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<目次>

第571 片桐新自の2015ニュース(2015.12.31)

第570号 日韓慰安婦問題合意は日米普天間基地移転合意のデジャブになるのでは(2015.12.31)

第569号 大学側が2か月前倒しを拒否(2015.11.4)

第568号 「聖−俗−遊」とコスチューム(2015.11.4)

第567号 「学校へ行こう!2015」の「未成年の主張」に感動(2015.11.3)

第566号 「ゆとり世代」に送る熱いメッセージ(2015.10.29)

第565号 アポイントなしは歓迎できません(2015.10.5)

第564号 めちゃくちゃ橋下徹(2015.10.1)

第563号 3年遅れの予想的中(2015.9.28)

第562号 「自由研究」の研究(2015.9.23)

第561号 奇跡の同窓会(2015.9.22)

第560号 「アベ政治を許さない」に違和感(2015.9.15)

第559号 不思議な人(2015.9.6)

第558号 門限設定には反対だが……(2015.9.3)

第557号 東京オリンピック新エンブレムの決め方に関する提案(2015.9.1)

第556号 開放的な神社、閉鎖的な寺院(2015.8.25) 【追記:2015.8.28】

第555号 38年前の就活?(2015.8,14) 【追記:2015.8.18】

第554号 ナイツの漫才(2015.8.4)

第553号 「片桐さん」は受入れられません!(2015.7.16)

第552号 久しぶりの野球観戦(2015.7.10)

第551号 本当の優しさ(2015.6.16)

第550号 ふざけるな、文部科学省!(2015.6.12)

第549号 リース契約夫婦の需要はあるのでは?(2015.6.8)

第548号 探検隊の隊長(2015.6.7)

第547号 悪女の社会学(2015.6.5)

第546号 安易すぎる(2015.6.1)

第545号 大阪都問題決着に思うこと(2015.5.18)

第544号 えと(2015.5.16)

第543号 大阪市が消えるだけ(2015.5.12)

第542号 ある蕎麦屋で見た光景(2015.5.5)

第541号 ディズニー大好き女子学生を否定する理由(2015.4.29)

第540号 1年のターニングポイント(2015.3.21)

第539号 「子はかすがい」の時代は終わった?!(2015.2.25)

第538号 もっと反省せよ、日本家族計画協会(2015.2.22)

第537号 社会学不人気時代の到来か?(2015.2.19)

第536号 大阪人は実は串カツをあまり食べない??(2015.2.13)

第535号 LINE亡国論(2015.2.12)

第534号 驚くと言うべきか、やはりと言うべきか……(2015.2.11)

第533号 肥後を治めるのは大変(2015.2.7)

第532号 「大阪都」は大阪市民だけの問題ではない(2015.2.6)

第531号 佐賀の歴史にがばい感動(2015.1.28)

第530号 21世紀の「十字軍」が始まりはしないだろうか(2015.1.12)

第529号 「様」と「先生」(2015.1.2)

571号(2015.12.31)片桐新自の2015年十大ニュース

 1か月半以上「つらつら通信」を更新していなかったので、今年の最後の日にもう1本書いておきます。何を書こうかなと思いましたが、自分の今年を振り返るということで、私にとっての十大ニュースを発表してみたいと思います。(誰も興味ないかもしれませんが。)

 では、第10位から。10位は「7年ぶりのゼミ募集定員割れ」です。久しぶりだったということもありますが、ガイダンス、ゼミ見学ととてもいい感じだったので、まさか定員割れになるとはまったく思ってもいませんでした。まあでも、チャンレンジを避ける学生さんがどんどん増えている時代ですから、これからは毎年定員割れの覚悟をしておかなければいけないかもしれないなと思った事態でした。

 第9位は、「第24回ゼミの集い」です。毎年のことなので改めて十大ニュースに入れるのもいかがかと思われそうですが、小学生以下の子どもたち8人を含む初の140人超えと、ゼミ生以外で長く親しく付き合ってきた、KK君とN(T)Nさんが初参加してくれたという意味でも印象的な集いとなりましたので、入れてみました。

 第8位は、「長女の広島転勤」です。長女が家を出て一人暮らしになったのは2013年の秋からでしたが、奈良にいたので、まだ近くにいる気がしていましたが、広島はちょっと遠くなり、ああだいぶ離れちゃったなあと思い、淋しく思った出来事でした。

 第7位は、「39年ぶりの同窓旅行」。大学時代に北海道旅行をした高校時代に親しかった友人たち3人と還暦を前に久しぶりに集まろうという話になり、なんと39年ぶりに泊り旅行をしました。ぱっと見は変った人もいましたが、話しているとみんな変わっていないなあと思ったものでした。

 第6位は、「学会編集委員会同窓会」です。6年前に終了した日本社会学会の編集委員会メンバー13名全員が6年ぶりに一堂に会して同窓会を開催しました。学会の委員会なんて普通は解散したら2度と全員が集まることのないようなものなのですが、1人の欠席者もなく、13名全員が集合し、楽しい時間を過ごしました。いろいろな人から「奇跡の同窓会」と言われたものです。

 第5位は、「10期生MK君の専任大学教員就任」です。大学教師としてたくさんの教え子を育ててきているという自負はありましたが、専任の大学教師は作れていなかったことが密かに残念に思っていましたので、彼の就職が決まったのは本当に嬉しかったです。まあ私が何をしたというより、彼自身の努力の結果なのですが、学部、大学院とずっと指導してきたので、格別な思いをいだいたものでした。

 第4位は、「結婚30年」です。ただ年月が経っただけではないですかと言われるかもしれませんが、なかなか大変な30年でした。よく持ったなあと自分で感心したりもしていました。特に、この1年は家族の反対を押し切って家内が3度もパリに遊びに行ってしまう(長男がパリにいたとはいえ)といった、普通の主婦では考えられないことをした1年でもありましたし、よく持ったものだというのが率直な思いでした。

 第3位は、「家内の乳ガン発見と手術」です。初期だったのですが、発見されてから手術までいろいろ悩ましい日々でした。お医者さんもたぶんもう大丈夫ですよと言ってくれているので一応安心はしていますが、まあでも完全はないし、これからも放射線治療などは続きますので、5年、10年と意識していくことになるだろうと思います。

 第2位は、「次女の結婚」です。一応3きょうだいの末っ子とはいえ、年子&双子ですから、まあ誰が先に行ってもおかしくないし、まあ早いのは次女だろうなと思っていたので、予想通りでした。教え子の結婚式にはたくさん出席させてもらっていますが、やはり花嫁の父は特別の感慨のあるものでした。

 そして第1位は、「還暦」です。特に、5月に「還暦記念の集い」を教え子たちが開いてくれて、今年一番の、いやもしかしたら人生で一番スポットライトを浴びたような気がした素晴らしい体験をさせてもらいました。1期生から22期生まで80人以上が集まって祝ってくれるなんて、本当に幸せな教師だなと再確認させてもらった日でした。

 こうやって自分にとっての十大ニュースを並べてみると、家族、ゼミ生、友人というのが、やはり自分にとって大切な存在なんだなということに気づきますね。みなさん、来年もよろしくお願いします。

570号(2015.12.31)日韓慰安婦問題合意は日米普天間基地移転合意のデジャブになるのでは

 日韓関係の障害となっていた慰安婦問題に関する歴史的合意が成立したと大きなニュースになっていましたが、実際に合意されたことが実現され、日韓関係が好転していくかどうかはそう簡単ではないように思います。ニュースを見ながら、1995年の日米普天間基地返還合意を思い出していました。あの時も、日米間で普天間基地の返還合意がなされたと大きく取り上げられましたが、そのためには普天間基地の移転場所を見つけることが条件だったわけですが、その移転場所決定が容易ではなく、20年経った現在に至るまで普天間基地の返還はなされていないのです。今回の日韓合意も、日本大使館前にある慰安婦少女像の撤去が条件と日本政府は認識しているわけですが、韓国政府はその努力をするということを約束しただけと認識しているように思います。韓国国内では撤去に反対する意見が6割を超えるようですから、この撤去は容易ではないでしょう。そして、この撤去がなされなければ、安倍首相は10億円の資金提供もしないでしょうし、日韓関係は冷え込んだままに留まるでしょう。日本側は、国と国との約束なのだから、強制撤去でもなんでも韓国政府はやるべきだと思っていると思いますが、そんなことをしたら、朴大統領の支持率は地に落ち、反日行動が頻発することになるでしょう。そもそも、今回合意文書を作成できなかったところに、この問題の解決が容易ではないという韓国側の認識が入っているように思います。合意文書に、「慰安婦像の移転」を盛り込みたかった日本側と、それを絶対条件にされたら困る韓国側で調整がつかなかったのだろうというのが私の読みです。たぶん、この問題は膠着したままになるような気がします。万一韓国側が強制撤去をしても、この像を作って設置したのは民間団体だそうですから、また作って置くこともできるでしょう。日本大使館前がだめなら、日本の百貨店の前だったり、あるいはアメリカでも設置したように、他の国の日本大使館前とかにでも置くことはできるわけです。どっちが折れないと、日韓関係は改善されないでしょう。現実的な解決策を求めるなら、日本側が大人になって、慰安婦少女像の撤去がなくても資金を拠出することしかないのではないかと思いますが、安倍首相もそこまで折れたら、これまで安倍に期待し支持してきた層から「卑屈外交」だと厳しく批判されるでしょうから、そこまでできないのではないかと思います。結局、普天間基地の移転問題同様、事態は膠着したままということになるような気がします。

569号(2015.11.4)大学側が2か月前倒しを拒否

 NHK7時のニュースで、本日行われた来年の就職活動に関して、経営側と大学側の話し合いで、大学側が面接を行い内々定を出すのを今年の8月から2か月前倒しすることにしたいという経済界の要望に関して、6月は授業の真最中なので認められない、8月のままにすべきだと意見を述べたと言っていました。その大学側というのは一体誰なんだと腹が立ちました。経団連加盟企業ですら守っていなかった8月面接解禁なんてまったく意味がありません。実質的に学生たちは、2月頃から9月くらいまでずっと就活でした。6月解禁は確かに中途半端ではあります。私は、昨年までの4月解禁が一番良いと思っているので、どうせなら一気にそこまで戻せと言いたいですが、それがみっともなくてできないなら、とりあえず来年は6月でもまだ少しはましです。優秀な子なら7月初めには決まるでしょう。大学側も6月に前倒しに反対するなら、8月を変えるなという案ではなく、一気に4月に戻せと主張してほしいものです。しかし、就活を後倒しにしてほしいと言ってきたのは大学側ですから、そんなことは口が裂けても言えないのでしょう。学生を指導したことがない事務方の考えで大学側が代表されるのにおおいに疑問があります。早く昨年度までのスケジュールに戻ってほしいものです。

568号(2015.11.4)「聖−俗−遊」とコスチューム

 コスプレをテーマにしている学生の研究について何かよいアドバイスができないかなと考えているうちに、コスチュームを纏うことを、カイヨワの提示した「聖−俗−遊」図式で分析できそうな気がしてきました。最初は、「ハレとケ」の2分法で考えていたのですが、遊びの要素の強いコスプレと、儀礼や儀式で着るべきコスチュームは、ともに非日常的(=ハレの)コスチュームでも分けて考えた方がよいと気づき、「聖−俗−遊」図式の方が使いやすいだろうとイメージが湧いてきました。

まず、真ん中に普段着(制約なき服装)を置き、その周りに正三角形を描き、その各頂点に、「聖のコスチューム」、「俗のコスチューム」、「遊のコスチューム」を置いてみてください。「聖のコスチューム」の典型は、晴着です。若い女性の場合は、結婚式のウェディングドレスや白無垢といった花嫁衣装、成人式の振袖、卒業式の袴姿など、「聖」なる場でしか着られないハレのコスチュームがいろいろ浮かびます。中高年男性の場合はモーニングが最高のハレの日(聖なる日)のコスチュームでしょう。パーティードレス、略礼服も少し簡略化はされていますが、「聖のコスチューム」でしょう。また、祭りの衣装も、決められた儀式の衣装だという意味では、この「聖のコスチューム」に入れられるのではないかと思います。

「俗のコスチューム」の代表格は仕事のために着る制服があげられるのではないかと思います。この分析図式のポイントは、「俗」と言いつつも、決して普段着ではないというところです。ここでは、コスチュームとはあくまでも普段着としては着ない服装という定義をしておいた方がいいからです。警官・消防官・自衛官の制服、医師・看護師の制服、会社や学校の制服、スポーツ選手のユニフォーム、etc.が例として挙げられます。こうした「俗のコスチューム」は、多くの場合、そのコスチュームを纏うことで、ある集団に属していて、その集団に属している人に期待される役割を果してくれる人だということを、社会的に示す役割になっています。ここが社会学的には重要なポイントです。

 そして「遊のコスチューム」ですが、これはハロウィーンの仮装などいわゆるコスプレがその典型になりますが、他にもいろいろなものが入ります。京都散策のためだけに借りて着る和服、花火大会の浴衣、大学の学園祭で女子大生が着る高校生ファッションなどなど。この「遊のコスチューム」の特徴は、こういうコスチュームを纏うことで、非日常感が増し、気持ちが盛り上がるというところにあります。今は、こういう表面的で刹那的な楽しみが好まれる時代ですので、この「遊のコスチューム」の例はどんどん増えています。

 今ここであげたようなコスチュームは、それぞれ「聖−俗−遊」のコスチュームの典型的なものですが、中には、どちらに位置づけたらいいのか難しいものとか、場面によって意味づけが変わるということも多々あります。例えば、私服通学が許可されている女子高生が勝手に選んで着ている「なんちゃって制服」は「俗」の要素と「遊」の要素を含んでいるでしょう。就活で着る黒のスーツは、「聖」の要素と「俗」の要素を持っています。「聖のコスチューム」の典型例として示した振袖も袴も、決して絶対着なければならないと決まっているわけではないということを考えると、「遊」の要素を含んでいると言えるように思います。

 以上のように、社会的に見て、様々なコスチュームが「聖−俗−遊」図式で分析できるだけでなく、日々の人々の服装選択の際も、この図式が使えそうです。今日は大事な○○の日だから、今日は仕事の日だから、今日はオフだから、と考えて、多くの人がその日着る服装を選んでいると思います。ここぞという時に身につける「勝負○○」とかがある人は、そのコスチュームが、その人なりの「聖のコスチューム」ということでしょう。まあ、これなんかは自分の体験に基づく主観的な思い込みに過ぎなかったりしますが、一般的には服装選択にも、その社会がその服装に与えている意味というものを人はいつのまにか学び、そのルールに基づいて決めているはずです。コスチュームの社会的意味も考えたらかなりおもしろそうです。

567号(2015.11.3)「学校へ行こう!2015」の「未成年の主張」に感動

 先ほどまで、かつて放映していたV6出演の「学校へ行こう!」という番組のスペシャル版が放送されていたのをご覧になりませんでしたか。私はかつて放送されていた時にはあまり観ていなかった番組だったのですが、今日はなんとなく観ていました。昔放送したものをVTRで紹介する部分が多かったのですが、その中でも「未成年の主張」というコーナーでの、小学生から高校生までの素直な心の声とそれを受け止める子どもたちの表情が豊かで、すごくいいなと思いながら観ていました。でも、こういう風にテレビカメラがあっても素直に思いを伝えるのって、今の子は苦手になっていて、それがきっとこの番組を終了させた理由の一つに違いないと思いながら観ていました。しかし最後に、この2015年でも「未成年の主張」がちゃんと成立することを見せてくれたので、感動してしまいました。栃木県の中学校でしたが、みんな本当に素直そうで、楽しそうで、「今どきの中学生も、昔と同じように素直でいい子たちじゃないか」とじーんとしてしまいました。かつて学生時代にこの番組に出たいと思っていた人が、今その学校の先生になってこっそり応募したそうですが、最後に生徒会長に呼ばれて壇上に上がったその先生の「主張」を聞きながら、「思い」は今でもちゃんと伝わるんだと思えました。ゲームだ、スマホだ、LINEだと子どもたちを取り囲む環境は変ってきていますが、人を好きになったり、大切に思ったりという感情は、みんな大切にしていて、ちゃんと届くんだと強く思えたよい番組でした。

私は大学生を相手にする教師ですが、基本はきっと一緒でしょう。応募した若い先生が最後に言っていた「見逃し三振より空振り三振の方がいい」という言葉は、改めて「そうだよな」と私も思いました。届かないかもしれない、嫌がられるかもしれない、と臆病になったら、教育はできません。「思い」は届くはずと信じて、もしもだめでも最初からあきらめてしまうよりはよかったはずだと思ってやっていこうと、バラエティ番組を観て、改めて心に決めました。若い先生の言葉は、その学校の生徒だけでなく、テレビを通して、還暦の大学教師にまで届きました。

566号(2015.10.29)「ゆとり世代」に送る熱いメッセージ

 大学生たちが「ゆとり世代」と揶揄されるようになって、もう78年経つでしょうか。私は、「ゆとり教育」を受けた世代だからと言って、そんなに違うわけではない、関大に来る子はみんなそれなりに潜在力を持っているので、うまく刺激を与えたらしっかり伸びると言い続けてきました。しかし他方で、ここ数年「やっぱり、ゆとり世代なのかな」と思うことも確かに増えてきています。一番感じるのが、自らに負荷をかけようとしない学生の割合が増えてきているということです。努力をせずにできそうなことだけやっているという学生が増えています。たとえば、研究テーマを決めるのも、研究方法を決めるのも、事実調べをするのも一番簡単にできそうなことを選ぼうとします。もっと頭と足を使えとアドバイスをすると、露骨に面倒くさそうな顔をします。それでも、こちらは教師ですから、自分で負荷をかけないなら、せめてこちらがかけてやろうと思い、なんとかやらせます。でも、たとえばネットで調べるだけではなく、自分で聞き取り調査を行うことにしたとしても、大学生以外にも聞いてこないといけなくなった場合も、すぐに「もう聞く相手がいないのですが、どうしましょうか?」なんて聞いてきます。30人も40人も聞いてきた上でならともかく、30歳代は1人しか知り合いがいないので無理ですなんて言い始めます。ちょっと待てよと言いたくなります。知人の知人とかでも一所懸命頭を下げて頼んだらいくらなんでも1人ということはないだろと思うのですが、「人見知りなので無理です」と逃げようとします。そこを乗りこえないと何も始まらないだろと思うのですが、なかなかその気にさせるのは難しいです。苦労した先に初めて喜びも生まれるのに、その苦労を嫌がります。学生からしたら、社会学の研究なんかで苦労したって、別に意味がないじゃないですかという感じかもしれませんが、そんなことは絶対ありません。社会学的思考は間違いなく生きていく上で役に立つ思考で、それを会得するために努力することは買ってでもすべきことです。社会学でなくとも、大学生なら自分が選んだ専門にどっぷり浸ることの楽しみを見いだすべきです。ただ、大卒の肩書を得るだけなら、授業料は高すぎます。もっと大学生活を有効に使うべきです。

 「大学生活で大人になろう」ということももうだいぶ前から言い続けていますが、これも自分に負荷をかけて成長しなさいというアドバイスの別の言い方です。すっかり高校のようになってしまった現代の大学では、学生たちは学校(大学)と家を往復する(時々バイトと遊びが入る)だけという高校時代と変わらない生活を続けています。昔は、大学生と高校生の差は大きく、大学に入ったら高校までにはできなかったこと、してはいけなかったことを必死で背伸びして(=自分に負荷をかけて)やろうとしたものです。その結果として、大学入学時と比べれば大きく成長して卒業したものでした。今は、そんな背伸びをして新しいことにチャレンジしようとする学生が減ってきています。「私は頑固ですから変わりません!」なんて宣言する人がいますが、20歳ちょっとで、まだ何も知らないような人間が自らを全面肯定して変わろうとしないなんて、憐れみ以外の何も感じません。大学生は変らないといけないのです。4年間という時間を使って、子どもから大人に近づかないといけないのです。高校時代と同じような生活、同じような興味関心、同じような知識のままで居たら、人生を無駄にしているようなものです。「人見知り、シャイ」「頑固」なんて性格は、大学生にとって百害あって一利なしです。そんな性格を人前で恥ずかしげもなく言う人は、私には「私はバカです」と言っているのと同じように聞こえます。絶対直すべき大きな欠点なのに、なんで本人はそう思わないのだろうと不思議に思っていましたが、「無理なことはさせない」「できなさそうなことには手をつけなくてもよい」という「ゆとり教育」を受けた世代なら、恥しいことだなんてまったく思わないのかもしれませんね。

 大学生なんて未完成な人間です。だからこそ、高い授業料を払って、より人間としての魅力を増すために知識と経験を増すために大学に来たのではないですか?私の大学生調査でも、「大学に行くのは当然のコースだったから」という選択肢を選ぶ人が5割以上います。確かに、そういう時代でしょう。しかし、この選択肢を選ぶ人も、なぜ「当然なのか」をもう一度よく考えてみてほしいと思います。大卒の資格がないと、就職も結婚もままならないからですよね?でも、なぜ、ままならないのですか?大卒である人にはあると期待され、大卒でない人にはないと思われている何かがあるはずではないですか?肩書だけではないはずです。能力の高さを示す?確かに、偏差値が高い大学の方が設定された問題に対して答えを出す力は高い人が多いということは言えるでしょう。しかし、偏差値のレベルだけで就職も結婚もすべて決まっているわけではありません。もしも、その偏差値指標がそこまで確実なら、企業は時間をかけて選抜なんかせずに、大学名だけで採用を決めればいいのです。しかし、そんな危険なことを企業はしません。社会で必要とされる能力は問題解決能力だけではないことを企業は知っているからです。結婚だってそうです。誰が偏差値だけで結婚してくれますか?

