Part9

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<目次>

第307号 「草食系男子」を生み出す社会の仕組みと今後(2008.12.30)

第306号 もっと考えよう!(2008.12.5)

第305号 リアクションの大切さ(2008.11.3)

第304号 解散権は誰のものか?(2008.10.31)

第303号 39野と40(2008.10.12)

第302号 麻生総理の大罪(2008.10.10) 〔追記:2008.10.12〕

第301号 見逃してはいけない(2008.10.9)

第300号 衆議院議員の仕事(2008.10.5)

第299号 記憶に残る1日(2008.10.2)

第298号 予測(2008.9.26)

第297号 若者が旅をしなくなった!? (2008.9.19)

第296号 パフォーマンスに騙されてはいけない(2008.9.8)

第295号 予想以上に早かった(2008.9.2)

第294号 記録を残すことの大切さ(2008.8.31)

第293号 22年ぶりの「男女7人夏物語」?(2008.7.26)

第292号 第3次オイルショック(2008.7.18)

第291号 キムタク総理の言葉は届かないかな?(2008.7.14)

第290号 モナ・プロブレムにみるダブル・スタンダード(2008.7.10) 追記(2008.7.11)

第289号 ひこにゃんの潜在的逆機能(2008.7.3)

第288号 「○○力」という本はもうやめませんか?(2008.6.28)

第287号 サッカーに学ぶ組織論(2008.6.23)

第286号 ひどすぎる(2008.6.20)

第285号 そうめん賛歌(2008.6.14)

第284号 天下の大悪法・裁判員制度(2008.5.30)

第283号 4×4制がいいのでは(2008.5.30)

第282号 番犬型男性とペット型男性(2008.5.19)

第281号 「ワッハ上方」を関大の施設にしよう!(2008.5.18)

第280号 三手先まで読もう(2008.5.13)

第279号 そこに昭和があった(2008.5.4)

第278号 馬鹿馬鹿しい(2008.4.25)

第277号 そんなん、あり?(2008.4.14)

第276号 冗談じゃない!(2008.4.3)

第275号 夜行列車の思い出(2008.3.16)

第274号 巣立ち(2008.3.12)

第273号 新しい集団に飛び込むなら(2008.3.4)

第272号 さすがに腹が立ちました(2008.2.20)

第271号 ”Chocolat Chaud”って囓っちゃいけないんですね……(2008.2.18)

第270号 新しいトレンドか?(2008.2.15)

第269号 「月月火水木金金」?(2008.2.15)

第268号 最近気になったニュースから(2008.1.25)

第267号 尼崎探訪(2008.1.22)

第266号 最近納得が行かないこと(2008.1.16)

第265号 流される(2008.1.11)

307号(2008.12.30)「草食系男子」を生み出す社会の仕組みと今後

 このところ「草食系男子」という言葉をよく聞くようになりました。私がこの言葉を初めて知ったのは、夏前に読んだ山田昌弘・白河桃子『「婚活」時代』という本によってでした。最近は、流行に敏い某学者が『草食系男子の恋愛学』なる本を出して当たっているようです。たぶん来年の流行語大賞にノミネートされる言葉になるのではないかと思います。そう予想できるのは、実際に間違いなく、「草食系男子」が増えているからです。初めて聞く人もいるでしょうから、簡単に説明しておくと、かつては、若い男性なら誰でも、女性にモテたくて、あの手この手で女性に対してアプローチしてくる(肉食動物のように狩りに出る)ものと考えられていましたが、最近の若い男性はモテたくないわけではないでしょうが、そのために自ら失敗を怖れずに進んで行動するよりは、何もせずに自分の世界、あるいは仲の良い友人との世界に留まる方を選ぶ(仲間で集まって草をはんでいる草食動物)という風になってきていることを、比喩的に表した言葉です。うちのゼミではすでに2度ほど、この「草食系男子」について議論しましたが、その時改めて1人1人を見て、「やっぱり、3分の2くらいは草食系だな」と思いました。残りの3分の1も肉食と言うよりは雑食という感じです。典型的な「肉食系男子」は今や1割もいないような気もします。(ただし、この割合には大学生の特殊性があると思います。同じ年齢でも大学生になっていない人の場合は、「肉食系男子」がかなりいると思います。)

 こうした大学生を中心とした男子の変貌については、私も同じようなことを、すでに「つらつら通信 第86号 恋をしようよ、男の子!」(2002710日発表)で語っています。要するに、現代の社会が若い男性を「草食系」にしてしまう仕組みを内在させているのです。同じ事を書くのも何なので、再掲しておきます。

もちろん、恋をしていた方が楽しいのは、男も女も同じでしょうが、なんか最近の状況は、女の子に比べて男の子が何倍も恋をしにくい環境になってきているような気がしてならず、思わず「頑張れ、男の子!」と言いたくなるのです。ストーカーやセクハラといった言葉が簡単に投げつけられ、さらには「女性専用車両」まで現れる時代です。町に出る時は、男の子たちは、自らを去勢しておかないと危険です。「色っぽいなあ」なんて口に出していけないのはもちろん、3秒以上見つめてもいけません。即刻「セクハラ!」というイエローカードが出ます。恋をしても、その相手の女性についていろいろなことを知りたいなんて思ってはいけませんし、告白してだめだった場合は、即座にその人のことを忘れなければいけません。万一、忘れきれず再チャレンジなんかしたら、「ストーカー」でレッドカードです。電車で女性と一緒に乗り合わせた男たちは、すべからく可能性としての「痴漢予備軍」というレッテルを貼られています。こんな状況なのですから、まじめな(というか普通の)男の子たちが恋をしにくいのは、当然です。私にはこの状況はよい状態だと思えません。(たぶん、男の子だけでなく、女の子にとっても。)「健全な肉体に健全な精神が宿る」という格言がありますが、「健全な精神」の中には、「異性に対する興味関心」も当然入るはずです。色っぽい格好をしている女性に対して「色っぽいなあ」と思うのは自然な感情ですし、つい見つめてしまうのも自然な行動だと思います。本当に好きになったら、その人のことを知りたいと思うのも、一度くらいの挫折であきらめきれないのも、自然な感情だと思います。最近は、レア・ケースが大々的に取り上げられて何が自然な状態かわかりにくくなっていますが、人間は雌雄別体の生物なのですから、男が女に惹かれ、女が男に惹かれるのが、自然な状態なのです。恋をすることに臆病になることはありません。「遊び人」や「ギャル男」だけが恋を楽しむのではなく、普通の男の子がもっと自然に恋をし、それを伝えられたらいいのになあと思います。

 ただし、男の子が恋をしにくくなっているのは、上で述べたような男女をめぐる社会環境の変化だけが原因ではないでしょう。もうひとつ指摘しておかなければならないのは、男の子自身が傷つきやすくなっているということです。恋はいつでも実るとは限りません。むしろ、失敗することの方が多いでしょう。その時に、その失敗をしっかり受け止める忍耐力を持っていない人は、恋をする資格はありません。逆恨みしたり、落ち込みすぎたりするようではだめです。(ある程度の落ち込みは当然だと思いますが……。)「遊び人」や「ギャル男」がたくさん恋(愛遊び)をできるのは、ある意味で、こうした過度な繊細さ(傷つきやすさ)を彼らが乗り越えているからでしょう。「遊び人」や「ギャル男」になるのではなく、普通の男の子にぜひ恋をしてほしいと思います。若い時に思いっきり恋をしておかないと、人生後悔しますよ。「恋」は若者だけのものではありませんが、若いときの方が恋をしやすいのは確かだと思います。みんな、いい恋をしてください。特に、男の子!(「つらつら通信 第86号 恋をしようよ、男の子!」より)

 この文章の中にもありますが、「草食系男子」が増えて、結局女子の方もまじめな子たちは「恋愛日照り」になってきているという事態が生じています。さらには、この「草食系」は学生だけではなく、20歳代後半から30歳代という結婚適齢期の男性たちにも増えてきているため、「結婚したいのに結婚できない女性たち」をたくさん生み出しています。かつては、男性が8割の積極性を、女性が2割の積極性を持っていて、ちょうど合わせて10割になっていた「恋愛ジグソーパズル」が、今や男性はかつての半分の4割くらいの積極性を持てなくなったのに、女性の方もせいぜい2倍くらいしか積極性を増しておらず、合わせて8割にしかならず、「恋愛ジグソーパズル」は埋まらなくなっているような気がします。その埋まらないピースを埋めるためには、(1)男性が再度積極性を増すか、(2)女性が男性以上の積極性を身につけるか、はたまた(3)第三者が介在するか、などが考えられます。しかし、(1)は、上記の文書を書いた時にはまだ期待していたことですが、これまでの社会の進み方を見ると逆方向になるのを期待するようなものなのでもう難しいなのではないかと思っています。(3)は、すでに親同士のお見合いパーティが行われたりして一部実現している感じですが、「恋愛至上主義」が強い日本では浸透はしにくいでしょう。結局、一番有力なのは、(2)で、女性が男性を選ぶということが一般化するという方向ではないかと思います。この男性はよい結婚相手になると見極めた場合は、女性の方から積極的に行動し、男性を手に入れるということが当たり前になってくるのかもしれません。「白馬に乗った王子様」はもうどこにもいません。女性たちが自分で馬に乗って狩りに出かけなければいけない時代にどんどんなっていくことでしょう。ただし、臆病な「草食動物」はあまり急いで近づくと怖がって逃げますので、「母」のような優しさで包み込むように接近しなければ、捕まえられないかもしれません。あ〜あ、でも、本当に、そんな世の中になってしまうのでしょうか。やっぱり最後にもう一度言っておきます。「頑張れ、男の子!セクハラやストーカーという言葉に押しつぶされるな!失恋を怖れるな!そう思って行動できたら、きっと幸せがつかめるよ。」

306号(2008.12.5)もっと考えよう!

 最近少人数授業で学生たちの研究発表やレポートのチェックをしながら、どうして、みんなもっと頭を使わないんだろうと歯がゆく思うことしきりです。自分(たち)で決めたテーマについてもっと一所懸命考えたら、当然調べなければならないこととして誰でも思いつきそうなことすら調べていなかったりします。以前の学生たちだって、そんなにすばらしかったわけではありませんが、ここのところ急速に考える力が弱くなっている気がします。こうした事態が生じている大きな原因のひとつは、やはりITの発展のせいだと思います。今や、ネット上の「検索エンジン」を使えば、自分たちが調べようと思ったことについて、山のような情報があっという間に得られます。学生たちは、これをコピーして安易にレポートを作ってきます。コピーしているので、自分のレポートなのに、読めない漢字が入っていたり、書いている内容がわかっていなかったりといったことが日常茶飯事のこととしておきています。(この辺のことは、昨年もこの時期に同じようなことを書いていますので、そちらをお読み下さい。「つらつら通信・第262号 レポートを読みながら思うこと」(2007.12.19公開)参照。)ともかく、いたく簡単に関連しそうなデータは見つかるので、それでよしとしてレポートを作ってしまうので、真剣に考えるという訓練がまったくできていません。以前なら、自分の研究にとって必要なデータは、どこでどうやって得られるかということから考えなければならなかったのが、すべてネットで見つかるだろうという意識になっていて、考える力を弱めています。

 この考える力が弱まっているというのは、研究面のみのことではありません。研究面のみなら、みんな「自分は研究者になるわけではないから、別にどうでもいいや」と思うでしょうが、考える力は生きる力の重要な部分を構成しています。どういう行動をする場合でも、状況を的確に把握して、もっとも望ましい行動をそこで行うためには、考える力が必要です。人を喜ばせるのも、取引相手に気に入られるのも、就職面接で高く評価されるためにも、しっかり考えなければだめです。考える力の弱い人は、社会を巧みに生きていけません。仲の良い友人との頭を使わないコミュニケーションばかりで時間を無駄にせずに、真剣勝負できる場で、しっかり頭を使ってトレーニングしてください。コンピュータをはじめとする機械がどんどん便利になり、人間がどんどん頭を使わなくなるという事態が確実に生まれつつあります。確かにコンピュ−タは、昔は「人工頭脳」とも訳されていたように、人間の頭脳の代替物として擬せられます。しかし、すべてを教えてくれません。相性の良い結婚相手は探してくれるかもしれませんが、その相手との何十年ものつき合い方や、2人の間に生まれた子供の性格やその育て方まで教えてはくれません。マニュアルはいろいろあるかもしれませんが、マニュアル通りに人間は育ちません。適切に状況と相手を把握し、適切な対応をしていくために、自分で考えなければならないのです。大学時代にその力をぜひつけてください。チャンスはたくさん転がっているはずです。

305号(2008.11.3)リアクションの大切さ

 最近のテレビのバラエティ番組でよく使ってもらえるタレントとは、ちゃんとした芸があるかどうかより、リアクションがうまいかどうかで決まっていることは、みんな感じていることと思います。3分とか5分とかの時間を使って、しっかり芸を見せる番組はたいして人気がなく、リアクションのみを楽しむようなクイズ番組やトーク番組が視聴率を稼いでいます。こうした風潮はあまりよい傾向ではないとずっと思っていましたが、最近やっぱりリアクションは大切だと思うようになってきています。別に私はテレビ番組制作者ではないので、テレビ番組の中でのリアクションの大切さについて語りたいわけではなく、日常生活においての話として、リアクションの大切さについて語ってみたいのです。おそらく、みんな感じたことがあると思いますが、反応の悪い人と話していると盛り上がらなくてつまらないですよね。せっかくおもしろい話をしたのに、せっかくわざわざ訪ねて行ったのに、リアクションが小さいと、その後コミュニケーションが広がりません。仲間内ではテンションも高く盛り上がれるのかもしれませんが、初めての人、久しぶりの人、仲間と思っていない人に対しては、うまくリアクションできない、そんな人が増えているように思います。興味はあるんだけど何を話していいかわからない、恥ずかしい、そんな感情に囚われて、小さなリアクションで済ませてしまいます。リアクションを上手にできる人は、楽しい空気を作り出すことができ、周りから好かれて、楽しい人生を生きやすくなるでしょう。他方で、いいものを持っているのに、リアクションが下手で、周りの空気を沈ませ、評価を受けられないような人もいます。「KY(空気が読めない)」と言われるのを、今の若い人たちはとても怖れていますが、リアクション下手というのも、広い意味での「KY」ではないでしょうか。リアクションは仲間内だけで上手にできればいいのではなく、初対面の場面でもできなければならないのです。好奇心と積極性を持っている人なら、それを行動に移すだけでできると思うのですが、それが難しいのでしょうか?挨拶は基本ですが、挨拶だけでは、コミュニケーションは深まらないし、楽しくなりません。

304号(2008.10.31)解散権は誰のものか?

