Part22

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過去の「KSつらつら通信」

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<目次>

第825号 「つらつら通信2021年」を振り返る(2021.12.31)

第824号 大河ドラマ(2021.12.26)

第823号 もう年末ですね(2021.12.26)

第822号 衆議院選挙総括(2021.11.1)

第821号 「炭鉱のカナリア」になるとも「オオカミ少年」にはならないぞ(2021.10.28)

第820号 このニュースこそ大きく取り上げるべき(2021.10.8)

第819号 そんなに男系男子にこだわりたいなら(2021.10.7)

第818号 自民党総裁選総括(2021.9.29)

第817号 ぶれない奈良県知事を応援したい(2021.9.7)

第816号 ようやく第5波の山を越えた(2021.9.5)

第815号 権謀術数が得意の政治屋が墓穴を掘った(2021.9.3)

第814号 泣けてきた(2021.8.31)

第813号 たくさんある新型コロナの変異株(2021.8.23)

第812号 ビーチスポーツは遊びで楽しむものじゃないのかな(2021.8.22)

第811号 酒の社会的意味を考える(2021.8.17)

第810号 統計データの扱いがひどすぎる(2021.8.13)

第809号 医者は何の専門家なのか(2021.7.31)【追伸:2021.8.2】

第808号 なんだかなあ、、、(2021.7.28)

第807号 まあ、こうなるのはわかってはいたけれど、、、(2021.7.27)

第806号 長嶋茂雄が象徴する戦後日本社会(2021.7.24)

第805号 まさかここまでひどいとは、、、(2021.7.23)

第804号 こんないい加減なデータがまかり通るとは、、、(2021.7.8)

第803号 タテマエとホンネの乖離が広がる時代(2021.6.23)

第802号 バーコードとかQRコードとか、、、苦手です(2021.6.18)

第801号 富岳の嘆き(2021.6.16)

第800号 「いじり−いじられ」コミュニケーション(2021.6.12)

第799号 東京オリパラ開催をめぐる最悪のシナリオが現実味を帯びてきた(2021.6.10)

第798号 記憶・記録・歴史(2021.6.3)

第797号 尊厳死について考える(2021.5.17)

第796号 社会学的な総合的視野の必要性が伝わる時代なのだが、、、(2021.5.16)

第795号 令和の雷電為右衛門(2021.5.13)

第794号 佐藤輝明(2021.5.9)

第793号 ワクチン接種の予約をしてみたが、、、(2021.5.8)【追記:2021.5.16】

第792号 呼称(2021.5.5)

第791号 オリンピック開催ありきの緊急事態宣言(2021.4.29)

第790号 もはや婚姻制度は潜在的逆機能の方が大きくなっているのではないか?(2021.4.26)

第789号 もしも3度目の緊急事態宣言を出すなら(2021.4.18)

第788号 子ども庁ってなんやねん(2021.4.7)

第787号 北の富士のすごさ(2021.3.29)

第786号 オンデマンド授業の弱点(2021.3.27)

第785号 久しぶりに新型コロナがらみのことを書いてみます(2021.2.26)

第784号 LINEグループって難しくないですか?(2021.2.23)

第783号 SNSよりHPがいい(2021.2.22)

第782号 ナポレオン2(2021.2.21)

第781号 新しいことが苦手(2021.2.18)

第780号 池端さん、そう来ましたか(2021.2.7)

第779号 記憶より記録(2021.2.3)

第778号 母の歌集(2021.1。29)

第777号 アボカドの食べ頃がわからない!(2021.1.27)[追記(2021.2.1)]

第776号 マイ・ファミリーヒストリー(2021.1.25)

第775号 ゼミを1年経験した後の自己評価(2021.1.23)

第774号 誰がリーダーでも、、、(2021.1.15)

第773号 ここまでくっきり出てしまうものなのか(2021.1.11)

第772号『麒麟がくる』のセットがすごかった(2021.1.10)

第771号 今年、東証株価は史上最高値をつけるのではないか(2021.1.9)

第770号 辛丑(かのとうし)なんだ(2021.1.3)

825号(2021.12.31)「つらつら通信2021年」を振り返る

 ついに大晦日ですね。2021年も今日で終わりですね。今年は「つらつら通信」をこの第825号を含めると56本も書きました。過去最高の執筆数です。それだけ自宅で過ごす時間が多かったということでしょう。新型コロナに関することは昨年から嫌と言うほど書いてきたので、今年はもう書かないぞと思いながら、この「つらつら通信」も書き始めましたが、途中から政府の対応や「専門家」と称する人たちの馬鹿の一つ覚えみたいな発言やマスメディアの統計データの取り扱いのいい加減さなどに物申したくなって、結局いろいろ書いてしまいました。

 でも、そうしたコロナ関連より、それ以外の文章を読み直して、ああ、この話も今年書いたのかと忘れていたものを思い出して面白かったです。まあちょっとずうずうしいと言われるかもしれませんが、そんじょそこらのエッセイストの文章よりは大分読み応えのある文章を書いているんじゃないかなと思っています(笑)ちょっとはコア読者がいるのもおかしくないなと思ったりしています(笑)ちなみに、一番反応してくれる人が多かったのは、第777号のアボカドについて書いた時でしたが、個人的には全然力作ではないよなあと思っています。ただ、こういうネタの方が触れやすいのでしょうね。私としては、社会のことや人間関係なのについて分析したネタを評価しています。第800号の「いじり−いじられコミュニケーション」なんかは気に入っているのですが。第771号で書いた株価の話も史上最高値とは行きませんでしたが、年末の終値はバブル経済の頃以来の31年ぶりの高値水準で終えたということですから、トレンドの読みとしては間違っていなかったと言えるでしょう。

 来年もコロナ以外のネタでいろいろ書きたいですが、最近は第823号で書いたように、なんとなく自分の意見を素直に書きにくい世の中になってきているので、少し更新が減るかもしれません。それじゃいけないんですけどね。とりあえず、またしばらくはオミクロン株で感染者が増えた、緊急事態宣言を出すべきかとか言い始めるんでしょうね。でも、昨年の3月くらいには予想したように、感染症は23年で収まっていくはずなので、来年の後半にはかなり雰囲気が変わっているのではと期待しています。まあどうなるかわかりませんが、数少ない読者の方々、また来年もご愛読いただけたら幸いです。では良い年をお迎えください。

824号(2021.12.26)大河ドラマ

 面白くなかったドラマ「青天を衝け」がようやく終わりました。一応見てましたが、不満だらけです。脚本は悪いは、演出は悪いは、何より主役の吉沢亮が大河の主役には力不足で、1963年の第1回目の大河「花の生涯」から見ている辛口の「大河評論家」には実に物足りない作品でした。若い俳優を大河の主役に持ってくると、いつもどの場面でも大声で叫ばせるばかりなんですよね。この20年くらいの作品で、この主役はダメだったなと思う3本の指に入る駄作――他は和泉元彌の「北条時宗」と、市川海老蔵の「武蔵」――でした。他にも無理やり女性を主役に持ってきて大失敗した作品とかもありますね。昨年の長谷川博己の「麒麟がくる」が好作品だった分だけ、今年の出来の悪さが目立ちました。

 まあでも、もうこれであの叫ぶだけの魅力のない主役を観なくてよいのでよしとしましょう。それより、次回作「鎌倉殿の13人」が非常に楽しみです。三谷幸喜の脚本は時としてやりすぎの時もありますが、小栗旬を主役に配置しつつも13人とタイトルに入れるということは、「新選組」の時のようにそれぞれが主役になるような回を作ってくれるのではと期待大です。源頼朝や義経ではなく、北条義時を主役にするというのも目の付け所がいいです。義時を主役にすることで、平家滅亡から鎌倉幕府の成立、頼朝の死、頼家の追放からの獄死、実朝暗殺、承久の乱と扱ってくれるはずです。ワクワクします。小栗旬は魅力的な俳優ですし、もう40歳くらいですから、大河の主役には適任でしょう。来年は楽しめそうです。

823号(2021.12.26)もう年末ですね

 あっという間というべきかどうかわかりませんが、いつの間にか2021年も年末になってしまいました。この「つらつら通信」も11月頭からまったく更新していなかったので、少数のコア読者たちは物足りなく思っていたと思います。すみません。まあでも、多くの方がご理解いただいているように、「ゼミの集い」の準備が始まる11月からは非常に忙しく、集いが終わった頃には卒論、修論の赤入れ、それが一段落すると年賀状作成と年末までいっぱいっぱいのスケジュールになるので、例年11月以降は「つらつら通信」の更新は少なくなっています。

 今年も時間的な状況としては同じですが、それだけでなく、最近は世の中の動き――こちらの方が正しいと声高に唱える人々――と考え方にずれが大きくなりすぎて発言しにくくなっています。以前から、世の中の動きのおかしなことには発言してきたつもりですが、最近は「ポリティカル・コレクトネス」がうるさくなり、異論を叩く空気が生まれやすくなっているので、こんなマイナーなHPで意見表明することすら注意しないとと思い、筆が鈍ります。ホンネで語ればみんな実はそう思っていないのではないかと思うようなタテマエを大上段に振りかぶって、異論を封殺しようとする空気が生まれている気がします。

 その考え方は本当に合理的かつ科学的根拠はあるのか、一般論としては賛成しても自分のこととしてとなったら賛成できるのか、個人の問題として見るのではなく社会の問題として見たらどうなのかとか、ぶつけたい疑問は山のように浮かびます。しかし、それらを具体的に書いたら、今の時代、批判されることになりそうな気がします。「物言えば唇さびし」という感じです。

 こんな一般論ばかり書いて逃げてたら、コア読者に怒られますね(笑)でも、批判されない範囲で書けることではもうあまり新鮮なネタはないんですよね。新しい経験が増えないこの2年間で考えて書けることはもうほとんど書いてしまっています。たとえば、こんなに感染者数が少ないのに「オミクロン株」を怖がって外国人を一切入れないようにしているとか、ちょっとでも近くにいたらみんな濃厚接触者にして施設に収容するとか、もういい加減にしましょうよという気分なのですが、世間は岸田総理の素早い慎重な対応を評価するとか思っているんですよね。日本人なら海外からの帰国も受け入れるけれど、外国籍の人は家族であっても日本に入れないとか人権問題じゃないですか。「差別のない世の中にしよう」とか言っているくせに、思い切り外国人差別じゃないですか。まあ観光客までは受け入れられないのは目をつぶるとしても、家族や仕事の関係で日本に来る人は受け入れるべきじゃないでしょうか。これでは、令和の鎖国状態です。でも、多くの日本人は深く考えもせずに日本人が守られればいいと思っているので、この水際対策を支持しているんですよね。まあ、日本だけではないかもしれませんが、こんな自国中心主義はいつか怖しい未来を生み出すとは思わないでしょうか。まあでも、こんな話も以前に似たようなことを書いたと思います。

 あと、この2か月間くらい思っていたことをもうひとつ書けば、やっぱり対面で行う授業は楽しいということです。春学期は、理論社会学1はすべてオンデマンドでやらざるをえませんでしたが、基礎社会学1は途中9回ほどオンデマンドになってしまいましたが、最初の2回と最後の3回は対面で授業ができました。最終回の講義では「これでこの授業は終わりです」と言ったところ、どこからともなく拍手が起き教室全体で拍手をしてくれました。やっぱり対面だとこちらの教育熱が伝わると思った嬉しい瞬間でした。秋学期は理論社会学2を対面の講義で行いました。多くの学生が楽なオンデマンド授業の履修に逃げてしまうので、理論社会学2の履修者数は39名でした。39年私立大学で講義を担当してきましたが、過去最低の履修者数でした。でも、こんな中で毎週教室まで足を運んで授業を聞いてくれる受講生は本当に可愛い存在で、39名しかいませんから、マスクで半分は顔が隠れてはいましたが、大体みんな同じような席に座るので、ああ今日も聞きに来てくれているなとか、あれっ、今日は珍しく休みだなと思いながら、親しく語りかけてきました。こんなに講義をするのが楽しいと思ったのは、アメリカへ半年の在外研究に行って帰ってきた1989年秋以来33年ぶりでした。

 もちろんゼミも10月途中から対面に戻り、ようやくゼミらしくなりました。3回生は11月になって初のゼミ合宿を経験し、そこからゼミの空気は大きく変わりましたし、4回生とも顔を合わせて卒論指導し、たまには飲み会も行うことができ、最低限のゼミ生活を取り戻すことができました。みんなしっかりマスクをしての授業ですが、対面だとマスク越しでも柔らかい空気が伝わってきます。Zoomでやっていると、マスクもしていないのに固い空気のままで時間が過ぎて行ってしまってましたので、対面に戻れて本当によかったです。

 また年が明けたら感染者数は確実に増えてくるでしょうが、もういい加減この2年間みたいな自粛生活に戻すのではなく、上手にコロナとつき合って行くような方針に変更してほしいものです。私は去年の春からこういう新しい感染症は落ち着くまで23年かかるから、そういう時間がかかるのを前提に日常生活を送ろうと言い続けてきました。でも、なかなかそういう雰囲気にならないのが残念でなりません。オミクロンはあまり重症化しないという有力情報もありますし、またオミクロンが下火になってもまた新たな株、あるいはまったく新たなウィルスが出てくる可能性は十分あります。そのたびに、怖いぞ、怖いぞと言い続けていたらエンドレスになりますよ。来年は、こういうネタを書かなくていいようになってほしいものだとしみじみ思います。

822号(2021.11.1)衆議院選挙総括

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自動的に生成された説明 衆議院選挙が終わりましたので、私なりの総括というか解説をしてみたいと思います。選挙期間中の様々な報道、世論の動向などを分析的に考えて、私は開票前に、自民党(公示前270)は240超、立憲(公示前109)は現状維持ができるかどうか、維新(公示前11)は大幅増で30前後と予想していたのですが、少しずれました。自民党は思った以上に手堅く、維新の人気も予想以上でした。結果として、立憲の大幅減を見通せませんでした。でも、昨日の午後8時のNHKの開票速報では、「自民党は単独過半数(233)がギリギリか、立憲は130をうかがう」と言っていたので、それよりは外れていなかったです。出口調査の結果が今回は的確な読みにつながらなかったようです。右の表を見ながら、この結果を生み出した有権者の意識を語ってみたいと思います。

 今回の選挙は、どこの政党にも大きな風が吹いていない選挙となりました。強いて言えば、維新に追い風が吹いていましたが、ほぼすべて吉村人気です。大阪では強いだろうと思っていましたが、比例区でも北海道ブロック以外のすべてのブロックで議席を獲得しており、予想以上に票を集めました。

 1カ月前に菅総理の下で選挙をやっていたら、自民党に大逆風が吹いて、自民党単独過半数割れもあったでしょうが、岸田総理に代わり、特別に素晴らしくもないけれど、まあ悪くもない。その上、新型コロナの感染状況も落ち着いていて、これからは日常生活が戻ってきそうだという気分の下、政権に対する不満感もかなり減っていたことで、まあ自公政権でいいんじゃないかなという気持ちに、多くの有権者がなっていたということでしょう。

 立憲民主党が大幅に議席を減らしたのも、特に逆風が吹いたわけではなく、現在の立憲の実力はこの程度ということでしょう。野党第1党への投票は、政策そのものが魅力的だからというよりも非自民の受け皿になれるかどうかでみんな考えるのですが、今回はその期待感のかなりの部分を日本維新の会に持っていかれてしまいました。日常的な政党支持率でも5%程度しかない政党ですから、比例区176のうち39も取れたのはむしろ悪くない結果でしょう。どう考えても公選前の109には届きそうもなかったのは当たり前と言えば当たり前の結果だったわけです。

 他の政党についても語っておきましょう。公明党は公選前より3議席増えましたが、自民党との協力が手堅く上手く行ったということくらいしか語ることはないですね。共産党の2議席減は共産党としてはショックでしょうね。ただし、多くの小選挙区で野党の選挙協力のために候補者を立てませんでしたから、そういう地域では共産党の存在感が薄れ、比例区での得票も減り、こうした結果が出るのも半分予想できたことだったかもしれません。

 国民民主党は地味に3議席増やしました。国民民主党は中道路線を貫き、政策的には自民党に代わって政権運営もできる政党たらんとしているわけですが、日本の政治ではなかなかこういう中道政党は大きな政党になれないんですよね。2009年に政権を取った民主党が唯一の例外ですが、明確に中道路線というよりも政策的には右から左までいろいろいて、政権交代の期待感が高まった時期は大同団結できていたのですが、政権を取った瞬間にそれが対立を始めて自壊してしまったわけです。本当は、自民党だっていろいろな立場の人がいて分裂してもおかしくないのですが、1990年代の大混乱・分裂期を経た後は、権力の維持のためには違いには目をつぶり求心力を働かせるのがよいという経験を積み、分裂を避ける制御機能が上手く働くようになっています。

 れいわ新選組は、比例で3議席も取ったんですね。ちょっと驚きです。本当は東海ブロックでも1議席獲得していて、4議席になるところだったようです。思った以上に票を集めますね。弱者の立場に立つというのを一番明確に出しているのと、党首の山本太郎の滑舌の良さが有権者に受けるのでしょうね。社民はもう政党として維持するのは無理ですね。立憲が今のような左寄り政策を取るなら、立憲と合流しても問題はないと思うので、そうなるんじゃないでしょうか。福島瑞穂さえいなくなったらすぐそうなるのだと思いますが、福島瑞穂が独立した政党であることにこだわり続けているようです。

 上表の右側の政党は知らないところもあります。N党(NHKと裁判している党)はこの選挙までは政党として扱われていたのでメディアでも紹介されていましたが、それ以下の政党はどういう政党なのか私も知りません。こういう小さな政党を作る意義がどこにあるのかもよくわかりません。

 政党の議席獲得数に関してはあまりドラマはなかった感じですが、小選挙区での勝敗ではかなりドラマが起きていました。でも、大物政治家が勝てなかったのもすごく意外というよりは、こういう条件だと勝てないんだなと納得できる感じです。金の問題や大臣として問題のあるパフォーマンスをした政治家や、かつては実力があったけれど最近は目立つ活動がなくなっていた政治家が負けています。それなりに有権者は政治家の資質を理解しているということでしょう。

 大体こんなところでしょうか。それにしても、大阪の維新は強すぎるほど強いですね。変な政治家もいっぱい作り出しているような気もするのですが、そういうところはみんなあまり気にしないのでしょうか?

821号(2021.10.28)「炭鉱のカナリア」になるとも「オオカミ少年」にはならないぞ

 先日ある同僚から「片桐さんは『炭鉱のカナリア』みたいなものですね(笑)」と言われました。ゼミで3回生と4回生のソフトボールをやり、交流会もやったことで、危ないことを率先してやりどこまで進んでいけるのかを確認する役割を果たしているという意味です。なるほど、そうかもしれないなと思いました。でもその役割、嫌ではないです。そんなに危なくない坑道なのに、管理事務所が中に入るのを自粛するようにというので、みんな唯々諾々と従って、中に入ろうとしない状況です。誰かが先に入ってどこまで行けるか確かめなくてはならないなら、率先してやらせてもらいます。

 こんなに感染者数が減っているのに、「第6波が来るぞ、来るぞ」と怯えながら、自粛を続けるなんて変です。一体どういう状態になったら、普通の生活ができるのですかと問いたいです。第6波というものがどんなものかわかりませんが、今こんなに少なくなっているのですから、いずれこれより増えてくるのは確実です。感染者ゼロなんて日はとても来るとは思えません。万一来ても海外で収まっていなければ、海外からまた新たなウィルスが持ち込まれ感染者が増える日も来るでしょう。ウィズ・コロナで暮らしていくなら、こんなに減っている今はもっと自由に活動させるべきです。

 私個人としてはかなりの我慢はできます。しかし、学生たちが通常の学生生活を楽しめないことには我慢ができません。授業さえ受けさせていれば、学生は文句ないだろうと思ってでもいるような大学の方針はおおいに疑問です。多人数で集まるな、懇親会はするな、なんてルールは即刻やめるべきです。「専門家」と言われる人がいつも「エヴィデンス、エヴィデンス」と言っていますが、多人数の方が、酒が出る場の方が、感染確率は高いというきちんとした「エヴィデンス」を見たことがありません。「第804号(2021.7.8)こんないい加減なデータがまかり通るとは、、、」で批判したようなデータしか示されていません。なんとなく多人数で飲んだら、みんな大声になってはめをはずして飲んでいるに違いないから感染するんだと勝手にイメージを作っているように思います。きちんと日頃から気をつけて暮らし、体調が悪ければ参加はせず、飲んでも節度をちゃんと持ち続けるなら、多人数や飲むことが一概に感染確率を高めることはないはずです。今のルールは飲み会をあまり経験していない人が作っているルールではないかと推測しますが、酒が提供される場や人数が多いのがイコール悪になっているのはどう考えても科学的根拠のない信仰です。

 日頃からきちんと気をつけて暮らしていない人がいれば、2人で会っていても感染させる可能性は高くなるでしょう。しかし、多くの人はちゃんと気をつけているのですから、すべての人間をきちんと気をつけずに暮らして無症状の感染者になっている人と思って暮らせというのはおかしいです。私は「炭鉱のカナリア」でもいいです。「第6波が来るぞ、来るぞ、怖いぞ」と言い続ける「オオカミ少年」だらけのおかしな世の中には、「炭鉱のカナリア」が必要だと思います。やれるところまでやります。簡単には「ボクは死にましぇ〜ん!」古っ!(笑)

820号(2021.10.8)このニュースこそ大きく取り上げるべき

 Yahooニュースを見ていたら、矢野康治という現役財務事務次官が本日発売の『文芸春秋』に、「このままでは国家財政は破綻する」(https://news.yahoo.co.jp/articles/d1f1f1941b474cebf58d0b55ee4fbe2067103b3c?page=1)という文章を掲載したということで、その内容を紹介していましたが、こういう主張こそ今国民が本気で受け止めなければいけないものです。こういう骨のあるトップ官僚もいたんですね。これもある意味、岸田効果です。安倍、菅政権は、実質的に官房長官から総理となった菅が官僚を人事権で締め付け、すべてイエスマンにしてしまっていましたが、菅が辞めたので、この文章も発表できたのでしょう。政治家に忖度ばかりして直言しない官僚なんて意味がないと、この数年ずっと思っていましたが、ようやく重しが取れたように出てきました。

 「このままでは国家財政は破綻する」というタイトルに主張のすべてが表れていると思いますが、要するに、今のようなバラマキ政策を続けていたら、日本経済は破綻するということです。与党も野党も、とにかく金を配る事しか言いません。さらには消費税減税まで言い出す党もある始末です。私は、昨年12月に2020年度の国債発行額が12月段階ですでにべらぼうな額になっていることこそみんな意識するべきだと思い、この「つらつら通信」に「第768号 これで日本は大丈夫か?」(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~katagiri/tura21.htm#no768)という文章を書きました。しかし、その後もそのニュースを重く受け止める空気は日本には生まれず、コロナ禍だからしょうがないと言わんばかりに、支援金や協力金をばらまき続けてきました。財源は国債しかなく、それを日本銀行に買わせる――つまり紙幣を増刷させる――ことで、金を配ってきたのです。

コロナの前から日本の借金はどんどん膨らんでいたのに、このコロナ対応でのばらまきでもうどうしようもないところまで来てしまっているようです。この矢野事務次官によれば、日本経済はタイタニック号のようなもので、衝突沈没に向かって猛スピードで進んでいるそうです。日本の国家財政を預かる財務省の事務方トップの発言です。これほど怖しい予測はないでしょう。にもかかわらず、新総理の岸田氏も、かなり金を配る政策を打ち出しています。コロナ対策でロックダウンも法的に可能にするということは、またその経済的補償もするということでしょうから、これもバラマキです。GOTO事業の復活を期待する声もありますが、あれもバラマキです。

なんで、みんな気づかないんだろうかと思います。国の経済は破綻しないと思っているのでしょうか。破綻しますよ。ギリシアの国家経済が破綻したのは覚えている人も多いでしょう(そう言えば、あれもアテネオリンピックの後でした)。国家公務員に払う給料もなくなり、警察も自衛隊もみんなストライキを起こしますよ。年金も崩壊、日本の国債は世界からまったく信用を失い紙切れ同然。紙幣も1万円札を束にして持っていかないとパンが買えないといった状況が来てしまいますよ。冗談だと思って聞いているかもしれませんが、冗談じゃありません。今の政策を続けていたら、10年後にはそんな日本になっていますよ。