大学は入ってしまえば、それでよいという世界ではありません。そこで成長すべき場なのです。その成長するチャンスを得るために、高い授業料を払っているのです。せっかく成長する場を得て、適度に負荷をかけてくれる教師にも出会えて、それでも負荷から逃げて変わろうとせずにぬるま湯につかりつづけるなんて、あまりにもったいなくないですか?そして、そんな状態で大学4年間を過したら、社会の荒波にすぐに押し流されますよ。大学時代は失敗の許される時代です。自分に負荷をかけて、失敗を経験して、そこから乗りこえる経験もして、初めて有意義な大学生活になるのです。「ゆとり」か「さとり」――これも嫌な言葉です。なんで未完成な若者がさとったふりなんかしているのでしょうか――か知りませんが、そんなぬるま湯につかっていないで、熱いお湯に飛び込んでみてほしいものです。

565号(2015.10.5)アポイントなしは歓迎できません

 たまにですが、アポイントなしで研究室やゼミ教室を訪ねてくる卒業生がいますが、基本的に歓迎できません。書店の人が宣伝のために時々研究室にやってきたりするのも好きではないのですが、卒業生でも急に訪ねてこられると、気持ちの準備ができていないので、良い顔はできません。本人はサプライズで出向けば、私のびっくりする顔が見られると期待しているのかもしれませんが、たぶんがっかりした顔しか見られません。2年以上付き合ってきたのに、アポイントなしで訪ねて喜ぶ教師かどうか現役の時代に見抜いてくれなかったのかとがっかりしてしまいます。急に訪ねてきてくれると喜ぶという人もいるのでしょうか?私にはまったくないですね。人と会う時は、それなりに心の準備をしてからでないと会いたくはありません。急に会うのは苦手です。きちんと事前に連絡を取ってくれたら歓迎します。最悪ぎりぎり当日でも連絡をくれれば、急ぎ心の準備をしますので、訪問したいと思う人は必ず連絡してアポイントを取ってから来てください。

564号(2015.10.1)めちゃくちゃ橋下徹

 橋下徹が国政政党「おおさか維新の会」を立ち上げました。しかし、言っていることがめちゃくちゃです。彼が初めて府知事になった頃は是々非々で評価して行こうと思っていましたが、最近の橋下の主張や行動は、あまりにもめちゃくちゃでまったく支持できるところがありません。いくらでも問題点をあげることはできますが、とりあえず1218日に政治家をやめるという人間が、どうしてこの時期に新党を立ち上げることができるのでしょうか?詭弁を弄するのが大好きな弁護士的には、「今は政治家をやっているのだから何の問題もない」というのでしょうが、常識的にはありえないことです。橋下に期待する人は、前言を翻すことに心の痛痒をまったく感じない橋下なので、きっとまた間際になったら前言を翻して来年の参議院選挙などの国政選挙に立候補してくれるとでも思っているのでしょう。実際そうなるのかもしれません。

 この新党「おおさか維新の会」を作って何をするかと言えば、東京一極集中に風穴を開け、地方分権を進め、大阪を副都心にするのだそうです。大阪市長選挙と大阪府知事選挙に勝って、1回結論が出たはずの「大阪市解体住民投票」をもう一度やり、これに勝てば、そうなるようなことを言っていますが、そんなことにはなりません。大阪都になることすら難しいことはすでに指摘した通りですが(第543号 大阪市が消えるだけ(2015.5.12))、そうなったからと言って、どうして大阪が副都心になれるのでしょうか?名前が「都」だというだけで特別感は多少あるかもしれませんが、お隣の京都も神戸も、大阪が副都心になることにまったく協力はしないだろうし、そもそも「大阪都」になったからと言って、企業が大阪に本社を構えようと思うでしょうか?もともと大阪(あるいは関西)発祥の企業も多かったのに、みんな利便性から東京に行ってしまったのです。利便性も変らないのに、名前が変っただけで戻ってくる事はありません。地方分権は、中央官庁と国会がその気にならなければ、1地方都市・大阪がいくらあがいても変りません。

 そもそも、もう1回住民投票をするというのも、橋下の「前言翻し」の悪しき例のひとつです。前の住民投票が終った時に、「これでもうすべて終わりました」と言っていたのに、どの面下げてずうずうしく、もう一度「大阪都」に向うための「大阪市解体住民投票」をすることを公約にしますなんて言えるんでしょうか?一体いくら大阪市の税金を無駄に使わせたら、気が済むのでしょうか?正直言って腹が立ちます。しかし、若い人たちには、橋下徹に対する漠然とした期待感があるので、その傀儡である市長候補と知事候補が当選してしまう可能性は小さくないかもしれません。こんなめちゃくちゃな男を喋りの歯切れがよいというだけで、切れ者のように思うのは間違いです。ただの喧嘩屋です。カラスでも白いと信じ込ませる口先だけの悪しき弁護士の典型例です。

 安倍晋三と橋下徹は仲良しのようですが、安倍もいい加減なところで橋下と手を切らないと、いつか大きな被害を蒙りそうな気がします。国家観は似ているのかもしれませんが、大阪都なんて、安倍は本気でやる気なんかまったくないと思います。そもそも足下の自民党大阪府連が反対していることを、どうして自民党総裁が後押しできるのか、できるわけはないのです。今は、どうせ大阪都なんてできないだろうから、わざわざ反対するなんて言って、うるさい橋下を敵に回すことはないだろうという程度の認識だと思います。しかし、菅官房長官を含めて3人は仲良しということになっていますので、もしも橋下が前言撤回して政界に復帰する時は、自民党公認かもしれませんよ。大臣にでもなれば、前言を撤回して「大阪都なんて必要ないし、地方分権化も必要ない。中央に権力をより集中させるべきだ」と言いかねない気がします。前言を簡単に撤回する人間なんて絶対に信じてはいけません。11月の大阪市長選挙と大阪府知事選挙で、大阪の有権者がまともな判断を下すことを心から願っています。「アベ政治を許さない」には違和感をもつ私ですが、「橋下とその傀儡政治は終るべき」とは言いたいです。

563号(2015.9.28)3年遅れの予想的中

 福山雅治と吹石一恵が結婚しましたね。ショックで泣いている人がいるそうですが、なんで泣くんでしょうね。昔の恋人で密かに結婚を考えていたのにという人が泣くならわかりますが、ただのファンが泣くというのが私にはまったく理解できません。ファン心理は私には解明不能です。さて、それはともかく、実は私は2012年初頭に今年の大予測と称して、「福山雅治は今年中に結婚する」という予言をゼミや講義の前説でしたのですが、その時は残念ながらはずれました。しかし、今回の結婚発表を聞いて、当時から噂のあった吹石一恵が相手だったので、なんか3年越しで遅ればせながら予測が当ったような気がしています。当時福山雅治が結婚するのではと思ったのは、彼が2010年に「龍馬伝」を取り終え仕事が一段落しているように見えたこと、2011年下半期にゼクシィのCMソングとしてですが、「家族になろうよ」という歌を歌っていたことからです。いくら結婚情報誌のCMソングとはいえ、もしも福山雅治に付き合っている女性がいたら、これはプロポーズ・ソングに聞こえるだろうなと思ったからです。福山雅治がゼクシィのCMをずっとやっていたのなら考えすぎと言われるかもしれませんが、ゼクシィのCMをこの段階で引き受けたということには、それなりに覚悟ができたのではと想像したからです。今回の発表でも数年前からおつきあいをしていたと言っていますし、ネット情報では2010年から交際していたらしいので、やはりこの「家族になろうよ」は吹石一恵へのプロポーズ・ソングだったのではないかと思います。まあ、何らかの事情で2012年の結婚は延び、3年経ってゴールインということになったのではないでしょうか。まあ3年もずれているのですから、素直にはずれたと認めるべきだと言われそうですが……。

562号(2015.9.23)「自由研究」の研究

 昨晩3回生ゼミ生と飲んだ時に、来週提出の夏季課題(片桐ゼミではテーマはまったく自由)のレポートに悪戦苦闘しているという話になり、1人が冗談で「僕は、朝顔の観察記録を出します」と言ったのを聞いて、ふと思いつきました。夏休みの「自由研究」という宿題は、世代を超えてみんな小学生の時からなじみ深いものだと思いますが、この「自由研究」も時代とともに間違いなく変化しており、これは社会学の研究対象になると確信しました。朝顔の観察記録なんかは、何世代にもわたって行われてきたものでしょうが、昆虫採集なんて、昔は多く提出されたと思いますが、今はほとんどなくなっているのではないでしょうか。現代の都市環境ではセミとゴキブリ以外は簡単に見つけにくいでしょう。農山村地域では環境条件的にはまだ可能でしょうが、妙に清潔志向が高まる中で、虫をさわれないという子どもたちも増えているようですし、きっとかなり少なくなっているでしょう。工作なんかも世代を超えて提出されている「自由研究」でしょうが、昔は空き箱なんかで見るからにぼろぼろの工作もよく提出されていたものですが、今はデパートや東急ハンズのようなところでは、「自由研究」用の様々な工作キットが売っているという話も聞きます。全体に小奇麗なものが一般的になってくると、手作りのぼろぼろのものを提出すると、「汚い、ぼろい」とかイジメの対象になってしまいそうな気がするかもしれませんので、それを心配する親の協力なんかも、今はきっとかなりなされているような気がします。私が子どもの時は親が「自由研究」に協力するなんてことは、まず考えられませんでしたが、私自身が親になってからは、少し協力した覚えがあります。今はもっともっと親が関わっているのではないでしょうか。そのあたりの事情がどうなっているのかも調べてみたら、大きな変化が見られるだろうと思います。

 ちょっとしたテーマを決めた研究レポートのようなものは昔からありましたし、今もあるのでしょうね。ただ、昔は新聞の切り抜きだったり、絵を描いたり、写真も現像したものを貼り付け、手書きの文章で説明するという感じでしたが、今は小学校高学年くらいになったら、きっとパソコンにいろいろなものが取り込まれて、ワープロで作成されたものなんかも提出されていそうな気がします。テーマも時代とともに変わっているはずです。私の中学3年の時(1970年)の自由研究のテーマは「公害問題」でした。(実は、これが私の運動論研究の原点になっています。)中学生、高校生の自由研究に焦点を当てるなら、このテーマの推移がおもしろいでしょう。大学生ですが、私のゼミは3回生夏休みのレポートのテーマも、卒論のテーマも学生に自由に選ばせていますので、そのテーマを並べてみただけでも、時代の変化がそれなりに見られます。まあ本格的に、このテーマを研究するなら、やはり小学生の自由研究に焦点を当てた方がいいと思います。誰かやってみませんか?

561号(2015.9.22)奇跡の同窓会

 3年間務めた日本社会学会研究活動委員長の仕事からようやく解放されました。なんとか無事に大会が終了し、ほっとしています。それにしても、よく使ってくれます。前回理事に選ばれた時は、編集委員長をさせられ、今期は研究活動委員長ですからね。学会の役職というのはなんの手当もなしのボランティア活動ですが、一体どのくらいの時間をそのボランティア活動に費やしたのか、計算もできないほどです。まあでも、学会で責任ある仕事が回ってくるというのは、一応それだけ信頼されているということだろうと思いますので、頑張ってやっています。しかし、頑張ってやっていればいいこともあるわけで、ともに委員をしてくださる全国各地の中堅以上の優秀な社会学者と顔見知りになれ、さらには親しい関係を築けたりします。今期委員長を務めていた研究活動委員会は、委員の数が24名と多く、全員と深い人間関係を築くところまではいけませんでしたが、20062009年の3年間委員長を務めた編集委員会は13名というちょうどよい数で非常に濃い人間関係を築けました。学会機関誌を年に4回刊行する通常業務に加え、10年ぶりに『社会学評論スタイルガイド』を改定するという大仕事もした委員会でしたが、それゆえにこそかもしれませんが、13名の委員の間では強い絆と信頼関係が築かれました。大会時に開催する委員会以外に、年に4回も委員会を開催するのですが、なんとその3年間、毎回委員会が終るたびに、ほぼ全員で飲んでいました。(誤解ないように断っておきますが、もちろん学会のお金ではなく自腹です。)3年間の任期の後半は、みんな、仕事を終えた後のこの一杯を楽しみに委員会にやってくるという感じになっていました。

2015.9.20. 社会学評論編集委員会同窓会2009年に委員会任期が終わった時、ほっとするとともに、この楽しい飲み会がこれからはできなくなるのかと、みんな淋しく思ったものでした。「いつか同窓会をやりましょう!」という声がどこからともなくあがり、みんな「ぜひやりましょう!」と言って、名残惜しく思いながら解散しました。そして、ついに今年6年ぶりに初の同窓会を開催しました。いろいろな人に言われましたが、「学会の委員会で同窓会なんて考えられない。普通は終ったら、もう2度と会いたくないと思うものだよ。」しかし、この委員会メンバーはまったく違いました。私が「同窓会をしませんか?」とお声をかけたら、なんと2日以内に全員から「待っていました!」と参加の返事が届きました。そして、一昨日13名全員で1人の欠席者もなく同窓会を開催することができました。参加したメンバーから、「これは奇跡の同窓会だ!」と言う発言があったので、今回のタイトルにしてみました。上は70歳代から一番若くて50歳という13名です。60歳の私が丁度真ん中の7番目で、平均年齢は60歳をほんの少し超えるという高齢の同窓会です。でも、みなさん変わらずにお元気でしたし、6年ぶりに集ったとは思えないくらい、なんの気兼ねもなく楽しい時間を過ごせました。「ぜひ、そう遠くないうちに、2回目をやりましょう!」という声をかけあって楽しいひとときを終えました。あの3年間は、仕事がたくさんあって大変でしたが、この人間関係を築けたことで、私の人生にとって素晴らしい財産を得られた時間だったと改めて感じました。(右写真は、一昨日の記念写真です。楽しそうな雰囲気が伝わると思います。勝手に掲載してしまいますが、きっとみなさん怒らないだろうと思います。)

私はしばしばゼミの教え子の同窓会に呼んでもらって一緒に楽しませてもらっていますが、フラットな1メンバーとして参加できる同窓会はまた異なる楽しさがありますね。本来なら、大学や高校の同窓会にももっとまめに出ていたらそこでも似たような感覚を味わえたのかもしれませんが、関西在住であることを理由にして、東京圏で開催される同窓会に足をあまり運んでいなかったので、だんだんハードルが高くなって行きにくくなってしまいました。中学のクラスの同窓会だけは比較的まめに出ていたのですが、それももう10年くらい開かれていないのではないかと思います。自分が音頭を取るポジションにいたら、声をかけるのですが、地理的制約もあり、なかなかできずにいます。せめて、自分が音頭を取れるポジションにいる集まりでは、同窓会をやりましょうという声をかけていきたいなと思います。今回開催できた編集委員会同窓会もですし、片桐ゼミの集まりも。

また、「片桐ゼミの集い」も近づいてきています。きっと、大学や高校の同窓会の私のように、しばらく行っていないから行きにくいなと思う人もいるかもしれませんが、来てみたら意外にそうでもないですよ。私も実は昨年高校の同窓会に20年ぶりくらいに参加しました。確かに、最初はかなり緊張していましたが、少しずつ昔話をしている間に過去が蘇ってきて、だんだんリラックスでき、結局2次会まで行きました。それをきっかけに、高校時代に仲のよかった4人で約40年ぶりくらいに泊り旅行をすることもできました。少しハードルが高いと思っていた大学や高校の同窓会にも、今後はもっと積極的に参加しようと密かに思っています。片桐ゼミ生もそう思ってくれる人が増えたらいいなと思っています。人生の最大の財産は、家族と友人という人間関係だと、この年齢になってしみじみ思います。友人が大切と言うのは若い人たちもみんなわかっていることでしょうが、ずっと長く付き合える友人は軽い付き合いからではなく、一緒にしんどいことを経験することで生まれるものだと思います。しんどくても逃げずにいろいろなことに一所懸命取り組むことで、初めて本物の友人、仲間もできるのだと思います。そんな素敵な仲間をたくさん作って、いつかみなさんも「奇跡の同窓会」を開いてください。

560号(2015.9.15)「アベ政治を許さない」に違和感

 集団的自衛権の行使を現行憲法の下でも可能とする安保関連法案が通ろうとしています。この問題に関してずっとここで書いてきませんでしたが、これまで若者たちにもっと政治に関心を持とうと言ってきたのに、なんだか何も言わないままでいるのもずるいかなあという気持ちが日々募ってきて、やはり書いておくことにします。何も言わずに来た最大の理由が、学者世界の「大きな声」と違う考えなので、こんなことを書いたら「保守」とか「反動」とかラベリングされるかもしれないと思っていたからです。でも、私は「保守」でも「反動」でもありません。戦後政治史に関しても安保問題に関しても、自分なりにきちんと勉強してきて、そんじょそこらの人よりははるかに理解しているつもりです。自分の中の結論は、今回の法案が衆議院に提案された時から一貫していてまったくぶれていません。むしろ、明々白々なことなのに、こんな展開になるのかと不思議な気持を持ちつつ、日々ニュースを見ていました。

 自分の心情吐露はこの辺までとして、具体的にこの法案とこれを巡る動きについて語ります。まず、この法案が合憲か違憲かと言われたら違憲でしょう。ただし、この問題を突き詰めていけば、個別的自衛権をもつ自衛隊(=軍隊)の存在は違憲ではないのかという問いに行きつかなければなりません。すでに定着してしまっているからということで、現在の法案に反対している人たちも自衛隊の存在や個別的自衛権が違憲だという主張をしないのは、本当はおかしいと思います。もともと警察予備隊という名で実質的な再軍備をした時には、国民の多くが「憲法には一切の武器は持たない、戦争はしないと書いてあるのにおかしいじゃないか」と言っていたのです。それから20年以上経った私が大学生だった1970年代でも、「自衛隊は違憲だ」と答える人たちの方が世論調査でも半数以上いたと記憶しています。まずは、ここで憲法の解釈変更が行われています。この問題はほっかむりをして、どうして今の集団的自衛権行使だけを違憲だと問題視できるのかがわかりません。反対運動もやるなら自衛隊の存在、日米安保条約の存在も含めて問題視し、「そういうことをやりたいなら、堂々と憲法改正をめざせ!」と言うべきです。そういう主張をしている人も多少はいるでしょうが、「憲法を守れ、9条を守れ」と言う主張をする人の方が多いので、その人たちの中では個別的自衛権までは憲法解釈上許されることになっているのかどうか聞いてみたい気がします。