 結局、麻生総理は11月中の総選挙を逃げてしまいました。アメリカ経済の悪化の影響を受けた株価の急激な下落や円高への対策を優先するというのが名目ですが、世界経済の悪化を招いたアメリカでは、大統領選挙の真最中です。共和党から民主党への政権交替こそ、最大の経済対策だと考える人が多くなり、オバマの圧勝になりそうです。アメリカがそういう状態なのですから、日本が選挙をやっている場合ではないというのは理由にならないと思います。要は、勝てるかどうか自信がないので、夢だった総理大臣の椅子に少しでも長くいるために、解散・総選挙を先延ばししたにすぎません。麻生総理は「チキン(臆病者)」です。(きつい、汚い言葉ですが、麻生のようなタイプは、こういうラベルを貼られるのが一番嫌いなタイプだと思いますので、マスコミが積極的に「麻生=チキン」論を広めると、我慢しきれなくなって、「なら、解散してやろうじゃねえか!」って言い出さないかなと期待して、あえて使ってみます。)総裁選挙の時には、すぐにも総選挙をやらなければならないから、自分の様な選挙の顔になる人間でないとだめだと言っていたのは、総理になるための口実だったようです。総理になってから、もう耳にタコができるくらい聞かされているのが、「解散は、私が適切な時期に決めさせていただきます」という麻生総理の発言です。こんなに、解散権は総理の個人的判断に基づくものだと言い続けた総理大臣は初めてです。確かに、制度上は総理の決定事項でしょうが、議院内閣制をとる日本の政治制度です。もしも与党議員たちが解散を本気で望むなら、解散をしない総理が提案する様々な政策をすべて否決するという態度に出れば、いくら総理が「解散権は私のものだ」と言っても、解散せざるをえなくなるはずです。(逆のパターンですが、昔、海部総理が解散権を行使しようとしたのに、与党・自民党内部の支持が得られず、断念したことがありました。)しかし、現在の与党(特に300人もいる自民党)議員は、再び国会に戻ってこられる自信のある人は少ないので、解散が遅ければ遅いほどいいと、内心では思っており、解散先延ばしという麻生総理の判断を支持しているのです。このまま任期満了まで行けば、国会議員としての高額な給料やJR乗り放題などの数々の特権がほぼあと1年は保障されるわけですから。麻生総理だけでなく、自民党議員の大多数が「チキン」になっています。

 「小泉を支持したいと思うなら1票を!郵政民営化賛成なら1票を!」とライオンヘアー男が叫んでから3年強。国民が支持できるかどうかを判断させてもらえないまま、自民党内部の勝手な論理で、安倍、福田、麻生と3人も総理大臣が交代してきました。1人くらいの交代なら様々な事情もあるので、ある程度仕方がないでしょうが、3人なんて異常です。こんなに勝手に、国民の意思を問わずに、国の代表を変えられるのは、制度として不備があるように思います。今後は、総選挙の結果総理の座についた議員が、なんらかの理由で交代せざるをえなくなった場合は、交代から1年以内に必ず総選挙をやらなければならないという制度に法律を改正すべきです。解散はすべて、総理という職にある政治家の個人的思惑で決められるというのはおかしな制度です。国民主権の日本です。解散権も国民が実質的に持っているような制度に変更すべきです。

303号(2008.10.12)39野と40

 今日のNHKスペシャルの「読字障害」はご覧になりましたか。実に興味深い内容でした。会話は普通にできるのに、文字を読むのに支障があるという「読字障害」は、文字を読む際に、脳の39野、40野がうまく働かないために起こっているそうです。この「読字障害」については、宮部みゆきが『模倣犯』という小説の中で、ある重要な人物をそういう設定で登場させていたので、初めて知ったのですが、20人に1人くらいいる可能性もあるそうです。もともと人類が簡単な言語を操り始めたのは160万年ほど前に遡れるそうですが、文字は確認されている範囲では5600年前までしか遡れないそうです。つまり、長らく人類は言語を「話し言葉」としてのみ使っていたわけで、「文字」として使えるようになった歴史はとても浅いわけです。文字が生まれてからも、ほんの200年ほど前までは、文字を読めない人の方が圧倒的多数派であったわけです。「文字」は人間のみが作り出したもので、脳がそれについて行けていないということがあっても、それほど不思議ではないそうです。で、視覚から取り入れたある模様を文字として解釈して音のついた言葉に変換し理解をさせるために働く脳の部位が39野、40野なのです。この39野、40野は、実は視覚情報だけでなく、聴覚、触覚などすべての知覚情報を、瞬間的に統合し、理解させる部位なのだそうです。この辺まで見ていて、なるほどと思いました。最近私が興味を持っている「速読」などは、脳のこの部位の働きがものすごくよい人ができることなのだな、と腑に落ちました。私は「速読」はできませんが、自分自身の感覚でも納得ができます。頭がすっきりしているときは、難しい本でもスムーズに読めますが、頭が疲れている時は、文字は追っているのに、内容がまったく頭に入ってこない時があります。あれが、3940野がうまく働いていたり、いなかったりするということなのですね。番組では、どうやってこの39野、40野を鍛えるかという話はしていませんでしたが、「読字障害」も早期発見してトレーニングを積んでいけば、かなり改善されると言っていましたので、鍛え方はあるのでしょう。(「速読法」というのもあるわけですし。)考えてみれば、人間は生まれた時は誰しも文字は読めないわけで、徐々にトレーニングしていく中で、ある模様を文字と認識してその意味を理解できるようになるわけです。トレーニングのできていない文字に関しては、大人になっても模様にしか見えないわけです。多くの日本人にとってアラビア文字は模様にしか見えませんし、欧米人が漢字の書いてあるTシャツとかを喜んで着たりする(日本人が英語のTシャツを着る)のも、模様に見えているからです。最近、活字本を読めない、読んだら眠くなるという若い人が多いようですが、これは「読字障害」というより、まだトレーニング不足なのではないかと思いますが、ずっとそのままでいたら、読書の際に39野、40野が働かず、読むのが不得意な人になってしまうのでしょう。「活字は苦手ですが、マンガは好きです」という人がいると思いますが、私は、逆に、最近はマンガを読めなくなってしまいました。昔は、絵情報と文字情報を瞬間的に統合できたのに、今は統合できなくて、絵と文字を両方読まなくてはならないので、しんどいと感じるメディアになっています。これも、39野、40野のある働きが悪くなってしまったということなのかもしれません。いずれにしろ、脳の39野と40野についてもっと知りたくなりました。(ちなみに、脳の図を見ていて気づいたのですが、39野と40野の位置は、頭の働きが悪い時に、自分で頭を叩いて、刺激を与えようとする位置にあるようです。人は自ずと、どのあたりが脳の情報処理能力を上げるために中心になっているかに気づいているのかもしれません。)

302号(2008.10.10)麻生総理の大罪

 株がひどいことになっています。今日は東証ダウが1000円以上下がって、一時8110円台になったそうですが、こんな額は1980年代前半の額です。その間、世帯収入などは約1.5倍以上になっていますので、この額は低すぎます。みんな不安心理に囚われているのでしょう。万一、自分が株を持っている企業が倒産したら、株券は紙切れになってしまう。そう思ったら、損をしてでも売っておこうということになるのでしょう。日本の経済自体は、本当はそんなに悪いわけではありません。にもかかわらず、こんなに人々が不安心理に囚われてしまっている大きな原因のひとつに、麻生総理の発言があると私は見ています。彼は、解散・総選挙を回避するために、頻繁に日本の経済状態の悪さを強調しています。「1920年代の世界大恐慌以来」とか「700円台の下げ幅など尋常じゃない」などといった発言を繰り返しています。国の政治・経済を預かる総理大臣が不安心理を煽るような発言をすることの影響を、彼はちゃんとわかって言っているのだろうかとおおいに疑問です。総理大臣たるものは、不安があっても、どんと構えて「私に任せておいてくれたら大丈夫です」「日本の経済は悪くないので、皆さん、ご安心ください」といった発言をすべきです。彼のやっていることは、まったく逆です。世界大恐慌が起こる直前の1927年にも、当時の大蔵大臣が「銀行が倒産した」といった不用意な発言をしたため、その余波で他の銀行や商社が潰れるといった事態が生じたことを、麻生総理は知らないのでしょうか。経済が不安だから解散総選挙なんてやっている場合ではないというのは逆効果です。補正予算を成立させたら、さっさと解散して総選挙というお祭りを始めた方が、日本は余裕があるなという印象を、国内・国外に与えることができ、株価も下げ止まると私は思っています。国民の不安を煽る総理大臣なんて最低です。

〔追記:2008.10.12〕経済音痴の麻生総理は、「自社株取引の制限撤廃」を年内にも撤廃するように指示を出しました。株価の下支え効果があるというのが理由だそうですが、もともと制限がなかったものに制限を加えていたのは、「インサイダー取引」になる可能性が高いからです。自分の会社を潰したくはないだろうから、株を買い支えるという論理なのかもしれませんが、内部情報でどうにもならないと知ったら、紙切れになる前に、さっさと売り抜けてしまおうとする人もたくさん出るでしょう。また逆に、株価を上げるために、無理に自社株を買いに走ったらそれはそれで株価操作に近いことになって問題でしょう。株式市場の好転に効果はたいしてなく、問題ばかり引き起こしそうな麻生経済政策です。

301号(2008.10.9)見逃してはいけない

 今日始まったドラマ「風のガーデン」は、たぶんテレビ史上に名を残す作品になると思います。名作ドラマをたくさん作ってきた倉本聰ですが、これは最高傑作という評価を受けるのではないでしょうか。第1話を見ただけですが、人物や状況設定、配役、映像、音楽、今後明らかになっていくであろう複雑なストーリーの一端の示し方、ちょっとしたユーモア精神、エンディングの映像、非の打ち所がありませんでした。パーフェクトです。第1話でここまで引き込まれたドラマはかつてありませんでした。こういうドラマこそ、若い人たちにぜひ見てほしいので、注意を喚起するために書いてみました。名優緒形拳の遺作でもありますし、見逃したらもったいないですよ。

300号(2008.10.5)衆議院議員の仕事

 失言(暴言?)大臣の中山成彬氏が近く行われるであろう衆議院選挙に立候補しないことにしたために、その後任として東国原宮崎県知事が立候補するかもしれないという噂が出ており、本人も「宮崎県のためになるなら、そういう選択肢もありうる」と否定していません。私はこれについて2点疑問があります。1点目は、まだ2年も知事職を勤めていないのに、知事を辞任して国政に出るのは、投票した人に対する背信行為だということです。知事になる際に立てた目標は、もうすでに達成したのでしょうか?宮崎を有名にし、観光客は呼び込んだとは思いますが、まだそれだけではないですか。せめて14年、本来なら28年ぐらいやって確たる仕事を残すべきです。2点目の疑問は、彼が宮崎のためになるなら、衆議院選挙にも出ると言っている点です。衆議院という国政のもっとも重要な決定に関わる政治家が地元のことしか考えないような人では困ります。今は県知事なので、「宮崎、宮崎!」と連呼しまくっても許されますが、もしも衆議院議員になって、「宮崎、宮崎!」と連呼し、宮崎のためにしか働く気がないなら、衆議院議員は失格です。昔も今も、高速道路や鉄道路線や駅を無理矢理自分の選挙区近くに引っ張ってくる政治家が結構います(岐阜羽島駅などという寂れた新幹線の駅があるのも、上越新幹線があんなに早くにできたのも、今北陸に新幹線が伸びようとしているのも、全部有力政治家がいたからです)が、彼らにしても地元のことだけではなく、大局の仕事もしています。しかし、今の東国原氏の頭の中には、宮崎のことしか頭になく、日本全体のために仕事をしようという気になっていません。今の東国原氏では、衆議院議員は不適格だと思います。もちろん、立候補したら当選は100%間違いなしです。小選挙区制というのは、選挙になれば、「地元のために働きます!」と言う人が通ってしまう制度です。私は、衆議院を本当の意味で国政を司る組織にするためには、本来は、全議席を比例代表制で決めるべきだと考えています。(「つらつら通信 第11号 日本議会制度改革私案(1999.12.19)参照) まあでも、この改革は簡単にはできないでしょうから、せめてたとえ小選挙区から立候補・当選しても、地元のためだけでなく、日本のためにも働くのだというバランスの取れた政治家を当選させるべきなのです。いつかは必ず国政に打って出るであろう東国原氏が、こんな時期に立候補するという「愚かな選択」をしないことを願ってやみません。

299号(2008.10.2)記憶に残る1日

 秋休みで帰阪していた大学1年の息子が暇そうだったので、「今日はお父さんの講義があるから出席してみるかい?」と誘うと、「おもしろそうだね」と乗ってきて、本日の講義をもぐりで聞きに来ました。「なかなかおもしろかったよ」という感想とともに、「周りの学生さんが、『片桐先生、また失言してるなあ』と笑っていたよ」という話と、「関大の女の子はかわいいね」という感想を聞かせてくれました。理系に進んでいて、分野がまったく違うので、こういう機会が来るとは思いませんでした。まあ、働く父親の姿を見るのもいいものでしょう。(働いているように見えたかどうか心配ですが……。)

 久しぶりに5人家族がそろった夕食では、娘たちを中心に半月遅れの結婚記念日祝いをしてくれました。娘たちが作ってくれたケーキ(レアチーズとヨーグルトムースの2層ケーキで、とてもおいしかったです)と、こっそり買ってプレゼントしてくれた花を前に、幸せを噛みしめました。子を持つ親の幸せを感じた1日になりました。

298号(2008.9.26)予測

 昨日の講義の前説で、「朝日新聞系列のメディアによる調査では、麻生内閣の支持率は40%台前半、うまくいって、4546%ぐらいと出るのではないかと予測しますので、当たるかどうか楽しみに見てください」と話したのですが、結果は48%でしたので、ニアピン賞といったところでしょうか。しかし、意外なところで、かつて語っておいた予測が大当たりしました。それは、小泉純一郎元首相の政界引退です。2年以上前の2006825日に書いた「つらつら通信」第213号(「安倍内閣は小泉内閣のように長持ちはしない」)で、「私の捉えている小泉純一郎像が正しければ、彼は次の衆議院選挙には立候補しないのではないかと思います。おのれの「美学」を貫きたいなら、こういう結論を下すはずです」と書いておきましたが、まさにその通りになりました。首相退任後の彼の悠々自適の生活ぶりを見ていれば、今回の引退は多くの人が予想通りと思うでしょうが、私が予想したのは、彼がまだ首相だったときですから、かなりいい読みをしていると思いませんか?ちなみに、まだ就任前だった安倍元首相の短期政権も、そして今回の麻生太郎的な存在(小泉純一郎と同様「大統領型首相」をめざしています)の登場も、その時の「つらつら通信」でほぼ見切っていたと思います。(福田内閣が間に入ることはその段階では読めていませんでした。福田首相は、大衆が求めたというよりは、古いタイプの政治家たちが、長く続いた「大統領型首相」に疲れて、逆バネを働かせたということだと思います。)社会学的な見方に立つと、非常に特殊な犯罪者の心理などの分析はできませんが、大衆の求めているもの、その大衆の意向を読んで行動しようとする人の心理は、おおよそ読めます。となると、では次の総選挙はどちらが勝ちますか、と質問が来そうですが、今の段階ではその予想は非常に難しいです。これまでになく政権交替への期待感が高まっているのは間違いないと思いますが、なんのかんの言っても自民党にやらせておいた方が安心ではないか、いや多少失敗があっても新鮮な民主党にやらせてみようという意識が、現時点では拮抗しているように思います。選挙がいつになるのか、それまでにどんな事態(政治家の失言等)が生じるかによって、結果は大きく変わってくるでしょう。投票日が決まって、実際に近づいてきたら、また書いてみたいと思います。

297号(2008.9.19)若者が旅をしなくなった!?