コロナ対策のバラマキを今すぐ一切やめ、通常活動に戻すことが必要です。たいして重症化しない病気とわずかな数の死者に怯えて、目先の対策ばかりに血道をあげ、中長期の視点でものを考えない方針を全面的に変えないと、日本は大変なことになります。なんでみんなわからないんだろう。どうして、こういうことをもっと本気で心配しないんだろうと、半分腹が立ってきます。大衆がミクロで短期の視点でものを見てしまうのは多少仕方がないのかもしれませんが、政治家や官僚はもっとマクロ・長期の視点で政策を考えろと言いたいです。

でももしも今方針転換をしたとしても、衝突沈没を避けられるかは定かではありません。コロナ禍以前の借金と、この2年近くの間にさらに莫大に作ってしまった借金を返せるあてがあるのかどうかは、かなり怪しいです。消費税25%くらいは導入しないとだめでしょうね。

岸田総理はどうするでしょうか。話は聞くけど、そんなに大胆なことのできない人間ですから、事なかれ主義で済ませようとしそうです。むしろ、こんな文章を発表し、自分もやろうとしていたバラマキ政策を批判したこの財務事務次官のクビを取るかもしれません。このニュースが今日以降メディアで大きく取り上げられることもなく、この財務事務次官がクビを切られたら、近い将来に日本タイタニック号は氷山に衝突し沈没するのは確実です。

まあでも、もともと退任が決まっていて、最後だから官僚としての枠をはみ出して言ってやろうという感じなのかもしれません。ただ、通常官僚はよい天下りをするために、余計なことは言わずに辞めるものですから、たとえ退任が決まっている「最後っ屁」みたいなものだとしても、官僚としては骨のある方でしょう。それとも、好き勝手言える大学教員にでもなることが決まっているのかな。それなら、言いたい放題でしょうね。まあそれでもいいです。もしも民間人になったとしたら、どんどんメディアに出てきて、「日本の経済は危険だ、このままでは破綻する」と言い続けてほしいものです。

ダイアグラム

自動的に生成された説明【追記(2021.10.8)】どうしてもこの文章を全文読みたくて、『文芸春秋』を買いに行ってきました。Yahooニュースでの紹介で想像した通りの内容がほぼ書いてありました。日本の借金が悲惨になっていることが一目わかるグラフが出ていましたので、ここにも掲載しておきます。ちなみに、2021年度は2020年度ほど国債発行していないように見えるのは、2021年度だけ予算額でグラフが作られているからです。実際は、2020年度ほどではなくても、もっともっと国債も発行していることでしょう。

 なお、ウィキペディアによれば、矢野康治財務事務次官は、196212月生まれで現在58歳。事務次官には、今年の78日に就任したようなので、まだすぐ辞めるつもりではなさそうですね。厳格な財政再建論者で、上司にも政治家にも直言するタイプだそうです。なるほどという感じですね。財政再建論者というと、景気を悪くさせる立場のように思われがちですが、GDP2倍以上の借金を抱え込んでいるまま、さらに国債を発行してバラマキ政策をやろうとする方が、私にはどう考えてもおかしく思えます。再建の道は容易ではないですが、せめてこれ以上に悪化させないようにしないと、本当に国家財政は破綻すると思います。

 衆議院選挙を前に、どの党も有権者向けに、甘いことばかり言っていますが、財源なき約束は大変な事態を引き起こします。でも、財政再建を打ち出している党なんてひとつもないので、選べる党がありません。日本の未来が心配です。

【追記2(2021.10.8)】本日の報道ステーションで、この財務省事務次官の主張を23分だけ取り上げていました。この文章を発表することに関しては、麻生前財務大臣の了解を得ていると現財務大臣である鈴木俊一氏が紹介し、問題は全くないと言っていました。まあ、財務省の立場から言えば、そうですよね。麻生前財務大臣も国民全員に10万円給付とか意味がないと批判的でしたから、今回の事務次官の文書は我が意を得たりという感じでしょう。しかし、この短いニュースで、日本の財政の深刻さを受け取った人がどのくらいいるかな。1万人に1人もいないでしょうね。

【追記3(2021.10.10)】さすがに、この財務次官の発言はいろいろ取り上げられていますね。しかし、本気で受け止め方針を変えるべきだという声は大きくなりそうもないですね。今朝の「日曜討論」で高市早苗は、「バカげた話だ」と切り捨てたみたいですね。「今、困っている人を助けるべきだ」「コロナが落ち着いたら、必ず消費爆発期は来て、それは税収になって返ってくる」と発言したようです。でも、上のグラフを見てもわかるように、高市早苗が踏襲しようとしたアベノミクスの異次元の金融緩和でもほとんど財政の健全化は進まなかったことは明らかですし、本当に困っている人は助けるべきでしょうが、それが誰なのか、どのくらいいるのか全然わからないままバラマキをしてきたのが、この1年半でしょう。日本の政治家は、票欲しさに、楽観論に基づいて同じ過ちを繰り返すようです。

819号(2021.10.7)そんなに男系男子にこだわりたいなら

 真子内親王の結婚が近づいたことで、改めて天皇家の存続問題が議論になっています。悠仁親王が生まれるまでは女性天皇、女系天皇もやむをえないかという空気になっていましたが、悠仁親王が生まれてからは、これでしばらくは男性天皇、男系天皇で維持できると保守派が息を吹き返しました。

 それでもこうやって結婚し民間人になっていく皇室メンバーが出ると、どんどん皇室が縮小するなということが実感され、悠仁親王が結婚しても果たして男子が生まれるかどうかも絶対的保証はなく不安感は改めて湧いてきているのでしょう。そして悠仁親王が生まれる前までは、あまり本気では検討されていなかった旧皇族の男性を養子として皇室に入れるという声がしばしば紹介され、半ば本気で実現しようと思っている保守派もいるようです。

 しかし、旧皇族と言っても、現天皇家と一番近い関係にある閑院宮家でも8代も遡らないと先祖がつながりません。ちなみに、閑院家は1988年に断絶していますので、次は11代遡ったところで現天皇家とつながる有栖川宮家ですが、こちらも戦前にすでに断絶しています。他の旧宮家は北朝最後の天皇――「後崇光天皇」と言いますが、明治以降、南朝の天皇を正規の天皇として数えるので、この方は歴代天皇には入りません――まで遡らないと血脈がつながりません。南北朝時代って14世紀ですよ。そこまで遡って男系男子でつながってますなんて、誰が「素晴らしい万世一系だ」と本気で思えるのでしょうか?

 そんなに天皇家の男系の血筋にこだわりたいなら、現在の皇室メンバーの男性の精子の冷凍保存をしておいたらどうかと思います。そして結婚しなくてもいいから天皇家の血筋の男の子が欲しい――あるいは結婚しなくていいなら子どもを産んであげてもよい――と思う女性に立候補してもらって妊娠出産してもらったらいいのではないかと思います。こんな発想は不敬でしょうか。でも、今世の中では結婚せずに子どもだけ欲しいという女性はかなりいて精子提供を受けていると、NHKで批判的でもなく紹介していたりする時代です。天皇家の男性だけはそういうことをしてはいけないとも言えないのではないでしょうか。

 もしもそういうことは絶対にしないというなら、悠仁親王と結婚する女性のプレッシャーは尋常なものではありません。男子を必ず生まなければならないという厳しい制約がかかってしまうのです。ただでさえ、皇室の人と結婚するのは、小室圭氏の例に見られるように、大変な状況に追い込まれます。将来天皇になる人の相手となれば、それなりの家柄の人ということになるのでしょうが、一体誰が進んでこのいばらの道に分け入ろうとするでしょうか。本人もでしょうが、親も絶対嫌だと思います。実際、現天皇が結婚適齢期に入ってから、候補として噂された女性たちは逃げるようにみんな次々と結婚していきました。唯一、バリバリの外務省のキャリア官僚で、自分にはしっかり拒否する力があると思い、他の人のように結婚に逃げなかった雅子現皇后が逃げ切れなくなって結婚せざるをえなくなったわけです。そして、結果的に雅子皇后は「適応障害」になってしまったわけです。

 男系の血筋にこだわり、なおかつ一夫多妻制も認めないなら、600年以上戻って血がつながっているなんて無茶を言うより、精子の冷凍保存と人工授精による、天皇家に男性を作り出す方がまだ男系が受け継がれているという気に、国民はなりやすいのではないでしょうか。暴論と思われるかもしれませんが、男系男子にこだわりたいなら、これが一番確率が高く、かつ泣く人が出ない方法だと思います。

818号(2021.9.29)自民党総裁選総括

 先ほど、岸田文雄が自民党新総裁に決まりました。菅総理が総裁選に立たないと宣言した時に予想した通り(参照:第815号「権謀術数が得意の政治屋が墓穴を掘った」(2021.9.3))の最終的な結果になりましたが、途中過程では意外なこともありました。非常に興味深い選挙でしたので、忘れないうちに回顧しておきたいと思います。

 まず、今回の総裁選挙は今までの総裁選挙の中で一番よい選挙だった気がします。ドラマチックな総裁選ということで言えば、佐藤栄作の後釜を狙って福田赳夫と田中角栄が争い「ニッカ、サントリー」と言われた現金が飛び交い、最後は田中角栄が当選した1972年、大平正芳が現役の総理だった福田赳夫を破った1978年、小泉純一郎が大ブームを巻き起こして当選した2001年などの方が上でしょうが、今回は各候補が政策をきちんと語り、議論が交わされた上で党員も議員も派閥の厳しい縛りなしに、それなりにきちんと判断するという形で、民主主義的な選挙だったという意味でよい選挙だったと思います。

 正式の立候補に至る前から河野太郎に人気があり、立候補したら最有力候補ではないかと言われていましたが、正式に立候補して政策論争を始めると、改革派と言われる河野太郎の改革とは何なのか、そしてそれを本気で実現する気があるのかが日増しに疑われていき、評価を下げていきました。河野太郎のこれまでの主張で改革派と言われてきたのは、「脱原発」「女系天皇容認」「基礎年金を税金で賄う」といったことですが、政策論争をする中で、最初の二つははっきり言わなくなり、3つ目は増税せざるをえなくなるはずだが、消費税をどのくらい上げるのかと問われると答えないという曖昧さで、その本気度が疑われるようになりました。そして、今の菅内閣で行政改革とワクチン担当大臣として行った実績としては、「公文書から押印をほぼなくしたこと」と「ワクチン接種を急速なスピードで進めたこと」をあげていましたが、押印が公文書で必要なくなったからと言って、特段素晴らしい改革をしてくれたと誰も思っていませんし、ワクチン接種が急速に進んだのは、むしろ菅総理が主導したことでしょう。この総裁選挙期間中に、河野太郎はたいした政治家ではないという印象を与えたと思います。それが、1回目の総選挙で過半数を制して勝利するという目標にほど遠く、なんと1位にすらなれないという結果を引き起こした理由です。

 この総裁選での一番の驚きは高市早苗です。早い時期から立候補の意思を表明していた高市ですが、まあ立候補できたとしても、おとなしすぎる岸田に代わって、河野を問い詰める役割と1回目の投票で河野が過半数を取れないようにするための第3候補という風に位置付けられていた気がしますが、立候補してからの高市早苗は評価がうなぎのぼりでした。保守派を明言し、ぶれがまったくなく、また表情の作り方、喋り方も、非常に爽やかに見えました。男性の保守派だとマッチョな感じが出やすくなりますが、女性で保守派というのはその点ではマイナスイメージが少ないです。特に、高市早苗はイメージ作りがうまかった気がします。他の保守派の女性議員というと、稲田朋美、丸川珠代、杉田水脈など、決して好印象ではない人が多く、高市早苗も似たようなものかなと思っていましたが、この総裁選を見る限りは奈良の庶民的なおばちゃん感をうまく出せていて、保守の強面感を見事に中和していました。結果的に、ぐんぐん評価を上げ、1回目の議員投票で、河野太郎を28票も上回るという大健闘を果たしたわけです。この大きな得票数は、岸田体制で彼女を重要な地位につかせることになるでしょう。あと、高市早苗の評価が上がった背景には、彼女のパフォーマンスだけでなく、現代の日本に保守の考え方が静かに広がっているのだということも明らかにした気がします。

 野田聖子は政策的には自民党を出て野党と手を組んだ方がいい政治家です。子ども、女性、弱者を中心にするというのは、今の自民党ではどう考えても無理です。自由民主党という名で、いろいろな立場の人がみんな所属していますが、日本が二大政党制になるためには、競争と経済成長を重視する新自由主義と保守政治を前面に出す「自由保守党」と、所得再分配や弱者への支援や多様性を前面に出す「民主平等党」のようなふたつの政党になるといいのです。野田聖子の政治的立場は、小泉・安倍の路線が継続されるなら、自民党では主流には決してなれません。まあでも、彼女が自民党を飛び出すことはないでしょう。公明党が本来は立場が異なる自民党とずっとくっついて与党になっているように、彼女も政権政党にいた方が、自分の意見を政策に反映させやすいと考えているでしょうから。公明党も離れず、野田聖子のような議員も離れないのであれば、日本はずっと自公体制でしょうね。ちなみに、今回の総裁選挙での野田聖子の獲得票数は頑張った方だと思いますが、この程度しか票が出ないのが今の自民党の子ども、女性、多様化政策への態度をよく示しています。

 さて、最後に総裁に決まった岸田文雄についてです。「聞く力」と「バランス感覚」が売りの岸田文雄は、総裁選挙では強い印象は残せていなかったと思いますが、最初に立候補表明をし、特に実質的に二階幹事長を引きずり下ろす発言をしたことで評価をあげたこと、他の3候補の政策が右に行っても左に行っても自民党の多数派としては受けとめにくいものも多かった中で、バランスを取った中庸路線を維持してくれそうな岸田が一番安心できるという消去法的選択で選ばれやすかったのではないかと思います。最後に、旧竹下派が派閥として岸田を推すと決めましたが、旧竹下派はまさにそういう中庸路線を担ってきた派閥なので、最終的には乗りやすかったのは当然だと思います。岸田内閣が近々できますが、かなり高い支持率が出ると思います。誠実で人柄の良さそうな人という印象が、まずは国民に肯定的に受け止められることでしょう。

817号(2021.9.7)ぶれない奈良県知事を応援したい

 奈良県の荒井知事が奈良市や生駒市など奈良県の主要な市の市長から「緊急事態宣言を政府に要請してほしい」と要求されても、「宣言は要請しません」と一切ぶれません。批判もかなりあるようですが、マスコミから問い詰められても「その効果が証明されていないのに、宣言を要請することはしない」と落ち着いた口調で話しています。ほとんどの知事が、とにもかくにも感染拡大を防ぐために、自分は努力しているのだというパフォーマンスを示すために、「緊急緊急事態宣言」を要請するとか延長するといった判断――しっかりデータを検討した上で判断しているとは思えませんが――に逃げ込んでいる中で、荒井知事は骨のある知事です。

 彼の主張を確認するために、データを探してみました。下記のデータは、NHKが毎日更新している都道府県別感染者数のグラフで、近畿圏の6府県(大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県)の624日から96日までの1日あたりの新規感染者数(棒グラフ)とその日までの7日間平均感染者数(折れ線グラフ)です。どのグラフがどの府県のものかわかりますか?ちなみに、大阪府には82日から、京都府と兵庫県には820日から、滋賀県には827日から緊急事態宣言が発令されており、奈良県と和歌山県には緊急事態宣言は発令されていません。もしも緊急事態宣言の効果があるなら、それが発令されたか否かで違いが出ていそうなものですが、6府県とも8月下旬をピークに減少が始まっているという同じような推移になっており、違いは見えません。つまり、緊急事態宣言を発令しようとしまいと、少なくともこの第5波に関してはほぼ何の効果も出ていないということが明らかなのです。

グラフ, ヒストグラム

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グラフ, ヒストグラム

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グラフ, ヒストグラム

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 この都道府県別データは誰でも見ることのできるデータですが、こういう風に並べて見せてくれる人はいなかったと思います。こういう風に見せてしまうと、緊急事態宣言の効果がないことが赤裸々に現れてしまうので、気を緩めるなと言いたい「専門家」とマスコミにとっては不都合なデータなのでしょう。「緊急事態宣言の効果が証明されていない」という荒井知事の主張は正しいのです。

 今回の減少に関しても、「専門家」と言われる医師や知事たちが「人流も減ってないのに、なぜ減少に転じたかよくわからない」と言いつつ、「とにかくまだ気を緩めてはいけない段階なので、緊急事態宣言は延長すべきだ」と、まるで「緊急事態宣言」というお札を貼っておけばコロナから逃れられるという「まじない信仰」のように、非科学的なことを言い続けます。効果がないのに様々なことを制約する非合理さについてもっと真剣に考えてほしいものです。

 私は、決してコロナをなめてかかっていいとは思っていません。きちんと気をつけながら暮らすべきですが、非合理な規制は解除して、コロナの存在を前提に普通の生活ができるようにしてほしいものです。まともな感覚を持った奈良県知事にはぜひ頑張ってもらいたいです。ちなみに、奈良県では政府が打ち出した中等症U以下は自宅療養という方針には従わず、病院や宿泊施設で受け入れる方針でやっているそうです。知事が決してコロナをなめているわけではないことがよくわかります。

【上のグラフは左上が京都府、右上が滋賀県、左中が兵庫県、右中が大阪府、左下が和歌山県、右下が奈良県です。一列に並んで見えている場合も、この順で並んでいると思います。】

816号(2021.9.5)ようやく第5波の山を越えた

 感染者数だけから言うと、非常に大きな波となった第5波もようやく山を越えたようです。(ちなみに、死者数で言うと、第5波より、第3波や第4波の方がたくさん亡くなっています。)首都圏はくっきりと感染者数が減少していますが、ようやく関西圏も下り坂に入ったことがわかりやすくなってきました。各知事や医療関係者は、まだまだ油断はできない、また増加に転じるかもしれない、気を緩めてはいけないと言い続けていますが、これまでのデータから、私はとりあえずしばらくは減少が続くだろうことを、知事や「専門家」より確実に予想しています。912日までの緊急事態宣言を解除するかどうかは菅総理の最後の大事な仕事になりそうです。総裁選に予定通り出る菅総理なら、感染者数を減らすような対策を打ち出している方が一般には非難されないだろうということで延長を決めたような気がしますが、もうやめることにしたのだから、多少非難されようとも、思い切って緊急事態宣言の解除を決める可能性も多少ある気がします。まあでも、知事と医療関係者は9月末くらいまで継続を、とか言うんでしょうね。そうなったら、あ〜あって感じですね。

 

緊急事態宣言を解除しても、これまでの感染者数のデータから言えば、少なくとも12カ月は減少が続くはずです。特に、今はワクチン接種もどんどん進んできていますので、うまく行けば重症者や死者に関してはもう大きな波は来ないかもしれません。いずれにしろ、これから減少傾向が続くのがほぼ確実なのに、関西大学は早々と831日時点で、秋学期開始の921日から3週間の授業を原則遠隔授業に決めてしまいました。社会学部もその方針に則って、9月下旬に予定されていた2回生にとって大切なゼミガイダンスも対面ではやるな、ゼミ見学もやるなとすべて決めてしまいました。きっとその頃はかなり感染者数は減っていますよ。そうなっても、もう方針転換はしないつもりなんでしょうね。感染拡大を防止するための方策ならやりすぎても世間から文句は言われないだろうと思っているのでしょうね、組織の上に立つ人たちは。まあそういう気持ちになりがちなのはわからなくもないですが、そういう過剰防止策に走ることによって、普通の学生たちの今しかできない普通の大学生活の楽しみを奪ってしまっていることにも、もっと心を痛めてほしいものです。大学は4年間もあるじゃないかという人もいるかもしれませんが、各学年ごとに、その時にしかできないことがあるのです。もうしばらく我慢してくださいなんて言いながら、もう1年半以上です。このままの方針で行ったら、確実に2年間の大学生活が奪われてしまいます。

 規制をかける方ばかりすばやく対応するのではなく、解除する方にも機動的に対応してほしいものです。もしも912日で――あるいは秋学期が始まる前に――緊急事態宣言が解除されたなら、対面で予定していた授業や行事は対面でやれるように戻してほしいものです。感染者数がぐっと減った中でも、学生たちは大学に来られないなんて、可哀想なことにならないようにしてほしいものです。でも、きっとそんな柔軟な対応はしなんだろうなあ、大学も学部も。あ〜あ。

815号(2021.9.3)権謀術数が得意の政治屋が墓穴を掘った

 菅総理が自民党総裁へ出馬しないと明言しました。ずっと「時期が来たら出馬宣言をする」と言ってきたのが、急転直下の不出馬宣言です。なぜ、こうなったかというと、構造的誘発性としてはコロナ禍における総理大臣として国民が信頼してついて行けるという空気を創り出せなかったことがあり、構造的緊張要因としては「魅力のないただの人」と思っていた政治家・岸田文雄の出馬表明が予想以上に評判がよかったことがありますが、最終的にはそれを受けて菅総理が姑息な戦術を次々に繰り出したことで、国民だけでなく党員や国会議員からも愛想をつかされたことが直接の引き金となりました。

 具体的には、岸田が打ち出した党役員任期を11年、3期までとし、若手・中堅を積極的に登用するという提案を潰そうとして、総裁選・総選挙前に、二階幹事長を含め党役員を交替させようとしたことと、解散・総選挙を先にやって、総裁選を延期しようとしたことです。自分を支持すると言っている二階幹事長の評判がよくなく、自分の足を引っ張る存在だと考え、切ることによって支持率の上昇を考えたわけですが、総裁選の日程も決まっている今、党執行部を取り換えるなんて本来はありえないことです。実際に党役員への就任を何人かに声をかけたのかもしれませんが、万一菅が総裁選に勝てなかったら、自分も巻き込まれて、新総裁の下では冷や飯食いになるのは明らかなので、みんな渋ったのでしょう。解散・総選挙も、総裁選を延期するためだけに考えられたものなので、当然反発を受けることになったわけです。

 こんな姑息なことをせずに、どんなに国民の評判が悪かろうと、私と二階幹事長はそれなりに仕事をしてきた、他の誰かがやったら、コロナは収まったのでしょうかと真正面から問いかけたら、それなりに票が集まったのではないかと思います。なのに、ここまでのし上がってきた時と同じように、得意の権謀術数でごまかそうとしたことで、結局墓穴を掘ってしまったわけです。菅義偉という政治家は、これといった政治的理念はなく、その時々の風を読み、そこで一番自分御評価が高まる効果的な政治戦術を探し、それをこっそり実行するということの繰り返しで総理まで上り詰めてきた政治屋と言ってよいような人物です。総理になって打ち出した政策は、コロナ対策以外には、スマホ使用料の減額とハンコの廃止、デジタル庁の創設くらいです。天下国家の根本にかかわるような政策は一切ありません。選択的夫婦別姓制度の導入は、1議員であった時は賛成だったのに、総理になったら、まったく進めようとしませんでした。党内で意見が割れそうなことには手をつけない、そういう戦術だったのでしょう。一言で言ってしまえば、総理の器ではなかったということになるのかもしれません。

 さて、これで自民党総裁選――ひいては日本の総理を決める選挙――の行方は混沌としてきました。明確に立候補宣言をした岸田文雄、強い意欲を見せる高市早苗以外にも、立候補者が出てきそうです。一度は立候補の意思を示しながら菅総理に恫喝されあきらめた下村博文も状況が変わったのでまた立候補を考えるかもしれませんし、菅内閣の閣僚だから菅氏が出る限りは出ないと言っていた河野太郎も出馬を検討するでしょうし、国民人気があると言われる――私にはよくわかりませんが――石破茂も出てくるかもしれません。

 この5人が全員出たらどうなるでしょうか。私は、岸田文雄が勝つのではないかと思います。もしも、菅総理の総裁選に立たないという判断が1週間前だったら、また違う結果になったかもしれませんが、今回実質的に菅総理のクビを取った男として岸田文雄は評価を大きく上げました。1週間前までの世論調査で「次の総理は誰がいいか」という質問で、河野、石破、小泉などはもちろん、菅よりも評価が低かった岸田ですが、今回の早めの出馬宣言、その余波での菅のバタバタ退陣劇と続いた中で、岸田、やるじゃないかという空気になっています。人気者と言われる石破や河野が出馬しても、党員票でも岸田は健闘するでしょうし、議員票では安倍、麻生と比較的良好な関係を保っているので、もっとも票を集めるでしょう。河野太郎は麻生派ですが、果たして今回麻生が河野を推すかと言うと、どうなのかなと思います。万一出馬し、決選投票になったら、麻生派としては河野太郎に入れざるをえないかもしれないので、河野の立候補自体を麻生が諦めさせるというパターンもありそうです。1回目の投票で過半数を集められないと、議員票が大多数――国会議員383票+地方票47票――の決戦投票になりますが、岸田vs石破なら、石破は議員には人気がないので岸田の圧勝、岸田vs河野だとよい勝負になりそうですが、今の空気なら岸田が勝つのではないかと思います。