 日米安全保障条約も、もしも日本が絶対に戦争をしない国――あるいは自国が攻撃された時だけ武器を使う国――であれば、破棄しなければならないものでしょう。どう考えても、安保条約は軍事同盟条約です。日本が攻められるようなことがあったらアメリカは助けてくれるはずと多くの国民は思っているように思いますが、対等な国の軍事同盟条約ならば逆のパターンもしなければならないはずです。今回の集団的自衛権の行使を可能とする法案成立をアメリカは望んでいます。当然のことでしょう。反対する人たちは、日米安保条約廃棄まで訴えなければ筋は通らないはずと思うのですが、そういう声はまったく聞こえてきません。かつて、日本を再び戦争に巻きこむと大反対運動が起きた再軍備も日米安保締結も、今は問題ないという位置づけになっているのでしょうか。であるならば、今回の集団的自衛権行使を可能とする法案が通っても、いずれこれも問題ないという位置づけになりそうな気がしてなりません。

 そして、もうひとつすごく気になるのが、「アベ政治を許さない」というフレーズです。ここには、60年安保闘争の時の総理大臣だった元A級戦犯容疑者・岸信介が明らかに重ねられているように思います。岸の孫で岸を尊敬する安倍晋三が総理大臣だからこそ、運動が妙に盛り上がっている気がします。60年安保改定反対闘争と今回の運動を重ねている高齢者は非常に多いと思います。60年の運動は、結局主たる目的だった安保改定阻止は達成できなかったが、元A級戦犯容疑者なのにこれといった責任も取らないまま――巣鴨プリズンには収監されていますが――総理大臣にまでなってしまった憎き岸信介を総理大臣の椅子から引きずり下ろすことで何か成果をあげたような気になって終ったのです。今回も国会の議席から考えたらどう考えてもこの法案は通るわけです。実質的に阻止できないのがわかっているから、60年の岸のように、安倍を引きずり下ろすことをひとつの目標にしている気がします。それが「アベ政治を許さない」というフレーズになって表れているのでしょう。引きずり下ろせないまでも、安倍晋三は強権的で戦争をしかねないこわい政治家であるという印象を多少なりとも国民に与えたいという狙いでしょう。しかし、一時的にやや下がった安倍内閣の支持率もまた持ち直し気味で、効果はあまり出ているとは言えないと思います。

 民主党もおかしいです。今は反対運動と一緒になってこの法案を廃案に持ち込もうと言っていますが、いつかもしもまた政権を取る日が来て、アメリカから集団的自衛権を行使してほしいと言われたら拒否なんかできないことはわかっているはずです。日米安保条約の廃棄まで訴えなければ、一貫しないのです。選挙で負けて国会で勝負にならないから国会の外で気勢を上げるというのは、絶対に政権を取れない、それをめざす気もないような政党なら仕方がないような気がしますが、ほんの3年前までは政権党だった政党としてはあまりにも惨めな行動です。もう民主党は政権なんかめざさない弱小政党になったということなのかなと思うと淋しい気になります。

 私は社会運動を研究してきた人間で社会運動が社会に対して果す重要な役割を十分認識しています。今回の法案への反対運動も起こること自体は、日本社会の健全さを表していて結構なことだと思います。異議申し立ての声を上げる人がいること、上げやすい環境であることは、民主的で自由な社会にとってはとても大事です。しかし、イデオロギーや妙なルサンチマンに囚われて感情的にはなるべきではなく、あくまでも合理的な政治活動として社会運動は行われるべきです。そして短期的な視点ではなく長期的な視点に立ってものを考えるべきです。過去のこの手のテーマの運動が主張してきたことはなんだったのか、その結果はどうなったのか、そういう視点をもって運動を見るべきです。サンフランシスコ講和条約を結び独立を勝ち取る際に、自由主義諸国との講和を「単独講和」として反対し、社会主義諸国との講和も含む「全面講和」でなければだめだと主張し反対運動をしていた学者、学生たちはたくさんいたわけですが、もしもその運動が成功していて、サンフランシスコ講和条約が調印できていなかったら日本はどんな道を歩むことになっていたのか、またそのサンフランシスコ講和条約の時にドタバタのうちに結ばれた不平等条約とも言えるような旧日米安保条約が1960年に改定されなかったらどうなっていたのか、などと過去の歴史を見ると、社会運動が求めていた方向に進まなくてよかったという事実はいくつも確認できます。そういう長期の視点で見るなら、今回の安保法案反対運動も、どうしても冷静な目で見ざるをえなくなります。

 最後に、今回の安保法案はどうやっても通りますが、いつまでも憲法解釈を変えながら自衛隊のやれることを拡大するのは反対です。堂々と憲法改正をめざすべきです。国民投票法も作ったのですから制度的には可能になっています。衆参国会で3分の2の議席を取って、自衛隊の存在も日米安保も集団的自衛権も絶対に違憲と言われないような憲法改正案を作って、国民投票にかけるべきです。国会で衆参3分の2以上の議席を取り、国民の半分が賛成と言うなら、それでいいじゃないですか。反対の人たちはそうできないようにまずは国会で3分の2を取らせないように努力し、万一取られた時は国民投票で過半数を取られないようにすべきです。憲法は一切変えさせないなんて言い続けるのも変です。約70年前の憲法です。戦争・軍備に関連するもの以外でも、時代に即していない条文だってあるはずです。反対運動も感情的にならずに、より説得力のある主張をして国民の支持を得るべきです。異なる立場の意見がきちんと主張できる場があって、最後は投票で決まる、それが民主主義です。

559号(2015.9.6)不思議な人

 小ネタですが、誰かに話してみたいので書きます。先日、新幹線で東京から帰ってきた時のことです。東京発15時台の新大阪行きで、私は指定席のE席に座っていました。空いている時間帯で京都まで隣はずっと空いていました。新大阪行きですので、もうこのまま新大阪駅まで2人席を1人で使って帰れるものだと当然のように思っていたのですが、なんと京都駅から指定席きっぷらしきものを持った男性が「すみません」と言って私の隣の席に座ったのです。「ええっ〜」と思いました。新大阪行きの京都駅ですから、他の席を見ても当然ガラガラです。なぜ、京都から新大阪までそれも隣席のいるD席に人が乗ってくるのでしょうか。30歳代くらいの人でしたが、まじめに5分前の「もうじき新大阪駅に着きます」という放送が流れるまで、D席におとなしく座っていました。誰かこの人がなぜこの席に来たのか解いてくれませんか?私には謎すぎて解けないんですよね。京都−新大阪なんてもともと新幹線を乗る人なんてほとんどいないはずだし、万一急いでいてどうしても新幹線を使う必要があったとしても、自由席で十分じゃないですか。新大阪行きですよ。混んでいるなんてことはまずないし、万一混んでいても15分です。立っていてもたいして疲れない時間です。駅員がこんなきっぷを売ったとは思えません。新幹線の指定席は、EACDBという売り方をするはずです。こんなガラガラの列車で、E席に客がいるのがわかっていて、D席を売ることはないはずです。この人は、自分でこの席を選択したとしか考えられないです。しかし、自分で選択する場合も隣が空いているかどうかはわかるはずです。なぜ誰かが隣に座っていることがわかっているD席を選んだのでしょうか?誰か納得の行く説明をお願いします。

558号(2015.9.3)門限設定には反対だが……

 私は、これまで「女子大生に門限なんか設定すべきではない」という主張をよくしてきましたが、それは無駄な夜遊びでも無断外泊でも自由にしていいという意味ではありません。たまにはあるであろう遅くなってしまう帰宅や外泊もきちんと親に連絡をして納得してもらうこと、危険なところには行かない賢さを持つことが前提です。大学生ともなれば、そのくらいのことはちゃんとできるはずだし、できるようにならなければいけないという思いからの主張です。

 なぜこんなことを改めて書こうかと思ったかと言うと、例の寝屋川の中1殺害事件がすっきりしないからです。もちろん殺された子どもたちは可哀想ですが、なぜ中1の子どもたちが家に帰らずぶらぶらしていられるのか、親はそれを認めているのだろうか、と思うと、この事件は単なる不幸な事件とは考えられなくなります。昨日のNHKのクローズアップ現代でも、「LINEで連絡が取れるので、子どもの帰りが少しくらい深夜になっても安心できる」といった発言をしている中学生の子をもつ母親がいましたが、おかしいと思います。深夜12時くらいに帰ってきたその子は、友達7人と公演でなんとなく喋っていただけと言っていましたが、そんな理由で中学生が深夜遅くまで帰って来ないことを、親は認めるべきではありません。話があるなら、放課後から夕飯時間までに喋ればいいのです。自宅に戻って来たって、それこそLINEでそばにいるように会話もできるのですから、無駄に夜出歩く必要はないはずです。中学生だけでなく高校生も深夜にたむろすることは認めるべきではありません。門限はなくてもいいですが、無駄な行動、納得の行かない行動には、親はちゃんとだめと言うべきです。もちろん、そのためには親の方も子どもから見て納得の行く行動をしている必要がありますが。子どもに嫌われないように甘くするだけの躾では、まともな子は育ちません。厳しすぎるのもよくないですが、甘すぎるのも同じくらいよくないものです。厳しさとおおらかさを適切に使い分けないといけません。

 適切に子どもをコントロールするためには、以下のような条件が必要です。@子どもへの愛情を持つこと、A子どもの性格と成長度をきちんと把握すること、B社会の変化を把握すること、C評価の軸がぶれないこと。@とAはみんなわかっていることでしょう。ただし、押しつけがましい過剰な愛情は逆効果になったりします。子どもの性格と成長度を的確に把握し、それに応じた愛情の示し方をしなければなりません。小さい時には喜んでくれたことでも、小学校高学年、中学生となると、うっとうしいと思われることも多いものです。的確な人間分析と、その分析に応じた対応が必要です。Bも大事です。社会の変化になんか関心のない親も多いかもしれませんが、子どもを取巻く状況がどうなっているのかを知らずに、自分が子どもの時はこうだっただけではうまく行きません。時代の変化を敏感に感じ取り、そのすべてを肯定することはありませんが、このあたりまでは認めてあげなければいけないだろうという柔軟な判断力が必要です。そして、そうした子どもと環境の変化を踏まえた上で、評価の軸がぶれないようにすることが大切です。その日その日の気分次第で、昨日はOKだったことが、今日はNGなんてことを親がしていたら、子どもは親を信頼しなくなり、親のアドバイスも聞き入れなくなります。そうなったら、親に連絡もせずに深夜徘徊、外泊なんてことも簡単に生じてしまうでしょう。

 こうやって書き出すと難しいように思いますが、実際はそれほどでもないと思います。しかし、人を見る目や社会を見る目、自らの感情と時間をコントロールする力などは、親たるものには必要です。親は「大人」たらんと、日々努力をしてほしいものです。

557号(2015.9.1)東京オリンピック新エンブレムの決め方に関する提案

 ようやく疑惑の佐野というデザイナーが作ったエンブレムの使用中止を組織委員会が決めました。ということは、公式エンブレムなしというわけにはいかないでしょうから、新たにもう一度エンブレムを決めるのでしょう。時間もないので、公募しないのかもしれませんが、今回の決定経緯を知ると、非公開の組織委員会で誰かに白羽の矢を立てるというやり方では、国民は納得しないでしょう。やはり公募することが必要だと思います。また公募した際にも、デザインを決めたはずなのに似たものがあったからといって決定取り消しにせず2度も修正をさせ最終版を作らせた今回の専門家たち審査委員会に任せるというのも、もうみんな納得できないのではないでしょうか。では、どういう方式にしたらいいのでしょうか。私なりに国民が納得できそうなエンブレム決定方式について考えてみました。

(1)エンブレムのデザインは完全公募にすること。エンブレムのようなシンプルなデザインはそれを創ることを専門にしていない人でも十分アイデアは出ると思います。変に有名なデザイナーから起用しようとするより完全公募の方が新鮮なアイデアが出てくると思います。ただし、無料で応募できるとなったら、何万、何十万というデザインの応募がなされ、決めることが困難になるでしょう。そこで、応募にあたっては応募料10万円を払うこと、11件の応募しかできないことにします。10万円はかなりの額ですから、本気の人以外は応募しなくなると思いますので、これで妥当な応募数になると予想されます。

(2)応募されたエンブレムに関する第1次審査をインターネットで行います。2週間ほどの間にネット投票をしてもらうことにします。たくさんのネット利用者たちの目にエンブレム案をさらすことで、似たものが他にないかどうかを徹底的なチェックがなされるでしょう。数人の専門家が必死で類似デザインを探すより、何万倍、何千万倍の厳しいチェックになります。佐野エンブレム問題もネット上で次々問題が指摘されてきたわけですから、今の時代はこのチェックを入れた方が絶対にいいと思います。ネット投票も無料では、遊びでいい加減に投票する人もたくさんいるでしょうから、1票投票するには、投票料1000円を払うことにします。AKBの総選挙でも上位のメンバーは10何万票も入るわけですから、エンブレムの投票もその程度、あるいはもっと票が入るかもしれません。

(3)インターネット投票で1位になったものをそのまま正式採用するということであれば、どこかの財力のある大手デザイン事務所が大企業などを巻き込んで大量投票をして1位を獲得するなんてことも起きなくはないでしょうから、インターネット投票で3位以内に入ったものから、最後は組織委員会の責任で選ぶことにします。類似作品のチェックはインターネットにさらすことでかなりチェックできているでしょうし、上位3位以内ものから選ぶということにしておけば、インターネット投票の比重もそれなりに重いという位置づけになりますので、密室審査ですべてが決まってしまうというイメージはなくなるでしょう。なお、最後に組織委員会が作るであろう審査委員会は、デザインの専門家ではなく、このエンブレムの使用料を多額に払う各企業・団体の代表者で構成したらいいと思います。いくらくらいが使用料なのかわかりませんが、100万円1票として、たとえば1億円払う企業なら100票を投票する権利を持っているという方式で最後の審査委員会の投票をやればいいと思います。自分たちが多額のお金を払って使用するエンブレムなのですから、自分たちが使いたくなるエンブレムを選びたいという希望を持ってもいいはずです。

 以上の方式を取ると、かなりの金額が組織委員会に入るはずです。これを新国立競技場の建設費を含めたオリンピックのための資金として使えば、資金不足の多少の解消に寄与するでしょう。どうですか、なかなかのアイデアではないですか?組織委員会にメールか何かで教えてあげようかな。

556号(2015.8.25)開放的な神社、閉鎖的な寺院

昔から、夏の終わりの夕方の神社が好きです。うるさかった蝉の鳴き声もおさまってきたちょうど今くらいの時期です。一番暑い時期は過ぎ、昼間は多少暑くても夕方以降はずいぶん涼しくなってきたこの時期に、緑の多い古い神社でふと空を見上げると、うろこ雲のような秋空を思わせる雲が出ていて、そこに涼しい風が吹いて来る、そんな時「ああ、日本っていいなあ」と思います。神社は自然に対する恐れと感謝から生まれているものが多いので、日本の自然の良さがわかりやすく感じられるところが多いように思います。そして、もうひとつ神社を好きな理由は開放的だからです。1000年以上前からあるような立派な神社であっても、門も壁もなく、拝観料も取られることもなく、鳥居をくぐり、拝殿へと進んでいけます。樹齢何百年の大木が都会のど真ん中でも静けさを与えてくれます。神社の由緒や祀られている神様の名を知ったりしながら、歴史的想像力を馳せることができます。古い神社であれば、ほぼ必ず歴史がからんでいますので非常に興味深いです。こういう貴重な歴史的遺産を自由に見られる神社にたたずむと、われわれは日本人の信仰の原点を思い起こすことができます。

他方で、寺院は閉鎖的です。たいした歴史的意義もないような小さな寺院ですら、門と壁をがっちり作り、関係者以外の侵入を拒否しています。田舎の名のない寺院なら昼間は門を開けているところもありますが、夕方以降は閉めてしまうところが多いと思います。ちょっと名のある寺院なら境内だけでも散歩したいと思っても、確実にお金を取られます。駐車場も、神社の場合は参拝者用に無料の駐車場があるところが多いですが、寺院では無料の駐車場はまずないです。本当にがめつく閉鎖的です。

神仏習合し日本人の信仰の核をなしてきた2つの宗教で、なんでこんな違いが生れてしまったのでしょうか。たぶん、それは徳川幕府の政策によるものだろうと思います。島原の乱以降、宗門人別改という形で、すべての人間をどこかの寺院に所属させ、それを戸籍代わりに使うということをしたために、この江戸時代を通して、寺院は官僚制機構の末端の役割を果し、本来の信仰の場としての意義を薄れさせてきました。明治になって寺院に頼らない戸籍が整った後も、江戸時代に確立した葬式と墓と法事で寺院の経営が成り立ってしまったため、人々の悩みや苦しみに寄り添う宗教本来の機能は取り戻さずに来てしまったのです。幕末や第2次世界大戦後という大混乱期に新興宗教が次々に生まれてきたのも、寺院が人々の心を救うという宗教本来の役割を果し得なかったことの証左でしょう。今や寺院は、死をめぐるビジネスを扱う事業所(有名寺院なら観光ビジネスを行う事業所)に化していると言っても過言ではないような気がします。

寺院と仏教に関しては、私はもともと見方が厳しいのですが(第67号 徳のあるお坊さんに会いたい(2001.10.14)、第172号 いつか消える戒名と法事(2005.8.31)参照)、今回こういうエッセイを書こうと思ったのは、西宮の西宮神社と廣田神社という2つの立派な神社で非常に心地よい時を過ごした翌日に、大阪の天満宮近くの寺町通りというところをわざわざ歩きに行ったら、すべての寺院が見事なほど門を閉ざしていて、あまりにひどいと思ったからです。緒方洪庵の墓があるお寺があるということで行ってみたのですが、当然その寺院も閉まっていました。そんなに一般の人に向けて門を開くのが嫌なのかと腹が立ったのが、この文章を書く動機づけエネルギーとなっています。都会の寺院の中には、敷地をマンション業者に売りとばしてしまったところもあり、近松門左衛門の墓なんかは、マンションの一角の哀れな所に残っています。信仰より、歴史より、お金か!とツッコミたくなります。

葬式も墓も法事もみんなどんどん寺院に頼らなくってきています。今のままでは、観光ビジネスで儲けられない仏教と寺院が日本社会において不要になる日もいつか来るのではないかと思います。寺院は門を開き、誰でも相談ができるような場になるべきです。昔はそういう役割を果していた時もあったはずです。神社は今でも人々が願いを叶えてほしいと足を運びます。キリスト教の教会でも自由に入って神に祈ることができるところの方が多いです。江戸時代に官僚組織化した寺院がその性格を根本的に変えず今のままなら、人々の期待に応えることはできず、消えて行く運命にあるのではないかと思います。

【追記:2015.8.28】いいお寺もありました。「野崎観音」として有名な大東市の慈眼寺は拝観料など一切取らずに、まったくオープンで素晴らしいお寺でした。ホームページを見たら、住持の方の言葉で「お寺は人が集まる場所でないとあかん」という言葉が最初に出てきます。そうです。その通りです。久しぶりにそういう心持ちの寺院を見つけて嬉しくなりました。慈眼寺は寺院のあるべき姿を示している立派なお寺です。みなさん、行ってみましょう。

555号(2015.8,14)38年前の就活?