 先日、TV東京制作の『ガイアの夜明け』(今の時代をつかむ上で、現在もっとも優れた番組だと思います)で、若者が以前より旅に出なくなったという放送をしていました。やっぱりそうかというのが、私の感想です。長らく大学生たちとつき合ってきていますが、ガイドブックと時刻表を持って旅に行くのが好きだという学生は、今や1割もいないような気がします。番組に出てきた若者も言っていましたが、「出かけるのも、友だちとコミュニケーションを取るのも嫌いじゃないですが、わざわざ旅行に出る余裕も、そこまでの気力もないというか(笑)」といった考え方が、今時の若者の多数派のように思います。先日、私も学生たちを連れて渋めの京都散策をしましたが、もうひとつ興味を持ってもらえなかったように感じました。歴史や地理に対する知識が少ないために、楽しめなかったのだろうと思います。関西で暮らす学生たちの京都知識がこの程度のものですから、他の地域に対する知識など、推して知るべしです。旅行に行きたいと言っても、「東京ディズニーランド」やお台場などで、旅というにはほど遠いものです。日本では旅をしないが、海外旅行なら行くという人がいます。確かに、海外に行けば、旅のひとつの魅力である非日常体験はたっぷりできるでしょうが、行き先の国の歴史や文化への興味があって、そこに行ったのかどうか疑問である場合も少ないように思います。

しかし、別に私は若者に苦言を呈したいわけではありません。番組で紹介していた、何かの食べ放題とお買い物ができ、ついでにどこかをちょっと見るといった4000円程度の日帰りバスツアーは、最近若い女性にとても人気があるそうです。なるほどなと思います。若者は若者で、私の知らないような楽しみを味わっているのでしょう。ファッションや音楽や携帯に関する知識では、私はとうてい若者には敵いません。時代は変わります。若者は若者で今の時代の楽しみを得るための知識をたくさん持っているのでしょうし、そこに頭と時間とお金を費やしてしまうので、旅にまで頭と時間とお金を使うことはできないのでしょう。私は旅が好きで、旅の魅力を知らない人は人生で損をしているような気もするぐらいですが、やはり二昔くらい前の感性なのかもしれません。

296号(2008.9.8)パフォーマンスに騙されてはいけない

 自民党総裁選が45人の候補者で争われることで盛り上がっているように見えますが、争点は経済をめぐる問題だけで、まったく中味のない争いです。本命・麻生太郎(地盤の弱い「風」期待の議員が支持するでしょう)、対抗・与謝野馨(麻生の跳ね返りぶりが嫌いで、地盤が固まっている古い政治家が支持するでしょう)で間違いなく、後は来る総選挙を有利に戦うために「総裁候補になった」という肩書が欲しいだけのパフォーマーです。与謝野馨も含めて、小池百合子、石原伸晃の3人が浮動票頼りの東京を選挙区にしているのは偶然ではないわけです。石破茂も山本一太(参議院議員です)もTV出演大好き人間なので、こんなお祭りを見過ごすわけにはいかなかっただけですし、棚橋泰文なんて20人の推薦人が集められる見込みなどまったくないのに本当に顔と名前を売るためだけに立候補したいと言っているだけです。総裁選はもちろんですが、こんなにぎやかしだけの政治家など、次の総選挙で落選させることができたら、有権者の賢明さを示したことになる気がします。しかし、「他人事総理・福田康夫」がやめ、こんなにぎやかしの総裁選が行われるというだけで、自民党の支持率が回復するのですから、日本の有権者の見る目のなさにはあきれます。無責任に政権を投げ出すような総理大臣を2人も続けて選んだ組織としての責任を自民党は取らなければならないはずです。

 しかし、誰であっても新総理になると、与党の支持率が上がるので、この機会に解散・総選挙に打って出ようという意識が自民党にも強まってきたので、11月には総選挙になりそうです。今回は本格的な2大政党のどちらを選ぶかという選挙になります。自民党の相手は、小沢一郎率いる民主党です。今日、民主党代表選挙の立候補受付があり、小沢一郎しか届け出がなかったので、小沢一郎の3選が決まりました。一部マスコミや自民党政治家が「代表選挙をやらなかった民主党はパフォーマンス下手だ」と言っていますが、私はそうは思いません。今は無駄な党内抗争をしない政党の方が安定感があって信頼に足るという印象を与えます。お祭りをやれば注目は集まるでしょうが、日常的な政治はお祭りではありません。政策の中身を見て判断すべきです。今日、小沢一郎が政権構想を発表するとともに、記者会見を行いました。見ていて、改めて小沢一郎にはパフォーマンス力はないし、顔も悪人顔で、女性や若者の浮動票はつかみにくいだろうなと思いましたが、政治家としての覚悟と方針はしっかりあるなとも思いました。きっと、多くの人が小沢一郎の政権構想案や記者会見などに興味を持たないでしょうから、ここで簡単にポイントを示しておきます。(わかりやすくするために、多少私の解釈も含みます。)

 彼が(というか今は民主党がと言ってよいでしょう)やりたいのは、明治以来続く官僚主導の日本の政治を変えたいということです。選挙による国民の信任を受けていない官僚は本来政策決定権は持たず、選挙による信任を受けた政治家の指示に従って事務的に仕事を進めるべき存在なのに、日本では政権交替が行われず、自民党(特に政治をする能力と意欲があるかどうかもわからない2世、3世政治家)が政権を担当し続けているために、政治家を立てるような顔をしながら、実質的な政策決定をしてきたというのが、戦後日本の(実質的には天皇が主権者だった明治時代以来の)政治体制です。これを変えなければ、本当の国民主権にはならないと主張しています。そして、その変化(それを小沢一郎は「革命的改革」と言っています)を引き起こすためには、政権交替しかないということです。その流れの一環として、民主党が政権を取った暁には、与党議員を100名以上政府の委員とするとか、国会審議は議員のみで行うといった提案をしています。消費税を含む増税については、現在の支出をすべて必要なものと考えると増税という話になるが、無駄な支出が多いのでそれを切りつめれば財源はあると考えると述べています。また年金を中心とする社会保険料はある程度増えざるを得ないが、単なる金の問題として考えるべきではなく、むしろ年配者と女性がもっと働けるような社会を作っていくことが必要であるといった主張をしていました。

 基本的な考え方は支持できるように思いますが、現時点では選挙で通った政治家が、官僚以上の能力の持ち主であるとは私は特に思わないので、何でもかんでも政治家中心にして官僚は事務のみでよいとは思いません。しかし、自民党政治家と官僚と財界の癒着を断ち切るためには、政権交替が起きる政治にしなければならないのは間違いないことです。無駄な支出も実際たくさんあると思います。強い抵抗を受けていますが、橋下大阪府知事でもあれだけのことができるのです。総理がその気になれば、相当の歳出カットができるでしょう。(私たち大学教員の世界で言えば、国立大学などは学生定員を倍にして、その分補助金をカットしてもいいと思います。1人の教員が平均5人程度しかゼミ生を指導しなくていいなんて、教員の仕事としては楽すぎますし、学生にとっても刺激が少なくておもしろくないはずです。)もちろん今回の政権構想の中で首を傾げるものもあります。公立高校の授業料の無料化と高速道路の無料化などは、無駄な支出を削減するという案と矛盾していておかしいと思います。高校にしても高速道路にしても、ある程度の受益者負担はみんな納得するはずです。むしろ、無料化の方が利用しない人たちから見たら不公平に思えるでしょう。いずれにしろ、自民党総裁選も単なる見た目のパフォーマンスに騙されずに、この小沢一郎民主党の政策と比較しながら、各候補者の政策を見てほしいと思います。

295号(2008.9.2)予想以上に早かった

 昨晩、福田総理が辞意を表明しました。予想以上に早かったですね。福田内閣はもう長くはないし、総選挙をする前に辞めるのでは、という文章を書こうかなと思っていたところでしたが、私の予想よりもかなり早かったです。臨時国会ぐらい乗り切って、消費者庁や道路特定財源の一般財源化ぐらいはやってから辞めるのではと思っていたのですが……。泥をかぶってでも責任を取るということのできない、トップの資質のない無責任な政治家です。正直言って、1年前は福田康夫という政治家にかなり期待をしていました。森、小泉両内閣で、官房長官を巧みに勤め上げたイメージがあったのでやれるだろうと思ったのですが、この1年を見ていて、No.2には向いていてもNo.1には向いていない人だったんだということがよくわかりました。元官僚ではありませんが、体質が官僚的です。上から与えられた課題を的確にこなす能力はあっても、自分で課題を立てて、万難を排して、その課題を達成する人ではなかったようです。私は、小泉元首相のような強い(強すぎる?)リーダーシップを発揮する政治家が一番よい総理大臣だとは思いませんが、やはり途中で投げ出したり、他人事のような喋り方ばかりする総理大臣も評価できません。福田総理はもともと政治家の道を歩む予定ではなかった人です。福田赳夫元総理の長男ですが、かなり早い時期に父親の福田赳夫は、「康夫は政治家に向いていない」と判断し、次男を後継者に考えていたそうですが、いろいろあって、結局後を継ぐために、長年勤めた石油会社をやめ、政界に転身したのです。今となってみると、父親の最初の評価は正しかったんだなと思わざるをえません。

 しかし、安倍前総理ほどドラマチックな辞め方ではないので、話題は「次は誰?」という話にすでになってきています。麻生太郎が大本命でしょうが、小池百合子なんて声も上がっています。私は個人的にはどっちもたいして評価できませんし、どっちがなってもたいして風も起こせないでしょう。選挙向けの顔でサプライズを起こすなら、後藤田正純だと思いますが……。まあでも、永田町的論理に囚われている多くの自民党政治家たちはそんな発想力を持つ人はいないでしょうね。(小泉再登板は言い始める人がいるでしょうが、自分の美学を貫きたがる小泉純一郎が出てくることは100%ないでしょう。)

294号(2008.8.31)記録を残すことの大切さ

 なんかあっという間に8月最終日を迎えてしまいました。今年も残すところあと3分の1です。時間の経つのは早いものです。小学生時代はもっと時間がゆっくり流れていたような気がするのですが、中学校入学以降は早いです。特に最近は歳のせいか本当に時間が早く流れていくと感じます。私の人生も平均余命で考えれば、残すところちょうどあと3分の1というところです。人生の夏が終わりかけということですね。ああでも、1年は冬のさなかに始まりますが、人生は春から始まるのでしょうから、私の年齢では夏などはとっくに過ぎ、すでに晩秋に入る頃ですね。別にだからと言って、暗い気分になっているわけではありませんが、50数年はそれなりの長さです。こんなことは、もっと晩年にやるべきことかもしれませんが、記憶頼りだと、さすがにどんどん抜けていくので、今のうちから、少しずつ記録に残せるものは残しておこうと思ったりしています。昨年ぐらいから少しずつやってきているのが、自分がしてきた旅の記録作りです。子ども時代から現在まで、いろいろなところに出かけてきました。昨春に山形に出かけ、47都道府県すべてに出向いたことになりました。これを機会に、いつ、どこに、何の目的で、誰と行ったかを整理しておこうと思ったのです。日記はつけていないので、大学入学以前はアルバムの写真から記憶をたどり、大学入学後はスケジュール帳を頼りに記録を作りはじめましたが、結構思い出せない所もあって、ああ、もっときちんと記録をつけておくべきだったと、ちょっと後悔しています。それでも、500回近い旅(調査や出張を含みます)の記録を作るのは、なかなか壮大な試みです。一応つい最近の旅までたどり着いたのですが、まだ記憶が蘇らないところがたくさんあるので、少しずつ資料を探し出して、完成版にしていきたいなと思っています。ちなみに、この記録作りをしている中で、「あれっ、そんなところに行ってたんだ」とか、徳島県だけには宿泊していないことなどが判明しました。他にも年賀状の記録、ゼミに関する記録、研究関連の記録、などいろいろな記録を作っています。「記録魔」とまでは言えない程度のことしかしていませんが、なんということのない日常生活の記録でも、時間が経つと、それなりの価値が出てくるように思います。若い時は、こんなことにあまり興味を持たないと思いますが、そういうことに興味が出てきた時に、整理できるようなデータをきちんと残しておくといいと思いますよ。どんな平凡な人生でも、記録で振り返ってみると、それなりの重みを感じます。これだけ生きてきたんだなと感慨深く思えることは間違いなしです。

293号(2008.7.26)22年ぶりの「男女7人夏物語」?