 岸田文雄はまじめなだけで印象の薄い政治家ですが、安倍、菅と続いてきた強権的なイメージに国民がだいぶ辟易していますので、まじめで誠実そうな岸田文雄は、今総理になれば、とりあえず高い内閣支持率が出るでしょう。その余勢を駆って、総選挙が行われ、自民党はあまり大きく議席を減らさずに済むということになりそうです。代わって政権を担えるというイメージが、今の野党にはまったくないので、自民党の表紙の顔が変わってさえくれるなら、とりあえず自民党にまだ任せておこうというのが国民の感覚でしょう。2012年の総選挙で負けてからも、民主党がごたごたせずに、民主党として維持できていれば、もう一度民主党にやらせてみるかという空気もできたのでしょうが、すでに民主党はなく、二大政党制ははるか遠くになってしまっています。

 世論の支持率を根拠に、総選挙で勝てないかもという空気が自民党内で反乱を生み、その結果総理・総裁が代わるというのが、日本的民主主義の姿なのかもしれません。哀れな民主主義だなとも思いますが、これが日本国民の望む姿なんでしょうね。

814号(2021.8.31)泣けてきた

 久しぶりに、ファンキーモンキーベイビーズが2人で歌っているのをテレビで見ながら、この人たちの歌は熱いよなあ。不倫しても歌自体の価値は変わらないのかなあ(笑)、なんてことを考えていましたが、そう言えば、ファンモンの「ちっぽけな勇気」という歌は、特に何か熱い気持ちを呼び起こすなあ、そうかあ、16期生が謝恩会の時にくれたゼミの思い出の動画に使われていたはずだと思い出し、探し出して10年ぶりに見てみましたが、思い切り泣けてしまいました。2年間のゼミ生活で合宿を何度もしたり、たくさんイベントをしたりといった記録が、16期生たちの笑顔とともにそこには収められており、10年前に見た時も泣きましたが、今回は特にゼミ行事が何もできなくなっている今との比較で、特に泣けてしまいました。「ああ、こんなにはじけるような笑顔が以前は普通にあったのに、、、」と悔しくて、悲しくて仕方ありません。

 あまりに無策な「あれも駄目、これも駄目」政策しか打ち出さない専門会議と施政者たちに逆らってやりたくなるのですが、組織に所属する人間としては、組織のルールにはそれなりに従わなければなりません。たぶん、少なくとも来春までは状況は大きく改善はしないでしょうから、丸々2年間はコロナ禍で制約を受けた生活になります。下手をすると、もう1年くらいこんな生活を押し付けられる可能性も十分あります。今の4回生は2年間のゼミ生活がコロナ一色になったまま卒業することになりそうですし、3回生に至っては、一度も懇親会ができていません。

 懇親会なんて、ラムダ株が流行している今、何を不届きなことを言っているんだと怒る人もいるのでしょうね。でも、お酒を飲んでよい20歳になってから22歳で卒業するまでの間に、ゼミで合宿や懇親会を行い、教室とはまた違う人間性を互いに見せ合ったりする、そういう場が大学生にとって大切だということを知る人も多いと思います。「イッキ飲み」などは一切せず、自分がどの程度飲めるのか、お酒とどういう付き合い方をするのがいいのかを知るのも、大学時代の重要な学びだと思います。そんな学びはこの1年半、そしてまだしばらくできそうにもありません。

 お酒だけではありません。バイトをしたり、旅をしたり、様々な経験をすることで成長するのが大学生です。大きな制約がかかり、楽しいことは何もできない大学生たちが可哀想で仕方ありません。心から泣けてきます。ワクチンを2回接種していたら、合宿参加も懇親会も参加可能くらいのルールに変更してほしいものです。このままでは、灰色の大学生活です。

 ちなみに、16期生思い出の動画の中で、ある男子学生が卒業旅行で行った鳥取砂丘で、「10年後に、またみんなでここに来ましょう!」と言っているのですが、その10年がコロナ禍で過ぎてしまいました。まあ、彼もそんなことを言ったことは忘れていたでしょうから、何の連絡もなかったですが。でも、かつて4期生は、卒業直前にアンケートを書き、それを10年後に開封しようという約束をして、実際に10年後に1泊旅行をして集まったなんてこともありました。現役時代に、まともに合宿も懇親会もできないまま卒業することになったら、10年後どころか1年も経たずにすっかりバラバラになっていそうです。私が長い時間をかけて確立してきたゼミ作りのノウハウのほとんどが使えなくなっている現状に、強い不満を感じる今日この頃です。

813号(2021.8.23)たくさんある新型コロナの変異株

 現在、デルタ株という言葉を聞かない日はないくらい、デルタ株が猛威を振っていますが、少し前まではイギリス株、インド株とか言ってたよなあとふと思いだし、少し調べてみました。100年前のスペイン風邪のように、特定地域名と結びつくと差別等の問題が起きてくるので。WHOが531日にギリシャ文字を用いる方針を打ち出し、各国のメディアも従い、こうなっているようです。ちなみに、アルファ株がイギリス株、ベータ株が南アフリカ株、ガンマ株がブラジル株、そしてデルタ株がインド株だそうです。デルタは、ギリシャ文字の順番でアルファ、ベータ、ガンマの次だから、4番目に発見された株ということでしょう。

 一方、最近ではラムダ株というのも日本で発見され、デルタ株が沈静化した後は、このラムダ株が猛威を振うのではと懸念されているようです。ラムダってギリシャ文字で何番目なんだろうと調べてみたら、なんと11番目でした。デルタの後に、イプシロン、ぜータ、イータ、シータ、イオタ、カッパと続き、その後がラムダです。デルタ以後ラムダまでの名のついた変異株名を全然聞いたことがなかったのですが、調べてみたら、やはり存在しているようです。

・アメリカ合衆国由来の変異株(B.1.427B.1.429)→ イプシロン株

・ブラジル由来の変異株(P.2)→ ゼータ株

・複数国由来の変異株(B.1.525) → イータ株

 ・フィリピン由来の変異株(P.3)→ シータ株

 ・アメリカ合衆国由来の変異株(B.1.526)→ イオタ株

 ・インド由来の変異株(B.1.617.1)→ カッパ株

 ・ペルー由来の変異株(C.37)→ ラムダ株

 こんなにすでにあるんですね。日本で聞かないのはなぜなんでしょうね。(カッパ株というのは日本でも発見されているという記事もありました。)感染力が弱いのでしょうか。いずれにしろ、こんなに次々と変異株が生まれているなら、ワクチンを接種しても新しい変異株に対する効果はあるのかという話がずっと繰り返されそうですね。

812号(2021.8.22)ビーチスポーツは遊びで楽しむものじゃないのかな

 先ほどニュースを見ていたら、「ビーチサッカー」で日本がアメリカに勝ったというニュースを紹介していました。率直な感想は「ビーチサッカーもやっぱりあるんだな」というものでした。実は、オリンピックで「ビーチバレー」が男女とも正式種目になっているのを見ながら、これは一体どういう魅力を持った競技なのかと疑問を持ち、要するに砂場という足元が悪いところでやる2人制バレーボールにすぎないよなあ、ただ足元が悪いところでやるだけで独立した競技になりうるならなんでもビーチスポーツになるよなあと思っていたところでした。ビーチバスケット、ビーチラグビー、ビーチバトミントン、ビーチホッケー、ビーチ野球、ビーチ卓球、ビーチ体操、なんでもできますよね。実際にはまだやってないものがほとんどでしょうが、これからどんどんできてくるのではないでしょうか。正直言って、なんかすっきりしません。

 ビーチバレーは海辺で遊びとしてやった人はたくさんいるでしょうし、それはそれで楽しい遊びだと思いますが、なんでこの遊びがオリンピックの正式種目になりうるのでしょうか?そのうち、ビーチサッカーもその他のビーチスポーツもどんどんオリンピック種目になるのでしょうか。私はビーチスポーツは素人の遊びとして留めておくべきで、オリンピック種目にはすべきではないのではないかと思います。まあ、オリンピックに思い入れはほとんどないので、個人的にはどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、オリンピックの正式種目にする基準がまったくわからず、社会学者としてはもやもやします。

 最近の日本社会は、コロナ対応をはじめとして、なぜこっちにはこんなに厳しいのに、そっちにはそんなに甘いのかといったダブルスタンダードが横行していて、一貫性のない基準の存在が気になって仕方ありません。ある意味ではダブルスタンダードにもなっていない「基準の溶解」とも言える状態かもしれません。こんな状態で、社会は正常に機能するとは私にはとうてい思えません。

811号(2021.8.17)酒の社会的意味を考える

 実質的な禁酒法期間が続いています。みんな、あっさり受け止めていますが、日本の歴史上こんなことは初めてのはずです。「いや、いや。お酒は売っているし、家で飲むことは禁止されていないから、禁酒法は言いすぎでしょう」と言われるかもしれません。それでも、私はこれは実質的な禁酒法だと思います。なぜそう思うのか、これから説明します。その前に、昨年からの新型コロナへの対応を大阪を中心にまとめておきました。もう、多くの人がいつ何回目の緊急事態宣言が出され、どういう内容だったかがわからなくなっていると思いますので、こういう風に整理しておくことにも意味はあるでしょう。赤で塗っているのは実質的な禁酒期間です。黄色も人数が厳しく制限された準禁酒期間です。大阪では425日から現在まで――さらに912日まで――、もう4ヶ月近く実質的な禁酒法時代が続いていることがよくわかると思います。では、お酒は買えるし、家で飲めるのに、私がこの状態を禁酒法だという理由を説明しましょう。

 お酒は社会的にどんな意味を持つのかを考えてみる必要があると思います。お酒は、「ハレ(晴)」の時間を生み出す道具です。「ケ(気)」という日常を続けていくエネルギーがうすれてきた時(「ケガレ(気枯れ)」に、「ハレ」の場を作って、「ケガレ」を払い、再び「ケ」を続けていくエネルギーを生み出すという暮らしを日本人は長くしてきたのです。いや、日本人だけでなく世界の多くの民族がそういう風にお酒と付き合ってきたのです。そのハレの時間は、祭や、祝事が典型ですが、日常的な酒席の場も小さなハレの場になっていたはずです。そして、どのハレの場でも、お酒の存在がハレの場であることを宣言するスイッチの役割を果たしてきたのです。お酒を飲むことで日常(ケ)が非日常(ハレ)に変わるということを、飲めない人たちも含めて認めてきたのです。乾杯という習慣は、まさにハレの時間がスタートしますというわかりやすい宣言でしょう。

 それが今まったくできなくなっているわけです。お酒の持つもっとも重要なこの社会的意味が奪われてしまっているのです。家で1人で飲むことが許されていても、それではまったく十分ではないのです。多くの人がお酒を飲みたいのは、お酒自体が大好きだからではなく、お酒を媒介として仲間とコミュニケーションを取り、「ケガレ」を払うエネルギーを得たい――リフレッシュしたい――からです。それが許されないなら、それは実質的な禁酒法だと私は思います。結婚披露宴も送別会も歓送会も同窓会もクラス会も懇親会も、新型コロナの感染防止のためという理由で、すべて禁止される状況がこのままでいいとは私には思えません。

実際もう4カ月もこんな禁酒法を続けているのに、感染者は増えることはあっても減ってないじゃないですか。それは隠れて飲んでいる人たちがいて、それが原因なんだ、だからさらに締め付ける必要があるんだという論理を振り回す人がいますが、違うんじゃないですか?お酒のない場面でたくさんクラスターが発生しているじゃないですか?お酒を飲む場ばかり締め上げたって、もう効果はないということにいい加減気づいても良さそうなものじゃないかと思うのですが…。結婚披露宴をはじめ、1回きりしかないような人生の大事なイベントを予定している人たちのためにも、節度をわきまえたハレの場での飲酒は認めるべきです。

ゼロコロナの発想を捨てるべきです。そんなことをめざして、「いつかコロナが収まったら」なんて言ってたら、新婚さんも披露宴を行う前に老夫婦になってしまいます。コロナはゼロにはなりません。コロナという感染症と共存していく発想に切り替えるべきです。オリンピックや高校野球がコロナの中でもできるなら、他のイベントだってできるはずです。まったくフリーにすることはできないなら、せめてワクチン接種が済んだ人や数日内の陰性証明を持っている人には自由を与えるべきです。

「ハレ」を生み出す道具としてのお酒の解禁を心から求めたいと思います。

810号(2021.8.13)統計データの扱いがひどすぎる

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自動的に生成された説明 第804号でも指摘しましたが、またひどいデータの紹介がテレビで堂々となされていたので、それを指摘しておきます。毎日放送の「よんちゃんTV」という番組で、右の和歌山県のデータが示され、1回ワクチンを接種した人は未接種者と比べて感染者が55%減っていて、2回打っていると93%減になっています。それでも、2回接種した人でも数%は感染するから気をつけましょうと医師とアナウンサーが説明していました。この比率はどうやって出しているかと言えば、711日から810日の1か月間に和歌山県で確認された感染者の中で、未接種者、1回目接種者、2回目接種者が何名いるかで比率を出しています。右列のデータを出すためには、本当は未接種者、1回目接種者、2回目接種者が、和歌山県内で何名いるのかを示し、その中で何%の人が感染者となったのかを示して初めて示せるデータのはずですが、そうしたデータの紹介はまったくないまま、話していました。

 非常に気持ち悪かったので、自分で知らべてみました。89日時点での和歌山県のワクチン接種者――医療従事者と一般接種者の合計――は2回済んだ人が401,655人、1回済んだ人が505,461人でした。この1回済んだ人は2回済んだ人も入れての数と思われるので、まだ1回しか受けていない人は103,806人になると思います。2020101日時点での和歌山県の人口は、923,033人なので、未接種者は417,572人となります。この人数をそれぞれ母数として、感染率を出してみると、未接種者は0.12%(1万人に12人程度)、1回接種者は0.04%(1万人に4人程度)、2回接種者は0.006%(10万人に6人程度)になります。未接種と比べると、1回接種者の感染は36.3%になり、2回接種者の感染は5.2%になっています。少し根拠している人口の数字が違うのでしょうが、たぶんこれが55%減とか93%減と示されている数値の根拠でしょう。

 よくわからなかったところは理解できましたが、下に示されている「2回接種でも数%の人は感染・発症」という見出しはどう考えても大間違いです。1回接種でも、感染する人は1万人に4人程度、2回接種だと16000人に1人もいないというのが正しいデータです。せめて書くなら「2回接種者でも感染者ゼロにはならない」くらいでしょう。各カテゴリーの母数を示さずに、感染者の中での割合だけを示すデータにはなんの意味もありません。

TVという影響力あるメディアがこういういい加減なデータ紹介ばかりしているので、コロナを無用に怖がる人々が増えてしまうのです。この和歌山県のデータは、ワクチンを2回接種したら感染率は激減すると伝えるべきデータです。統計データをきちんと読み取れる人間がTV局にいないことにぞっとします。

809号(2021.7.31)医者は何の専門家なのか

 あっという間に、東京3000人超え、全国1万人超えしてしまい、また明日から、東京、沖縄に加え、神奈川、千葉、埼玉、大阪の4府県が緊急事態宣言になってしまいます。政府の新型コロナ対策分科会・尾身茂会長は「オリンピック、夏休み、お盆と、感染が増える要素はいくらでもあるが、減る要素はない」と言っています。まあ、もちろんそうだと思いますが、尾身氏って医者だよなあ、でも彼があげている要因って、社会的要因で、そういう要因が人々の意識にどう作用するかについての分析ができる人じゃないはずだよなあと思ってしまいます。

 飛沫が感染の主たる原因となるということを公衆衛生の専門家である医者が指摘するのは専門家としての適切な仕事ですが、その飛沫感染を減らすためには人的接触を減らすこと、そのためには居酒屋やカラオケをーーできるなら大型商業施設やテーマパークも――休業させることが一番効果的だという提案を医者がしているのだとしたら、専門外のことについて口をはさんでいる医者の言うことを政府は聞きすぎていて間違っています。

 今問題視されているのは、緊急事態宣言下でも危機感を持たずに行動しているように見える人々です。しかし、彼らがなぜそういう行動を取ってしまうかの分析は医者にはできません。そういう分析ができる専門家は、人間行動を科学的に分析できる社会学者や心理学者です。医者はそういう分析ができないので、馬鹿の一つ覚えのように、とにかくステイホーム、家族以外には会うな、外で飲むな、人に会うなという禁止ばかりを言い立てます。そんな禁止ばかり主張していては、ルールを守れない、守りたくない人がたくさん出てくるのは当然です。オリンピックや高校野球は通常通り盛り上がっているのに、なんで居酒屋、カラオケ、観光業界や、それらを楽しみたい普通の人ばかりが制約をかけられるのだろうと、多くの人が疑問を持っています。医者やその言いなりになっている政府の言うことなんか、聞いてられないとなるのは当然です。

 普通の人にルールを守ってもらうためには、ルールが合理的で納得のいくもので、かつそれほど無理をしなくても守れるものになっている必要があります。短期間なら、かなり無理を強いるようなルールでもなんとか守れたりします――たとえば、昨年の1回目の緊急事態宣言の時――が、1年以上という中期、長期的になってきたら、ちゃんと無理なく守れるようなルールにしない限り、ルール違反者だらけになります。法的ルールが厳しすぎる場合、慣習的ルールがそれを補うように実質的にルール化されていたりして、人々はその慣習的ルールに従っていることもよくあります(道路の法定速度+10qくらいまではスピード違反にならないとか、お遊びでやる少額の賭け事は問題視されないとか)。

 今の4回目の緊急事態宣言のルールはどの程度合理的で納得のいくルールと思われているでしょうか。納得がいくルールだと思っている人はもうごくわずかでしょう。納得はいかないけど、ルールとして決まった限りは守ろうとする「まじめな」人も多いとは思いますが、なんのためにこの制約をかけられなければいけないのか、効果はどのくらいあるのか、ちゃんと納得がいかない限り守る気にならないという人もどんどん増えていると思います。

 感染者じゃない限り普通に行動していいはずではないか、喋りもしない時はマスクを外してもいいのではないか、飛沫を派手に飛ばすようなバカ騒ぎにならないならお酒だって飲んだっていいはずではないか、旅行するのがなぜいけないのか、ワクチンを2回接種したらもっと自由に行動してもいいのではないか、そんな疑問が多くの人の頭に山のように浮かんでいます。

 人間行動の分析のできない医者と感染拡大したら非難されることだけを怖れる施政者――政府、自治体、組織のトップ――が、とりあえず危険度を最小化するために、99%の人にはかけなくてよい規制を100%の人々にかけて、なんでもかんでもだめというからルールを守れない人がたくさん出てきてしまうのです。ちゃんと、こういうことはしていいですよというルールも示してくれないと、もう緊急事態宣言の発令ではほとんど効果出ません。感染拡大基調の今、何はしてよくて、何はしない方がよいのか、ちゃんと考える力を持った人間なら自分で判断できるはずです。すべて禁止ではなく、柔軟な判断ができるようなルールにしてほしいものです。でなければ、ルール違反はさらに増加し、感染者は増えるは、社会はギスギスするはで、ろくなことになりません。

 今の状態だと、結局ワクチン接種者が増えるのを待つしかないわけですが、すでにワクチンを2回接種した人もかなり出てきています。そういう人たちは飲みに行ってもカラオケに行ってもいいと、行動に自由を与えてほしいものです。医者は、ワクチンを2回打っても、感染がゼロになるわけではないと言いますが、そんなことはわかりきったことです。でも、感染確率や重症化率は激減しているのもまた事実です。そして、このワクチンを2回接種した人には、行動制約をかけないというルールを作れば、今ワクチンを打たずにおこうかなと思っている人も、こぞってワクチンを接種しようという気になるでしょう。

 医者ばかりに頼らずに、人間行動を分析できる専門家を専門家会議に入れ、その意見を聞いてほしいものです。

【追伸:2021.8.2】ついに、ロックダウンとか言い始めましたね。ロックダウンなんて成功したのは自由を抑圧することに抵抗のない中国だけで、欧米のロックダウンなんて、日本の緊急事態宣言と同じようにいったん減ってもまた増えるという繰り返しになるだけです。まあ、菅総理はロックダウンはしたくないようなので、法的整備をしてロックダウンをするということはしないと思いますが。

 他方もう実質的に規制され始めたのが県境を超えた移動です。これは実質的に、夏休みになった大学生の帰省禁止と、お盆の里帰り禁止です。予定していた学生や家族が可哀想です。甲子園の高校野球はどうするのでしょうか?オリンピックもやっているので、きっと甲子園はやるんでしょうね。なんか基準にまったく一貫性がなく、めちゃくちゃです。

 今急速に広まりつつあるデルタ株は「水疱瘡」並みの強い感染力があると、今日は何度もテレビのニュースで言ってましたが、水疱瘡が流行していても、国民全体を感染者と見なして移動するなとは言わないでしょう。新型コロナも感染者は県をまたぐ移動はもちろん他者との接触もすべきではないですが、非感染者の行動制限までかける必要はないはずです。何度も言いますが、本来は1%いや0.1%以下の人にかけるべき規制をなぜ100%――スポーツ関係者には緩いので99%としておきましょうか――の国民にかけなければならないのでしょうか。「無症状感染者」という言葉が一人歩きをしすぎています。実際、無症状の人からどのくらいの人が感染したのか、データで示してほしいものです。もしもデータ的な根拠もなしに、こんな「無症状感染者が危険」という発想がまかり通るなら、今後どんな伝染病でも国民全員に常に規制をかけなければならないことになります。

 いい加減、すべての人が無症状感染者かもしれないという前提に立った政策を変えてほしいものです。

808号(2021.7.28)なんだかなあ、、、

 オリンピックの野球競技が始まりましたが、参加チームが6か国しかなく、すべて決勝トーナメントに行けるルールのようです。調べたところ、3チームずつで構成されているグループリーグで2連敗して3位になったとしても、決勝トーナメントで同じく別グループで3位になったチームを破ってひとつコマを進めた後、ここでもう1回負けても、敗者復活の方に回れて、そこで3連勝すると決勝に行けます。つまり、43敗で決勝に行けてしまうので、そこで勝てば、53敗で金メダル、44敗で銀メダルとなります。なんかめちゃくちゃ甘くないですか。まあほぼないでしょうが、こんなプロセスでもしも金メダルを獲得しても、「なんだかなあ、、、」という気分になりそうです。

 同じ6チーム参加だったソフトボールは、予選は6チーム総当たりで、1位と2位で決勝という形だったので、まだましだった気がします。野球は確か2チームくらい参加チームが減ってしまったので、こんなことになっているのかもしれませんが、無駄に試合をいっぱいやっている気がします。まあ、こんな参加数なら、次回以降オリンピック競技から外されるのも当然だろうなと思います。

807号(2021.7.27)まあ、こうなるのはわかってはいたけれど、、、

 オリンピックの競技が始まった途端に、マスメディアもネットメディアも8割方オリンピックの報道になり、新型コロナに関する報道は極々わずかになってしまいました。感染者数は毎日すごい勢いで増えていて、オリンピックさえなければほとんどのニュースは感染者数の増加への危機感とさらなる自粛をと主張する医療関係者、大臣、知事などが頻繁に登場していたはずですが、毎日顔を見ていた西村大臣、尾身会長、小池知事、各局の医師コメンテーターをこの4日ほどまったく見ていません。

まあ、オリンピックが始まったらこうなるんだろうなとは思っていましたが、想像以上です。まるで新型コロナの感染は終息したかのような軽視ぶりです。ものすごい勢いで感染者数が増えているのに、こんな風にコロナを気にせずに暮らせるのなら、もっと他も自由にさせてくれたらよかったのです。

オリンピック期間中はほとんどの国民が、東京に「緊急事態宣言」が出ていることを忘れるくらい街に人が出ていますので、オリンピック終了――あるいはその2週間後――までは感染者数は増えることはあっても減ることはないでしょう。東京だけで13000人超えは確実でしょう。