 夏休みになるたびに古い記録を引張り出してきて整理しているのですが、先ほど大学4年生の時の手帳を見ていたら、自分でメモをした当時の求人票の情報が見つかりました。大学院に行こうと思っていたので、就職活動は全然しなかったのですが、多少悩んでいたのかもしれません。確かに、就職課に求人票を見に行った覚えはあるのですが、こんなにメモをしていたんだと自分のことながら興味深く思いました。メモをしているのは、出版社とテレビ局だけでした。そう言えば、もしも現役で大学院に受からなかったら、翌年は大学院1本ではなく、就職活動もしないといけないので、その時はテレビ局あたりに行けたらいいなと思っていたことを思い出しました。翌年の参考としてメモしたのかもしれません。この時は出版社を中心に詳しいメモを書いています。38年前の求人状況がどんな感じだったか興味があると思いますので、ちょっと紹介してみます。

会社名

初任給

履歴書

成績証明書

その他提出書類

書類提出締切

試験日

面接

平凡社

135,000

1011

113

岩波書店

165,000

感想文

1014

116

 

学研

141,500

自己紹介書

1020

 

講談社

130,000

作文

1021

1113

 

新潮社

115,000

1025

115

 

文芸春秋

135,000

1028

116

1110日、15

光文社

127,840

家庭状況書、感想文「私の読書歴」

112

1113

 いかがでしょうか?「家庭状況書」とか「私の読書遍歴」なんて、名前を聞くだけで今では完全にアウトだろうなと思うものもありますが、やはりそれ以上に選考期間の短さが印象に残るでしょうね。書類提出の締切が4年生の10月半ば過ぎで、筆記試験がその1週間から3週間後くらいに行われ、面接まで行うというところは3社しかありません。実際に私は就活をしていないので、本当に面接がなかったのか、試験日という日に面接も行ったのかは定かではありません。たぶん一度くらいは面接もしていたのだろうとは思います。それにしても、今の長い就活期間から考えると雲泥の差ですよね。こんな短期間で決められていたのがなんで1年近くもかかるようになってしまったのでしょうね?もしかすると、この頃は大学別に求人票を出していたのかもしれません。この手の大手出版社は、名門大学と呼ばれるところだけに求人票を出すことによって、この程度の期間で選考できたのかもしれません。今は、大学を限定して求人票を出すことは公には許されていないはずなので、どうしても応募者が多数になり選考には時間がかかるということなのかもしれません。

 気になったので、少し調べてみました。1997年に正式に廃止された就職協定は、1952年に文部省通達として開始されています。この頃は、売り手市場で人手不足だったために大学生の勉強の妨げにならないように、4年生の101日以降でないと大学は推薦をしてはいけない、選考試験は4年生の1月以降(1953年から1015日以降に、1957年から1010日以降に変更)とすることにしたものです。しかし、好景気がさらに進んでいく中で、優秀な人材を早く確保したい企業側はどんどん内定を出すのを早め、1960年頃までには大学4年生の5月頃までに内定を出す「青田買い」が問題になり、さらに1960年代前半には大学3年生の23月に内定を出す「早苗買い」といった言葉まで生まれたようです。1960年代後半から70年代初めまでは、3年生の12月に会社訪問開始、4年生の5月に選考開始という、2000年代と同じような就活スケジュールになっていたようです。

 この傾向にいったんストップがかかったのが1973年秋の第1次オイルショックです。高度経済成長時代が終わり、翌年の1974年には経済成長率はマイナスになります。企業も早めに内定を出し過ぎてその後経済状況が変り、採用取り消しや自宅待機などをしなければならなくなった経験を経て、1975年に、労働省が企業と大学側に働きかけて、会社訪問の開始は4年生の91日、選考開始は111日に期日が決められ、翌1976年には、会社訪問の開始時期がさらに1ヶ月遅らされ101日からとなり、これが形式上1985年まで維持されました。私のメモに基づく上記の表は、1978年の求人募集状況ですので、まさに1976年の決定が生きていた頃のものということになります。大学別に求人情報を出していたかどうかはまだ調べられていないのですが、選考期日の短さは、とりあえず当時の基準を厳守した形になっているようです。

 ちなみに、就職協定のその後ですが、オイルショックから立ち直るに従い、再び人材確保のための内定の早期化は進んでいきました。労働省は協定破りの多さに閉口し1982年に就職協定から撤退し、その後異様な好景気だったバブル経済がやってきて、就職協定も新就職協定として毎年のように早まっていきます(1986年:会社訪問820日→選考開始111日、1987年:会社説明会820日→会社訪問95日→内定開始1015日、1989年:会社訪問・説明会820日→内定開始101日)。しかし、この協定もまったく守られず優秀な人材を確保したい企業は、公式の内定解禁日に事前に内々定を出した学生を海外旅行などに連れて行き、他の企業に行かせないといったことまでするほどでした。内定と内々定という言葉が確立してくるのもこの頃です。もともと選考の結果として翌年の41日から正社員になることが決まるのが内定だったわけですが、その内定を正式には101日以降にしか出してはいけないとなっていたために、早めの選考の結果を内々定とし、101日には内定式なるものをやって内々定者を正式に内定者にするという奇妙な慣習が確立してきたわけです。バブルがはじけて就職氷河期に入ってからは、今度はなんとか安定した企業に就職を決めたいという大学生たちの必死さが就職活動を早める傾向をさらに加速化させていき、ついに現実に押される形で、1997年に就職協定は廃止されるわけです。

 就職協定に代わって、1998年に日経連が定めた倫理憲章では、面接など実質的な選考活動は卒業年次に達しない学生に対しては慎むこととされましたが、説明会や会社訪問などはその範疇外という判断からどんどん早まり、3年生の101日からというところまで早まっていたわけです。しかし、これではあまりに早すぎて大学生たちが浮足立ち勉学に身を入れないということで、2013年卒業学年から、説明会等の開始が121日からに後倒しになり、さらに2016年卒業生からは説明会等が31日開始、選考は81日開始となったわけです。しかし、今年から始まったこの新スケジュールはまったく企業、学生の要望に合うものではなく、実際には81日以前に経団連加盟企業からも水面下で内定を得る学生が多数出ているのが現状です。このスケジュールが有名無実なものになることは、これまでの就活の歴史を見てくればわかるとおり100%確実です。

 どの時期に就職活動を行うのが一番よいのかはなかなか難しいところですが、これまで大学生を観察してきた私から見ると、3年生の春休みにエントリーシート提出のピークが来て、4年生の4月に入ったら内定がどんどん出始めて5月末までには多くの人が内定をもらえて、夏休み前までにはほぼ就活が終了するというスケジュールがよかった気がします。たぶん、今のスケジュールを守るように厳しい規制をかけなければ、いずれそのスケジュールに戻っていくのではないかと思います。

 38年前の短いメモから大分広がりましたが、調べてみてなかなかおもしろかったです。後は、大学別求人がいつ頃までどのように行われていたかどうかがまだ発見できていないので、いずれまた調べてみたいと思います。

【追記:2015.8.18】その後調べてみると、やはりオイルショックの後、この時期は指定校制度が復活気味だったようです。今でも、企業は、内々では「学歴フィルター」を利用して学生を振るい分けを行っているようですが、求人難になるバブル前の時期には大学ごとにかなりはっきりと求人が異なっていたようです。もともと大学推薦で就職していくのが当たり前だった時代もあるので、大学に対して求人することは問題ないと考えられていたようです。なお、大学別だけでなく、学部別にも求人は行われていたようで、文学部などは、同じ大学の中でも法学部や経済学部に比べて、求人は確実に少なかったようです。

 ちなみに、この1970年代の後半の就活事情はどんな感じだったかと言えば、101日の会社訪問の解禁日に大学4年生が人気企業のビルを取り囲むほどに列をなし、12日でふるいにかけ、3日には的を絞った学生を呼び出し面接を行い、4日からは内定(内々定)を出し始め、8日あたりが内定ラッシュで、111日の選考開始時には9割くらいの学生はすでに内定をもって形式的に試験に臨むというような感じだったようです。

554号(2015.8.4)ナイツの漫才

 お笑いに造詣が深いわけではないのですが、ある種の流行でもあるので、これまでもどんなものが流行っているのかチェックは入れてきました。寄席に行くほどのファンではないので、テレビで見られるものが中心になってしまいますが、各時代の大衆に求められる笑いがどういうものであるかは、テレビのお笑い番組のチェックでもおおよそつかめると思います。お笑いにも長い歴史とジャンルがあり、私のもつわずかな知識でも書きはじめたら相当に長くなってしまいそうなので、最近の話に限らせてもらいます。もう終って何年も経ちますが、やはり「M1グランプリ」の存在は大きかったと思います。あの番組で、名前が売れて活躍しているコンビはたくさんいます。優勝するしないにかかわらず、決勝戦に残ってインパクトを残すことで、その後の売れ方が決まったように思います。そんなにまめにお笑い番組をチェックしているわけではない私にとっても、あの番組は新たなコンビを発見する場になっていました。アンタッチャブル、南海キャンディーズ、サンドイッチマン、スリムクラブなどをあの番組で初めて見た時のインパクトは強かったです。

同じく、あの番組で初めて知ったのがナイツでした。強烈なと言うには地味な印象の漫才ですが、「オヤジギャグ」と似たような言葉遊びのセンスの良さと聞き易さから、すぐに気に入りました。その後もお笑い番組でナイツが出る時は結構チャンネルを合わせていました。そして、何年か前にたまたま見ていたテレビで、ナイツの最高のネタとも言われる「野球ネタ」を聞き、「すごい!」と感動しました。お笑いで感動するとかおかしく思われるかもしれませんが、それはちょうど大どんでん返しのある推理小説を読んだ時の感じに似ていました。推理小説で「必ずもう一度読み返したくなる」という売り文句のものがありますが、ナイツのこの野球ネタも「もう一度聞きたくなる漫才」というキャッチフレーズを与えるに値するものです。実際、私はこの漫才をもう5回くらいは聞いています。まだお聞きになったことのない人は、YOUTUBEで簡単に見つかりますので、ぜひ聞いてみてください。絶対お勧めです。

ナイツの他の漫才もなかなかいいものがありますが、最近YOUTUBEで見つけてこれはおもしろいと思ったのは、土屋1人でやる「エア漫才」と「ナイツ解散ドッキリ」です。前者は、ボケの塙でもっていると思われがちなナイツが、実は土屋のツッコミで笑えているということを確認できるもので意外なほどおもしろいです。ただし、これを楽しむために、通常のナイツの漫才を知っておく必要がありますが。後者の「ドッキリ」はいわゆるよくある「ドッキリ」を仕掛ける番組企画ですが、ナイツというコンビの絆を強く感じられるもので、笑うという以上に感動します。以上、しょうもない個人的な意見ですが、書きたかったので書いてみました。でも、ぜひナイツを見てください。お勧めです。

553号(2015.7.16)「片桐さん」は受入れられません!

 今日の授業で、春学期の通常講義は終りだったので、1回生向けの基礎社会学と、2回生以上の理論社会学で、恒例の感想を書いてもらいました。多くの学生が高評価の感想を書いてくれていて、それは嬉しかったのですが、少なくない学生が「片桐さんの授業はすごくおもしろかったです」とか「片桐さんの授業はTHE社会学という感じでした」というように、「片桐さん」と書いていました。ざっと読んだ限り、「片桐先生」と書く人が6割、「片桐さん」が4割という印象でした。評価してくれているのに、「片桐さん」と書かれると、学生に上の立場から言われているようで、好感を持てません。我々が学生の時も、学生同士で話すときは、「○○先生」と言わずに「○○さん」と呼んだりしていましたが、先生本人を前にしたら、絶対に「○○先生」と呼んでいました。文章で書くときでも、その先生が読むのがわかっていたら、絶対に「○○先生」でした。自分が教師になってからも、学生たちから「片桐さん」と言われたり、文章上でもそう書かれることはほとんどなかったのですが、最近は目立つようになってきました。そのうち、「片桐さん」と書く方が多数派になったら、こちらがそれを受け容れないと、頑固な教師のように思われてしまうのでしょうか。でも、これについては、私は抵抗し続けます。学生や教え子からは、いくつになっても「片桐先生」と呼んでもらいたいし、そう書いてもらいたいです。「片桐さん」と呼ばれるのは嫌です。もしもゼミの教え子で、そう呼びたいという人がいたら、たぶん縁を切るでしょう。そのくらい嫌いです。万一ゼミの応募書類に「片桐さんのゼミに入りたいです」なんて書く学生がいたら、どんなに書いてある内容が素晴らしくても落とすだろうと思います。おそらく、今までは一人もいなかったと思います。まあ多くの学生は、「○○さん」と書いたら、先生が気分を悪くするだろうなというのは気付いているのだろうと思います。今日のように短い時間で急いで感想を書くという状況だと、ついそこまで気が回らなかったということなのでしょう。そう理解しても受入れらえないものは入れられません。ぜひ、今後は意識して書いてください。

552号(2015.7.10)久しぶりの野球観戦

 昨日京セラドームで行われたソフトバンクvs.楽天の試合の無料チケットが、関大に大量に提供されたので、私も34回生のゼミ生たちと野球観戦に行ってきました。かつて6期生が3回生だった時に、大阪ドーム(現・京セラドーム)に近鉄戦を観に行って以来だったので、18年ぶりの野球観戦でした。今回一緒に行った現役生たちは、当時はまだ24歳だったのかと思うと、時の流れを感じます。

 さて、久しぶりに行ってみて驚いたことがいくつかあります。この日の試合は、「鷹の祭典」ということでドーム中がソフトバンクの黄色い応援用ユニフォームで埋まっていました。われわれももらったので着ていましたが、この日の観客には全員ユニフォームが配布されたようです。球場全体が黄色で染まっていて、楽天のファンは一人もいないと見えるような状況でした。選手の紹介もソフトバンクの選手に関しては、BGM付で派手に行われるのに対し、楽天の選手に関してはまったく紹介すらされていませんでした。昔は、ウグイス嬢と呼ばれる女性が、どちらのチームも公平に紹介していたような記憶があるのですが、今やホームチームとビジターチームの扱いは1000みたいになっていて、驚きました。今や、こんな感じなんですね。どちらのファンでもない私は、接戦になるのを期待していたので、負けていた楽天を心ひそかに応援していたのですが、なんかそう思うことすら許されないような雰囲気で、なんかなじめないなあと思いながら見ていました。

 また、バックスクリーンに映る映像が、ソフトバンクの応援を強いるようなものになっていて、これも苦手でした。最近のプロ野球をよく知るゼミ生に聞くと、「最近はこうやって観客を追いこむのが普通です」ということでしたので、この日が特別だったわけではないようです。まさに大衆煽動みたいなやり方で違和感が強かったです。ライト側の外野席に陣取ったコアファンたちはずっと歌やら応援やらをし続けていました。サッカーでもずっと歌いながら応援したりしていますので、これが今どきの応援風景なんでしょうね。私のようなタイプは、テレビで試合観戦するのが一番合っているようです。

 試合自体も圧倒的にソフトバンクの方が強く、とうてい楽天が追いつきそうな感じもなかったし、上記のような理由で球場になじめなかったこともあって、5回が終わったところで、球場を後にして飲みに行きました。まあでも、34回生の交流の機会にはなりましたので、その意味ではありがたかったですが。次に、私が野球場に行くことは果してあるのかどうか……。

551号(2015.6.16)本当の優しさ

 今日の3回生ゼミでちょっと感心したことがあります。文献報告に入って2週目、3人の報告者による内容紹介でしたが、そのうちの1人が内容をきちんとつかめていなくて、ぼろぼろの報告をしたため、私にかなり叱られることになりました。まあ毎年最低1回はこういうことがあるのですが、当然私が厳しく学生を叱ると、ゼミの空気が凍りつきます。3人が報告を終えて、「じゃあ、質問のある人?」と訊ねますが、こういう雰囲気になると、まず発言する学生はいません。「これ以上追い詰めたら報告者たちが可哀想だから何も言わずにおこう」というのが、今どきの若者の「空気」を読んだ「優しさ」のようですので、質問をする人がいなくてもそんなものだろうなと、私もあきらめています。

ところが、今日のゼミでは、1人が質問をしてくれたら、その後何人も質問する人が出て、報告者たちが紹介しきれず十分伝わっていなかった重要な内容を、質問に答えることで、より明確にすることができました。質問の仕方も的を射ていながら、決して報告者たちを追いこむようなものではなく、適切なものでした。学生たちにちゃんと文献の内容が伝わってきたので、私の気分も変わり、凍りついた空気もすっかりなごみました。こういう、ちゃんとよくわからないところはよくわからないと言ってあげることこそ、仲間に対する本当の優しさではないでしょうか。ゼミはこうあるべきです。誰も質問をしないで終った時は、空気が悪いまま授業が終わってしまい、翌週まで妙な空気が引き継がれてしまったこともあります。しかし、今日は違いました。後半の質疑応答で、ゼミの空気はすっかり変わりました。何も言わないことが優しさだなどと思わず、大事なことは多少耳の痛いことでも発言するというのが、本当の優しさだということにみんなが気づいてくれたらいいなと思います。

それにしても、今年の3回生は実にいいです。また図に乗らせてしまうかもしれませんが、遊びも勉強もゼミで一所懸命取り組もうと考えている人が多く、まさに「学遊究友」をしています。今後もおおいに期待しています。

550号(2015.6.12)ふざけるな、文部科学省!

 68日に文部科学省が全国86国立大学に通知した内容をご存知でしょうか?社会に必要とされる人材を育てられていない学部や大学院は廃止や分野の転換を検討すべきだという内容で、具体的には文学部や社会学部など人文社会系の学部が槍玉にあげられていました。「ふざけるな、文科省!」と叫びたい気分です。文科省に問うてみたいです。「社会に必要とされる人材」とは一体どんな人材なのか、と。医療や薬品、電気、技術に関する知識がある人?法律の知識を持っている人?簿記ができる人?そういう人だけが、社会に必要とされる人材ですか?幅広い知識も持たず社会のことがわからない、他者のことを考えられない自己中心的な人間でも、専門知識や専門的技術を身につけていれば、社会に必要とされる人材なのですか?たまには、そういう変人が、後の社会に好影響を与える何かを生み出したというようなこともあるかもしれませんが、社会がまっとうな社会として持続していくためには、特別な知識や技術はなくとも、社会の一員として必要な知識や思考力を持っている、多くの普通の人がいることの方がより大事です。

 極端なことを言わせてもらえば、専門知識は専門学校でも学べます。大学(university)はもともとそんな狭い専門知識を学ぶためだけにつくられたものではなく、「universe=宇宙、万物、全世界」を学べる場としてつくられたものです。特定の専門知識に特化して学ぶよりも、広い教養を身につけることを重視している文学部や社会学部の方が、本来の大学の機能を引き継いでいる学部です。「人はいかに生きるべきか」という問いこそ、すべての人間が持つべき問いです。この問いに自分なりに答えを持てている人こそ、社会に必要な人材だと、私は思います。ただ、この答えにたどりつくのは容易ではありません。たった1度の人生で生活に追われながら、この問いについて考えるのは簡単ではありません。しかし、大学に入学して4年間かけて、哲学し、倫理を考え、文学や思想を学び、社会を知ることによって、若者はこの問いに答えを出すための多くのヒントを得られます。こんな大事な学びをできる学部を、社会に必要な人材を育てられない学部とラベリングする、文部科学省官僚(あるいは、安倍晋三の取り巻きのような文教族議員たち)の無知さにあきれ返ってしまいます。あなたたちは、国立大学を専門学校にしたいのかと問いたいです。

国立大学には税金を投入しているから云々という話がありますが、私立大学も国からかなり補助金をもらっていて、そのため文科省の言うことには、私立大学も逆らえません。こんなアホな通知は早く撤回させないと私立大学にもすぐ余波は来るでしょうから、われわれにとっても他人事ではありません。文科省が高等教育に口を出して良かったことなどほとんどないのではないかと思います。ころころ変わる入試方式、安易な大学設置、各種の重点化政策、大学院大学化、法科大学院、等々失敗だらけです。失敗しても、誰も責任を取らない、典型的な悪しき官僚主義役所です。文科省は、義務教育(後期中等教育である高校まで含めて)だけコントロールして(それも「ゆとり教育」の強引な推進、そしてすぐにその撤回とみっともないこともしていますが)、高等教育には口を出すなと言いたいです。いい加減なことをしている大学は、市場の論理で潰れていけばいいのです。

社会学を通して社会に通用する人材をつくることを、ゼミのモットーに掲げている私としては、今回の文科省の無知蒙昧な通知は、見過ごすことはできませんし、久しぶりに心の底から憤りました。大学が何のためにあるかをまったく理解していないこの通知は即刻撤回すべきです。

549号(2015.6.8)リース契約夫婦の需要はあるのでは?