 フジテレビ系列の「27時間テレビ」を、23:00から1:00頃まで見ていませんでしたか?基本的に、この手の番組には興味がないのですが、ふとチャンネルを回したら、明石家さんまと大竹しのぶが共演しているではないですか。生放送でこんな2ショットは滅多に見られないだろうと思い、仕事を放り出して見ていましたが、予想以上におもしろかったです。たぶん、この生放送がもう一度再放送されたり、DVDになったりすることはないと思うので、今日見ていた人はお得でした。(ああ今は、YouTubeとかがあるから、見られますね。)きっとしばらく話題をさらうでしょう。瞬間視聴率もかなり取ったんじゃないでしょうか。それにしても、あの元夫婦に生放送で喋らせるとは……。まるっきり、2人が共演して大ヒットした22年前のドラマ「男女7人夏物語」を見ているようでした。あの漫才のような掛け合いは脚本ではなくて素でやっていたのかなと思いたくなるほど、同じようなリズムでした。しいて違いを言えば、大竹しのぶは役柄の方がよく喋り、実際は、そんなに喋らないけれど、表情と時々の発言で強烈な存在感を示すという感じでした。生放送だったので、何か喋ってはいけないことまで喋り始めるのではないかと、見ているこちらまでドキドキしてしまいました。久しぶりに、テレビにしかできないおもしろさを味わいました。

292号(2008.7.18)3次オイルショック

 今年の急激なガソリンの値上げは誰もがよく知ることですが、最近しばしば見かけるようになってきたのが、古新聞、古雑誌をはじめとする廃品回収車です。80年代初め頃までおなじみだった廃品回収車ですが、80年代半ば頃からはほとんど見かけなくなっていたのが、ついに再登場してきたわけです。それだけ様々な資源の価格が上がっているということでしょう。石油の値上げに伴い、ありとあらゆるものが値上がりしています。こんなにいろいろなものが値上げされるのは、1973年に起こった第1次オイルショック以来のような気がします。あの時は、今よりもはるかに短期で急激な値上げで、「狂乱物価」とまで言われ、また電力不足に対応するために、テレビの放送時間が短くなったりしましたので、誰もが、オイルショックの影響を認識していました。しかし、1979年の第2次オイルショックの時は、第1次オイルショックの反省から石油の備蓄もしていたせいか、庶民の生活を極端な形で直撃するようなことがありませんでしたので、当時大人として生きていた人でも、「1979年はオイルショックだったっけ?」と首を傾げる人も多いと思います。(「クールビズ」ならぬ「省エネルック」と言われた半袖背広を政治家が流行らせようとした年と言えば、「ああ、そんな年があったな」と思い出してもらえるのではないでしょうか。)今回も、表面的には第2次オイルショックに近く、いろいろなものが値上げされてはいますが、目をむくほどの値上げという感じではないので、まだ「第3次オイルショック」という言葉も、マスコミで流れていませんが、もう時間の問題でしょう。誰か著名人が本でも出して、「これは、第3次オイルショックだ」と言い始めたら、一気に広まるでしょう。(私が、ここに書くだけでは、残念ながらマスコミも食いつきません。)第1次の時も、第2次の時もそうでしたが、いったん上がった物価の大部分は元には戻らないものです。今回は投機マネーが値をつり上げているという話もありますが、中国やインドのような巨大人口を抱える国が急速な発展を続けていますから、長期的にみれば資源不足がより厳しくなることはあっても解消されることはないと思います。2008年は、大きなターニング・ポイントになったと後に語られる年になるのではないかと思います。

291号(2008.7.14)キムタク総理の言葉は届かないかな?

 ドラマ「CHANGE」が終わりました。ドラマとしては70点ぐらいの出来でしたが、政治を真正面から取り上げ、現代の大スター・木村拓哉が総理を演じるということで、ドラマの内容以外にいろいろなことを考えることができるので、学生たちにもずっと勧めてきました。最終回は20分以上の長セリフを総理として木村拓哉がドラマの中の視聴者に語りかけるという形で、現実世界の視聴者にも語りかけてきました。要は、政治を変えるのは有権者の1票だから、よく考えてちゃんと投票しようということなのですが、このドラマを真剣に見ていた人には、このキムタク総理の言葉は伝わったでしょうか?よく考えてちゃんと投票に行かなければと思った人が結構いたのではないかと思いますが、ただ、これがいざ実際の選挙になると、みんな政策に関する判断がつかないので、小泉元総理のような単純な論理を構築するトリックスターに騙されてしまうんですよね。国のもっとも重要な決定をする衆議院議員を、郵政民営化に賛成か反対かだけで票なんか投じてはいけないのに、(そして、そのことを、当時の民主党代表・岡田克也がずっと言い続けていたのに、)実際にはやってしまうんですよね。そういう安易な風に流されない人の中には、逆に投票は自分に直接的な利益をもたらしてくれる候補者に投票するという利権主義も蔓延っています。公共事業をもってきてくれるか、自分の関係者をいい仕事につかせてくれるか、など、「どぶ板議員」としてどれだけ働けそうかで、票を入れたりします。有権者1人1人が社会のあり方を考えて、こういう社会にするためには、どちらの政党がよいかを判断できるようになって来ないと、キムタク総理の大演説も実際には何も変えられないという結果を生み出すだけです。ドラマでは、有権者が良心的な存在として描かれていましたが、実際には、有権者がだめだから政治家もだめなのです。昔ある自民党政治家が「この程度の国民にはこの程度の政治家」と言ったことがありますが、実際その通りだと思うことがしばしばあります。社会のことなんて自分が考えることではないと、大多数の国民が思っている限り、日本の政治は健全なものにはならないでしょう。しがらみのない無党派層が上からの指示通りに投票する組織票よりはるかに大きな数になり、彼らが社会のことを考えて投票するようになれば、日本も期待できなくはないのですが……。

290号(2008.7.10)モナ・プロブレムにみるダブル・スタンダード

 タレントでキャスターの山本モナが巨人軍の二岡智宏とホテルに入る写真を撮られ、どうやら始まったばかりの情報番組を降板させられるようです。以前「NEWS23」のキャスターに決まったばかりの頃にも民主党の衆議院議員・細野豪志と路上キス写真を撮られて降板させられた経歴を持つ彼女なので、「またか」と前以上にバッシングを受けているようです。しかし、彼女の弁明を聞くと、酔った二岡にしつこく迫られ路上で言い争うのもまずいので、ホテルに入っただけで、決して不倫行動などは行っていないそうです。どこまで本当かはわかりませんが、かつて一度痛い目を見たわけですから、私は彼女は真実を語っているのではないかと思います。となると、飲み直そうと誘われて、2人だけでタクシーに乗ってしまったというのは、少しまずい行動かもしれませんが、基本的に非は9割がた二岡選手にあると思います。【追記:写真と記事の載った女性週刊誌を読んだところ、二岡を「その気」にさせてしまった行動があったようで、山本モナにももう少し責任はありそうです。】しかし、巨人軍代表によれば、二岡には注意するそうですが、そのせいで1軍には上げないといった懲罰は一切しないそうです。1軍に上げるかどうかは野球の技量の問題で、今回の問題はそれとは関係ないそうです。なんかおかしくないですかね?それなら、山本モナの方も、キャスターとしての技量で判断してあげるべきでしょう。あまりに男に甘く、女に厳しすぎるダブルスタンダードです。前の不倫騒動の時の相手の細野豪志も政調会長代理という職を離れただけで、議員をやめたわけではありません。男にとっては不倫のひとつぐらい勲章みたいなものだといった見方がまだ生きているようです。まあ、前の時は実際に不倫行動もあったようですし、山本モナの方も、それをきっかけに違うキャラクターとして売れたわけですから、「災い転じて福となす」というところもあったかもしれませんが、今度はどうなんでしょうね。実際は、酔った男に無理矢理迫られた被害者のような地位にも思えるのに、彼女だけサンクションが大きすぎるような気がします。

追記(2008.7.11):巨人軍オーナーが世間での反響の大きさを気にして、二岡にマスメディアの前での直接の謝罪と1軍に上げる時期の延期を言い渡しましたが、すべての番組の出演見合わせと謹慎を言い渡された山本モナに比べると、まだまだ不公平で、十分「ダブル・スタンダード」です。大体、二岡の方は「火遊び」で、モナの方は「不倫」って書かれているのもどうなんでしょうか?書くなら、結婚している二岡が「不倫」(倫理に反する行為)で、独身のモナの方が「火遊び」(危険な遊び)じゃないのでしょうか?

289号(2008.7.3)ひこにゃんの潜在的逆機能

 滋賀県彦根市には、国宝彦根城(写真左上)があります。初めて行ったのはもう10数年前になると思います。大学のセミナーハウスがあるので、ほぼ毎年のように彦根には行っているのですが、昨年の「彦根城400年祭」に合わせて作られたキャラクター「ひこにゃん」(写真右上)が当たってからは、彦根はすっかり「ひこにゃん」の町になってしまいました。学生たちを連れて行っても、彦根城の歴史と建築の技に思いを馳せるよりも、ひこにゃんグッズを探すのに、みんな一所懸命です。しかし、彦根市としては、観光客が集まるようになってくれたので大成功という意識でいることでしょう。もともと500円しかしなかった彦根城観覧券を「400年祭」の時期には1000円に上げることにしたため、開催前は、この値上げの方がニュースになっていたぐらいでした。しかし、ひこにゃん人気のおかげで、こんな無茶な値段設定のことに誰も触れなくなり、実際に観光客も集まったわけですから、彦根市としては大満足なわけです。(ちなみに、今年の観覧券は600円でした。「400年祭」が終わったにもかかわらず、500円に戻さず100円値上げしたわけです。)もともと彦根の町づくりはあまりセンスがいいとは言えませんでした。ちゃんとした古い建物が残っている一角(写真左中下)もあるのに、そちらはほとんど宣伝せずに、「京橋キャッスルロード」(写真右中)という昔風の建物の雰囲気だけを出した商店街をつくり、さらに「四番街」(写真右下)というところには「大正ロマン溢れる町」(実際には、ちっとも溢れていませんが)という妙なコンセプトの町をつくり、なんとかミーハー観光客を集めようとしていました。この発想の延長線上に、ひこにゃんを登場させ、ついに「三度目の正直」で当たったということです。今や、ひこにゃん以外に、「いしだみつにゃん」、「しまさこにゃん」、「やちにゃん」、「さばにゃん」、「ひごにゃん」と、まるで「にゃんにゃん王国」です。「いしだみつにゃん」と「しまさこにゃん」は石田三成と島左近ですからまだわかりますが、他の3つ(3匹)になると何やらよくわかりません。ネットで調べたら、「やちにゃん」は井伊直弼の次女の弥千代姫で、「さばにゃん」は鯖江市と関連があるからで、「ひごにゃん」は肥後の大名だった加藤清正との関連だそうですが、彼らが彦根にとってどういう重要性があるのかさっぱりわかりません。いずれにしろ、こんな「ゆるキャラ」の町として名前が知られるようになることで、彦根市民は誇りを持てるのでしょうか?歴史を活かして地道なまちづくりの努力をしている地域をあざ笑うかのような「ひこにゃんブーム」です。2年後に開かれる平城京遷都1300年祭も、その歴史の重みが顧みられず、「せんとくん」や「まんとくん」がどれだけ人気を博すかという注目の集め方になっています。歴史を知らないことを恥ずかしいとも思わなくなっている日本人観光客を集めるために、こんな方法が手っ取り早いのでしょうが、こんなまちづくりが日本中に流行していくのかと思うと、ぞっとします。何も売り物がない町なら、こんなまちづくりも理解できなくはないですが、彦根ほどの歴史と遺産を持った町が、こんな形で知られていくことを成功として位置づけているのだとしたら、本当に残念です。「ひこにゃんの潜在的逆機能」という言葉が、私の頭の中をよぎります。

288号(2008.6.28)「○○力」という本はもうやめませんか?

 今、書店の新書売場に並ぶかなりの数の本に「○○力」というタイトルが付いています。『質問力』、『察知力』、『読書力』、『空腹力』、『段取り力』、『自信力』、『大人力』、『教師力』などなど、あげていったらキリがありません。中には、そんなものに「力」をつけたらおかしいだろうというものもたくさんあり、日本語を乱れさせています。このブームのきっかけは何だったのでしょうか?私の記憶の限りでは、1998年に単行本として出た赤瀬川原平の『老人力』だったような気がします。これが出た時は、ただ弱っていくだけ呆けるだけと見られがちの存在である老人こそ、それゆえのパワーを発揮できるのだということを、「老人力」というネーミングで表しており、それは逆説的で非常におもしろい発想だと思いました。しかし、それ以降徐々に「○○力」とタイトルに冠する本が増えていき、意味のない「○○力」という本が跋扈するようになりました。今や明らかに著者がつけたのではないであろう、出版社の売らんかな精神が見え見えの本ばかりになっています。「○○力」とタイトルに入った本は、「○○の品格」本とともに、まともな読者を萎えさせる、下らぬ本の象徴となっています。当たり前のことですが、本のタイトルというのはとても大切なものです。本の中味を示すエッセンスになっているだけでなく、どんな中味なのだろうと期待感を持たせる、そういう機能を果たさなければならないものです。上にあげた「○○力」という新書の場合、タイトルを見ただけで浅い中味の想像がついてしまう気がしませんか?その中には、実は中味の濃いおもしろい本があるのかもしれませんが、こういうタイトルの付け方をしてしまった時点で、つまらなさそうな本になってしまっています。今は、新書戦国時代で、ありとあらゆる出版社が新書を刊行しているので、丁寧な編集をして中味の濃い本を出すより安易な作りでも次々に出し、本を見ぬく目のない読者に買わせることを狙っている本作りが一般化しているように思います。老舗の岩波新書や中公新書に、こうした節操のない「○○力」といった本が少ないのがせめてもの救いです。本を見る目を養って、「○○力」というタイトルだけで本を買うのは、やめにしましょう。出版社の編集者ももう少し頭を使ってタイトルを考えてください。人々の知識を増し、思考力(これは無理な「○○力」とは違う日常用語です)を高める機能を果たすはずの出版界が、日本人の幼稚化に貢献してどうするんですか。もっと、いい仕事をしましょうよ。