終わったら、今度は一転して、また感染者数が大変なことになっている、オリンピックを開催したせいだ、とか言い始めるんでしょうね。なんか最近の日本は漠然とした空気に流されすぎです。政治家も秋に控えた総選挙で負けるのが怖くて、多数派に感覚的に批判されるようなことはしないでおこうということばかり考えすぎです。どうせこんな風にオリンピック一色になるのはわかっていたのですから、有観客で、酒類も解禁にして盛り上がればよかったのです。中途半端な規制をかけても感染者数は増加するのも十分予想されていたことだったのですから。

私はもともとオリンピック開催反対派ではなかったので、何の憂いもなく適宜応援しながら見ていますが、中止とか延期と叫んでいた人たちは、どういう気持ちで見ているのでしょうか。テレビ局の通常のオリンピック以上のテンションの高い報道を見ていると、なんで競技場に観客を入れないことにしたんだろうということが矛盾しているように感じてしまいます。テレビ局もかなり無観客押しだったはずですが、ならこんなにテンション高く、よく報道できるなと思ってしまいます。

[追伸]この記事をアップした後、今日の東京の感染者数が過去最高の2848人と発表されました。3000人超程度では収まらなくなりそうですね。東京5000人という数字も見えてきそうです。「緊急事態宣言」という掛け声のむなしさを感じます。ちなみに、さすがにこの数字なったせいか、小池知事も医師コメンテーターも久しぶりにテレビで見ました。でも、あっという間に、またオリンピックのニュースに切り替わってしまいました。

806号(2021.7.24)長嶋茂雄が象徴する戦後日本社会

 東京オリンピックの開会式の聖火リレーランナーに長嶋茂雄氏が出てきて不自由な足を一所懸命運んでいるのを見ながら、なんだか戦後日本社会の衰退を象徴しているように思ってしまいました。

 前回の1964年の東京オリンピックの年、長嶋は28歳で押しも押されぬ巨人軍の不動の4番バッターとして大活躍をしていました。前年の1963年は首位打者と打点王になり、1964年も31本塁打、314厘の打率と90打点という見事な活躍をしています。

ファン気質をあまり持ち合わせていない私が人生でほぼ唯一と言っていいほどファンだったのがこの長嶋茂雄です。まさにちょうどこの頃は、毎日学校から帰ったらランドセルを放って三角ベースで野球ばかりしていた私が一番長嶋に憧れていた頃でした。試合開始時のラジオの実況放送から聞き始め、テレビ放映が始まるとテレビにくぎ付けで、テレビ放映が終わっても試合が続いていればまたラジオを聞くという生活をしていました。

1958年に巨人に入団した長嶋は、まさに高度経済成長で発展していく戦後日本の象徴のような存在でした。そしてオイルショックが起き高度成長が終わり、経済成長率がゼロになった1974年に長嶋は現役を引退しました。高度経済成長の終焉と長嶋の現役引退を重ねて見た人は多かったと思います。

その後、2度巨人軍の監督となり通算15年、失敗と成功を繰り返しながらユニフォーム姿を見せてくれて、その時も長嶋ファンだった私は長嶋の笑顔が見たくて巨人を応援していました。2001年に長嶋が巨人の監督を降りた時に、私のプロ野球に対する関心はすっかり消えてしまいました。

その長嶋がアテネオリンピックの日本代表チームの監督をやると決まったので、久しぶりに長嶋のユニフォーム姿が見られると楽しみにしていたのですが、脳梗塞で倒れ、監督を辞退することになり、ユニフォーム姿を見ることは叶わなかったわけです。

長嶋はオリンピックが大好きで、1981年から1992年まで監督をやっていなかった時期には、しばしばオリンピックのレポーターとして登場していました。今回もアテネで果たせなかったオリンピック参加を果たせたことで、きっと長嶋本人は満足感でいっぱいだと思います。

ただ、かつての輝く選手時代の長嶋茂雄を知っている人間からすると、衰えた長嶋を見るのは辛いものがあります。もちろん、脳梗塞で倒れた時は寝たきりになってもおかしくないと言われていたのに、リハビリを頑張って自分で動けるようにまでなったことは本当に素晴らしいことで、そこは拍手を贈るべきだということは重々承知しているのですが、あの輝いていた長嶋茂雄はもういないという思いがどうしても強く湧いてきてしまうのです。まるで高度経済成長期の輝いていた「戦後日本社会」がもう戻っては来ないのと同じように。

805号(2021.7.23)まさかここまでひどいとは、、、

 東京オリンピックの開会式、ご覧になりましたか。ひどかったですね。ここまで見応えがない開会式は初めてなんじゃないでしょうか。予算がなかったんですかねえ。中途半端なタレントと誰だかわからぬ踊る人たちが出てきて、ぱたぱたなんかやっているというだけでしたね。テーマは何だったんですかねえ。中途半端に日本の伝統みたいなものを出していましたが、パフォーマンスや音楽なんかは全然日本らしさは感じさせなかったですよね。最後に出てきた聖火リレーのメンバーも何のサプライズもなかったです。

 昼間のブルーインパルスが空に描く五輪マークも全然上手くできなかったし、最低の開幕日になりました。1964年のオリンピックの時のように、記録映画を作るのでしょうか。この開会式ではどこを見せられるのやら、他人事ながら心配になります。むしろ「黒歴史」として何も残さない方がいいような気がします。

 各国入場もなぜアイウエオ順なんでしょう。そんなところで、日本方式にこだわるのは意味がわかりません。イギリスは「英国」で「え」のところで登場とは驚きました。物知りに教えてもらったのですが、どうやら外務省が使っている各国の名前表記に基づいているそうです。韓国は日本人が決して呼ばない「大韓民国」として「た」のところで出てきましたが、これも確かに外務省の表記通りでした。アメリカは次々回の開催国ということで、最後から3番目の登場になりましたが、外務省表記では「アメリカ合衆国」でした。ここは「米国」じゃないんですね。じゃあ、「英国」も「イギリス」じゃないのとツッコミたくなるのは私だけでしょうか。

 それにしても、本当に見どころのない開会式でした。開会式に参加した選手たちも見応えのないパフォーマンスですっかりだらけきってしまっていたようにすら見えました。1964年の整然とした開会式とはまったく異なる緊張感のないひどいものでした。世界に日本の芸術的才能のなさを晒した開会式となってしまいました。

結局、今回の「開会式」の一番の見どころは次々に開会式関係者が辞任やら解任になって開会式はできるのかとハラハラしたところまでだったようです(笑)ああ、時間を損しました。

804号(2021.7.8)こんないい加減なデータがまかり通るとは、、、

 昨日TVのニュースで何度も紹介され、今日のワイドショーでは、出演していた医師が「お酒を飲む場がよくないことが科学的に証明された」と鬼の首でも取ったように紹介していたのが、「酒の出る3人以上の会食に2回以上参加”で感染リスク約5倍か」(NHK 202177 2101分配信 )というデータです。具体的な内容は、以下の通りです。

新型コロナウイルスの感染リスクについて、国立感染症研究所などのグループが発熱外来などを受診した280人余りを分析したところ「酒の出る3人以上の会食」に2回以上参加していた人は、感染の危険性がおよそ5倍高かったという暫定的な解析結果を公表しました。

この分析結果は、国立感染症研究所の鈴木基感染症疫学センター長らのグループが7日の専門家会合で示しました。グループは、発熱外来などを受信して検査を受けた284人について、発症前2週間の行動をアンケート調査士、感染していたかどうかの検査結果とあわせて詳しく分析しました。

その結果「酒の出る3人以上の会食に2回以上参加していた人」は「会食には参加していない」もしくは「酒の出ない会食に1回だけ参加した人」に比べて、感染の危険性が4.94倍高いという結果になったということです。

調査を行った鈴木センター長は、対象となった人数が少ないなど、暫定的な解析結果だとしたうえで「これまでもリスクが指摘されてきた会食で、感染の危険性が高いことが確認された。特に飲酒を伴う場合のほうがリスクが高いと確認されたことは大きな知見だ」と話しています。

 「はあ?」って感じです。なんですか、このいい加減なデータは。一体どういう風に284人を分けたのでしょうか?紹介された文章からすると、指標としては、(1)酒の有無(酒が出る会食/酒が出ない会食)、(2)会食の人数(1人/2人/3人以上)、(3)会食の回数(0回/1回/2回以上)の3つがあるようです。この3つの指標を掛け合わせて分類表を作ると、下記のような13グループになります。

 このうち、今回のニュースで比べられているのは、AB――会食という言葉は3人以上をイメージしそうなので、Bとしました――、およびCです。そもそもBCは行動パターンが違うグループなのに、なぜかひとつにまとめられてしまい――あるいはたまたまBCが同じ感染率だったからまとめて扱っているのかもしれませんが、実におかしな比較の示し方です――、そのBCグループよりAグループは、感染リスクが約5倍高いと言うのです。なんてめちゃくちゃくな分析でしょうか。

 Cのグループは感染行動をしていないグループなのですから、どのグループと比べても感染率が低いのは当然です。言ってみれば、車を2週間に2回以上運転する人は車を1回も運転しない人よりも交通事故に遭う確率が約5倍であると言っているようなものです。当たり前じゃないですか。もっと差があってもいいくらいです。でも、この感染行動をしない人たちの中にも感染者はいたのでしょうね。ゼロなら約5倍という数字も出ないはずですから。会食を一切せずに感染した人もいるということこそ、このデータで注目すべきところかもしれません。

 データを厳密に扱うなら、検査を受けた284名をこの13グループにすべて分け、各グループの感染率がいくつだったかをすべて示し、その後、どういう会食パターンが感染率の高さを生み出しているかを語るべきなのです。この程度のことは、統計データ分析を扱ったことがある人なら初歩として気づくことです。

 こんなぼろぼろのデータを「大きな知見」として専門家会議に出した医師グループと、それにチェックを入れず垂れ流したNHKを代表とするマスメディアの無知さに呆れかえっています。

803号(2021.6.23)タテマエとホンネの乖離が広がる時代

 日本人はタテマエとホンネを使い分けるというのは昔からよく言われてきたことですが、最近この使い分けというか乖離が大きくなってきている気がしてなりません。

 私自身は、この使い分けが苦手で、ついホンネを言いすぎて敬遠されることもしばしばなのですが、自分の言動には責任を持たなければいけないという考え方を一貫して持っていますので、心にもないタテマエを口にすることはやはりできません。

 しかし、若い人や女性たちを中心に実際にホンネで思っていることとは違う、口当たりの良い、世間から非難されることのないタテマエを人前では語っている人が増えているように感じます。

 この原因として考えられるのは、ポリティカルコレクトネスが日本でも強まっていること、SNS等で情報が拡散批判されやすくなったこと、また逆にSNSで匿名でホンネをつぶやきやすくなったことなどが考えられます。

 様々な差別問題を抱えるアメリカでは30年くらい前から強まってきていたポリティカルコレクトネスが、日本でもこの10年ほど急速に強まってきています。特に、東京オリンピックが決まってから急速に強くなった気がします。私には理解しがたいのですが、国際的ビッグイベントを開催するにあたっては、価値観も「グローバルスタンダード」――実際は欧米の一部の価値観――に合わせなければならないという主張がしばしばなされ、スポーツと関係ないことまで価値観の修正が求められているように思います。

 そうした価値観の変更は日本社会で自然に生まれたものというより、「先進」国の、さらにその一部の「進歩」派の価値観を無理やり植え付けようとするもので、決して日本人の多数派が納得しているわけではないと思うのですが、メディアの報道などは見ていると、そういう価値観が「正しい」のだろうなと思わされるような状況になっています。

 こういう発言はしたらまずいよな、こういう考え方を知られたら批判されるよな、とみんな気にしながら生きるようになっています。万一「問題発言」と認定されてしまえば、あっという間にネットで拡散し、「極悪人」のような扱いを受けてしまいます。まさに「モノ言えば唇寂し」という感じで、なるべく余計なことは言わないでおこう、あるいは世間の批判を受けない発言にしておこう、という風に考える人がどんどん増えているように思います。コロナ禍において、さらにこの状況は進んだように思います。ホンネは言えない、周りに合わせておこう、そう考える人が圧倒的多数派になっています。

 こういうホンネの言えない状況が続くのは辛いはずですが、この状況を維持しうるのに隠れた大きな役割を担っているのは、匿名で書き込めるSNSなのでしょう。「裏アカウント」を持っている人は結構いるみたいですが、そこでは知り合いには知られたら困るようなホンネが書かれているのではないでしょうか。また、そのアカウントからホンネによる批判的発言も書き込むことで、「タテマエ」で過ごしているリアルな生活のホンネの言えない欲求不満を解消しているように思います。

 そうした裏でホンネを吐けるという場があることによって、表での「タテマエ」がますます広がる時代になってきているように感じてなりません。

802号(2021.6.18)バーコードとかQRコードとか、、、苦手です

 ひさしぶりにスシローに行ったら、ものすごく機械化されていてついていけず戸惑いました。まず入口で呼び出し番号を機械で発券し、その番号が呼ばれたら、その番号券のQRコードを読み込ませると席の番号が出てくる仕組みでしたが、どこで読み込ませるのかわからず立ち往生していたら、後ろにした女性が指さして教えてくれました。で、席番号を出てきたのですが、そのまま行っていいのかどうかわからずいったん座った後、また入口に戻り、店員さんにこのまま座っていいんですかと尋ね、「大丈夫です。画面にタッチしたら注文できるようになりますので」と言われ、ようやく席に着けました。

 食べ終わって会計ボタンにタッチしたら店員さんがやってきてお皿を確認し支払額を読み込ませた会計札を渡し、「無人レジで会計をお願いします」と言われました。無人レジなんて使ったことがなかったので、どこでバーコードをスキャンするのかわからず、また店員さんを呼びとめ教えてもらい、支払いを何でしますかと画面に表示されたので、思わずPayPayを選んだのですが、どうやって支払い金額を表示させるかわからず、また店員さんに聞くという始末でした。その程度の知識がないなら、PayPayなんか使わなければいいのにと言われそうですね(笑)

 何回も行ったことのあるお店だったのに、システムがめちゃくちゃ変わっていてついていけず落ち込みました。このコロナ禍のせいで急速に無人化が進んだのでしょうが、どんどんこれが一般化するのでしょうね。30年ほど前に、まだ関東の方では無人改札機があまり普及していなかった時代に、大阪を訪ねてきた父親が関西ではすでにかなり一般化していた自動改札機を前に切符をどうしたらいいのかわからなくて困ったという話をしていたのを思い出しました。新しい技術は若い人はすぐに理解し受け止められるのでしょうが、高齢者になってくると、これまでのやり方が大きく変わってしまうと、なかなか対応が困難です。どうやら時代について行けないそういう年齢の人になってきたようです。

801号(2021.6.16)富岳の嘆き

 おいらは富岳。開発費用1300億円、開発期間6年をかけて昨年試行運用を開始したばっかりだけど、その性能は世界一と言われてるスーパーコンピューターなんだぞ。すごいだろ、エヘン。でもさあ、この間テレビを見ててショックを受けちゃったよ。幼稚園に通っている男の子が「ふがくってしってるよ。あのマスクをしてたときと、してなかったときにくしゃみしたら、ひまつがどのくらいとぶかってけいさんするきかいでしょ。でも、あんなきかいつかわなくても、とぶきょりがちがうくらい、ボクでもわかるよ(笑)」って言ってたんだよね。

 いやあ、ちょっと待ってよ、坊や。おいら、スーパーコンピューターだよ。飛沫の飛び方を計算するだけの機械ちゃうねん。でもなあ、テレビでは確かにそれしか紹介してないからなあ。おいらのすごい能力が全然伝わってないよなあ。「8割おじさん」とかさあ、どこかの大学の研究者なんかが感染者数の予想をしているけど、あんなものおいらにやらせてくれたら一瞬で何百通りでも結果を出してやるのになあ。なんで、ちゃんと使ってくれないのかなあ。

 使う人がさあ、ちゃんと条件設定さえしたら、なんでもあっという間に答えを出してあげられるのになあ。条件設定できないなら、おいらは宝の持ち腐れになっちゃうよ。飛沫の飛ぶ距離を測る機械って子どもたちに思われるなんてあまりに悲しいよ。

800号(2021.6.12)「いじり−いじられ」コミュニケーション

 学生の卒論について一緒に考える中で、自分なりに整理してみたくなるテーマがしばしば出てきます。このテーマもそのひとつです。

 「いじり」という行為は、名前を変えただけの「いじめ」行為に過ぎないと指摘されることもあり、確かにそう言えるような状況になっていることもしばしばあるように思いますが、他方で上手に行われた「いじりーいじられ」コミュニケーションは集団の空気を和らげ、集団内の交流を高める機能も果たしているようにも思います。一体、どのような条件が整うと「いじりーいじられ」コミュニケーションがプラス機能をより発揮できるのでしょうか?

 学生たちにもいろいろ意見を聞きながら気づいたことがいくつかあります。まず、「いじりーいじられ」コミュニケーションは基本的には2人だけしかいないコミュニケーション場面で使われることはあまりなく、そのコミュニケーションを見ている他者がいる場面で利用されることがほとんどであるということです。「いじる」側のアクションと「いじられる」側のリアクションを見ている第3者たちが楽しめるかどうかを、特に「いじる」側の行為者は意識しています。2人だけでコミュニケーションを取っている場では、相手の話に「ツッコミ」を入れるとか「励ます」とかいうことはすると思いますが、「いじる」という行為イメージではないように思います。「いじる」コミュニケーションは、最低でも「いじる」人と「いじられる」人以外の第3者の存在を必要としていると思います。

 そして、このコミュニケーションが第3者から楽しいコミュニケーションに見えるためには、「いじられる」側の明るいリアクションが必要です。「いじられた」人が「いじり」行為にリアクションができなかったり、暗く辛そうなリアクションをしてしまうと、この「いじり」行為は「いじめ」に近いものと位置付けられ、集団にとってよい結果をもたらしません。「いじり」を明るく楽しくリアクションできる「いじられ」上手がいてくれると、集団の空気が柔らかくなり、一体感が増すということもおきます。

 ただ、「いじられる」というのは弱点や失敗を指摘されることがほとんどですので、「いじられキャラ」といったレッテルを張られ、常に「いじられる」側の役割を演じなければならないとなると、いくら頑張って明るくリアクションしていても心の中では「しんどいなあ」と思う時もあるはずです。「いじる」側と「いじられる」側が固定化されてしまった集団は、「いじられキャラ」がいずれその集団を離脱したくなりますので、中長期的には持続できなくなるのではないかと思います。

 そうならないために必要なことは、集団メンバーが「いじり」と「いじられ」のどちらの役割も状況に応じて担いうることです。集団の全メンバーが時にはいじり役、また別の時にはいじられ役になっている、そんな関係ができあがっていると、その集団においては「いじり−いじられ」コミュニケーションがプラスに作用すると思います。

 私が長く楽しく付き合っている仲間集団を思い出すと、まさにそんな関係になっているなと思います。「いじる」人と「いじられる」人が随時交替していて、そこには常に笑いが生まれるという構造です。中には、「いじられる」のを待つのではなく、自分から「いじられる」ために、身を削るネタを語り始める人もいます。それは、「いじり−いじられ」コミュニケーションが場を和ませ、楽しさを増すということを無意識に知っているがゆえの行為です。

 まあでも、そこまで理解しあったメンバーによる集団になるには時間がかかります。集団ができはじめの頃は、「いじる」人と「いじられる」人が固定化されやすく、そのままその集団における、それぞれの位置みたいになってしまうことの方が多いでしょう。少し時間をかけて様々な面を互いに知っていくと、立場の変化も生じてくるのだと思いますが、そこまで濃くしっかりと付き合っていく集団を見い出せるかどうかは難しいところかもしれません。というか、そんな特別な集団がどこかにあり、それを発見するということではなく、自分が所属する集団をそういう濃い付き合いをする集団にしていこうと自分で思えば、そうできるのです。しかし、所属せざるを得なくなった集団だからというだけであまり深い付き合いはしたくないという立場をとるなら、この「いじり−いじられ」コミュニケーションも浅い機能――いじられキャラが多少傷ついてもその場の笑いだけは起きる――しか発揮できずに終わることでしょう。

 まとめましょう。(1)「いじり−いじられ」コミュニケーションは、基本的に3人以上の集団において利用されるコミュニケーションである。(2)「いじられる」側のリアクション次第で集団の空気は変わる。(3)「いじり」「いじられ」役の固定化は、中長期的には集団維持にとって逆機能となる。(4)「いじり」「いじられ」役の柔軟な役割転換が可能な集団においては、「いじり−いじられ」コミュニケーションは集団維持にとって順機能を果たす。

 とりあえず、こんなところです。いかがでしょうか。

799号(2021.6.10)東京オリパラ開催をめぐる最悪のシナリオが現実味を帯びてきた

 毎日ニュースで、東京オリパラの開催をめぐる議論がされています。世論はまだ中止派が多数ですが、政府・東京都・組織委員会は開催を既成事実として一歩も譲りませんので、国民の方が開催時期が迫るにつれて「まあここまで来たら開催もしょうがないか」となっていくのは明らかです。主催者側は当然そうなると読んでいます。

 しかし、私が最悪のシナリオと言うのは、開催されることそれ自体ではありません。別に開催賛成派でもないですが、開催はどうせされるだろうと私は一貫して思っていました。問題は開催の仕方です。どうせ開催するなら、なるべく普通に盛り上がれる形にしてほしいと思っていましたが、最近の医療関係者の「普通は開催はない。もしもどうしてもやるならリスクを最小限にすべきだ」という意見が出され、自分の決定に自信を持てない菅義偉を中心とする政府は、中途半端な妥協策を出しそうで、これが最悪のシナリオになりそうな気がしているのです。

 医療関係者の主張は、1.オリパラを中止する、2.無観客で開催する、という主張だと受け止められますが、政府はこの2つの選択肢はともに却下するでしょう。政府はあくまでも有観客――定員の半数あたりにするでしょう――での開催を既成事実として進んでいくはずです。しかし、医療関係者の危惧を無視したと思われては世論の支持がよりなくなってしまいそうだと考え、提案してきそうなのが、東京オリパラの開催期間中は東京はもちろん、人が多く集まり盛り上がってしまいそうな大都市での酒類提供禁止をおこなうことです。

 今の緊急事態宣言は620日でいったん解除されるでしょう。時短営業は求められると思いますが、酒類提供禁止もさすがにいったんは解除されるでしょう。しかし、オリパラ開催日が近づいた7月半ば過ぎあたりから、「安全安心の大会にするために、観戦した後に飛沫感染の危険が増す宴会等をやらないでもらいたいので、大変申し訳ないが、再び酒類提供を禁止とさせていただきたい」と宣言し、オリパラが終わるまで、またも「禁酒法」の時代が来てしまうのではないかと予想しています。これが、私の考える最悪のシナリオです。

 オリパラをやるために、そこまで日常生活を犠牲にさせるのはおかしいです。飲食店が苦しいのはもちろんですが、国民も自由に人と会い、楽しく語り合う機会を奪われ続けています。冗談じゃないと思います。オリパラをやるなら、普通に楽しめるような状態でやってくれと思います。中途半端にリスク軽減とか言って、一般国民の生活だけを我慢させるなと思います。すでにそんな気持ちになっている人が少なくないので、オリンピック代表に決まっている選手にも心無い言葉を向けてしまう人も出てくるのです。「なんで選手たちのことは考えてくれるのに、自分たち普通の国民のことは配慮してくれないのだ」という気分はまん延しています。こっちの「まん延」こそ防止しないと危険だと思うのですが、、、

 リスクがあってもオリパラをやるなら、日常生活を犠牲にせずにやってくれと思います。そうでなければ、10年後、20年後に、この2021年に開催された東京オリンピックのことは、大多数の人が「負の記憶」として刻んでしまいます。「あの時は、オリンピックのためにすべて犠牲にされたよな」「結局、やってよかったことなんか、何かあったのかな」とそんな風に思い出す負のイベントになってしまいます。

 1964年の東京オリンピックも開催までにはいろいろあったようですが、オリンピックを契機に東海道新幹線ができ、首都高速道路ができ、東京の街はかなり綺麗になり、そして何よりもみんなで盛り上がれて、敗戦から20年も経っていなかった日本が自信と元気さを取り戻す大きなきっかけにもなった素晴らしかったイベントとして国民が記憶したものでした。しかし、今回は今のままでは絶対そうなりません。1964年と同じような位置にはもうどうやってもなりませんが、せめてコロナ下で少し感染も広がってしまったけれど、オリパラの時はみんなで盛り上がれて、唯一の楽しい思い出になったなあくらいに思わせてもらえないものでしょうか。

