Part21

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過去の「KSつらつら通信」

メールはこちらへ:katagiri@kansai-u.ac.jp

<目次>

第769 モテ社会学(2020.12.29)

第768号 これで日本は大丈夫か?(2020.12.18)

第767号 「かわいい」の使われ方(2020.12.4)

第766号 世の中について行けなくなった(2020.11.28)

第765号 第3波の原因は”Go To Eat(2020.11.12)

第764号 ドナルド・トランプのもたらす悪影響(2020.11.6)

第763号 なぜ車の運転は自粛しなくていいのだろう?(2020.9.25)

第762号 「わたナギ」批判(2020.9.8)

第761号 すっぽん挽歌(2020.8.31)

第760号 安倍総理退陣表明(2020.8.28)

第759号 やっぱり非日本人的なのかな?(2020.8.23)

第758号 最近の趣味は夕飯づくり(2020.8.8)

第757号 吉村批判は的外れ(2020.8.6)

第756号 数字を気にするなら(2020.7.31)

第755号 科学的に見て意味があるのか?(2020.6.13)

第754号 たったひとりの抵抗(2020.6.11)

第753号 知識は伝達できるけど、、、(2020.5.26)

第752号 いろいろ言いたい(2020.5.20)

第751号 統計学的に見るのは不届きなのだろうか?(2020.5.16)

第750号 日本に三権分立があるなんて誰か本気で信じていたんだろうか?(2020.5.12)

第749号 「新しい生活様式」は最低でも4年?(2020.5.10)

第748号 日本の都道府県って、そんなに独立したまとまりだろうか?(2020.5.6)

第747号 大阪府の基準は今評価されているが、、、(2020.5.5)

第746号 Zoom飲み会は、ひな壇タレントの並ぶバラエティ番組のよう(2020.5.5)

第745号 医療関係者だけの専門家会議でいいのか?(2020.4.30)

第744号 9月入学?(2020.4.29)

第743号 敵から強い味方になりつつある(2020.4.23)

第742号 こんなの片桐ゼミじゃない!(2020.4.21)

第741号 データを正確に認識しているだろうか?(2020.4.18)

第740号 麻生財務大臣こそやめるべき(2020.4.15)

第739号 青息吐息(2020.4.12)

第738号 PCR検査をもう少しスムーズにできないのだろうか(2020.4.6)

第737号 何のためのマイナンバーなのか(2020.4.3)

第736号 緊急事態宣言はじきに出されるだろう(2020.3.30)

第735号 ウィルスとの戦争(2020.3.29)

第734号 レジ袋配布禁止は正しい判断なのか?(2020.3.27)

第733号 歴史に学ぶ――スペイン風邪――(2020.3.26)

第732号 綺麗に納まった春場所(2020.3.23)

第731号 どうなってしまうんだろう?(2020.3.17)

第730号 30年目の花博(2020.3.5)

第729号 人が生きる意味=必要とされること(2020.2.26)

第728号 獲得すべきは、学歴ではなく実力(2020.2.24)

第727号 スマホ・デビュー(2020.2.16)

第726号 情報管理は大変(2020.2.9)

第725号 令和2年大相撲初場所総括(2020.1.26)

769号(2020.12.29)「モテる」を社会学してみると

 ゼミ生の卒論構想を一緒に検討しながら、「モテる」を社会学してみたら面白いのではないかと思い始めました。そもそも「モテる」とはどういう状態を言うのか定義からきちんとできていないのではないかと思います。学生たちに「どういう状態が『モテる』という状態なの?」と聞いたところ、「よく誘われるとかじゃないですか」という回答がありました。なるほどとも思いますが、これもさらに分析的に考えないといけないですね。「誘われる」とは誰に、何に誘われるのでしょうか?「誰に」はとりあえず「異性に」でしょうか。「何に」は狭義に捉えれば「デートに」ということになるかもしれませんが、付き合っている相手がいたら、他の人は遠慮してデートには誘わないですから、この狭義の定義にしてしまうと、付き合っている人がいるともう「モテない」ということになりそうです。ましてや結婚していたら、道義的にデートに誘ってはいけないでしょうから、既婚者は全員「モテない」人にならざるをえなくなりますが、なんかそんな感じで使われてないですよね。付き合っている人がいても結婚していても「モテる」人はモテていると世間は捉えているように思います。

 とすると、デートに頻繁に誘われることをもって「モテる」を定義するのはあまり適切な定義にはならなさそうです。誘われるという言葉にこだわるなら、いろいろな場面に誘われる人がモテる人という広義の定義も可能ですが、ここまで広げると、今度は異性からという条件がなくてもいいのではという感じにもなってきます。確かに「男からも女からも人気のある人物」は「モテる」奴という表現で表すこともしばしばある気がします。しかし、ここまで広げてしまうと「モテる」がただの好印象を与える人というだけになってしまい、この言葉を使う意義もなくなってしまいそうです。やはり、「誰に」の部分は「異性に」というところは不可欠な条件として残しておくことにした方がよさそうです。

何に誘われるかというのは難しそうなので、別の基準を考えてみましょう。モテるとは、異性に好かれることと考えるというのはどうでしょうか。調査をするとしたら、様々な異性のタイプを並べて好感度をどのくらい感じるかということになるでしょうか。ただ、単純な好感度で聞くと、ニコニコしているお爺さんみたいな人がもっとも好感度が高いなんて結果も出てきてしまいそうなので、ちょっと質問の仕方に工夫が必要そうですね。単純な好感度ではなく、「異性として魅力的と感じるか」といった質問にした方がよさそうです。タレント調査なんかの「恋人にしたい有名人」とかに似てきそうですね。そう言えば、昔は「お嫁さんにしたい女性タレント」なんて調査もありましたが、今は見なくなりましたね。時代のせいでしょうね。

ただ、恋人と結婚相手は選ばれる(=モテる)条件はやはり変わってきそうです。男性の場合、バブルの頃は「三高(高身長、高学歴、高収入)」の男性がモテると言われていましたが、バブルが崩壊してからは「三低(低姿勢、低依存、低リスク)」の男性の方がいいと言われるようになりました。前者は恋人としても結婚相手としてもモテていた気がしますが、後者はたぶん結婚相手としての観点からの選択だった気がします。女性が強くなった今の時代は、恋人としても悪くはないのかもしれませんが。最近は、結婚相手として「三平(平均的な年収、平均的な外見、平穏な性格)」男性がいいなんていうのもあるようですが、こうなるともう通常の「モテる」イメージからは大分離れてしまう気がします。こうやって考えてくると、やはり「モテる」という言葉は、結婚相手としてというより、恋人、付き合う相手としての視点からの評価ポイントが高い人と考えた方が一般認識には近そうです。

まだ思考途中ですが、ここまでの考察からとりあえず「モテる人とは、恋人や付き合う相手としての評価が高い人のことである」と、今は定義しておきたいと思います。その評価は時代とともに確実に変わっていると思うので、十分社会学的な研究対象になりそうです。そんな社会学的研究まではできませんという人でも、周りの友人で誰がモテる人かを考えてみるのは結構面白いと思いますよ。そして、お父さんやお母さんとどういう人がモテる人なのかを話してみるというのはいかがですか。おのずと社会学的考察になりますよ。

768号(2020.12.18)これで日本は大丈夫か?

 毎日何回も何回も新型コロナの感染者数が報告され、日本国民はその数字ばかり気にしていますが、その陰でこんな怖しい数字が出ているのに気づいていない人が多そうなので、ここで指摘しておきます。右の新聞記事のグラフを見てください。なんと今年度日本政府は112.5兆円という過去に見たこともない膨大な新規国債を発行しているのです。国債は要するに国の借金です。これまでずっと国債が累積してきていてちっとも減らず日本の経済は不健全であると世界から指摘されてきていたものです。なんとかしなければならないということで、消費税も5%から8%、そして10%へと上げてきたのです。それが昨年度までの30兆円から40兆円の国債発行が続いていた時代のことです。それが、今年度――年度ですから4月からのわずか8カ月半――だけで112.5兆円も発行してしまったのです。このペースでいけば、残り3カ月強でさらに30兆円以上発行し、最終的には過去45年分くらいにあたる150兆円くらい発行しそうな勢いです。この国債を償還できる見込みはほぼないと思います。日本の国債なんてもう信用性がかなり落ちているので海外の投資家や銀行はもちろん、一般の日本人でも買おうとする人なんかほぼいないでしょう。そうなると、結局紙幣を印刷できる日銀に国債を買わせてお金を作り出すということが行われているとしか思えません。

 もちろんこの異常な国債発行は新型コロナ対策のためです。国民1人につき10万円配ったり、雇用調整助成金、持続化給付金、資金繰り支援金、時短営業への協力金、そして馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないGoToキャンペーンの補助金と、お金をばらまいています。国民は国にはお金があるんだろうと漠然と考えているのか、緊急事態宣言をまた出してさらにお金を配ればいいと思う人が半分以上いるようですが、本来は国にもそんなお金はあるはずはないのです。担保は国の保証という名ばかりの国債をばんばん発行し、日本銀行に紙幣を刷らせて、そのお金を国民に配っているというのが実態です。こんなことをしていたら、悪質な超インフレが起こり、円の貨幣価値も日本の国債の価値も暴落し、ギリシアのような国家財政破綻すら起きてしまうのではないかと、私は非常に不安です。

 最近一言も二言も多い麻生太郎財務大臣があまり口を開かないのは、実はこの状況を認識していて、もうどうしようもないから余計なことは言わずにおこうと思っているのではないかと私は睨んでいます。麻生太郎は財務省寄り(=財政健全派)なので、こんなめちゃくちゃなお金の配り方は本来するべきではないと思っているでしょうが、今はそれを言えない空気になっているので、「ああもうしょうもねえな、この国は」とか親しい人間にだけはブツブツ言ってそうです。

 この異様な金配りは絶対にやめなければなりません。でなければ、10年後、20年後の日本は本当に危なくなります。お金はもともとあるものがちゃんと回って初めて経済活性化にもつながるのです。紙幣を刷って助成金や補助金を配るなんてことをしていても経済は健全に回りません。経済を止めてしまう過剰な自粛も、逆に無理な経済活性化のための過剰な補助金による煽りもやめて、コロナの存在を前提にして普通の日常を取り戻さないと、日本は大変なことになります。みんなものすごく短期的な視点でものを見過ぎです。新型コロナへの対応も、1週間後、1か月後といった短期だけではなく、5年後、10年後を見据えていかなければ社会が持ちません。ちゃんと日本社会を導いていけるリーダーはいないのでしょうか。国民の意識を変えさせたら、事態は大きく変えられるのですが、、、

767号(2020.12.4)「かわいい」の使われ方

 今年度秋学期に私が担当している1回生少人数授業・基礎研究Uのクラスは久しぶりにとてもいい雰囲気です。春学期に対面授業ができなかったせいもあるのか、みんな対面で授業をできること、ワイワイといろいろな議論ができることは幸せなことだと例年以上に感じているのか、いろいろな学生が積極的に話そうという姿勢を見せてくれています。ここ10年くらい、いくらこちらが「基礎研究は1回生のゼミだよ。積極的に喋ろうよ」と言っても、めんどくさいなあという感じで極少数を除いてはあまり喋ってくれない感じでしたが、今年は久しぶりに全然違う雰囲気です。積極的に発言する人がいて、それを聞いて楽しく笑う空気が生まれるという非常によい雰囲気です。

 グループ研究のテーマも各班いずれもひねりがあってとてもよいです。最初のテーマ決定には私のアドバイスも入っていますが、それをうまく消化していいレポートを作り上げて来てくれています。昨日までに4つのグループが報告を終えましたが、「母の力〜最高のサポーター?〜」「大学生の住まい〜その歴史的変遷〜」「ダジャレは恥だが役に立つ」「かわいいの作り方」と来ています。なかなか面白そうでしょ?もちろん、データの取り方や分析に甘いところは多々ありますが、ありきたりの発想と既存のデータ紹介で終わらせずに、自分たちになりに一所懸命考えて結論を出そうとしています。また、今の時期なので、全員マスクをしたままの発表ですが、逆にマスクをしているから声を出そうとしているのか、例年より聞いている人たちになんとか伝えようという意欲が強く感じられます。作ったレジュメを読むだけでお茶を濁す人は少なく、口頭で伝えることをよく意識してくれています。報告者たちがそういう空気感を出すので、フロアで聞いている人たちも喋ろう、喋りたいという気持ちになりやすいようです。

 「ダジャレは恥だが役に立つ」はタイトルのネーミングも含めて傑作レポートでした。ダジャレや親父ギャグは一見すると場の空気を白けさせているかのように思われているけれど、実際にはコミュニケーションをはかるうえでかなりプラスの役割を果たしているということを、自分たちで調査もして明らかにしたものでした。「かわいいの作り方」も自分たちでデータを取って魅力的なところがあったのですが、やや分析が甘く「かわいいの作り方」が十分に示し切れていなかったのが残念でした。それでも、みんな興味はすごく湧いたようで意見はたくさん出て教室が明るい空気に包まれました。ただ、楽しく議論していたので、まとめきらないまま授業が終了してしまったので、ここでちょっと「かわいい」はどのようなものに対して使われているのかを整理しておきたいと思います。

 一般的に「かわいい」と言われやすいのはどんなものだろうと考えてみると、「ちいさい」「まるい」「よわい」「やわらかい」といったものだと思います。それぞれ反対語を考えてみると、「大きい」「角ばっている」「強い」「固い」が浮かびますが、これらは「かわいい」と思われにくいでしょう。気づいた人も多いと思いますが、今あえて「かわいい」といわれる要素をひらがなで書き、逆の要素を漢字を使って書いてみました。明らかに、ひらがなの方がやさしい、かわいいイメージになることにも気づくと思います。文字のフォントでも明朝体よりゴシック体を使った方がちょっとやさしく感じかわいく思えるのはやや丸味を帯びているからです。

 昨日の議論でいろいろな例をあげながらかわいいと言われるのはなぜだろうという話をしていましたが、どの例でも上記の4つの要素のどれかが最低ひとつは入っているのではないかと思います。たとえば、かわいい人で例にあがった人たちでは、新垣結衣は高身長だけど「やわらかい」空気感があるし、嵐の相葉くんはちょっと「よわい」イメージがあるとか、説明がつくと思います。アンガールズの「キモかわいい」も、彼らが「よわい」イメージがあるから「かわいい」がついたのでしょう。

 基礎研究のクラスで説明してあげればいい話ですが、考えていたら面白くなったので、「つらつら通信」にも書いておくことにしました。

766号(2020.11.28)世の中について行けなくなった

 最近世の中の大勢の動きに、自分がついていけなくなっているなと感じます。別に新型コロナのことではありません。これからの世の中はこちらの方向に進むべきだと大きな声で言っている人たちの意見がまったく納得がいかないのです。そんな方向に進んだら社会はどうなるんだろうとか、そんなタテマエばかり並べてどうするんだろうとか、そんなものが大人気って一体今の人たちは何を求めているのだろうとか、そんなことばかりにエネルギーを使うなんて、なんて無駄ではないかとか、頭の中に疑問符と不満ばかり生まれます。具体的に書いたら、タテマエ派からめちゃくちゃ批判されるので書きませんが、なんだか自由に物も言いにくい世の中にもなってきているような気がします。でも、これがいつの時代も年寄りが感じてきた感覚なのかもしれません。もうこの「KSつらつら通信」も店じまいが近づいているのかもしれません。

765号(2020.11.12)3波の原因は”Go To Eat

 また新型コロナの感染者が増大してきました。なぜかニュースでちっとも指摘しませんが、明らかに今回の感染者増大は”Go To Eat”が原因です。北海道で感染者が増えているので、Go To Travelから北海道を外すべきかどうかが議論されていますが、問題は”Go To Travel”ではなく、Go To Eatです。7月下旬から始まっていた”Go To Travel”の方は8月、9月と感染拡大をさせていなかったのに、”Go To Eat”が10月に始まったら、一気に感染者が拡大したのです。これはかなり有力な相関関係です。食べログなどで予約したら、1人につき1000円分のポイントがつくという安易な仕組みは、「鳥貴族錬金術」だの「無限無銭飲食」だの様々な問題を生み出していますが、何よりもこの安易さとお得感で、緊張感なくどんどん飲食に行く人たちを増やしています。”Go To Travel”の場合、金額もやや高いし、日常と異なる場所に行くということで適度な緊張感をもって行動する人の方が多いと思いますが、”Go To Eat”は安価で安易で、なおかつ慣れている日常の繁華街で利用されているため、緊張感なく感染拡大を生み出しています。