287号(2008.6.23)サッカーに学ぶ組織論

 久しぶりに、サッカー日本代表について書いてみたいと思います。私の日本代表観戦歴(あくまでもTVでですが)もアメリカ大会予選からですから、いつのまにやら15年以上になりました。初期の頃は点を入れる場面ぐらいしかちゃんと見ておらず、戦術理解などまったくできていませんでした。フランス大会の予選の頃には大分理解できるようになり、選手交代などについてもいろいろ意見を持つようになりました。加茂、岡田、トルシエ、ジーコ、オシム、そして再び岡田とのべ6人の監督の選手発掘、起用、交替、戦術などを、それなりに分析的に見てきたつもりですが、今の岡田監督を一番評価しています。オシムの急病で急遽代理に立ち、バーレーンに負けるまで、オシムの(負の?)遺産の中で選手起用をせざるをえず、非常に中途半端なチームでした。オシムに関しては名将と言う人もいますが、私は彼の選手起用などを見る限り、ずっと疑問でした。走れる選手が好きなのかもしれませんが、サッカーは陸上競技ではありません。技術のない走れるだけの選手なんて要りません。たいして強くもないチームなのに自分が監督をしていて戦術理解ができているという理由で、そのチームから異様にたくさん選手を選ぶのも、毎回フリーのミドルシュートを枠の外に打ち続ける守備だけのボランチを使うのもずっとおかしいと思っていました。バーレーン戦に負けたことをきっかけに、岡田はオシム色を排除し、ようやく日本代表を本当の意味で岡田ジャパンに変えていけたわけです。私は、現時点の岡田ジャパンにはかなり納得がいっています。FWが少し物足りないですが、これは日本代表に永遠についてまわるテーマかと思いますので、仕方がないことと思っています。昔は大型FW1人は必要だと思っていたのですが、中澤とトゥーリオに攻撃力がありますから、彼らがCBとして健在な限りは、ゴール前のセットプレーは彼らに任せ、FWは早くてうまい選手の方がいいように思います。その意味で、玉田と大久保というコンビは悪くないと思います。MFは俊輔、松井、山瀬の3人を攻撃的MFとし、遠藤、長谷部、憲吾の3人を守備的MFと原則的に位置づけておけば、誰かが怪我をしたり出場停止になっても回せるでしょう。SBは駒野、長友、内田(後ろの2人を日本代表に抜擢したのも岡田監督の慧眼によるものです)で回せるでしょうし、ユーティリティー・プレーヤーとして今野と阿部を置いておけば、穴も埋められるでしょう。オリンピックが終わったらまた新しい戦力も試すのだろうと思いますし、力の落ちてくる選手(俊輔など危ない気もします)もいるでしょうから、来年になったら違う布陣になっているでしょうが、現時点でもこの程度の布陣が考えられるのは、岡田ジャパンはいいチームになっていると思います。

 サッカーを見ていると、ついつい組織論的発想を持ってしまいます。野球ならエースと4番バッターだけでも勝てる試合が結構あるでしょうが、サッカーはそうはいきません。11人の選手がそれぞれちゃんと仕事をしないと試合には勝てません。それぞれの選手が、敵味方の選手の調子、癖を知り、動けるスペースを見つけ出し、パスを出す、シュートを打つというのを瞬間的に判断してやらなければならないわけですから、高度な分析力、判断力が必要です。頭がよくないとすぐれたサッカー選手にはなれないだろうと思います。試合後のインタビューを聞いていても、野球選手や相撲取りなどは「最高です!」とか「無我夢中でした!」とかしか言わない人が多いのに比べると、サッカー選手はきちんと分析的に感想を言っているのも印象的です。体力のものすごくいるスポーツですが、それ以上に知力もいるスポーツではないかというのが15年サッカーを見てきた感想です。チームの中で、自分がどういう行動をしたら、一番チームが活きるのかを瞬間的に判断して行動に移す能力は、一般の集団でも使える能力だと思います。以前ロンドンにいた時に、イギリスの社会学者から、「日本人は集団主義的なのに、11のスポーツが好きなのはなぜだろう?野球も投手対打者が1対1の対決のような楽しみ方になっている。本当は、サッカーのような集団でやるスポーツこそ得意になってもいいのではないか?」と問われて、その時はいい答えが浮かばなかったのですが、今ならこんな風に答えられるかなと思っています。「日本人の集団主義は、みんな同じことをするという集団主義で、サッカーのように、1人1人が個性を活かしながら全体のためになるという行動は得意ではないからではないだろうか」と。私は以前から「滅私奉公」ではなく、「活己為公」(参考:「つらつら通信」第51号「活己為公」)が大切だと唱えていますが、そういう日本人が増えたら、きっと日本のサッカーももっと強くなり、日本のもよい社会になるのではないかと思います。

286号(2008.6.20)ひどすぎる

 ドラマ「ラストフレンズ」が終了しました。私は、最初の1,2回を適当に見て、しょうもないドラマだと判断し見るのをやめていたのですが、最後になって視聴率がぐんぐん上がっていると報道され、またゼミ生たちも最終回の予想をいろいろ語っているので、社会学者としては気になって、そんなに若い人たちを引きつける何かがあるのかと思って、最終回を見てみました。(最終回の視聴率を上げるために、TV局が午後の時間帯に3話ずつ放送していたので、最終回に至る前の4話ほどもチェックはしておきました。)いやあ、ひどい作品です。メールを書きながらの「ながら視聴」でしたが、それでも「時間を返せ!」と言いたくなる無茶苦茶な話でした。おそらく、この1週間を楽しみにして待っていた人たちもこの最終回にはがっかりしたのではないでしょうか。特に最後の方のストーリーのめちゃくちゃさと言ったら筆舌に尽くしがたい感じです。トラックと二輪で正面衝突させておいて額に擦り傷だけとか、妊婦が危ないという場面を作ってその5秒後にはもう安定しているとか……。韓流ドラマを笑えない、荒唐無稽さです。要するに、15分ほど延長した時間帯に山場(らしきもの)をいくつも突っ込んで、チャンネルを変えさせず、瞬間視聴率を上げようという魂胆でしょうが、あまりにもあざとすぎます。こんなドラマの視聴率が上がるなんて、日本の大衆の見る目のなさを象徴しているようなものです。まあ、みんな好きな役者さんを見ているから、ストーリーなんてどうでもいいんでしょうが……。長澤まさみがかわいくて、瑛太がさわやかであれば、それでいいのでしょう。「DV」も「性同一性障害」も「セックス恐怖症」もみんな刺身のつまみたいなものです。「花より男子」とか「有閑倶楽部」などの格好いい男の子を見るためのドラマと、本質は何ら変わらないのでしょう。フジTVは、調子に乗って来週特別編「もうひとつのラストフレンズ」をやるようですが、今週のストーリーのひどさからこのドラマを見限る視聴者が出てくるでしょうから、視聴率は下がるはずです。というか、大幅に下がらないといけません。浅野妙子という脚本家の名前を「才能のない脚本家」として覚えておくことにします。

285号(2008.6.14)そうめん賛歌

 少しずつ暑くなってきましたね。そうめんがおいしい季節です。今日もお昼にそうめんを作って食べたのですが、食べながら「そうめんってすごくないだろうか」と1人で感動していました。あの繊細としか言いようのない1本、1本の麺の細さ、実に見事です。そばやうどんだと自分で作ってみたりする人もいますが、そうめんだけは素人には無理でしょう。よい水と乾燥した空気、それに職人の技があいまって、あの日本の食の最高峰とも言えるそうめんができあがるのです。シンプルでいて奥が深い、まさにそうめんは日本文化のすばらしさを体現した食ではないでしょうか。私の親の出身地は長崎県の島原なのですが、この町の特産品に「島原そうめん」があります。これは今や「三輪そうめん」にまさるとも劣らない高級贈答品にもなっているのですが、毎年、母親が島原からそうめんを取り寄せて私の所に送ってくれます。この見事なそうめんを当たり前のように食べられることの幸せを噛みしめなければならないなと改めて思いました。そして、そうめんのおいしさを引き立てるのが、つゆと薬味です。しかし、実は私はつゆには凝っていません。市販のつゆが結構おいしいので、つゆは市販のものを使っています。自分でおいしいつゆを作るとなると、大仕事になってしまい、食べたいと思った時にすぐに食べられるそうめんの良さが消えてしまいますので、つゆ作りにまでは手をかけない方がいいと思っています。しかし、薬味は不可欠です。まず、青ネギとショウガがなければ、そうめんを食べる意味がありません。本当は青ネギよりアサツキの方がより良いのですが、まあ贅沢は言わずにおきましょう。白ネギは強すぎてそうめんを殺してしまいますが、青ネギなら大丈夫です。ショウガの繊細な辛みも絶対不可欠です。唐辛子やわさびでそうめんを食べてはいけません。断固としてショウガです。そして、この2つの薬味に加えてぜひ用意したいのが、ミョウガです。なんなんでしょうね、あの風味は。この3大薬味がそろうと、そうめんは極上の食になります。ちなみに、この3大薬味は冷や奴を食べる時にも最高の仕事をします。(冷や奴の場合は、あと花鰹もほしいところです。)このそうめんや冷や奴に合う3大薬味以外にも、日本にはいろいろな薬味がありますが、この薬味というのも、まさに日本の食文化のオリジナリティを体現したものでしょう。外国の料理では、調理過程で薬味が混ぜ合わされて作られることはありますが、食卓に薬味として出てくるということはほとんどないのではないでしょうか。海に囲まれた山だらけのこの日本で取れる自然の恵みを活かして、見事な味のハーモニーを作り上げてきた先人達の知恵に脱帽です。

284号(2008.5.30)天下の大悪法・裁判員制度

 国の法律や制度というのは、大多数の国民を幸せにするために作られるべきです。時にはそれが短期的な痛みを伴い、大多数の国民からブーイングを浴びることになっても、長期的には国民のためになることなら、敢行しても構わないと思います。これまでの例では、消費税制度の導入などは、そういうケースにあたると思いますし、今民主党をはじめとする野党が廃止法案を国会に提出し、与党もまたバタバタと変更しようとしている「後期高齢者医療制度」なども、問題点を改善すれば、廃止はしない方がよい制度ではないかと思います。しかし、中にはどう考えても、国民のためにならない悪法というのがあります。過去にもそういう法律や制度が作られてきましたが、今過去のどの法律以上に悪法としか思えない法律が実施されようとしています。それが来年521日から導入されることが決まっている「裁判員制度」です。地方裁判所で扱われる重大事件の裁判に、無作為抽出で選ばれた一般人6人が裁判員として関わらされ、3人の裁判官とともに有罪・無罪の審理、そして有罪の場合は量刑も決めなければならないのです。この制度に関する調査がいろいろ行われていますが、どの調査においても78割以上の国民が「裁判員になりたくない」と回答しています。ところが、この裁判員を務めるのは「国民の義務」とされ、よほど特別な事情がない限り、辞退はできないのです。万一出廷を拒否すると10万円以下の罰金が科せられます。さらに、しぶしぶ裁判員を務めたとしても、裁判員として知り得た情報は終生守秘しなければならない義務が課せられ、万一情報をもらしたら6ヶ月以内の禁固刑か50万円以下の罰金が科せられるのです。信じられないと思いませんか。誰もやりたいと思っていない仕事を無理矢理押しつけられ、終生秘密保持を義務づけられるなんて。さらに腹が立つのは、ここまで強引なことをして一体どういうよいことがあるのか、何のためにこんな制度を導入したのか、明確な理由を答えられる人がちゃんといないlことです。裁判が身近になるという人がいますが、日本国民の大多数は裁判なんか身近なものになってほしいと思っていないはずです。特殊な世界に生きている裁判官の判決に普通の人の感覚を入れるためというような理由を言う人もいますが、もともと刑法が普通の感覚とは異なるものとして作られている部分がたくさんあり、その法律を前提としなければいけないのに、そんな普通の感覚なんか十分に生きるはずはありません。法律も変えていいのであれば、もっと普通の人の感覚が生かせるかもしれませんが、その普通の感覚というのもマスメディア情報で操作されていますので、怪しいものだということも、みんな知っています。司法試験という難関試験に合格し、さらには司法修習生として心構えも学んだ人々だから、人を裁くという難しい仕事もできるのだろうと思って、彼らが社会的に高い地位と収入を得ていることも認めているのです。それを知識も覚悟もない人にやらせるというのはまったく間違っています。大体、司法に一般人の感覚を入れたいなら、法科大学院など作って一般社会を経験しない方が司法試験に受かりやすくする制度などを導入するのは矛盾しています。日本の司法制度には一貫性がありません。いずれにしろ、この大悪法は即刻廃止すべきです。少なくとも、私は大反対ですし、お喋りなので守秘義務なので絶対に守れないので、要注意人物としてブラックリストに入れて裁判員になれないようにしていただきたいものです。

283号(2008.5.30)4×4制がいいのでは

 最近の小中高校生を見ていると、現行の6年、3年、3年という分け方が時代に合っていないような気がしてなりません。学生たちとよく小学生の携帯所有やおしゃれについてどう思うかなんて議論をよくするのですが、どのテーマになっても小学生と言っても、1,2年生と5,6年生はまったく違う存在として考えなければならないという話になります。小学5,6年生は、1,2年生に対するような対応では絶対にうまく対応できません。むしろ、中学生を扱うように対応すべきです。自分の子どもの話を思い出しても、小学2年や3年の担任としては評価が高かった先生が、56年の担任になると、評価が下がるという例を複数見てきています。そうした評価の低下が起こる最大の理由は、5,6年生を低学年と同じように先生が扱おうとすることです。こういう実態を考えると、現在の633制より、444制にした方がよいと思えてきます。現行の小学14年生のみを小学生として、小学5年生〜中学2年生までを中学生、中学3年生〜高校3年生までを高校生とするという制度です。年齢的には、610歳が小学生、1014歳が中学生、1418歳が高校生です。こうすることで、各段階の教師は子どもたちの扱いが今よりやりやすくなるでしょうし、また子どもたちにとっても、現在の中学、高校で感じている、ようやく学校に慣れたと思ったら、もう次の段階に進むための入試のことを考えなければならないという慌ただしさを感じずに済み、もう少し余裕を持って読書をしたり趣味に時間を費やしたりできるようになるはずです。大学の4年制も合わせて、日本の教育制度を4×4に変更すると、教育はやりやすくなると確信しています。これは大改革なので、現行の学校施設というインフラを利用して行うには難しいこともあると思いますが、子どもの数も減ってきていることですし、25人学級などを目指さずに、中学、高校は40人学級でよいと考えれば、現行のインフラ+αぐらいで対応は可能ではないかと思います。こういう政策を掲げて総理大臣になってくれる人はいないでしょうか。

282号(2008.5.19)番犬型男性とペット型男性

 ペットを卒論のテーマにしたいという学生のレポートについてみんなで議論しながら、「番犬からペット」にポジションを変えてきたのは犬だけでなく、男性もではないだろうかとふと思ってしまいました。かつての男性の役割は家族を守ることにあり、守るためには少し強引だったり荒っぽくても経済的にも精神的にもたくましさを持った人の方がより高く評価されていました。しかし、今はどうなんでしょうね。自分でそれなりの経済力を持っている女性なら、「俺が家を守るんだ」と吠えまくる「番犬型男性」はうっとうしいだけなのではないでしょうか。むしろ、疲れた自分を癒してくれる「ペット型男性」の方が好まれているような気もします。藤原紀香が陣内智則と結婚したのも、こう考えると納得が行く気がしませんか?実際、現代の男子学生たちを見ていると、「番犬」より「ペット」向きという感じの人の方が多いように思います。たくましさよりやさしさを、内面(知識や教養)より外見を重視するといった「ペット型男性」は急速に増殖してきています。そうは言っても、若い未婚の女性たちはまだまだ経済的にも精神的にも守ってくれる男性を求めているようですので、「ペット型男性」も実際にはそれほどもてないかもしれませんが、だからといってドーベルマンやシェパードのような威嚇的な「番犬型男性」も人気がないように思います。おそらく、大型で頼りがいがありそうに見えながらかつ優しそうなゴールデンレトリバーあたりが理想のイメージに近いのではないでしょうか。子どもから手が離れた現代の既婚女性たちが、古い「番犬型男性」である夫はなるべく家にいない方がいいのにとぶつぶつ言いながら、ジャニーズ・タレントやペットに愛情を注いでいるのも自然な行動とも思えてきます。そう言えば、「ヨン様」って、なんかゴールデンレトリバーっぽいイメージがありませんか?

