Part7

トップページに戻る

過去の「KSつらつら通信」へ

メールはこちらへ:katagiri@kansai-u.ac.jp

 

<目次>

第219号 ジャンパー(2006.12.28)

第218号 冬が来ない!(2006.12.21)

第217号 現代夫道鑑(2006.10.3)

第216号 一人「おやじ」旅の魅力(2006.9.15)

第215号 二軍のようなオシム・ジャパン(2006.9.6)

第214号 ドラマ「結婚できない男」がおもしろい(2006.8.25)

第213号 安倍内閣は小泉内閣のように長持ちはしない(2006.8.25)

第212号 輝く高校生たち(2006.8.2)

第211号 ワーキング・プア(2006.7.23)

第210号 どんどん病気を作るな!(2006.7.23)

第209号 それはフェアか?(2006.7.18)(追記:2006.7.21)

第208号 友人中毒?! (2006.7.15)

第207号 人間観(2006.6.30)

第206号 銀行って……(2006.6.24)

第205号 独断的ジーコ・ジャパン評価(2006.6.24)

第204号 大阪の魅力(2006.6.21)

第203号 ジーコはよい指導者だけど……(2006.6.19)

第202号 嫌ミクシィ(2006.6.15)

第201号 ボクはまだまだ進化する(2006.5.28)

第200号 点的知識を線的・面的理解へ(2006.5.22)

第199号 阪急宝塚県――主観的住民アイデンティティ――(2006.5.5)

第198号 朝日新聞は変わり始めたのか?(2006.4.30)

第197号 関西TVワールド三国志物語(2006.4.23)

第196号 「太田光の私が総理大臣になったら……」(2006.4.15)

第195号 驚きのソウル――生活・風俗篇――(2006.4.9)

第194号 初めてのソウル――交通篇――(2006.4.9)

第193号 就職活動と左手薬指の指輪(2006.3.24)

第192号 哀れな民主党(2006.3.5)

第191号 ブログって誰が読んでいるんだろう?(2006.3.5)

第190号 引き際(2006.2.2)

第189号 ラッキーマン(2006.1.21)

第188号 大学合併時代の到来?(2006.1.18)

第187号 「道楽人生」ならぬ「働楽親成」(2006.1.13)

第186号 「生協の白石さん」(2006.1.7)

219号(2006.12.28)ジャンパー

 今日、息子がジャンパーを買ってきました。「どう、似合うかな?」とわざわざ着て見せてくれました。襟にファーが着いたちょっと今風のジャンパーで、なかなか格好よかったです。それがどうしたんですかと言われてしまいそうですが、実はこれは息子が初めて自分で買った洋服なのです。おしゃれの低年齢化の進む中で、高2まで制服と母親の買ってきた服しか着てこなかった息子が、自分で買いに行くと言って、買ってきたのです。決して大人びていたわけではなかった同じ年頃の私と比べてもちょっと(かなり?)オクテだなと思っていたので、おかしいかもしれませんが、密かに感動してしまいました。(中学の頃から自分の気に入った服しか着ていない妹たちもちょっとびっくりしていたようです。)私用のバッグも最近自分で買ってきましたし、髪型もちょっと気にするようになり、カラオケなんかも行きたがるようになりました。どんどん「普通の高校生」になってきていて、ああやっぱり人間って、友人とのつき合いなどからいろいろなことを学んでいくんだなとしみじみ感心しています。彼女ができたなんていう日もいつか来るのかなと楽しみになってきました。親なんて、やっぱりじたばたせずに子どもを見守っていればいいんだなと、改めて思った「親馬鹿ジャンパー記念日」でした。

218号(2006.12.21)冬が来ない!

 もう後10日で今年も終わるというのに、まだ紅葉した木が街には残っていて、ちっとも冬らしくなりません。今日更新した写真は昨年の同時期に京都で撮影したものですが、これも考えてみると、晩秋に季節はずれの雪が降ったのではなく、柿の実や紅葉がこの時期まであった方が季節はずれだったわけです。このままでは、紅葉のシーズンがお正月になる日もそう遠くなさそうです。こうなってくると、さすがに地球温暖化が身近になってきていると否が応でも考えさせられます。わずか30数年後の2040年までには北極の氷がすべて溶けてしまうという予測も出ています。地球の長い歴史の中で気候は、温暖化と寒冷化を繰り返してきたわけですが、これは太陽活動の活発化や隕石の衝突など予期せざる自然現象の結果でした。しかし、今回の温暖化は人為的な原因によるものだけに、人類がこのまま欲望に従って行動していく限り、逆方向への動きは生まれるのだろうかと心配になります。地球という大きな生き物がそこに寄生する人類というウィルスのために不治の病に陥っているのでなければいいのですが。社会学は現状分析をしっかりすることによって、近未来の来るべき社会を予測できるようになるというのが、私の持論なのですが、20〜30年後ならなんとかぎりぎりできそうですが、50年後となると一体どんな社会になっているのか読み切れません。まして、100年後に22世紀を人類がちゃんと迎えられるのかどうかすら確信を持って言い切ることはできません。こんな時代の中で、今自分にできることは何なのか、しっかり考えながら残り少ない2006年を大事に過ごしたいと思っています。

217号(2006.10.3)現代夫道鑑

 かつて結婚した女性に期待される仕事を「さしすせそ」で表したのをご存知でしょうか?「裁縫・躾・炊事・洗濯・掃除」の5つです。今でも多少期待されているかもしれませんが、堂々と言う人はいなくなりましたので、いずれみんな忘れ去ってしまいそうです。他方で最近は、既婚男性にはもっともっと家庭に協力的であれという意見がよく聞こえてきます。で、この際、現代の既婚男性に期待される仕事を、「さしすせそ」風に考えてみようと思いました。「さしすせそ」ではなく、「しゃ、し、しゅ、しぇ、しょ」ですが。「しゃ」は「車夫」です。時間のあるときならいつでも妻や子どものアッシー君ができるような男でなければなりません。「し」は「慈父」です。今どき雷を落とす厳しい父親は子どもから嫌われるばかりです。優しいお父さんでなければなりません。「しゅ」は「主婦」です。今どきの男性は買い物も洗濯も掃除も片付けも、家庭のことは何でもできなければ、一人前の家庭人とはいえません。自分も「主婦」だというぐらいの気持ちが必要です。「しぇ」は「シェフ」です。料理もちゃんとできないといけません。ビール片手にTVでプロ野球を見ながら待っていれば、妻が食事を用意してくれるなどという時代はとうに過ぎ去りました。そして、「しょ」は「ジョブ」です。こんなに家庭で仕事が増えた男たちですが、家計の主たる担い手として稼ぐ役割から解放されているわけではありませんから、当然仕事もできてしっかり収入を得ないといけません。「車夫・慈父・主婦・シェフ・ジョブ」の5つができる男になること、これがこれからは求められていくことでしょう。(半分冗談、半分本気で書いてみました。)

216号(2006.9.15)一人「おやじ」旅の魅力

 一人旅には誰でもちょっと憧れるところがあり、一度はやってみたいと思うようですが、実際にやってみると、なんか無性に不安になったり、寂しかったりして、二度目はしなくていいやという人も多いのではないかと思います。しかし、私の場合は年々一人旅が好きになってきています。若いときから一人旅は好きでしばしばしてきましたが、最近の方がより楽しくなってきているのは、たぶん知識や経験が増えているからだと思います。日本全国あちこちを歩いていろいろなものを見てきましたし、地理、歴史の知識も昔よりずっと増えています。そうすると、初めての町で見るものでもいろいろな知識との接点が出てきて、何倍もおもしろいのです。一人旅でありながら、自分の中の知識や経験と対話しながら歩いている感じがして、一人の寂しさをまったく感じません。新しい町で得た新しい知識が、ジグソーパズルのピースのように、これまで持っていた知識とうまくつながったりすると、感動します。学校で習っている頃は、地理は嫌いな科目だったのに、旅をしていると地図が大好きになります。特に、町と道と川と山の高さがわかるような地図がいいですね。(等高線が入っている国土地理院のものではなく、色で立体感を出している地図がいいです。)ああここにこういう山脈があったから国境になったのかとか、この川で文化はつながっていたのかとか、地図を見ながら、自分の目でも確認できる作業が楽しくて仕方がありません。こういう地理的条件があったから、こういう歴史的事実も生じたのだと、まさに地理と歴史がつながっていることを、旅をしながら感じます。もちろん、複数旅でもできなくはないでしょうが、やはり他者に気を使うと、自分の知識との対話はどうしてもおざなりになり、知的楽しさは半減以下になります。(もちろん、複数での旅はまたそれなりの楽しみ方があるのですが。)そして、最近ますます一人旅の魅力が増しているもうひとつの理由は、若いときよりも酒がおいしく飲めるようになったということにあるようです。旅に出れば、そこには郷土の食があり、郷土の酒があります。郷土料理を食べさせてくれる小さな居酒屋などに入り、そこでお店の方やおなじみのお客さんなどと会話を交わすと、見ただけではわからないその町の気質や雰囲気がつかめたりします。こういうお店にうまく巡り会ったときは、その町の印象は強烈なものとなります。こうやって書いてみると、一人旅は「おやじ」の方が楽しめるのかもしれません。しかし、あまり年を取ると歩くのがしんどくなるでしょうから、今のうちにもっともっと旅しておきたいと思います。〔写真は、長野からの列車の中で、野沢菜入りのおやきを肴に松代焼きのぐい飲みで信州の地酒を飲んだ時のものです。カップ酒や缶ビールでは味わえないおいしさでした。一人居酒屋モードに隣の人はちょっとびっくりしていましたが……。〕

215号(2006.9.6)二軍のようなオシム・ジャパン

 今日のアジアカップ予選イエメン戦でオシム・ジャパンになって4試合を終えたわけですが、なんかつまらないチームです。凡プレイの連続です。試合を見て時間を無駄にしたような気持ちになりました。4年後を考えて選手を育てようとしているのでしょうが、それにしても……という感じです。とうてい現在の日本の一流選手を集めたチームとは思えません。前のサウジアラビア戦も今回のイエメン戦も試合中にコーチの指示の声がよく聞こえてきましたが、まるで高校サッカーのような、あまりにも基本的な指示ばかりが飛んでいます。ジーコは選手を大人に扱いすぎたと批判されましたが、今のオシムの選んだ選手はまるで子どもすぎます。オシムはなかなかよい監督という噂ですが、選手の選び方にあまりに偏りがありすぎます。今のオシム・ジャパンはほとんどジェフとレッズの合併チームのようなものです。これならもう少しオシムが言うところの「古い井戸」の方にもっとよい水が残っていると思いますので、それを活用すべきです。シドニー世代はまだそんなに老け込んではいないはずです。ドイツW杯に選ばれた選手を今の段階では半分以上使ってもいいのではないかと思います。中田が引退したからと言って、ドイツW杯メンバーをほとんど総入れ替えのようなことをするのは少しやりすぎです。(まあ中澤も代表は引退したいと言っていますし、海外組もこの程度の試合では呼びにくいということもあるかもしれませんが……。)監督の長期構想に基づき、現時点の実力を無視し将来性を期待した選抜では選ばれた選手たちも本当の日本代表に選ばれた感じがしないのではないでしょうか。少しずつ取って代わってこそ、実力で代表の座を勝ち取ったという気になれるのではないかと思います。百歩譲って将来性を期待して今のうちに経験を積ませたいなら、川口に代えて若いキーパーを使うべきですし、サントスや加地以外のサイドバックを使うなどしてみるべきです。守備的な遠藤を2列目で使うのも意味がわかりません。どうせ使うなら、せっかく呼んでいるのですし、長谷部を使うべきでしょう。巻も根性はあるけれど技術はないので固定的なレギュラーのように使うべきではないと思います。もっと他に試してみた方がいいFWはたくさんいるように思います。あと、DFもあまりにわずかな人数しか呼んでおらず、これではセンターバックはトゥーリオと坪井で決まりのようですが、それでいいのかなと疑問に思います。鈴木慶太も守備的すぎて魅力的なボランチではないです。攻撃力もある福西の方がまだまだ何倍も力が上です。個人的には、トゥーリオと田中達也以外の先発メンバーは総取替えしたいです。高いFWが欲しいなら、ヨーロッパで行き先を失っている平山相太を呼び戻して使ってみてほしいですね。いずれ呼ぶのかもしれませんが、松井も使ってみるべきでしょうし、中村俊輔も小笠原も高原も4年後は微妙かもしれませんが、まだもう少し使ってやっていいように思います。トルシエからジーコに代わった時は、ここまでの総取替えはしなかったので、多くの人が選んでほしいなと思っていた選手が選ばれたという印象を持ちましたが、オシムはちょっとやりすぎのような気がします。もう少しチームとしての継続性も考えながらでないと結果が出ず、このままではオシム体制は4年後まで持たないような気がします。