 第3波を抑え込むために、大人数での飲み会などを控えるようにと政府も自治体の長も言っていますが、人数の問題ではありません。2人でも3人でもいい加減な人間がいたら感染は拡大します。”Go To Eat”を続けながら、飲食を控えてくださいなんて矛盾しています。第3波を抑え込みたいなら、即刻”Go To Eat”をやめるべきです。感染対策を含む自己管理がちゃんとできないような人が安易に出かけたくなるような補助制度はやめるべきです。菅総理が「言いだしっぺ」だから忖度して誰もやめようと言い出せないのか、”Go To Eat”廃止を言いだす人がいないのが不思議でなりません。もしも困窮している飲食店をサポートしたいなら、”Go To Eat”などではなく、時期を限って消費税を徴収しないとかいうルールにしたらいいのではないかと思います。結局このGo To Eatの仕組みで一番儲けるのは、大手のレストラン紹介サイトです。手間が簡単だからということで、そうなっているのでしょうが、サイトに登録すればなにがしかの手数料をお店も払わなければならないわけですし、お店側も悩みながらもやむなしという感じでやっているのでしょう。

 大体使う金額に関係なく1人あたり1000円分のポイントというのもおかしな話です。使った額の1割とか2割分を補助してくれるくらいで十分でしょう。そうすれば、「鳥貴族錬金術」だの「無限無銭飲食」は生まれません。国民1人当たり10万円支給もそうでしたが、簡便さばかりを求めて実に杜撰な政策ばかり出されています。”Go To Eat”なんかやめにして、その代わりきちんと感染対策と自己管理をして飲食を適切に楽しんでくださいと言えばいいのです。”Go To Eat”を続けながら、第3波に怯え、飲み会はなるべく自粛しましょうとか、矛盾だらけです。”With Corona”の時代の指針に全然なっていません。

【追伸(2020.11.13)】今、ニュースを見ていたら、”Go To Eat”のポイント付与は予算額の616億円に到達するので、近日中に終了すると言っていました。とりあえず、よかったです。

764号(2020.11.6)ドナルド・トランプのもたらす悪影響

 アメリカ大統領選挙が投票日から3日経っても勝敗が決まりません。バイデンがかなり有利であることは間違いないのですが、トランプは開票差し止めや訴訟など様々な手を繰り出してなんとか結果を逆転させようとしています。見ていて本当にがっかりします。なんでこんな人間が世界最強国の大統領になれてしまうんだろうと残念に思います。国のトップに立つ人間はどんな小さな国であっても、国民から尊敬されるような人格者であってほしいものです。実際に素晴らしい人格者でなくとも、トップという立場に立つ以上、人を非難するより厳しい批判的意見にも耳を傾けられるような人物であるべきです。少なくとも、私はそう信じてきました。

 しかし、4年前にトランプが大統領になってからは、上に立つ者のイメージがすっかり変わってしまいました。自分に都合の悪いニュースはフェイクニュースと切り捨て、批判的質問をしようとする記者の発言は封じ、ツイッターでは一国のトップとも思えない個人批判を繰り広げてきました。こんな人間だけはトップになってほしくないという人物です。しかし、今の小学生や中学生はこういう人が政治上のトップに立つ人だというイメージが刷り込まれてしまうのではないかと心配です。日本でも橋下徹のような人が大阪府知事になり、他者を罵倒することを普通にやるようになり、トップに立つ者のイメージを変えつつあったところに、トランプの登場です。最近10年くらいの政治的記憶しかない若者や子どもたちはトップに立つ者はそんなものだと思ってしまっているのではないかと恐れます。

 バイデンが魅力的な大統領になるとはとうてい思えませんが、現時点でも「自分に投票しなかった人も含めて、アメリカ国民すべてのことを考えていく」といった発言もしており、トップに立つ者としてのまっとうな心構えができています。それ対して、トランプは「開票を中止しろ」と叫んだり、めちゃくちゃです。トランプがこのまま落選してくれることを心から望んでいます。私が知る限り、トランプはアメリカの大統領としては最低の人物です。これ以上トランプ政権が続かないことを心から祈っています。

763号(2020.9.25)なぜ車の運転は自粛しなくていいのだろう?

 相変わらず、新型コロナ対応のために、マスクは常時使用、多人数の飲み会は自粛という状態が続いています。昨日(924日)段階で、国内感染者数80,713人、死者1,537人です。この数字はここまで社会や経済を止めるべき数字なのでしょうか?比較対象として、交通事故について調べてみました。今年の18月の8か月間で、事故件数195,131件、死者1,745人、負傷者233,506人です。死者も新型コロナより多く、負傷者もこんなにたくさん出ているのに、どうして車の運転は自粛しろと言われないのでしょうか?車の運転を自粛なんてありえないでしょうと思われるかもしれませんが、新型コロナで自粛させる論理(リスクの軽減)から言えば、マイカー使用の自粛とか言いはじめてもおかしくないはずです。「いやいや、それは無茶ですよ」と言いたくなる人が多いと思いますが、新型コロナで求めている自粛も本質的にはこれとまったく変わらないと思います。

 新型コロナで国民に自粛を求めるにあたって根拠にしているのは、感染者数と死者数です。であれば、交通事故の場合なら、事故件数と死者数でほぼ同じ基準でしょう。それを比べるなら、交通事故の方が日本社会にダメージを与えているはずです。車の運転を自粛させないなら、新型コロナでの自粛も本来はここまで求めるべきものではないはずです。新しい病気であること、ワクチンがないことなどで過剰に怯えきっていますが、ワクチンはできたからと言って、新型コロナの感染者はゼロにはならないことは、ワクチンがあるインフルエンザでの死者が日本だけで毎年2000人程度は出ていることが証明しています。ワクチンができても、こういう感染者数と死者数の発表を続けるなら、ずっと少しずつ増え続けるでしょう。リスクゼロを求めていたら、社会活動は何ひとつできなくなります。

 もう半年以上前から同じことを書いていますが、必要なことは新型コロナという病気を日常的病気と捉え、他の病気と同様に適切に気をつけながら、日常生活を送ることです。そして、互いに監視し合うような意識を捨てることです。新型コロナにかかった人がいたら、他の病気と同様に「大変ですね。お大事にして、早く治るといいですね」と声をかけてあげられるような、まともな社会に戻ってほしいものです。

762号(2020.9.8)「わたナギ」批判

 「私の家政夫ナギサさん」を本日の特別編まで毎週きっちり楽しんで見せてもらいましたが、終わり方はこれでいいのかという疑問が残りました。多部未華子はかわいいし、大森南朋もよい雰囲気を出していて、ハッピーエンドみたいな終わり方で満足している人が多いと思いますが、これ男女の立場が逆だったらハッピーエンドとして見られるのかなと疑問を持ちました。仕事はできるけど家のことはまったく駄目という男性が、家事全般がパーフェクトにこなせる上に悩みまで相談に乗ってくれるという女性の家政婦さんを雇い、その人との契約が終わることになった時に、「君を僕は手放せないから結婚してほしい。君がいなくなったらこの部屋はまためちゃくちゃになってしまうし、君といると落ち着くので君を手放せないんだ」とプロポーズするというパターンになりますよね。なんかすごく勝手じゃないですか。要するに、家事が得意で心優しい女性が自分の生活にとって便利だから「結婚する」という手段で無償労働させようということではないですか。これは「逃げ恥」の時に新垣結衣演じるみくりさんが「愛情の搾取」と怒っていたパターンです。男女の立場が逆転すると、これでいいということになってしまうんでしょうか?ちなみに、「逃げ恥」の方が愛情を育むプロセスも描かれていたので、まだ受け入れやすかったですが、「わたナギ」は男女としての愛情を育むプロセスはほとんど描かれていないので、多部未華子のプロポーズは星野源のプロポーズよりはるかに打算的に思えてしまいました。

 ナギサさんは昼は家政婦派遣業の本部で働いているはずですよね。今日の特別編を見ると、家に帰ったらすべての家事をナギサさんがやっているようです。これはおかしいですよね。現実の共働きの家庭においてこれと逆パターンでフルタイムで働いている妻がほぼすべての家事をやっているという家庭は日本の場合結構あるとは思いますが、今はそれは批判されるべき形ですよね。もしもそこに多少の正統性が与えられるとすれば、収入は夫の方が圧倒的に多く、その収入で家計が成立している場合くらいでしょう。しかし、今回の特別編まで見ても、多部未華子演じる妻の収入で家計が回っているかどうかは確認されませんでした。多部未華子の可愛さと大森南朋の包容力のある雰囲気に騙されてはいけない結末ではないかなと思ったので書いてみました。

761号(2020.8.31)すっぽん挽歌

 長年お世話になってきた千里山の居酒屋「すっぽん」が本日8月末をもってお店を閉められました。昨晩店長から電話で直接知らせてもらいました。月曜日は定休日なのでたぶん実質的には昨日で終わってしまっていたはずです。急な決定だったので最後に行くことができなくて残念でした。私が関大に着任した時からあったお店で辞める時にもあるだろうと信じていたのですが、まさかこんなことになるなんて、、、すべて新型コロナのせいです。思い出が多すぎるお店なのでとうていすべてを書ききれませんが、私の中での大事な「すっぽん」を忘れないように少しだけ書き留めておきます。

 私がすっぽんによく行くようになったのは、T学部長の下で執行部をしてからでした。T学部長に勧められて焼酎を初めて飲んだのもすっぽんでした。その後は自分でもここぞという時にはすっぽんをよく使うようになり、特に2000年以降はよく使いました。6期生のM君が毎年有給休暇を取ってゼミ参加してくれた時は必ずその後、3回生有志とともにすっぽんに行ってました。そこで初めて本格的にお酒を飲んで潰れた人も結構いたものでした(笑)卒論発表会後の打ち上げをすっぽんでするようになったのは10期生くらいからだったでしょうか。そして夏のオープンキャンパスをやるようになってからは8月に夏の集いという感じで様々な学年が集まってすっぽんで飲んでいました。特に、体験ゼミを始めた学年だった13期生は卒業生になってからも毎年オープンキャンパスの手伝いに来てくれてその後、すっぽんで打ち上げというのを楽しんでいました。そこには、オープンキャンパスの手伝いはしないけど、後輩たちと飲みたいからというだけで参加してくれる先輩(2期生A君、4期生S君、M君なんかは声をかけるといつも来てくれる頼りになるメンバーでした)も毎年かなりいて、いつも店長から「いいですね。先生のゼミは。素晴らしい人ばかりですね」と褒めてもらっていました。こういうタテつながりですっぽんで飲むときの私は本当に楽しそうにしているらしく、いつもいつも現役学生から「先生、現役学生の飲み会と全然違う顔してますね(笑)」と指摘されたものでした。すっぽんで様々な学年の教え子が1520人くらい集まって飲む機会は本当に楽しかったです。

 最近は「片桐社会学塾」の第2部懇親会を毎回すっぽんでやらせてもらっていました。大人30人ほどをゆったり収容してくれるお店なんて、この辺ではすっぽんしかありませんでした。そこでは片桐ゼミ生だけではない、かつ私より年上の方までいる様々な素晴らしい交流の生まれる場になっていました。教職員と飲んだ思い出もたくさんあります。走馬灯のように、すっぽんのあの席でこんなメンバーと飲んだなあということが思い出されます。ああ、そのすっぽんがなくなるなんて、、、残年です。無念です。悲しくて悲しくて仕方がありません。

760号(2020.8.28)安倍総理退陣表明

 先週の慶応病院での検査以来、急速に退陣かという話が出てきて、「本当かな?」と思っていましたが、あっという間にその方向に進み、本日辞任意向の会見となりました。2度も総理職を投げ出さなければならなかった潰瘍性大腸炎という病気はやはりきついのでしょうね。13年前の辞任発表の時は病気のことは本人は言わなかったので、投げ出し感が強かったですが、今回は病気のことも話し、コロナ対策のことも一応決めた上ですので、わりと綺麗な辞め方で、批判は少ないでしょう。まあ長期政権でありすぎた故に、腐敗もありましたが、トータルではまあよくやったと言われるのでしょう。

 さて、こうなると焦点は次の総理は誰だということになります。前回安倍総理が政権を投げ出した時は本命は麻生太郎でしたが、あっという間に福田康夫にしようという派閥間談合の動きが生まれ、麻生太郎は涙を飲みます。福田康夫は小泉純一郎内閣時代に官房長官を長くやり、安定感のある政治家というイメージを与えたことがこの総理就任につながりました。官房長官をやる前は、将来総理になるような政治家とは誰も思っていませんでした。このパターンはなんだか今回も繰り返されそうな雰囲気です。

 この数年ポスト安倍としてもっとも有力視されていたのは岸田文雄ですが、安定感のある官房長官というイメージをしっかり作り上げている菅義偉が出てくる可能性も高い雰囲気です。本人がやる気を見せたら菅総理を実現しようという流れが一気にできそうな気がします。まあでも、雰囲気が暗い感じで裏で動く策士というイメージの政治家なので、あまり総理という雰囲気が似合いません。選挙の顔としては弱いでしょうね。ただし、今の有権者はそこまで政治家のイメージをちゃんとわかっていないし、野党は弱いので、菅でも負けることはないという風に思われるかもしれませんが。

 他に名前があがっているのは、石破茂、河野太郎あたりでしょうか。でも、二人とも党員選挙がなければ票は集まらないでしょうね。一般党員の人気があると言われていますが、一般国民にまで人気があるかというとそうは言えないでしょうね。たぶん、今回は無理でしょう。強いて言えば、河野太郎の方が面白そうですが、脱原発や女系天皇を唱えているので、今力のある自民党保守派が受け入れないでしょう。個人的には、河野太郎が総理になったら、半分政権交代が起きたような感じになり、面白いのだけどと思いますが、今回はないでしょうね。菅とか岸田がなって次の衆議院選挙で自民党が負けたら、その時は思い切って河野太郎をトップにしようというようなアイデアも出てくるでしょうが、今回はないでしょうね。

 ちなみに、今安倍総理の記者会見をながら見しながら、これを書いていましたが、今までの記者会見の中では一番ちゃんと自分の言葉で答えていた会見でした。

759号(2020.8.23)やっぱり非日本人的なのかな?

 30年以上前にまだ前の大学に勤めていた時に、ある年配の先生から「あなたのような非日本人的性格はどうやったらできるんでしょうね」と言われたことがありました。その時は、「はあ?」という感じでした。情には厚い方ですし、どこが非日本人的なんだろうとほとんど納得できないなあと思いながら聞いていました。でも、ここに来て、やっぱり大多数の日本人とはちょっと違うパーソナリティなのかもしれないと思うようになりつつあります。

 そう思うようになったのは、やはり新型コロナ禍に対する対応です。この炎天下に1人で自転車を走らせているような人までマスクをしていますが、私にとってはありえない行動です。誰とも喋るわけではないのだから飛沫は飛ばさないし、暑いのだからマスクを取るのが私にとってはどう考えても合理的行動です。なぜ多くの日本人はそうしないのだろうと、もはや違う文化圏の人間を見るような気でいます。電車やバスですら、一言も喋らないならマスクを外したって何ら迷惑をかけることはないという風に私は考えるのですが、そんな風に思って行動している日本人は極少数です。マスクをしていなければ店舗に入れませんというところでは仕方がないからマスクをしますが、合理的に考えて自分が飛沫を飛ばさない時はマスクは外したって何の問題もないはずだと考えています。しかし、この考え方がもう半年間少数派のままです。みんな「暑いです。マスクを外したいです」と言いながら外さずに暮らしています。それが普通の日本人であるなら、やはり自分は非日本人的かなと思うようになってきているのです。

 30年以上前にどういう文脈で年配の先生に「非日本人的」と言われたか覚えていないのですが、まあ若い時から教授会で疑問があったら発言をし、それも感情的ではなく論理的に対抗意見を出すというやり方をしていたので、ちょっとおかしいなと思うところがあっても「まあ仕方ないか」とあきらめるという行動が多数派の日本人から見たら、「非日本人的」だったのかもしれません。私の行動選択の原理は合理性です。この合理性は目的合理性だと思っていたのですが、目的合理的行為とは大多数の人が合理的と認め得るものと考えると、今はどこでもマスクをする方が目的合理的行為になりそうですので、私の合理性は単純な目的合理性ではないのかもしれません。現在のコロナ禍における私の行動選択の基準は科学的合理性です。新型コロナは接触感染か飛沫感染しかないわけですから、まずは自分がそうした感染を受けないように行動すること(危険なところには行かない、手洗い、消毒はまめにする)、そしてほぼ感染していないのは確実ですが、周りの人からはわからないので、飛沫を飛ばす可能性のある時はマスクをするといった行動です。教授会や学会理事会等での発言も多い方ですが、個人的な利害で発言することはほぼありません。学生たちにとってより良くなるのは、学会員にとってより良くなるのはこういう方針ではないかと思った時に発言します。まあ「より良い」というのがどういう方向性なのかに関しては価値観が入り込みますが。

 いずれにしろ、この「つらつら通信」での主張も含めて、言いたいことを言う(実際にはこの「つらつら通信」でも結構抑制して書いているつもりなのですが、、、)という風に思われるこの「非日本人的性格」はどうやってできたのかと、この機会に自問自答してみました。考えてみて、自分なりになるほどこういうプロセスが自分の性格形成に影響したんだなと納得が行ったのですが、ここに書くのはさすがにちょっと気恥ずかしいので、やめておきます(笑)興味がある人と個別に話す機会があれば語ることにしたいと思います。