281号(2008.5.18)「ワッハ上方」を関大の施設にしよう!

 これは、社会学専攻のF先生から出たアイデアなのですが、非常におもしろいし、実現可能性もあるのではないかと思いましたので、誰か大学関連の有力者が読んでくれるのを期待しながら、ここに書いておきます。橋下財政改革案で、売却あるいは廃止などの候補に上がっている「ワッハ上方」という「笑い」の資料館ですが、これを関西大学が購入したらいいのではないかというのがF先生のアイデアです。聞いた瞬間、これはおもしろいと思いました。他の先生方にも好評でした。「お笑い学部」を作るのは、あまりにあまりですが、笑いの資料館の管理・運営主体になるのは、笑いのメッカ・大阪にある大学としての目玉にもなるように思います。具体的な方法はいくつか考えられるでしょう。@今の場所のままで、名前(「関西大学上方笑い資料館」あたりでしょうか?)と利用の仕方などのイニシアチブを取る管理運営主体としての費用を負担する。A今のビルでの賃貸料等が高すぎるなら、資料の保管主体となり、千里山キャンパスにそれを展示するための施設を作り公開する。B(あまり賛成ではないですがどうやら決まったらしい)堺の新キャンパスの目玉として、そこに公開する施設を作る。とりあえず、こんなところではないでしょうか?今の大阪府の維持運営の仕方は下手くそすぎるので、お役人仕事感覚を捨てて、やり直したら、それなりにやりくりのつく施設になると私は見ています。たぶん、お偉いさんに対してはほとんど影響力のないHPなので、何も起こらないとは思いますが、一縷の期待を抱いて掲載しておきます。

280号(2008.5.13)三手先まで読もう

 うちのゼミでは3回生の時に、「ニュース討議」をするのが恒例になっています。大体盛り上がるものなのですが、たまに盛り上がらない時があります。もちろん、ゼミメンバーがまだ互いのことをよく知らず警戒しすぎて喋りにくいという場合もあるのですが、ニューステーマを持ってくる人のシミュレーション不足が原因のこともしばしばあります。まずは、学生が喋りたくなるテーマを選ぶのが大切です。たとえば、経験に基づいて喋れる、あるいはインパクトが強いので自分なりの意見を言いたくなるテーマなどは盛り上がりやすいです。しかし、テーマ以上に大切なのが、問題提起の仕方です。このテーマをこういう角度から語ったら、こんな反応が出てくるのではないか、そしたらこう返答してみよう、といったシミュレーションをしておいてほしいのです。自分が問題提起をすれば(一手目)、聞いていた誰かがきっとこういった反応をする(二手目)、そしたら自分はこう答える(三手目)、とここまでは考えて問題提起をしてほしいのです。それが、一手目しか考えずに問題提起(ただテーマを示しただけ?)をした場合は、たまたま話が広がる場合もあるでしょうが、多くの場合は議論しにくいものです。もしも自分自身を聞いているみんなの立場におきかえて、こういう風に問題提起されたらこういう風に反応できるな、とか反応しにくいなと、シミュレーションをしておき、反応が出やすいように工夫しておけば、ちゃんと誰か狙い通りに反応してくる可能性は非常に高くなります。そして、その反応に対して、こう答えることで、さらにいろいろな反応が出てくるだろうというところまで想定できればOKです。とりあえず、自分の問題提起、周りの反応、自分の返答の三手はぜひ考えておいてください。

 ちなみに、この「三手先まで読む」というやり方は、いろいろなコミュニケーション場面に広く応用できると思います。初めて知り合った同士でコミュニケーションを取ろうと思った時にも、質問だけ投げかけて相手が答えてもそれに反応しないと、コミュニケーションは広がらないし、不快に思われるだけです。しかし、ちゃんと相手の答えを拾って、「へぇー、読書が好きなんだ。いやあ、ぼくは最近はあまり読まないけど、昔読んだ○○って本はおもしろかったなあ……」とつなげれば、話はそこからどんどん展開していくものです。(合コンの時とかはこんなコミュニケーションを必死でやっているでしょ?)また、面接の場面でも、簡単な質問をされた時(たとえば、「我が社を選んだ理由は?」これは、面接官にとっては一手目ですが、面接される側からすると0手目にあたります)、何か答えなければなりません。その時に、紋切り型の志望動機を答えるだけでなく、シミュレーションをしっかりしておいて、相手が食い付いてきそうな話を織り込むようにすれば(一手目)、相手は狙い通りのところに反応してきます(二手目)、そしたらこう答える(三手目)と、そこまで用意しておけば、それなりの印象を面接官に与えられるはずです。賢い人は、さらにその数手先まで読んだりしますが、先に行けば行くほど読み通りにならない可能性は高くなりますので、あまり自分で先の方まで絵を描きすぎると、逆に読み通りにならなかった時の柔軟な対応がつきにくくなります。普通の人は、三手でちょうどいいと思います。デートマニュアルに従って行動しようとして、うまく行かなくて困ったなんて男性は結構いるんじゃないでしょうか。ちなみに、シビアな場面でのコミュニケーションでは、二手目はひとつだけ考えるのではなく、複数想定できないと実際には使えないでしょう。ただし、普通の人間ってそんなに変わった反応はしないものなので、3通りぐらい二手目と三手目を考えておいたら対応はつくと思います。

279号(2008.5.4)そこに昭和があった

 ゴールデンウィークで初めて息子が帰阪し、大学の話をいろいろ聞かせてくれて、ついでに「お父さんの時はどうだった?」と聞いてきたので、30年前の卒業アルバムを引っ張り出してみました。卒業アルバムなんて、ちゃんと見るのはいつ以来か思い出せません。もしかしたら30年ぶりかもしれません。いや、その頃は適当にしか見なかったような気がするので、初めてのようなものかもしれません。なんだかものすごく新鮮でした。まるで青春映画のポスターのような写真がたくさん載っていました。まさにそこには「昭和の青春」がありました。(右の写真もその1枚です。ミニスカートの女性はまるでデジタルカメラで写真を撮っているようなポーズに見えますが、デジカメなどない時代ですので、おそらく陸上部のマネジャーか何かでタイムを測っているのだと思います。)昭和と言っても50年代のはじめ(1970年代半ば過ぎ)頃なので、昭和30年代のようなノスタルジーは感じないのではないかと思っていましたが、いやいやどうして、やはり30年は大きいですね。まったく今とは違う時代なんだということを改めて確認してしまいました。車も町の風景も違いますが、もっとも違うと思ったのは、自分を含めた大学生たちでした。個人写真などは、今の学生たちが見たら、みんな30歳以上に見えるのではないでしょうか。落ち着いているというべきなのか、老けているというべきなのかわかりませんが、とにかく違います。自分の世代のことなので、そんなに大人だった気もしないし、たいした違いはないだろうと思っていましたが、顔を見るだけでも大分精神年齢が違いそうです。大学生が幼くなっているのはやはり事実かもしれません。それにしても、あの頃は卒業アルバムなんて無駄に高いし、自分の写真なんか個人写真が1枚載っているだけなので要らないと言っていたのを、母親がお金は出すから買っておきなさいと言ったので、しぶしぶ買っておいたのですが、30年経って、母親に感謝したいと思いました。結構いいものです、卒業アルバムは。

278号(2008.4.25)馬鹿馬鹿しい

 明日の長野での聖火リレーを前に、厳戒態勢の元、聖火が日本に到着しました。明日は警備の人間にしか見えない形で聖火リレーが行われるようです。本当に馬鹿馬鹿しいとしか言いようがありません。日本の警備体制がどの程度のものなのかを示すだけの何の意味もないイベントです。こんな馬鹿馬鹿しいイベントになった直接的な原因は、中国―チベット問題ですが、私はその問題以上に、なんで中国でやるオリンピックに掲げる聖火が世界中を回って行かなければならないのかが疑問です。このやり方は、前回のアテネオリンピックからだそうですが、聖火の出発点とゴールが同じアテネの場合は世界中を回ってから戻そうという考えになったのはまだわかりますが、今回は素直に中国に送り、中国国内をリレーして北京に行けばよかったのです。なんで世界中を回る必要があったのでしょうか。中国オリンピック協会の方針か、最近とみに商業主義に走っているIOC(国際オリンピック協会)の方針かわかりませんが、こんなことになる前は、客を集められるイベントとして位置づけられていたでしょうから、たぶんリレー地に選ばれるためには、それ相応のお金が必要だったに違いないと思います。つまり、リレー地になるための権利を長野市などに売って商売にしているはずだと思います。長野市から言えば、予想外の不良品をつかまされ、さらに無駄な費用を払わされているという感じでしょう。こんな馬鹿馬鹿しい世界聖火リレーなどやめるべきです。そもそも、オリンピックで聖火リレーをやるという発想は、1936年のベルリン・オリンピックの際に、ナチスドイツが、戦略目標としていたバルカン半島までの道のりを確認するために始めたものです。こんな暗い過去をもった聖火リレー自体廃止されてもいいのではないかと思います。

277号(2008.4.14)そんなん、あり?

 あまり他大学のことは批判したくありませんが、京都の某有名大学で、ある学部が大幅に入学定員オーバーをして、補助金や新学部創設に支障が出そうになったため、他学部への転籍を勧めたというニュースには唖然としました。「そんなん、あり?」というのが率直な感想です。入学定員を多からず少なからずの範囲に納めるのは、教授会のもっとも重要な仕事のひとつです。入学定員が定めてあるのは教育の質を落とさないための大事な基準のはずです。文科省もその基準をきちんと守らせようと、入学定員の1.43倍を超えて学生を入学させた場合は、サンクションとして補助金のカットや、当該大学での学部等の新設等を認可しないという厳しい方針を出してきました。実際、うちの大学でも昨年新たに作った某学部がこの倍率をオーバーしてしまったため、本年度から新設される予定だった、まったく関係ない臨床心理系の専門職大学院のスタートが1年遅れることになってしまいました。しかし、それもみな、入学定員を読み間違えたこちらに非があるとして、大学関係者は甘んじて受け止めてきました。もしも、今回、文科省が、この京都の某大学の無茶苦茶なやり方に、何のサンクションも与えないなら、文科省の基準なんて、今後誰も気にしなくなります。きちんとした指導とサンクションを与えるべきです。

 それにしても、その大学の他の学部教授会の面々は、こうした無茶苦茶な方針に反対できなかったのでしょうか。当該学部の試験を受けていない学生が横から入ってくることも拒否できないなら、教授会で合否査定をする意味すら怪しくなります。教授会は理事会の方針に唯々諾々と従わざるをえなくなっていたのでしょうか。しかし、この大学に限らず、最近の私立大学は経営的発想ばかりがやたらと強くなっています。入学した学生たちに真の満足感を与えるのは丁寧な教育的指導・対応だという真理は変わっていないはずです。教員にすら中身のわからない学部を次々に新設したり、有名スポーツ選手を入学させることや名前だけ有名なタレント客員教授を集めることなど、如何にマスメディアに取り上げられるかだけを考えているような大学に、まともな未来はありません。有名ではないけれど、授業料を納めてくれる1人1人の学生たちに、ちゃんと目を向ける、そういう大学であるべきです。

276号(2008.4.3)冗談じゃない!