 有観客にしてどうせ人流を生み出すなら、気を付けながら街で飲みながらオリンピックについて語り合う機会くらい与えてもいいじゃないですか。一般国民は家でおとなしくテレビ観戦していてください、選手と関係者、政府や都や組織委員会のえらい人たちはスタジアムで盛り上がりますのでって、誰がそんな不当な対応に納得できるのですか。最悪のシナリオに基づく2021東京オリパラにならないように願うばかりです。

798号(2021.6.3)記憶・記録・歴史

 社会学の世界で「集合的記憶」という概念が知られるようになり、歴史的環境の研究とも深い関りを持つかもしれないと思い、最近いろいろ論文を読んだりしているのですが、なかなかすっきりした定義等に出あわず、これは自分なりに整理して考えた方がいいかもしれないと思い、頭の整理のためにこの文章を書いています。

 もともと「記憶」は、「記銘・保持・想起」からなり、これらを行うことのできる唯一の主体は個人であり、研究してきたのも心理学者でした。それが近年になって――と言ってももう30年以上経ちますが――20世紀前半に活躍したフランスの社会学者モーリス・アルヴァックスが提起した「集合的記憶」という概念が長い眠りから目覚めたかのように注目されるようになり、その後、様々な社会学者がこの「集合的記憶」について語るようになってきました。

 「集合的記憶」について書かれた論文をいろいろ読んでみると、確かに面白そうな概念だなと思いましたが、アルヴァックス自身の主張もやや哲学的だったりしますので、彼の定義に忠実に従うのは、現代の社会学にとってプラスにはならない面も多いなとも感じました。そこで、自分なりに概念を整理してみることにしました。

 まず、「記憶」という概念は、厳密に使うならやはり個人においてしかなしえない行為と見るべきだと思います。なので、「集合的記憶」という概念は、個人的記憶の共有化されたものと捉えるべきです。そう捉えると、実は「集合的記憶」はどの程度共有されているのだろうかという疑問も生まれてきます。夫婦や親友といった2人関係においてすら、2人の個人的記憶が完全に一致することはありえません。プロポーズといった夫婦にとって忘れられない出来事すら、その時のことを夫婦それぞれに語らせたら、記憶にかなりの違いがあると思います。それぞれがそれぞれの視点で記憶するわけですから、集合的記憶が完全に合致することはありません。2人関係でもこのように考えられるわけですから、メンバーがもっと多くなってくる家族、地域、組織、社会といった集合体で、どの程度共有されたものとして「集合的記憶」を保持できるのかと言えば、非常に難しいはずです。

 しかし、難しいからと言って、ここでこの魅力的な概念である「集合的記憶」を棄ててしまうのはもったいなさすぎます。社会学の「客観的認識」を「大多数の人々によって共有されている主観的認識」と定義している私の立場からは、「集合的記憶」も「集合体を形成するメンバーの多くが共有している記憶」として定義しておくことができそうです。

 ただし次にまた新たな問題が出てきます。「記憶」を「記銘・保持・想起」を行う個人行為として見る限り、「集合的記憶」も記憶を保持しているメンバーが生存している間しか維持されないということになります。家族の記憶などはそれでもいいのかもしれませんが、地域、組織、社会にも、この「集合的記憶」という概念を使っていこうと思うなら、この時間制限では魅力的な概念とはなりません。

 そこで考えうるのが、個人の記憶の共有化には「記録」という行為を媒介にすることもできるのではないかという考え方を取ることです。本来、個人の脳の中で行われる生理現象である「記銘・保持・想起」を、記録媒体に「記録・保存・開示」することで、もともと記憶していた人が生存しなくなった後でも、「記憶」は継承され共有されうると位置づけることです。文字がなかった時代や、家族集団では、記録媒体を使わずに口頭による伝達で、記憶が継承されることもあります。記録媒体を使うより継承の正確性は落ちますが、記録媒体を使ってもすべての記憶を記録することなど不可能ですから、程度の問題かもしれません。ただし、共有されやすさでは大きな違いがあると言えます。

 記録には様々なものがありえます。文字による記録だけではなく、絵や写真による記録、音声や動画記録、そして現物による記録もあります。最後の現物は、田園風景、町並み、建造物や様々な物品などは結果的に記憶が記録されたものですが、記念碑や銅像などは意図的に記憶を記録しようとして造られたものです。いずれにしろ、「記憶」を「記録」することで共有性は高まり、「集合的記憶」の可能性は大きく広がります。

 「記憶」が「記録」として残されることで、「歴史」の構築が可能になります。歴史とは本来は森羅万象が時間とともに変化したこと、そのものなのでしょうが、実際にはそういう変化をそのまま認識することはできません。われわれが知りうる「歴史」は、なんらかの視点で切り取って構成されたものです。個人史、家族史、組織の歴史、地域の歴史、日本の歴史、世界の歴史、といった社会の歴史以外にも、生物の歴史、地殻変動の歴史、太陽系の歴史といった自然史も歴史はあるわけですが、ここでは「集合的記憶」とからめて考えられる前者に限定して考えます。

 上記にあげたように様々な集団規模で記録された「集合的記憶」を整理して開示することで、その集団の「歴史」が出来上がります。本来、その歴史はあくまでもある時点で誰かがまとめたひとつの「歴史」に過ぎず、絶対的に正しい「歴史」ではない――そんなものは構成できない――のですが、なんらかの権威や権力が働くことで、その集団が共有すべき「集合的記憶」としての「歴史」になっていたりします。しかし、時代が変わり権威や権力のありかが変われば、その集団の「歴史」もまた再構成されるようになります。そうなる以前でも、その「歴史」を共有しないという集団メンバーも当然いたりします。

 集団外からも、その集団の歴史にクレームがつくことも多々あります。個人史にしても社会の歴史にしても、他者や他社会との関わりがありますから、その点について、異なる他者や他社会が異なる「歴史」を構成し対立することはよくあることです。世界史に至っては、どこの社会がその世界史を構成するかでまったく違う世界史になっています。

 こうやって考えてくると、「集合的記憶」という概念は、集合体の中で自然発生的に生まれその共有を介して集団が連帯感を得ているという面よりも、意識的・無意識的に作られ利用されている面が大きいのかもしれないという気がしてきています。しかし、もう少しいろいろ使えそうな気がしますので、しばらく考えてみたいと思います。

797号(2021.5.17)尊厳死について考える

 先週3回生のゼミで安楽死を認めるべきかどうかという議論をしました。16人が賛成、2人が反対でした。私も賛成派なのですが、学生の賛成派とは大分考えが違うようでした。学生たちの賛成派は、耐えがたい肉体的苦痛や精神的苦痛があるなら安楽死も認めてあげた方がいいのではないかという意見でしたが、私は苦痛云々より、認知症などが進行して自分のことも身近な家族のこともわからなくなったような場合にも身体的な終わりが来ない限り死ねないという事態を変えるために安楽死を認めてほしいという考えです。この考えを学生にも披露しましたが、ほとんど支持されませんでした。「もしも祖父母が認知症になっても安楽死には反対すると思います」という意見が大半でした。同じく安楽死賛成と言っても考え方が違うなと思ったので、改めて自分の考えを整理してみることにします。

 私は、苦痛では死を望むつもりはありません。痛み止めを使用して痛みを多少なりとも和らげることができて、それなりにコミュニケーションがはかれるなら生きていようと思います。私が嫌なのは認知症が進行し、身近な人々が誰なのか、自分がどういう人間だったかのかがわからなくなってしまうことです。そうなったら、それはもう私ではないのでその状態で生きることは望みません。物理的肉体だけあっても、私を私たらしめていた脳がちゃんと機能しなくなったなら、もうそれは私にとっては「脳死」です。そういう状態になってまで死ねないのは辛いことです。その時点では自分自身は何もわからなくなっていますから、自分自身は辛いとも思わないでしょうが、私の身近な人々は、そんな私を見て辛い気持ちになるはずです。片桐新自という人間として生きるという意識を失うことは人としての尊厳を失うことです。その状態で生きている意味は、私にとってはゼロです。死なせてほしいと思います。そうできない、それを認めない社会が、私には不思議でなりません。

 安楽死より尊厳死という言葉を私は使いたいのですが、しばしば尊厳死は消極的な安楽死――延命治療をしない――という意味を持たせられているので、実質は安楽死の方が近いのですが、人としての尊厳を守るための死という意味で、ここではあえて「尊厳死」を使います。この尊厳死を合法化するにはどういう条件が必要でしょうか。現在安楽死の法制化に反対している人々が主張するような問題点はクリアできないといけないですね。安易な死の選択を増やすとか、安楽死を装った殺人とかが行われないか、家族との意識ギャップとかでしょうか。私が考える「尊厳死」を認め得るための条件は以下のようなものです。

1.自分自身のことや身近な他者のことがわからなくなり、その状態の回復が見込めないこと

2.上記のような状態になったら尊厳死を望むという意思を本人が正式な文書として残しており、その文書には1親等以内の家族全員の同意が記されていること

 これだけです。シンプルです。実質的に、認知症が進行した場合のみ、尊厳死が許されるという案です。だめでしょうか。

796号(2021.5.16)社会学的な総合的視野の必要性が伝わる時代なのだが、、、

 オンデマンド授業として実施している「理論社会学T」の今週の講義で、社会変動について扱ったのですが、そこで興味深い事態に遭遇しました。まず、どんな話をしたのかを紹介します。

<変動の方向性と留意すべきこと>

・一般的に、社会変動はより高次の(あるいはより多様な)欲求を充足させるような方向に向かう。

・このため、社会変動論はしばしば「社会進化論」や「社会発展論」として展開されてきた。(ただし、社会成員にとって目に見える形での短期的で利己的な欲求充足水準の上昇が、長期的あるいは全体として見た場合欲求充足水準を下げることもある。 cf. 社会的ジレンマ)

・より高次の(あるいはより多様な)欲求を充足させるためには、機能分化が進まざるをえない。それゆえ、社会変動は分化の進んでいない単純構造の社会から徐々に複雑に分化の進んだ複雑構造の社会へと変化してきたと言える。

・分化が社会発展に有意義に作用するためには、従来ひとつであった構造要素をただ単に2つ以上に分割すればよいわけではなく、分割したものを合わせれば、その機能は元の構造要素が果たしていた以上のものを果たしうるようになっていなければならない。そのために分化した諸要素はより高次のレベルで統合されていなければならない。分化した諸要素が統合されないまま孤立していては、社会の発展を導くどころか、かえって混乱と分裂を招くだけある。

・分化した諸要素が高次のレベルでうまく統合され、社会に混乱と分裂を招いてない場合でも、分化は、専門化や特殊化を導くので、どうしても人々はその視野を狭く限定づけられ、全体的な展望を持つことが困難になる。すなわち、高度に分化した社会においては、全体関連的視野が得にくいという問題を抱え込むことになる。

・そういう時代だからこそ、全体関連的視野を持つ社会学的想像力が必要なのである。

 1枚のスライドにこれだけのことを書き、さらに口頭で説明を加えています。口頭の説明は内容を理解しやすくするために、例をあげるようにしています。最後の専門化や特殊化によって視野が狭くなってしまい、全体関連的な視野を持てなくなっている例として、今の新型コロナ対策が医療関係者の専門知識のみを頼りにしているのではないだろうか、経済ももちろんだが、学校のこと、家族のこと、地域社会(自粛警察なども含め)のことなども一緒に考えていかなければならない問題のはずだから、総合的視野をもつ社会学の専門家なども専門家会議に入れるべきではないかという話をしました。

 これに対して、非常に多くの受講生が「先生の言う通りだと思います。社会学の総合的視野が本当に重要だと思います」といった感想を書いてくれました。ちょっと驚きました。総合的視野の重要性はいろいろな例を出しながら昔からずっと語ってきたことですが、こんなに学生たちの理解を得られたのは初めてです。実は、このオンデマンド教材は昨年のこの時期に作り公開したもので、昨年も同じものを聞いてもらっていますが、昨年は、私の意見を肯定する感想はここまでたくさんはありませんでした。私のスタンスは変わっていませんが、学生たちの意識はこの1年で大きく変わったようです。

昨年の今頃は、1回目の緊急事態宣言発令中で、学生たちの間でも未知のウィルスに対する恐怖が強かったからでしょうが、医療関係者が圧倒的に重視される専門家会議を疑う気持ちはあまりなかったのでしょう。今は3回目の緊急事態宣言発令中で、変異ウィルスは感染力も重症化度も強いから決して気を緩めてはいけないと言われていますが、もう昨年のような未知のものに対する恐怖感という感情は湧いてこないし、そもそもこの日常生活を抑え込みすぎた生活を一体いつまでやらせるんだ、という不満が募っています。オリンピックという非日常の祭りを開催するために、われわれの日常はすべて犠牲にさせるのかという憤懣が渦巻いています。もっと総合的に社会のことを考えてほしいと、学生たちも率直に思うのでしょう。

私の「理論社会学T」という授業は、2回生と3回生が中心です。今年の2回生は入学以来現在までずっと大学生活の楽しみを味わえずにきましたし、3回生も大学生活を一番楽しめる2回生から3回生という時期を奪われてきました。みんな、「もういい加減にして、日常を返して」と思っているのでしょう。1年以上にわたって多くの若者はまじめにルールを守って大人しくしているのに「若い人が感染を広めている」などと非難され続けてきて、大学生なら「オンデマンド授業でいいでしょ」と安易に強制され、友人とキャンパスで会うこともままならず、「なんなんだよ、この社会は」と静かに腹を立てています。

 今回の授業の学生たちの感想に「ぜひ社会学者に専門家会議に入って、意見を言ってほしいです」という声も少なからずありました。そういう期待感を、社会から(政府から?)持ってもらえていないのが残念です。総合的かつ中長期の視点に立って考えるなら、今の対策とは違う対策が打ち出せるのですが、、、

795号(2021.5.13)令和の雷電為右衛門

かなりの相撲通でないとご存じないでしょうが、江戸時代後期の力士で、雷電為右衛門という強豪力士がいました。生涯通算勝率は962厘、36場所出場し28場所優勝というすさまじい成績で、大相撲史上最強力士とも言われています。

江戸時代のことですから、映像もないし、伝説的な話しか残っていないのですが、私は子どもの時からこの雷電のことがずっと気になっていました。60年以上相撲を見てきましたが、雷電とイメージが重なる怪力の力士は見つからずにいましたが、最近の照ノ富士を見ていると、雷電ってこんな相撲取りだったのではと思えてきます。

今の照ノ富士の強さは別格です。つかまえてしまえば、どの力士でも勝てません。昨日の御嶽海戦などもすごかったです。過去2度の優勝経験をもつ実力者・御嶽海を外四つにつかまえたらもう御嶽海は何もできません。あっという間に土俵外です。まるで、幕下以下の力士との勝負のような力の差です。「強い!」の一言しかありません。怪我さえしなければ、今場所の優勝は照ノ富士で決まりでしょう。このまま今場所、来場所と優勝して、横綱へ駆け上がるのではないかと思います。

ただ、この令和の雷電は膝に爆弾を抱えています。その膝の怪我のために一度大関から序二段まで落ちるという苦境を経験し、それを乗り越えて、再び大関に戻ったわけですが、膝は完全に回復したわけではありません。本人も今場所前のインタビューで相撲を長くは取れないだろうと言っているくらいですから、この怪物のような強さを見せる照ノ富士を見られるのは、この1年くらいかもしれません。江戸時代の本家・雷電はデビューした1790年から1810年までの20年間にわたって強さを見せ続けたので、彼には怪我はなく、無事これ名馬で力士生活を全うしたようですが、そこは令和の雷電・照ノ富士には望めないところです。

でも、とにかく今の別格に強い照ノ富士の強さは目に焼き付けておいた方がいいと思います。こんな強さを見せる力士は滅多に出てこないと思いますので。

794号(2021.5.9)佐藤輝明

 かつては巨人の試合を試合開始前のラジオ放送から聴き始め、テレビを観て、その放送が終了したら、またラジオを聴くなどということもしていた野球大好き少年だった時代もあった私ですが、最近(というかもう20年ほど)はプロ野球をほぼ見なくなっていました。その私が、今年はしばしば阪神戦を観ています。それは、タイトルにあるように、佐藤輝明という選手を見たいからです。

 昨年のドラフト会議の直前まで、この選手のことを知りませんでしたし、その後もそんなに興味を持っていませんでした。しかし、オープン戦で新人最多本塁打を記録したあたりから、なんかすごい新人が出てきたなと注目しはじめ、ペナントレースが始まってからも順調にホームランを量産していくので、個人的に非常に興味を持ち始め、そのホームランを打つところを見たいと思い、ちょくちょく阪神戦を観るようになったのです。

 残念ながらまだオンタイムでホームランを打つところは観ていないのですが、そのうち観られるかなと思い楽しみにしています(ただし、ずっとテレビをつけっぱなしにしておくほど阪神戦に興味はないので、佐藤に打席が回りそうな時だけテレビをつけるといういい加減な見方をしていますので、さてさていつ頃観られるかはわかりませんが。

 で、こんなしょうもないネタで「つらつら通信」を書き始めたのは、この佐藤輝明という選手、高校時代とか全然知らないなあ、でも同じくらいの高校野球って注目のスター選手がいっぱいいたよなと思い、ちょっと調べてみたからです。この選手、仁川学院高校出身で兵庫県大会4回戦進出が最高成績だったということです。なるほどそれでは高校時代は注目を浴びないはずです。下の学年に、清宮(現・日本ハム)、安田(現・ロッテ)、中村(現・広島)などがおり、高校生豊作と言われた年でしたし、もうひとつ下の学年にも、根尾(現・中日)、藤原(現・ロッテ)、吉田(現・日本ハム)などがおり、この年も注目された年でした。でも、みんな結構苦労していますよね。清宮たちの世代で、そこまで注目されていなかった村上(現・ヤクルト)は大活躍ですが、甲子園のスターたちは、みんなかなり苦労しています。

 こうした甲子園のスターに比べたら、佐藤輝明は、高校時代は東京六大学からも誘われない程度の選手だったのに、4年間の大学生活を経てプロ入りした今年、こんな大活躍をするわけです。まあ、甲子園のスターたちもこれからさらに成長していくとは思いますが、これまでの野球界の歴史などを見ても、甲子園が人生のピークだったような選手も数多くいますので、そうならないように育ってくれればと思います。

 あまり早くスポットライトを浴びてしまうのも大変ですよね。まあ中には大谷(現・エンジェルス)のように高校からプロ入りして、さらにはメジャーリーグでも活躍できるすごい人もいますが、多くの人は苦労することになります。高校からプロ入りすると、まだ体が出来上がっていないので、そこで壁にぶつかりやすいですね。それに比べると、大学4年間を経た選手は、体はもうほぼ出来上がっていて、体力的についていけないということはほとんどありません。佐藤のように、高校時代はほぼ無名に近く、大学で実績を作ってプロ入りというのが、選手としてはよいコースなのかもしれません。

 まあでも、高校からプロ入りして成功した田中将大(現・楽天)に対し、早稲田大学にいったん行き、鳴り物入りで卒業後日本ハムに入り、鳴かず飛ばずの斎藤佑樹もいますので、大学からプロに行くのが正解とも言えないのでしょうが。ただ、投手の肩と肘は消耗品ですから、高校、大学とたくさん使われ続けるとぼろぼろになってしまいますので、甲子園で活躍した投手はそのままプロ入りした方がいいのかもしれません。

 話を佐藤輝明に戻すと、大谷なんかと違って、女性受けしなそうな、ごっつい感じがまたいいなと思います(笑)最近は、すぐに顔でスター扱いされますから、そこじゃないぞというのがわかりやすい佐藤輝明は応援したくなります。まあでも、このまま活躍を続ければ、キャアキャア言う女性ファンもどんどん増えてくるのでしょうね。とりあえず、今年の阪神戦、個人的には大注目です。

793号(2021.5.8)ワクチン接種の予約をしてみたが、、、

 私は65歳で高齢者なので新型コロナウィルス・ワクチンの接種予約ができます。基本的に元気でそんなに焦って接種したいとも思っていなかったので、56日から予約が取れることになっていましたが、まあその日は電話もネットも大混雑だろうと思い放っておきました。まあでも、緊急事態宣言も延長され感染拡大の波もまだまだ来そうですので、やはりワクチンは接種した方がいいのだろうなと思い、予約を入れてみることにしました。

 たまたまかかりつけの個人病院でも接種できると書いてあったので、先ほど電話してみました。予約できたのですが、なんと9月頃になりますという話で驚きました。もちろん、今の段階では正確な日程などは決まりませんでした。小さな病院なので、もしかしたら穴場ではと思いましたが、あっという間に最初に提供される分の予約は埋まってしまったそうです。

 吹田市では集団接種会場も設けられているので、そっちはどうだろうと電話してみたところ、当然つながりません。じゃあ、ウェブサイトではどうだろうと思い、アクセスしてみたら、「ウェブサイトでの予約は、予定定員に達しました。ただいまお電話にてのみ受付しております」と表示されました。おいおい、ネットは締切、電話だけかいとツッコミを入れたくなりました。こんな状態なら、電話もつながったとしても、きっと今回提供される分に関しては、もはや予約は埋まっていることでしょう。

 高齢者である私でも9月まで接種が受けられないなら、一般国民が接種できるのは一体いつになるのでしょうね。ワクチンが普及しない限り、今のような感染の波はまだまだ何度も繰り返され、緊急事態宣言も何度か繰り返されそうです。ぞっとしますね。いまだに日本よりはるかに1日あたりの感染者が多いアメリカではワクチン普及のせいで一時よりは大きく減ったということで、7月くらいからは多くの制限を取り払ってかなり普通の生活に戻すことにしていますが、国民が自粛生活を頑張り、感染が爆発的に拡大していない日本は、ワクチンの普及も遅く、ずっと感染の波にずるずる振り回されつづけることになりそうです。なんか納得行かないですよね。居酒屋など酒類提供店も大変だと思いますが、私はインフラ関連企業、観光関連企業、大型商業施設をはじめ、人流があってこそ成り立っている経済、そして様々な行事・イベントに強い制約をかけられ、人間関係も抑圧的になっている社会が、厳しい状態になってきていることがより心配です。

 もう今やどんな制限をかけても人流を完全に抑え込むことなどできません。1年前の1回目の緊急事態宣言の時は、みんな未知のウィルスの恐怖に怯え、ステイホームを徹底して守りましたが、あれから1年経って、どの程度の怖さのウィルスかということを、それぞれが判断するようになっています。いくら変異株はこれまでものと違い感染力も重症化度合いも違うのだと専門家が強調しても、昨年のような「未知の恐怖」の感覚にはなりません。中途半端に、人流抑制という目的で、感染が拡大していない施設まで営業自粛にして、経済や社会をおかしくするべきではありません。昨年打ち出した「新しい生活様式」に基づいて気を付けながら普通の生活をするというのを基本とすべきです。

ワクチンの普及が今の状況を改善する救世主になると期待している人が多いと思いますが、こんな実態なのだということをお知らせしておきます。

【追記:2021.5.16】

 514日に予約した病院から連絡があり、6月に1回目、7月に2回目が打てることになりましたと連絡がありました。菅総理が高齢者のワクチン接種は7月中には終わらせると言ったからでしょうか。急に動きが早まりました。

792号(2021.5.5)呼称

 うちのゼミでは、互いにニックネームで呼び合うというのを原則としています。それは、ニックネームで呼び合うことで心理的距離が一気に縮まる効果が確実にあるからです。つい最近も、新ゼミ生のニックネームも決めたところです。まあ最初はちょっと気恥ずかしさもありますが、意外に使っているとあっという間に慣れてしまうものです。以前あるゼミ生が言っていましたが、「ニックネームで呼ばれて、『ああ、片桐ゼミ生になったんだ』という気がしました」というくらい、うちのゼミにとっては不可欠の慣習になっています。

 今、世の中ではニックネームで呼び合うことを禁止する小学校とかがかなり出てきています。ニックネームが侮蔑的なものになることを恐れてのことのようですが、大学生が互いにニックネームで呼び合うようになる時、そんな侮蔑的なニックネームがつくことはまずありません。基本的には下の名前で呼ぶというのが大部分です。名字が2文字だったりすると呼びやすいので、男女どちらでも「〇〇ちゃん」と名字に「ちゃん」をつけるというパターンもよくありますが、まあその程度です。たまに、ユニークなものもありますが、本人がそう呼ばれるのを嫌がっていないということが絶対的基準ですので、侮蔑的なものは一切ありません。「百害あって一利なし」の真逆で、ゼミ生がニックネームで呼び合うことは「百利あって一害なし」というのが私の持論です。