758号(2020.8.8)最近の趣味は夕飯づくり

 予定されていた卒業生との同期会が3つもなくなり、個人的にも外に飲みにも出かけにくい空気になってしまったため、最近の私の趣味は夕飯づくりになっています。今日まで16日連続で夕飯を作っています。夕飯を作っているというよりは、自分が美味しく飲める酒のつまみを作っている感じですが、少なくとも4品、5品くらいは作りますが、小鉢ものが多いので、早い時は30分、時間をかけても1時間半くらいです。でも、美味しく出来た時はおおいなる満足感があります。

なるべく一品は初挑戦のものを作ってみたいと思ってチャレンジしています。この間初めてチャレンジしたもので我ながらうまくできたなと思ったのは、イワシの梅肉煮、サーモンと野菜のアルミホイル焼き、タコと夏野菜のマリネ、肉入り冷やしうどん、一口カツ、焼きナス、ゴーヤの炒め煮、サザエのつぼ焼き、といったところです。

レシピとかを見て作ろうとするとよく失敗するので、自分の頭の中で設計図を組み立てて考えて作ります。上記のメニューはイメージ通りに上手く行きました。イワシの梅肉煮は調味料を全部目分量で作りましたが、照りも出てうまく行きました。サーモンと野菜のアルミホイル焼きは、オリーブオイルとバターを塗ったアルミホイルの上に、サーモンを置き、その上に玉ねぎ、ピーマン、しいたけ、ニンジンの薄切りを乗せ、塩コショウとマヨネーズをかけ、グリルで焼きました。肉入り冷やしうどんは、豚肉のひき肉を甘辛く味付けし、みょうが、きゅうり、セロリ、生姜を細切りにし、トマトは薄切りにして、麺つゆをかけて食べました。タコと夏野菜のマリネは「かんたん酢」という市販のお酢がよい味を出してくれました。一口カツは少なめの油で揚げられたのがポイントでした。調理後の油は、わずかキッチンペーパー6枚で吸わせることができました。

居酒屋メニューですから手を掛け過ぎずに素材の味が生きるように作っていますが、薬味は重要です。焼きナスも熱々のナスの皮をむいた後、生姜、ミョウガ、青ネギ、花ガツオをたっぷり乗せました。後、色合いと味のバランスは大事にしています。ちゃんと作ったことを信じてもらうために証拠写真として、今日の夕飯(鰆の塩焼き、手羽元と大根の炊き合わせ、長いもの短冊梅肉添え、イサキの刺身、サラダ、枝豆、以上調理時間40分)と一口カツを作った時の夕飯(一口カツ、ゴーヤの炒め煮、小松菜、ハモ梅肉、サラダ、以上調理時間1時間強)の写真を載せておきます。なかなか美味しそうでしょ?趣味は、社会学を教えることしかなかった私に、新しい趣味が加わりつつあります(笑)

   

757号(2020.8.6)吉村批判は的外れ

 コロナ以外のテーマも書いて下さいと言われているのですが、何を考えていても、結局今はコロナ禍におけるこの社会での話になってしまうので、しばらくはコロナを無視したテーマでは書けない気分です。

 さて、で今日は一昨日吉村大阪府知事が発表したポピドンヨードを含むうがい薬をめぐる世論についてです。あの会見を批判している人がかなり多いようですが、批判の根拠が間違った情報によるものである場合が多いです。たとえば、吉村氏は「予防効果がある」とは言ってないのに勝手にそういう解釈をして「そんな効果はない」と批判したり、「検査対象者が41人じゃ少なすぎて信頼できない」とか、「買占めが起きるに決まっているのだから、あんな発言はすべきではなかった」とか、「うがいをしていない人と比べたらうがいをしている人の方が多少ウィルスが減っているのは当たり前じゃないか」とか、「PCR検査前にうがいをしたらウィルスが減っているのは当たり前だ」とか、。

 私は当日の記者会見をオンタイムで見ていましたし、その後会見を起こした文字版でも確認しましたが、効果があるというデータが出ているのはすでに感染している人の口内ウィルスを減らす効果であって予防効果ではないと明確に言っています。ただし、無症状でウィルスに感染している人もいるかもしれないので、そういう人がまめにポピドンヨードを含むうがい薬でうがいをするなら、飛沫感染の可能性を減らせるのではないかとは言っていました。そういう意味では広く捉えれば社会的予防効果はあるとも言えますが、個人的にうがいしていれば感染しないという意味で捉えている人が多いようで、それは間違いです。

検査対象者数は確かに少ないですが、まったく意味がないという人数ではありません。たぶん、今回の会見を受けてあちこちの病院や療養所で検査が始まっているでしょうから、1週間もしたら非常に大きな検査数で結果が見られるようになると思います。その意味でもこのタイミングで発表したことの意義は大きいと思います。この発表をせずに秘匿し、検査を続けていたら、検査数を集めるのは大変です。使い方さえ間違えなければ大きな副作用はない既成の薬ですので、100%の信頼結果になっていなくても発表することに問題はないと思います。買占めはする人が悪いのです。会見したことが悪いわけではありません。そもそもそんなに買占めしようとしなくても、国民みんなが買いに走ったらそりゃ商品は消えるでしょう。これまでにも納豆がダイエットに効くなんて情報がテレビ番組で流されると、スーパーから納豆が消えたものです。買占め、買占めと騒がなくても、国民全世帯に行きわたるほど商品は置いていなかったでしょう。まあ、今製薬メーカーは大喜びで増産中でしょう。

検査の仕方ですが、テレビのその後の報道でフリップの中の小さなスペースで示すために、「ポピドンヨードでうがい」と「うがいしない」という表示の仕方が多くあり、それだけを見て「うがいしない」は「水でも一切うがいしない」と思いこんだ人が多いようですが、会見では普通の水でうがいした場合とポピドンヨードでうがいした場合と言っています。「うがいしない」は「ポピドンヨードでのうがいをしない」の意味ですが、ここでも誤解が起きています。また、PCR検査は毎朝うがいをする前に行っていると言っていますので、直前にうがいをしてPCR検査をしているわけではありません。

これまでのポピドンヨードを含むうがい薬の使われ方を考えても、ポピドンヨードを含むうがい薬でうがいすることは適切な使用の仕方――妊婦さんにはよくなかったり、濃い濃度にしてしまうのは危険なようです――をする限り「百利あって一害なし」でしょう。吉村氏が発表したほど劇的な効果があるかどうかわかりませんが、やらないよりはいいはずです。不正確な情報で批判するのはやめるべきです。

756号(2020.7.31)数字を気にするなら

 一時的に感染者数が減りちょっとみんな安心していたかもしれませんが、ここに来て毎日過去最高の感染者数が発表され、再び様々な規制がかけられるようになってきています。今の空気ではこういう方向に進むのは仕方がないだろうなと思いますが、その陰で社会はどんどん危なくなってきています。感染者数は日々大きく報道されているので、みんな知っているでしょうが、その陰で小さな記事で重大ニュースが流されています。今朝の朝日新聞では社会面で全国の感染者数がいつものように大きく掲載されていましたが、経済面の片隅に以下のような記事が載っていました。

 「オリエンタルランド248億円の赤字/JR1553億円の赤字」

 ともに46月の純損益です。休業要請に応えたお店に10万とか20万の補償金を出すという提案がなされていますが、こういう大企業の巨額赤字は、自治体ではいや政府でもどうしようもないでしょう。これらはほんの一部で他にも補てんできない巨額赤字を出している大企業がたくさんあります。6月くらいからは少し社会経済活動は戻ってきて収益も改善されていたはずですが、最近の感染者増でまた自粛すべきだという声が強まっていますので、8月はまた収益は大幅に減ることでしょう。

8月は自粛ムードが強まり、9月は少し感染者数が減ることになるかもしれませんが、またいずれぶり返すでしょう。23月頃からここにずっと書いてきたように、この新型コロナが落ち着くのには、23年かかります。こんなに怯えながら、そのたびに社会経済活動を規制していては、いずれ大企業も潰れ始めます。本当に気にすべき数字は、こういう企業の経済状態を示す数字と、コロナ関連では重症者数、死亡者数だと思います。無症状、軽症者を多く含む感染者数に一喜一憂すべきではないと思うのですが、世間はそういう認識ではないですね。

4月の時のように、緊急事態宣言を出そうとしない政府を無策と批判する人がいますが、政府は社会経済活度を止めないことを選択しているのだと思います。それを明確に主張したらいいと思うのですが、なんか中途半端に世論に流されるので、優柔不断に見えてしまっています。「GO TOトラベル」もやることに決めたなら、東京も含めてやればよかったのに、中途半端に東京を外すので、方針がぶれているように思われてしまいます。コロナで1人も死者を出さないという方針で行くのは無理です。規制をかけすぎずに社会経済活動を止めないという方針で行くと明確に打ち出せばいいのにと思いますが、世論の批判が怖いのか、決してそういう言い方は政府もしません。このまま奇妙な自粛ムードのままで行ったら、数年後に日本社会はコロナ前とはまったく違う社会なっているかもしれません。

755号(2020.6.13)科学的に見て意味があるのか?

室内の換気をしなければいけないということで、お店も教室も扉と窓を開けたりしていますが、それでどういう効果が出るのか非常に疑問です。

換気をする意味というのは、ウィルスが潜んでいる可能性がある口から発せられる飛沫を室内に留めないためということですよね?しかし、飛沫って、扉と窓を開けている程度の空気の流れでふわふわと外に出ていくものでしょうか?とうていそうは思えません。万一飛んでいくのだとしたら、扉や窓のそばにいる人に飛沫が流れていって感染する怖れも十分あるということですよね?そんな危険にさらしていいのでしょうか?

大阪駅前ビルの地下の飲食店などは店内の空気を外に出す換気用パイプのようなものを設置しているところがありましたが、もしこれで室内に存在したウィルスに感染した人の飛沫が店外に出るなら、駅ビルの地下の通路にはウィルスがまき散らされていることになりますが、これで問題ないのでしょうか?たぶん飛沫は外に飛んでいかないとわかっているので、行政も指導しないんでしょうね。

いずれにしろ、こんな換気なんて百害あって一利なしでしょう。そもそも感染者は今は極わずかしかいない上に、体調が悪い人やマスクをしていない人は室内にいれないようにしているのですから、こんな効果のない換気なんてやる意味がないと思います。「新しい生活様式」を考えた専門家会議の専門家って、本当に科学者なのかなとおおいに疑問です。

754号(2020.6.11)たったひとりの抵抗

 緊急事態宣言が解除されたのに、「気を抜くな。新しい生活様式を守ろう!」という訴えかけが効いているのか、まだまだ町中はマスク姿の人ばかりです。厚労省と環境省が熱中症にならないように、他人との距離が取れるところでは、積極的にマスクを外しましょうと言い始めましたが、まだ誰もマスクを取りません。みんな暑いけど、マスクをしていないと周りから睨まれるような気がして外せないんでしょうね。

 私の長年の流行観察によれば、2割の人がその行為をするようになると、もうそれほど少数派という感じがしなくなり、一気に広まっていくという仮説を持っています。しかし、今のマスクなしの比率は100人に1人〜2人と言ったところでしょう。こういう中で、マスクを外すのはなかなか勇気がいるのですが、私は今あえてマスクを外すという行動をしています。咳もくしゃみも出ず、喋りもしない時に、なぜマスクをしないといけないのか、私は納得が行きません。マスクは、予防効果はほとんどなく、自分が飛沫をまき散らさないためのものです。飛沫を飛ばさない状況なら不必要でしょう。

 今日大学に行く際に乗ったバスと電車でマスクを外していましたが、行きも帰りも乗った車両の中でマスクなしは私だけでした。1人じっと見てくる女性がいましたが、後は別に睨まれませんでした。どう考えても加害者になっていないのだから、睨まれる覚えもないのですが……。少しずつ、私のように考える人が増えていき、5人に1人くらいマスクをしない人が出てきたら、後は一気にマスクを外そうという動きに勢いがつくはずです。

 緊急事態宣言を解除するタイミングで出された「新しい生活様式」は感染防止の比重が大きすぎます。本当に、社会経済活動と両立させるためには、もっと緩めるべきです。映画館もコンサートホールもあんなに席を空けなくていいと思います。体調が怪しい時は無理せずに休むことだけ意識したらいいと思います。今や、日本全国で新型コロナで入院している人は1000名ちょっとです。12000万人の0.0008%です。隠れた感染者が10倍いたとしても、0.008%です。99.992%はウィルスに感染中ではありません。なんで、99.99%に合わせた行動にしないのか不思議で仕方ありません。もちろん咳が出そうな時はマスクはしますし、マスクなしでは入館させてくれない施設も今はまだたくさんありますので、常に持ってはいますが、必要のない時はマスクを外したままで過ごしたいと思います。たったひとりの小さな抵抗です。

753号(2020.5.26)知識は伝達できるけど、、、

 オンライン授業が本格化して1カ月以上経ちました。最初はどうしたらいいんだろうと頭が真っ白になりましたが、なんとか学習し、それなりにパターンもできてきました。講義はパワーポイントに音声をつけそれを動画として視聴できるようにしています。受講生たちの受講状況は、リアルで授業をやっていた時よりもはるかによく、またわからないところは聞き直すこともでき理解度もリアル授業よりよいように思います。ゼミはZoomミーティングで授業時間通りに行っています。報告が終わるたびに、ブレークアウトで34人の少人数グループに分かれて話し合ってもらい、また5分後くらいに全員一堂のミーティングに戻ってもらって、各グループで出た意見を報告してもらい、それに報告者がリプライしたり、私が追加情報を加えたりします。ゼミ終了後は、掲示板に感想や意見を書いてもらっていますが、それも自分でさらに調べた上で書く人も少なくなく、例年よりゼミ生も勉強している気がします。学生たちもこうしたやり方にすっかりなれたようで、「どうオンラインでの授業は?」と聞いてみたら、「全然いいです。大学に行かなくていいので、ずっとこれがいいです」と言う学生がいました。「物足りない」と言ってくれる人もいるかなと思いましたが、Zoomミーティングの場では誰もいませんでした。

 確かに知識を伝達するという意味ではこうしたオンライン授業はリアル授業より効果的かもしれません。しかし、大学教育の役割って知識伝達だけではないと思う私としては、このまま学生がこれでいいんだと思ってしまう前に、対面できる状態に戻したいと強く思います。私は大学という場は、知識を得るだけでなく、様々なことにチャレンジして自らを成長させ、企画力やコミュニケーション能力を高めるといった、人が育つ場だと思っています。知識を得る勉強以外に、学ぶことはたくさんあるのですが、オンライン授業ではそういう機会がほとんど持てません。人育てを大学教育のモットーとしてきた私にとって、今の状態は不満感が強いです。しかし、新ゼミ生は「ゼミなんてこんなもんだろう」と思い始めてしまっています。

 春学期期間中はこのままでやるしかないのですが、知識を習得しやすいという顕在的順機能の裏で、自分の世界から出なくてもいい(=成長しなくていい)と思ってしまうという潜在的逆機能も生まれてしまいます。もっともっと君たちの世界は広げられるよと教えてあげたいのですが、今の状態ではままなりません。

752号(2020.5.20)いろいろ言いたい

 1か月半ぶりに、居酒屋で一杯やってきました。楽しかったです。行きつけのお店ですが、そのお店も、大阪府の指示に従って56日までは休業し、7日から再開し、16日からようやく21時までアルコールを提供するようにしたそうです。もう少しお客さんが来ているかなと思いましたが、私を含めてわずか3名でした。扉は開けっ放し、入口にはアルコール消毒薬が置いてあり、お店の方はずっとマスクをしているという状態でした。でも、気心の知れたマスターと、その人柄にひかれるお客さんばかりだったので、ざっくばらんに話もできて楽しい時間でした。

 そこでも話題になったのですが、ついに甲子園(夏の高校野球)も中止になってしまいましたね。今の流れなら全国大会の中止はやむをえないと思いますが、地方大会まで中止にするのは納得が行きません。全国から甲子園に来させるのはまずいとしても、各都道府県内で大会を実施するのは可能なのではないでしょうか。球場での応援が密になりそうなら、応援はなしでもとりあえず各都道府県でトーナメント方式で優勝チームを決めることは、今の規制の範囲内でもできるのではないかと思うのですが、、、、応援なしは寂しいでしょうが、選手たちも試合ができることに喜びと感じるでしょう。

 すべてやめにするのは、万一の時に責任問題を問われないための大人の逃げであって、決して選手のことを考えてのことではないと思います。世間からの批判を恐れずに、うちの県は大会を行うという判断をする県がでてこないものでしょうか?感染者数ゼロがずっと続いているような県で、なぜ地方大会をやっていけないのでしょうか?全国足並みをそろえなければいけない理由などどこにもないのではないでしょうか。

 なんか「中止決定」にみんな安易に「仕方がない」と思いすぎです。仕方なくないんじゃないですか?できることはやりましょうよ。もちろん、高校野球だけではなく、他のスポーツも文化活動もやりましょう。夏のビッグイベントがどんどん中止を決めてしまっていては、少なくとも夏までは「自粛」ムードが居座りそうです。そんなムードのままでは倒産企業が次々に生まれます。もう怯えすぎずに、活動を再開しましょうよ。

奇妙な「新しい生活様式」って、伝統的イベントを全部やめることにつながるんですか?違うんじゃないですか?なるべくこれまでやってきたことをするために、行動に気を付けなければならないってことじゃないんですか?全部やめてしまうのは「生活の破壊」であって、「新しい生活様式」ではないでしょう。ああ、この「自粛=正義」みたいな考えが早く消えてほしいものです。

私はちゃんと気を付けているところ――この1カ月半、ほとんど人に会っていませんし、マスクの使用、手洗いの丁寧な実施など――は気を付けているので新型コロナに感染していないと99.99%の自信を持って暮らしています。会いたいという人には会いますので、どうぞ気楽に連絡を取ってきてください。私は避けられなければならない「危険人間」ではありません。すべての人を感染者と疑ってかかるような生き方はやめませんか?信頼できる人とは会いましょうよ。都道府県をまたいだ旅行もどんどんしましょう。鉄道会社も航空会社もこのままじゃ潰れます。そんなことになったら大変です。この狭い日本で「都道府県の境界をまたぐな」なんておかしすぎます。気を付けながらも行動しましょう。「気を緩めるな」という言葉が「行動するな」という意味になっているのはおかしいです。「気を付けて行動しましょう」という意味であるべきです。

周りの目を気にした行動ではなく、自分自身の状態を正確に把握し、自覚と責任感を持って行動しましょうよ。「自粛します」とまるで「法律を守っています」とばかりに堂々と言わないでほしいものです。そういう人はいつ「自粛」を解くんですか?「非常事態宣言」が解除されたらですか?そんな人任せでいいんですか?「自粛解除」を自分で判断できない人間は、解除後はどういう行動をするのでしょうか?日本には、自分で情報を集め、自分できちんと判断する、そういう人間が少なすぎることを、今回の事態の中でもしみじみ感じます。

751号(2020.5.16)統計学的に見るのは不届きなのだろうか?