 『AERA2008.3.31号に、「就活が壊れる」という特集が組まれていましたが、ご覧になりましたか?企業の採用早期化が一般化してきていて、大学生たちもそれに合わせて、就活中心の大学生活になっているという話です。アナウンサーなんて一部では、3年次の秋に内々定が出るのだそうです。こうした流れを問題視したICUの准教授の「大学生は3年次から本当の大学生になる時期なのに、そういう優秀な人間になる時間を就活が奪ってしまっている」という朝日新聞の投稿が紹介されています。他方で、「複数年有効の内定を出す」と言われるW社のCEOが、「日本の大学には、人生勉強をしたり教養を高めたりすることはできても、その人の能力を高める教育はできない。その意味で、企業にとっては、学生の能力を評価する時期が1年次でも4年次でも変わりません」と言い切っています。「冗談じゃない!」と叫びたい気分です。大学教育(特にゼミでの教育)を通して、個々の学生の能力を伸ばすことはできると、私は自信を持って言えます。ゼミでの学びを通して大きく成長した学生を、私はたくさん知っています。大学教育の力を見くびってもらっては困ります。ただし、すべての大学教師がそうしたことを自覚してやっているかというと必ずしもそうではないので、出会った教師によっては、このCEOが言うことの方が当たっていると思う人もいるかもしれません。でも、だからと言って、大学教育が構造的に、学生の能力を伸ばすことはできないわけではないということは、はっきり言っておきたいと思います。要は、教師のやり方次第です。

それにしても、大学に入学した途端、「キャリア教育」やら「キャリア形成」などという言葉が聞こえてきたら、学生たちも大学生活を充実させるより、資格を取るために何かしなければいけないのかもしれないという気分にさせられてしまいます。「キャリア教育」とは就職の仕方を教える教育ではなく、自らの人生をどう作っていくかを考えさせる教育のはずですが、学生からみたら、「キャリア形成」なんて言葉は深くは理解できず、ただ単純によりよいところにどうやって就職できるかを教えてくれる教育としか思わないでしょう。そもそも、自らの人生をどう作っていくのかなんて、大学の授業で学ぶことではなく、自らつかみ取るべきものです。人生の生き方にマニュアルなんてありません。多少作れたとしても、そんなマニュアル通りに行動する人間なんてまったく魅力的ではありません。「就活サークル」やら「就職面接対応マニュアル」のようなものが大人気のようですが、そんなものを読んでいる暇があったら、自らの人間力を磨く努力をすべきです。そのための場として、大学のゼミが有効に利用できるはずです。日頃は仲の良い友達との気楽な関係の中にいて、就活の厳しい面接はマニュアルに従ってクリアしていこうなんていうのは、たとえその時はうまく行ったとしても、先々しんどくなるのは目に見えています。ゼミという場で、教師や友人たちとのあたたかくかつ厳しい意見交換を定期的に行うことで、個々人の能力は伸びてくるのです。特に、現代社会との関係を常に見つめている社会学をベースにした発想をしていれば、必ず大学教育が有効に活かせるはずです。就職活動まっただ中の新4回生はとりあえず仕方がありませんが、新3回生、2回生、1回生諸君、バタバタする必要はないですよ。今、あなたがいるその場を充実させることが、人生を幸せにする近道です。

275号(2008.3.16)夜行列車の思い出

先日、興味半分で(もちろん値段にも引かれて)東京行きの夜行バスに乗ってみました。独立3列シートというタイプで、毛布とスリッパとミネラルウォーターがつき、シートも150度くらい傾けられるまあまあのクラスのバスを選んだのですが、やっぱりそれなりにしんどいものですね。京都から乗車したのですが、すでに大イビキをかいて寝ている人がいてしばらくは気になって寝られず、ようやく眠りかけたら、トイレ休憩で、車内が明るくなり、また目が覚めてしまいました。結局、東京までの7時間半の間ほとんどちゃんとは眠れませんでした。やはり、50歳代が使う乗り物ではないですね。帰阪するときに使った新幹線が、これまで乗った中でもっとも快適に感じました。

そんな体験をしたちょうどすぐ後に、長らく東京―大阪間を走っていた夜行寝台列車「銀河」が運行を終えたというニュースを見ました。私は、「銀河」は乗ったことがなかったのですが、両親の故郷に帰るときに昔はいつも「さくら」というブルートレイン(=夜行寝台列車)に乗っていました。東京駅を午後4時頃出て、長崎に翌日の午前10時頃に着く長旅でした。夜の8時か9時頃までは中段のベッドをたたみ、下段のベッドに向かい合わせ6人で座って、旅は道連れということで、いろいろな話をしながら過ごしたものです。そして寝るときには、中段のベッドも作り、上、中、下段、それぞれのベッドに潜り込み、カーテンを閉めて、寝に入りました。「さくら」は関門海峡を渡る頃に夜が明けたと思います。工場の排煙で奇妙な色になった北九州の空をいつも不思議な気持ちで見ていたものでした。

親とは別に旅をするようになってからは、寝台列車は高いので、夜行急行をよく使ったものです。高校2年の夏は初めての1人旅で固い椅子に座ったまま20時間以上かけて九州まで行きました。大学1年の夏には1人で青森まで、大学3年の夏には友人たちと青森からの青函連絡船を経て札幌まで急行列車で行きました。同じく3年の春には、金沢経由で関西に行きましたが、朝着いた金沢駅で家出人に間違われ、かなりしつこく警察官に質問を受けるというおかしな体験もしました。最後に乗った夜行列車は、修士論文を書き終えた春に東京から関西に遊びに行くときに乗った大垣行き急行でした。その時は、ちょうど旅に出る日に仲の良い地元出身の友人が地方から戻ってきて、「すれ違いは残念だから東京駅まで見送りに行くよ」と言って、東京駅まで来たのですが、なんとなくノリで「俺も一緒に行こうかな」と言って、彼は手ぶらでそのまま一緒に夜行列車に乗って関西への旅に来てしまったというおもしろいエピソードも残っています。夜行列車と青春が重なります。

(追伸:当たり前ですが、記憶は薄らぐものですね。旅の思い出は強烈だから、しっかり覚えているだろうと思って書き始めましたが、書こうと思っていざ記憶をたどるとかなり曖昧になっています。写真も残っているような部分は覚えているのですが、途中がつながらなくなってきています。ずいぶん年月が経っているから仕方がないと言えば、それまでですが、なんだかとても残念です。この学生時代に旅行であちこち行かれた方は、ちゃんと記録を整理しておいた方がいいですよ。)

274号(2008.3.12)巣立ち

4月から息子が東京に行くことになりました。志望の大学に合格して行くのですから、嬉しい気持ちもありますが、急激に寂しさが襲ってきました。174ヶ月、5人家族で暮らしてきたのに、4月からは4人家族になってしまうんだなと思うと、寂しくて仕方がありません。昨日あたりから、息子の小さい時からの姿が走馬燈のように始終頭に浮かんできます。いずれは娘たちも出て行く日が来て、家族ってこうやって徐々に減っていくんだなと思うと、めちゃめちゃウエットになります。とりあえず、子どもが1人でなくてよかったねと妻と話しています。それにしても、洋服も靴も母親の買ってきたものを何の疑問もなく着ていたような18歳の男の子が、大東京で果たして1人で暮らしていけるのでしょうか。不安が募ります。でも、だんだんと覚えて行ってなんとかなるんでしょうね。これが「巣立ち」ってものなんでしょうね。「かわいい子には旅をさせよ」とはよく言ったものです。どこかで突き放さなければ、子どもも成長はしないわけですし。私たちと同じような立場に置かれた親御さんなら、みんなきっと大なり小なり似たような思いに囚われることと思います。子どもが生まれた時もそうでしたが、こういう親の思いというのは、その立場になってみて、初めて実感としてわかるもののようです。大学入学はもちろんですが、新社会人となって、初めて自宅を出る人もたくさんいることと思います。18歳よりはましだとは思いますが、たぶん親御さんからしたら心配で仕方がないことでしょう。まめにとまでは行かなくても、たまには連絡を取ってあげてくださいね。また、お母さんたちは、多少「うざい」と思われても、メールならどんどん送ったらいいと思います。「おかんはうざい!」とか言って返信もあまり返ってこないと思いますが、実は子どもも嬉しいはずだと思います。(ちなみに、父親は格好つけですから、気になっていても、おかあさんたちのようには、メールも送れないものです。)

273号(2008.3.4)新しい集団に飛び込むなら

 3月に入りました。あと1ヶ月もせずに、新年度がやってきます。新年度になれば、多くの人がそれぞれ新たな集団に飛び込むことになります。そこで、ひとつだけアドバイスをしておきたいと思います。それは、どうせ新しい集団に飛び込まなければならないのなら、腹を決めて心を開いて飛び込んで行ってほしいということです。中途半端な気持ちで、警戒心を前面に出して入っていったら、相手も当然警戒してしまいますので、好ましいコミュニケーションは決して生まれません。前にいた集団の方が楽しかったなんて、後ろばかり振り返っても仕方がありません。そこでやらなければならないなら、胸襟を開き、自分を早く理解してもらうように努めるべきです。自分を知ってくれている何人かの仲間がいればいいなんて考え方は絶対にだめです。あなた自身がちゃんとした人間なら、自分を出してコミュニケーションを積極的に取っていけばいいのです。きっと何度かはうまく行かずに悩むことがあるでしょう。でも、明るく誠実にちゃんとやるべきことをやっていれば、必ず周りは理解してくれるものです。難しく考えることはないのです。

272号(2008.2.20)さすがに腹が立ちました

 サッカー東アジア選手権の中国戦は、実にひどい試合でした。中国がラフプレーをしてくるのは予想していましたが、あんなに不当な判定をする主審では、怪我人続出も当たり前です。日中戦争の記憶が消えない重慶で中国相手に北朝鮮の主審って、これ以上はないという最悪の組み合わせです。せめて主審は第3国の人にすべきでした。選手はよく我慢しました。それだけでも、今日の出場メンバーは賞賛できます。日本はFIFAに訴えた方がいいと思います。いくらアウェーでも限度があるでしょう。今日の主審は、公式審判員としての資格を永久に剥奪すべきです。ハンドボールの時は韓国が国際ハンドボール連盟に訴え出て、その異議申し立てが認められたわけですが、日本もちゃんと言うべきことは言う国になるべきです。もちろん、日本でも別のスポーツなどでは、かなり怪しい判定が多々あります。近いところでは、亀田興毅が世界チャンピオンになった試合なんて、明らかにおかしな判定でした。しかし、当然のことながら、現代の日本では、そういうおかしな判定があれば、その直後から大ブーイングが始まります。亀田の時もそうでした。北朝鮮ではこの主審に対するブーイングは「2万パーセント」起きないでしょうが、少しは文明国になりつつある中国では、自らのチームのラフプレーに多少なりともブーイングが起こってほしいものです。こんな危険なことがまかり通るなら、もう東アジア選手権はやめた方がいいでしょうね。日本と韓国とオーストラリアの3国対抗ぐらいにしたらいいのではないでしょうか。

271号(2008.2.18)Chocolat Chaud”って囓っちゃいけないんですね……

 卒業生から「義理チョコ」としてもらったお菓子の中に、”Chocolat Chaud”というものが入っていたのですが、これは何か皆さんはご存じでしたか?四角って軽くって、確かに「なんだろう、これは?」という感じはしたのですが、まあこういうぱさぱさ感のあるチョコレート菓子なのかなと思い、囓ってみると、確かにチョコの味はしますが、どんどん形が崩れてしまいそうで、「すごく食べにくいなあ」と思い、包装紙をもう一度よく見ると、小さな字で「1パックは熱湯60ccです」って書いてあるじゃないですか。要するに、溶かして飲むフリーズドライのチョコレートドリンクだったのです。なるほど、そう言えば、インスタントみそ汁の具にもこういう四角くて軽い感じのものがあったなと納得はしましたが、新しいものが出てきすぎです。ついていけません。昔、祖父がエレベータのOPENというボタンの意味がわからず、一人だけ地下まで行ってしまったことや、父が自動改札の切符の入れ方で悩んで改札を通れなくて困ったことなどを見聞きして、びっくりしていましたが、今や私もそういう類かもしれません。でも、他方で、若い人も古い作法やものを知らずおもしろい行動を見せてくれたりしますので、まあ五十歩百歩なのかもしれません。若い人のおもしろ行動の最近の例では、ビン入りのミネラルウォーターの存在を知らず、焼酎のボトルかと思って、ミネラルウォーターの水割りを作ってくれそうになった人とか、「泡が立たないようにビールのコップは傾けてついでもらうといいんだよ」と教えたら、冷酒を飲むときにも小さなグラスを傾けて待たれて大笑いをしたことがあります。まあ、みんなこんな経験は多少なりともしていることでしょう。

270号(2008.2.15)新しいトレンドか?

 昨日はバレンタインデーでしたが、いかがでしたか?うちの娘たちは20人分以上の手作りお菓子を持っていって、ほぼ同じ数のお菓子を持って帰ってきました。いわゆる「友チョコ」です。女子中高生にとってバレンタインデーが友達と手作り菓子を交換するイベント日になっていることは前にも書きましたし、最近は、働く女性たちが頑張っている自分のために、高級チョコを買う「自分チョコ」も有名になっていますので、皆さんご存じかと思います。しかし、ここにさらに新たな状況が生まれてきているようです。娘たちの高校では、今年はなんと男の子も結構手作りお菓子とかを作ってきていて、男女を問わず交換していたとのことです。「いやあ、オレ、結構はまりそう」なんて言っていた男子生徒もいたそうです。非常に興味深い話です。料理ができる男性というのが評価される時代になっている中で、とりあえずお菓子作りにチャレンジする男子高校生の登場というのは自然なことなのかもしれません。来年あたりはマスメディアでも注目するトレンドになっているかもしれませんよ。

269号(2008.2.15) 「月月火水木金金」?