214号(2006.8.25)ドラマ「結婚できない男」がおもしろい

 「TRICK」や「アットホーム・ダッド」などを見ていた人には「何を今更」と言われてしまいそうですが、現在放映中のドラマ「結婚できない男」を毎回楽しみに見ながら、「阿部寛という役者さんは余人をもって代え難い役者になったな」としみじみ思っています。阿部寛が演じる仕事も家事もこなせる長身の建築家・桑野信介40歳でいまだ独身です。原因はと言えば、他人に自分の生活を誰にもかき回されたくないという彼なりのこだわり(偏屈さ?)にあるわけです。ドラマを見ていると、実際今はこういう男性がいるんだろうなという気がします。小さいときから個室を与えられ、そこで勉強と趣味に浸ってきた人なら、結婚というわずらわしい人間関係を抱え込みたくないという判断をすることはおおいにありうると思います。現実生活においても独身の阿部寛という役者さんは、この頑なな生き方をする男を見事に演じていて、現実生活でもこういう人なのではないかと思ってしまうほどです。このドラマは阿部寛以外の人でやったら、こうはおもしろくならなかったでしょう。今週の放映分は特に名作だったように思います。隣の犬を嫌々預かったはずなのに、だんだんその犬と心が通い合ってしまうという話でしたが、犬の名演技もあり、引き込まれてしまいました。偏屈さもちょっと緩んできていますので、最終的には夏川結衣演じる女医さんとゴールインということになりそうですが、それはそれで納得が行く気もします。番組紹介を見ると、このドラマのプロデューサーも43歳まで独身だったそうですから、実体験も相当に入っているのかもしれません。もしかすると、現実世界でも仕事のできる男の結婚適齢期は40歳ぐらいになっているのかもしれません。でも、その時相手の女性としては何歳ぐらいの人が選ばれるのでしょうね。35歳前後でしょうか。ともにやりがいのある仕事を持ち、30歳代後半あたりで結婚し、子どもを1人だけ作るなんて生き方が、これからますます増えてきそうだな、なんてことまで考えさせられてしまう社会学的に見ても興味深いドラマです。

213号(2006.8.25)安倍内閣は小泉内閣のように長持ちはしない

 ちょっと先取りしすぎかもしれませんが、安倍内閣の行方について考えてみたいと思います。小泉純一郎とはどういう総理大臣だったのかという話ともからみますので、9月に入ったらどこのニュースでもいろいろ取り上げ始めるでしょうから、手垢がつく前に書いておきたいと思います。9月に小泉首相が退陣し、次の自民党総裁に安倍晋三官房長官が当選するのはもはや既定の事実となった感があります。で、私はその後どうなるかを予想してみたいと思います。結論から言ってしまえば、表題にも書いたように、安倍政権は小泉政権のように長続きすることはなく、持ってせいぜい2年、場合によってはもっと早く終わるかもしれません。まあでも、2年持てば自民党総裁としては決して平均から見て短いわけではありませんので、それで十分だとも言えますが……。この5年半小泉首相に慣れてしまった自民党員とミーハー有権者は、安倍晋三に「ミニ小泉」を期待している節が多分にありますが、安倍は決して小泉のようになることはありません。性格がまったく違います。安倍晋三は普通の人ですが、小泉純一郎は滅多に現れることのないトリックスターです。小泉首相の経済政策についてはこれまでずっと批判してきましたし、一般庶民もまじめに考えたら決して評価できるものではないと今でも思っていますが、それ以外の面では確かに大衆の心をつかむのが非常にうまい総理大臣でした。ハンセン氏病患者との面会・謝罪、北朝鮮訪問と拉致の事実を認めさせたこと、批判があっても靖国参拝を続けたことなどは、歴史にも記録されることでしょう。また時代の人気者とのコラボーレーションがうまく、田中真紀子に人気があったときにはその人気に乗り、貴乃花が怪我をおして優勝すると「痛みに耐えてよく頑張った!」と表彰式に現れます。そして以前にも書きましたが、何よりも仮想敵を作るのが巧みで、古臭い政治権力者に対抗する正義のヒーロー小泉純一郎とそれを支持する名もなき大衆という構図を何度もうまく作り上げてきました。仮想敵を弱小野党ではなく、自民党の古いタイプの政治権力者にしたのが見事な設定でした。弱小政党を批判するなら、大衆も「判官贔屓」という形で、小泉の敵にまわったかもしれませんが、如何にも悪辣な顔をした自民党の権力者なら、小泉の方が大衆のヒーローになれるわけです。従来の自民党の政治のやり方をすべて無視して自民党の大物政治家を全員敵に回してでも、直接大衆に訴えかけていくという手法は、大衆には非常に好意的に受け止められてきました。こうしたやり方を安倍晋三も継承したいと思っているでしょうが、彼にはそこまでの度胸も演技力もないので、結局有力政治家の意向を尊重しながら、昔に近い政権運営を行っていくという形になると思います。そして、それは大衆から見たら、まったくおもしろくもない政治への逆戻りにしか見えず、安倍支持の熱気は半年も経てば一気に冷めてくると思います。大衆の支持を失い、選挙の顔として使えなくなった自民党総裁には今や価値がなく、新しい人にしようという声がすぐに湧き起こってくることでしょう。それでも負け続けたら、最後は小泉の復活を、という話も出てきそうです。でも、私の捉えている小泉純一郎像が正しければ、彼は次の衆議院選挙には立候補しないのではないかと思います。おのれの「美学」を貫きたいなら、こういう結論を下すはずです。万一引退せず、総理大臣の後ろで黒幕として権力を振るようなことをしたら、大衆のヒーロー小泉純一郎は地に落ちるでしょう。こうやって書いていると、改めて小泉純一郎という政治家が良い意味でも悪い意味でも希有の総理大臣であったことが確認されます。時代はこういう大統領型総理大臣を求めていますので、安倍内閣が終わってもまたぞろ「ミニ小泉」をめざす人が出てくることでしょう。しかし、小泉のように演じきるのは、なかなか至難の業だと思いますので、再び長期政権を作り出す政治家はなかなか出ないだろうと思います。

212号(2006.8.2)輝く高校生たち

 昨日、ちょっとした理由があり、高校総体(インターハイ)の開会式に行ってきたのですが、すごく感動しました。まだ開会式だけでしたので、その感動は高校生スポーツ選手たちによるものというより、開会式を陰で支える高校生たちの姿に対してだったのですが。2時間以上ずっと歌い踊り演奏を続けた音楽部と吹奏楽部の高校生たち、背筋を伸ばしてプラカードを捧げ持つ女子高生たち、明るい声で場内放送をしていた高校生たち、精一杯の公開演技を見せてくれた和太鼓クラブ、チア、マーチングバンド、バトントワリング、ダンス部の高校生たち、そして場内整理に当たっていた高校生たち、みんな一所懸命ですばらしかったです。みんなで力を合わせ、息を合わせて、ひとつのことを成し遂げようとしている姿に打たれ、なんだか涙が止まらなくなってしまいました。高校生って、メディアでいろいろ言われたりすることもありますし、街で見かける高校生に眉をひそめたくなったことは、正直私も何度もあります。でも、一方ではこういう風に頑張っている高校生たちもたくさんいるんだなと思ったら、「まだまだ日本は捨てたもんじゃない」って思えてきました。スポーツでも文化活動でも若い人がひとつのことに一所懸命に打ち込む姿はやっぱりいいもんですね。プロ野球には興味がないけれど、甲子園の高校野球は好きだという人が多いのも、これが理由なのかもしれませんね。親しい数人の友人との発展性のない会話と恋愛ばかりにうつつを抜かしたり、高校生活3年間をひたすら大学受験のための勉強だけをしている高校生とは違う、「輝く高校生たち」をたくさん見ることができて幸せな時間でした。

211号(2006.7.23)ワーキング・プア

 今日放送していた「急増“働く貧困層”」というNHKスペシャルをご覧になりましたか?もしも見ていなかったら、いずれ再放送もやるでしょうからその時はぜひ見てみて下さい。現在の日本社会はこれでいいのかと心から問い直したくなる鋭いドキュメンタリーでした。「格差社会」という言葉にもすっかり慣れてしまい、みんなあまり何も感じなくなっていますが、このドキュメンタリーを見たら、こんな格差社会は絶対にだめだと多くの日本人が強く思うはずです。働けど働けど生活が苦しい、税金すら払えないという人たちが、今やこんなにいるのかと思うと、今景気がいいと言われている日本経済とは一体何なのかと問いたくなります。生活になくても困らないようなものを売買して大儲けしている「勝ち組」と言われる人が無駄なほどの贅沢をしている一方で、リストラされて安定した職を失い、体を壊すほど働いても子どもを大学に行かすほどの貯金はできないという人がいます。1食100円の食費で過ごしている仕立屋のおじいさんがいます。働く意欲はあるけれど仕事が見つからず路上生活をしている30歳代がいます。これはもう「格差社会」などという格好つけた言葉で表すより、「貧富の差の大きな資本主義社会」そのものといった方がいいと思います。日本が目指してきたのは、こんな社会だったのでしょうか?やはり、もう一度累進課税の最高税率は上げて、大儲けしている人間からはたっぷり税金を取り、貧しい家庭の子であっても、意欲と能力のある子なら大学までちゃんと行けるぐらいの体勢は作るべきです。最高税率を上げたら、金持ちは日本から出て行くとよく言いますが、出て行きたければ出て行けばいいのです。この社会を愛しもせず見捨てるような輩は、いずれ友も家族も失い、金はあっても居所のない浮遊者になってしまうことでしょう。社会が期待する成員にはとうていなれない人物です。一所懸命働いた人はそれなりに楽しく暮らせる、そんな日本社会であってほしいものです。このまま行くと、いったい日本はどうなってしまうのだろうとしみじみ不安を感じました。

210号(2006.7.23)どんどん病気を作るな!

 最近TVで大宣伝しているのが、「SAD」という新しい病気です。「社会不安障害」と訳されるそうですが、日本人は7人に1人がこの病気なのだと言い、専門医に診てもらえば治るかもしれませんなどと大宣伝しています。会議などで発表したり、意見を言ったりする時や、学校の先生や職場の上司や良く知らない人と話をする時や、多くの人の前で話したりする時に強い緊張感を感じる人は、「SAD(社会不安障害)」なんだそうです。ここまで読んで、「あっ、自分もそうかも……」とか思った人がいそうですが、アホちゃうかと言いたくなります。そんな場面で生まれつきまったく緊張しない人間なんて一人もいません。逆に言えば、自分自身が経験を積み知識を持ち自分に対する自信をつけることで基本的には誰でも克服できるものです。もちろん中には、極度の不安にさいなまれ体調に異常をきたすような人もいるでしょう。しかし、これも程度次第です。緊張したときにお腹が痛くなる程度の体調変化は誰にだって経験しているでしょう。あまりにもひどい人は病院でみてもらったらいいでしょうが、7人に1人なんて絶対いません。ゼミ生を500人近く見てきて、「人前で話すのは苦手です」って学生も何百人と見てきましたが、絶対病気なんかではありません。単にまだ自分が発言することに自信が持てないだけです。たった2年教えている間だけでも、そういう学生たちでも大きく変化していきます。自分に少しでも自信をつけ、発言の経験を増すことで、気持ちは大分楽になるのです。こんな病名をつけてあなたも病人なんですよと暗示をかけてくるのは、治療費と薬代で儲けたいと思っている医者と製薬会社の陰謀です。このSADの場合は、宣伝主体も不明確で特に怪しい感じがします。メタボリックシンドロームなんていう病名も、軽度の肥満者すら大病のごとく思わせてしまうという意味で同罪です。日本人は権威に弱く新しいもの好きなので、こういう新種の病名が登場すると、すぐにマスメディアが飛びつき、すぐにさも有名な病気のように扱われ始めます。こんなくだらない新病名を作って忍耐力のない人間に免罪符を与えるだけの精神科医なんていない方がましです。己の業績を上げ製薬会社を喜ばせるこうした医師の業績主義的行為が、社会的にはおおいなる逆機能を果たすことをはっきり指摘しておきたいと思います。人前で話すのが苦手と思っている諸君、あなたたちは絶対病気なんかではありません。SADなんて大嘘です。

209号(2006.7.18)それはフェアか?