 奇妙な問いから始めてみます。もしもある男が80歳代の老人を1人人質にしてその首にナイフを突きつけて総理官邸に電話し、「全国に非常事態宣言を出して、国民に不要不急の外出をすべてやめさせろ。さもなくばこの老人の命はないぞ」と脅したら、政府はどういう対応をするでしょうか?非常事態宣言なんか出すわけないじゃないかと思うでしょうね。でも、その時には1人の老人の命が消えますが、そこに痛みはないですか?仕方ないと思うかな?じゃあ、ダイナマイトを持って老人ホームに立てこもった男が「非常事態宣言を出せ。さもなくばこの老人ホームを爆破するぞ」と言ったら、どうですか?それでも非常事態宣言は出さないかな?

 何が言いたいんですかといい加減聞きたいでしょうね。実は、今の新型コロナへの対応というのは、この状況の拡大版ではないかと思っているのです。何も手を打たなければ日本で40万人が新型コロナで亡くなるだろうと予測したお医者さんがいましたが、まあ何も手を打たないわけはないので、そんなに亡くなったりはしないと思いますが、アメリカですでに8万人を超える人が亡くなっているのを見ると、日本でも1万人以上が亡くなることは十分ありうると思います。では、果たしてそうならないように、日本はずっと非常事態宣言をしつづけるべきなのでしょうか?それは、1万人の人質を取ったコロナという犯罪者の「非常事態宣言を出せ」という要求を受け入れるということと異なるのでしょうか?

 来週にでも非常事態宣言がすべて解除されそうな前向きな気分の時に何を言っているのですかと言われそうですが、必ず第2波が来ます。夏は少し収まったように見えていても寒くなってきたら確実にまた増えてくるでしょう。今出されている厳しい基準であれば、もっと早く再び非常事態宣言を出すことにならざるをえないと思います。非常事態宣言まで行かなくても「新しい生活様式」に従って生きていたら、夏の暑い時期もずっとマスクをして、映画館も飲食店も定員の3分の1から5分の1にして、不要不急の外出はしないで、常に気を緩めることなく暮らさないといけないのです。果たして、われわれはそれを受け止められるのかということを問いたいのです。たった1カ月強の非常事態宣言でも、経済も社会もガタガタになってしまっています。小さなお店が潰れそうといった報道が多いですが、今日大手アパレルメーカーであるレナウンが会社更生法を申請したように、この非常事態宣言を続けたら、小さな店はもちろんですが、一部上場大手企業が次々に倒産していくことでしょう。果たして、それでいいのでしょうか?

 今の日本政府が立てている第一の目標は新型コロナでの死者を少しでも少なくすることでしょう。1カ月前に比べたら、少しは社会経済もだめにならないようにしないといけないと言い始めていますが、まだまだコロナ対策が優先していると思います。でも、「気を緩めてはいけない。新しい生活様式を守ろう」と言っていますので、非常事態宣言を解除しても、社会は以前のようには回りません。いくらお金を多少配っても、どんどん消費活動に使ってくださいという空気ではないので、どこも経済は復活して来ないでしょう。

 すでに非常事態宣言を解除された県の知事や担当大臣が、まだ非常事態宣言が出されている都道府県からの移動は避けるようにと言っていますが、一体感染者がどのくらいいると考えているのでしょうか?昨日時点で、日本の感染者数は16,269人、退院した人11,462人を引けば、4,807人です。まあ、PCR検査が十分に行われていませんから、実際はこの10倍くらい感染者がいる可能性は十分あると思いますが、それでも5万人程度です。5万人というのは日本の人口12000万人の0.04%にすぎません。1万人に4人です。計算上99.96%の人が感染者ではないはずなのに、なぜほぼすべての人が感染者であるかのような行動規制をかけられないといけないのでしょうか?「疑わしきは罰せず」は法律の大原則ですが、このウィルスへの対応では、「疑わしい人だけではなく、疑わしくない人もすべて罰する」という感じです。統計学的に見たら、0.04%のデータで全体を代表させているようなもので、ありえない結論の出し方です。

この無茶な行動規制の根拠は、死者がたくさん出るかもしれないという一点にあるのだと思いますので、あえて過激だと言われてしまうかもしれませんが、社会を壊さないためには1万人の人質の命を諦めるという選択肢もあるのではないかという問題提起をしてみたいと思います。もちろんなるべく亡くなる人の数は減った方がいいとは思いますので、無理なくできること――手洗いの励行、具合が悪ければ休む、など――は適切に対処しながらやればいいと思いますが、経済や社会がおかしくなってしまいそうな数々の「新しい生活様式」には従わずに生きてもいいという空気が早く生まれてきてほしいものです。とりあえず、咳もくしゃみも出なければ、マスクは外したっていいんじゃないでしょうか?みんな、熱中症になりますよ。

750号(2020.5.12)日本に三権分立があるなんて誰か本気で信じていたんだろうか?

 「#検察庁改正案に抗議します」運動が急速に広まり、その中で「こんな法律ができたら総理大臣すら逮捕できる検察庁が時の政権の意向に従うようになり、三権分立の原則が崩れてしまう」と批判している人がたくさんいますが、そもそも日本にきちんとした三権分立が成立していると信じていた人っているのかなと私は不思議に思いました。

 三権とは、立法、司法、行政のことですが、議院内閣制の下では行政を代表する政府が立法の代表である国会の多数を占める与党と一蓮托生であるのは当然のことで、その二権はまったく独立していません。特に、今の日本のように小選挙区比例代表制という選挙制度で、いざ国政選挙となったら政府のトップである総理大臣が与党の顔(代表)となって選挙を戦うという構造では、与党議員は総理大臣に逆らうことなどめったなことではできません。この二つの権力に独立性を与えるためには、議院内閣制ではなく、アメリカの大統領制のように、議員を決める選挙と政府のトップを決める選挙を独立させる必要があります。大統領制でも、議員を選ぶ選挙の顔に大統領がなったりしますが、議院内閣制よりは立法に独立性があります。

 日本も中選挙区制度の時代には、選挙に勝ちあがるのは、党の代表が誰であるかというより、政治家本人の力量の方が大きかったので、与党の議員であっても、今より政府に対して強い立場を持っていました。それゆえ、たまには政府の方針に納得がいかない与党議員が内閣不信任案に賛成して可決してしまい、仕方なしに総理大臣が衆議院を解散して総選挙を行わざるをえなくなるなんて事態も何度か起きていました。内閣総理大臣が衆議院解散権を持つのは、こういう行政と立法が対立する構図になった時のためで、今の安倍総理が何度も使ったような、総理大臣が好きなタイミングで選挙を行う権利ではありません。いずれにしろ議院内閣制の下では、立法権と行政権の独立した関係は仕組的に無理があることはわかっていただけでしょう。

 次に司法の位置付けですが、そもそも今回問題となっている検察庁という組織は司法の一部なのか行政の一部なのかというのは微妙な問題だと思います。確かに、過去の例を見たら大物政治家――たとえば、田中角栄元総理――の逮捕に検察庁が動いた例などもありますが、他方で法務大臣が検事総長に指揮権発動して与党幹事長の逮捕が見送られたというケースもあります。また、明らかに行政権力の一翼を担っている警察庁――そして各都道府県警察――と検察庁は密接な関係にあります。このように考えていくと、検察庁は単純に司法だとは言えない気がします。もちろん、だからといって官邸の意向が検察庁の人事に強く働くのは良くないと思いますが。

 司法の典型はやはり裁判所だと思います。さてでは、その日本の裁判所――特に三権分立の文脈では最高裁判所に注目すべきでしょう――は、行政に対して独立して司法権を行使できているかという、これもかなり怪しい気がします。これまで政府が強引にやろうとしてきた政策を非合法だと最高裁判所が判断したことはほとんどないのではないかと思います。おそらく、それは政権に阿るからというよりは、司法の性質上、既成事実化が進んでいることに対しては、基本的に方向性を逆転させないという保守的な判断をするからではないかと思います。いずれにしろ、司法権の独立もかなり怪しいと思います。

 こうやって見てくると、この日本という社会は、結局三権分立にはほど遠く、行政の力が圧倒的に強い構造になっていると言えます。こうした行政の圧倒的な権力に対抗するものはないのでしょうか?あります。それは国民の声です。今は、今回の問題のようにツイッターで政府・与党の方針に異論を容易に提示できるようになりましたが、以前ならマスメディア――特に世論調査など――を通して国民の声が届けられていたものです。ただ、マスメディアを通した時代でも、今のようにツイッターなどで広まる場合でも、政府は無視しようと思ったら無視できてしまいます。結局最後は投票しかありません。国民が自らの権利を明確に主張できるのは、選挙の時なのです。特定政党をずっと勝たせてはいけないのです。そんなことをしていると、今のように政府が三権分立の頂点に立って好きなことをしてしまうのです。いい加減なことをしている政府を支持している政党は選挙で引きずり下ろすという姿勢を国民がきちんと見せることです。行政権に対抗するのは、民主主義の理念を理解した国民の選挙行動しかないというのが私の見解です。

749号(2020.5.10)「新しい生活様式」は最低でも4年?

 今日、「アッコにおまかせ!」というテレビ番組を見ていたら、長野保健医療大学の北村義浩特任教授という方が、「新しい生活様式は、最低でも4年、やや短くみても3年は続けてもらわないといけない」と発言しているのを聞き、出演者もですが、私も驚きました。確か「新しい生活様式」というのは、心がけひとつでできることもあったけれど、かなり不自然な生活様式もあったはずだと改めて調べてみました。

感染防止の3つの基本

@身体的距離の確保
Aマスクの着用
B手洗い

·        人との間隔はできるだけ2m(最低1m)空ける

·        遊びに行くなら屋内より屋外を選ぶ

·        会話をする際は可能な限り真正面を避ける

·        外出時、屋内にいるときや会話をするときは症状がなくてもマスクを着用

·        家に帰ったらまず手や顔を洗う できるだけすぐに着替える、シャワーを浴びる

·        手洗いは30秒程度かけて水と石けんで丁寧に洗う(手指消毒薬の使用も可)

※高齢者や持病のあるような重症化リスクの高い人と会う際には体調管理をより厳重にする

移動に関する感染対策

·        感染が流行している地域からの移動、感染が流行している地域への移動は控える

·        帰省や旅行はひかえめに 出張はやむを得ない場合に

·        発症したときのため誰とどこで会ったかをメモにする

·        地域の感染状況に注意する

日常生活

·        まめに手洗い 手指消毒

·        せきエチケットの徹底

·        こまめに換気

·        身体的距離の確保

·        3密の回避(密集 密接 密閉)

·        毎朝の体温測定 健康チェック 発熱またはかぜの症状がある場合は無理せず自宅で療養

生活場面ごとの例

買い物

·        通販も利用

·        1人または少人数ですいた時間に

·        電子決済の利用

·        計画を立てて素早く済ます

·        サンプルなど展示品への接触は控えめに

·        レジに並ぶときは前後にスペース

公共交通機関の利用

·        会話は控えめに

·        混んでいる時間帯は避けて

·        徒歩や自転車利用も併用する

食事

·        持ち帰りや出前 デリバリーも

·        屋外空間で気持ちよく

·        大皿は避けて料理は個々に

·        対面ではなく横並びで座ろう

·        料理に集中 おしゃべりは控えめに

·        お酌 グラスやお猪口の回し飲みは避けて

娯楽 スポーツ等

·        公園はすいた時間や場所を選ぶ

·        筋トレやヨガは自宅で動画を活用

·        ジョギングは少人数で

·        すれ違うときは距離をとるマナー

·        予約制を利用してゆったりと

·        狭い部屋での長居は無用

·        歌や応援は十分な距離かオンライン

冠婚葬祭などの親族行事

·        多人数での会食は避けて

·        発熱やかぜの症状がある場合は参加しない

働き方のスタイル

·        テレワークやローテーション勤務

·        時差通勤でゆったりと

·        オフィスは広々と

·        会議はオンライン

·        名刺交換はオンライン

·        対面での打ち合わせは換気とマスク

 こうやって見てみると、まあできるかなというのもありますが、赤字にしたものなどは、半年くらいなら頑張ってなんとか続けられても、3年とか4年もと言われると、無理な気がします。単純なところで言えば、外出するときは全員マスクをつけるというのを、これから3年も4年もずっとし続けるのでしょうか?そんな気持ち悪い社会に日本になってしまうのでしょうか?食事も対面には座らず、会話も真正面でするのは避け、食事に集中しお喋りは避け、冠婚葬祭も多人数を避けるなんて守ろうと思ったら、ゼミ飲み会も結婚披露宴も34年できないことになってしまいそうです。帰省も旅行も控えるというのも34年も守ったら、息苦しくなりますよ。観光業界だって持ちません。筋トレやヨガは自宅で動画でというのを34年も続けたら、スポーツジムやヨガ・スタジオはすべて潰れます。こんな「新しい生活様式」34年も続けるのは無理だと思います。ここには、学校のことは書いていないですが、こういう生活様式を守ろうとするなら、大学での授業も普通にはできないことになりそうです。今年入学した新入生は卒業まで4年間、こんな授業形態に甘んじないといけないのでしょうか?

 この「新しい生活様式」という言葉が出されたのは、緊急事態宣言を延長を決める際で、いずれ解除されるとしても気を許してはいけないという文脈だったので、みんな、確かに当面はそうしないといけないだろうし、そもそも今の緊急事態宣言が出されている状態よりはちょっとましだろうなと思い聞いたと思いますが、34年もと言われると、いやいや聞いてないよ、このまま守るのは無理でしょ、と言いたくなると思います。新型コロナはそれなりに怖いし対処しないといけないと思いますが、社会も壊れないようにしないといけません。有名な芸能人が亡くなったということばかり大きく取り上げるのは個人にのみ焦点を合わせた見方です。一般大衆はそういう情報に感化されやすいですが、社会全体のマクロな状況にももっと注目しないといけないと思います。政治家の役割とはそういう大局を見て政治的判断を下すことだと思うのですが、果たして批判を恐れずにそれがちゃんとできる腹の座った政治家が日本にいるのでしょうか?

748号(2020.5.6)日本の都道府県って、そんなに独立したまとまりだろうか?