 3回生の4月下旬か5月上旬くらいにはニックネームを正式に決める場を設けるという方式を導入してからもう20年くらい経っているように思いますが、それ以前はわざわざニックネーム決めの機会などは設けておらず、学生同士が自然に呼び合っているニックネームを私が学習して使うという方式を取っていました。この方式だと、親密になるのに時間がかかってしまうと、結局ニックネームで呼べない人も出てきてしまうので、今は無理にでも全員ニックネーム決めをして、ニックネームで呼ぶようにしています。たまに、学生の方で他のゼミ生をニックネームで呼ぶのが恥ずかしいのか、ずっと呼ばないというスタンスを貫く人もいますが、ほとんどの人はなじんでいきます。

 ゼミでの呼称のことをつらつら考えていたら、ゼミ生以外の知人、友人の呼称も気になってきました。メールなどで呼びかける呼称も含めて考えると、心理的距離が遠い方から、「○○様(先生)」「○○さん(男女とも)」「○○君(男性年下の場合)」「○○(名字)」「ニックネーム」といった感じで使い分けているなあと、自分の中のいつのまにか出来上がったルールがあることに気づきました。まあ中には、「○○さん」や「○○君」が実質ニックネームのようになっている人もいますが、おおよそこのルールで心理的距離が測れるなと思っています。改めて、ゼミで一番距離が近く感じるニックネーム呼びを最初にあえて決めて使っていくことの意味は大きいなと感じました。今年も、いよいよ本格的に片桐ゼミが始まった気がしています。

791号(2021.4.29)オリンピック開催ありきの緊急事態宣言

 昨日、東京オリンピック開催に関わる主要メンバーが5者会談を行い、観客を入れるかどうかの判断を6月にすることを決めました。7月下旬から始まるオリンピックなのに観客を入れるかどうかが、その2カ月前に決まっていないというめちゃくちゃな先延ばし判断です。本当は4月中には方針を打ち出すつもりだったのに、緊急事態宣言が出てしまっているので、今決めるなら無観客開催しか結論はないことになるので、この禁足令、禁酒令、イベントは無観客開催という強硬な緊急事態宣言で多少感染者数を減るであろう6月に、半分は観客を入れるということにしたというのが日本側関係者の希望であることがわかりやすく透けて見えます。

 緊急事態宣言とは「日常生活を緊急事態に落とし込み、非日常の祭=オリンピック開催を既成事実化する宣言」という皮肉な定義をしたくなります。「東京に来るな!東京を出るな!イベントは無観客で!バーベキューもするな!外を出歩くな!」と、日常生活をここまで徹底的に抑圧し、あなたたちがやりたいことはオリンピックなのですかと問いたくなります。6月に多少感染者が減っていても、ワクチン接種のスピードがこれだけ遅いのですから、また必ず次の波は来ます。ちょうどオリンピックの期間あたりかもしれません。その時どうするんですかねえ。きっと強引にやってしまうんでしょうね。そうなった時は、総理大臣、オリンピック担当大臣、東京都知事、組織委員会委員長、全員責任を取ってやめてほしいものです。まあ、オリンピック担当大臣と組織委員会委員長はオリンピックが終わったらどうせ自動的になくなる職ですから、痛くもかゆくもないですね。総理も9月の自民党総裁選あるいはその直後に行われる総選挙でやめなくてはいけないことになる確率は高いですから、オリンピックの強引な開催で責任を取らされることになったら、一番打撃を受けるのは小池百合子でしょう。でも、責任は他人に押し付け、報酬は自分が得るということのうまい政治家ですから、きっとうまく逃げ切るのでしょうが。

 なんか奇妙なことばかりですよね。緊急事態宣言が発出され、「東京を出るな!」と言われている中、昼のワイドショーの司会を務める人物が堂々と郷里鹿児島へ行き、観客が見守る中で聖火ランナーを務めたりしています。それは非難しなくていいのですか?都会から人が来ると田舎の人は嫌がるんじゃないんですか?公務員が5人以上で歓送迎会をやったなんてことを調査して叩くくらいなら、このキャスターの特例扱いこそ非難すべきではないですか?なぜ、そこは何も言わないのか、私にはさっぱりわかりません。聖火ランナーを務めることより、長く一緒に仕事をしてきた人が去るのを惜しんで送る会をする、これからともに働く人の歓迎会をする方が、個人的には大事だと思います。オリンピック関連だけ、なぜこんなに例外的な扱いになるのか、ものすごく疑問です。あくまでもオリンピックをやるというなら、せめて一般人に普通の生活を返してほしいものです。ほとんどの人は気を付けながら、気を遣いながら暮らしています。非日常のイベントを開催するために、日常を抑圧しないでほしいものです。もしも今の緊急事態宣言を延長し日常生活を抑圧し続けるなら、オリンピックもやめるべきです。地域の伝統ある祭りも全部中止にさせておいて、なぜオリンピックだけ中止にならないのか、改めて問いたいと思います。

追伸:ちなみに「まん延防止等重点措置」の方も皮肉な定義を作りました。「漫然と延長される飲食店フル営業防止と公務員が飲んだら重点的に批判する措置」というものです。大阪市中心部で飲食店がフル営業できていたのはいつ頃までだったでしょうか。「緊急事態宣言」も「まん延防止等重点措置」も出ていなかった時期も、かなり長期間時短営業を求められていたはずです。飲食店フル営業は漫然と禁止され続けています。

790号(2021.4.26)もはや婚姻制度は潜在的逆機能の方が大きくなっているのではないか?

 まだまだ結婚に夢を見ている若者も少しは読んでいそうなこのHPにこういうことは書かない方がいいのかもしれないと思いつつ、社会学者として分析的に語ってみたいという気持ちが勝り、書いてみることにします。

 私は、もともとは婚姻制度支持者で10数年前までは、学生たちにも「やっぱりなんのかんの言っても結婚はした方がいいと思うよ」と言っていたものでした。しかし、最近は法的に婚姻することにどういうメリットがあるのかと問われたら相手を説得できるほどのことが語れないような気になってきており、ぜひ結婚した方がいいよとは言わなくなってきています。むしろ、もはや結婚にメリットを見い出すことは難しく義務化でもしない限り、結婚する人はどんどん減ってしまうのではないかとすら思っています。

 従来、婚姻制度が果たす機能としては、個人にとっては「性的欲求の充足」「子を持ちたいという欲求の充足」「精神的な安定感の獲得」などがあげられ、社会にとっては、「新しい社会成員の誕生とその安定的育成」があげられていました。しかし、今や「性的欲求」は結婚しなくても十分満たされるという人が少なくないでしょうし、「精神的な安定感」も婚姻すれば自動的に満たされるというものでもないでしょう。しいてまだ残っている機能と言えば、子どもが欲しいという欲求の充足とその結果としての社会成員の誕生ですが、本来はこれも必ずしも婚姻を前提とせずにも達成できる機能です。少なくない国で、婚姻カップルのもとに生まれた子どもと、非婚姻カップルの間に生まれた子どもを、法的にも社会的にも差別しないようにしており、その結果として出生率が回復しています。日本社会は、まだ非婚姻カップルのもとに生まれた子どもが不利益を被ることが多く、結婚しないまま子どもを産むという選択のハードルが高くなっており、子どもが欲しいので結婚をめざすという選択をする人が少なからずいます。かと言って、結婚してしまえば、様々な制約もかかってくるので、相手選びは慎重にならざるをえず、結果的に子どもは欲しいけど、一生を共にしてもいいと思える相手が見つからないから結局結婚しない、子どもも生まないという結果を生んでいます。つまり、本来は新しい社会成員を安定的に生み出す仕組みであったはずの婚姻制度が、今や子を産む(=新しい社会成員を生み出す)上での逆機能になってしまっています。もしも、婚姻制度がなく、好きな時だけ一緒にいて、その間に子どもが生まれるというのが当たり前ということになれば、一生人生をともにできる相手かどうかなどということは考えなくて良くなるので、子どもの誕生可能性は増すだろうと思います。

 さてここで「いやいや、ちょっと待ってください。婚姻制度という保障がなくなって、好きじゃなくなったら簡単に別れるといったことが一般化したら、子育てはどうなるんですか?特に、男性が消えてしまい、女性が1人で子どもを育てなければならないということになりませんか?」という声が聞こえてきます。そうですよね。その辺はもしも婚姻制度を廃止するなら、国民全員、いや世界の人々全員にDNA検査を義務付け、誰と誰の子であるかを確定する制度とかを入れないといけないでしょうね。ただ、じゃあ今の婚姻制度は、子育てにとって十分よい環境となっているのかどうかは怪しいと思います。確かに、多くの親は子どものためにというのを絶対的な目標にしたりしていますが、そうでない人も結構いますよね。「この子がいるから、私は好きなこともできない」「この子がいるから、もう顔を見るのも嫌な相手と夫婦でなければならない」なんて夫婦も結構いるのではないでしょうか。そんな気持ちの親に育てられたら、子どもも穏やかに成長できないでしょう。まあそこまでの問題はなくとも、子どもが成長し自立するようになった時に、改めて子どものいない関係として夫婦2人で向き合えるのかとなるとどうなんでしょうね。今更別れるという判断もできないので、同居人として暮らしているという熟年カップルは多そうです。決してパートナーがいるから精神的安定感を得られているといった感じではない人の方が多いのではないでしょうか。

 「性的欲求」は、実は日本の現在の婚姻制度で一番充足していないところだろうと思います。国際比較調査などで時々見かけますが、夫婦間の性交渉は日本の夫婦はものすごく少ないという結果が出ています。もはや当たり前すぎて話題にもほとんどならなくなりましたが、セックスレス夫婦の方が日本は圧倒的多数派だと思います。欧米のカップルなどはそういう日本の夫婦のデータを見て、「信じられない。相手にそういう気持ちを持てなくなったのに、なぜ夫婦でいるのか」といった疑問を持つようです。まあどう考えても同じ相手にずっとそういう気持ちを高い水準で持ち続けるのは無理だろうと思います。しかし、日本人の場合、離婚は「×」という意識の婚姻制度で縛られていますから、もう相手にそういう気持ちを持てなくなったから解消しますとは簡単に言えないようになっています。その上、かつては男性の方だけですが、婚外性交を「浮気」と名付け、家庭を壊さないなら実質的に許される行為として、男たちはそこで性的欲求を充足させていたわけですが、今や「倫理に悖る不倫」とされ、社会的に厳しく批判されるようになっています。セックスレス夫婦がこんなにたくさんいるのに婚外性交もだめとなっているわけですから、現在の婚姻制度は「性的欲求の充足」の面でも逆機能です。もしも、婚姻制度を維持したいなら、かつて男にだけ許されていた家庭生活を壊さない限り婚外性交は実質的に認めるという慣習を、男女ともにOKとしないと、「性的欲求」は充足されることはないでしょう。

 そしてもうひとつ、婚姻制度が逆機能になっていると考えられるのは、この制度がある限り、同性同士の結婚というのを認めるのは無理だという点です。上で述べたように、社会にとっての婚姻制度の最大の機能は、新しい社会成員の誕生です。新しい生命を誕生させるためには、男女でカップルになってもらうことを前提にせざるをえないのです。しかし、これも婚姻制度さえなくなり、異性間であっても同性間であっても、好きな間だけともに暮らすという慣習にしてしまえば、異性カップルであろうと同性カップルであろうと差別なく、パートナーシップを築くことができます。世の中がそちらの方向に向かうべきだというなら、無理に同性同士の結婚を認めるというよりは、婚姻制度自体をなくしてしまえばいいのです。同性カップルは直接に2人の間の子どもを生物学的に作ることはできませんが、育成はできます。仲が悪く、いつもいがみ合っているような、実の両親に育てられるより、血のつながりはなくても、仲のよいカップルの子として育ててもらった方が、子どもの成長にとってもきっといいでしょう。

 長文かつかなり過激な主張となっていますが、最近の、というかこの20年くらい少しずつ考え続けてきて、こんなところにたどり着いてしまいましたので、吐き出してみました。もはや婚姻制度は逆機能の方が大きいのではないでしょうか。

追伸:このまま終わったら、婚姻のマイナスイメージしか与えないですね(笑)それじゃ教育者としてはだめかもしれませんね。そうですね。じゃあ、こういう締めにしましょう。あなたなら、もしかしたら素晴らしいパートナーと理想的な婚姻生活を送れる可能性はあるかもしれないので、結婚したいなと思ったらぜひチャレンジしてみてください。

789号(2021.4.18)もしも3度目の緊急事態宣言を出すなら

 大阪府を筆頭に再び感染者数が増加し、大学も遠隔授業を原則とするようにという通達が出ました。再び昨年の春学期と同じ状態になってしまいました。それでも感染者数が減らないようなら来週には緊急事態宣言発出の要請を、政府に対してすると大阪府知事は言っています。今の趨勢だと緊急事態宣言が出される可能性もかなりあると思います。で、その際に2度目の緊急事態宣言のような方針では甘過ぎるので、もっと人流を抑制するために、飲食店以外の営業自粛なども入れるべきだと大阪府知事は言っています。

 私は万一緊急事態宣言を再び発出するなら、テレビの報道番組やワイドショー番組の出演者にずっとマスクをつけたまま喋らないといけないという規制こそかけるべきではないかと思います。毎日とか毎週とかテレビ局にやってきて、マスクをせずに大きな声で喋り、たっぷり飛沫を飛ばしながら、若い人を中心に気が緩んでいるとか、どうして言えるんだろうと不思議で仕方がありません。あなたたちはちゃんと仕事をしに来れて、マスクをせずに大きな声で好き放題喋れて、さらに出演料ももらえているんだから、見ている我々だって多少は大丈夫でしょという気持ちに視聴者は当然なります。

 もしも国民に厳しい行動制約をかけるなら、テレビの出演者にもマスクなしでは喋ってはいけないというルールを課すべきです。そうしたら見ている視聴者にも多少伝わるでしょう。テレビに出るタレントや医師にもマスクをずっとつけたままで喋る辛さを味わわせるべきです。大阪府知事も会見をする際にマスクを外して喋りますが、なぜですかと問いたいです。マスク会食をしろ、食べる時は外しても喋る前にはまたマスクをつけて喋ってくださいというなら、あなたが率先して記者のマイクの前でこそマスクをしたまま喋りなさいと思います。自分たちは顔を売りたいのか、カメラの前に出て映る時にはマスクを外して喋っているのは矛盾しています。

 商業施設やエンターテイメント施設に時短や営業自粛を求める前に、テレビに出る人たちがまず全員マスクをするという規制をかけるべきです。緊張感は大分伝わるはずです。講義を受けるだけで喋りもしない学生たちにマスクの常時着用を実質的に義務付けながら、テレビ出演者たちがマスクをせずに「若い人たちを中心に気が緩んでいる!」なんて大声で言っているは、本当におかしいです。

788号(2021.4.7)子ども庁ってなんやねん

 選挙で勝つことしか頭にないのか、菅総理は大衆受けしそうなことばかり積極的に打ち出します。なってすぐの、携帯料金の値下げや不妊治療への補助の拡大とかがその典型でしたが、自分の息子も深く関わっていた総務省の接待問題などでせっかくの携帯値下げなどが忘れ去られてしまった今、「子どもファースト」とかわけのわからない言葉を出して、「令和の妖怪」のような二階幹事長とともに「子どもは国の宝だから」と言って、自民党に「子ども庁創設」法案を作らせようとしています。

 調べてみると、「子ども庁(ないしは子ども家庭庁)」といった構想は、古くは小泉政権時代にも、民主党政権時代にも、また安倍政権時代にもあったそうですが、結局毎回構想までで実現には至らなかったようです。その原因としては各省庁が縦割り行政にこだわったためというのが公式見解のようです、それゆえにこそ縦割り行政の弊害を取り除くと宣言する菅内閣でぜひやり遂げたいという話になるようです。

 でも、どうなんでしょうね。「縦割り」というと、もうその言葉自体がマイナスのイメージを引き起こすステレオタイプの用語に聞こえてしまう時代ですが、ある程度は必要があって分化が生まれてきたと考えるべきではないでしょうか。「縦割り」イコール「悪いこと」といった考え方自体がおかしいように思います。大学でも学部でいろいろなことが分かれているのはよくないとか、学部の中でも専攻別に分かれているのはよくないという声を上げる人がたまに出てきて、学部横断的、専攻横断的に学べる科目を作ろうとか言いだすと、なんとなくそれは新しい試みで対外的にも訴える力があるだろうということで、そういう科目を作ったりしてきましたが、実際に運用してみると、学生の需要はほとんどなく、開店休業になってしまうことがよくあります。

 この「子ども庁」ももしもできたとしてもきっと何をしているかよくわからない組織として何年か経ったら「やっぱり必要なかったなあ」と言われてしまうことは間違いないと思います。いくらでも疑問点はあげられますが、まず「子ども」という名称でどの年齢層の人たちを対象として総合的に考えていくのかが必ず問題となるでしょう。ちらちら聞こえてくる話では、出生前の子どものことから児童虐待、子どもの貧困、いじめ、などといった言葉が聞こえてきますが、どの年齢層なのかがよくわかりません。小学生までが「子ども」としてイメージしやすいですが、狭く捉えたらあまり価値がないと思われるでしょうから、たぶん広めにする気がします。しかし、出生前の子ども、乳児、幼児、児童、生徒、学生すべてに総合的に対応することなんて不可能です。各年齢層で全然違う問題に直面しています。

 そして、たとえば、子どもの貧困とか孤食とかいった問題を解決するのは、子どもに対する施策ではなく、親の経済状態をなんとかしないといけないという問題に必ず行きつくのであって、子どものことだけ考えていても何も対策は打てないはずです。子どもたちが抱える問題を考えること自体は悪いことではないと思いますが、何も新しい組織を作ってやらなくても、各省庁それぞれ考えているはずです。特に、文部科学省の重要な仕事は社会の成員となる子どもたちを健やかに成長させることのはずです。子どもの問題は、文部科学省が中心となって考えればいいんじゃないでしょうか。

 一見耳障りの良い「子ども庁」なんて不要です。そんなことにエネルギーを費やしている暇があるなら、もう少しましなことをしてくれと思います。と言っても、今はコロナでいろいろな制約がかかっていて、実は政府も国会議員もやることがあまりないというのが実情かもしれません。やることがなくて暇なので「子ども庁」でも考えてみるかということになったのかもしれません。

787号(2021.3.29)北の富士のすごさ

 興味を持ってくれる人が少ない大相撲に関することをまた書きたいと思います。前にも書いたように、私は大相撲の本場所は毎日録画しているのですが、最近は動画の見られるサイトもあり、録画したものを全然見ないこともあるのですが、北の富士が解説の時は録画どころか、できれば生でその解説を聞いていたと思うほど高く評価しています。

 相撲は「心技体」が大事と言われますが、北の富士はそのすべてを理解し見事な予想を立てます。この春場所の千秋楽も、高安と碧山の取り組みの直前に、「高安は碧山のはたき込みに注意だな」とぽつんと一言言ったのですが、なんとまさにそのはたき込みで高安は敗れてしまいました。横にいたアナウンサーは北の富士が「はたき込みに注意だな」と言った時に、「今場所の碧山は前に前に出る相撲を取っていて、あまり引き技をしていないようですが、、、」と甘い見方をしたため、取り組みが終わってから「すみません。私は余計なことを言ったようで」と謝っていました。もちろん、「大人」の北の富士はアナウンサーの発言については特に何も言いませんでした。

 力士の心理、技、体の変化など、本当によく見ているなと思います。60年以上相撲を見てきている私も、北の富士の解説は本当に興味深く、一言一句聞き逃したくないと思うほどです。トークはユーモアもたっぷりあり、ファッションもスタイルも79歳とは思えないほどオシャレです。かっこいいなと思います。生き方もかっこいいです。自分自身も横綱になり、九重部屋を引き継いでからは千代の富士と北勝海とふたりものの横綱を育て上げ、本来なら相撲協会の理事長になってもおかしくない立場だったのに、千代の富士が引退し、九重の名称を求めると、部屋ごと千代の富士に譲り、自分はただの部屋付きの親方になり、その後は北勝海が八角部屋を起こすと、そちらの部屋付き親方として移籍し、定年より大分早い56歳であっさりと相撲協会を退職し、NHKの解説者としての北の富士が出来上がるわけです。現在の力士の話だけでなく60年以上前の相撲界のことも自分の経験談として話せる歴史を経験してきた人――彼自身が大相撲に入門したのは19571月です――ですから、そういう昔話もものすごく面白いのです。

 北の富士ももう来年で80歳です。いつまでも解説をやり続けることはできないかもしれません。しかし、余人をもって代えがたいという言葉がまさにぴったりです。初代玉ノ海、神風と名解説者と言われてきた人の解説も聞いてきましたが、北の富士の解説が抜群に優れています。誰が後を継ぐんでしょうか。舞の海の解説はちまちました感じで全然評価できません。協会所属の親方はとりあえず本職にはできないと思いますが、ちょっと評価しておくと、元横綱稀勢の里の荒磯親方は現役時代の雰囲気とは違って明るくよく喋りますが、技術論等で深みがないです。しいて言うと、元・琴錦の現朝日山親方の解説がかなりいいと思うのですが、まだ52歳なので定年まで協会にいるつもりなら、北の富士の後継者にはなれそうもありません。

 誰も興味ないですね、こんなマイナーな話(笑)まあでも、このHPは私の記録みたいなものですから、書きたいと思った時に書きたいことを書いておきます。

786号(2021.3.27)オンデマンド授業の弱点

 4月から始まる新年度においても、理論社会学Tの授業はオンデマンドで実施しなければならず、仕方がないので昨年度作った教材(音声入りパワーポイント)を再編集して利用しようと思い、ファイルを開いてみたのですが、驚くほどにそのパワポで喋ったことを思い出せません。もちろん記録されていますので、聞けば「ああ、こういうことを喋ったのか」と思い出しますが、パワーポイントのスライドを見ただけではほとんど何も思い出せませんでした。作成者がこんな記憶なのだから、昨年度この授業を聞いただけの学生たちもほとんど何も残っていないのではと不安になりました。

 対面の授業でも記憶に残らないことはたくさんあるでしょうが、講義をする側としては、パワポで音声まで入れてしまうより、対面で喋った方が印象に残るように思います。対面で講義をしている時は、話し方に強弱が自然につきます。強調したい点は大きな声で、繰り返し話してみたり、黒板も利用して説明したりしますが、オンデマンドの音声入りパワポ作りでは、その強弱がほとんどつきません。意識してやろうと思ったらできるのでしょうが、1人で自分の部屋で音声の吹込みをしている時に、ここは大事だからと大きな声になったり、繰り返したりするのは、なかなか難しいです。対面なら、聞いている学生たちの顔を見ながら、「みんなちょっとぼーーと聞いているな。ここは大事だから、ちょっと冗談も交えてこっちに気持ちを向かせよう」とか、自然にできる強弱のつけ方が難しいのです。その結果、自分でもこのスライドでどんなことを喋ったか思い出せないという事態を生んでいるように思います。

 そんなことを考えていた時に、テレビで予備校の宣伝をやっていて、人気講師が熱く授業をしている場面が流れていて、「そうだよなあ。予備校の人気教師の授業もやっぱりあの熱が伝わるから、みんな集中して興味を持って聞くから身に付くんだよな」ということに気付きました。予備校で教える受験の知識なんて、試験の範囲が決まっているんですから本来はどこで習ってもそうは変わらないはずです。そういう中で、人気講師が生まれるのは、その講師の授業の上手さでしょう。受講生たちに集中力をもって聞く気にさせる授業ができるかどうか、それが人気講師たるゆえんでしょう。もしもこの予備校教師たちに音声入りパワーポイントを作らせ、それを聞いてもらうということで、同じような効果が出るかと言ったら、きっと無理だと思います。予備校ももちろん動画配信とかはしているでしょうが、それは教室で講師が熱く喋る授業を録画したものがほとんどではないでしょうか。