 現代社会では、レンタルやリースが隅々まで普及しているという学生の報告を聞きながら、ふと、そのうち夫婦も3年くらいのリース契約ができるようになったら、結構需要があるのではないかと思ってしまいました。そう言えば、まったく見ていなかったのですが、前クールのドラマの「〇〇妻」というのも契約夫婦の話だったなと思い、ストーリーを調べてみました。そのドラマでは、夫に言えない秘密があったために、本当は愛していてちゃんとした夫婦になりたかったのに、契約夫婦を選んだということだったようですね。私がイメージしたのは、もっとドライで合理的な選択肢としての期限付き契約夫婦です。

 現代では3組に1組が離婚する時代で、その離婚をするのは結婚するより面倒だと誰もが言います。実際、簡単に離婚ができて後腐れがないなら離婚するのもいいなと思っている夫婦は潜在的にはたくさんいるのではないかと思います。法律上夫婦ではあるけれど、「家庭内離婚」とか「家庭内別居」とかしている夫婦は、日本の場合非常に多いと思います。また、「結婚したい」という願望はほとんどの人が持っているのに、婚姻率がどんどん下がっているのは、「本当にこの人と一生をともにできるのだろうか」といった疑問を持ち始め、結婚に踏み切れなくなるということも一因ではないかと思います。

 もしも3年間という期限付きの契約夫婦(両者の合意があれば延長可、片方でも望まなければ契約は自動的に白紙に戻る)なら結婚してみてもいいかもしれないと思う人は増えるのではないでしょうか。この話を学生たちにしたところ、大多数の学生からはブーイングでした。「みんな、若いから永遠の愛とか信じているんじゃないの。そんなのないよ」と夢を壊すようなことを言ってみたりしましたが、「そこまでロマンチックでなく、子どものこととかを考えたら、そんな契約夫婦は選ばないでしょう」という主張でした。でも、それもどうなんでしょうね。「第539号 「子はかすがい」の時代は終わった?!(2015.2.25)」に書いたように、最近は子どもができたら、もう夫は要らない、実家で楽しく生きますという離婚パターンも増えていると思いますし、未婚で子どもを作って後ろ指を指されることはなく、契約ではあっても堂々と夫婦の子どもとして作れるのだったら、3年間だけの結婚生活はしてみようと思う人も多いのではないでしょうか。むしろ、こういう形の夫婦関係が普通になれば、結婚への動機づけになり、婚姻率はあがる可能性も高いのではないではないでしょうか。そして、2度目、3度目の契約結婚も当然増えるでしょうから、意外に出生率も上がるということも起きそうな気がします。3年経って契約解消する時は、「離婚」ではなく「解婚」と呼ぶ方がいいでしょうね。「バツ1」「バツ2」ではなく、3年の結婚生活をきちんと勤め上げたという意味で、「マル1」「マル2」と呼ぶとイメージが変わるのではないかと思います。

 現在の婚姻届には期限を書き入れるところはありませんが、婚姻届に印鑑を押す際に、別途作成した「期限付き婚姻契約書」と離婚届(どちらかが別れたくないとごねても提出できるように2通作成して各自保管するのがよいでしょう)にも2人で印鑑を押せば、それなりに法的意味は持つと思いますので、今の民法の下でもこうした仕組みを実質的に取り入れることはできそうな気がします。ただし、最初は抵抗が強いでしょうね。キリスト教式の結婚式では、神の前で永遠の愛を誓ったりしていますからね。でも現実には「永遠の愛」を貫けるカップルは統計的誤差以下しかいないでしょう。別に、以上の分析から期限付きリース契約夫婦制度は素晴らしい制度だと言うつもりはありませんし、実際には広まることもないでしょうが、現代日本のような男女ともに草食化した社会が今後も存続していくためには、劇薬ですが効果は出そうな制度だとは思います。惚れっぽくって、結婚に夢が見られて、困難があっても2人で乗り切って行けると思うタイプには現在の婚姻制度だけで十分でしょうが、なかなか恋もできなくて、結婚には不安ばかり浮かんできて、何かあったらもう無理と思ってしまいそうな人たちにとっては、あったらありがたい制度になるではないかという気がするのですが、いかがでしょうか?

548号(2015.6.7)探検隊の隊長

 この数年、卒論の指導をしながらよく思っている事は、社会学の卒論指導をする教師は、地図を持たない洞窟探検隊の隊長のようなものだなあということです。地図はないので、ゴールまでどう行ったらいいかが最初からわかっているわけではありません。ただ、長年の経験と知識から、学生たちが探してきた洞窟(卒論テーマ)がまず入ってみる(取り組んでみる)価値のあるものかどうかに関して、可能性が高そうかどうかは語れます。まっすぐ先に光が見えているような洞窟は確実に出られるけれど探検としてはまったく面白くないので入ることを勧めません。とりあえず奥がどうなっているか見えていないけれど、なんか面白そうな入口になっていたら、とりあえず入ってみようと勧めます。でも、学生たちはすぐにどう行ったらいいか悩んで「どっちに行ったらいいですか?」と聞いてきます。しかし、隊長(社会学教師)も地図は持っていないので、「こっちに行けば絶対大丈夫」とはアドバイスできません。とりあえず、学生自身が手探りで、「こっちは行けそうな感じなのですが……」と道を見つけてきてくれたら、「なるほど、ここは行けそうだね。行ってみようか」といったアドバイスをします。中には、行き止まりに当ってしまって、それ以上進めなくなり戻らざるをえなくなる場合もありますが、怖がらずに進んでいれば、結構どこかに道はつながっていたりするものです。多くの学生は先が見えないと不安がり、すぐに戻りたがります。そんな時に、長年の経験と知識から、「いや、この道で行けるはずだから、前に進み続けなさい」と叱咤激励して、最後にはちゃんとゴールにたどり着けたというケースの方が多いです。そうやってゴールにたどり着けたときの、隊長(教師)と隊員(学生)の満足感はとても高くなります。

すべての学生にそんな思いを持たせてあげたいですが、なかなかそうも行きません。でも、この洞窟探検は面白そうでチャンレンジしたいという気持ちにはぜひなってほしいのです。「洞窟探検なんかしたくもありません」という人は、社会学に向いていません。社会学は、レールが敷いてあるトンネルをトロッコに乗って抜けるような学問ではないのです。社会という複雑な洞窟がどんな風になっているのか、どこから入ったらどこに出るのか、そんなことを面白いと思う人に向いた学問です。社会という洞窟は必ずどこかに抜ける道があります。入り込んだら最後抜けられないなんてことは決してありません。とりあえず出口が見えない複雑そうな洞窟に入り込むのは、ワクワクするほど楽しそうだと思えると学生が増えてくれたら、探検隊の隊長も一緒におおいに楽しめるものです。確かに入口近くにいる時は、みんな不安だらけでしょうが、とりあえず怖がらずに入ってみてあきらめずにゴールまでたどり着こうと努力を続けたら、きっと満足感が持てますので、ぜひ頑張って探検してみてください。

547号(2015.6.5)悪女の社会学

 悪女をテーマに研究してみたらおもしろいのではと女子学生に勧めていたのですが、本人が気乗りがしないというので、私が代りに軽く分析してみます。

まずどういう人が「悪女」として名前があがってくるのだろうとネットを中心にいろいろ探してみたところ、歴史上の人物としては、称徳天皇、藤原薬子、北條政子、日野富子、淀君、春日局といった人たちがあがってきました。この女性たちは、本人が政治的権力を持っていたか、政治的権力を持っている人を動かす立場にあった人たちです。女性が権力を意のままにしたというイメージが流布すると「悪女」イメージをもたれるようですね。ただ、「悪女」というより「女傑」といった方がいい人も多く、要は権力を握ってきた男たちにとって、生意気な女性と言うだけで、本来は「悪女」というのはぴったりではないかもしれません。

 次に、近世から現代で事件を起こした女性では、八百屋お七、阿部定、伊藤素子(銀行オンライン詐欺事件)といった人たちがあげられます。彼女たちは、男を愛し、その愛ゆえに事件を起こした女性たちです。事件が露見した当初は強く非難されましたが、しばらく経つと、むしろ彼女たちは被害者でもあるのではないかという空気になり、同情されました。男性に尽し、その結果事件を起こしてしまうというパターンだと、どうやら悪女イメージにははまらないようです。

 最近では、木嶋佳苗、角田美代子、小保方晴子、矢口真理、名古屋大学女子学生、筧千佐子などの名前があがってきました。矢口真理なんて取り上げるほどのことではないとは思うのですが、夫に隠れて愛人を自宅に連れ込んでいたというのは、「悪い女」イメージにはなるのでしょうね。いわゆる「小悪魔」と言われる若い女性たちも、複数の男性を弄んでいるイメージがあるゆえに、「小悪魔」と言われるのでしょう。複数の男を手玉に取るというイメージは、「悪い女」のイメージの核をなすのでしょう。木嶋佳苗や筧千佐子がもっとも「悪女」のイメージが強いのは、ただ単に自己利益のために殺人を犯したというだけでなく、それを複数の男に対してなしたというところも大きいのでしょう。

 小保方晴子は悪女イメージはないかもしれませんが、その後の社会的影響ということで言えば、もっとも悪しきことをなした女性と言えるかもしれません。悪女イメージがないのは、男性を騙したというイメージがそれほどないからでしょうか。(自殺した笹井芳樹氏との関係などが実際にはどうだったのかはよく知りませんが。)

 角田美代子と名古屋大学の女子学生は、悪女と言うより、異常な女性というイメージの方が強いでしょうね。社会学的にもあまり説明のできない特殊心理の人間が起こした事件という気がします。

 こうやって見てくると、自己利益のために複数の男性を手玉に取る(場合によっては殺してしまう)、あるいは男よりも権力を持つ女性が「悪女」と呼ばれるようです。男が同じことをしても「悪人」とは呼ばれないので、「悪女」は男社会の論理でラベリングされているものと言えそうです。強いて男女ともに「悪」のラベルが同じように貼られるパターンを探すと、「騙す」人というところでしょうか。人を騙す人間は「悪い人間」と言われるのだろうと思います。

546号(2015.6.1)安易すぎる

 私のゼミは、卒論のテーマを自分で決めることを求めています。社会学を学ぶものにとって、この複雑な現代社会を見通す重要なテーマを自分で見つける能力を身につけてほしいからです。3年生の12月に、最初の卒論構想を出させ、それにコメントをして、よく練られているものや社会学的な可能性を感じるものはそのまま研究を進めさせますが、安易な構想だったり、社会学的に展開が難しそうだと思ったものはもう一度考え直させます。とりあえず、1月の授業が終わるまでには全員の卒論テーマを一応固めます。そして、4年生の最初のゼミで春休みレポートを提出させ、それに基づいて春学期の発表をしていってもらいます。

 しかし、一応テーマを決めたはずなのに揺れ動いて「テーマを変えたい」という学生もしばしば現れます。せっかく、こちらも一所懸命相談に乗って考えてあげたのに、本格的に調べもしないうちに変更したいというのは認めたくないので、なるべくテーマを変えずにやってみるように奨めます。それで考え直してくれる人も多少いますが、「あまりおもしろくなりそうもないので」とか「参考文献も少ないので」とか言ってなんとか変えてしまおうとする学生の方が多いです。まあでも、どうしても変えたいと主張するのであれば、最後は私の方が折れます。ただし、こういう形で変更して、「なるほど、変えてよかったね」と言うことは滅多にありません。ほとんどが、最近ちょっと興味を持った程度のことを箇条書きのように並べてきて、「先生、どうしたらいいでしょうか?」などと甘えてきます。正直、そんないい加減なことしか考えられないんだったら、どうしてテーマを変えたいなどと言うのだろうと思うものがほとんどです。それでも仕方がないので相談につきあいますが、そこでなんとかこうしたら社会学の卒論になるだろうと、改めてアドバイスをすると、「そんなに広げるなら、ちょっと興味範囲からはずれるので、やっぱりもともとのテーマの方に戻します」なんて言う学生が出ると、さすがに腹が立ちます。

 最近の学生たちは、視野や興味範囲、受容能力が狭く、小さくなっていて、すぐに「それは興味がありません」とか「調べていると暗い気持ちになるのでやりたくないです」とか言い出す始末です。卒論を舐めきっています。クリームパフェでも食べるような感じで、甘く楽しく卒論を書きたいとでも思っているのかいと問いたくなります。卒論は大学生活の集大成です。しんどい思いをしても、このテーマに関しては、本気で調べてやりきったという気持ちを持ってほしいのです。卒論を安易に考え、安易に書こうと思わないでほしいものです。片桐ゼミはそんなゼミではありません。

 流行やイベントや外見的なことばかりに関心を持たず、もっと骨太なテーマに関心をもつ人が出てきてほしいものです。歴史的環境をゼミテーマにしているので、そういうことにもっと関心をもってほしいものです。地味なことには意欲が湧かないなんて言っていたら、仕事もできません。研究することのおもしろさに気づかないまま卒業させたくありません。苦しい時期を乗りこえて、研究することの楽しさに気づき卒論を書き上げてほしいです。楽してもらった単位では成長できません。負荷をかけてこそ人は伸びるのです。厳しいかもしれませんが、学生のためと思うことはやり抜きます。でなければ、教師をやっている意味もありません。甘く優しいだけの教師になんかなるつもりはありません。本気でテーマを見つけて努力する気もないなら、学説史研究でもやってください。デュルケームでもウェーバーでも徹底して読んで、彼らの社会学を理解してください。理論社会学の担当者ですから、そんなテーマでも一向に構いません。自分で選んだおもしろそうなテーマでやりたいなら、覚悟を決めて、甘っちょろいことを言わずに、本気でやれと、声を大にして言っておきます。大学は学ぶ場です。

545号(2015.5.18)大阪都問題決着に思うこと

 ほんのわずかな差で「反対」が多数を占め大阪市は維持されることになりました。私は反対の立場だったので、結果には満足ですが、この接戦を作りだしたのは、若い年代の賛成派の多さだったと思います。なぜ若い人たちは賛成するのかを知りたくて、今日の4回生ゼミで意見を聞いてみました。まずもしも自分が大阪市民だったらという前提で賛否を問うたところ、賛成8、反対4で、やはり賛成派の方が多かったです。賛成派の学生たちの賛成の理由は、「橋下さんが負けたら政治家をやめると言っていたので、それは残念かなと思うので」「二重行政などの問題点を明らかにしてくれたから」「なんか変るかなあという漠然たる期待感」などといった声が聞かれました。基本的に、橋下徹というはっきりものを言う人物への期待感と現状維持への不満が、若い人たちの賛成の主たる理由と言ってよさそうでした。

 現状への不満というのは、いつの時代も若い世代は持ちやすいものです。なぜなら、その現状を作ってきたのは自分たちではないからです。しかし、昔の若い人はそれを自分たち自身で変えようとしたものですが、最近は強い(強そうに見える)リーダーに託してしまおうという考え方になっているように思います。小泉総理以来そういう空気は強まっています。小泉総理の誕生は2001年ですから、30歳代半ば以降の人たちは、しっかりした政治と言えば、こういう強いリーダーがいる時だけで、強いリーダーがいないと政治は不安定になるものという歴史しか知らないのではないかと思います。大阪都構想の中身もよくつかまないまま、なんとなく変えてくれそうという「ふわっとした民意」は、今回は賛成派に大きく流れた気がします。しかし、今回はその「ふわっとした民意」よりも「大阪市がなくなるのは嫌だ」という声がほんの少し上回ったということでしょう。

 奇妙なことを言うようですが、今回のこの結果を一番喜んでいるのは、実は橋下徹ではないかと、私は思っています。「大阪都構想」を打ち上げ、その実現こそ、政治家・橋下徹のすべてという感じでやってきたわけですが、実は彼自身も、この後本当に大阪都になれるのかどうか、なったとしてもバラ色の未来が本当に来るのかどうか確信なんか持てていなかったと思います。そして大阪都になれず「大阪府東区」とか「大阪府南区」などというアイデンティティがまったく持てないような自治体名称に留まってしまったり、都になれたとしてもマイナスの方が多く出てきてしまった場合、誰がこんな悪しき改革をしたのかと恨まれ続けることになる可能性もあったわけです。今回負けたことによって、自分が打ち出した改革の結果責任を取る必要はなくなり、今後大阪市がじり貧になった時にも「ああ、あの時、橋下さんの案が通っていたらなあ」と、実現しなかったがゆえに、バラ色だったかもしれない夢を見せてくれた男としての大阪の歴史に名を刻むことができるのです。

また、もしも今回賛成が上回っていたら、橋下氏は市長をやめることはできなかったでしょう。大阪都が実現するまでは最低でもあと1期、場合によっては2期くらい市長を続けなければならなかったはずです。そしてそれは橋下氏と橋下氏の家族にとってはつらい日々がまだまだ続くことになったはずです。それゆえ、結果が出た後の、負けたとは思えないほどの、橋下氏のさわやかな笑顔は、作り笑いではなく、本当の心からの笑顔だと、私は思っています。いい加減、政治家などという叩かれやすくかつ儲からない仕事はやめて、儲かるタレント弁護士に戻りたいと本気で思っていたと思います。しかし、やめ方は難しいものです。途中で投げ出したと非難されずにやめるためには、自分のもっとも重視した政策が有権者から「NO」と言われたというのは、実によい辞任理由になります。それも惨敗ではなく僅差の敗北ですから、惜しまれながらの辞任となり、次に市長になる人は、この結果を(つまり橋下氏の存在を)常に意識しなければならないわけです。橋下氏が「最高の辞め方をさせてもらえる」といったのは、まさに本音でしょう。しかし、彼に花道を作るために、何億もの選挙費用が飛んで行ったことは忘れるべきではないです。

大阪は、というかどこの自治体も常に悪しき部分を切り取り、新しい血を入れていく改革をする必要があるのは当たり前のことです。通常は、そのために器自体を分割してしまうなどという発想は取らず、その器の中で変革を考えるわけです。また、最初から敵を作って「敵との闘い」という劇場型パフォーマンスをしなくてもいいのではないかと思います。確かに、改革を進めると既存の仕組みで得をしていた人たちの利益を侵害することになりますので、そういう人たちが敵対してくる事はあるでしょう。しかし、「最初から敵と決めつけて叩いて、それをエネルギーに改革を進めようとすること」と「改革を進めていくプロセスで敵ができ、その勢力と闘わざるをえなくなること」は、かなり違う改革の仕方です。私は、後者のような形で敵と対峙することになるのはやむを得ないし、そこで逃げるべきではないと思いますが、最初からすべて敵と決めつけて切り捨てていくことには疑問があります。

橋下氏の場合、教師や教育委員会、労働組合、補助金を受ける外郭団体など、全部切り捨てて行こうとしましたが、やりすぎだと思うことの方が多かったです。確かに、安定した立場に甘んじて努力を怠っている教師は批判されてしかるべきですし、時代に合わない不要な団体に貴重な税金を補助金として渡すことはないと思いますが、橋下氏が言う様に、「一回、すべての税金をもらっている団体を全部潰してしまいましょう!」なんてことは、「ミソもクソも一緒にしてしまう」あまりにも粗い(荒い?)政策で支持できません。丁寧に見ていき、ちゃんとだめな団体を見出して、そこは補助対象からはずすとすべきなのです。次に、市長になる人には、大胆さと丁寧さを併せ持つ、あるいは対決を怖れずにかつ合意を重視する、そんな人になってもらいたいものです。

544号(2015.5.16)えと

 ついに60歳、還暦を迎えてしまいました。10の位が変る時はいつもいろいろ感慨に耽ってきましたが、60歳は違和感が強いです。50歳代ならまだ中年のイメージの方が強いですが、60歳代となると老年のイメージの方が強いせいだと思います。まだまだ老け込むつもりはないので、世間の評価は気にせずに、新60歳代を楽しんでいきたいと思います。

 ところで、そもそも還暦ってなんだろう、言葉だけよく知っているけれどその意味は?とか気になって少し調べてみました。通常「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」の十二支を「えと」と呼び、年男や年女は12年ごとに回ってくるわけですが、「還暦」の時には、単なる12年ごとの「えと」ではなく、生まれた年と同じ「えと」に60年ぶりになる(暦が還る)のは、実は「えと」が「十二支」だけでなく、「十干十二支」からなっているからだというのは、多くの人が知っていることだと思います。「えと」に「干支」という漢字を当てるわけですから、本当は「十干十二支」を知っていてこそ、ちゃんと「えと(干支)」を知っていることになるわけです。では、その「十干」を言ってみてと言われたら、言える人は少ないのではないでしょうか。そもそも、自分の「えと(干支)」を「十干」の方も知っているという人は現代では少ないのではないでしょうか?