 暇なわけじゃないんですが、ずっと家に居てパソコンの前に座ってニュースを見ながら仕事をしていると、ついついいろいろ書きたくなることがでてきます。今日は、非常事態宣言で様々な権限を与えられている都道府県という広域自治体はそんなにひとつの文化圏になっているのかという問いです。

 大阪府などは小さいので、大阪府全域で同じ規制をかけるのもそれほど違和感はないですが、お隣の兵庫県などは県全体に同じ規制をかけるのはかなり不自然ではないかと思います。兵庫県イメージの中心である神戸市での状況で決めた規制が、日本海側の豊岡市とか、山と緑が圧倒的に多い養父市とか朝来市とかに同じようにかけられるのはむしろおかしいのではないかと思います。京都府でも中心部の京都市内と丹後半島の京丹後市に同じ規制をかけるのはおかしいと私は思います。たぶん、県内でも地域を分けて規制を変えることもできるのだろうとは思いますが、今のところそういう風にやっているというニュースはあまり聞こえてきません。(市町村立の小中学校に関しては、市町村の意向が反映されると思いますが。)

 また、この都道府県を単位とした規制のかけ方の中で、他県の人は来ないでほしいと言っている知事や住民がたくさんいますが、こんな狭い日本で都道府県単位で出入りを規制するなんて無理です。感染者数がそう多くない滋賀県や奈良県、和歌山県あたりが特定警戒都道府県からははずれることになったが、あまり規制を緩めると、特定警戒都道府県である大阪、兵庫、京都から人が来てしまうので困るとか言っていますが、仕方ないじゃないですか。国レベルの鎖国ですら、このグローバル化を前提として動いてきた世界を機能停止させそうな勢いなのに、こんな小さな国で便宜的にできているとも言ってもいい都道府県をまるで自給自足のできる独立国家のように考えるのはおかしいです。大体、じゃあ県内なら誰が来てもいいのかと問われたら、同じ県内の過疎的地域に住む人なら、都市部からは遊びに来ないでほしいと思っていることでしょう。

 特定警戒都道府県として継続する自治体も含めて、もっと地域を丁寧に分析して、どういう経済圏や文化圏に入っているのかを見極めて、都道府県の線引きだけにこだわらずに考えるべきです。例えば、滋賀県の大津市なんかは、京丹後市よりもはるかに京都市内と同様の対応を取るべき地域だと思います。本当は大都会イメージの強い東京都だって、奥多摩市や桧原村に都心部と同じ規制をかけ続けるのはおかしいんです。

 自粛という名の休業要請や休校要請という規制をかけるというのは大変なことなのです。どうしてもやらなければいけないなら、各都道府県で一律という単純な形でなく、もっと丁寧にやってほしいものです。法律的に難しいのはわかりますが、社会学的には鉄道網などをベースにある程度ゾーン分けはできるのではないかと思いますので、隣接県の知事がちゃんと話し合い調整することで、もう少しましな規制のかけ方ができる気がします。まあでも、今の日本のやり方だとすべての人がウイルス感染者かもしれないということを前提に、「ステイ・ホーム」と言われてしまっているので、こういうことをちゃんと考えてくれないでしょうね。

 私は社会・経済を殺さないために日常を取り戻すべきだという立場なので、規制を緩めていく際には、単純に都道府県単位ではなく、もっと丁寧な経済圏・文化圏把握をしてくれと主張したいです。

747号(2020.5.5)大阪府の基準は今評価されているが、、、

 大阪府が、施設再開を可能にする以下のような独自の基準を本日発表しました。

undefined1.1日当たりの感染経路がわからない患者数が10人未満であること

2.新型コロナウイルスに感染しているかどうかを確認する検査を受けた人のうち陽性者の割合が7%未満であること

3.重症の患者を受け入れる病床の使用率が60%未満であること

の3つの指標のすべてを7日間連続で満たすことを条件としています。

吉村大阪府知事の爽やかな雰囲気もあり、ほとんどのメディアが高く評価し、こうした数字による基準を明確に出さない政府のやり方を批判していますが、私は、この大阪基準はしばらく経ったら大阪自身がこの基準をクリアできずに苦しむことになるのではないかという気がしてなりません。特に、1の基準は7日連続で満たすのはなかなか厳しいのではないかと思います。PCR検査はどんどんたくさんやった方がいいと思うのですが、今より何倍もPCR検査ができるようになったら、それなりに1日あたりの感染者数は出てしまいます。ただし、検査を増やしたら、陽性者割合は低くなるはずですので、2の基準はクリアしやすくなります。3の基準は、協力病院を増やすことができれば、クリアできる可能性はあります。

PCR検査を現在と同じように、かなり症状がきつくなった人や濃厚接触者としての疑いがある人にしかやらないとすれば、1日あたりの感染者が一桁になる日が何日か続くことはあるでしょうが、丸々1週間一桁が続くのは厳しいのではないかと思います。6日間、感染経路がわからない患者一桁が続いても7日目に10人を1人でも超えてしまったら、再開できないことになります【追記注】。また検査数を絞ったままだと、陽性者比率が7%を切るのは容易じゃないのではと思います。(この陽性率って、毎日のようにちゃんと紹介してくれないので、どのくらいなのか全国の状況についてはよくわからないのですが、大阪大学の山中伸弥教授は大阪府からデータを提供してもらって計算したグラフ(右上図)をご自分のウェブサイトに載せているので、これを参考までに掲載しておきます。)いずれにしろ、「爽やか知事」が打ち出したこれらの基準が足枷になって、大阪府は施設や事業を再開できなくなるのではないかと危惧します。私は、この基準は原則とか目安くらいに見ることにしますと早めに言った方がいいんじゃないかなと思うのですが、、、

大阪府が数字で基準を打ち出したので、政府も出さなければという動きが出てきそうですが、たぶん出すとしても政府は数字に少し柔軟性を持たせるのではないかと思いますし、私はその方がいいと思います。ちなみに、あと1カ月我慢してかなり感染者数が抑えられたとしても、また遅くとも秋から冬にかけて第2波は必ず来ると思います。このウイルスは紫外線に弱そうだという話もありますので、夏は収まったように見えるかもしれませんが、寒くなってきたらまたぶり返すと思います。過去のパンデミックの例を見ても、結局収束するのは人口の6割以上が感染し抗体を体に持った時なので、そう短期間では収束しません。日本のように、感染者数をかなり抑え込んでいる国こそ、第2波、第3波が来る確率は高いはずです。

完全に抑え込むのは無理なので、ずっと言っているように、ウイルスとの共存を前提に、経済活動、社会活動を再開してほしいものです。一桁が7日続かなくてもいいじゃないですか。とりあえず、学校は再開しましょうよ。学童保育や近くの公園で小学生は密集しています。学校でできるだけ気を付けながら過ごさせた方が余程ましなのではと思ったりします。多少感染者が出ても、インフルエンザにかかる人が出たくらいの意識で捉えられませんかね。まだ無理かなあ。社会が壊れてしまう前に、このウイルスを人々が普通に受け止められるようになるといいのですが、、、

【追記注:この患者数の計算は、その日その日の人数ではなく、その日を含めた1週間の平均人数だそうですので、7日目に10人を超えたからといって、即条件が外れるということではないそうです。たとえば、前日まで9人平均で来ていたら、翌日10人の経路不明の感染者が出ても条件はクリアされます。16人出たら、平均人数が10人になりますので、条件を満たせなくなることになります。】

746号(2020.5.5)Zoom飲み会は、ひな壇タレントの並ぶバラエティ番組のよう

 最近続けざまに3Zoom飲み会・お茶会に参加・主催してみました。1回は4回生ゼミ生にホストになってもらい、その学年の飲み会に1参加者として参加し、1回は自分がホストとなって声掛けをして飲み会を実施し、もう1回は私がホストでしたが、午後にお茶会という形で新ゼミ生とやってみました。3つ目の新ゼミ生とのお茶会は、まだ学生同士も親しくなっていないので、互いにニックネームで呼べる関係になろうというのと、Zoomでどんな遊びができるかを試してみようという企画だったので、飲み会というよりは授業の一環という感じでしたが、他の2回は夜に実施し、まさにZoom飲み会でした。

 その2回の経験からわかったことは、Zoom飲み会はひな壇タレントが並ぶバラエティ番組みたいだなということでした。その飲み会が盛り上がるかどうかは、ホスト役のMCの回す力とひな壇タレントにあたる参加者のツッコミ力が、Zoom飲み会が盛り上がるかどうかの大きなポイントになっているようです。参加者同士がツッコミとそれへの返しを上手にやってくれたら、MCはそんなに頑張らなくても大丈夫ですが、話題が広がらなかったら、場を盛り上げる何か新たな話題を出すとか、手立てを打てるかどうかが大事のようです。

 二桁を超える人数でやっているとどうしても話す人は話すし、話さない人は全然話さないということになってしまいがちです。テレビ番組で、ツッコミ力やリアクション力のないひな壇タレントが次の回からは呼ばれなくなるのもなるほどなという気がしました。現実の飲み会だと二桁を超える人数なら、席の近い同士で会話するということになりますので、Zoomでもブレークアウトセッションという機能を使って少人数のグループに分けて会話してもらうというのはそれに近いことができてなかなか便利な機能です。ただし、分れたグループ間では会話をまったく共有できないので、ずっとこのままでやっているとせっかく全員で集まっている意味がなくなってしまうので、やはりなるべく全員で盛り上がりたいところです。まあでも、ホストなら、どのグループにも入り込めたり、勝手にグループメンバーを移動させたりもできるので、現実の飲み会ではできないちょっとしたいたずらもできるので、それはそれで面白いかもしれません。また、地理的距離が離れていて現実の飲み会では集まれないようなメンバーでも簡単に集まれるのはZoom飲み会ならではの良さですね。

 いずれにしろ、もうしばらくは現実の飲み会はできそうもないので、Zoom飲み会を楽しむしかないですね。1カ月前にはありえないだろうと思っていたことが、だんだん普通になっていく不思議な感覚を味わっています。

745号(2020.4.30)医療関係者だけの専門家会議でいいのか?

 明日専門家会議が開かれ、おそらく「非常事態宣言」がさらに1カ月ほど全国で延長すべきという結論が出そうですが、これでいいのか、私の中ではふつふつと疑問が湧いています。医療関係者がほとんどの専門家会議では誰か社会のこと、経済のことを考えた発言をしてくれるのでしょうか?感染を広めないためには、人と人が接触しないのがよいに決まっているでしょう。しかし、そんなことをいつまでも続けたら、経済は破綻し、社会も立ち行かなくなります。小規模事業主や個人事業主には、それぞれ200万円とか100万円を給付すると決まりましたが、JR各社や航空会社という、社会のインフラを担う企業が持たなくなります。誰も動くな、外出するな、でも電車は混まないように動かし続けろというのは無茶な要求です。自動車メーカーも旅行代理店も、みんな持ちません。こんな大手の企業のマイナスをすべて補償するなんて政府にもできないでしょう。国債や紙幣をどんどん印刷して対応すればいいんだなんていう人もいますが、それは本来禁じ手です。社会のお金は、その社会のメンバーが必要なものを購入することで回るべきものです。お金を使っている人がいないのに、お金を政府が印刷し配りまくるなんてしていたら、大インフレが起きてしまいます。

 まだ警戒を解いてはいけないというのは理解できますが、これまでの56日までの1カ月とまったく同じような自粛をあと1カ月続けろというのは酷です。社会を壊さないようにしないといけないと思います。そのためには、警戒しつつも少しずつ社会活動を再開しなければならないと思うのですが、そんな結論を専門家会議が出すわけはありません。政治家も専門家の結論に従わずに死者を増やすことになったら批判されるので、それを怖れてともかく「ステイ・ホーム」とだけ唱え続けるのでしょう。もうこれ以上は我慢できないという世論がかなり高まるまで、この状態を続けるのでしょうか。でも、日本人は言われたことを守ろうとするし、守っていない人を見つけたら告発するし、相互監視システムがしっかり機能していますから、なかなか不満は言いにくいですよね。私は、「みんなで頑張りましょう!」という言葉はもう聞き飽きました。

追伸(2020.5.1):専門家会議の見解は基本的にはまだ緩められないという予想通りのものでしたが、ただ、長丁場の戦いになることを覚悟し、新しい生活様式を定着させなければならないこと、自粛疲れを懸念し学校再開を含め社会活動の再開に向けての検討を始めた方がいいと付け加えたのは予想外ですがよかったです。医師たちも社会のことを考えてくれるんですね。ちょっと見直しました。さて、これを受けて安倍内閣はこれまでとは違う戦略を打てるかどうか。

744号(2020.4.29)9月入学?

 昨日から、全国知事会を中心に今年の9月から学校の年度を9月スタートにすべきという声が急に大きくなってきました。反対だと言っている知事もいますが、声の大きな知事は、「この際やるべきだ。混乱はあるだろうが、どうせすでに混乱しているんだから」とかなり無責任なことを言っています。

 確かに、9月スタートは以前東京大学が本気で検討に入ったように一考の余地はあると思いますが、大学だけがやるのではなく、すべての学校がとなるなら、嫌でも日本社会全体の年度を変えるという話とつながってきます。これは大改革で、その余波は社会のすべてのところに及ぶでしょう。賛成派の知事たちは、簡単そうに言いますが、もしもやるなら綿密な準備が必要です。新型コロナへの対応でいっぱいいっぱいになっている今、この準備をきちんと進められるとは思えません。本気でやるなら、最短でも5年後くらいに変えることにして国民にその改変を受け止めさせる準備が必要です。

 今、急にやったらどうなるのでしょうか、この9月から学校が新年度になるとしたら、たとえば今の高校3年生は来年8月末まで高校3年生ということなるのでしょうが、高校2年生はどうなるのでしょうか?4月生まれ〜8月生まれは、もしかしたらこれまで同学年だと思っていた9月生まれ〜翌年3月生まれと分かれて、高校3年生を半年で卒業させられてしまうのでしょうか?そんなことはおかしいですよね。それはかわいそうだから、今の高2は高校2年が1年半で高31年にしましょうという考え方で行くと、結局今年入学した小学校1年生まで4月生まれ〜3月生まれを1学年として、9月スタート制を取らざるをえないことになります。

 じゃあ、次の小学校入学生から変えようということにしたとしてもどうなるんですかね?今年の9月入学からこの4月に年長さんになった4月生まれ〜8月生まれは小学校1年生にしてしまうのでしょうか?子どもを作る際に年度の中で先に生まれた方がいろいろ有利になるだろうと思って、4月、5月生まれになるように考えた人なんかは急に「早生まれ」にされてしまい納得が行かなさそうです。

 こんな大改革はきちんと国民世論の支持と準備期間を取ってやるべきものです。こんな時じゃないと、どうせ変えようとすることに対する国民の支持なんか永遠に得られないとか言って、どさくさまぎれにやってしまうのは、私は反対です。多くの知事やコメンテーターが、国際標準に合わせたら留学しやすくなると言っていますが、今の大学のシステムでも十分留学への対応はできていると思います。また、海外からの留学生受け入れでも、ほとんどの授業が日本語で行われている限り、9月に変えたからと言って劇的に増えるということはないと思います。だからといって、すべての授業を英語でやることにしたら、日本留学の意味はあまりなくなってしまうのではないかとも思います。「国際標準(グローバル・スタンダード)」という言葉を使えば、みんな反論ができないだろうと思っている英語ばかり使いたがる知事もいますが、日本には日本の仕組みがあってもいいのではないかと思います。少なくとも、今この未曽有の苦難の時期に、ばたばたとやるべきことではありません。

743号(2020.4.23)敵から強い味方になりつつある

半月前までまったくのアナログ教師だったのが、この間詳しい同僚に丁寧に教えてもらったりしながら、インターネットを使った遠隔授業システムに関して急速に知識を増し、少しずついろいろなことができるようになってきました。できなかった最初は、こういうシステムが全部敵に見えて、「なんで、こんなに僕を苦しめるんだ!」とか叫びたい気持ちでしたが、わかってくると「こんなこともできるのか」と、今や強い味方を得た気分です(笑)

いつもゼミ生たちに、会社に入ってから無理に合わせなくても自分がちゃんとやるべきことをやっていたら、そのうち使う方が使い方を覚えてくれてうまく行くようになるよと言ってきましたが、今の関大のインターネットを通した授業管理システム(=部下)と私(=上司)の関係がまさにそれです。このシステムが優秀なかわいい部下と思えてきました(笑)

 こうした授業に使える関西大学のインターネット・システムは、今急に作られたわけではなく以前からあったもので、私がちゃんと利用していなかっただけで、利用されている先生たちはそれなりにいたと思います。私は、「授業はコミュニケーションだ」という言葉を金科玉条のようにして、こんなシステムは使わなくてもいい――あるいは使わない方がいい――なんて思ってきましたが、こんな事態に追い込まれ、必要に迫られ必死に勉強し――この半月は少なくとも18時間以上は勉強しています――、ようやくその魅力もわかってきて、その機能の優秀さに驚き、使わない方がいいなんて思っていた半月前以前の自分を恥じています。事態が平常に戻ったとしても、アナログだけでなく、このインターネットのシステムも上手く利用した授業にしていこうという気持ちになっています。

ただ、学生さんたちも通常の授業よりレポートを書かなければならないことが多くなり負担は大きくなっているでしょうね。まあ本当は負担ではなく、本来やるべき勉強をちゃんとやらなければいけなくなっていると考えるべきですが。通常の授業ができるようになったら、前と同じようにたらっと授業を受ければいいという状態に戻らせてほしいなと思っているかもしれませんね。でも、私のようなロートル教師すら半分開眼してしまいましたので、たぶん多くの先生が以前よりはこのシステムを使って学生に勉強させようとしていくでしょう。今回の新型コロナは、10年以上前からやらなければならないと言われながら私のようなベテラン・アナログ教師がネックで進まなかった大学の教育改革を一気に進めることになりそうです。

742号(2020.4.21)こんなの片桐ゼミじゃない!