 昨年、この「つらつら通信」で遠隔授業でも知識は伝えられる(参照:第753号 知識は伝達できるけど、、、(2020.5.26))という文章を載せましたが、今改めて考えると、平坦に喋っている音声を聞いているだけではその場では理解できたと思っても後々まで残らないのではないかという気がしてきました。対面授業で聞いた話の方が大部分は忘れてしまうとしても、「あの時の、あの先生の話はよく覚えています」という箇所もいくつか残り、結果として細かいことは覚えていないけど、面白い授業だったとか、社会学の魅力がなんとなくわかったということは多いのではないかと思います。記憶というのは、静止画を見ながら音声を聞いているだけでは残りにくく、教室の空気、先生の喋り方、ちょっとした冗談、隣に誰がいたか、といった映像記憶と一緒の方がよく残るのではないでしょうか。大学の授業のこと以外でもそうではないですか。昨年の〇月に、あのお店で、斜め前に座っていた○○さんとこんな話をしたなあ、なんていうことははっきり思い出せるのに、淡々とした音声だけで聞いたことはつい最近のことでもほとんど何も思い出せないということはよくあるのではないでしょうか。

 ここまで気付き、少し工夫して音声入りパワーポイントを提供した方がいいのだろうなと思ったりもしますが、基本的に遠隔授業は嫌いで遠隔授業の上手い教師と評価されたくもないので、メリハリのついた魅力的な遠隔授業にする努力はせずに地味に誠実な教材作りに徹しようと思います。学生さんたちが安易な気持ちで、対面授業を避け、オンデマンドの授業の方に流れる傾向が強く現れているのが非常に嫌なので、オンデマンド授業は淡々と、対面授業の方はパフォーマンスとして魅力的にという差を明確に出したいと思います。もちろん、オンデマンドの教材を手抜きで作るということではありません。きちんと作ります。ただ、目の前に人がいないのに、妙にテンション高く演じるということまではしないでおくということです。ユーチューバーなら目の前に人がいなくてもテンションを高くしてやらないといけないのでしょうが、大学の授業はそういうものではないと思うので、無理せずにやると平坦にならざるをえないだろうということです。そして、逆に対面型の講義の方は、目の前に学生たちがいますので、彼らの関心をこっちに向けさせるために、熱いパフォーマンスになりやすいということで、自然に違いが出るのを、自分としては肯定していくということです。ああ早くすべての授業が対面型に戻ればいいいのに、、、「古い」と言われるかもしれませんが、それでもいいです。私にとって、大学の授業とはそういうものです。

785号(2021.2.26)久しぶりに新型コロナがらみのことを書いてみます

 新型コロナがらみの今の社会のことを書くのが嫌になっていてしばらく書いていませんでしたが、これでは「ののちゃん」――朝日新聞朝刊に掲載されているいしいひさいちの4コママンガ。新聞マンガの役割は本来社会風刺を描くことに意味があると思うのですが、いしいひさいちはそういうテーマを一切書きません――みたいになってしまいそうなので、やっぱりたまには社会の動きに関する意見も書いておきます。(まあでも、私は原稿料をもらって書いているわけではないので、何を書こうと書くまいと自由と言えば自由なのですが。)

 まず、聖火リレーについてです。オリンピック自体の開催も疑問視する声が多いですが、まあオリンピックに関しては簡単にやめるという判断はできないでしょうが、聖火リレーはやめてもいいんじゃないでしょうか。聖火リレーがないからと言ってオリンピックができないわけではないでしょう。聖火リレーは、1936年のベルリンオリンピックの際にヒットラーが戦争準備のためにギリシアからドイツに至るアクセスを確認するために始めたものです。現在の聖火リレーの役割は沿道で多くの人が応援してオリンピック気分を国中で盛り上げるために行っていると思いますが、今回はたくさんの人が集まらないでほしいという要請をしながら実施するというのは、聖火リレーの役割としては矛盾していると思います。別に、聖火リレーがないからと言って、自動的にオリンピックができなくなるわけではありません。まあでも、オリンピック関係者の気持ちとしては、聖火リレーを中止ししてしまうと、やっぱりオリンピックも中止しかないよねという空気になるのを嫌がっているんでしょうね。その意味では、沿道の応援を禁止にしても、聖火リレーは実施するのかもしれませんね。

 次に、新型コロナのワクチン接種についてです。まだ十分な量も届いていませんが、とりあえず接種の順番としては、医療関係者、ついで高齢者となっています。そこで気になっているのが、接種の意向を本人に確認できないような高齢者に対する接種はどうするのだろうかということです。端的に言えば、認知症が進んでいて状況を理解できないような高齢者への接種です。意思を明確に示せる人であれば、接種を希望しないと言えば接種されることはないと思いますが、意思表示ができない人はどうするのでしょうか。周りへの感染を減らすために問答無用で接種するのでしょうか。でも、それは本人にとって幸せなことなのかどうか、私にはわかりません。もしも私自身のことであれば、80歳を過ぎていてものごとの判断もできなくなっているような状態になっていたら、そういうワクチン等の接種は望まないと事前に意思表示しておきたいと思います。

 次に、飲食店の時短営業協力金についてです。ニュースでもかなり取り上げられていますが、あまりに不平等です。緊急事態宣言が発令されている都府県のみで、かつ店舗規模にかかわらず16万円の協力金というのは、あまりに不平等です。都心部の大規模店舗の経営者は「全然足りない」と言っていますが、その影で営業している時よりも実入りがよいと思っている経営者もたくさんいるはずです。また、島根県知事が声を上げたことで多くの人が気付かされましたが、緊急事態宣言が発令されていない自治体においても宴会や飲み会は自粛しようという政府の方針は出されているので、客は全然来ず協力金もないということで、緊急事態宣言が出されている都府県の飲食店より厳しい状況に陥っているところがたくさんあります。自主的に自粛していて感染者も抑え込んでいる地方の自治体の苦境を救う手立てを政府は何も考えないのでしょうか。こんな状況なら、聖火リレーも実施しないと言いたくなった島根県知事の気持ちはよく理解できます。

 政府は――というか菅首相がかもしれませんが――、今回の緊急事態宣言期間が終わったら、またぞろGO TO トラベル」の再開も考えているようですが、やめてくれと思います。以前も書きましたが、今必要なのは過度の自粛でも過度の経済浮揚策でもなく、きちんと注意しながら日常を取り戻すことです。卒業を間近に控えた学生たちに、卒業旅行に行くな、謝恩会も歓送迎会もするなと言いつつ、「GO TO トラベル」の再開を密かに準備しているって、おかしいでしょう。「GO TO」なんか要らないから、普通に楽しめる生活を返してほしいと思います。

 書き始めたら、他にもいくらでも言いたいことはありますが、もうこの辺にしておきます。どこから矢が飛んでくるかわかりませんので。多様性を認めようと言いながら、実は多様な意見を認めない、不自由な世の中になりつつあるなと重苦しく感じる毎日です。

784号(2021.2.23)LINEグループって難しくないですか?

 連絡はメールよりLINEとなっている時代ですから、私ももちろんLINEを利用していますが、どうも慣れないのはLINEのグループです。極力グループは作らないことにしていて、ゼミ生たちにも「私は一斉メールで送るから、気づいた人がLINEのグループに流しておいて」という方式を取り、ゼミの学年別LINEグループに私は所属していません。使っているのは家族とのグループくらいです。

 でも以前に飲み会をやった時に、そこに参加していたメンバーの1人が写真を共有するためにグループを作ったことがあり、写真を見るために私もそのグループに参加しました。そんなグループがあったことすら忘れていたくらい動いていなかったグループでしたが、先日そのメンバーの1人が、なんとなく飲みに行きたさそうなメッセージをそこに投稿し、ああこんなLINEグループ、まだ生きていたんだと思い出させられました。で、そこで初めての経験をしました。

 それは、このメッセージにどう反応したらいいのだろうかと悩むという経験です。明確に「飲みに行きましょう!」と書いてあるわけではないけど、行間からはその気持ちが読み取れるよなあ、これは読み取って反応すべきか、はたまた他のメンバーの反応を待つべきかという悩みです。スルーが苦手な私は、「いつ頃、希望なの?いついつなら空いているけど」と書いたところ、他のメンバーで「すみません。その日は都合がつきません」という人が2人ほどメッセージに反応しました。こうなると、なんだか私が言い出しっぺになったようで、「そうだよね。急だから、また別の機会にということにしましょう」と書かざるを得なくなりました。なんでこうなっちゃったかなあ、という気分でした。飲みたければ、ピンポイントで連絡してほしいなあと改めて思いました。LINEグループだと、誰がイニシアチブを取っているのかわからなくて、話はまとめにくいなあと実感しました。

 そう言えばと思い出したのが、ひと月ほど前に新ゼミ生に対面での懇親会は難しいのでZOOMで懇親会をやりませんかと一斉メールを送り、それを新ゼミ生が作っているLINEで共有してもらって、候補日のうち多く集まれる日で実施しようという企画を作った時のことです。しばらくして、ある学生から「LINEで流したけれど、反応しない人も多く、一番多く集まれる日で4人ですが、どうしましょうか」というメールが来ました。20名もいるはずなのに4名かとがっかりして、その人数ではゼミ生同士の懇親を深めたいという狙いが達成されないので、結局やめにしたという経験をしていました。その時、みんなノリが悪いなあと思ったのですが、今回の自分自身のLINEグループでの経験を通して、なるほど、なじんでないLINEグループで何かやりませんか的な問いかけには、どう反応すべきか、新ゼミ生たちも悩んだんだろうなと気づきました。

 なじんだメンバーだけのグループで、興味がないことにはスルーしても人間関係が悪くなったりしない場合は、LINEグループも悪くはないなと思いますが、普通はなかなか難しいなあと思います。まあ、私が時代について行けてないだけかもしれませんが、私はやはり基本的にLINEグループには参加しないことを今後も原則として行きたいと改めて思いました。

783号(2021.2.22)SNSよりHPがいい

 引きこもり生活を強いられる中、唯一の楽しみが自分のHPを更新することになっています。こんなにまめにいろいろなコーナーを毎日のように更新しているのは初めてだと思います。19993月から始めてはや22年。見栄えをよくする工夫もせずに、ただひたすら文章を書き連ねている古臭くて読みにくいHPですが、それでも時々読んで感想を寄せてくれる人もおり、楽しんで書いています。

 SNSもフェイスブックとインスタグラムはやっていますが、後者はほんの一部の親戚とつながっているだけで自分ではほとんど何もアップしていません。フェイスブックは一時いろいろ使い方を工夫して楽しもうとした時期もありましたが、最近はアップする意欲を失っています。原因のひとつは、あの「いいね!」ですね。なんか書いた限りは「いいね!」がつかないと妙に気になったりするというのが嫌になってきました。もうひとつは、過去に書いたことを探すのが困難だということです。自分の書いた文章を時間が経ってからまた読むのが好きな人間なのですが、フェイスブックに書いたことはただただ時間軸で積み重なるばかりで、見つけ出すのがはなはだ困難です。使ったことはないですが、ハッシュタグとかつけておけば、そのキーワードで探せるのかもしれませんが、そのキーワード自体を忘れてしまう可能性もあり、あまり有効な気がしません。

 それに比べると、この古臭いHPは、「いいね!」がつくかどうかを気に病むことはないですし、コーナーをいろいろ作ることができ、索引も作れますので、過去に書いた文章もそれなりに探し出せます。特に、コーナーがいろいろ作れるのが、私としては非常にありがたいです。いろいろなことに関心を持ち、自分の可能性を試してみたい私のような人間にとって、いろいろなことをここで表現できるのは実にありがたいです。社会学に対する見方、世の中に関する疑問、私的な思い、歴史への関心、写真の提示、韻文や物語の創作、そして教え子たちとの交流、たぶんこのHPには私の生活や価値観の8割くらいが表示されていると思います。

 タイプにもよるでしょうが、私はひとつのことにずっぽりはまり、それだけをしていたら幸せというタイプの人間ではありません。というか真逆の人間で何かにはまったという経験がほぼない人間です。むしろ、浅くでもいいからいろいろなことをやってみたい――行動より思考の面で、ですが――タイプの人間です。そういう私にとって、このHPがあり、ここに様々な思考実験を明示できるのは、まさに「水を得た魚」のようなものです。こんなHPは小さな池、もしかしたら井戸程度で、まさに「井の中の蛙」と言われてしまうかもしれません。でも、この池か井戸かわかりませんが、このHPがあったことで、「水を得た魚」として私の人生は豊かになったと思えています。もしこのHPがなかったら、40歳代半ば以降の私の人生は今とは全然違ったものになっていたのではないかと思います。ありがとう、マイHP。そして、ありがとう、読んでくれる方々。これからも書き続けていきますので、適宜お付き合いください。

782号(2021.2.21)ナポレオン2

 先日ナポレオン(1世)の妻・ジョゼフィーヌについて紹介された番組を見ていて、いろいろ知らなかったことばかりだったことに気づき、ちょっと調べてみました。ジョゼフィーヌは、ルーブル美術館に飾られるダビッドの「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」の絵がすごく有名なので、ナポレオンが愛した若く美しい妻と思っていましたが、全然違っていて、再婚でナポレオンと結婚したのは32歳の時で、すでに十代半ばになった息子と娘を持つ女性でした。社交的というか遊び好き、男好きで、ナポレオンが遠征に出ている最中に何度も浮気をしています。何度かその浮気に気づきながらも許してきたナポレオンでしたが、自分の生殖能力に確信を持ってからは子どもができないジョセフィーヌを離縁し、2度目の妻との間に息子をもうけています。この子がナポレオン2世です。

 甥でその後、第2帝政で皇帝の座に就いたナポレオン3世は有名ですが、2世のことはまったく知りませんでした。3世がいるんだから2世もいるんだろうなと漠然と思ったことはあったような気がしますが、通常の歴史には全然出てこないので、わざわざ調べることもなく、まあ3世が甥だから、ナポレオン1世には実子はなく、2世もたぶん甥なんだろうくらいに思っていました。でも、全然違っていました。ナポレオン2世以外にも、ナポレオン1世には愛人に産ませた子が2人もいて、そのうち後にレオン伯シャルルと呼ばれるようになった息子は1881年まで生きていた人でした。他にも認知していない息子がもう1人いるようです。

 さて、話をナポレオン2世に戻すと、彼を生んだ母親はマリア・ルイーザと言いますが、彼女はフランス革命で断頭台の露と消えたマリーアントワネットの兄の孫娘――曾祖母はマリア・テレジアということになります――です。ナポレオンと結婚した時の彼女は18歳の若さでした。ナポレオンと戦ってきたハプスブルク家の人間として、当然ながら結婚前はナポレオンを毛嫌いしていたものの、結婚してからは愛情が生まれたようです。このハプスブルク家とナポレオンの血を継いだこのナポレオン2世は、1815年にわずか4歳で15日間だけですが、皇帝の地位についています。この15日間があるから、ナポレオン2世と言うことができるわけです。その後、彼はライヒシュタット公爵と呼ばれるようになりますが、21歳の若さで亡くなります。母の弟である叔父のオーストリア大公だったフランツ・カールの妻であるゾフィー大公妃――最後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母――と非常に親しい関係にあり、メキシコ皇帝になったマクシミリアンというゾフィーの息子の父親はナポレオン2世ではないかという噂もあるようです。こんな興味深い人物なのに、その存在すら知らなかったことに我ながら驚きました。

 ついでにナポレオン3世についても語っておくと、3世はナポレオン1世の弟――ホラント王・ルイ・ナポレオン――の子ですが、母親はジョゼフィーヌの娘のオルタンスです。つまり、ナポレオン3世は、ナポレオン1世の最初の妻・ジョゼフィーヌの孫にあたるわけです。三男として生まれていて、長男のナポレオン・シャルルは4歳で亡くなっていますが、次男のナポレオン・ルイ・ポナパルトは26歳まで生きています。それでも1931年には亡くなってしまっているので、フランスが王制を再度廃止され、共和制から第2帝政に移る頃にはいなかったので、ルイ・ナポレオンが大統領から皇帝になり、ナポレオン3世となれたようです。早死にした長男も、この三男のナポレオン3世も父親は実父のホラント王・ルイ・ナポレオンではないのではないかという噂も根強いようです。

このあたりのヨーロッパの王室、皇室の歴史を調べていると、実に婚姻関係、恋愛関係が複雑で、まるでドロドロの不倫ドラマのようです。浮気、愛人、婚外子は当たり前というのが、この頃の上流社会の「常識」だったようで、複雑すぎるほどです。また時間がある時にいろいろ調べてみたいと思います。

781号(2021.2.18)新しいことが苦手

 先日、車を車検のために1日預けて代車で自宅まで戻ってきましたが、ドキドキでした。もう10年以上乗っている車なので、そろそろ買い換えてくれないかという販売店のもくろみもあったからでしょうが、新型の車を貸してくれたのですが、慣れた車との違いがたくさんあって、運転しながら怖くて怖くて仕方ありませんでした。地方に行ってレンタカーを借りる時もそうですが、動かしはじめは、しばらくは運転が不安で仕方ありません。車って拡張された身体のようなものですので、ちょっとした違いでも気になると運転に集中できません。

 こういう感覚はたぶん大なり小なりみんな理解できると思いますが、それでも新しい車、違う車の感覚を楽しむというタイプの人もいるでしょうね。でも、私はまったくだめです。臆病者なんですよね。いろいろなことをちゃんと準備してシミュレーションできてないと、全然楽しめない人間です。考えてみると、車のことだけでなく、なんでもそうだなと思います。基本的に新しいことにチャレンジするのが苦手な人間です。それでも、若い時は失敗しながらも頑張って新しいことにチャレンジしてきましたが、最近は歳を取ってきたせいか、苦手なことにチャレンジする意欲が湧いてきません。新しい経験をするのが苦手な自分を「もう仕方がないよな」と許してしまっている自分がいます。だめだなあと思いつつ、これが歳を取るということなのかと半分あきらめ気味です。15年ほど前に、「第201号 ボクはまだまだ進化する(2006.5.28)」という文章を書いたことがありますが、やはり51歳と65歳は気分が大分違いますね。64歳で亡くなった父の年齢を超えたというのも、自分の中での余生意識を強めている気もします。

 こんな後ろ向きの文章は掲載するべきではないのかもしれませんが、まあ1人の人間がどう生きているのかというのを知ることも何かの参考になるかもしれないので、あえて載せておきます。ちなみに、この文章を読みながら、「自分もそうです。よくわかります」と若い人が肯定されたと思ってはだめですよ。こんな後ろ向きの生き方が「許される」(?)のは、高齢者だけです。若い人は、これからの人生を切り開いていくためにも、苦手なことにもチャレンジしていかなければなりません。私も、大学時代はいっぱい背伸びして苦手なことにもチャレンジしてきました。結婚も子育ても、みんな新しいことへのチャレンジでした。最初はうまく行かなくても、徐々に対応できるようになるものです。なので、若い人にはこの文章を読んで、「新しいことにチャレンジしなくていいんだ」とは決して思わないでほしいです。

思い出してみると、私も昨年は必要に迫られて、今までやったことがなかったオンデマンドの授業提供ができるようになったりもしたのですから、この歳でも、必要に迫られれば、まだ新しいことにチャレンジしてなんとかものにできたりもするようです。必要な場合は、年齢に関わらず新しいことにもまだチャレンジしていかないといけないんでしょうね。若い時よりはその数が少なくなっているだけなのかもしれません。この1年、自粛と規制ばかりがかけられ、その「ルール」を破ると、まるで犯罪者のように非難される社会になってしまい、チャレンジをさせてくれない空気になっていることも、こんな気持ちに私をさせている原因かもしれません。

【おまけ】昔から臆病者だった私は、5歳の頃に「大きくなったら何になりたいの?」と聞かれて、「けいさつかんははんにんにころされちゃうし、せいじかはあんさつされちゃうし、パイロットはひこうきがおちてしんじゃうからなりたくない」と答えた記憶がなんだか妙にはっきりとあります。考えてみると、私が5歳だった年は1960年なのですが、この年は安保反対闘争で学生たちと警察が激しくぶつかり合った年でしたし、1012日には社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年に刺され死んでしまった年です。また、アメリカで航空機事故が4回も起こり、のべ300人以上が亡くなった年でもありました。特に、1216日にニューヨーク上空で起きた事故は旅客機同士が空中衝突をして墜落し、地上にいた6名を含め134名が死亡するという悲惨な事故だったようです。195812月から、我が家にはテレビが入っていましたので、きっと子どもながらもそういうニュースをテレビで見て、怖ろしいと心に刻んだのでしょう。ちなみに、そうした不慮の死に出くわさなさそう仕事として、大学教師がいつのまにか念頭に浮かんできたのかもしれません(笑)

780号(2021.2.7)池端さん、そう来ましたか

 ついにNHK大河ドラマ「麒麟が来る」が完結しました。前半生の記録のほとんどない明智光秀なので、前半はかなり自由に展開するんだろうなと思っていましたが、すべて見た印象としてはむしろ歴史的記録がある後半の方こそ、原作者・池端俊策オリジナルという感じで印象に残る作品になったように思います。他の大河では描かれたことのないような、光秀は他の織田家家臣とはまったく異なる、信長の相談相手のようなポジションにいたこと、松永久秀と肝胆相照らす仲の良さで、信長が欲しがった名器と言われる平蜘蛛の茶器まで譲られたこと、正親町天皇と面識があり期待までかけられていたこと、などはまったく史実にはないはずです。今回最終回クライマックスの「本能寺の変」に関しても、池端俊策の自由な独自解釈がふんだんに入ります。光秀のもっとも信頼する仲間だった細川藤孝は光秀が信長に反旗を翻しそうな様子を知り、それを備中にいた羽柴秀吉に事前に伝え、秀吉の大返しが可能になるようにします。秀吉が事前に光秀が謀反を起こすのではないかということを知っていたという説は最近は結構あるのですが、光秀の娘・たまを嫁にもらっていた細川藤孝が裏切って教えたというのは、かなり大胆な解釈です。そして、このドラマでは光秀は、徳川家康との間に深い信頼関係を築いていて、本能寺の変を起こす前に、家康には事前に知らせ、三河に帰るように進言していたこと、さらについに最後は光秀生存説を採用して、馬に乗って颯爽と走り去っていく光秀の姿でドラマを終えます。光秀が生き延びて出家し、天海という名の僧侶として、その後徳川家光時代まで生きた将軍アドバイザーになったという説はこれまでにも流布していましたが、どうやら池端俊策は、その含みを持たせた展開として終えたかったようです。

 私のような歴史に関する知識がかなりある人間にとってはおおいに面白い展開ですが、大河ドラマって、子どもにとっては真実の歴史を描いてくれているものと思う人が少なくないですので、今後光秀は生き延びたという説が歴史的事実であるかのように広まるのではないかとちょっと心配です。これからは、大河ドラマも「このドラマは史実を参考に自由な解釈を加えたものですので、そのまま事実とは思わないでください」と断わりを入れないといけなくなるのではという気がします。まあでも、「麒麟が来る」は本格的時代劇という感じで、久しぶりに実に見応えのある大河ドラマでした。主役の長谷川博己の光秀、染谷将太の信長、佐々木蔵之介の秀吉は非常に良かったです。風間俊介演じる家康はまったくだめでしたが、まあ端役みたいなものだからよしとしましょう。誠実な感じがよく出ていた長谷川光秀の側から見たら、本能寺の変に至るのもやむを得ないと自然に思える展開でした。討たれる染谷信長も決して憎たらしい高慢な人物ではなく、最後まで可愛げのある魅力的な人物に見えていたのも素晴らしかったです。終わってしまったのが残念です。なんなら、天海僧正となって生涯終えるまで、池端俊策に描いてほしかったです(笑)

779号(2021.2.3)記憶より記録

 先日ある小説を読み終えて、たいして面白くなかったけど、記録として「本を読もう!」のコーナーに感想を書いておこうと思ったのですが、この作家、初めて読んだような気もするけど、もしかして何か前に1冊くらい読んでいたかもと思い、「本を読もう!」のコーナーの総索引を調べたら、なんとその読み終えた本の感想が掲載されているじゃないですか。「えーー!」と思いました。これまでにも、同じ本を買ってしまったとかは何度かありましたが、まさか読み終わるまで読んだことのある本だと気づかなかったのは初めてです。これまでは、読み始めてから「あれっ?この展開、前にも読んだような、、、」と気づくことは何回かあったのですが、最初から最後まで気づかないとは、ちょっと自分でも驚きました。

 ボケの始まりかとも思われそうですが、たぶん面白くない小説なので記憶からまったく消えていたのだと思います。なにせ本と映画を合わせて820作も紹介していますから、感想を書いたはいいけれど印象にほとんど残っていない作品も山のようにあります。まあだからこそ、記録は必要なのでしょう。読んだ本、観た映画のうち、そのストーリーをちゃんと語れるものは何割くらいあるでしょうか。半分くらいあるかな。記憶は不確かなものです。やはり、大事なのは記録を残すことですね。