 実を言うと、私も自分の「十干」の方を知りませんでした。なので、「暦が還った」と言われても、何年に還ったのかわかっていない状態でした。で、調べてみたところ、私(あるいは今年)は「乙未(きのとひつじ)」でした。初めて自分の「えと(干支)」を正確に知りました。ちなみに、「十干」は「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸」と書きます。「こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き」と音読みしたりして、特に最初の4文字は、戦前には学校成績や徴兵検査の評価に使われていた(現在の、優、良、可、不可にあたる)ので有名ですが、「十干十二支」として使われた際の読み方は、まったく違います。「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと」と読みます。これは、もともとこの「十干」が「木、火、土、金、水」という5つの物質の基本要素に、「兄(え)、弟(と)」が組み合わさってできていたからです。実は「えと」という言葉もこの「兄(え)、弟(と)」から来ているので、「えと」を聞かれて、「十二支」だけ答えるのは、原点に戻ると相当におかしなこととなるわけです。

 多くの若い人にとっては、この「十干十二支」は歴史上の用語としてなら聞いたことがあるという感じかと思います。たとえば、「壬申の乱」「戊辰戦争」「辛亥革命」と聞けば、「ああ、知っている」と思うでしょう。それぞれ672年、1868年、1911年が「十干十二支」で「壬申」「戊辰」「辛亥」に当っていたがゆえに、後にそう呼ばれるようになったわけです。このように一見すると、今やわれわれの生活にまったく影響を与えていなさそうに見える「十干十二支」ですが、実はそうでもないのです。「丙午(ひのえうま)」という言葉をなんとなく聞いたことがあるという人は結構いるのではないかと思います。この「ひのえうま」に関しては、「ひのえうま」に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信があるのですが、結構この土俗信仰が現代でも生きており、もっとも近い「ひのえうま」だった1966年の出生数は前年に比べて25%も下がったのです。1989年に少子化が進んでいる指標として、合計特殊出生率が1.57になり「1.57ショック」と呼ばれたのも、実は1966年の「ひのえうま」の年の合計特殊出生率1.58を下回ったからなのです。

 今どきはもうこんな迷信は誰も信じないでしょうと主張する人もいるかもしれませんが、結婚式は安い「仏滅」を避けて、高くても「大安」でやりたいと思う人もまだまだたくさんいるわけですので、次の「ひのえうま」の年(2026年)にはまた出生数が大きく減るのではないかと思います。今から11年後なので、現在学生である人たちなどはちょうど出産適齢期だと思いますが、果たしてどんな選択をするでしょうか。

543号(2015.5.12)大阪市が消えるだけ

 大阪市の住民投票が迫ってきて、情報が増えてきたために、第532号で書いた自分の認識が間違っていたことに気づきました。517日の大阪市民による住民投票で決まるのは、大阪市がなくなり、5つの特別区が設けられるだけで、大阪都に自動的になるわけではないということです。橋下市長が「大阪都になるかどうかを決める投票だ」と声高に叫んでいるので、つい私も大阪都になることが決まってしまうように思いこんでいましたが、そうではありません。大阪府を大阪都にするためには国会での法改正が必要だというのはわかっていましたが、憲法改正のために橋下維新とよい関係を築いていたい安倍首相は、そのまま法改正を進めてしまい(ただし、自民党議員にも抵抗を感じている議員は少なくないようですので、この法改正もそう簡単ではないのかもしれませんが)、決まってしまうのだろうと思っていましたが、その法改正が国会で通ったのち、大阪府民による住民投票が行われ、そこで賛成が過半数を超えないといけないのだそうです。この最後の府民による住民投票があるということを知りませんでした。 われわれ大阪市以外に住む大阪府民も「大阪都」に「No!」を言う権利は残っていたわけです。

 大阪市民による住民投票では、橋下派への賛成が半数を超えてしまう可能性が高い気がしますが、大阪府民全体ならどうでしょうか。橋下に振り回されたくないと思う府民の方が多いのではないでしょうか。であれば、結局、大阪市が消えて中都市レベルの基礎自治体が大阪府の中に5つできるだけということになってしまう可能性も高いと思います。各地の大都市が必死で合併を進め、政令指定都市になりたがっている中で、横浜に次いで人口の多い政令指定都市だった大阪市は消えてしまうわけです。「大阪府湾岸区……」という住所で終ってしまった場合は、大阪が府以外に名称が消えてしまうわけですから、これまでと同じような意味では「大阪に観光に行こう」と言うのも言いにくくなりそうです。

542号(2015.5.5)ある蕎麦屋で見た光景

ある観光地近くの蕎麦屋で見かけた光景が強く印象に残ってしまったので、ここに書いておきたいと思います。それは、私も大分散策をして歩き疲れ、蕎麦屋で一杯飲みながらリラックスしていた時のことでした。隣の4人掛けのテーブル席に、私と同い年くらいの男性とその妻と思しき女性と、20歳代半ばと思われる息子らしき人物の3人が座りました。テンションの高い父親は、「ここは蕎麦も魚もなかなかうまいんだよ。何にする、H君は?そうだなあ、俺はまず冷酒と鰹の刺身を頼もう。あっ、イカもいいなあ。それも頼むか」と一人でどんどん語ります。「君たちが決まったら、お姉さん呼ぶから。そうか。決まったか。おねえ〜さん」と店員を呼び、注文をしました。その後、またすぐ父親のトークが始まります。わずかでも沈黙が流れるのが怖いのか、とにかく次から次に話題を変えてでも喋り続けます。「あの神社の参道は危ないんだよな。今日はH君もいたし、だからやめたんだよ」「いやあ、今日はそれにしてもいい天気になったよなあ」「うまいだろ、その蕎麦?」「鰹も食べろよ」

 妻と思しき女性が時々薄い反応を返しますが、息子らしき男性はほとんど声を発しません。たまに、母親と思しき女性の方を向いて口を開いているようですが、何を言っているかまったく聞こえません。席は、その若い男性が私から一番近かったのですが、まったく声は聞こえません。その間も、父親は話し続けます。誰も話を拾ってくれないので、空回り気味に一人で喋り続けいました。自分の注文した定食を食べ終えた息子はトイレに行きました。その途端、父親のトークは10分の1くらいに減りました。ぽつぽつと喋るだけで、無言の時間もかなり流れていました。しかし、息子が戻ってくると、また一所懸命話し始めます。なんとか息子からの反応を得ようと、いろいろ質問したり、感想を求めたりしますが、息子は父親に何も言いませんし、顔さえ見ようとしません。一度、父親が細かいことを言ったら、母親が「そっくりね」と笑いましたが、その時も息子は無反応でした。

 だんだん関係のない家族なのに、イライラしてきました。「なんなんだ、この息子は。一体どういう事情があれば、いい年をして一言も口を聞かないなんて態度が取れるんだ!」本気で、息子に説教したくなってきましたが、さすがにそれは控えるべきだろうと思って、先に席を立ちましたが、本当に不快な光景でした。想像するに、20歳代半ばになってまだ引きこもりをしている息子が、久しぶりに両親とちょっとした観光に出てきたのかなという感じでしたが、妻の夫に対するよそよそしい態度も加味すると、もしかしたら離婚もしているのかもしれません。父親が原因を作って離婚し、それを契機に引きこもりの始まった息子が久しぶりに父親とも再会を果たしたというところかもしれません。

 しかし、どんな理由があろうと、あそこまで口を開かない息子がやはり私は気に入りません。なんか父親に含むところがあるのかもしれませんが、ちゃんと言語化して伝えればいいじゃないか、一切喋る気がないなら、そのまま引きこもっていたらいいじゃないかと思ってしまいました。しかし、父親は、その息子の態度に一切批判的な言動は口せずに、「なんか今日は楽しかったなあ」といった雰囲気を目いっぱい出していました。なんか、このお父さんがかわいそうに思えてなりませんでした。

 言語化することの大切さをもっともっと若い人たちに伝えていかなければといつも思っています。上記の例は極端にしても、LINEでスタンプばかり使っていたら、言葉が出なくなりますよ。ちょうど、この蕎麦屋事件の前日にゼミの教え子の結婚披露宴で、短いスピーチをしたのですが、終わって席に戻った時に、新郎の友人であるうちのゼミ出身男性が4人いたのですが、何の感想もなしでした。結構うまく喋れたスピーチでしたので、「先生、さすがですね」とか「相変わらずうまいですね」とか、ちょっとくらいよいしょしてくれるかなと思いましたが、完全スルーで、すごく寂しかったです。後で、同じテーブルにいた他ゼミ出身の男性が「先生、相変わらず話がうまいですね。昔の講義を聞いているような気持ちになりました」と言ってくれ、ちょっと胸をなでおろしました。私の教え子4人は、たぶん私の前ではいまだに緊張するみたいなので、お愛想のひとつも出なかったのでしょうが、言葉にしないと無視されたのと同じようなものだということをわかってほしいものです。4人が4人とも上手を言えなくてもいいですが、誰か一人くらい何か言えよなと正直言って思いました。反応を返してもらえなくて、心の中で寂しい思いをしたお父さん2人の話でした。

541号(2015.4.29)ディズニー大好き女子学生を否定する理由

 昨日のゼミでおおいに盛り上がったディズニー論争について、私の主張をここにも記しておきたいと思います。1983年に東京ディズーランドが開園して以来、ディズニー大好き人間、ディズニーを卒業しない人間が誕生するようになりました。ディズニー自体は、私が子どもの時からテレビで「ディズニーランド」という番組(ディズニーランドを紹介する番組195872年放送)がありましたし、ディズニー絵本も普及していましたので、戦後生まれの人なら、どこかの時期でディズニーの洗礼を大なり小なり受けていたと思います。(ミッキーマウスやドナルドダックは戦後生まれの人なら、みんな子ども時代から知っていたキャラクターです。)しかし、ディズニーの世界は子どもの楽しむもので、いずれは卒業するものでした。ところが、東京ディズニーランドが、若者を重要なターゲットしたテーマパークとしてつくられたため、昔なら卒業するべき年齢からでもまだまだ楽しめるエンターテイメントになり、ディズニーから卒業しなくてよいというムードができてきました。時代が1980年代に入り、若者が政治に関心がなくても当たり前、大学はレジャーランドでいいと思うような時代になっていたことも大きな影響を与えていたと思います。ちょうど東京ディズニーランド開園の年に大学教師になった私は、これまでにも何人ものディズニー大好き女子学生に出会ってきました。そういう女子学生に出会うたびに、「ディズニーは卒業しないとだめだよ」と言い続けてきましたが、信仰のようになってしまっているディズニー崇拝者たちに足を洗わすことはほぼできてこなかったような気がします。ゼミで議論している程度だと、話があちこちに飛び、なかなか論理的に語れないので、ここに書いてみることにしました。

 なぜ卒業すべきと主張するかというと、子ども時代の楽しみにずっぽり浸かりすぎていては、新たな楽しみ、世界を見つけにくくなるからです。子どもの時に好きなるものはたくさんあると思います。ぬいぐるみ、アメなど甘いお菓子、ジュース、マンガ・アニメ、ヒーローもの、ドロケイ、ゲーム、少女小説、etc. もしも、こうした楽しみに浸かり先に進まないとしたら、人は成長しにくくなります。年齢とともに、もっとやれること、楽しめるものは増えていきます。せっかくチャンスが広がっているのに、そういうものを味わってみようとせずに、子ども時代に好きなったものにずっと浸りつつづけるのは、百害あって一利なしとまでは言いませんが、マイナスの方がはるかに大きいと思います。上に挙げたようなものを、大学生にもなって、いかに素晴らしいか強弁する人はあまりいないと思います。もちろん、アニメやゲームに関しては、年齢相応のものが出ていますので、楽しんでいる人は少なくないとは思いますが、それでもあまり熱く語っていると「オタク」とレッテル貼りをされ、まともな恋もできそうもない人と白眼視されます。私はディズーにも基本的にはこうした子ども向けのものだという位置づけをしていますので、それから卒業するつもりはないと堂々と主張する女子学生を見ると、それじゃ大人になれないよと否定したくなるのです。

 卒業というのは、厳密に言うと、嫌いになれとか興味をなくせという意味ではありません。大学生になったがゆえに楽しめる他のことにも積極的にチャレンジして世界を広げていけるのであれば、自ずと好きの度合いも下がり、好きなもののひとつくらいに納まっていくと思いますので、その程度の付き合い方にしたらという意味です。「大学生活で大人になろう」ということを言い続けている私としては、大学3回生にもなって、「ディズニーほど素敵なところはない。あそこには他では見られない夢がある」なんて熱弁を振るわれると、「もっと他にも目をひらこうよ。シンデレラ城なんて作りものより、そのモデルになったノイシュヴァンシュタイン城を見に行ってみたら?」とか「夢というのは結局、非日常体験ということじゃないの?それなら、他にも様々な経験がありうるんじゃないの?」とか反論したくなります。子どもの時から慣れ親しんだ世界から出てこようとしない大学生は、そのままでは子どものままで終わってしまいますので、「もっと背伸びをして苦手と思うことにもチャレンジしてみようよ」と言いいたくなるのです。ディズニー大好き女子学生を否定するのも、こういう意図からです。

 ディズニー大好き女子学生だけでなく、母娘べったり相互依存関係、ジャニーズの若い子に熱をあげ迷惑行為も厭わない中高年女性たちとか、本来はもっと批判されるべきもので、妙に許されているものが、日本社会にはいろいろあります。どうも、現代日本は、男には大人になることを強く要求するのに対し、女性は子どもでも許されるという風潮があるような気がしてなりませんが、まあそのあたりはまたいずれ書くことにしたいと思います。

540号(2015.3.21)1年のターニングポイント

 今年も、卒業式が昨日無事に終わりました。例年のように朝までカラオケに付き合いました。もう、今年還暦なのに、我ながらよくやるなと思います(笑)。でも、今年は例年以上に元気でした。朝までいた人数はわずか7人だったにもかかわらず広い部屋が取れず、2部屋になったのですが、私のいた部屋は、懐メロ部屋となり、歌謡曲ばかり歌っていましたので、過去に経験したことがないくらい、私も歌いまくっていたら、あっという間に朝を迎えてしまった感じでした。(もちろん、最後の40分くらいは、卒業ソングばかり歌っていましたが。)例年、学生たちによる、新しいノリのよい歌を聞きながら朝まで過ごしていたわけで、それはそれでいいものだと思っていましたが、やはり聞くのが中心だと眠くなり、朝まで起きているのがなかなかつらい時間帯も出てきます。今回歌いまくって、「ああ、やっぱりカラオケは歌うものだ」と実感した次第です(笑)。

 卒業式、謝恩会、2次会、3次会という形で朝まで過ごすことで、私の1年は終り、翌日からは多少余韻に浸りつつも、新年度のことを考え始めるというのが、私の恒例パターンです。卒業式の日がターニングポイントになっています。謝恩会は、1期生から今年の20期生まで1年も欠けることなく毎年やっていただいています。本当に幸せな教師です。卒業生たちとたっぷりと1日を過ごせば過ごすほど、次年度に向けてのエネルギーが充填される気がします。この機会にこのターニングポイントの日を振り返ってみたいと思います。

 1期生がゼミで謝恩会をやってくれると聞いた時は驚くとともにすごく嬉しかったです。前の大学で9年教師をやっていましたが、ゼミは必修ではなく、大学全体の謝恩会というものが存在したためか、ゼミで謝恩会をやってくれるなんてことはありませんでした。1期生が立派な会場で謝恩会をやってくれて、こんな素敵な思いをさせてくれるなんて、もっともっと教師として頑張ろうという気持ちに強くなったものでした。1期生の時は、謝恩会の後、最後は男子学生数人と午前3時くらいまで語り合い、その後タクシーで帰ったように思います。

 2期生の謝恩会は後にも先にも唯一のなんばでした。いろいろ悩んだことも多かった2期生でしたが、最後に謝恩会に全員が参加してくれて、人生初の胴上げをされました。この時が朝までカラオケに初めて付き合った年でした。感動の1日を送り、少しマイナス思考で書いていた「ゼミ総括」を訂正するために、1枚追加文書を書き、全員に郵送したことを思い出します。思い出の1曲は、山口百恵の「さよならの向う側」でした。朝帰宅し、睡眠を取った後、TUTAYAに行き、山口百恵のCDアルバムを借りてきたことを思い出します。

 3期生の時の謝恩会は、レストランの1区画の席で、ちょっと気持ちが入りにくい場所で、その後たぶん2次会もなくあっさりと電車で帰りました。4期生の時は思い出がいっぱいです。確か2次会か3次会は、おかまバーだったと思います(笑)。いろいろありすぎてここに書けないこともありますが、とても仲が良かった女子学生が別れがたく、涙していたことを思い出します。5期生の時は、男子学生4人と深夜にJR吹田駅で夜泣きそばを食べた後、私の研究室に戻って来て語り合っていました。6期生の時は、なぜかカラオケボックスで、歌も一切歌わずに私は脚本を書いていました。6期生がモデルの物語で、後に「桜坂」という作品として完成させたものです。

 在外研究に行ったために、2年間ゼミを持たなかったので、7期生との謝恩会は3年ぶりでした。卒業旅行の帰りに、「先生、謝恩会はいつやったらいいですか」とおそるおそる聞ききた学生に、「無理してやらなくていいんだよ」と言ったら、「自分たちの学年で伝統を壊すなんて、だいそれたことはできません」と言っていたのを思い出します。確か、謝恩会は天五の寿司屋で、畳の座敷での謝恩会はなかなかユニークでした。このパターンも後にも先にも唯一です。その後、朝までカラオケで過ごし、当時流行っていた「サカナ、サカナ、サカナ」がなぜか思い出の1曲になりました。各学年の思い出の1曲を意識し始めたのは、この7期生からでした。

 8期生の思い出の1曲は長渕剛の「巡恋歌」。9期生の時は、朝まで19人もいて、みんなで歌った「世界でひとつだけの花」が思い出の1曲になりました。10期生は森山直太郎の「さくら」でした。カラオケボックスを出て、阪急百貨店の前あたりで、地下鉄組、JR組、阪急組と別れて行くときに、みんな淋しくて、別れられなくて、泣いていたのをなつかしく思い出します。11期生の時は、川島あいの「旅立ちの日に」。この歌をこの時初めて知りました。その後は、毎年誰かに必ず歌ってもらっています。12期生は、ゼミの終盤にいろいろあって大変だったのですが、きちんと謝恩会をやってくれて、やはり朝まで付き合いました。思い出の歌は、ゆずの「友達の歌」。

 13期生は卒論発表会が終った後も、よく遊びました。USJに一緒に行ったり、ペルー料理か何かを食べに行ったり、私も一緒に遊んでもらいました。今の天満会のベースはこの時にできたように思います。謝恩会は、確か前年の12期生とまったく同じお店、同じ部屋で、ちょっとデジャブのようでした(笑)。思い出の1曲はケツメイシの「涙」でした。14期生はウルフルズの「バンザイ」。15期生の時は、私が謝恩会のみで帰りましたので、思い出の1曲はありません。16期生は「キセキ」。帰ってきてから、GReeeeNを借りに行きました。この時、初めてフォトムービーをもらい、翌日は何度も見ては感動していました。

 17期生は謝恩会の後は、朝までずっと居酒屋にいました。この時は朝までがかなりつらかった覚えがあります。居酒屋なので音楽もないので、思い出の1曲も作りにくかったのですが、ある学生がアカペラで歌った松山千春の「大空と大地の中で」を一応思い出の1曲としました。18期生は、Kiroroの「ベストフレンド」。19期生はパワー溢れる学年で、朝までノリノリで踊り続けていました。思い出の1曲は、いつか披露すると言い続けたAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」でした。他のダンスより下手でしたが、前からの約束だったので、この曲にしました。

 そして、今年の20期生。謝恩会は全員揃うということで楽しみにしていたのですが、残念ながら2人が急に参加できなくなりました。もともとサークルの集まりで遅れると言っていた1人はサークルの方が延び、謝恩会に間に合わず、2次会からの参加になりました。もう1人はなぜかまったく連絡がつかず、そんないい加減な学生ではないので、途中から何かあったのではないかと心配になってきました。来るべき人が来ないなあと思っている時に、たまたまある学生が歌っていたシャランQの「ズルイ女」の歌詞「なぜ、来ない、来ない、来ない、来ない、来ない、あんたは」がはまったので、これを思い出の1曲にしようかと思いましたが、やはりそれではちょっとということで、いただいたフォトムービーにたっぷり使われていたクマムシの「あったかいんだからぁ」にします。

 書いていると、いろいろなことを思い出しますね。さあでも、これで今年もターニングポイントを無事に過ぎたので、これからは新4回生と、新3回生のことを考えていきたいと思います。

539号(2015.2.25)「子はかすがい」の時代は終わった?!