関西大学では、今週月曜日からインターネットを通した授業をするようにという指示があり、昨日は大学院ゼミと4回生ゼミ、そして今日は3回生ゼミをZoom会議でやってみました。

昨日の大学院ゼミ(中国人留学生ばかり4名、1名は中国から参加)はみんな割とよく喋ってくれたので、これはいけそうな感じでした。4回生ゼミはもともとすごく盛り上がっていたゼミではないので喋ってくれる人は多くなかったですが、1年付き合ってきて互いに性格もわかっているし、ニックネームでも呼べる関係なので、意外になんとかなるかもと思わせてくれました。「正規の授業時間はこれで終わりにするから退出していいよ」と伝えても、かなり多くの人が退出せず、就活のことなどしばらく雑談していました。8割くらいがずっと残っていて退出しないので、「じゃあミーティング全体を終了するよ」と言ってようやく終わりました。みんなコミュニケーションを取りたいんだなとちょっと嬉しく思いました。画面を終了する前に、多くの子が「バイバイ」と手を振ってくれたのも印象的でした。

この2回の経験から3回生ゼミも行けるかなと思いましたが、まったくだめでした。まだ互いによく知らない人もいる中で積極的に喋ってくれる人はいないし、通信料のことも考えて、報告者以外はカメラもマイクもオフにして聞くだけでいいよという感じでやりましたので、誰がどんな感じで聞いているかも全然わかりません。もちろん、カメラもマイクもオンにしておいてと言えば、そうしてくれるのですが、カメラ越しの表情を見ていても、教室で得られるような情報量ではまったくなく、学生の性格などはよくわかりません。教室でやっていれば、隣の子にちょっかい出したり、ぼーとしていたり、逆にしっかりメモを取りながら聞いていたり、といった行動面での情報も入手でき、ああ、この子はこんな子かなとわかってきたりしますが、そんなことも画面越しではほとんどわかりません。社会学的に言えば、入手できるシンボル量が少なすぎて、相互作用がうまくできないということです。喋らない子でも、笑顔で聞いていたり、大きく頷いたりしてくれている子は、しっかり参加してくれているなと思うのですが、そういう情報がほんのわずかしか入りません。

そもそも本来なら、この時期は3回生最初のゼミ合宿の時期で、そこでゲームをし飲み会をし、ニックネームを決め、そのニックネームで呼び合うことで心理的距離を大きく近づける大事な時期です。もちろん、今はそんなことも一切できません。「こんなの片桐ゼミじゃない!」と、私が一番叫びたいです。ゼミを楽しみに入ってきてくれた新ゼミ生たちが可哀想です。

741号(2020.4.18)データを正確に認識しているだろうか?

 新型コロナの感染者を減らすために、人との接触を8割減らさないといけないと毎日のようにニュースで言われています。その際に紹介されるのが左のグラフです。この予測はたぶん、1人が2.5人に感染させることを前提に計算されていると思われます。普通に人と接触していたら、1人が2.5人に感染させてしまうので。8割減にすれば感染させる数が0.5人となり、後は毎日0.5を掛けていくと急速に収束するということでしょう。7割減では収束に時間がかかるのは1人が感染させる人数が0.75人になるので減り方大分緩くなり、6割減しかできないと1人が1人に感染させるので、毎日同じ感染者数が出るためグラフは平行線となるということだと思います。ここまではわりとわかりやすいと思います。

 私が危惧しているのは、このデータを紹介した後に、これまでの累計感染者数のグラフが示され、急速に感染者は拡大していますといった説明がしばしばされていることです。ちょうど西浦教授が示しているグラフの左側の方と同じような角度を示しているので、なるほど今まさに西浦教授が示したグラフの20日目あたりに当たるのかと思わせるようになっています。しかし、この2つのグラフには大きな違いがあります。西浦教授のものは毎日の「新規感染者数」のグラフであり、右のグラフはこれまでの感染者数の累計グラフです。累計グラフは陰性になって退院した人の数を引いていませんので、どうしたってずっと右上がりになります。この集計の仕方なら、1人も新規感染者が出なくなっても、そこで高止まりするグラフになり、決して西浦教授が示したグラフのように右下がりにはなりません。

 本来西浦教授のグラフが紹介された後で、紹介すべきグラフは右下の「1日あたりの感染者数」のグラフですが、意外にこのグラフは紹介されていない気がします。このグラフで見ると、411日までは確かに急激な右上がりを示していて、西浦教授のグラフの左側の傾きと同じように思えますが、その後417日までの6日間を見ると、さらに伸びていっている感じではありません。3月末くらいから緊急事態宣言が出されるのではないか、自粛しないといけないぞという意識がかなり強く共有されるようになってもう3週間近く経ちます。特に4月に入ってからはそうした空気は一段と強まっていたので、1週間ほど前よりは1日の感染者数が減っているということがあってもおかしくないかもしれません。

ただ、日本はPCR検査をくまなくやっていないので、感染者と認定されていない人がたくさんいるはずです。本日時点で感染者数が1万人を超えたと言っていましたが、実際ちゃんと検査ができたら、その45倍はいるのではないかと私は見ています。それゆえ、今伸びが本当に止まりそうになっているかどうかはまったくわかりません。むしろ、何より怖いのは検査が十分にされていないことで、毎日発表されるこういうデータがあまり意味がないように思えてしまうことです。ベストはすべての国民をPCR検査して、隠れた感染者を全部明らかにすることなのですが、検査能力、感染がわかった時の対応を考えると、無理なんでしょうね。

 ニュース番組等を見ていて、違うデータが比較対象と認識されるような紹介の仕方が多いので、データを扱う社会学者としては一言いたくなりました。

740号(2020.4.15)麻生財務大臣こそやめるべき

世間では安倍総理に対する批判の論調が強いですが、私は今一番問題なのは麻生太郎財務大臣だと思います。これまでも数々の失言・暴言、森友問題の処理の仕方と、3回くらいは大臣をやめなければならないような失態を犯しているにもかかわらず、安倍総理は森友問題処理での借りもあり、201212月の第2次安倍内閣の組閣以来、官房長官の菅義偉とともに絶対に内閣から外そうとしません。しかし、この男が財務大臣にいてケチな財務省の言いなりになっている限り、この新型コロナによる痛手を受けている人たちにわかりやすい形で生活補償をしようという案が通りません。

 世帯主の収入が半減した家庭にだけ30万円補助するという、一見たくさん出すように見せかけて実際はあまり支出しなくて済む、ものすごくケチな評判の悪い政策に対して、与党・公明党や自民党の一部からも単純に110万円給付した方がいい、それを今回の補正予算として組み直すべきだという声が出てきていますが、次の総理になるためには「事なかれ主義」で行くのが一番だと思っている根性なしの岸田文雄政調会長は、「補正予算は今の案のままで行く自民党の方針は変わらないので、公明党との協議は平行線だ」と言っていました。

 そんな中で、特に「こいつは許せない」と本気で思ったのが、麻生太郎です。なんと言ったと思いますか?こう言い放ったのです。「110万円給付して、それが貯金に回らずに投資に回るという保証はあるのかねえ(笑)」ひん曲がった口で、記者やその向こうでテレビを見ている国民を小馬鹿にするような言い方で、そう言ったのです。本気で腹が立ちました。今は、誰もお金を使いたくても、経済活動・社会活動を自粛しろと言われているから使えない状態なわけじゃないですか。貯金どころか、収入が激減しているのに、テナント料、家賃、光熱費、通信費、生活費を払わなければならないという状態になっている人がどれほどいることか。何が「投資に回るかどうか」ですか!生まれ時からの大金持ちのぼんくらボンボンは庶民の生活感覚がまったくわかっていません。

この頭の悪い麻生太郎は、自分が総理大臣の時に、リーマンショックにぶち当たり、景気浮揚のためにお金を配ったけれど、それが投資に回らずに景気浮揚がうまく行かなかったことを例に、単純にお金を配ることに反対の論陣を張りつづけているのですが、今回の危機はリーマンショックとはもはや比べ物になりません。比べるべきは、1930年代の世界大恐慌です。このままでは生活困窮を理由とした自殺者も次々に出てしまうでしょう。しかし、今は景気がどうだなどと言っている段階ではなく、みんなで自粛しなければならない段階です。であるなら、せめて国民110万円給付するべきです。所得制限を設けるべきというのは一つの筋論だとは思いますが、それを始めると、また線引きはどこにするのか、所得証明書が必要だと設計がややこしくなり、決定が遅れてしまうので、所得制限なしで10万円の受取人指定小切手を全国民に一律に送ればいいのです。安倍総理が「自分たち国会議員は減収にもなっていないので、給付金は要らないわけです」とか言っていましたが、そう思う人は換金しなければいいのです。安倍や麻生が10万円の小切手を換金に来たら、『週刊文春』にでも大きく写真入りで取り上げてもらいましょう。

とにかく、麻生がやめないなら、本気で納税をやめたいという気分です。(まあ、源泉徴収されていますから、私個人の意思ではできませんが。)麻生リコール+10万円給付をめざした納税拒否の国民運動でも起こすべきではないかと思っています。

[追伸(2020.4.16):なんと1日で、安倍総理は考え方を変えて、世帯30万円の給付をやめて国民全員に10万円と言い始めましたね。よい方向転換ですが、1カ月以上かけてやってきたことは何だったんだという言いたい気持ちになりますね。しかし、麻生と財務大臣は素直にこの案に従うのでしょうか。所得制限とか言い始めるんじゃないですかねえ。]

739号(2020.4.12)青息吐息

 緊急事態宣言が出され、大学も休校が要請され、関西大学でも418日まで休講20日から通常通り再開予定だったのが、56日までは原則学内立ち入り禁止かつ20日以降はインターネットを利用した授業を行うようにという指示に変わりました。まあ、20日から普通にやることはできないだろうなとは思っていましたが、すべての授業を遠隔授業で行うようになるとはまさか思っていませんでした。インターネットは日々使っているとは言っても、メールのやり取りやサイトを見るのが中心で、発信するのはこのHPと細々とやっているフェイスブック程度だった私にとっては、オンラインで授業をやれと言われても正直まったく慣れていなくてどうしたらいいものか、毎日悩み、少しずつ知識を増やさねばならないという非常事態に陥りました。

 関西大学LMSというものを使って、いろいろ教材を示したり、課題を出したり、レポートを提出させたりできるようですが、これまでほとんど使ってこなかったのでわからないことだらけです。喋る姿を録画してそれを流すというのもできるようですが、カメラに向かって魅力的に喋るのは難しそうです。パソコン上で顔を見ながら話ができるZoomというのも最低限使えるようにはなりましたが、これでゼミをやるのかなあと思うと気が重いです。

 37年前に初めて大学教員になったとき以来、あるいはそれ以上の困惑状態です。人に会って話すことの魅力、人の顔を見て話すことの楽しさを語ってきた「アナログ型教師」には厳しい時代となりました。まあもっともっと困っている人がたくさんいるのですから、この程度根をあげていてはいけないのだと思いますが、、、

738号(2020.4.6)PCR検査をもう少しスムーズにできないのだろうか

 毎日のように、新型コロナ感染者が増えています。特に、感染ルートがわからないという人がどんどん増えてきて、誰も自分ももしかしたらどこかで感染させられているのではないか、そうだったらより活動を自粛しなければいけないけれど、仕事もあるし出なければいけない用もあるけれど、どうしたらいいのだろうと悩む人も増えています。誰もが検査をしてもらえたら、どう行動したらいいか決められるので、検査をしてほしいと思っています。ところが、新型コロナに感染しているかどうかのPCR検査は簡単にはやってくれません。かなり疑わしいケース――海外からの帰国、微妙な症状が出ている――でも、希望してもなかなか検査を受けさせてくれないようです。

 受ける場合も、それに関わる医療従事者は完全防備をして初めて採取を行うようです。この採取――鼻咽頭に綿棒などを入れ、鼻の奥をぬぐった粘液(鼻咽頭ぬぐい液)や気道の奥から排出される痰の採取――は医療従事者しかできないという決まりになっているそうですが、ここは緩和した方がいいのではないかと思います。定期健康診断に便を自分で採取して密封して持っていっている人は多いと思いますが、それと同じように、自分で鼻の奥をぬぐった粘液を採取して持っていくという風にしたら、もっとたくさんの人のPCR検査ができて、無症状の人も含めて感染者がつかめるようになると思います。また、自分自身で採取するなら医療従事者が感染する危険もなくなるわけですからいいと思うのですが。鼻のかなり奥の方まで綿棒を入れるのはちょっと難しそうですが、丁寧なマニュアルがあれば、たぶんできるでしょう。

 法律なのか、どういう規則かわかりませんが、ぜひ期限付きでもいいから変更して、そういう採取ができるキットを近くのかかりつけの病院で出せる――あるいは薬局で販売し保健所にもっていけば受け付けてくれる――ようにしてほしいものだと思います。多くの国民を不安から解放し、それぞれの人が体調に合わせた行動を厳格に守りやすくするためにも必要なことではないかと思うのですが、、、

737号(2020.4.3)何のためのマイナンバーなのか

 安倍総理が自慢気に「1世帯に2枚ずつ布マスクを配る」と言って、ネット上で「アベノマスク」と「祭」状態になっていますが、まあ私はちゃかすのはやめて、ここはどう考えてもおかしくないかというところだけ指摘したいと思います、それは、なぜマイナンバーを利用して、配給ができないのかという疑問です。今は、日本に住民登録している人は外国人も含めてすべてマイナンバーが付与されているはずです。そこには、氏名や住所、それに所得なども紐づけられているはずです。追徴課税をしたり、扶養家族から外したりするためには、積極的に使われているマイナンバーが、配給のためとなると機能しないのはなぜなのか、私にはさっぱりわかりません。今日の国会でも質問がなされていましたが、世帯として登録されている家に人が住んでいないところも何百万軒とあるそうです。そんな人のいないところにもマスクを届けるのかと質問された厚生労働大臣は、「まあそういうことがあってもやらないよりはいいと思う」というような答えをしていましたが、なぜマイナンバーで把握している個人に送るという発想をしないのか不思議で仕方ありませんでした。

 マイナンバーは国民から金を絞り取るためだけに機能するもので、物品や金を配布するためには機能しないのなら、すべてやめてもらいたいものだと思います。社会を運営するために財源は必要ですから、適正な税金を払うのは嫌ではありませんが、その税金はこういう非常時には今度はちゃんと再分配されることがあってこそ納税者は納得するのです。「桜を見る会」で無駄に使われたり、多すぎる政党助成金が与党の立候補者に渡され、それが賄賂として使われるというニュースなどを見ていると、まったく適正に使われていないだろうと腹が立ってきます。

 制度は国民を幸せにするために作られるべきものです。そういう機能をしないなら廃棄してしまえと思います。なぜ、マイナンバーが使えないのか、あるいは使わないのか、説明してほしいと思います。

736号(2020.3.30)緊急事態宣言はじきに出されるだろう

 緊急事態宣言を出すべきかどうかが語られていますが、たぶん今日明日に出されるのではないかと思います。出さなければ、今後感染者が増加する状況に対して、政府は何もしなかったと非難されることになりますので、必ず出すでしょう。そして出すなら、新年度に入る前がタイミングがいいと政府関係者も考えていると思いますので、今日明日がデッドラインでしょう。これまで政府がなかなかこの宣言を出さないのは国民生活に大きな支障が出るからということを気にしていたからではなく、来年に延期された東京オリンピックが中止にされないためにどのくらいの期間の設定にしたらいいか悩んでいたからだと思います。本来なら最長の2年までは行かなくても1年は宣言の有効期間にしなければならないところですが、1年にしたらオリンピックはできないじゃないかという議論を押さえきれなくなりますから、1年とは絶対言わないでしょう。半年かなと思いますが、おそらく3カ月といったところで始めるような気がします。

 緊急事態宣言が出されたら、大阪府知事はすぐに学校の休校を強く要請するでしょう。とりあえず、4月から約1カ月――ゴールデンウィークまで――は学校を休みにするように求めてくるのではないかと思います。外出も不要不急の場合は自粛が強く要請され続けることでしょう。1カ月で落ち着けばいいですが、たぶんそうはならず、さらに自粛は要請され続ける、そんな時期が続きそうです。通常の新年度にすべきことができなくなったことをどうカヴァーするかについては、今はまだきちんと考えられないけれど、とりあえず社会活動・経済活動を止めてでも、新型コロナウィルスの抑制にかからなければならないという空気が醸成されてきています。うまく効果が出るといいのですが、、、

735号(2020.3.29)ウィルスとの戦争

 世界の首脳が、新型コロナウィルスとの戦いを戦争に喩えていますが、どういう目標と戦略を持っているのかが明確に伝わっていない気がします。

 本物の戦争であれば、戦っている相手国が降伏をしたら終わりますが、ウィルスは降伏宣言をしません。とすれば、勝利はウィルスの絶滅でしょうか。しかし、絶滅は非常に困難だと思います。だとすれば、ウィルスを押さえきれる治療薬の開発や感染しにくくするためのワクチンの開発がなされ、このウィルスが存在しても大きな問題はないというようになることが戦争終結のメルクマールでしょう。

 そこに戦争終結のゴールを設定したとして、そこまで至るのにどのくらいの時間が想定されているでしょうか。最近のニュース等での情報からすると、今が正念場なので今週末の外出を控えることが事態の改善につながるという思いを持っている人も少なくない気がしますが、それは認識違いでしょう。改善ではなく、あくまで悪化を避けるために、とりあえず今週末は外出を控えましょうと言っているだけで、これですぐに事態が改善するわけではありません。これからしばらくは毎週末、不要不急の外出を自粛してくださいというお願いが出ることでしょう。過去のウィルスとの戦いを見るなら、うまく戦略を練っても終結まで12年はかかる戦いになると考えた方がいいと思います。

 その長期戦を戦うにあたって必要なことは、無理はしすぎずに経済活動も崩壊しないようにしながら過ごしていくことではないかと思います。今の戦いの戦略としては、とにかく感染者のオーバーシュートが起きないようにし、死者数が増大しないようにすることとなっているように見えますが、本当にこの戦い方で、このウィルスとの戦争に勝てるのか疑問もあります。国家間の戦争においては死者数を1人でも減らすというような戦略が取られることはないでしょう。ウィルスとの戦いですから、死者数を増やさないことを戦略にするのは当然なのかもしれませんが、そのために経済活動を完全に麻痺させてしまうと、ウィルス以外の理由で人生を閉じる人も増えてくると思います。

 政府は、現金支給や商品券の配布を検討しているようですが、消費するための行動に規制がかかっていては、その経済効果は出ません。どうやって経済活動とウィルス対策を両立させるかが、この長期戦となる戦いを維持できるかどうかのポイントになると思います。もちろん、こういう状況ですから、まったく今までと同じようにとはいかないと思いますが、「3密(密閉、密集、密接)」を避けつつ、衛生管理にも最大限の注意を払いながら、できることはしていくようにしていかなければならないのではないかと思います。

734号(2020.3.27)レジ袋配布禁止は正しい判断なのか?