 現在就職活動中の3回生に聞くと、今や土曜も日曜も、就職セミナーや会社説明会でスケジュールが埋まっているそうです。これではまるで、「月月火水木金金」です。これは、戦時中に、戦争勝利のためには土日返上で働き続けるという意味で広まった流行語です。就職活動も、学生たちにとっては、勝たなければならない戦争のようなものかもしれませんので、みんな土日返上で頑張るのでしょうね。でも、大丈夫ですか?半月か一月ぐらいなら、休みなしでもなんとか持つかもしれませんが、そこまで短期決戦にはならないと思いますので、適度にリフレッシュする日を交えていかないと息が切れますよ。自分でスケジュール調整をして、せめて週に1回ぐらいは楽しい時間も作っていった方がいいと思います。飛ばしすぎて、バテバテにならないようにお気をつけください。

 それと、エントリーシートで落とされてショックを受けている人もいるようですが、人気企業の場合、エントリーシートなんて半分抽選みたいなものだと割り切った方がいいですよ。書かれた文章だけで人間を判断するのは非常に難しいことです。私も毎年ゼミ募集の際に、「応募書類」で合否を決めていますが、なかなか文章だけで、読み切れるものではありません。30名前後の応募者から20名強を採用するゼミ募集ですら難しいのですから、採用人数の数倍から数10倍以上のエントリーシートを企業の人事担当者が完璧に読み切れているはずはありません。きっと何カ所かのチェックポイントがあり、そこをクリアしている人の中から、面接で受け入れうる人数をとりあえず残しているのではないでしょうか。なので、最低限のチェックポイント(たとえば、字が極端に汚くないとかいい加減に答えていない、など)をクリアできていれば、後は運だと割り切りましょう。

268号(2008.1.25)最近気になったニュースから

Yahoo!ニュースでしか出ていなかったので、知らない方も多いと思いますが、歯科医師の5人に1人が年収300万円以下、歯科技工士では3人に1人が200万円以下の「ワーキングプア」になっているとニュースが出ていました。73項目にわたって保険点数が20年間も据え置かれているのが原因だと述べられていました。保険点数のせいかどうかは私はわかりませんが、町を歩いていても、歯科医院は非常にたくさん見かけますので、競争は厳しいだろうなと思います。しかし、このデータの母集団は信頼のおけるものでしょうか。このニュースの源は、国保険医団体連合会(保団連)が、昨年10月に開催した「歯は命 歯科医療危機突破10.28決起集会」での報告だそうですが、それ以上の情報はネットではつかめませんでした。しかし、歯科医師の中には、結婚して家庭に入って、パートで歯科医師をやっている人も結構いるようですので、そういう方々もこの母集団に入っていれば、5人に1人が年収300万円でも特に問題はないように思います。どうも、保険点数のアップを要求するために、都合のよいデータの利用の仕方をしているような感じがしてなりませんでした。

次に、今日のニュースですが、明治大学応援団リーダー部が廃部になったというニュースを取り上げてみたいと思います。「いじり」と称する悪しき伝統で傷つけられた学生が自殺をし、その対応をめぐって、リーダー部が真摯な反省の姿勢を見せないので、廃部という大胆な措置を大学が決めたそうです。私は英断だと思います。学年や年齢による崇敬の念は、先を生きているだけのものを、その本人たちがそれなりに示すときに、自然に生まれるべきものあって、ただ学年が上だとか、年齢が上だというだけで、威張り、後輩いじめをするような団体など、すべて廃部になってもいいと思います。もちろん、競技等で鍛えるために行われる厳しいトレーニングはあってもいいと思いますが、飲み会(特にイッキ飲みの強制など)やその団体の活動とは関係のない場面での後輩いじめなど、認めるべきいかなる理由もありません。これは、明治大学応援団リーダー部だけの話ではなく、こういうことをしている団体は世の中にたくさんあると思いますが、こうした悪しき慣習をやめられないなら、すべて廃部でいいのではないかと思います。

最後に、ガソリン税の暫定税率分の取り扱いについて。このニュースを聞いていて、ずっと疑問なのが、なぜ廃止か継続かの二者択一なのだろうということです。道路整備は本当に必要なところもあるでしょうし、明らかにやらなくてもいいような工事をやっているところもあります。私は、3月頃によく地方に行くのですが、道路工事に出くわすことが多いです。明らかに予算消化としか思えない工事です。予算消化のための道路工事は、必要に迫られたものと言えないでしょう。無駄な道路工事はなくし、必要な工事を進めるために、今の1リッターあたり25円付加されている暫定税を10円安くして、15円にするというのがいいのではないかと、私は思います。15円がちょうどよい額かどうかわかりませんが、消費者にとっては安くなったという印象が明確になるためには、10円以上は安くすべきだし、かと言って、あまり減額しすぎると、必要な道路工事も行えないということになるでしょう。これで、与党も野党も顔が立つような気がするのですが……。予算案の作り直しは面倒でしょうが、もともと暫定税率なのですから、それを前提に予算を作っているのもおかしなことだと思うのですが……。その程度のことは嫌がらずにやってもらわないと。

267号(2008.1.22)尼崎探訪

 今年の卒論で、西宮と尼崎に住む学生がそれぞれ自分の町の研究をして、なかなかよい卒論を書き上げたのですが、この1年、卒論の中間報告をするたびに、隣接しているにもかかわらず両市のイメージがあまりに違うことで、よく議論が盛り上がりました。西宮は「灘の酒蔵」「文教住宅都市」で代表されるプラスイメージばかり、他方尼崎は「公害」「アマ(=ガラが悪い)」で代表されるマイナスイメージばかりが出てきます。確かに、こうしたイメージは関西圏で広まっています。特に、尼崎のイメージはおそらく兵庫県の中で最低ランクに位置するようです。しかし、尼崎も丁寧に見ると、阪神、JR、阪急という3本の鉄道によって環境がかなり分かれており、阪急沿線は良好な住宅地になっていることは阪神間に住んでいる人ならよく知っていることです。尼崎は南部と北部でかなりの違いがあるのに、尼崎市のイメージというと南部の阪神沿線のイメージで持たれています。私自身も、これまで阪急塚口駅周辺にはかつて友人が住んでいたこともあり、何度か足を運んだことがあったのですが、尼崎の南部の方はまったく足を踏み入れたことがなく、「怖い所なんだろうな」と勝手なイメージだけを持っていました。しかし、社会学者がいつまでもイメージだけでものを言うのはまずいと思い、今回尼崎南部地域の探訪に出かけてきました。

 国道2号線の南側からディープな尼崎になると聞いていたので、2号線を南に折れ、三和本通り商店街から入り、中央商店街を抜けて、阪神尼崎駅に向かいました。この2つの商店街はよく「探偵ナイトスクープ」などでも取材の入っているところではないかと思うのですが、思ったよりディープではありませんでした。買い物客のファッション、自転車通行、キャスター付きバッグの使用など、総合的に見ると、天神橋筋商店街や千林商店街の方がディープな気がしました。ただ、阪神尼崎駅にもっとも近い商店街の一等地にパチンコ・スロットのお店が何店も軒を連ねるというのは、ちょっと他にはないかもしれません。また、駅近くの中央商店街を南に折れると昼間から営業している風俗店が結構ありましたので、阪神尼崎駅の周辺が風俗店が多く、これがディープというイメージを与えているのかもしれません。阪神本線の南側にも行ってみました。しかし、庄下川の西側は閑静な寺や神社(左写真:貴布祢神社+国道43号線の上を通る阪神高速+工場の煙突)があったり、また尼崎信用金庫の博物館や世界の貯金箱博物館(入場無料の上に、なぜか貯金箱をいただいてしまいました)があったりして、ディープとはまったく関係のない見所いっぱいの町でした。庄下川の東側も、明治に入るまで尼崎城があった区域ですので、城址公園(右写真)が整備されていたり、近代建築物があったりして、噂とはまったく異なる落ち着いた町でした。(しいて言えば、43号線近くの庄下川沿いにブルーシートのハウスができていましたが。)かつて大きな公害の源となった国道43号線沿いも少し歩いてもみましたが、今では排気ガスが気になるということも特にありませんでした。もちろん、国道43号線の南側には工場地帯が広がっていますが、これもかつてのような黒煙をあげる煙突はなく、ひどく悪しきイメージを持つようなこともありませんでした。2〜3時間歩いただけなので、重要なポイントを見逃しているのかもしれませんが、私が自分の目で見た印象としては、尼崎の環境はかなり改善されてきているにもかかわらず、そのイメージが伝わらず、かつてのイメージがまだ一人歩きしているのではないかと思いました。市役所の資料室や地元の書店にも行ってみたのですが、「尼崎の見所」といったパンフレットや書籍が見あたらず、尼崎の良いところをもっと積極的に売っていこうとする努力が市役所や市民全体に欠けているように感じました。今回は行っていませんが、JR尼崎の方には、近松門左衛門ゆかりのスポットも多々あるようですし、うまく宣伝すれば、観光と庶民的な味を楽しむというのを2大テーマに、意外に尼崎は人をよべる町になりうるのではないかと感じました。

266号(2008.1.16)最近納得が行かないこと

 最近納得の行かないことをつらつらと書いてみます。まず、1230日の晩に駐車違反を切られたこと。大阪ナンバーの車が千葉県の住宅地で邪魔にならないように駐めてあったのに、駐車違反を切る千葉県警の社会的常識のなさが納得行きません。例年1231日の夕方から12日の昼過ぎまで同じ場所に駐めていて駐車違反を切られたことはなかったのですが、この年末・年始は都合で1日早く行ったら、きっちり駐車違反を切られてしまいました。確かに、駐禁の道路ですから違反は違反なのですが、大阪ナンバーの車が千葉県でこの時期に邪魔にならないようにガードレールにぴったりつけて駐めてあれば、「ああ、これは帰省の車だな」と思って、大目に見てくれてもいいんじゃないでしょうか。制限速度40kmの道を54kmぐらいで走っていて、スピード違反で捕まったような気分です。もちろん近くに100円パーキングでもあれば私も駐めに行きましたが、それもないような住宅地です。一体、警察はどうしろというのでしょうか?こんな無意味な法的厳格さを振り回すから、警察って好かれないんですよね。言いたいことがあったら、弁明書を書けという通知が届きましたが、シールを貼るだけで違反は成立して、それを取り消すためには弁明書を書かなければならないなんて、ものすごい不公平です。また、どうせ書いたって、一応法律違反は法律違反ですから、こちらの意見が通るわけはありません。社会的常識と法的基準を裁判で闘わせたって、余程のことがない限り、前者が勝てるわけではありません。無駄なエネルギーなど使いたくないので、近いうちに駐車違反金15,000円を、私は払いに行きますが、まったく納得行っていないので、せめてここに書いて憂さを晴らしておきたいと思います。

次にたいしたことではないですが、今年は民営化されたせいかどうかわかりませんが、郵便会社の松の内を過ぎても年賀状をというセンスが納得行きません。私は年賀状大好き人間で個人で300枚程度、家族では500枚以上出していて、郵便会社にとても貢献している人間ですが、年賀状なんて本来元旦に届くべきものであって、年明けに年賀状を出しましょうなんて宣伝をしてずるずる引っ張っている儲け主義は、結果的に年賀状の価値を下げ、自らの首を絞める行為だということに気づかないのでしょうか?お年玉付き年賀葉書の当選番号決定も例年の115日から127日に変更されていますが、27日なんてもう1年の12分の1が終わる時期です。年賀状なんか忘れかけている時期です。なんと時期はずれな企画でしょうか。納得が行きません。

3番目は若い女性のネールアート。はっきり言って気持ち悪いです。伸ばした爪かつけ爪か知りませんが、気持ち悪いほど塗りたくった長い爪でお釣りでも渡されそうになると、思わず私はびくっと手を引っ込めたくなります。普通に清潔感のあるマニキュアは別に嫌ではありませんが、ネールアートは気持ちが悪いです。これはおじさんの感覚でしょうか?若い男性もあまり好きではないのではないかと思いますが……。ネールアートは、指先にカラフルな出来物でもできているみたいで、あれを素敵だ思っている若い女性の感覚が納得が行きません。

最後に、私立大学のじたばたが納得行きません。一体、大学はどこに行こうとしているのでしょうか?我々大学関係者ですら内容のわからない学部や科目を作って、もっとものを知らない高校生や大学生に伝わると思っているのがおかしいです。グローバリゼーションの荒波に自分から巻き込まれたいと思っているのかどうか知りませんが、妙に競争主義を煽り、足が地に着いていない妄想のような案ばかり思いつく文科省のお先棒担ぎになって行う「改革」など改悪以外の何者でもありません。100年かけて定着してきたものを数年でぶち壊してうまく行くわけがありません。伝統は変わっていくものですが、変化には時間をかけないと、拙速になり、火傷をします。教育のイロハも知らない人たちが、大学のトップに立って進める改革なんて、絶対うまく行くわけがありません。大学という市場のお客は学生たちです。学生たち(その予備軍である高校生たち)が何を求めているかを、大学の教育に携わっておらず、日頃から学生たちとつき合っていない人間には絶対わからないと思います。もちろん、私立大学には経営の感覚が必要ですが、お金で換算しきれない魅力が大学という場ではより重要なのだということを知っている人間でなければ、大学の経営はできないと思います。今の私立大学のじたばたぶりに納得が行きません。

265号(2008.1.11)流される

 2008年は始まったばかりですが、2007年度の授業は今週で終わりです。学生たちにとっては、この後試験がありますので、それほど感慨はないかもしれませんが、教える側は1年間、同じ教室、同じ時間帯にほぼ同じメンバー(セメスター制なので、ある程度入れ替わっていますが、履修の都合から4月から2セメスター連続で取っている人がほとんどです)で講義してきたのが、これで終わりかと思うと、年度最後の授業は非常に感慨深く思うものです。特にゼミの場合は、1年間2コマ連続(うちのゼミの特殊パターンですが……)で濃い授業をやってきたのが終わるわけですから、最後は全員揃って「1年間お疲れ様!」と終えたいというのが私の強い希望です。そういうことを教師が考えているのはそれなりに伝わるようで、過去何年間もほとんど欠席者はいませんでした。しかし、今年は残念ながら3人も欠席が出て、テンションが上がりませんでした。1人はクラブの用事でしたが、あと2人は就活関係でした。今年度は就活が例年になく早く始まっているようです。昨年の11月くらいから説明会やOB訪問でゼミを休ませてくださいという人が何人も出ていました。売り手市場と言われる中で、早めに人材を押さえたいと思う企業がじたばたしているのでしょうが、少しでも早く内々定をもらって安心したい学生の方も、それに合わせて行動することになり、貴重なゼミの時間を欠席するという選択をしてしまっているようです。そんなに慌てなくてもまだまだ大丈夫なはずですが(業種によってはこの時期に決めてしまうところもあるようですが……)、周りが走り出すと自分だけ走らないというわけにはなかなか行かないようです。

 理論社会学の講義では、2007年に実施した学生調査の結果を一部紹介したのですが、その中で性的交渉について「現在は女子大生でも1割しかいなくなっている婚約以上の関係にならなければしてはいけないという考え方は、20年前では4割近くの人が選んでいた」という話をしたところ、最後の感想に、「私もその頃の女子大生ならよかったなと思います。でも、この時代だと、そうも言っていられないのかなと思います」といった意見を複数の人が書いていました。それを読みながら、そうかあ、そういうことも、やっぱり流されてしまうんだなと改めて思いました。確かに、世の中の多数派と違った行動を取るのはなかなか難しいことです。社会に生きている限り、ある程度社会のあり方に合わせておかないと生きにくいものです。私も子どもが小学校2年生になったときに、あまり買いたくはなかったのですが、子どもなりに友達つきあいもあるだろうと思ってTVゲームを買いました。どの程度社会に合わせ、どの程度自分の意思を貫くかは、一律に決めにくい難しい問題です。自分らしさをつかんで、自分なりに一番無理のない生き方を選択するしかないんでしょうね。最終ゼミ欠席も、それが今の時代を生きるその学生の自然な選択なら認めなければならないということなのでしょうね。残念ですが……。