 ジダンの頭突きをめぐって、イタリアのマテラッツィ選手にも制裁を与えるべきだ、そうでないとフェアではないという声が出ていますが、結構最近、「その処置はフェアか?」と問いたくなるニュースが続いて起こっているように思います。ひとつは、露鵬という関取が記者団に暴力を振るい3日間の出場停止になったというニュースです。私は、あの原因になった千代大海との相撲を見ていましたが、最初に問題行動を取ったのは明らかに千代大海の方です。露鵬が正当な技である張り手を使ったことに対して、腹を立てた千代大海が勝負が決まったあとに、「なんだあ、こら!」みたいな売り言葉を吐いたため、露鵬がこれを買い、険悪な雰囲気になったのが、この問題のきっかけです。もめ事の大好きな「ハゲタカ」記者が相撲取り同士の喧嘩はネタになるとインタビューに飛んで行き、怒りの納まっていなかった露鵬が「撮るな!」とカメラを払ったことによって、「露鵬、記者団に暴力!」ということになってしまったわけです。確かに、暴力的な行為を取ってしまった露鵬は罰せられても仕方がないと思いますが、最初にきっかけをつくった千代大海に何の制裁もないのはおかしいと思います。「報道ステーション」で、古舘伊知郎は、「起こるべくして起こった事件。礼に始まり礼に終わらなければならない国技大相撲なのに、勝ちにこだわるハングリー精神を持った外国人とそれを押さえられない若い親方の指導力不足の結果、起こった事件」と知ったかぶりで言っていましたが、もともと見せ物芸プロレスの中継で売れっ子になり、求道者のスポーツ・マラソン中継すらプロレス的にしか報道できず批判を浴びた男が何を偉そうに言っているんだと突っ込みたくなりましたが、それは置いておくとしても、ひどく偏ったコメントだと思います。千代大海は日本人で、親方は私や古舘伊知郎とほぼ同年齢の元横綱千代の富士の九重親方です。外国人だからとか、若い親方だからだとかいう問題ではないと思います。フェアにするなら、千代大海にも1日ぐらいの出場停止という罰を与えるべきでした。もうひとつは、今日のニュースでやっていたのですが、神戸大学の4年生が和歌山の小6の少女2人とインターネットの出会い系サイトで知り合い、お金を渡していかがわしい行為をしたことで逮捕されたという事件です。児童買春法という法律があるようなので、ばれてしまった大学生が逮捕されるのは仕方がないのかもしれませんが、小6少女たちは罰せられないのでしょうか?大学生と小学生の間では、明らかに経済取引が成立していたはずです。どうニュースを聞いても無理強いしたとは聞こえませんでした。ならば、金をもらってそういう行為をさせた小6少女も逮捕して少年院にでも入れるべきではないでしょうか。悪いのは、大学生だけとは私にはとうてい思えません。子どもであろうと女性であろうと犯罪の成立に同等の責任を持っていた人間には、ちゃんと責任を取らせるべきです。こんな片手落ちの罰の与え方はおかしいと思います。

〔追記(2006.7.21):昨日のニュースで、元宮内庁長官のメモが公開され、昭和天皇がA級戦犯が靖国神社に合祀されたことを不快に思っていたことが明らかになったと大々的に報道していましたが、いろいろ疑問を感じます。まず、信頼していたであろう人間の前だから愚痴のように言ってしまったことが、こうして漏洩していいのかという点が第1点です。秘密を守るのが側近の役目ではないでしょうか。たとえ、死後であろうと、明らかに政治的影響力を持つ発言がこういう形で公開されるのは、信義にもとる行為だと思います。第2に、より重要な問題だと思いますが、昭和天皇が自己批判を忘れてA級戦犯を批判することにアンフェアさを感じます。みんなそこは触れてはいけないこととして最近のマスメディアは一切触れませんが、戦前の政治体制は、天皇が主権者だったのです。戦争を詔勅で終わらせることができたように、戦争の開始も天皇の承認なしではできないことだったのです。積極的な意思が昭和天皇にどれほどあったかは問題ではなく、政治体制上最大の責任を取らなければならない立場にいたのが昭和天皇なのは明らかです。歴史をひもといてみても、国がぼろぼろになるほどの敗戦を喫したときに、その体制の最高責任者が一切の責任を問われないなどということはなかったと思います。昭和20年の日本は世界史上唯一の特異なケースです。日本の占領統治を任されたアメリカの政治的判断で、昭和天皇は責任を免れただけで、常識的に言えば、最高の戦犯だったはずです。もともと「東京裁判」は国際法上おかしなことばかりですから、そこで戦犯とされた人だけが悪者で、されなかった人は何の罪もない人などという考え方はおかしな考え方なのですが、とりあえず無謀な戦争を開始し、戦争に負けたこと、多くの国民の命を失わせたことの責任は、何と言っても天皇がいの一番にとるべきものだったはずです。アメリカの政治的計算の結果、特別配慮で戦犯にされなかったことを、昭和天皇は一体どれほど自覚していたのだろうかと、今回の報道で改めて感じてしまいました。もうひとつフェアでないと言えば、今回のような発言が残されているなら、昭和天皇の人物評価に関する発言は他にももっとたくさんあるはずだと思いますが、そういうものが出てこないことです。三国同盟を進めた松岡洋右や白鳥敏夫のことは戦時中から嫌いだったというのは有名な話ですが、他方東条英機のことは信頼していたというのも定説です。今回のような発言のメモがあるなら、「東条はいい奴だった」と言った発言もきっとしているはずだと思います。何だか時期から見ても、今回のメモの公開には政治的意図を感じます。こんな形で天皇の発言を政治的に利用していいのかと、誰もクレームをつけようとしないというのがおおいに疑問です。日本は「象徴天皇制」で、天皇は政治には関わってはいけないはずです。これではまるで「立憲君主制」です。天皇が合祀を嫌がっていたから分祀しなければいけないなんて議論の起こし方は、本来やってはいけないはずです。昭和天皇は「現人神」として絶対権力者だった時期を20年間経験しているので、自分の気持ちの中で切り替えができていなかったのかもしれません。(たぶんできていなかったでしょう。)今回の発言内容でも、全員を自分の部下として見るような見方での発言になっています。たぶん今の天皇はたとえ側近の前でも、こうした発言はしないのではないかと思いますが、もしもこういう天皇発言の政治的利用が当たり前に行われるようになるなら、天皇制そのものから見直した方がいいように思います。

208号(2006.7.15)友人中毒?!

 時々学生たちの話を聞いていると、友だちとの関係が人生のすべてとでも言いそうな勢いの子がいるなと感じます。確かに、友人は大切な存在だと思いますが、友人関係で自分の存在が意味のあるものになるかどうかが決まるわけではないと思います。自分自身が何かをなしうる人間になることがより大切で、そういう人間になれば、自ずと人脈もまた広がるというのが従来の一般的な考え方でした。しかし、携帯とmixiの普及で、友だちとの連絡に自由時間の大半を使いきることで充実感を得ている若い人たちがかなり出てきているようです。それはまるで「友人中毒」とでも呼びたくなるほどです。そこで、自分の友人中毒度をはかる診断テストを考えてみましたので、よかったらやってみてください。

★以下の項目のうち、あてはまるものすべてに○をしてください。

1.携帯電話を家に忘れてきた日は、1日気になって仕方がない。

2.携帯電話は常に電源を入れておきたい。

3.携帯電話は常に見えるところに置いておきたい。

4.携帯メールは授業(仕事)中でもチェックしたい。

5.授業(仕事)中に携帯のチェックができなかったときは、休憩時間になったらまずチェックをする。

6.1日平均1時間以上は携帯をメールや電話として使用している。

7.携帯には頻繁にメールが届いてほしい。

8.暇な時間があれば、友人と遊びたい。

9.友人は多ければ多いほどいいと思う。

10.友人にどう思われているかがとても気になる。

11.外では食事は1人で食べたくない。

12.友人と一緒にトイレに行くことがよくある。

13.一人旅は寂しそうなので自分にはできそうもない。

14.自分のしたくないことでも、友人がしたいことなら一緒にやることがよくある。

15.友人がいない人生は意味がないと思う。

 さて、いかがでしたか?まだこのテストを受けてくれた人のデータ数が少ないし、年齢、世代、社会的立場などによって評価は変わってくると思いますが、一応大学生の場合であれば、10個以上○がついた人が「友人中毒」、7〜9個は「友人中毒予備軍」、4〜6個は「一般人」、2〜3個は「マイペース人間」、0〜1個は「変わり者あるいは孤高の人」といった感じかなと思っています。10個以上の人ももちろん問題ですが、0〜1個の人も人間関係に難がありそうで逆にかなり問題かもしれません。データを増やしたいので、このテストをやってみた人は、できたらその結果をお知らせください。どんな実態があるのかよりたくさん知りたいと思っています。

207号(2006.6.30)人間観

 人間によって作られている社会を扱う学問では、どのような人間モデルを前提にするかで、まったく異なる理論が構築されることになります。経済学では、自らの利益を最大にするように行動選択をする「利己的人間(ホモ・エコノミクス)モデル」を前提にしていますし、パーソンズは自らに課せられた役割を遂行しようとする「役割人間(ホモ・ソシオロジクス)モデル」を前提に理論を構築しようとしました。社会学の場合は幅が広い(ディシプリンが確立していない?)ので、パーソンズのような過同調的な人間モデルが圧倒的に支持を受けているわけではなく、数理社会学などでは利己的人間モデルに近い合理的な人間モデルを前提にしていますし、私は役割を引き受けつつその中で自らの満足度を最大にするように行動選択をするという折衷的な人間(ホモ・ソシオエコノミクス)モデルを支持しています。

まるで「社会学を考える」に書いた方がいいような文章で書き出しましたが、もちろん、ここは「つらつら通信」です。今ここで何を語りたいのかと言えば、学問上の人間観ではなく、現実生活における人間観についてです。より具体的言えば、「人間性善説」と「人間性悪説」についてです。私は典型的な「人間性善説」派です。確かに世の中には悪い人もいるでしょうが、大多数の人は悪人ではないと思っています。そして、きっと多くの人は私と同じように「人間性善説」を支持しているとも信じています。しかし、時々「人間性悪説」派と思えるような発言をする人に出会うことあり、ひどくげんなりした気分にさせられます。「人間性悪説」の立場に立つ人の発言を聞いていると、私とはまったく逆にたまにはいい人もいるが、大多数は如何に楽にうまく手抜きできるかばかり考えているということになります。まあ、考えようによっては、自らの利益の最大化のみを行動基準とする「利己的人間モデル」というのは「人間性悪説」に近いものとも言えるかもしれません。そう考えれば、そちらの方が大多数ということになるのでしょう。でも、短期的な計算ではなく長期的な計算をしたときには、瞬間的に答えが出るその場での単純な損得計算の答えとは違う答えが出るのではないかと思っています。たとえば、他者の迷惑も顧みず自己利益のみを追い求めた場合、確実にその人は他者からの信頼を失い、次からは前と同じポジションには立てず、利益も得にくくなるでしょう。そうした長期的な利益も考えた場合、単純な「利己的人間」より、役割を踏まえた上でできることをやろうとする人間の方が結局得になるという判断ができるはずです。そしてそういう行動を取る人は決して悪い人ではないと思います。無償の奉仕などをできる人だけを「いい人」と思っているわけではありません。普通に他者に迷惑をかけずやるべきことをきちんとやろうと思っている人というのが、私の考える「いい人」です。そういう風に考えれば、大多数がそういう人間だと考えるのは、それほど無理なことではないとわかってもらえると思います。こうした「人間性善説」に立つことは、一般の人間関係においても大きな意味を持つと思いますが、人間を育てる仕事をしている親や教師にとってはより大きな意味を持つと思います。親が子を、教師が学生を「性悪説」で見るとき、ひたすら厳しくすることによって勉強させるという手段が選択されます。子どもの勉強部屋を「集中治療室」と呼び体罰も加えながら勉強させる、毎回出席を取ることで管理を強化し単位を与えないという脅しをかけることで勉強させようとするといったことが、当たり前のように行われるようになります。私は、しつけでも教育でも、頑張った方が長期的に見た場合、結局自分にとって得になるんだということを、人は理解できる存在だと信じてやっています。学ぶことは楽しい、知識を増やすことは楽しい、能力を高めることは楽しいということを、大多数の子ども学生もきっとわかってくれるようになると信じています。もしも少なからぬ学生が私語をして授業の妨げになっているとしたら、それは学生が悪いという以上に、自らの授業の提示の仕方がうまくないのだと考えなければならないと思っています。(極少数の場合は、学生の方に問題がある場合もあるとは思っていますが。)大多数の人は、罰や強制というムチによって育つのではなく、愛や楽しさというアメで育つものだという考え方が、しつけや教育に携わる者には必要だと思っています。究極の理想はムチ0で済ませることですが、これはやはり無理でしょうから、ムチ1,アメ9ぐらいで行けたら現実的には理想的かなと思っています。

206号(2006.6.24)銀行って……

 先日4回生ゼミ生から大手都市銀行の内定を断りに行ったら、1時間ほど銀行から責められたというメールをもらいました。その学生に迷惑がかかってはいけないので、メールはHPに掲載しませんでしたが、義憤にかられましたので、ここに書かせてもらいます。昨年あたりから就職状況はめっきり良くなり、今年は複数の内定をもらう学生もたくさん出ています。体はひとつですから、複数内定をもらった学生は結局ひとつを残してすべて断ることになるわけです。その中に銀行が入ったとしてもなんらおかしいことはないはずです。しかし、大手都市銀行は、自分のところは断られることはないと異様な自信を持っているようです。でも、銀行ってそんなにみんなが引きつけられると思えるほど立派な仕事なんですかねえ?勤務時間はきちんと守られているようですので、サービス残業だらけの他の仕事よりは、学生たちが就職先として優先したくなるのはわからなくはないですが、業務内容は要するに「金貸し」以外の何者でもないのではないでしょうか。「消費者金融」や「闇金」との違いは、利率と貸す相手ぐらいじゃないでしょうか。お金を集めるための利率は限りなくゼロに近くして、「貸し渋り」や「貸しはがし」を当たり前のように行い、危うくなったら政府が公的資金を出して助けてくれて、それで大幅な黒字になりましたと言われても、庶民感覚から言えば、納得できません。普通預金などしていたら、時間外でおろすのにかかる手数料で1年分の利子分などあっという間に飛んでしまいます。銀行に預けるぐらいならタンス預金しておいた方がましです。銀行に勤めていると「いいところにお勤めで……」と言われ、大銀行の頭取でも務めあげれば、まるで日本経済界を背負って立ってきた人間のような顔をしていますが、かつて日本の銀行が日本の経済を支えたなんて事実は一度としてないのではないかと思います。戦後復興期は繊維産業が、高度経済成長期は造船業や鉄鋼業、自動車産業といった重工業が、最近ではIT産業が支えてきたのであって、銀行はそうした経済状況を読んで儲かる企業に金を貸して儲けてきただけだと思います。バブル経済とその崩壊なんて、「やれ行け、ドンドン!」で土地や株の値段をつり上げた後、一気に手を引いていった銀行が主犯で起こした事態と言っても過言ではないでしょう。そうした銀行の総元締めにあたる日本銀行の総裁が、つい最近まで株で儲けていたというのも、多くの人が納得行かない感じを持つのも当然だと思います。日本国民はもう少し銀行に厳しい見方をした方がいいのではないかと思います。もっと利率を上げないなら、もう銀行にはお金を預けないという意思表示をする人がたくさん出てきた方がいいのではないかと思います。銀行にとって個別の個人預金者なんて法人預金者と比べたら一考だに値しない存在でしょうが、そんな個人預金者たちもまとまって世論を興せば、銀行も無視できなくなるでしょう。もちろん現代のような資本主義社会において銀行はないわけには行かないですし、末端の窓口で働いている行員の方々を非難するつもりはまったくありませんが、銀行業、特にその上層部の人たちには、自分たちの仕事はお金を動かすだけで儲けている虚業のようなものだということをもっと自覚して、あまりふんぞり返らずにいてほしいものだと思います。官僚もしばしば「公僕にすぎないのに偉そうにしすぎ」と言われます。銀行も官僚とともに、常に批判に晒される必要のある仕事だと思います。