 京都府亀岡市が全国初のレジ袋配布禁止の条例案を可決し、81日から施行、来年41日からは罰則も適用されることになりました。しかし、これは正しい判断なのでしょうか。レジ袋のようなプラスティックは高温にすれば燃やすことができるはずです。きちんとゴミとして回収されて燃やしさえすれば、そこまで問題にならないのではないかと思いますが、ニュース等を見ていると海洋ゴミとして漂うプラスティックが何度も映され、配布を止めないとこういうことが止まらないという印象を与えるようになっています。しかし、どう考えても本来厳しく取り締まれるべきは、廃棄の仕方の方で配布禁止というのは不便さのみを押し付けることになるように思います。

 もちろん減った方がいいとは思うのでレジ袋有料化はしてエコバックをなるべく使ってもらうようにするのは賛成ですが、一切使わせないとするのはおかしい気がします。生ゴミを捨てる際、あるいは濡れたものを入れるものとしてレジ袋は有効に使われていたはずです。代わりになるものが見つからなければ、結局亀岡市では、レジ袋に変わるプラスティックの袋が小売店で売られることになるのではないでしょうか。そして、その袋がきちんと廃棄過程に乗らなければ、レジ袋を配布禁止にする意味はまったくなくなってしまいます。

 繰り返しますが、厳しく取り締まるべきは廃棄の仕方です。配布禁止にはほとんど意味がないと思います。

733号(2020.3.26)歴史に学ぶ――スペイン風邪――

 新型コロナのパンデミックに日本も巻き込まれそうな勢いです。様々なニュースを見る中で、大正時代に流行った「スペイン風邪」が気になってきました。名前だけ知っていましたが、どんな事態になったのかまったく知らずにいたのですが、調べてみたら大変な事態でした。

この伝染病は一般にスペイン風邪と呼ばれていますが、スペインで発生したわけではなく、源はアメリカかカナダのようです。流行り始めた当時は、第1次世界大戦中で、多くの国が情報統制をする中で、中立国だったスペインが情報統制をしていなかったため、その被害の程度が世界に広く知られ、「スペイン風邪」と呼ばれるようになったそうです。実態は、2009年に流行した新型インフルエンザと同じH1N1型インフルエンザだそうです。

 19181月〜192012月までの3年間に3回ほどの大きな感染の波があったようですが、当時の世界人口1819億人の約27%に当たる5億人が感染し、死者は約4000万人と推計されているそうです。直前まで4年間も行われていた世界最初の大戦・第1次世界大戦の死者が1000万人だそうですから、その4倍もの人が戦争よりも短い期間で亡くなってしまったということを知るなら、いかにこの伝染病が恐ろしいものだったかがよくわかるでしょう。

日本での流行は3回にわたるそうで、第1波が19185月〜7月でこの時は高熱で寝込む人はいたが死者は出なかったそうです。第2波は191810月〜19195月で、この時は266000人亡くなったそうです。191811月頃にもっとも猛威を振い、学校の休校、交通・通信に支障が出たそうです。死者は19191月に集中し、火葬場が大混雑になるほどだったそうです。そして第3波が191912月から19205月で、187000人が亡くなったそうです。このスペイン風邪で亡くなった人の中には、建築家・辰野金吾、劇作家・島村抱月、元老大山巌夫人・捨松などの著名人がいます。世界で見ると、画家のグスタフ・クリムトや同じく画家のエゴン・シーレがいます。そして、社会学者・マックス・ヴェーバーも犠牲者の1人です。

 こんな大変な事態が起きていたのに、この頃の歴史としては、第1次世界大戦や米騒動のことは学びますが、スペイン風邪のことはまったく学びません。もう少し教科書等でも教えるべき重要な歴史的出来事だと思います。我々は、2009年の新型インフルエンザの流行の記憶が明確にあり、あの時一時的には関西に人が来ないような事態に陥ったものの、23カ月で落ち着いてきたし、死者数も多く出なかったことで、今回もそのくらいで収まるのではと思っている人が多いように思いますが、どうも私は、今回の事態はスペイン風邪の方に近いのではないかという気がしてきています。死者数はさすがに医療体制が違いますから、スペイン風邪ほどにはならないでしょうが、感染者は10億人くらいまで行ってしまい、容易に収束せず2年ほどは流行し続けるのではないかという気がしています。しかし、20世紀初め頃よりもはるかにグロバリゼーションが進み、自給自足体制を取らなくなっている世界で、まさか2年も各国が鎖国や外出禁止体制は取れないでしょうから、この伝染病の存在を前提としていかに日常を取り戻すかを考えなければならないのではないかという思いが日々高まっています。

732号(2020.3.23)綺麗に納まった春場所

 無観客で開催した大相撲春場所が無事に終了しました。無観客での大相撲、表彰式も最小限で行うという過去に見たことのない場所でしたが、最後は第1人者の横綱・白鵬が優勝し、期待されていた朝乃山が大関昇進を決めるという、非常に納まりのよい形になりました。表彰式は通常場所と違い、全力士が見守る中での証書と賜杯授与となりましたので、受け取るのが第1人者の横綱でよかったです。これで平幕優勝にでもなっていて、横綱の見守る中、平幕力士が賜杯を受け取ることになったら、格好がつかなかったなと思います。

 表彰式が短かったので、その後どのようなことが土俵上で行われているのかをテレビで放送してくれて、私も初めてこういうことをしていたんだと知りました。貴重な機会でした。「相撲はスポーツではなく神事だ」という印象が強まったことと思います。まあでも、これで妙に「国技だ、神事だ」と言いすぎる人が増えないことを願います。昔から、相撲は観客を集めての見世物(エンターテインメント)として開催されてきたものでもあるのですから。今場所も、観客の声援がないというのはやはり違和感は強かったです。活躍している力士が土俵に上がれば大きな声援が上がり、いい相撲には大きな拍手が起きる、そうした観客との一体感が生まれて、初めて大相撲です。ぜひ5月場所は、観客数を絞ってもいいですから、観客を入れた場所が開催されることを願います。

731号(2020.3.17)どうなってしまうんだろう?

 新型コロナウィルスの大流行で世界がめちゃくちゃになってきています。入国禁止、出国禁止、外出禁止、外食禁止、休校、イベント自粛、10名以上の集まり禁止、etc.64年間生きてきて、こんな時代に出くわすとは……。戦争中には、様々な規制がかかったことを歴史として知っていますが、この時代にこんな原因で世界が互いに門を閉ざし合い、門の中でもほぼすべての社会活動を停止する、なんて事態が生じるとはまったく想像だにしていませんでした。グローバリゼーションの時代だからこそ世界中に広まってしまった感染症ですが、その対策が鎖国政策になるとは、誰も予想できなかったでしょう。一体これからどうなるのでしょうか?

 今日のテレビ番組で誰かが言っていましたが、結局世界の6割くらいの人が感染して自然にワクチンを注射したような事態にならない限り、収束はしないような気もします。鎖国政策を取った国もそれぞれ国内にすでにかなりの感染者がいるので、外との防壁だけ高くしても感染症のさらなる流行は押さえられないでしょう。国内での感染者を増やさない手立てが外出禁止なのでしょうが、そんな生活が一体どれほど続けられるでしょうか?アメリカやフランスは、とりあえず15日間と言っているようですが、わずかそれだけの期間で事態が根本的に改善するとは思えません。実際日本は2週間自粛したけれど、ウィルスが撲滅に向かっているとはとうてい言えません。万一どこかの国が抑え込みにかなり成功したとしても、他国で感染者がいたら、鎖国をずっと続けるのでしょうか。物資はどうするのでしょうか?日本も含め、食料も海外からの輸入に頼っている国はたくさんあります。人は入れないけれど物だけは入れるなんてことがずっと続けられるとはとうてい思えません。そもそも物を作っている国の社会活動が停止したら、輸入できる物もなくなります。今のような社会活動を停止するような規制をかけ続けていたら、いずれ生活必需品も生産されなくなり、物不足、食料不足になっていくのではないかと思います。

 こんな風に社会を停止させて絶滅をめざすより、ウィルスとの共存をめざした方が現実的ではないかという気がしてなりません。感染率――ウィルスに触れた人が感染する割合――はどのくらいなのでしょうか?ウィルスに触れてしまい、それを体内に取り込んだ人は全員この病に感染するのでしょうか?それとも、万一体に取り込んでしまっても人間本来の持っている異物を退治する能力でこの病に感染しない人もいるのでしょうか。そういうデータはまだ示されていないですよね。クラスター感染が起きた場所にいた人でも感染しなかった人がいたとしたらそれはなぜなのか、知りたいですよね。愛知県蒲郡で感染者が敢えて飲みに行き新たな感染者を生み出したケースでも、接待の相手をさせられ、飛沫もかかっていそうだし体にも触れられていた女性は陽性にはなっていないようですが、それはなぜだったんでしょうね。感染してしまった別の女性の方がなぜ感染したかについては詳しく語られていましたが、接待した女性がなぜ感染しなかったかについては詳しくは紹介されていませんでした。感染者に接触されても感染しない工夫がどうなされたのかをもっと詳しく知りたかったです。対策として言われている手洗いの徹底だけで、防げたのであれば、そういう情報を流してほしいです。

 とにかくこのままでは世界は大変なことになります。ウィルスの存在を前提として日常を取り戻さないといけないのではないでしょうか。

730号(2020.3.5)30年目の花博

 1990年に大阪鶴見緑地で開催された花博――正式名称は「国際花と緑の博覧会」――のことを知っている世代ももうすでに40歳代以上でしょうか。大阪では、1970年に吹田の千里丘陵で開催された日本万国博覧会が有名ですが、花博の方も開催時にはバブル時代だったこともあり2000万人以上の来場者を集め大成功した博覧会でした。私も、1970年の万博には、中学校の修学旅行で半日行っただけでしたが、花博は大阪に住んでいたので2回行きました。ただし、上の子がまだ1歳になるかならないかでしたので、そんなにじっくりと見てはいないのですが、、、

 吹田に住んでいることもあり、日本万国博覧会の跡地である万博記念公園には頻繁に出かけています。ゼミ生たちを連れて、毎年「日本万国博覧会の跡を訪ねる」オリエンテーリングを実施したりしています。周りには、大阪大学、EXPOCITY、ガンバ大阪のホームである吹田スタジアムもあり、それらとセットになって万博記念公園は北大阪の憩いの場所となっています。

 他方、花博の跡地はどうなっているんだろうと興味が湧き始めていたところに、ローカルニュースで鶴見緑地で河津桜が綺麗に咲いていると聞いたので、この際30年ぶりに花博の跡を訪ねてみることにしました。まず、入ってすぐの印象は閑散としている、でした。人気が少ないし、お年寄りしかいないように見受けられました。記念ホールと銘打たれた建物の中では、見切り品の即売会が行われていて、なんじゃこれは、と正直言ってがっかりしました。

 しかし、せっかく来たのですし、河津桜も見たいので、もちろんもっと探訪しました。とりあえず、河津桜のありそうなところをめざして行こうと思ったら、すぐに朝鮮式の庭園というのが現れ、へえー、こんな感じで残しているのかと興味深く思い始めました。その後次々と様々な国の庭園やら、庭園内にありそうな建造物が出てきました。なるほど、万博はほんの一部の建造物以外は全部撤去して、記念プレートだけを置くようにしましたが、花博の場合は基本残すようにしたんだなと気づきました。

 いつも学生たちを万博記念公園に連れて行く前に、「日本万国博覧会」という記録映画を見せ、ここにあの映像で見た建物があったと想像してごらんと言っていますが、なかなか緑ばかりの公園で建造物のイメージを持つのは難しいと言われます。それに比べたら、この花博跡地はイメージしやすいだろうなと思いました。ただし、手入れはほとんどされておらず、錆びていたり、ぼろぼろになっていたりしているので、逆に開催時の華やかさを想像しにくくなるかもしれないと思いました。

 今や万博公園のシンボルとなっている太陽の塔も当初は博覧会終了後撤去予定だったのですが、あまりの存在感に保存の声が高まり、保存となったわけですが、その後手入れを行い、数年前には相当の費用をかけ本格的な耐震補強を行い、内部の公開にまでたどり着き、さらに魅力を増しました。もしも、そのまま手入れをせずに放置されていたら、太陽の塔も不気味な建造物になっていたかもしれません。

 花博跡地も「咲くやこの花館」の方はある程度手入れをしているのでしょうが、公園内の各国の庭園跡は不気味でした。このまま放置するのでしょうか。だとしたら、余計不気味な公園になりそうです。博覧会のパビリオンの撤去は、終了直後にはもったいないという気がしますが、こういう実態を見ると、やはり終了後は撤去するのを基本にした方がいいのだろうなと思いました。2025年の万国博覧会の跡はどうなるでしょうね。まあ、その万博の30年後の跡地は私は訪ねられないと思いますが(笑)

そうそう、河津桜は見つけましたが、それほどたくさん植えられているわけではなく、こちらもちょっと残念でした。

729号(2020.2.26)人が生きる意味=必要とされること

最近歳を取ってきたせいだと思いますが、人が生きる意味ってなんだろうと時々考えるようになりました。生物学的に言えば、DNAを次世代に受け渡すだけが個体の生きる意味ですが、脳が発達し強い自意識を持つようになった人間という種は、そんな生物学的な意味だけで、自らの生きる意味を納得はできないものです。中には、生物学的な生きる意味をあえて拒否して生きる人たちもたくさん存在します。じゃあ、人が生きる意味ってどこにあるのでしょうか。

そんなもの要らないと言う人も極少数いるかもしれませんが、多くの人は自分が生きる意味というものをつかみたいのではないかと思います。これがつかめたら、アイデンティティをつかめたということになるのでしょう。多くの人は、自らが果たすべき社会的役割に、自分の存在の意味を見出しています。男性が会社人間だったり、女性が教育ママだったりするのは、会社や家庭で自分が必要とされている、つまり生きる意味をそこに見出しているからです。しかし、会社には定年があり、子どもは成長して巣立って行きます。これまで自分が必要とされていると思っていた場で、もう必要ないよと言われる日が来ます。

仕事をせずに専業主婦として生きてきた女性たちはより早くその日が来ます。昔なら中学生にでもなったら、もう子どもも親離れしていったものですが、今はだいぶ引っ張ります。これは子どもがそうしたいからというより、母親が自らの存在意味が消えないように、そう仕向けているという要素が強いように思います。中学どころか大学、さらには社会人になっても、場合によっては結婚しても、「まだ私の存在は必要なはず」といろいろ口出しします。子どもは、母親は自分のためによいことをしてくれるはずと長い時間をかけて洗脳されていますから、なかなかその干渉をうっとうしいと素直に感じなかったりします。気づいた時には、離れられない奇妙な親子関係ができあがります。もちろん、そんなに子育てにエネルギーを使うのは決してよいことではないと気づいて手を引く母親もいます。そこで、仕事を始めるなり、創造的な趣味でも見いだせればいいですが、安易なエネルギーの向けどころとしては、誰かのファンにでもなってそれを応援している――サポートしている―−ことに意味を見出す人も多いです。

他方、仕事に自分の生きる意味を見出してきた多くの男性たちは定年が来たら、どこに自分の存在意味を見出すことができるのでしょうか。女性たちのように、アイドルの追っかけでもしようものなら、「おじさんが、、、、気持ち悪い、、、」と言われるのが落ちでしょうし、趣味も毎日やっていたらさすがに飽きるでしょう。そもそもその趣味が人と関わりがほとんどないなら、それほど楽しくないのではないかと思います。

大学教師として自らのアイデンティティを形成してきた自分に当てはめて考えてみると、まさに退職後は生きる意味を見出せず悩みそうです。それでこんなことを考えたくなったわけですが、たどり着いたのは、誰かに必要とされていることこそが人の生きる意味なのだから、定年退職後も必要とされる人間であり続けることを考えないといけないということです。それも押しつけがましい形ではなく。仕事という形で必要とされる段階から、仕事ではないけれど必要とされる人間になること、これが課題です。私ができることと言えば、知識を伝えること、社会学的見方を教えること、人を育てること、人の縁を結ぶこと、そんなところでしょうか。さてさて、どんな形があるのやら。定年退職後、「あなたの存在が必要です」と言ってくれる人をどれだけ持てるか、それがそのままリタイア後の人生の豊かさになりそうです。

728号(2020.2.24)獲得すべきは、学歴ではなく実力

 卒業のシーズンが近づいてきていますが、この時期になるとしばしば思うのですが、大学に入学して4年過ごして、大学生は何を得たのでしょうか。大卒の肩書は得たことになるわけですが、それは何を証明しているのでしょうか?