 夫婦仲がそんなに良くなくても、子どもがいることによって、夫婦関係が維持される「子はかすがい」という言葉は有名なので、若い人でも知っている人が多いと思います。わが家なども、まさにその言葉通りの夫婦でした(苦笑)。しかし、最近の2040代あたりの世代では、この言葉が神通力を失ってきつつあるように感じています。むしろ「子はかすがい」どころか、逆に「子が離婚の引き金」になるケースが増えてきているのではないかという気がしています。もちろん、すべてそうなっているわけではなく、まだ「子はまさにかすがいだ」と感じている夫婦もたくさんいるでしょうが、子どもが生まれたことで人生の生きがいを得たと思った女性は、夫の子育てへの協力意識が低い場合、子どもを連れて実家へ戻ることに躊躇が無くなってきているように思います。実家の親の方も、かつては「嫁に行ったら、もう嫁ぎ先を実家と思え」と言って送り出したものですが、今は娘が孫を連れて戻ってきてくれるなら、将来自分たちの面倒も見てくれそうだし、歓迎するという雰囲気になってきているように思います。女性も仕事をしようと思えばそれなりに仕事ができる時代です。とりあえず、子どもの面倒を見てくれる人(実家の親)がいるなら、手のかかる夫の世話と子どもの世話という二重の世話をしながら疲れて暮すより、ずっと楽しく楽に暮らせるような気がするのは当然かもしれません。

子どもがいない若い夫婦だと子どもを持ちたいというのが2人が一緒にいる理由になりますし、ある程度の年齢になって子どもがいない場合は、ともに生きるパートナーとして2人の間で共通の趣味のような「かすがい」を作って2人で暮らして行こうと考えたりするわけですが、子どもを持つと、見返りの小さい夫の世話はひどく面倒になり、子どもにエネルギーをかけたくなります。「この子がいれば生きていける」なんて女性が思ったら、離婚まであと一歩です。「子はかすがい」ではなく、「離婚の引き金」になってしまうわけです。もちろん、父であり夫である男性がバランスが取れていて、仕事もしっかりやりながら、家事・育児にも協力的であれば、「子はかすがい」の方でいられるでしょう。しかし、仕事が忙しく時間が取れない、自分の好きなこともしたい、家事はできない、子どもは遊んであげるだけの世話しかできない、稼ぎもすごくいいわけではない、なんて条件がそろった男性なら、今や女性に捨てられる時代です。「私は、あなたの家政婦ではありません。この子と2人で生きていきます」と三行半を突きつけられることでしょう。シングルマザーに対する風当たりももう以前ほど強くはありませんので、子どもを連れての離婚の社会的ハードルも低くなっています。

 しかし、短期的にはその判断は合理的だったとしても、長期的にはどうなのでしょうか?連れて帰ってきた時小さかった子どももいつか成長します。だんだんいろいろなことを考える時期が来ます。「なぜ自分にはお父さんがいないのか」という問いにうまく答えられるでしょうか。そしてさらに大人になったら、子は巣立ちます。もしも子どもだけを生きがいにしてきていたら、喪失感は半端ないものになるでしょう。親も老い、面倒を見なければならない、子どもは離れたところにいるとなった時、若い時の選択を後悔するかもしれません。もちろん再婚もありうるとは思いますが、血のつながりのない親子関係をうまく構築していくのは、これまた難しいことでしょう。

 もちろん、どうしても耐えられないケースもあるのは確かでしょう。家庭内暴力をふるうような夫なら別れた方がいいでしょう。しかし、ちょっとした考え方、生き方のずれのようなものなら、徐々に調整可能だという気がするのですが、そんなことはないでしょうか。なるべく別れない方がいいのではと思うのは、私が古い世代だからなのかもしれませんが、自分の経験から言っても、なんとか乗り越えて夫婦を続けた方がいいように思うのですが……。

538号(2015.2.22)もっと反省せよ、日本家族計画協会

 驚きました。第534号で取り上げた日本家族計画協会のデータ(性交経験率が過半数を超えるのは、男性で29歳、女性で28歳)がまったく間違っていて、実際は、男性で20歳、女性は19歳という結果だったそうです。さらにひどいのは、第1回の2002年調査からずっと集計が間違っていて、男性では、6年前の2008年の「23歳」、4年前の10年と2年前の12年の「26歳」も間違いだったそうです。実際には、男女とも2002年から19歳か20歳でほとんど変化がないというのが正しい調査結果だそうです。

 あまりにもひどすぎます。私も29歳はずいぶん高いなあと思いつつも、2年前が26歳ならありえなくはないかと信じたわけですが、まさか12年前からずっと同じ集計ミスをしていたのでは気づきにくいです。社会調査の重要性を教えている社会学者の1人として非常に腹が立っています。私にとっては、「STAP細胞」以上の大問題です。日本家族計画協会の公式ウェブサイトを見てみましたが、わずか3行のお詫び文と正しいデータが表になって掲載されているだけです。今回のデータは発表時にものすごくインパクトがあり、新聞もテレビも大きく取り上げました。これを事実として対策なども考えられなければならないと思った人も多いのではないかと思います。これだけ世間を騒がせた日本家族計画協会の反省の姿勢はあまりにも甘く許せない感じがしています。

 日本家族計画協会と調査分析の責任者はちゃんと公の場に出てきて、なぜこういうミスが起きたのか、なぜ12年前から誰も気づかなかったのか、再発防止のためにどのような対応をしていくのか、ちゃんと報告しろと思います。こんな3行のお詫び文だけで済む事ではありません。この程度の対応で許されてしまっては、今後われわれが発表する調査データすら、世間から疑われてしまいそうです。ちょうど「STAP細胞」問題で、日本の科学全体の評価が下がってしまったように、この日本家族計画協会の「性交経験率データ」で、社会調査自体がうさんくさく思われてしまいそうです。

 こんな甘い姿勢でいるなら、日本家族計画協会は解散しろと言いたいです。産婦人科の事業者や個人の作る業界団体のようですが、社団法人になっていますので、管轄官庁があるはずです。今回の「インチキデータ」発表に関して、厳しい指導をしてほしいものです。

537号(2015.2.19)社会学不人気時代の到来か?

 先日2月の入試が終わりましたが、関西大学社会学部は志願者が減りました。特に、社会学専攻は最近8年連続で志願者(4つの専攻に順位をつけて選ぶので、第1志望にした人の数)を減らしてきています。数年前から危機感をもち、なんとか改善したいと努力をしてきているのですが、事態は改善されません。社会学専攻の人気が落ちてきているだけでなく、社会学部全体の志願者数も小さな揺り戻しはありましたが、大きな傾向から見れば、基本的にはこの8年減少傾向は明らかです。関西大学社会学部の評価自体は決して低くはないと思いますし、オープンキャンパスなども、相当に力を入れてやっていると思います。にもかかわらず、じわじわ志願者を減らしてきているわけです。18歳人口も減り続けていますが、すでに減少期に入っていた1997年から2007年までは、社会学専攻の志願者数は多少の上下はあったものの、2500人から3000人強くらいの間で推移していました。それが、2008年以降減り続けて、今年の志願者数は1700人強でした。社会学部全体としても、2007年度入試では9500人近くいたのが、今年度は6000人強にまで減っています。

 この関西大学社会学部(社会学専攻)の不人気は、関西大学だけの問題ではないのではないかと思います。他大学の社会学部のデータをきちんと調べていませんが、総体として、受験生の選択肢の中で社会学部の優先順位が落ちてきているのではないかと思います。なぜそう思うかというと、大学の就職予備校化がこの10年ほどの間に急速に進んできているからです。私の大学生調査で、大学に行くのは「就職を有利にするため」という理由が一番多く選ばれるようになったのは、2007年の調査からです。それ以前の4回の調査(1987年、1992年、1997年、2002年)においては、「学びたいことがあったから」という理由がもっとも多く選ばれていました(参考:片桐新自『不透明社会の中の若者たち――大学生調査25年に見る過去・現在・未来――』関西大学出版部、29頁)。学びたいために大学に行くと受験生が考えていた時代には、自分が興味の持てそうな学びのできる専門分野を選ぶという選択をしますが、「就職を有利にするため」に大学に行くとなった際には、ちょっとおもしろそうかどうかよりも、資格が取れたり、就職活動にアピールしやすそうな専門分野が選ばれやすくなります。前者のような基準で選択がなされる場合には、高校生たちにとっても身近で興味深く思える、文化・流行などを研究できるというイメージが強い社会学部は人気学部となりえますが、後者の基準で選択がなされる場合には、なかなかその学問の正体がつかみづらくうまく説明もできず、アピール力のない社会学部の人気は落ちることになります。この10年、まさに後者のような選択をする受験生が増え続けている時代なのだと思います。

 たぶんこの受験生の志向性の分析は合っているのではないかと思いますが、私としては非常に残念です。それは、受験生たちの社会学のイメージが文化の社会学に偏っているからです。ただし、そういうイメージを広めてきたことに関しては、社会学をプロとして研究し、教育をしてきた人間の責任も大きいと思います。1997年に出された、別冊宝島『学問の鉄人 大学教授ランキング』という本でも、社会学は「文化の社会学」としてのみ紹介されています。関西大学社会学部は、この本の中で、私立大学でもっとも優秀な研究者がそろっていると評価されており、私も関西大学社会学部を宣伝するために、よくこの本を紹介してきました。しかし、いつも心の中で少し不満だったのは、社会学が文化の社会学だけで捉えられていることでした。私のように、社会運動論から研究をスタートさせ、環境社会学や理論社会学や価値意識論などをやってきた人間からすると、この社会学の切り取り方は狭すぎるという忸怩たる思いがずっとありました。しかし、関西大学だけでなく、どこの社会学部も、新規人事を起すたびに、若い人たちに人気があるからということで、どんどん文化、メディアなどにシフトしていき、社会学といえば、なんかよくわからないけれど、文化やメディアを扱う学問というイメージがしっかり普及してしまいました。その結果として、時代の空気が変る中で、社会学部の人気は落ちてきてしまったのです。

 今改めて宣言したいのは、社会学は決して、文化やメディアだけを扱う学問ではないということです。私が社会学の3本の柱として学生たちにいつも話しているのは、(1)マクロな視野、(2)機能分析、(3)量的データの重視です。社会学は日頃日常生活をしている時には気づかない、個々の人々や現象とマクロな社会の関わりを考えさせ、そのそれぞれが社会の中でどのような機能(役割)を果しているかを考えさせる学問です。そして、その思考のために、全体を捉えるのに必要な量的データを蒐集・分析する実証的な科学なのです。こういうイメージが受験生はもちろん、現在社会学を学んでいる大学生たちにも十分伝わっていないのではないかと思います。文化も流行ももちろん取り扱えますが、その他のテーマでも社会学は取り扱えるのです。『21世紀の資本』で今話題の経済学者・ピケティのような主張だって、まさにマクロな社会分析ですので、社会学の立場からも十分可能です。(実際似たようなことを言っていた人は少なくないと思います。)私のKSつらつら通信・ジャンル別テーマ一覧を見てもらうだけでも、社会学が実に幅広くいろいろなことが語れる学問だということがわかってもらえるはずです。

 社会学はおもしろ、おかしいだけの学問ではありません。そして、この学問を本気で会得すれば、生きていく上での力は確実に高まります。就職活動で話しやすいかどうか、すなわちFEV基準――すばやく、効率的に、目に見える形で結果が得られるかどうか――で高いポイントが得られるかどうか(参考:片桐新自『不透明社会の中の若者たち――大学生調査25年に見る過去・現在・未来――』関西大学出版部、127頁)だけで大学の専門選びをされたら、確かに社会学は不利かもしれません。でも、人生を生きていく上では、他の学問以上に役に立つ学問です。そして、こういう学びこそ、本当は大学で学ぶのにもっとも適した学問なのです。

 こんなことをいくらここで力説しても受験生にはほとんど影響がないだろうことはよく理解しています。このHPをまめにチェックしてくれているのは、私のゼミ生くらいでしょうから。でも、それでもその数人が、私のこういう社会学観を受け止めて、少しずつ機会があるたびに語ってくれれば、その影響力はゼロではないわけです。たとえ社会学や社会学部にとって厳しい時代がしばらく続こうとも、私は「社会学の伝道師」として、社会学を学ぶ意義を、これからも地道に伝え続けていきます。

536号(2015.2.13)大阪人は実は串カツをあまり食べない??

 昨日の「秘密のケンミンショー」で、「大阪人は実は串カツをそんなに食べない」という報告がなされていました。番組では、町を歩いている人や、大阪出身のタレントにマイクを向け、実はみんなたいして串カツ屋には行かないし、串カツ屋についてもほとんど知らないという発言を導き出したり、有名な新世界の串カツ屋の御主人にインタビューをし、「8割方は観光客」という事実を発表していました。スタジオにいた大阪出身以外のタレントも一様に驚いていましたが、私も驚きました。しかし、私はこの「大阪人は実は串カツをあまり食べない」という言説提示を社会学的にはかなり疑わしく思っています。

確かに、絶対的基準で見てよく食べるかといえば、あまり食べないというのは事実かもしれません。衣が多くごわごわした串カツなどという食べ物を、いい歳をした大人がどの程度頻繁に食べたいかといえば、そんなに食べたくないというのはある意味当たり前でしょう。たぶん、同じように、ボリューム感のありすぎるタコ焼きやお好み焼きも、実は大人はそんなに食べないのではないかと思います。きっと有名店で聞けば、タコ焼きもお好み焼きもお客の8割は観光客と答えるのではないかと思います。大阪の食文化として「粉もの」が有名になり、タコ焼き、お好み焼き、串カツなどが紹介されていますので、日常的に食べているイメージがあるのかもしれませんが、こうしたものはそんなに日常的に食べるものではないのだろうと思います。まあ、お好み焼きなんかは家でも作りやすいのでわりと食べられているとは思いますが、タコ焼きは一家に1台タコ焼き器はあるかもしれませんが、子どもが小学生くらいで喜んでくれる時にはよく使っていても、大きくなるとほとんど使わずお蔵入りになっている家が多いのではないかと思います。ましてや、串カツは家で作るのは非常に面倒です。粉を溶いて揚げるなら天ぷらにしようという家庭の方が普通でしょう。回転寿司、焼肉、パスタ、ラーメンなんかの方が食べる機会は圧倒的に多いに決まっています。

 問題は、他県と比べても大阪人が串カツをあまり食べないと言えるかどうかです。これに関してはそんなことはないだろうと思います。新世界と違って観光客が別に寄りつきそうもない大阪の主たる駅の飲食店街などに立ち飲みやカウンター中心の串カツ屋はかなり存在し、いつもそれなりにお客が入っています。ちょっとおしゃれにした串カツ屋も大阪のあちこちでたくさん見かけます。私は日本国中あちこちに行っていますが、他の町ではこんなに串カツ屋を見かけません。これだけ店舗が存在するということは、それだけ需要があるということです。駅前の立ち飲み屋で串カツでビールをひっかけているおっちゃんたちの大部分が大阪の人ではないなんてことは考えられません。

 基準も比較も提示せずに「あまり食べない」という言説を提示することは不正確な印象操作にあたると思います。本当に大阪人は他の県民と比べても串カツを食べないと言えるかどうか、もう一度ちゃんと調べてほしいものです。私が観察する限り、相対的には、やはり大阪人は串カツをよく食べる人たちだという結果が出てくると信じています。

535号(2015.2.12)LINE亡国論

 2日続けて調査データの話ですが、こちらも気になっていたので書きます。デジタルアーツという会社が実施した携帯・スマホの使用時間に関する調査で、女子高生のスマホ使用時間は平均で17時間、15時間以上使う女子高生も1割近くいるという結果が発表され、ニュースでも取り上げられていました。一瞬すごいなあと思いましたが、考えてみると、私も自宅でも研究室でもパソコンの前にずっといますので、携帯用パソコンとも言えるスマホを女子高生長時間使っていてもそれほど驚くことではないとも言えます。ただ、何に使っているのかが問題です。ネットからは様々な知識が得られますが、果たしてそうした知識を得るためにスマホを使っている女子高生、いや大学生も、一体どれくらいいるでしょうか。大部分の時間は、LINEのやりとりと動画を見ることに使っているのではないでしょうか。そういう使い方を全面的に否定するわけではないですが、せっかくの道具を有効に活用しているようには思えません。友人関係は大事で、そのために今はLINEが不可欠の役割を果していることは認めますが、無駄とも言えるほどの過剰に頻繁なコミュニケーションが取られています。9割は聞いても聞かなくてもいいような情報ばかりでも、たまに大事な連絡も入ってくるので見ないわけにはいかない、見た限りは適当にリアクションをしなければならず、それが面倒だったり、ストレスに感じている人も少なくないという話も聞きます。LINEも限定的に上手に使えば便利で有用なアプリでしょうが、上手に使えていない人が多いように思います。LINEの使用で時間を使い果し、新聞を読んだり本を読んだり映画を見たり、さらには今やテレビを見る時間すら取らなくなっている状況では、日本人の知識はどんどん減ってしまいます。思考力も創造力も、知識をベースにしてしか伸びません。今のスマホの使われ方なら、日本は、臆病なほどに気を遣う優しいが知識のない人間ばかりの国になってしまいそうです。LINEが国を滅ぼすというのは言い過ぎかもしれませんが、心配です。

534号(2015.2.11)驚くと言うべきか、やはりと言うべきか……

先日、2014年に日本家族計画協会が実施した「男女の生活と意識に関する調査」で、夫婦の約半数がセックスレスだという調査結果とともに、男性の性交経験率が5割を超えるのは29歳という結果が発表されました。6年前の2008年は「23歳」、4年前の10年と2年前の12年は「26歳」だったのが、一気に3歳も上がったわけです。草食男子化が進んでいる事はよくわかっていましたが、それにしても正直予想以上でした。28歳なら過半数が未経験者ということになります。私が若い男子学生諸君を観察していて、恋する気持ちが薄れているのではないかと心配し始めたのは、2000年代のはじめです。この「つらつら通信」にそういうテーマで書いたのは、「第86号 恋をしようよ、男の子!(2002.7.10)」が最初でした。それから12年と少し経った今、こんな風な数字になって表れてしまったわけです。将来予測としては確実に読み切っていたわけですが、あまり良い方向ではないので、なんとかそうならないようにしたかったのですが、時代の趨勢は変えられないものですね。