205号(2006.6.24)独断的ジーコ・ジャパン評価

 ワールドカップドイツ大会の日本代表は、結局1分2敗で予選敗退という結果に終わりました。ジーコ監督ももうこれで契約は終わりですし、新監督が決まったら、選ばれるメンバーも相当変わるでしょう。4年間ほとんどの代表戦を見てきたジーコ・ジャパンについて語れるのはこれが最後の機会だと思いますので、最後に今回の出場メンバーの評価をしておきたいと思います。まず、GKからいきましょう。川口は以前にも書いたことがありますが、あの反射神経は世界でもトップクラスでしょう。今回も川口だったからこそ、途中までは試合になっていたという感じがします。ただ、オーストラリア戦の同点弾や失点には至らなかったもののブラジル戦のロナウドに抜かれてしまった場面など、相変わらず不用意な飛び出しがあるので、安定感という点では心配があります。まあでも、あれだけDFが1対1に弱ければ、川口が飛び出したくなる気持ちもわからなくはないですが。川口は2010年もレギュラーを張っている可能性はかなりあると思います。他方、この10年常に川口のライバルであった楢崎の方は、ハートが弱い印象があり、ここ一番でのスーパーファインセーブというのを見たことがありません。2010年にはもう不要でしょう。土肥は明るい雰囲気があるし、キーパーとしてもうまいと思うので、一度W杯の試合に出してあげたかったですね。強烈な印象を残す川口がいなければ、レギュラーになれていたのではないでしょうか。

 日本のDFは本当に弱いです。FWがだめだ、だめだと言われますが、実はDFの人材不足の方が深刻だと思います。ジーコ・ジャパンに選ばれていたメンバーでは、中澤だけでしょうね、使えるのは。その中澤ももうあと7〜8kg筋肉のついたがっちりした体になってほしいなと思います。そうしたら、2010年もいけるかもしれません。宮本の売りは頭脳です。しかし、W杯まで来ると、頭脳ではごまかせないですね。1対1の弱さ、高さへの弱さ、スピードの無さ、もう代表には不要でしょう。でも、いつの日か監督として戻ってきそうな気はします。坪井は足が速いというのが売りですが、いつもかわされて後ろから必死になって追いかけているような印象ばかりがあります。あと10kg太って1対1に強くなれば別ですが、今のままならもう代表に戻ることはないでしょう。茂庭はもう少し試してやってもよかった気がします。今回のメンバーでセンターバックを2枚にするなら、中澤と茂庭の組合せの方がよかったような気がします。

 MFは世界に通用する日本の財産と言われていますが、本当にそうでしょうか。確かに、中田ヒデのスタミナと身体バランスと精神力は確かに世界で間違いなく通用すると思いますが、他のMFはどうでしょうね?その中田ヒデにしても、自分の中でのパス・イメージが強すぎて、ミスパスをすることが非常に多く、チーム全体のバランスから見ると、必ずしも100%いい選手だとは言えないような気がします。もう少しミスパスをなくさないと、中田ヒデがチームにとって本当にプラスなのかどうかは難しい判断になると思います。海外でレギュラーを張れないのは、その辺の問題性をどのチームの監督も感じるからではないでしょうか。でも、彼のような選手は日本ではなかなか出てこないでしょうから、2010年も代表にいそうな気がします。中村はスタミナがなさすぎます。あの逆三角形の顔を見ていると、子どもの時からの食生活に問題があったのではないかという気がします。しっかり骨になるものを食べていたら、もっとエラが張り、あんな逆三角形の顔にはならないはずなのですが……。あと、フリーキックがうまいというなら、せめて半分はゴールの枠内に打ってほしいものです。今回は体調が悪かったという噂も出ていますが、十分働けないなら、むしろ他の選手に譲ってほしかったなと思います。あの体力のままなら、2010年にはもう不要です。福西は身体能力、バランス感覚がよく、私は高く評価しているのですが、今回は確かに目立った活躍をしていなかったですね。もう30歳ですし、2010年はないでしょうね。小笠原は、おとなしい優等生という感じで迫力がありません。守備も攻撃もいつも中途半端な印象を受けます。攻撃的なMFという重要なポジションを勤めるなら、すべてのボールは自分に渡せというぐらいの気力を見せてほしいところです。中田ヒデがいつでもパスの受けやすいところを見つけて動いているのに対し、小笠原はそういう動きが少ないため、ボールへの絡み方も少なくなってしまいます。2010年にはもう代表にはいないでしょう。稲本は時々いいパスカットをしますが、プレーの安定感がないので、不安な選手の一人です。ただ、あの体格は買いたいところです。もう少し技術が向上したら、2010年もやれるかもしれません。小野は下手になりましたね。オランダに行った頃が最盛期だったような気がします。意外に怪我をしやすく、怪我するたびにプレーの精度が落ちてきました。中田ヒデよりもはるかに正確なパスが出せるボールコントロールのうまい選手だったはずなのに、今や出るたびに不正確なキックばかりをしているような印象があります。もう復活は難しいのではないでしょうか。サントスは今回はましな方でしたね。もっとサントスのサイドが相手の攻撃の起点になるのではと思っていたので、意外に穴が目立ちませんでした。でも、守備は下手を通り越して何の意味もないマークになっていますし、攻撃はボールを一旦止めて抜こうとする、の繰り返しなので、高くは買えませんが。加地はジーコが唯一育てた選手と言ってもいいと思います。今回もまあよくやったと思います。攻撃ではサントスの左サイドより、起点になっていたように思います。スタミナの必要なポジションですので、2010年まで代表に残ることは難しいかもしれませんが、可能性はあると思います。中田浩二は存在感がうすかったですね。左サイド、ボランチ、DFとこなす器用な選手ですが、どこをやっても一流にはなれず、結局そこまでの選手なのかなという感じです。駒野はやはり加地と比べると、攻撃も守備も落ちますね。スピードも少し足りない気がしますので、今のままでは加地を追い抜けず、むしろこれから出てくるであろう若手(徳永など)に抜かれ、2010年は無理でしょう。遠藤は一度も出場できませんでしたが、いい選手だと思います。地味ですが、結構いいところで顔を出してきますし、パスも正確です。2010年はもう無理でしょうから、どうせ決勝Tに行けないなら、最後に遠藤を試合に出してあげたかったです。

 FWは言い尽くされていますが、本当に人材不足です。ハートの弱い柳沢、平均点以上のプレーはできない高原、気力はあるけれど技術のない巻、飛び出しはいいけれどドリブルによる突破はできない大黒と来ると、今回のメンバーでは玉田が一番ましだったような気がします。久保が元気なら、FWの柱になっていたはずなのに、とつい思ってしまった人は多かったのではないでしょうか。以上、もう2度とまとめて語ることはないジーコ・ジャパン・メンバーの独断的評価でした。

204号(2006.6.21)大阪の魅力

 4月以降ゼミなどで大阪のイメージについて議論する機会が何度かありました。そのたびに、吉本とタイガースに代表される庶民的な町という以外にこれといったものが挙がらず、高級感、オシャレ感、繊細さ等に欠けるため、大阪以外に住む人からは、あまり高い評価を受けないのだろうというところに議論が落ち着いてしまいます。経済も本社機能をどんどん東京に奪われ沈滞してきている、人口も神奈川県に抜かれ、長年保ってきたNO.2のポジションすら危うくなっているといったマイナスの話ばかり聞こえてきます。私はもともと大阪の人間ではなく、いまだに大阪弁もちゃんと使えず、大阪人アイデンティティを形成しているとは言い難い人間ですが、なんのかんの言って、もう23年以上大阪というところに住んでいますし、勤務先の関西大学は大阪のイメージをもろに受ける大学ですから、大阪の魅力について、もっと考えてみる必要があるかなと思いました。で、まずひとつ思いついたのが、「すべての道は大阪に通ず」とも言えるほどの大阪の交通の便利さです。関西では、京都、大阪、神戸が3都と言われますが、この中で真ん中にあり、どこに行くにも一番便利なのが大阪です。京都にも神戸にも普通電車で約30分程度で行けます。私は最近、神戸市立博物館で開催されたボストン美術館所蔵の浮世絵展と、京都国立近代美術館で開催された藤田嗣治展を見に行きましたが、大阪発で考えるので、どちらも近くでやっているという感覚で行けました。これが京都住まいなら浮世絵展は少し遠く感じたでしょうし、逆に神戸なら藤田嗣治展は少し遠く感じ、足を延ばすのが億劫と思う人も多いのではないかと思います。大阪から行きやすいのは、京都、神戸だけではありません。奈良にも和歌山にも姫路にも彦根にも伊勢にも1〜2時間程度で直通電車で行くことができます。つまり、関西地方あるいは近畿地方と呼ばれる範域をもっとも広く取っても、すべて大阪から直通で容易に行くことができるのです。この範域には、世界遺産が5つもあります。法隆寺地域、姫路城、古都京都、古都奈良、紀伊山地の霊場と参拝道です。原爆ドームと厳島神社を持つ広島にも新幹線を使えば1時間半強で行けますので、これもそう遠く感じません。東京からでは新幹線を使ってもこの時間内で行ける世界遺産は日光だけです。つまり、旅好きにとっては大阪を拠点とできるのは大きなメリットなのです。もう少し範域を広く取って考えてみても、大阪は日本の大動脈と言える「太平洋・瀬戸内海ベルト地帯」のほぼ中央に位置します。新大阪駅は東海道新幹線と山陽新幹線のターニングポイントであり、東京、博多どちらへも2時間半前後で行けます。落ちたら確実に死が待っている飛行機などという恐ろしい乗り物に乗らずに、東京にも博多にも2時間半程度で行ける安全さと便利さを兼ね備えた大阪の位置は非常にありがたいなと、個人的にはしばしば感じています。北陸も四国も2時間半程度見ておけば十分行けますので、本当に便利な所だと思います。

次に、大阪の魅力としてあげたいのは敷居が低く、ちょっと暮らしたらすぐにみんな「大阪人」になれてしまうことです。京都では先祖代々住み、祇園祭にでも参加している人以外は、ずっと「よそ者」意識を持たされ続け、永遠に京都人になんてなれないのではないかと思っているようですし、東京でも「3代住まなければ江戸っ子と呼べない」と言います。まあ「江戸っ子」はさすがに滅びつつあるような気がしますが、それでも東京では、地方から出てきた人は「田舎者コンプレックス」を強く感じさせられるように思います。おそらく「京都人」も「東京人」もかなりのブランド力があるゆえに、自分もその一員でありたいけれど、そうなれていないのではというコンプレックスに悩まされることになるのだろうと思います。これに対して、「大阪人」というのは外部的にはブランド力はほとんどなく、そこにやってきた人たちも「大阪人でありたい」と思うことは、あまりありません。かく言う私も23年間も大阪に住みながら、「大阪人になりたい」なんて思ったことは一度もありません。でも、暮らしていると周りの人は、「あんたは大阪人ちゃうね」といった排除の見方などはほとんどされず、どちらかというと「大阪で暮らしているんやから、大阪人でいいんちゃうの?」という気楽な感じで受け入れてくれている気がします。下町気質というのはどこもそんなものかなとも思いますが、東京の下町などはまさに自分たちこそもともとの「江戸っ子」だと思っていたりしますので、簡単には仲間と認めてくれないような気がします。大阪のタレントとして有名な人も、奈良出身であったり、高知出身であったり、淡路島出身であったり、京都出身であったりと、実は本来は大阪人ではない人の方が圧倒的です。でも、大阪ってそんなことをあまり気にしないおおらかさを持っているように思います。「みんな大阪を拠点に活動しているんやから、大阪の人でいいんちゃう」といった雰囲気があります。言葉もまったく違うと違和感を与えるのでしょうが、なんとなく大阪弁っぽいしゃべり方というのは意外に簡単に修得できるようです。お笑いタレントが使う言葉が耳によく入ってくるので、「吉本風大阪弁」の修得がしやすいのだと思います。逆に言うと、今関西では全体が「吉本風大阪弁」に統一されつつあり、微妙な違いがどんどん薄れているような気がします。今大人気の倖田來未も京都出身と聞いていますが、ノリは完全に大阪風でしょう。関西以外では、彼女は大阪の人と思われている可能性は高いと思います。いずれにしろ、大阪は敷居が低く、すぐに仲間として受け入れてくれるという美徳を持っているのは確実だと思います。