 かつて大学が高等教育の場として機能していた時には、大学を卒業したということは、知識と思考力に関して大学を卒業していない人よりははるかに高い能力を持っている人と位置付けてもそう間違いではなかったでしょう。しかし、大学――特に文系――で学ぶことを学生たちが軽視するようになってからは、一体大卒の肩書は何を証明するものなのかよくわからなくなっています。

 社会が多少期待しているのは、卒業ではなく入学による能力選別機能です。超一流大学に合格したということは、難しい入試問題を解く能力を持った人だという証明になるというわけです。確かに、ある程度記憶力がよいという証明にはなりそうです。しかし、あくまでもそれは大学受験に必要な程度の知識を詰め込むことができたというだけの証明です。

 私立大学の場合は、一流大学と言われるような大学でも一般入試で入学する人は半分強くらいで、それ以外のアラカルト入試で入学する人が半分近くいます。この人たちに関しては、一般入試で合格した人たちと同じだけの記憶力を持っているとは必ずしも言えません。なので、ある大学に入学できたというだけで、一定の能力があることの十分な説明にはなりません。

 入学による能力選別機能のみが信頼されているなら、大学卒業でも大学中退でも能力は変わらないということにもなりそうです。実際世間ではそういう見方をする人も結構いるように思います。ただ、これに関しては、やはり一般的には中退者はまっとうな生き方をドロップアウトしたものとみなされ、普通の大卒が得られる恩恵を受けられなくなりますから、やはりなんのかの言っても、多くの人は普通に大学卒業という資格は必要と考えることになるわけです。実際、大学生たちはとりあえず大卒の資格を得て一定の達成感を得ています。

 しかし、上で述べたように、実際には大卒だからと言って実力のある人間と見ることはできません。超一流大学でもある程度保証されるのは、記憶力の良さだけで、社会を生きていく上で必要な様々な能力を持った人間である保証にはまったくなりません。社会で生きていく上での能力とはどういうものでしょうか?

 しばしば挙げられるのが、コミュニケーション能力ですが、これはより具体的にはどういう能力でしょうか。時々、「私はお喋りだから、コミュニケーション能力があります」とか思っている人もいるようですが、ただお喋りなだけではだめです。「おたく」の人たちも、自分の趣味に関しては滔々と語るほどお喋りになりますが、それでコミュニケーション能力が高いかと言われたら、誰も納得しないでしょう。

 本当のコミュニケーション能力とは、相手の知識レベルと考え方を理解した上で、それに合わせてコミュニケーションを取れる力です。この力を発揮するためには、相手がどういう人間かを見抜く力――そのためには、様々な人間のタイプ(能力・性格)を知らないといけません――を持ち、相手が興味を持てるような話題を提供できる、もしくは話について行ける知識を持ち、ただ相手に合わせるのではなく、自分の意見も相手が受け入れられるように語れる巧みな論理構成力を持つ必要があります。つまり、社会に出てから賢く生きていくために必要なすべての能力を高めないと、本当のコミュニケーション能力の持ち主にはなれません。そして、こういう能力は大学受験までの勉強では一切身に付きません。大学に在籍している4年間で、まさにこういう能力を身に付けなければならないのです。

 みなさんは、大学入学時と比べて大学卒業時には、生きていく上で必要な知識や思考力、人を見る目、自分を見る目、社会への関心、チャレンジ精神、企画力、そんなものが身に付きましたか?もしも身に付いていないなら、もったいない大学生活を過ごしてしまいましたね。ただ、こういう能力は、その気になったら、大学卒業後でも高めることができます。いや、大学に行っていない人でも高められます。生きていく上で大事なことは何かに気づき、その能力を付けようと思った時にいつでもスタートできます。学歴なんかで何も決まりません。獲得すべきは、学歴ではなく、本物の実力です。

727号(2020.2.16)スマホ・デビュー

 大変遅ればせながら、ついにスマホ・デビューしました(笑)携帯は2000年から持ち、今の機種で4台目だったと思います――20年で4台って物持ちが良すぎると、ここでも突っ込まれそうですね(笑)――が、78年前からiPad miniを持つようになり、ガラケーとの組み合わせで十分事足りると思ってずっとスマホはなくてもいいと思ってきました。しかし、だんだんと人前でガラケーを使うと、「ええ〜、あのおじさん、ガラケーなんだ」と時代遅れの人という目で見られる気がして、ガラケーを持っていることを隠すようになってきました。その上、今の機種は持ちが良く、9年以上使っていたため、万一壊れても修理はできませんという通知まで来てしまいました。さすがに、これはなんとかしないといけないなあと思い、実は昨年くらいから変えようかな、新しいガラケーにするか、やっぱりスマホか、どうしようかなと思いながら1年近く過ごしてきました。

ちょうど1年くらい前に、よしスマホに変えるぞといったん心を決め、ワイモバイルと契約しようとしました。しかし、その際は電話番号をそのままにしようと思ったので、契約していたドコモに連絡をしてもらったところ、「長年契約されたお客様には、ドコモで初めてスマホをされると大変お得ですので、一度こちらの話もきいてもらえないでしょうか」と言われ、心が揺らぎ、ワイモバイルとの契約をいったんあきらめてしまいました。しかし、その後出向いたドコモの契約はまったく割が良くなく、ドコモでスマホはないなあと思いながら、さらに1年の時間が経ってしまいました。

ここ数カ月は梅田のヨドバシカメラに行くたびに、SIMフリーの格安スマホを中心にどうしようか、どうしようかと考え続けていましたが、ついに今月はじめにヨドバシに出向いた時に、説明してくれたワイモバイルのお兄さんの話に納得が行き、「えいやっ」と突然スマホを買い、契約することになりました。今回われながら賢かったなと思うのは、番号持ち運びにするのをやめ、2台目として持つことにした点です。そういう決断をしたのは、その時はめんどくさかったからというのが正直なところですが、実際短期間の2台持ちは非常にいい選択でした。ちょうどこの3月からドコモの方が契約解除の違約金がかからない時期になるので、2カ月間のみの2台持ちで、大きな損失ではありません。その上、2台持ちしている間に、電話番号と携帯アドレスが変わったことを関係各位に知らせることができます。家族や友人、知人とはかなりLINEでつながっていますので、変更の連絡が今や非常に容易です。番号を買えずにおくメリットは今や非常に小さくなっています。そもそも、最近はLINE通話の方が基本で携帯の電話がなることは滅多にないですよね。また携帯を登録していた会員情報の変更も余裕をもって行えました。2月中に変更連絡作業はすべて済みますので、3月になったらいつでもドコモとお別れできます。

さて、スマホの使い勝手ですが、やはり便利ですね。まさに携帯パソコンですね。スマホを持ってから、ポケットWi-Fiを一度もONにしていません。iPad miniは持ち歩いていますが、電車やバスの中でちょっと調べたいことがある時は、ポケットからスマホを取りだして調べますし、大学やホテルや新幹線のような少し落ち着いてiPad miniを開きたくなるようなところには、ほぼ無料Wi-Fi が飛んでいますので、自分のWi-Fi を使うことがなくなってしまいました。このままだと、ポケットWi-Fiも解約してもいいかなという気持ちになりそうです。まだ使いこなせるとは言い難いですが、2週間弱ですでにスマホの便利さをしみじみ感じています。

726号(2020.2.9)情報管理は大変

先日、JR西日本のネットで切符を予約しようとしたら、なんとカードの期限が切れていて使えなくなっていることに気づきました。おかしいなあ、新しいカード届かなかったのかなあと、あるいは不在郵便票に気づかず、カード会社に戻ったのかなあといろいろ考えましたが、とりあえずないと予約ができないので、電話で問い合わせをしました。そしたら、なんと平成2912月に利用明細票が宛先不明で戻ってきたため、カードを届けても受け取り手がいないだろうという判断で送っていなかったそうです。

いやいや待ってよと驚きました。利用明細書はただの普通郵便です。それがなんで宛先不明で戻るんでしょうか?もちろん、引っ越しなんかしていません。カード会社が送付しているのですから、向こうも宛先は間違って印刷はしていないでしょう。郵便配達員が意図的にでも宛先不明とでもしない限り、戻るはずはないと思うのですが、、、まあでも、いまさら郵便局に問い合わせたって2年以上前のことですから事実なんかわかりっこないので、問い合わせはしていませんが、不可解な気持ちは残ったままです。私も月々の明細はネットでいつも確認していたので、紙での明細書はなくなったか自分でやめたんだろうと思い、明細書がその後届いていなくても全然気にしていませんでした。今回たまにしか使わないJR西日本の列車予約をしようとして、先月で期限がきていたことに初めて気づきました。

 新しいカードが届き、有効期限を変更してさあこれですべて解決と思ったのですが、そうも行かずまたしばらく焦りました。東海道新幹線の予約ができるEX予約というのも、そのカードにはついているのですが、カード番号も変わっていないから有効期限を更新して使えるようになったからこれでEX予約もできるだろうと思ったら、なぜかこれまで使っていたパスワードでログインできなくなっていました。どういうこと?と何回か試してみましたが、だめでした。どうやら、カードの期限がいったん切れてしまったことで、EX会員としての情報も削除されてしまったのかもしれないと思い、もう一度改めて同じカード番号で同じパスワードで再登録してようやくログインできるようになりました。ログインしてみたら、ポイントとかは引き継がれていたので、会員としてすべての情報が削除されていたわけではなかったようですが、一体どういう仕組みなのかもうひとつよくわかりません。

 それでも、今やネットを使わずには便利で快適な生活はできないので、すべてがわからなくても使わざるをえません。IDとパスワードをいったいいくつ持っているでしょうか。さらに、クレジットカードの有効期限まで管理しないといけないとは、、、この過剰情報時代を生きていくのは大変です。

725号(2020.1.26)令和2年大相撲初場所総括

 大相撲初場所が、幕尻徳勝龍の優勝という意外な結果で終わりました。場所が始まる前は、白鵬と鶴竜の2横綱が引っ張る場所になるのではと誰もが思っていましたが、白鵬は3日目が終わった時点で、鶴竜は4日目が終わった時点で休場を決め、今場所は誰が優勝するかまったくわからなくなりました。その中で、朝の山、遠藤といった人気力士の調子が良さそうで、この2人を中心に優勝争いが進んだら盛り上がるだろうなと思っていたら、2人とも中盤で星を落とし、貴景勝が2敗になった9日目以後は、正代と徳勝龍という平幕の二人が1敗で並走することになりました。正代はそれなりに実力のある力士ですが、徳勝龍は幕内と十両を行ったり来たりしている程度の力士だったので、いずれ負けて、正代がそのまま逃げ切るか、ひとつ星を落として貴景勝との優勝決定戦かなと思って見ていましたが。徳勝龍が神がかったような土俵際の突き落としで3連勝し、結局14日目に、正代と1敗同士でぶつかることになりました。実力から言って、正代の勝利になるだろうと多くの人が思って見ていたら、なんとまた突き落としで徳勝龍が勝ち、単独トップになってしまいました。千秋楽の取り組みは14日目の取り組みがすべて済んでから組まれましたが、なんと幕尻の徳勝龍が千秋楽最後の一番を大関・貴景勝と取ることになりました。これは、審判部の英断でした。この取り組みを知った多くの相撲ファンは、正代が勝ち、徳勝龍が負け、優勝決定戦になるのではないかと思ったはずです。かくいう私もそうでした。正代は期待通り御嶽海を破り、決定戦へ進む資格を残しました。しかし、結びの一番で、徳勝龍が横綱相撲かと思わせる強さで、貴景勝を寄り切ってしまい、ついに幕尻・徳勝龍の優勝となったわけです。通常なら、幕尻の優勝は強い力士とあまり戦っていないからと低く評価されることもありますが、今回は、14日目に正代を、千秋楽に大関・貴景勝を破っての優勝ですから、文句なしの幕の内最高優勝です。そして、優勝インタビューを見ていたら、ユーモアと涙で観客の心をつかみ、来場所以降もそれなりに活躍したら「徳勝龍って、かわいい。ぬいぐるみみたい」と、急に人気が出そうだなと思いました。

 それにしても大相撲界は完全に戦国時代に入りました。白鵬にはすでにかつてのような強さはなく、出場したからと言って、必ず優勝争いに加わるかどうかはわからなくなってきました。大関も最近はみんな陥落してしまいます。一時的に強くて大関に上がっても、怪我などがあればすぐ落ちてしまいます。大関が強いともとうてい言えません。比較的安定している貴景勝もそこまでの強さはありません。本人は横綱をめざすと言っていますが、私は無理だろうと思っています。押しの力士は大関までは行けますが、横綱にはまずなれません。期待は、四つ相撲の朝の山です。確実に実力をつけてきていますが、果たしてこのまま一気に駆け上がれるかと言えば、大関までは行けても横綱となるとしばらく時間がかかりそうです。まだ、他の有力力士との差が小さく、どの勝負もぎりぎりの勝負になっています。横綱になるには、一部の本当に強い力士以外には圧倒するような強さが必要ですが、まだ朝の山にそこまでの力はありません。遠藤は上手いですが、どうしてもパワー負けしてしまいますので、大勝ができません。関脇までの力士のような気がします。3年近く17場所も三役を守り、2回も優勝し、大関間近と思われていた御嶽海は平幕に落ちた今場所もまた負け越してしまいました。膝の怪我が治っていないようです。膝の怪我は致命傷になりやすいです。もう大関は無理でしょう。この2場所2桁勝った正代にも可能性が見えなくもないですが、胸をそらしすぎる癖のある相撲なので、大化けは難しい気がします。むしろ、23年後まで見据えて思い切った先物買いするなら、今場所新入幕で11勝した霧馬山に私は可能性を感じます。身体バランスが非常にいいです。まだ今の立ち合いでは幕内上位で通用しませんが、いずれ立ち合いが改善され、相撲を覚えたら、いつか横綱になる可能性を持つ力士でしょう。十両に入った頃から注目していました。

 あと、今場所だけのことではないですが、解説の北の富士勝昭氏は、同じく解説の舞の海修平氏のことを評価していないことが露骨にわかります。NHKは、初日と千秋楽はこの2人を正面の解説と向正面の解説に必ず配置しますが、ほとんど2人がコミュニケーションを取ろうとせず、ぎくしゃくした感じが伝わってきます。北の富士は頭脳明晰で力士を見る目もある解説者なので非常によいのですが、力士に関する好き嫌いもはっきり出しますが、解説者にも出てしまいます。現役時代・琴錦という四股名だった現在の朝日山親方――親方株を取得していないのか、頻繁に親方名が変わります――が解説の時などは、「なるほどなあ」「鋭いなあ」といった高評価を連発しますが、舞の海の解説はほぼ無視です。ちょっと大人気ない感じもしますが、相撲通の私からすると、舞の海の指摘があまり的を射ていないことが多いので、北の富士も相手にするのが嫌になってきたのでしょう。以前はここまでひどくなかったのですが、最近はかなり露骨です。長年相撲を見続けたファンなら、きっとみんな感じていると思います。やはり三役に1回上がれた程度の実力しかなかった元力士が横綱や大関、あるいはそれをめざしている上位力士の技術や心境を語っても説得力がないです。やはり、横綱、大関経験者か、あるいは三役を長く経験し、大関並の実力があった元力士でないと、幕内解説者としては力不足感が否めません。

 このHPにたまに見てくれる人でもほとんど興味がない話題だと思いますが、書きたかったので書きました(笑)最近、世の中のことは書きにくくなっているので、これからは毎場所感想を書いて、大相撲ブログとして認識されることをめざそうかな(笑) 相撲について語れる同好の志を募集中です。