ということでしばし空白。










April 20, 2004
すべてのページに自分で取った好きな写真を壁紙を使っているのだが
それが表示されてないとの話を聞いたのでちょっと調査中。

恩人のこと。
僕には恩人が7−8人いる。この人たちがいなかったら今の僕は絶対なかった
だろうなあ、という人々だ。推薦状を書いてくれたり貴重なアドバイスをくれたり
などなど。普通だったらしなくてもいいようなことを貴重な時間を割いてしてくれたり、
普通だったら形式的な対応で済むところを、一生懸命親身な対応をしてくれた人たち。
こういった恩人やその他たくさんの人々のおかげで今の自分がある、というのは
間違いのない事実で、その分、僕も他の人々に何かをしてあげたいなあと思う。
親友が何人いますか、という話をしてくれた先生がいて、自分のために何でもして
くれる、その人のためならなんでもしてあげられる人を持つことが大事なことだ、
という話だった。僕は親友は何人いるかわからないけど、恩人の多さは自慢できる。
んなもの自慢してどうする、という向きもあろうが。とても幸せなことだと思う。多謝。

武器としての言葉
自分の考えを本や新聞や雑誌や紀要やテレビやラジオや街頭演説以外で公示できる
インターネットというのは画期的だ。それはいい意味でも悪い意味でも。比喩を使えば
マスコミが大砲とすればインターネットにも催涙スプレー程度の破壊力はある。
(言葉を武器に喩えるのは正しいのかというつっこみはもちろん必要である)
(大砲とはなんと時代錯誤な、というつっこみも正当である)
(催涙スプレーはなにも破壊してないではないか、というつっこみも歓迎です)
「君のあの一言には傷ついたよ」
など、言葉が人を傷つけることがあることは知られており、
「あなたのあの一言はぐさっと来たわ」などナイフであることがもう少しはっきりしている
表現もある。(ただし男性が使用する場合が多いかも知れない)
「彼女の言葉は彼の心に突き刺さった」とか「深くえぐった」とかね。
んー、なにがいいたいのかなぁ。ま、言葉を使用する人はそれがときには人に脅威と
なることを十分自覚するべきだと自分をいましめているんだろうなあ。

April 19, 2004
Y-Dの話。3月にSFへ行ったときに乗り合わせた韓国人の17才の女の子、
Y-Dさんの話をしようと思う。ソウル乗り継ぎの大韓航空だったのだが、かなり
空席の目立つラッキーなフライトだった。Cricketがビビンバにわかめ汁を
かけて食べていると、3つ向こうの席から彼女が身振りで示している。どうも
「ビビンバにわかめ汁はかけてはいけない」と言っているようである。この件に
関しては私にも思い入れがあって、わかめ汁をビビンバにかけるべきか、かけない
べきかは継続的に調査している。「かける」派と「かけない」派があり、「かけない」派が
優勢であるという感触は得ていた。どうも日本のみそ汁を白飯にかけるかという度合いに
似ているような気がする。今回、3つ向こうの席からわざわざ身振りで声かけて
まで私の所作をとめようとしたことはその行為が大変な誤りである、と考えているいる
人々の存在を示していると言え、「かけない」派の優位性を示すデータと思われる。
んなことはどうでもいいのだが、話をしてみるとY-DさんはLos で妹がホームスティしている
先に2ヶ月ほど泊まらせてもらいにいくという。彼女自身は英語はままならないのだが、
Cricketの韓国語は2歳児レベルである。彼女の英語は4歳児レベルであろう。(あんまり
違わないではないか、という向きもあろうが2才から4才の言語能力の発達には
目を見張るものがある)彼女が、オーケストラでオーボエを吹いていること、LAでは
いい先生を見つけたいと考えていること、母親はPersonal Identity (PI"個人の統一感)
に関するコンサルタントという珍しい職に就いていること, などを聞いた。驚いたことに
彼女は私が持っていたアロマの香りを当てた。母親がそういったことにも興味を持っている
のだという。さらに驚いたことに、彼女は、一日12時間、オーボエの練習をするという。
17才にして自分の極めたいものを持っていて、そのために努力している。片手間に
アロマなんてCricketよりずっと感覚が鋭い。若いってすごいぞと思う。
オーボエを持ってもらって写真を撮った。なにかに打ち込こむ姿は美しいと思う。

April 18, 2004
このページの背景を満月にしようか、波にしようか迷った。
いずれにせよ、プライベートな部分だから黒がいいな、とは思った。
水が感情の象徴であることはいくつかのところで発表した。
象徴っていうか、メタファーである。
ん、いきなり仕事の話になってる。
全然プライベートじゃないじゃない?w
書き出すときりがないのでこれでやめる。w まじめな文体がいいのか、
ふざけた感じがいいのか、どんな話題がいいのか、自分のプライベートな
言葉がパブリックな場所に載るということの意味がまだつかみきれない。
んー、これだけバブリーにさまざまな人がパブリックな場にプライベートな
言葉を出しているのだからこれはパブリックとまでは言い切れないか。
セミ・パブリック。プチ・パブリックな感じでやってくかな。

Cricket's Secret...