最後に、この大阪の魅力とからめて関西大学の魅力を語っておきたいと思います。まず、大阪の交通が非常に便利であるというのは、そのまま関西大学の魅力になるでしょう。大阪の中心部梅田まで22分の関大前駅から歩いて数分でもう大学です。関関同立と並べられる他の私学はもちろん、国公立と比べてもこんなに交通至便な場所に広大なキャンパスを持つ大学は他にないのではないでしょうか。旅好きはもちろん、絵画好きも、音楽好きも、関大周辺に住めば、どこにも容易に行けて、たっぷり味わえるでしょう。次に、大阪の敷居の低さは、関大にもそのままあります。たぶんこの4月に地方から出てきた新入生も、今はもうすっかり「大阪人」(「関大人」?)になっているのではないでしょうか。関大の学生たちを見ていて、妙なブランド意識がなくていいなと思っています。もちろん、もっと大学名を誇れる大学にしてほしいという気持ちを持っている学生も多いかもしれませんが、高すぎるブランド大学名を背負うのも、それはそれで邪魔くさいものです。低くもなくものすごく高くもない、それなりのまあまあの大学だと思われているのは、生きやすくてちょうどよいように思います。京都も奈良も兵庫も和歌山もそして九州でも四国でも、関大に入ってしまえば、みんな「なんとなく大阪っぽい大学の一員」にあっという間になれてしまう、それが関西大学の大きな魅力のひとつだと思います。さて、最後の最後に、大阪には緑が少なく、ごちゃごちゃしているマイナスイメージがつきまとうようですが、これに関しては関西大学には当てはまらないということも付け加えておきたいと思います。梅田から20分ちょっという距離にありながら、関大のキャンパスは北摂千里の緑溢れる中にあり、ここにいる限り、大阪は緑が少ないといった印象はなくなると思います。国立民族博物館や大阪府立国際児童文学館、日本民芸館などを持つ万博記念公園もすぐ近くにありますし、「交通至便で緑と文化溢れる北摂千里の地に、若さと笑顔が溢れる関西大学」というのを売りにしてはどうかと思っていますが、いかがでしょうか?

203号(2006.6.19)ジーコはよい指導者だけど……

 ドイツW杯も2試合ずつがほぼ終わり、日本は1試合を残していますが、決勝トーナメントに進むには、最低でもブラジルを2点差以上で破らなければならないという絶体絶命の状態に追い込まれました。正直言って、99.9%の人が無理だろうなと思っているでしょうし、私もそう思っています。日本はまだ開催国特権を利用しなければ、決勝トーナメントに進むのは難しい実力しかないようです。欧米系選手との体格の差は如何ともしがたく、とりあえず体格的に負けない選手を集めないとW杯本番は勝ち抜けないでしょう。ドイツW杯が終わっていないのに、4年後を語るのは何ですが、とりあえず体格的に負けないDFと、8〜9割はゴールの枠内にシュートを打てるFWを育てないと、また同じことになりそうです。今回でも、中澤、松田、トゥーリオなどでDFを組ませてみたかったですね。宮本や坪井ではあまりにも弱々しく、相手FWに余裕を持たせてしまいます。強いDFが少ないのは日本人の肉体的問題ですが、よいFWが育たないのは、日本人の気質が影響しているような気がします。日本のFWは守備にも貢献的ですが、結果として走り回りすぎて疲労し、決定的場面でシュート・ミスを繰り返したり、失敗を怖れてシュートを打たなかったり、といった下手なパフォーマンスを繰り返しています。FWの仕事は点を取ることと割り切ってハーフラインから後ろに下がったらボールを追いかけないが、ハーフラインを越えてボールが出てきたら、一人ででもペナルティーエリアに持ち込むという、わがままだけどうまくて強いFWが育ってほしいものです。高さ的には、平山相太に期待したいところですが、気が弱そうな感じがするのが気になります。

 ところで、そんな弱い日本ですが、オーストラリア戦もクロアチア戦も、戦い方次第ではもっと勝ち点を取れていたように思います。選手交代をうまくやっていれば、オーストラリア戦は引き分けに、クロアチア戦は1点差の勝利という可能性もあったように思います。ジーコは選手を酷評しない、1回の失敗で評価を変えず長期的なパフォーマンスで評価するという人なので、ジーコに選ばれた選手は気持ちよくプレーできるだろうと思います。その意味でジーコはよい指導者、よい教師だと思います。しかし、実際の試合での選手交代を見ていると、現場の監督としては2流、3流だという気がしてなりません。オーストラリア戦での小野投入、クロアチア戦での稲本投入は、戦術としてはまったく理解不能です。小野のときは、柳沢との交代でしたから、巻にして、高さ対策をするというのがよかったのではないかという気がします。稲本に至っては福西との交代ですから、マイナスにしかならない交代です。福西は今のチームでは攻守のバランスを取る非常に重要な役割を果たしており、またスタミナも中田の次にある選手なので、なんで後半の頭から福西に変えて稲本を出さなければいけないのか、多くの人が首を傾げたと思います。あそこであんなカードを切らなければ、後半途中から完全にバテていた中村を交代させることもできたはずです。福西がいなくなったせいで、最後は中田が守りに忙殺されてしまいました。後半から出てきた稲本は途中から消えていました。サッカーに詳しいある人は、ジーコは選手の格とプライドを考えて交代要員を使っているのではないかと解釈をしていますが、一理あるような気がします。選手を、試合に勝つための駒としてではなく、人として見るというのが、温情派ジーコ流なのかもしれません。また、2戦とも大黒を投入していますが、素人目で見ても遅すぎますよね。高原がどちらの試合でも後半残り15分くらいはまったく動けなくなっているのに、最後の5分まで出し続けるのですから。こんなに高原を引っ張り大黒投入が遅れるのは、たぶんW杯直前のドイツとの親善試合での「神憑り」のような高原の2発がジーコの脳裏に焼き付いているからでしょう。巻ではなく、玉田や大黒を出すのも、アジアカップや北朝鮮戦の2人のゴールが、ジーコに強い印象を残しているからでしょう。選手を育てる指導者は温情派でもいいと思いますが、戦術を決める監督は時として非情で合理的であるべきだと思います。その意味で、オーストラリアのヒディングはまさに名監督なのだと思います。2回連続ベスト4、もしかすると今回もまた行くかもしれないというところまでもってきているのは、彼のまさに巧みな戦術の結果でしょう。もちろん、切り替えさえできれば、良き指導者で良き監督たりうる人もいるはずです。ドイツW杯の後は、日本でもそんな人に監督をやってもらいたいものです。

202号(2006.6.15)嫌ミクシィ

 昨年あたりから、ゼミで公式行事をやった後に私の所に届く感想が随分減った気がします。みんな気持ちを表現するのが苦手になったのかなと思ったりもしていましたが、どうやらミクシィの普及のせいのようです。ゼミ生同士はミクシィでつながっていて、誰かが日記を書き、それにコメントをすることで、ゼミ生同士の間では感想が交換されているのでしょう。ミクシィが流行る以前は、私宛に幹事さんへの感謝も含めた感想メールが届いていて、私も学生たちがどう受け止めたかを知ることができたのですが、ミクシィ時代になると、教師は「ツンボ桟敷」(差別語だと思いますが、適当な代替語を知らないので、お許し下さい)に置かれ、学生の受け止め方がわからなくなります。もちろん、私がミクシィに招待してもらって、そこで感想を知るという手もあるかもしれませんが、教師にいつも日記を読まれると思ったら、学生さんも嫌じゃないですか?できれば、ミクシィではない形で感想を聞きたいものです。私にとって、ゼミ行事も教育の一環なので、それに対する感想が戻ってこないと、次への意欲がおおいに減退します。もしも、こういう形が一般化するなら、「学遊究友」もいずれ崩壊し、教室での授業だけになってしまうかもしれません。同じような内容を遠回しに書いた「第179号 思いを伝える大切さ」程度の文章でわかってほしかったのですが、もっとストレートに伝えないとわからないのかもしれないと思い、愚痴っぽいですが書かせてもらいました。

201号(2006.5.28)ボクはまだまだ進化する

 最近お知り合いになった野村一夫さんが送って下さった『未熟者の天下――大人はどこに消えた?』(青春出版社)という本を読みながら、昨年50歳を迎えてからずっと思っていた「半世紀も生きてきたのに、なんでこんなに未熟者なのだろう」という疑問に対する答えが見つかったような気がしました。野村さんと私は同じ歳なのですが、野村さんも自ら未熟だと述べ、しかし「大人像」は時代とともに変化するものであり、昔の「大人像」に合わない人が増えているからと言って、「大人」になれていない人間ばかりだと考える必要はないのではないかと問いかけています。私もかつて「「新人類」は今――「大人」になりきれない若者たち――」(『関西大学社会学部紀要』第28巻第1号,111-142頁,1996年)という論文で、古い「大人像」を利用したことがあります。その頃は40歳を過ぎたばかりで、妻も子どももいて経済的にもちゃんと稼いでいるから、自分は「大人」の範疇だろうと単純に思っていたような気がします。しかし、50歳を過ぎてからずっと感じていたのは、「おかしいなあ。50歳と言えば、もっと風格もあり、精神的にも安定して、まさに完成した熟年という感じになっていなきゃいけないはずなのに……」というイメージと実態のギャップでした。学生たちが「先生は若いですよ」とプラスイメージで言ってくれる言葉も、時として「ガキっぽいってことでもあるよな」とか、ちょっと悩んでみたり……。でも、半世紀プラス1年で突然悟りました。人間って死ぬまで完成なんかしないんではないかということに。個人的には「大人」なのか「若者(ガキ?)」なのかなんて、もうどうでもいい気がしてきました。(ただし、社会的にはたぶんどうでもよいことではなく、野村さんの本のような現代社会で要請される「大人像」とは、といった問いは大事だと思います。)で、さらに思ったことが、完成しないってことは、ずっと進化し続けられるじゃないかってことです。さすがに半世紀も生きてくると、老眼になり髪は薄くなり、記憶力は悪くなりという、いわゆる「老化現象」がいろいろと表れ、人生の退行期に入ったように言われますが、必ずしもそうではないのではないでしょうか。多少記憶力が悪くなったって、脳が働いている間は常に新しい知識と経験を内面化し続けることができ、それは個々の人間にとっては進化と呼べるのではないでしょうか。また、これといった刺激的なことがない平凡な1日を幸せと実感できる感性が身に付くことも人間としては進化ではないでしょうか。読んでいないのでよく知らないのですが、少し前に流行した「老人力」も似たような指摘をしていたのかもしれません。ただ、私はよりポジティヴに「人は死ぬまで進化する」と言い切ってしまいたいと思います。たとえ呆けて一般的な知識を新たにインプットできなくなったとしても、悩んだり落ち込んだりというのは呆けていく過程では強く出るとしても、完全に呆けてしまったらなくなるのではないでしょうか。それって、見方によってはストレスなく幸せに生きるための進化と見ることもできるかもしれません。(まあ、個人的にはあまり呆けたくはないですが。)いずれにしろ、いつまで経っても完成した人間になったという実感が持てないのは当然のことで、深く悩む必要はないのだと思います。ということで、「ボク」はまだまだ進化し続けますので、関係の皆さん、そのつもりでついてきてくださいね。

200号(2006.5.22)点的知識を線的・面的理解へ

 Googleの活用本を読みながら、「すごいなあ。今はインターネットに繋がっていたら、何でも簡単に調べることができるなあ」と改めて感心してしまいました。『ウィキペディア(Wikipedia)』.という百科事典もありますし、昔なら調べるのに手間がかかったことが、デスクの前にいてあっという間に調べられます。携帯電話の検索機能もどんどん進化しているようですし、いずれ知りたいことは、なんでもどこにいてもすぐ調べられるようになりそうです。このようにより短時間で簡単に調べられる時代になったわけですから、昔よりみんな知識が豊富になっていてもいいはずです。でも、なぜかそんな気がしません。なぜなのだろうかと考えていたのですが、知識が点になっていてつながっていないということではないでしょうか。英語でも辞書で単語の意味が調べられるからと言って、それだけで英語が理解できるわけでないように、様々な知識もその意味がわかっただけでは、十分理解できたことにはなりません。たとえば、「左翼」という言葉を理解するためには、政治史をはじめとして様々な歴史に関する知識が必要です。個別に得た知識を関連する様々な知識と結び合わせることで、知りたい事象の歴史や原因、影響などが総合的に理解できるのです。それは比喩的に言えば、点的知識を線的、そして面的に理解するということなのではないかと思います。面として(=総合的に)理解できたとき、はじめてその事象についてわかったと思えるのです。こうした理解ができるようになるためには、たくさんの知識が必要です。しかし、やみくもに知識を集めてもつながらないでしょうから、得た知識の中に気になる言葉を見つけたら、それを芋づる式に調べていくというのが、ひとつの知識の増やし方でしょう(英語で言えば、類義語や関連語に関する語彙を増やすことに当たるでしょう)。また、歴史的知識――特に近現代史――はすべての基礎になりますので、通史を知ることも必要です(「ギリシア・ローマ神話」「キリスト教」「シェークスピア」)。あとは、社会学的因果連関(社会的要因の関連)を把握する力(英文法)を持てば、面的理解は決して手の届かないものではなくなると思います。関連づけ整理してインプットされた知識は、次の場面では自分の武器として使えるようになります。「トリビアの泉」という番組を私が高く評価しないのは、あそこで紹介される知識は確かにおもしろくつい人に話したくなるようなものが多いですが、ひとつひとつがまったくつながっていないためだと思います。書店でも最近は「つい人に話したくなる豆知識」といった「トリビアの泉」的な本がしばしば目につきます。こうした番組や書籍の潜在的逆機能として、知識なんてそんな断片的なものでいいんだと思う人をたくさん生み出しているのではないかということも気になります。