 私ももう前期高齢者の仲間入りをしていますので、これからどんどん記憶力は低下していく一方でしょう。その際に助けてくれるのは記録です。今日更新した「日本の美」の写真も、以前、雪の積もっていた大内宿に行ったよなあ、いつだったかなと思い出したくて、「片桐新自の旅記録」というExcel表を開いて、2005年だったこととその時撮った写真の保存場所を探し出し、そこからコピーして掲載したものです。この歳になると、記録ほど頼りになるものはありません。記録はある時一気に作ろうと思ってもなかなかできません。日頃から意識してコツコツ作っておくと、そんなにしんどくなく作れます。

20年以上継続して書き続けているこのHPも今や私にとって貴重な記録です。「つらつら通信」にこんなことを書いたはずといったことをなんとか探し出せるように索引も作っています。そう言えば、なんか記録の大事さについても書いたことがあるような気がするなと思って調べたら、13年前と4年前と2度も同じタイトルで書いてました(笑)(参照:第294号 記録を残すことの大切さ(2008.8.31)、第578号 記録を残すことの大切さ(2016.2.21))。中身は違いますが、同じタイトルで書いていたことに今回初めて気づきました。やっぱり、記憶頼りはだめですね(笑)。2008年の時は、ちょうど「片桐新自の旅記録」を作ろうと一念発起した時でした。その時点で500を超える旅記録と書いていますが、今や800近くになっています。あの時頑張って記録を作っておいてよかったです。

778号(2021.1。29)母の歌集

 もうじき満91歳の誕生日を迎える母は、80の坂を超える頃から認知症の症状が出始め、少しずつ確実に進行し、今では息子である私の顔もすっかり忘れてしまっています。たまに会いに行ってもほとんど会話は成り立たず、寂しい思いを感じます。仕方がないことなのでしょうが、かつて1人でもきちんと生きていた頃の母親を思い出したくて、母が自費出版で出した2冊の歌集を本棚から引っ張り出して、久しぶりに――というか本気で読むのは初めてかもしれません――読んでみました。そこには、結婚以来専業主婦として生き、まさに絵に描いたような「良妻賢母」だった母とは少しだけ違う顔を見せる女性歌人がいました。

 1991年に61歳で夫に先立たれ、それから20年近く母は見事に生きてきました。1人になったからと言って、料理の手を抜くこともなく、家もいつもきちんと片づけて、たまに私が寄ってもそこには父がいた時と変わらない日常がありました。そんな母が、父が亡くなってから新たに本格的にやりはじめたのが短歌の創作でした。1作目の『若葉の萌えに』という作品のあとがきに書いているところによれば、女学生時代に読んだ石川啄木の『一握の砂』に魅了され、父との恋愛期間には与謝野晶子の『みだれ髪』に魅せられたというようにもともと短歌は好きだったようですが、結婚してからは子育てと夫の世話で短歌を作る気持ちの余裕が持てないまま過ごしてきてしまったようです。そして、父が亡くなってから、改めて短歌を詠んでみたいという気持ちになって本格的に始めたと書いています。

 1作目の『若葉の萌えに』は1991年から2000年までの10年間に読んだ377首が収められています。この歌集はやはり父のことを詠んだ歌が多いです。私に短歌の鑑識眼はまったくないのですが、いくつか紹介させてもらいます。

  夫との最後の旅の秋の日の三角の店で食べしあらかぶ

  在りし日の夫の座す方乾杯とひとり夕べの食卓なれば

  水炊きのなきがさびしと子は言ひぬ夫の好物子も好みしか

 2作目の『土笛』は2001年から2007年までの6年間に詠んだ362首が収められています。こちらの歌集でも父のことを詠ったものもそれなりにありますが、われわれ子どもたちと一緒に行った旅のことや日常のふとした光景や思いを詠ったものが増えています。

  大宰府に夫が求めし土笛のふくろふも見据ゑてゐたり

  ケイタイで札幌の秋伝へくる居ながらにして旅にあるごと

  とりとめもなき会話が一時間 心の鬱がじはり溶けゆく

 向学心旺盛だった母は70歳を過ぎてから携帯電話でメールを打てるようになりました。2首目の歌は、私が札幌から写真とともにメールを送った時に詠んだものだと思います。そしてこれらの歌は父が亡くなってから使い始めたワープロですべて打っていたのです。しかし、それも認知症の進行とともに使えなくなってしまい、おそらく80歳を過ぎてからは1首も詠んでないのではないかと思います。寂しい歌は少なめの歌集なのですが、3首目に出くわした時は、ああもっともっとまめに連絡をしておけばよかったと後悔しました。たまには電話しなさいよと冗談半分のように、明るく母は言っていましたが、日々の忙しさにかまけて、また私の性格かもしれませんが、なんということのない日常を母親に長々と喋るということができず、たまに電話がかかってきても、かなりあっさり切ってしまっていたものでした。

 決して親不孝な息子ではなかったと思いますが、1人で暮らす母の寂しさを心から理解できてはいませんでした。せめて何人かだけかもしれませんが、この文章を読んで、1人の女性が専業主婦として生き、夫を支え、3人の子を見事に育て、なおかつ優しい素敵な歌を詠める歌人だったということを知ってもらえたら、ちょっとだけ親孝行になるかなと思い書かせもらいました。

777号(2021.1.27)アボカドの食べ頃がわからない!

 大学の授業が終わるタイミングで非常事態宣言が出てしまったため再び自粛生活に入り、毎日2食――朝昼兼用なので12食です――作っています。本日の夕食のメニューは、赤魚の粕漬、手羽元と大根の煮物、アボカド刺身、大根の葉のお浸しでした。2人前で材料費は800円くらい、調理時間は40分くらいです。このメニューのうち、アボカド刺身とは、シンプルにアボカドを半分に割って1cm弱くらいの厚みで切ってワサビ醤油マヨネーズで味わうというものです。これは、以前関大前の居酒屋――踏切に向かって右手角にあった「とり○○」というお店で23期生とよく使いました――で、当時のゼミ生――23期生より前の学年だった気がします――が「結構美味しいですよ」と教えてくれて初めてこういう食べ方があるのかと知り、それ以来時々家でも作るようになりました。

 しかし、しばしば失敗するのです。というか今日も失敗でした。この食べ方は、アボカドが完熟じゃないと美味しくないのですが、前回買ってきて間もないアボカドを切ってみたら硬くてとても食べられなかったので、今回は購入してから2週間くらい置いておいたので、さすがにもう熟しただろうと思い切ってみたのですが、完熟にはほど遠くちょっと硬いまま我慢して食べることになってしまいました。ちなみに、前回そのままではとうてい食べられなかったアボカドはしばらくしてから、バター焼きにして食べましたが、これはこれでいけました。

 失敗の原因は2週間置いておいたと言っても冷蔵庫の中だったということなのだと思います。熟させるためには常温で置いておくべきみたいですね。次回からはとりあえず買ってきたら常温で置いておこうと思います。しかし、ここで疑問となるのが、たとえ常温で置いておいてもどういう状態になれば、アボカドの食べ頃なのかがよくわからないということです。ネットで調べたら、黒に近いような緑になったらと書いていましたが、今日のアボカドもそういう色にはなっていましたが、中身は硬かったです。触って感触も確かめてはみたのですが、外側の皮が硬いので、こんなもんかなと思ってチャレンジしたのですが、全然駄目でした。アボカドの食べ頃サインというのは何かあるのでしょうか。知っていたら教えてください。

 まあ何回か失敗したらだんだん私もアボカドをわかってくるのかもしれませんが、しばらくは自信がありません。バナナの皮のような色と柔軟性を持っていたら、皮越しでも熟度がわかるのに、アボカドの皮の色と硬さではパッと見は全然わかりません。でもとりあえず、明日またアボカドを買ってこようと思います。買ってきてすぐ食べられるような完熟アボカドというのもあるらしいですが、普通はあまりないですよね。買う前にあまり触って確かめるのもよくないでしょうから、色の見た目で買うしかないですね。なるべく濃い目の色のものを買ってきて触ってみておおよその熟度をつかみ、とりあえず常温でしばらく置いておきます。いつか「アボカド博士」になって、もっとアボカド料理のレパートリーを増やしたいものです(笑)

[追記(2021.2.1)]アボカドを買ってきて3日間常温で置いておいたら、いい感じで完熟になりました。バナナと同じような扱いでいいんですね(笑)今日は、エビとアボカドのサラダにして美味しくいただきました。

776号(2021.1.25)マイ・ファミリーヒストリー

 NHKの「ファミリーヒストリー」という番組をしばしば見るのですが、私も自分のファミリーヒストリーをある程度調べたことがあります。誰も興味ないかもしれませんが、少しだけ紹介させてもらいます。

 私はかなり記録好きですが、それは父からの遺伝のようで、199112月に亡くなった父はその年の5月に入院してから筆を起こし、亡くなる2カ月ほど前までに、記憶力が抜群に良かった母・吟――私にとっては祖母――から聞いた話や自分で調べたことなども含めてB5判のノートにびっしり書かれた14枚の記録を「片桐家の歴史」として残しました。「プロローグ」と「第1章」で絶筆となり、明治時代までで終わっているのですが、ルーツ探しのファミリーヒストリーは語れます。

 我が家は長崎県の島原市の出身ですが、島原に「片桐」という名前はもともとあった姓ではありません。口伝で伝わっている――それを父が記録した――話では、この姓は、明治の開化期に商売をしていた当時の当主――私の高祖父にあたる銀太郎(別名:市蔵)――が豊臣家の重臣だった片桐且元が好きで、「片桐」という姓を新たに選んだということのようです。しかし、ずっと商人だったわけではなく、もともとは宇都宮藩の武士だったのが、島原藩の松平氏と宇都宮藩の戸田氏が藩地交換を2度にわたっておこなった際に、島原の土地柄を気に入り武士をやめてそのまま島原に残り商人になったという話と、その時点での姓は川島だったという話が伝わっていました。

 そこで調べてみたところ、1747年に戸田氏が宇都宮から島原に入り、27年後の1774年に再び宇都宮に戻るという歴史的事実があること、また宇都宮には現在も川島姓がかなり存在することがわかりました。これらの事実を照らし合わせると、私の先祖は江戸期の後半にあたる1774年に武士をやめ、島原に残り商売を始めたという口伝はどうやら事実であることが確認されます。それ以前のルーツ調べはまだできていません。まあでも、18世紀まで遡れたのでそれなりの満足感が得られました。

 ただ考えてみると、私の曾祖父・時次郎は1862年という江戸末期の生まれですから、江戸も私の世代から見たらそんなに遠くないとも言えるので、このくらい遡れる人は結構いるかもしれませんね。でも、先祖に記憶力のいい人と記録をつける人がいないと消えてしまいやすいものでもあります。我が家はよい条件に恵まれていたので、様々な記録が残っている――祖父・慶次郎は大工の棟梁で島原で最初の洋館を建てた人として『島原市史』にも紹介されていますが、その祖父について家族・親族が思い出を語ったものが『棟梁伝』という冊子にまとめられて私の手元にあり、また祖母の思い出についてまとめられたものもありますし、父が小学校5年生からつけ続けた日記もあります――ので、私も父の跡を継いで記録を整理して「第2章」以降を完成させ、孫にまでは渡したいものだと密かに思っています。定年後のライフワークになりそうです。

775号(2021.1.23)ゼミを1年経験した後の自己評価

 私のゼミでは、3回生の最後のゼミで自分の能力がゼミに入る前と比べてどのくらい伸びたかという自己評価をしてもらっています。15の項目に関して、「かなり増した」「やや増した」「変わらない」「減った」の4つの選択肢から選んでもらっています。それをそれぞれ「2」「1」「0」「-1」の得点に置き換え、学年別得点を計算したものが下記のグラフです。11期生から継続的に行っているので、17学年分のデータになっています。一番人数が少なかった学年で14名ですので、そこまで極端に人数の少ない学年はありません。

 私はゼミでの学びや経験を通して、専攻した社会学という学びに関する能力を高めるだけでなく、生きていく上で役に立つ人間関係を潤滑に進める能力も高めることを狙っていますので、15の項目を2つのグループに分けて示しておきます。自己評価なのであくまでも主観的なものですが、それなりに趨勢分析はできるように思います。「社会学的能力」の方で全体的に見て能力が高まったという評価が低いのは「報告能力」です。どうしても報告する回数は限られてしまうので、これは仕方ないところかもしれません。「人間関係力」の方では、「人を動かす力」や「企画力」の自己評価が低めです。これもトレーニングする機会が合宿の懇親会や集いといった限られた機会になるので、幹事を経験した人では高くなりますが、そうでない人では伸びたという実感はあまり持てないようです。

 今回このグラフを見ながら、総じて最近は能力が伸びたという評価が低くなりつつあるなあと感じています。特に気になるのはかつて5割以上のゼミ生が「かなり増した」と答えてくれる学年が多かった「社会への関心」がここ4年ずっと下がり続けていることです。この3年、「社会への関心」が「かなり増した」と答える人が2割に届きません。私の指導が若者に届かなくなったのか、若者が一段と社会に関心を失いつつあるのかわかりませんが、非常に残念な結果です。来年度以降もこのままの趨勢が続かないようにもうひと踏ん張りしないといけないなと思っています。

774号(2021.1.15)誰がリーダーでも、、、

 菅義偉という政治家を私はもともとまったく評価していなかったので、今の内閣支持率の低下には「ようやく世間も気づいたか」という程度の感想でなんの疑問もないですが、じゃあ誰ならいいのかなとも思います。たとえ言葉が歯切れよくしっかり伝わる人がトップでも、この事態はどうしようもなく感染は拡大していく――あるいはいったん収まってもまたぶり返す――のは確実だと思います。大阪府の吉村知事の支持率は高いですが、大阪府でも感染は急速に増え、累計死者数は東京を抜いて全国1位です。国レベルでも、ドイツのメルケル首相などは支持率も高く、かつ日本よりはるかに厳しい行動制約を国民にかけていますが、感染拡大はまったく止まっていません。今の世論からすると、菅内閣は春くらいまでの寿命ではないかと思いますが、その後誰がなっても感染状況自体は似たような推移をたどるのではないかと思います。結局、昨春にこの「つらつら通信」に書いたように、この感染症が収まるのには過去の感染症と同様に最低2年から3年はかかるのだと思います。そういう長期戦の覚悟が国民にも政府にも生まれてこないのが残念です。厳しすぎる行動制約ではこの戦いは乗り切れないのではないかと心配です。

 それにしても、総理大臣に限らず、昨春以降各組織のトップに立っている人は大変ですね。本来なら、組織のトップとして新たな政策を打ち出したり前向きにいろいろなことを展開もしたいところだと思いますが、たぶんどこの組織でも今は受け身の新型コロナ対策しかできていないことでしょう。そして制約ばかりをかけ、なおかつ事態はちっとも好転せず、下からはさらに文句を言われるという辛い立場になっているトップばかりでしょう。それでもなりたくてなった人ならまだトップになれていることに多少の満足感もあるでしょうが、なりたくなかったのに、その立場に立たざるをえなくなった人にとっては本当にしんどいことと思います。もともと水面下で動くのが得意で本当は総理大臣になる気などなかったであろう菅義偉にも、少し同情しはじめているほどです。

773号(2021.1.11)ここまでくっきり出てしまうものなのか

 これは昨日朝日新聞の別刷り(EduA)の「特集・早生まれに負けない子育て」に掲載されていたデータです。早生まれは損ではないかということは、すでに「第667号 早生まれ(2018.4.3)」で指摘していましたが、その時には自分の記憶としてのデータしか紹介できませんでしたが、今回のこのデータは怖しいほどの現実を突きつけてきます。最初の3つのグラフは、山口慎太郎という東大の教授らが埼玉県内で調査を行って作成したデータで、最後のひとつは森丘保典という人の論文からのデータです。

 どのグラフを見ても早生まれの子は同じ学齢の子の中では後塵を拝してしまうことが明瞭に表れています。こんなデータを見てしまうと、今後子作りをしようと思っているカップルは気になるでしょうね。まあでも、1年をどこかで区切らないことには制度は作れないので仕方がないことなのです。昨年の春に新型コロナで学校が休校になっている頃に、声高に語られた9月入学ですが、その時も「第744号 9月入学?(2020.4.29)」に書きましたが、急に学齢の1年の区切りを変えられたら、計算して子作りをしてきた人たちは納得できないだろうというのは、こういうデータを見たら明らかでしょう。

 しかし、すでに自分の子どもは早生まれで生まれてきてしまっているのでどうしたいいんですかという人にひとつだけアドバイスするとすれば、同じ学齢の子の中で少し劣っていても、それは生きてきた時間の違いであって、本質的に能力が足りないわけではないときちんと認識し、そのうちできるようになるよと温かく見守ることです。親が「この子は出来が悪い」などと思いこんでしまって、そういう風に言い続けたら、まさにラベリング理論通りに、その言葉が「どうせ自分は出来が悪いんだから、やっても無駄だ」という意識を埋め込み、劣等生を作り上げてしまいます。4つ目のグラフに見られるように、少しずつ生まれ月の差は縮まってきますし、社会に出たら同じ学齢で勝負しなければならないことは少なくなります。のんびり、ゆっくり育てるという気持ちを持つとよいのではないかと思います。

772号(2021.1.10)『麒麟がくる』のセットがすごかった

 本日放送の『麒麟がくる』はご覧になりましたか?安土城の本丸御殿のつもりかなと思いますが、部屋のセットがものすごく立派でした。240畳もの大広間が作られていました。見ている時はセットではなく、どこかの大寺院あたりでロケをしたのだろうと思ったのですが、ネットで調べたら、なんとこのドラマのためにこの大広間をセットとして作ったということを知り驚きました。柱は4本しかなく、天井も格子状に作っており、実に凝っていました。このセット、撮影が終わったら壊してしまうのでしょうか。もったいないなあと思います。どこかで展示公開してくれないでしょうか。ぜひ入ってみたいものです。信長になった気分になれそうです。滋賀県安土に「信長の館」という安土城の一番上層部を再現展示公開している施設があるのですが、そこが入手してくれたらちょうどよいのではないかと思うのですが、、、

 それにしても、今年の大河は久しぶりにいい出来です。あと4回で終わってしまうのが残念ですが、着々と本能寺の変への伏線は引かれてきています。残り4回非常に楽しみです。

771号(2021.1.9)今年、東証株価は史上最高値をつけるのではないか

 昨日、日経平均が30年ぶりに28,000円台を回復しました。コロナで経営が危なくなる企業も今後増えていくことが予想されるほど日本経済はガタガタなのに、なぜ株価だけが上がるのかと不思議に思う人もいるかもしれませんが、考えてみるとこれは当然のことなのだと思います。

 株価は、経済の実態を反映して上昇するのではなく、株に投資しようとする人が増えれば上昇します。1980年代後半から1990年代はじめのバブル経済の際も、それまで興味がなかった人たちが今株が一番儲かると様々なメディアから聞かされまるで洗脳されたように、どんどん株の世界に入っていったので株価が上昇したのです。

 さて、今は株が儲かると言われているかと言えば、まだそういう情報が広く聞こえてきている感じではないですが、株に投資する人は確実に増えているはずです。なぜなら、今お金が余っているからです。ニュースでは経営危機になっている飲食店や解雇されて苦しんでいる人たちがよく紹介されていますが、そういう経済危機に陥っていない層は実はたくさんいます。そして、その人たちは今お金を使うところがないのです。海外旅行にも行けない、歌舞伎もコンサートも行けない、たくさん人を集めた贅沢なパーティもできない、ブランド店での買い物すら自由にしにくいという状況です。要するに、お金の使いどころがないのです。

 そんな人たちが世間から批判されずにどこにお金をつぎ込めるかと言えば、株への投資です。余っているお金が今株にどんどん投資される状況が生まれています。コロナはこの1年くらいまだまだ猛威を振るい、非常事態宣言期間が延長されたり、再度発令されたりということが繰り返され、なるべく外出するなという空気がきっと継続されます。ですので、お金はどんどん株に集まってきます。これまでの株価の最高値は19891229日の38,915円ですが、今年これを更新するのではないかと、私は予想しています。

 蛇足ですが、そういう予測はしていますが、私は株はやりません。バブル期にそれこそ素人だったのに、当時の空気に流されてちょっとやり始めめてしまったのですが、毎日株式欄のことばかりが気になり他のことに集中できなくなった上に、NTT株の第1次売り出し(11970000円)に6倍の競争率の中入手できたにもかかわらず300万円超えをした時にもそのまま無駄に持ち続け、結局売った時には少しマイナスになってしまったという投資の下手くそさ、さらに他の株も含めたらトータルで結構マイナスになってしまったという経験をし、株にはまったく向いていない人間だと気づいたからです。

 この文章を読んで「そうかあ。株は上がるのか。やってみようかな」と思う人もいるかもしれませんが、くれぐれもお気を付けください。トータルでは上がるでしょうが、倒産する企業も出そうな状況ですから、読み間違ったら痛い目を見ますよ。資本主義社会ですから、批判されることではないですが、私は株で稼ぐなんて、基本的には正しいお金の獲得の仕方ではないとどうしても思ってしまう人間です。

770号(2021.1.3)辛丑(かのとうし)なんだ

 年が明けましたね。例年ならおめでとうございますと素直に言えるのですが、今年は素直に言えない気分です。昨日、東京都をはじめとする13県が非常事態宣言を発令するようにと政府に申し入れをしました。出すかどうかはわかりませんが、この出だしでは今年も新型コロナ対応で制約がかかる生活が続くんだなと思わせる象徴的なニュースです。たぶん、今年は昨年よりも辛い年になりそうな気がします。昨年の今頃はまだ誰もウィルスのことなど心配せずに、令和初のお正月を楽しんでいましたし、1月いっぱいは不安も持たず普通の生活を楽しんでいたと思います。しかし、今年は、このように年の初めから緊急事態宣言を出すべきだという議論が始まっています。嫌な1年のスタートです。

 ふと新聞を見たら、今年の丑年は、十干十二支で言うと、辛丑(かのとうし)だと書いてあり、「そうかあ、やっぱり辛い年なんだ」と改めて思わされました。昨年、私の「今年の漢字」は「辛」だと親しい仲間たちに話したばかりでしたが、2021年は私だけでなく社会全体での今年の漢字が「辛」になったりするのかもしれません。今の状態が続くなら、社会経済は昨年以上にガタガタになりそうです。もう経済も社会も国民が思っている以上にギリギリのところに落ちてきていると思います。短期的にはまだ大きく変わらず生活ができている人たちがかなりいるように見受けられますが、中長期的には日本社会は非常に危険な水域に到達しつつあるように思います。大学生の就職状況は昨年よりはるかに悪くなります。飲食店だけでなく、倒産企業も続出するでしょう。本当に守るべきものは何かがわかっていない国民と、その国民のミクロな感覚ばかり気にする為政者が生み出す社会は、どんどん悪い方向に向かっていきます。みんなワクチン開発を魔法の杖のように思っていますが、ワクチンができたからと言ってウィルスは消えるわけではありません。亡くなる人は出続けます。ずっと書いてきていますが、要はこの新型コロナというウィルスを他のウィルスと同じように受け止められようにならないと社会がもたないのですが、なかなかそういう認識が広がりません。この制約だらけの生活を国民はいつまで続けられるのでしょうか?「SDGs(持続可能な開発目標)」より、今は「持続可能な生活」を考えなければならない時期です。

 話を「辛丑(かのとうし)」に戻します。「辛(かのと)」は10年おきにやってきます。たまたまかもしれませんが、「辛(かのと)」の年はやはり辛いことが多いように思います。10年前の2011年は東日本大震災が起きた年、20001年はアメリカ同時多発テロが起き、1991年は日本のバブルがはじけた年です。もっと遡ってみると、1941年は太平洋戦争の始まった年、1931年は満州事変が起き日本が暗黒の戦争期に突入した年です。こうやって並べてみると、偶然とは思えなくなってきます。中国では「辛亥」の年には革命が起こるという言い伝えがあるようですが、日本でもやはり「辛(かのと)」の年は悪い年になる確率が高いのかもしれません。今年の最大のイベント東京オリンピックはやったらやったで世界から大批判をされ、やめたらやめたで日本社会に支えきれないほどの大きなマイナスを与えることでしょう。辛い丑年になるのは確実です。こんなに暗い見通ししかできない正月は初めてです。

注:「十干十二支」については、「つらつら通信」第544号「えと」(www2.itc.kansai-u.ac.jp/~katagiri/tura16.htm#no544 (kansai-u.ac.jp))に詳しく書いていますので、興味がある方はお読みください。