セクハラ、ストーカーという言葉が若い男性たちを恋に臆病にさせ、性的好奇心はネット動画で満たされてしまい、複雑な人間関係は苦手で「めんどくさい」と思う人が多数派になっているわけですから、そりゃ、こういう数字になりますよね。率直に言って手の打ちようがない感じです。でも、子どもは欲しいと思う人は増えているので、そのために結婚し子づくりための性交だけはするけれど、その後はすぐにセックスレス夫婦になるという結果も出てくるわけです。そのうち、精子が売買されるようになったら、結婚どころか性交もせずに、女性たちも子どもだけもつなんてことが特別なことではなくなる日も、そう遠くはないかもしれません。子どもは母親とその実家で育てるという「新母系社会」がやってくるかもしれません。

533号(2015.2.7)肥後を治めるのは大変

 先日の佐賀に続き、今度は熊本に行ってきました。熊本もこれまで市内中心部と水俣にしか行っていなかったので、今回は周辺地域をいろいろ回りました。まず1日目は熊本から南に下り、人吉に行きました。人吉と言うと、V9時代の巨人の監督だった川上哲治の出身地ということと球磨焼酎くらいの知識でしたが、歴史のある静かでよい町でした。ここは相良氏が鎌倉時代から明治までずっと領主であり続けたところです。肥後は江戸時代は細川氏が一国を支配していたと思っていましたが、人吉藩は肥後の中でもずっと独立藩でありつづけたのです。人吉城は、建物は何もないですが、石垣がしっかり残っていて、歴史的想像は容易です。その後、たまたま入ったお店で話を聞いたところ、やはり人吉は熊本市とは別の地域という意識はかなり強いようです。熊本まで特急で1時間半、普通列車では2時間もかかるので、高校を卒業するまではみんな人吉で過すようです。むしろ薩摩に近く、薩摩の影響も受けやすいところでもあります。実際に、西南戦争の際には西郷軍に味方し進軍に加わっています。熊本城は政府軍の砦として西郷軍と闘ったのですから、まさに好対照です。敗色濃くなった西郷軍は再び人吉に戻ってきて、ここでさらに政府軍に敗れ、さらに敗走していくことになります。

 2日目は、熊本市の東から北に向かうというコースで阿蘇から黒川温泉へ、そしてその後西に向かい山鹿へ行きました。阿蘇も黒川温泉も山鹿も予想通りとてもよかったのですが、黒川から山鹿に向う途中で菊池神社に立寄れたのが予想外の収穫でした。ここはもともと菊池氏の城があったところで、明らかに城跡に造られた神社だというのがすぐにわかります。菊池氏は、藤原氏の出で平安時代からこのあたりに本拠を構えていたことが歴史書で確認されるようですが、実際には古代からこのあたりに勢力をもっていた土着豪族なのではないかという説もあるようです。いずれにしろ、鎌倉時代、元寇、建武の新政、南北朝時代には、菊池氏は九州の豪族としてしばしば名が出てきます。戦国時代後半に大友氏にこの地を追われますが、支族や子孫はたくさん九州に根付いているようで、このあたりは菊池氏の固い地盤なんだろうなと感じられました。

 3日目は、熊本から西南の天草に向い、帰りに宇土に寄りました。まず感じたのは、天草は広いなあということです。近いうちに「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部として世界遺産登録がされそうな崎津教会というところまで行こうと思ったのですが、天草市の中心部である本渡まで2時間位かかってたどり着いたのに、まだあと30km、時間にして1時間以上かかるとカーナビに示されたところで、ちょっとしんどくなって、本渡を中心に見て回ることに切り替えました。しかし、この予定変更は正しかったようで、本渡は見所が多かったです。天草キリシタン館に行きましたが、ここも城跡に建つ施設で、その雰囲気をしっかり感じ取ることができます。また、この施設は天草・島原の乱を中心とした限定的な展示をしているので、それに関しては非常に詳細で、私にとっては魅力的な資料館でした。なぜ天草でキリスト教が広まったのかよくわかります。今は橋でつながっていて車で簡単に行けますが、以前は舟でないと行けないという不便さが新たな信仰を受入れるのに向いていたということが一つの要素ですが、もうひとつの重要な要素として肥後一国を支配していた佐々成政が国人一揆を抑えられず、秀吉の勘気を蒙り切腹させられた後に、天草を含む肥後の南半分の与えられた小西行長がキリシタン大名であったため、キリスト教の布教を天草五人衆(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏)と呼ばれた天草の有力国人たちはじめ積極的に勧めたということも大きいようです。小西行長が関ヶ原の戦いで西軍の将として斬首されてから、肥後は加藤家が支配しますが、その加藤家も2代で改易となり、そのすぐ後に天草・島原の乱が起きることになります。この天草・島原の乱が容易に片付かなかったのは、江戸初期の過酷な御家潰しとキリシタン禁令の結果、ちまたにあふれた浪人たちが乱に加担したためと言われていますが、このあたりには特に様々な不満分子が集まりやすかったと言えそうです。

 最後に行った宇土は上記の小西行長が肥後半国を治めていた時に本拠とした城があったところです。しかし、今やこの地を訪ねる旅人は少ないようで、私以外の観光客には誰一人会わなかったのはもちろん、城跡までの行き方は実にわかりにくかったですし、市役所で尋ねても「わざわざそんなもの見に来たのですか?」というような顔をされてしまいました。でも、歴史的には非常に意義があるし、城下町の風情も残っていてよい町だったのですが。

 今回、熊本県の周辺地域を旅してみてしみじみ思ったことは、肥後の国を治めるのは大変だったろうなということです。佐々成政が太閤検地を強引にやろうとして国人の反発を買い一揆を起され抑え込めなかったのもさもありなんという感じがしました。各地域に昔からその地を支配している豪族がおり、それぞれ独立国のように長らく存在してきているので、ここによそからやってきた領主が力づくで抑えこもうとしても失敗するのは目に見えています。中央集権的ではなく、個々の地域の昔からの有力豪族をうまく味方につけなければ、肥後の治政はできなかっただろうなというのが、実際に熊本の地理と歴史を見聞してきた私の実感です。今回も興味深い旅でした。

 

532号(2015.2.6)「大阪都」は大阪市民だけの問題ではない

 「大阪都」にするかどうかの住民投票が大阪市在住の有権者によって、この5月に決まります。維新の党以外は反対なので一見すると否決されるだろうと漠然と思っている人も多いと思いますが、昨年12月の総選挙の結果などを見ると、大阪には橋下支持者がかなりいるので、私は賛成票が半数を超えてしまうのではないかと心配しています。たぶん、賛成票を投じる人たちも「大阪都」になったから何かが良くなるなんて思ってもいない気がしますし、そもそも何がどう変わるかもよくわからないという状態だろうと思います。それでも、橋下維新の党が勝ってしまいそうな気がするのは、ある種の「判官びいき」の感情が大衆には起きやすいからです。維新の党以外の全政党が反対しているというのも、「なんかようわらからんが、既成政党を全部敵に回しても負けずに頑張っている橋下を応援したろ」という選択を生み出しやすい構図です。きっと決まってから、「なんで大阪都にせな、あかんかったやろなあ」とか首を傾げるのでしょうが。

 で、気になるのが、われわれ大阪市民以外の大阪府民がこの決定に関われないということです。確かに一番わかりやすいのは大阪市がなくなり大阪都の直轄の5つの区になるというところですが、大阪都になれば、われわれ吹田市民の住所も「大阪都吹田市……」になり、住所録も、名刺もみんな直さないといけなくなります。無駄な費用をわれわれも払わなければならなくなるのですが、この決定にわれわれ大阪市以外の大阪府民は参加できません。なんかおかしいです。大阪都問題は100%大阪市の問題と思われている節がありますが、そんなことはありません。他の市町村の意見も聞いてほしいものです。

531号(2015.1.28)佐賀の歴史にがばい感動

 佐賀県に行ってきました。佐賀というと、お笑いタレントのはなわの歌が思い出され、松雪泰子以外に有名な人も、有名なところもないようなイメージが広がっていますし、私自身も両親が隣県・長崎県の出身であるにもかかわらずいつも通過するだけで、きちんと足を留め佐賀を見たのは、50歳を過ぎてからで、47都道府県中46番目という軽視ぶりでした。しかし、その認識が大きな間違いだったことに、ようやく気づきました。九州の西北部をいろいろ見て回りたくなり、博多から車を走らせました。福岡県内の奴国の丘歴史資料館を見た後、佐賀県に入り、吉野ケ里遺跡を見に行きました。いやあ、予想外の広さと建物の多さに驚きました。てっきり1区画に集中して何軒かの竪穴住居と高床式の倉庫や物見台くらいがあるだけだろうと思っていましたが、まったくそんなちゃちなものではなく、5区画ほどにのべ80軒以上の建物、祭りごとの行われたと想定される大きな建物、何代もの王の墓と考えられる墳丘墓も復元されていて、この辺が実際にこのようなムラ(あるクニの中心部)であっただろうことが容易に想像できる素晴らしい施設になっています。ここを整備するのに、国は一体いくらお金をかけたのだろうと気になるほどの施設でした。

 この日は武雄温泉に泊りましたが、ここには武雄温泉の元湯がありますが、その楼門と旧館は、東京駅を造った辰野金吾の設計です。和風(唐風?)の建築物をなんで近代建築物の設計者として有名な辰野金吾が、ここで建てたのだろうと調べてみたら、辰野金吾は佐賀県唐津の出身でした。辰野と同期で工部大学校造家学科(後の東京大学工学部建築学科)の1期生である曽禰達蔵も辰野と同郷の佐賀県の人だそうです。考えてみると、幕末・明治期に活躍した佐賀県人は、大隈重信、江藤新平、副島種臣、佐野常民など、軍人なるよりも頭脳で活躍した人が多いです。ちなみに、関西大学社会学部の旧学舎(A棟)を設計した村野藤吾も佐賀県出身です。勤勉な人が多い県のようです。さて、温泉もよかったですが、武雄の歴史で一番感動したのは、武雄神社と川古の大楠です。ともに樹齢3000年以上で、日本で樹齢が古い第7位と第5位に当るそうです。なんと、あの有名な屋久島の縄文杉より樹齢が古いのです。こんな見事な大楠が佐賀県に存在するとはまったく知りませんでした。佐賀県ももっと宣伝したらいいのにと思ったほどです。

 翌日は唐津、呼子、名護屋に行きました。唐津も、「そうかあ、唐津って、唐の国に渡る津(湊)だったんだ」ということに改めて気づかされ興味深かったですが、なんと言っても感動したのは、名護屋城跡です。名護屋城とは、豊臣秀吉が朝鮮出兵をするにあたって築いた城ですが、長らく佐賀県にあることを知らずにいました。てっきり博多の近くだろうと思っていましたが、ここ佐賀県唐津市にあり、呼子の近くです。さらにもう少し西に行くと、再稼働するかどうかで話題の玄海原子力発電所もあります。さて、名護屋城の何がすごいかというと、この僻地のような場所に壮大な城を短期間で造り上げてしまったということです。建物は何もありませんが、城の敷地と石垣は整備してあり、当時の城の威容が想像がしやすくなっています。大手門からの広い石段は安土城を彷彿とさせます。防禦のための城というより、秀吉の権威を見せつけるための城としての意義が大きかったのだろうと思います。実際に完成当時、この名護屋城は大阪城に次ぐ大きさだったそうです。しかし、この壮大な城は、完成からわずか10年ほどで廃城になってしまうのです。歴史の転換点で不幸な運命をたどった巨大城です。そう言えば、似ていると思った安土城も短い命でした。これは、単なる偶然の共通性ではなく、権力を誇示するような巨大な城を造った権力者は、その後長くは持たないということなのかもしれません。なお、名護屋城でもうひとつ驚いたのは、韓国の中学の修学旅行と思われる生徒たちがこの名護屋城を見学に来ていたことでした。日本の修学旅行生がここを見学に来ることはまったくないそうです。韓国の中学生たちは、この名護屋城を見て、日本に対する敵意を高めるのでしょうか?

 他にも、佐賀県には有田や伊万里といった焼き物で有名な町もあります。この両町には以前行き、今回は行かなかったので、今回は紹介しませんが、これらも歴史的に重要な意味をもつ町です。この辺で磁器が有名なのは原材料になる土が取れたせいでもありますが、秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮の陶工を日本に連れてきて、この辺に住まわせたからということの方がより重要な理由です。いずれにしろ、佐賀県の歴史は素晴らしいです。地味で何もない県のように思われているのは間違いです。若い人が遊びに行きたくなるような施設はないかもしれませんが、歴史好きで自分の中の知識と対話するのが好きな人には最高の土地です。佐賀県はもっともっと注目されるべき県だと、しみじみ思いました。がばい感動です。

530号(2015.1.12)21世紀の「十字軍」が始まりはしないだろうか

 パリの新聞社襲撃事件から、フランス中で抗議の大規模なデモが起こっています。昨日のパリのデモにはフランスだけでなく、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ主要国の首脳だけでなく、イスラエル、そしてパレスチナ解放機構やヨルダンの首脳もともに参加したようです。キリスト教国だけでなく、ユダヤ教のイスラエル、そしてイスラム教国の首脳も参加し、一般の人々でもパリに住むイスラム教徒も参加したということが報道され、宗教を越えたテロへの抗議であり、決してキリスト教vs.イスラム教ということではないのだということが、報道でも強調されています。しかし、他方で、イスラム教徒に対する嫌がらせ等も起こっているようです。そもそも、もともとイスラム教徒が崇めるムハンマド(マホメット)を風刺した絵を掲載したことから始まっているわけですので、襲撃事件自体は肯定していなくても、シャルリー・エブド社に不快感を持っていたイスラム教徒は潜在的には少なくないはずです。表現の自由の名の下に他宗教の人々が崇める人物をからかいや笑いの対象にすることは非常に危険な行為だと思います。ほんの少し前にハリウッドで起きたキム・ジョンナム暗殺計画の映画をめぐる事件も同じことでしょう。きっかけを無視してその後に起きた事件の衝撃だけでものを考えていいのだろうかと、やや疑問があります。

 もちろん戦争などは起きてほしくはないし、どの宗教も仲良くなるのが一番ですが、シャルリー・エブド社にはまったく非はなく、表現の自由は守られるべきで、報復テロが100%悪いという捉え方で大丈夫なのだろうかと不安になります。どの宗教も仲良く暮らすためには、他の宗教が崇める人物を、表現の自由の名の下にからかうなんてこともやめるべきではないでしょうか。今回のテロに対する抗議運動も、最後はフランス国旗を掲げており、ある種のナショナリズムになっているように見えます。表現の自由の名の下に自由主義諸国の考え方が押しつけられているということにはなっていないでしょうか。自由は絶対的な真理なのでしょうか。自由と統制がバランスよく保たれなければ、社会はうまく運営できないというのは、誰も知っていることではないでしょうか。国際平和のためにも、「表現の自由」を絶対視する考え方には疑問が残ります。

過激なイスラム主義である「イスラム国」は他のイスラム教国にとってもかなり問題視されるような国なので、この国を潰すための軍事行動をヨーロッパ諸国が起こすなら、それは他のイスラム教国は看過するかもしれませんが、問題の根本の部分が修正されないのなら、またこうした事件は起こりかねず、いつか「21世紀の十字軍vs.イスラム教国」という時代が来てしまうのではないかという気がしてなりません。

529号(2015.1.2)「様」と「先生」

 あけましておめでとうございます。さて、お正月の楽しみと言えば、年賀状です。私は年賀状好きをゼミ生たちに公言していますので、このLINE全盛時代でも、教え子たちはたくさん年賀状を送ってくれます。今年も、昨日と今日で、関大の片桐ゼミ出身者から119枚もの年賀状が届きました。どの年賀状も楽しく見ていますが、宛名のところを「片桐新自様」としているものと、「片桐新自先生」としてくれているものがあります。私たちの世代の常識では、「先生」と呼ばれる人たちには、「様」ではなく「先生」という敬称にする方が丁寧だと教わってきました。私は、今でも出会ったときに「先生」と呼ぶような関係だった方には、「先生」という敬称をつけて年賀状を送っています。以前はゼミ生たちにそういう「常識」をよく語っていた時期があるのですが、最近は年賀状を送ってくれるだけでも評価してあげたい気持になっていたので、この「先生」か「様」かについてはあまり指摘していなくなっていました。でも、毎年なんとなく気になっていたので、今年はちょっと分析してみようと思い立ちました。

 左記のグラフは、関大片桐ゼミで今年年賀状をくれた人たちを入学年別に分けて、宛名を「先生」にしてあったか「様」にしてあったかで色分けしたものです。まず、「先生」か「様」かの分析に入る前に絶対数が気になるかと思います。現役の4回生、3回生、2回生は、各学年ともに12人が年賀状を送ってくれていて、これが最高数です。卒業1年目の2010年入学生も昨年は2日までに同じく12本、卒業後2年目の2009年入学生も一昨年には11本送ってくれていましたので、現役の時は正月明けに私と顔を合わせざるをえないからでしょうが、「義務」として送るけれど、卒業後は一気に減るという、「悲しい」事実が確認されます。また、年賀状文化は、携帯が普及してから急速に衰退してきましたので、高校入学とともにi-modeに出会い、携帯が高校生の時から不可欠になった2002年入学生から一気に減っているのは納得のいくところです。卒業してかなり時間が経った2001年入学以前の卒業生の方が、最近の卒業生より年賀状が多いのは、年賀状文化がまだ大学時代にかなり生きていたからだと思います(ちなみに、1996年と1997年入学生の時はゼミ募集をしていません)。

 さて、本題の敬称を「先生」にしているか「様」にしているかですが、グラフの青が「先生」と書いて送ってくれた人、赤が「様」と書いて送ってくれた人です。なんとなく持っていた仮説としては、歳が上であればあるほど、「先生」と書く人が多いのではと思っていましたが、必ずしもそういう結果にはなっていません。2001年入学生が「先生」と書いた人がもっとも多く9人中8人(88.9%)もいます。ついで2002年入学生が4人中3(75)です。このグラフの中では、中間的な世代である2001年、2002年入学生に、「先生」と書いてくれる人が多いのは、この頃「先生と呼ばれる人には、『先生』と書くのが礼儀だよ」ということを、私がよく話していたせいではないかと思います。3位は1991年入学生の6人中4(66.7%)で、やはりこのあたりの世代は、私と同じような礼儀を知っている人が多いのではないかと思います。4番目は2013年入学生の12人中6(50.0%)ということになります。一番若い現在2回生であるこの世代に多いのは、ゼミが本格的に始まる前で私との間に距離を感じているゆえかもしれません。

 年齢が高い程「先生」と書くという仮説は成立したとは言えませんが、私の教育効果がかなり出ていそうな2001年入学生と2002年入学生を除いてみると、それなりに「先生」と書く人がいる年上世代と、ほとんど「先生」と書かない若い卒業生世代、そしてやはりそれなりに「先生」と書く現役学生世代に分けられそうです。比較的若い卒業生に「先生」と書く人が少ないですが、現役時代は「先生」と書いていた人が「様」に変更するということはそんなに起きないと思いますが、送る人が減るので、送らなくなった人の中に「先生」と書いていた人が多いのかもしれません。ちなみに、現在卒業1年目の2010年入学生の昨年の年賀状を調べてみたところ、18人中7人(38.9%)が「先生」と書いていましたが、「先生」と書いてくれた7人の内、現時点で年賀状が来ている人は1人です(その人は、今年は「様」で来ています)。

上の2010年入学生のケースもそうですが、昨年の年賀状と照らし合わせて気づいたことは、若い世代においては、敬称の使い方が一定していない人が少なくないということです。昨年と今年で敬称が異なるのは、上の方の世代では、2001年入学生に1人(昨年が「様」で今年が「先生」)いるだけですが、2010年から2012年の3年間の世代には7人(「様」から「先生」が4人、「先生」から「様」が3人)もいます。おそらく、私以外に年賀状を書いていないため、自分の中でのルールがきちんと決まっていないのだと思います。

男女差も見てみました。仮説としては、女性の方が「先生」と書く人が多いのではと思いましたが、女性が32.1%、男性が28.6%ですので、有意差はなさそうです。この年賀状分析、本格的にやれば、ちょっとした論文が書けそうな気がしてきました。いつか本格的にやってみたいと思います。