199号(2006.5.5)阪急宝塚県――主観的住民アイデンティティ――

 地元民以外にはわかりにくい話かと思いますが、以前から、豊中、箕面、池田の市民――特に生まれた時から住んでいる人たち――って、大阪府民としてよりも、兵庫県の宝塚市民などと同じグループに属する住民だというアイデンティティを持っているような気がしてなりません。そのアイデンティティの根拠となっているのは、阪急宝塚線の存在です。関西一おしゃれなイメージのある阪急電鉄の原点は、箕面有馬鉄道として出発した宝塚線(+箕面線)沿線の地域、すなわち自分たちの住む地域だという自負を彼らの多くが持っています。私は豊中に隣接する吹田市に住んでいますが、ともに千里ニュータウンを形成するこの2市の間にずいぶん距離があるように感じます。高校の学区が分かれているのも影響しているように思いますが、やはり同じ阪急沿線でももともと阪急ではなかった京都線や千里線沿線と阪急の本家・宝塚線沿線では文化が違うと思いたがっている人が豊中市民に多いように思います。吹田は茨木や高槻と同じグループという扱いでしょう。豊中、箕面、池田、伊丹、宝塚、西宮あたりで、「(阪急)宝塚県」を作りましょうという運動が起きたら、豊中、箕面、池田市民の過半数は間違いなく賛成するのではないでしょうか。昨年、『バカ日本地図』という主観的に描かれた日本地図を集めた本が売れたようですが、あれほどひどくなくても主観的な境界区分としては、「阪急宝塚県」も確かに存在しているように思います。芦屋と六甲山の南側部分の神戸市も入れた「神戸宝塚県」という形でもいいのかもしれません。しかし、吹田市民もそれなりにプライドは高く、南大阪の方は全然別の地域と思っている人も多いので、吹田、茨木、高槻などで「北摂県」にするという案なら乗るかもしれません。残りの大阪府は、大阪市と兵庫県なのになぜか市外局番が大阪の06である尼崎市によって形成される「なにわ県」と、京阪・近鉄・南海沿線の「河内和泉県」に分かれるという感じでしょうか。

198号(2006.4.30)朝日新聞は変わり始めたのか?

 今朝の朝日新聞に「歴史と向き合う 第1部 東京裁判60年」という記事が掲載されていましたが、内容を読んで、ちょっとびっくりしました。というのは、「東京裁判」の問題点が冷静に紹介されていたからです。朝日新聞は自他ともに認める日本を代表するマスメディアです。販売部数は読売新聞を下回り第2位ですが、知識人を含む社会の上層部をなすと思っている人々の間での購読率はおそらくダントツで高い新聞です。(最近は受験シーズンになるたびに、朝日新聞は大学入試問題での引用率の高さを宣伝していますが、これも出題者である大学教員に購読者が圧倒的に多いことの証左になるでしょう。)それゆえ、社会的影響力は、読売新聞を含めた他の新聞よりもはるかに高いのです。しかし、その主張は大分偏りを持っていました。第2次世界大戦中に、政府に都合のよい報道だけをして戦争に加担してしまったことを反省してなのか、戦後は基本的に反政府的――反国家的――であることを、自らのスタンスとして紙面作りをしてきたため、やや左寄りの革新的立場をとってきました。それでも、日本政府が経済成長ばかり追い求めていた時代には、そんな朝日新聞のスタンスは「進歩的」で、権力を持たない多くの国民(=弱者)の代弁者として、重要な役割を果たしてきたと言えます。(公害問題の被害者の立場に立った報道などをその典型だったでしょう。)しかし、国民に豊かさが広く浸透し、勤勉努力の価値観が弱まり、男女間の力関係も変わり、国のことを考える人々が激減する中で、従来のスタンスをとり続ける朝日新聞は、時代に合っていない主張を続けるイデオロギー色の濃い新聞だという印象が強まってきていました。(小林よしのりが「左翼」ではなく「サヨク」と揶揄したのは、まさにこういう朝日新聞のスタンスだったわけです。)特に「戦争」「平和」に関連することには非常に単純な色分けをして、「日の丸掲揚」「君が代斉唱」「靖国神社参拝」などは、そういうことをしただけで、戦争に加担する行為だと言わんばかりの勢いで批判してきたものです。当然のことながら、「東京裁判」は本当に正統な裁判だったのかなどという問いかけは、産経新聞や読売新聞紙上では見かけても、朝日新聞紙上で見かけることなど、ついぞありませんでした。それが、今朝の朝日新聞には非常にバランスのよい(というより、どちらかと言えば「東京裁判」には正統性はなかったと読めるような)記事が掲載されたのです。私がかなりびっくりするのも当然でしょう。

朝日新聞は変わり始めているのかもしれません。実は数年前から妙に朝日はスポーツ面を増したなと思っていました。土日のようにスポーツ・イベントの多い翌朝の新聞は、真ん中の6面くらいがスポーツ欄になっていることがよくあります。長いこと、朝日のスポーツ欄は後ろの方の2面だけという印象を持ってきた昔からの読者からすると、これじゃまるでスポーツ新聞じゃないかという印象まで持ってしまうほどです。小難しいことを書いても読者を獲得できない、スポーツ面の充実こそが、読者獲得の最大の戦略と考えたのかもしれないなと密かに思っていました。そして、今回のある種の政治的立場の変更です。朝日特有の「やや左寄り」を捨て、大衆の意識に合わせていこうとし始めているのかもしれません。ただ、社説などでは「愛国心」について相も変わらず批判的な論説を展開していますので、今は朝日新聞の中で両方の立場が拮抗している時期なのかもしれません。社説などはベテランしか書かないと思いますので、世代間闘争なのかもしれません。大学紛争の中心的担い手世代だったベビーブーマー(1947〜49生まれ)が、今新聞社の最ベテラン層を形成しているはずです。彼らが来年以降次々に定年退職になり、5年、10年と経てば、朝日新聞の政治的立場は大きく変わっている(偏りがなくなっている)という日が来るような気がしています。

197号(2006.4.23)関西TVワールド三国志物語

ちょっと遊んでみます。

 関西のTV世界は3人の王が鼎立した状態が長く続いている。その3人とは、あかしや王国のサンマ大王、かみぬま王国のエミー女王、やしき王国のタカジン老王である。3者は微妙な力関係を保っており、相互にほとんど攻撃し合うことはないが、強く意識し合っている。その領土の拡大縮小は半年に一度行われるTVワールド再編期に確定するが、3王とも圧倒的な力を持っており、領土が拡大することはあっても縮小することはほとんどない。その余波で3王国に属さない小王国がしばしば消えていく。あかしや王国のサンマ大王は、東京TV帝国にも広大な領土を保有しており、2つの異なる地域の王国を支配するために、これ以上関西TVワールドに固有の領土を拡大することは困難な状況である。ただし、東京TV帝国自体が関西TVワールドを実効支配する割合が高まっているため、そのことに気づいていない関西TVワールドの民から見れば、あかしや王国はもっとも資源の豊かな19番川から21番川あたりのかなりの領土を支配しているように見え、もっとも勢力が強く見える。しかし、関西TVワールドの固有の領土部分(11番川から15番川あたりと23番川以降あたり)ではかみぬま王国ややしき王国の方が豊かな資源を確保している。サンマ大王とエミー女王の国家運営方針はよく似ており、非常に独裁的である。ともに王自身の能力が高いため、知者は必要とせず、周りに自分をおだて上げてくれる家来のみを侍らせ、自分自身がすべてを仕切っていくという運営の仕方である。もちろん、両王国に通じる家来などはおらず、両王国はまったくの没交渉である。多少両王の違いを指摘するなら、サンマ大王はしばしば民(特に若い女性の民)を王宮に呼び民自身との交流を図ることで、自らの親しみやすさを演出するのに対し、エミー女王は民を王宮に呼ぶことは決してせず、料理の腕前や女王の夫の母の話をするなどして、民と同じ生活をしていると見せることで、民の信頼を得ようとしていることがあげられよう。なお、サンマ大王は東京TV帝国にも1,2を争う領土を持ち、東京TV帝国の小領主などがあかしや王国に朝貢にしばしばやってくるため、非常に繁栄しているように見える。やしき王国のタカジン老王は、老王だけあって人材の生かし方がうまいのが特徴である。時には、サンマ大王やエミー女王と同様、道化師ばかりを集めて尊大な王として振る舞うこともあるが、異なる状況では多くの知者を集め、その話に耳を傾ける。やしき王国も王に忠誠を誓う忠実な家来が中心だが、比較的境界はゆるやかで、しばしばあかしや王国やかみぬま王国の専属道化師が呼ばれることもある。あかしや王国とかみぬま王国の間にある高い壁は、やしき王国と他の2王国との間にはないようだ。この3国以外に注目すべき人物として、しまだ王国のシンスケ王がいるが、彼はその配下の家来たちを見る限り、もはや関西TVワールドの王というより、東京TV帝国の王と位置づけられるであろう。最後に、今後の関西TVワールドの勢力予想だが、3王が元気でいる間は、大きな勢力変化はないであろう。変化が起こるとしたら、3王のいずれかが病などで倒れた場合のみであろう。年齢も上でかなりの酒好きのタカジン老王がダウンする危険度が一番高そうだ。この3国鼎立時代が終わった後、関西TVワールドにどのような時代が来るのかは、3王の力が圧倒的である今現在において予測することは困難である。新たな大王国ができるのか、それとも小国の分散になるのか。10年後には、勢力図も大分変わっているのではないかと思うのだが、すでに3王は10数年勢力を保っているので、元気であれば10年後も勢力図は変わっていないかもしれない。

196号(2006.4.15)「太田光の私が総理大臣になったら……」

 この4月から始まった番組でちょっとおもしろいなと思っているのが、「太田光の私が総理大臣になったら……」という日本テレビの番組です。「爆笑問題」の太田光が毎回様々な提案をし、それをゲストが審議し採決するという番組です。一応バラエティなので、提案自体は現実味のないもの(例:「アメリカと1年間国交断絶する」、「総理大臣の資格テストを行う」、「ITの掲示板の書き込みは1文字100円とする」など)になっていますが、太田光の提案理由を聞いていると、問題認識自体はいいところをついているなと思います。「アメリカと1年間国交断絶する」という提案は、今日本があまりにもアメリカの言いなりになっていることを問題視したものです。実際今も沖縄の海兵隊基地をグアムに移すための費用を出せという要求をアメリカはしてきています。他人の家に土足で入り込んでいた人間に自分の家に帰ってもらうのに、家を造るための費用を出せと言われているようなものです。まるで「盗人に追い銭」です。にもかかわらず日本政府は毅然と「そんなものは出さない!」と言えずに「もう少し金額を安くしてくれないか」と交渉しているというのが現状です。国交断絶は行き過ぎだとしても日米安保条約の破棄ぐらいは真剣に考えていいと私も思っています。

「総理大臣の資格テストを行う」は、小泉首相の「ワンフレーズ政治」に対する批判として考え出されたもので、もっとちゃんと説明責任を果たせる政治家に総理大臣をやってもらいたいというのが提案理由でした。この審議の時に「常識テスト」が出演者に対して行われたのですが、そこで甘利明という労働大臣もやったことのある自民党衆議院議員と、山本一太という小泉・安部の応援団長を自認するスピッツのようにうるさい自民党参議院議員が2人そろって、イラクの地理的位置と、橋本龍太郎より前の総理大臣を知らないという無知をさらけ出したため、なんとこの提案は可決されてしまいました。無知を装って笑いを取ろうとするタレントじゃあるまいし、その程度の常識もない政治家が「小泉首相はすばらしい!自民党は変わった!次は安倍晋三以外にない!」と叫んでいるかと思うと、底の浅さが丸見えという感じで、おそらく情報操作にたけている世耕弘成自民党広報本部長は真っ青になったことでしょう。世耕弘成は賢いですから、「自民党のマイナスイメージなるからああいうテストは受けるな」といった指示や、山本一太はあの番組ではマイナスイメージを与えるので、もう出演するなという指示をもう出したかもしれません。今後も山本一太があの番組に出演し続けるかどうかが来週以降の楽しみになりました。

「ITの掲示板の書き込みは1文字100円とする」という提案は、匿名で書き込める掲示板であまりにもひどい書き込みがなされていることに対する対処方法として考え出されたものです。この提案も善意の書き込みをもしにくくさせてしまうからという理由でもちろん却下されましたが、匿名での悪意に満ちた書き込みは本当になんとかならないものかと私も思います。批判したいことがあれば批判したらいいと思いますが、やはり言動には責任をとってもらわないといけません。批判したければ実名で堂々と書くべきだと思います。匿名性に逃げ込んで発言をしている人は卑怯だと思います。1文字100円というのは良い案ではありませんが、将来は国民総背番号制でも導入してITの掲示板で書き込みをする際は、国民番号での確認を必ず済ませた上でのみ可能という形にでもすべきではないかと思います。「国民総背番号制」なんて言うと、日本では国民を管理するのかという批判がすぐ湧き起こりますが、すでにわれわれはいろいろな番号(学生証番号、職員証番号、保険証番号、免許証番号、パスポート番号、etc.)を付与されて管理されているのですし、国に保護してもらいたいと思うなら、ある程度の管理下に置かれるのは当然のことでしょう。管理されるのは一切拒否するけれど、保護だけはしてほしいというのは無理な話です。話がちょっと横道にそれてしまいましたが、いずれにしろ匿名性に隠れて悪意に満ちた発言をIT上に垂れ流しすることに関しては、何らかの手だては打つべきではないかと私も思います。日本人はディベートに弱いとよく言われますが、そうしたところを直していくためにも、自らを隠さずに主張をするというトレーニングを積むべきです。匿名なら言いたいことが言えるが、実名では何も言えないという日本人だらけになってしまっては、これからの国際社会で日本人はますますその存在感を薄めていくことでしょう。

195号(2006.4.9)驚きのソウル――生活・風俗篇――

 ソウルで一番驚いたのは、トイレで使用したトイレットペーパーを流さずに据え付けのゴミ箱(フタ無し)に捨てなければならないということでした。(しかし個人的には心理的抵抗が強く流してしまいましたが。)知り合いの話では、下水管が細くみんなが流してしまうと、下水管が詰まってしまうのだそうです。韓国人のガイドさんは事も無げに「文化の違いです」と言っていましたが、新しくできた仁川空港のトイレの個室にはゴミ箱が据え付けられてはいませんでした。ここは流しても大丈夫な下水管を設置したのでしょう。文化の違いというより、水洗トイレの普及に、ソウルの街中がまだ対応し切れていないということだと思います。まあ、日本もつい最近まで都会でもボットン便所がそこここにあったのですから、50歩、100歩かもしれませんが。(ああでも、ソウルの古い町並みを探しながら歩いていた際に、破れた黒いビニール袋から人糞らしきものが覗いていたのを道端で見てしまった時は、やはりちょっと愕然としました。)

さて話題を変えましょう。ソウルの街中には、屋台がとても多いです。中には靴を売る屋台なんかもあります。ぱっと見た感じはきれいなパンプスなども屋台で売っていたりします。ちょっと日本では見られない光景ではないでしょうか。屋台の中心はやはり何と言っても食べ物です。「おでん」という名の串に刺した魚の練り物らしき食べ物(結局食べていないので味はわからないのですが、スープは確かにおでんのスープのようでした)、ミニたい焼きらしきもの、げんこつドーナツのようなもの、サツマイモのフライドポテトのようなもの、細巻き寿司のようなもの、もちろんチヂミやトッポギもありますし、干したタコやイカも売っていました。これをソウルの人たちは買い屋台を囲むようにして立ち食いをしています。きれいにしている若い女性なども屋台で立ち食いをしていたりしていて、なかなかおもしろい光景でした。そして、屋台が多い分だけ、ファーストフード店は少ないようでした。

食事と言えば、取り皿や取り箸がないのも、日本人からすると、かなり違和感のある食べ方でした。一度韓定食を食べに行ったのですが、テーブルいっぱいに出てきたシェアする料理に取り皿や取り箸がなく、とても食べにくく感じました。スープものでも、自分のスプーンを突っ込んですくい、そのまま口に運びます。日本でも鍋は取り箸なしで食べますが、取り皿はありますし、スプーンを突っ込んでそのまま飲むといったことはまずしないはずです。これこそ「文化の違い」なのかもしれませんが、ちょっと抵抗を感じました。焼き肉はやはりそれなりにおいしかったですが、タレは日本の方が繊細でおいしように感じました。まあこれは慣れの問題かもしれません。お肉以外はおかわりし放題というシステムは、日本人にはお得に感じられました。(逆に、韓国の人が日本の焼肉店に行くと、キムチやサラダで別料金を取るのがおかしいと感じるそうです。)

 若い女性のファッションも微妙に日本の女性たちとは違います。まず髪の毛はほとんどの人が長い黒髪でした。韓国ではまだ長い黒髪が若い女性の魅力の表象になっているのだそうで、結婚したり歳をとってきたりすると、短くしてしまうそうです。次に、スカートがかなり多いのが目につきました。日本の若い女性の間では今やパンツルックが圧倒的多数派で、スカートはブーツのお伴という感じになっているような気がしますが、ソウルではパンプスにスカートという組合せの人がかなりいました。長い髪とともに女性らしさが、まだ古い形で維持されているようでした。(日本の女性もまだそんな価値観だった時代に青春を過ごした私のような世代にとっては、まさに「ストライク」でしたが。)肌がきれいなのも印象的でした。

 最後にお菓子について。いやあ、お菓子はすごいです。日本の有名なお菓子のそっくりさんだらけです(ex.カッパえびせん、ハイチュウ、ポッキーetc.)。まあ日本も昔はこんなことをたくさんやっていた(「探偵ナイトスクープ」で以前Coca ColaならぬCoga Colaを探せという依頼がありました)ようですから、あまり韓国のことも非難できないと思いますが、ただ真似されているお菓子が日本のものばかりで、アメリカやヨーロッパのものは、真似せず本物を輸入しているのを見ると、日本に対する韓国の特殊な対応を嫌がおうにも感じてしまいました。

194号(2006.4.9)初めてのソウル――交通篇――

 春休みに初めてソウルに行ってきました。これまで海外というとアメリカやヨーロッパなどしか行ったことがなく、アジアに行ってみたいと思っていたので、とりあえずその第一歩がようやく踏み出せました。いやあ実に興味深かったです。「百聞は一見にしかず」とはよく言ったものです。「韓流ブーム」やインターネットの普及などで、日本を超えたとまでは行かなくても追いついているのかもしれないという思いを持ちながら行ったのですが、やはりまだ韓国と日本との間には豊かさにやや差があるようです。中心部の交通渋滞がひどいのはどこの都会でも一緒かもしれませんが、ソウルではそれを抜けるためにバイクが歩道を走るという荒技を当たり前のように使います〔左写真参照〕。歩道を歩いていて、後ろからバイクにクラクションを鳴らされるという経験は、日本ではしたことがありません。そうしたバイクの多くが後部に山のように荷物をくくりつけて走っていました。(これは、昔、日本でもよく見たような気がします。)歩車分離ができていない細い道にも車が結構入ってくるので、私は怖かったのですが、ソウルの歩行者も車も慣れているのか、みんなあまり気にしていないようでした。車体に傷を持つ車や排気ガスをまき散らす車が多いことや、渋滞を抜けると路線バスすらものすごいスピードで走ったりするのも、今の日本ではあまり見ない光景かと思います。歩道はかなりでこぼこでしたし、広い道路はエスカレータもエレベータもない地下道を使って渡るところが多かったので、バリアフリーにはほど遠く、ハンディキャップを持った人が町を歩くのは困難を極めるだろうなと感じました。日本でも30年前はそんなものでしたから、ソウルもこれからどんどん変わっていくと思いますが。改めて、日本の都市は、随分改善されてきたんだということに気づかされました。しかし他方で、日本の都市がまだなしえていない川の上に造られていた高速道路を撤去し、市民のためのオープンスペースにした清渓川(チョンゲチョン)は、非常に好ましい空間となっていました〔右写真参照〕。小泉首相が「日本橋に青空を取り戻したい」と言ったのも、この清渓川改造計画にソウル市が成功したからでしょう。日本橋の話を初めて聞いたときは、無茶な計画のように思いましたが、今回清渓川を見て、やってみる価値はあるかもしれないなと思いました。

193号(2006.3.24)就職活動と左手薬指の指輪

 就職活動中の女子学生がリクルートスーツで左手薬指に指輪をしていたので、「それは面接の時はどうするの?」と聞いたら、「やっぱりはずします」という答えでした。そういう行動を取らなければならない社会は決してよいものではないと思いますが、自分をもっとも高く売り込みたいと思うときに、マイナスになる可能性のある要因を排除するのは当然の行動なのでしょう。左手薬指の指輪は大学生の場合は親密につき合っている異性がいることを示すものと解釈され、早々と結婚退職、あるいは出産退職をする可能性がある人とラベリングをされ、投資効果が確率的には低くなると判断される可能性があるということを女子学生諸君は漠然とながらも確かに実感しているのでしょう。でも、これって今の日本では女性のみに適用される基準ですよね?男子学生がもしも左手薬指に指輪をしていったら、人事担当者はどう解釈するでしょうか?女性とは逆に、早々と結婚したり、父親になることで、責任感を持って仕事をしてくれる、つまり投資効果は高い人間と判断されるのではないでしょうか。一緒にいた男子学生は「そうでしょうか……」と不審気でしたが、実際のところどうなんでしょうね。もちろん、就職活動の時には男女を問わず左手薬指に指輪はしないものだという常識が厳然としてあるなら、男子学生でも常識に従わない変わり者=組織に適応しにくい人という解釈はされる可能性があるかもしれません。誰か試しにやってみませんか?ああでも、そのせいで落とされたなんて言われたら困るので、あくまでも自己責任でお願いします。

192号(2006.3.5)哀れな民主党

 しばらく書いていなかったので、まとめていろいろ書いておきましょうか。ホリエモン逮捕。時代の寵児から容疑者へ。紀子さんが妊娠した途端に変わる皇室典範改正問題。トリノ・オリンピック。まったく盛り上がらなかったのが、荒川静香の金メダルで猫も杓子も「イナバウアー」。ホリエモンの時に、持ち上げたり引きずり落としたり、マスコミはおかしくないかと疑問を持った人も多かったと思いますが、金メダルというグッドニュースにはそんな気持ちはどこかへ行って、またもマスコミに踊らされて、みんなでラジオ体操状態。永田議員が騙されたからと言って別に国民にはたいしたマイナスがあるわけでもないのに、まるで極悪人扱い。喜んでいるのは、自民党史上最大のイエスマン幹事長。うーん、あまりに大衆社会。さて、こんな調子で書いていても「オッペケペー節」みたいになるだけですから、このぐらいにして本題に入りましょう。

 民主党が哀れです。政府与党を追及していかなければならない立場なのに、メール問題で立場がまったく逆転してしまいました。あんなメール、長年政治を見てきた人なら、最初からおかしいとみんな思ったはずです。怪しいお金を一体誰が、証拠がはっきり残る銀行口座に送るように、これもまたメールという証拠の残る形で命じるでしょうか。いくらIT時代だからといって、こんなことにメールを使う人は絶対にいないと思います。電話で連絡して、直接手渡しされるはずです。永田議員と民主党は、ライブドア(あるいはホリエモン)から自民党(あるいは武部幹事長)への献金はなかったと認め謝罪をせざるをえなくなりましたが、実際にお金のやりとりがなかったのかどうかはわからないと思います。ホリエモンはライブドアの宣伝になることなら、投資の一環として3000万円なんて軽く出していたはずです。1円も出していない無所属の候補のために、「わが弟、わが息子」まで言うでしょうか。お金かどうかはわかりませんが、ホリエモンと武部幹事長の間には何らかの特別なつながりがあった可能性は高いのではないかと思います。まあでも、私はホリエモンと武部幹事長の関係にはあまり興味がありません。政治家と経済人の特別な結びつきなんて、ある意味当たり前のことなのですから。それより、民主党執行部のふがいなさ、魅力のなさが気になります。高慢そうだった野田国対委員長だけやめましたが、前原代表も鳩山幹事長もこの機会にやめればよかったのにと残念でなりません。2人もまったく魅力がありません。鳩山由紀夫は今更取り上げるまでもないですが、前に党代表だったときに「友愛」をキャッチフレーズにして中曽根元首相から「ソフトクリームのように甘っちょろい」と小馬鹿にされたことがあります。でも、他方で民主党を立ち上げるときには、武村正義元官房長官を入れないという「排除の論理」も持ち出したことがあります。基本的に自分をおだててくれる人のみ周りに欲しがるお坊ちゃんです。たぶん彼の周りにいる人は彼の政治家としての人間的魅力に惹かれてそばにいるのではなく、その豊富な政治資金(財産)を期待してのものでしょう。しかし、鳩山以上に問題なのは、前原誠司の魅力のなさです。骨のある代表だった岡田克也が選挙大敗の責任を取ってやめた後、管直人との代表選争いに勝って代表になったわけですが、一体彼にどんな魅力があるのか、私は当初からずっとわかりませんでした。マスコミ的には若くて新鮮だ、管直人でなくてよかったと言われましたが、逆に若い以外に何があるんだろうと疑問を持ったものです。まだこういう役職につく前にたまにテレビに出ていたときも、魅力的なパフォーマンスを見たことがありませんでした。愛嬌がなく、木で鼻を括ったような雰囲気を漂わせています。また、思想的には小泉に近すぎますので、野党としての民主党の色も出にくくなっています。本当にこの機会にやめてくれればよかったのに、と思います。やはり、もうそろそろ小沢一郎の出番でしょう。小沢代表+管幹事長なら迫力があるのですが……。9月以降はこのコンビになる可能性がかなりあると思いますが、小泉が首相をやめる前に小沢一郎には対決してほしいのですが……。

191号(2006.3.5)ブログって誰が読んでいるんだろう?

 第160号でブログがよくわからないと書きましたが、その後も意識して見ていたら、なんとなくわかってきました。厳密な定義は「ゼミ生の声」615に、コンピュータに詳しい1期生が紹介してくれていますが、現実的にはやはり書かれる内容は日記的なもので、それにコメントという形で反応がしやすいものと一般には理解されているようですね。この「つらつら通信」もちょっと日記風なところもありますが、一応書き手の気分としては日記ではなく、簡単なものであってもなんらかの分析をしたり、主張をしたいと思って書いていますし、コメントもメールという形で送ってもらうしかないので、やはりいわゆる「ブログ」とはまったく性質の違うものでしょう。また、この「片桐ゼミのホームページ」は、関西大学を通して一般向けにも広く公開していますので、関西大学や社会学部に興味を持ついろいろな人が見る可能性がありますので、そんなに日記風にしてしまうこともできません。で、いわゆるブログの方ですが、あれは一体誰が見るものなのでしょうか?もちろん著名人のブログやなんらかの理由で有名になったブログなら不特定多数の人が見ているでしょうが、一般の人が作った特に有名でもないブログを見ているのは、ほとんど知人・友人なのではないでしょうか。1期生がブログは掲示板が進化したものと見た方がいいと言っていたのも、今mixiなどのSNSに乗り換えつつある人が多いというのも、そう考えれば納得が行きます。知人・友人なら、なんということはない日常のことを綴った日記を読んでも、結構おもしろく思えますし、コメントも書きたくなるものでしょう。私もいくつか知人のブログを見ていますが、書いている人やそこに登場する人物が知り合いですと、「ああ、そんなことを○○はしたんだ」と、思い入れを持って読め、たまにはコメントしようかなと思ったりもします。しかし、実際にはメールで本人に感想を送ったことはありますが、まだコメントを書いたことはありません。知り合いでない他の人も読むのかと思うと、なんとなくコメントという形では書きにくいと思ってしまいます。でも、読むのがみんな知人ということであれば、コメントも書けると思います。で、どうせそんな役割を果たすものなら、紹介された人だけがメンバーになれるSNSの方がよりいいんじゃないのということになるのでしょう。

190号(2006.2.2)引き際

 トリノオリンピックがもうすぐ始まりますね。そのせいか日頃見ない競技もつい見てしまいます。先日、スキージャンプの全日本選手権の様子が放映されていましたので、なんとなく見ていました。オリンピック代表では原田雅彦だけが出場していましたが、なんと39位という惨敗でした。120mを超える記録を出す選手がごろごろいる中で、原田は1回目が100m、2回目が88.5mでした。あまりに惨めな成績です。見ている限り、この不成績は突風が吹いたとかそういう不運な事態によるものではなく、今の原田の実力を示しているように思いました。彼がオリンピック代表に選ばれていることは、もっと問題視されてもいいのではないでしょうか。確かに、彼の明るいキャラクターは私も好きですし、見ていたいと思わせるスター性はあると思います。しかし、今の彼の実力はどう見ても、オリンピック代表に選ばれる日本の上位6人には入るものではないでしょう。JOCも原田にはメダルどころか入賞も期待していないのではないかと思います。にもかかわらず、原田を選ぶ表向きの理由は選手団のまとめ役として精神的支柱になってくれるといったものでしょうし、裏の理由はマスコミの注目度が増すからでしょう。確かにそういう役割を彼は果たせるかもしれませんが、やはり選手たちにとって最高の舞台であるオリンピックの出場者はそんな競技能力と関係ない要素で選んではいけないと思います。彼が引退していれば、代わりにもっと力のある選手が1人、オリンピックに行けたのです。私は、今からでも原田が引退をしてオリンピック出場を辞退してくれないだろうかと思っています。好きな選手なだけに晩節を汚してほしくないという思いでいっぱいです。「引き際が大切」「惜しまれながら去る」といった精神がかつての日本では大事にされてきました。常にその選択が正しいとは限りませんが、かつて輝いていた人は、そのイメージを壊さない方が、その後の人生でよりよいことが多いのではないでしょうか。特に好きな選手のぼろぼろの姿はあまり見たくありません。サッカーの中山雅史、大相撲の魁皇なども引き際をそろそろ考えてほしいなと思っています。

189号(2006.1.21)ラッキーマン

 最近(というかここ数年)、森喜朗前総理大臣の発言がニュースでしばしば取り上げられます。今日もライブドア問題に絡めて「お金は額に汗して稼ぐもので、あっちへ預けたりこっちへ預けたりして稼ぐのは間違っている」といった発言をしたとニュースになっていました。そんなのあんたに言われなくても、庶民はみんなわかっているよと思わず突っ込みを入れたくなってしまいました。頭も特に良くなく、鋭い発言をするわけでもないのに、なんで彼の発言がこんなに取り上げられるのだろうとふと考えていたら、彼がものすごくラッキーな男だからということに気づきました。まず、もともと総理大臣経験者は政界のご意見番的役割を担わされやすいわけですが、その適当な候補が今は彼しかいないということがあります。彼の前の総理大臣は亡くなってしまった小渕恵三で、その前はともに引退してしまった橋本龍太郎と社民党の村山富市、その前は民主党で鳴かず飛ばずの羽田孜、その前が引退した細川護煕、宮沢喜一、その前の海部俊樹はまだ現役ですが自民党を離党し新進党に移ったりした過去を持つため、発言権は全くなくなっています。その前はもう亡くなっている竹下登。そして引退して大勲位をもらった中曽根康弘になります。中曽根より前の総理大臣はもう全員亡くなっています。つまり、まだ現役で自民党の中でそれなりに発言権を持っている総理大臣経験者は、森喜朗しかいないというわけです。さらに、彼がラッキーなのは、自分が総理大臣をやめさせられた後に、同じ派閥の弟分にあたる小泉純一郎が総理大臣になり人気を博したこと、さらにこの秋に生まれるであろう新総理も自分の派閥の安倍晋三が最有力で、なおかつその有力対抗馬の福田康夫もまた自分の派閥ということで、今だけでなくこれからしばらくの間も権力の近くにいるというイメージを与えられることです。実態はといえば、小泉も安部もそして福田ですら、森の意見なんてまともに聞いてなどいないとしか思えないのですが、とりあえず「俺は総理大臣や総理大臣候補者と親しくて影響力を与えうる人間なんだ」というイメージを振りまき、情報リーク(と言ってもたいした話ではありませんが)をすることで、何でもいいからネタの欲しいマスコミを引きつけているといったところでしょう。彼は地元に利益を導くことに熱心な典型的な古いタイプの政治家(北陸新幹線が2001年に富山まで、2005年に金沢までの建設に入ったのも、石川県選出の森喜朗の我田引「鉄」の可能性が高いと思います)で、改革なんてイメージとはほど遠い政治家です。また、彼は郵政解散にも反対だったし、郵政法案に反対した議員を自民党公認からはずすことにも反対だったのですから、結局彼の主張は小泉にまったく聞いてもらえていません。しかし、結果として生じた好状況はさも自分が努力したがゆえに得られたものだという顔をしています。今は、安倍晋三はこの秋にはまだ総理大臣にならない方がいいと主張しています。まあ大体森喜朗の主張と反対のことが生じますので、次の総理大臣はきっと安倍晋三になることでしょう。そして、その時にはまた「俺のおかげで総理大臣になれたんだ」という顔を彼はすることでしょう。ラグビーと教育勅語の復活ぐらいしか興味のないこんな政治家が政界の重鎮のように見られるというのは、日本の政治のレベルをよく語っているのかもしれません。しかし、それにしても、彼はラッキーな男です。今、日本でもっともラッキーな男とは森喜朗なのではないかと私は思っています。

188号(2006.1.18)大学合併時代の到来?

 いやあニュースを見ていてびっくりしました。関西学院大学が聖和大学という大学と合併するんだそうです。4年制大学同士の合併は50年以上なかったことだそうですから、私がびっくりするのも当然でしょう。これだけ「大学冬の時代」や「大学倒産」が語られていたにもかかわらず、合併という発想は、われわれ大学人の頭の中に、まったくありませんでした。聖和大学って、どんな大学かまったく知らなかったので、急遽調べてみました。レベルはあまり高くないようですが、関学と同じくクリスチャン系大学で歴史は120年以上もあること、幼児教育学科を持ち、幼稚園を併設していること、キャンパスが関学のすぐそばにあることなど、拡大をめざす上では関学にとってもメリットのある合併だということがわかりました。盲点をついたなかなか巧みな戦略だと言えそうです。私立大学も私企業のひとつですから、どこも経営の安定を常に考えています。どこかの大学が何か評判を呼ぶことをすれば、すぐに追随する大学が出てくるのが、この世界です。今回の合併は、新たな選択肢を全国の大学経営陣に与えました。これからは、あちこちで合併話が起きてきそうな気がします。下手な合併をすると共倒れということにもなりかねませんが、敷地がなく新学部等を作れずに新展開をしきれない大手名門大学と、都市にキャンパスを持ちながら放っておけば倒産に追い込まれそうな中小規模大学の合併というのは、これからどんどん出てくるのではないでしょうか。地図を見たら、聖和大学は、神戸女学院の隣にありました。クリスチャン系、ともにヴォーリズの建てた建物をシンボルにしていることなど、関学と神戸女学院には共通点がたくさんあります。ないとは思いますが、もしかすると関学は先々神戸女学院との合併まで視野に入れているかもしれません。でも、今回のように関学への吸収合併では、神戸女学院のOGたちが黙っていないでしょうね。銀行名がそんな風になったみたいに、そのうち、「さくら大学」とか「あさひ大学」とかになったりして……。まあよそのことはともかく、すぐに新しいことを真似たがる某K大学は、ばたばたせずにいてほしいものなのですが……。

187号(2006.1.13)「道楽人生」ならぬ「働楽親成」

 先日卒業生から転職相談を受け、アドバイスをしようと考えていたときに、ふと新しい四字熟語を思いつきました。大学時代は「学遊究友」(学べ、遊べ、究めよ、友と)を目標してもらえばいいというのが、私の持論ですが、卒業後は「学遊究友」というわけにはいかないでしょう。で、「道楽人生」ならぬ「働楽親成」(どうらくしんせい=働き、楽しみ、親と成る)を目標にしたらどうだろうかと思いついたのですが、いかがでしょうか。フリーターやニートがまるで市民権を得たかのような世の中ですが、仕事をし、仕事以外の生活も適度に楽しみ、そしていずれは人の子の親となり子育てを味わうというのは、平凡ですが充実した人生になると、自分の経験から思っています。「自分らしさ」というマジックワードに振り回されて何か特別な人間になろうとしなくても、普通に生きても十分幸せになれます。また社会全体にとっても、世の多くの人々が「働楽親成」を目標として生きることにしてくれたら、社会は安定的に持続していくことができます。まあ親にはなろうと思ってもなれない人がいます(養子を取るという選択もあることはありますが、近年の日本では一般的ではないですね。もう少し一般化されてもいいように思いますが……)ので、必ずしも誰でもできる生き方ではないのかもしれませんが、とりあえず働くことと楽しむことのバランスを取って生きることは、自分の意思でかなり実現が可能だと思います。平凡に50年生きてきた平凡な人間からの平凡な提案です。

186号(2006.1.7)「生協の白石さん」

『生協の白石さん』という本が売れていると聞き、早速本屋で探して読んでみました。なるほど、確かに評判になるだけのことはあるなと思いました。あんな風にほのぼのとしたあたたかさとユーモアセンスを持った文章を書ける人は、なかなかいそうでいないものです。もちろん最初から本にして売るつもりなら、あのぐらいのことを創作できる人は他にもいると思います(もう少しシュールでしたが、亡くなってしまった中島らも氏などのセンスは近いものがあったような気がします)が、もともとこれは大学生協の「ひとことカード」へのコメントとして書かれ、そこで掲示されていただけなのですから、そこがすごいところです。顔も名前も知らないけれど、生協で買い物をしてくれている学生のために、あんな風にあたたかくユーモアに溢れた回答ができる人はそんなにはいないと思います。お金のためではない行動であったがゆえに、評判になったのです。これから「ハゲタカ」のようなマスコミは、「白石さん」をメディアに登場させたがるでしょう。顔を出すのが嫌なようですから、とりあえず人生相談の回答者になりませんかとか、エッセイを書きませんかといった話が持ち込まれることでしょう。「白石さん」のセンスなら、エッセイなどを書いたらそれなりに売れると思います。でも、商売のために書くようになったら、同じような内容でも、価値はまったく変わってきます。もちろん「白石さん」がこのチャンスを生かして新たなステップを踏み出すことを阻止したいと思っているわけではありません。ただ、商売のために書かれた文章だと思ったら、現在売れている本のような感動はもう呼ばず、いずれは売れなくなってしまうだろうと思います。有名になるためではなく、お金のためでもなく、自分の才能を活かしている人がいたというところが、あの本の最大の感動のしどころだと思います。「生協の白石さん」で居続けてほしいなという気はします。ちなみに、私も自分のHPで「白石さん」のようなことができるだろうかと考えたのですが、私にはつまらない質問を、「白石さん」のようにあたたかくユーモアで返せるセンスはまったくないので、すぐに無理だと悟りました。私の隣の研究室のN先生ならできそうな気もしますが……。ああでも、N先生は売れる本が書ける人ですから、そんな無駄な文章を書いている暇はないですね。商売のためでない文章をたくさん書いているという点では、私の方が有資格者なのですが……。センスが扇子でよければたくさんあるのですが……。チャンチャン。(こんな「おやじギャグ」ではだめですよね?)