日々雑記


Cool Head,but Warm Heart.

2022-11-1

「冷静な頭脳と温かい心」。
経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉。

経済学のみならず、すべての学問研究に必須の姿勢であることは、末端研究者のこちらも肝に銘じている。心のなかではスゲー作品!と思いつつ、冷静に調査し、順序正しく記述するのが常道である。

時折、温かい心が冷静な頭脳に勝って書かれた文章を見かけるが、冷静な頭脳(分析)を重ねるほど、温かい心が感じられるのも不思議と言えば不思議である。

top

学園祭

2022-10-3

今日から6日(日)まで学園祭。

高揚した気分の学生たちの中でGパン、ジャンパー姿のやや異質な雰囲気の小生。
研究室に機材・調査ノート等を取りに行く。

久しぶりの学園祭(対面)なので人出も多い。
同級生に知らせたら「私はラーメンのモヤシ担当。ずっとモヤシを茹でていた」「私はたこ焼き担当」と懐かしい思い出の返事が続々。
残念ながら当時の学園祭の思い出はない・・・。この期間中、何をしていたのだろうか。

調査ノートをカバンに収め、撮影等の機材を抱えて学内の雑踏を避けながら駐車場へ。
これから某所の調査地へと向かう。今日は前泊。

top

仏像も見かけによらぬもの

2022-11-4

朝から某所で調査。

幾つかの仏像(江戸時代)を調査した後、メインの仏像。

一見して定朝様に近い阿弥陀如来坐像。1尺8寸ほど。時代は平安時代後期。須弥壇から降ろそうと、慎重に持ち上げる・・・。
お、重たいぃ~。何とか一人で降ろしたのだが、嫌な予感しかしない。

一般に平安時代後期の定朝様阿弥陀如来坐像は、寄木造で、材厚は薄くなるまで内刳りが施されているので軽いはず。表面からはどうみても時代が上がるとは思えない。採寸等をして写真撮影の後、いよいよ像底の観察。

頭躰幹部は一木造、内刳りは施していない。頭躰幹部はひどく朽ちていたのか、地付周辺に小材を並べて安定性を維持している。膝前材は頭躰幹部の部材とは異なり、接合部にも小材を埋め込んでいる。地付周辺の小材は江戸時代ぽいが、頭躰幹部も朽ちた部分をみると彫り直しの可能性も。
どうも2時期にわたって修理がおこなわれているようである。

頭躰幹部は平安時代後期より上がる時期とみられるが、膝前材には荒い鑿痕が確認。膝前表面には一般的にみられる流麗な衣文が彫られているのに。江戸時代の膝前材?

仏像も見かけによらぬものである。構造図を描きながらしばし悩む。

top

キリスト昇架

2022-11-5

オランダ・デン・ハーグにあるブレディウス美術館(Museum Bredius)のレンブラント「キリスト昇架」が、これまで模倣品とされていたが、レンブラントの真作であるとのニュース。
レンブラント「キリスト昇架」はドイツ・アルテ・ピナコテークにある作品が有名だが、ブレディウス美術館の作品は油絵具を使った素描であったことからこれまで分からなかったらしい。

レンブラントの作品は、20世紀初めは1000点を数え、1945年以降でも600点ほどが真筆とされていた。レンブラントは18歳でピーテル・ラストマンに師事し翌年独立する。63歳で亡くなるが、44年間で600点、1年で13点余の制作。なかには 「夜警」のように363㎝x438㎝の大作もある。果たしてすべてレンブラントの作品だろうかとの疑問を抱くのも当然。

そこで、オランダ政府後援のもとレンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)が世界中のレンブラント作品の真贋を確認するに至る。その結果、こういうこと(2020-5-26 これもあかんのか)も起こるが、デン・ハーグでの油彩素描もその対象になったのだろうか。
対象となっておれば、RRPの報告書をちょっと読んでみたい気がする。

top

尾形光琳「太公望」

2022-11-8

午前中、大学博物館での展示作業をちょっと拝見。
芸艸堂『光琳新撰百図』(慶応元年・1848)が目に留まる。
館員に「ちょっと、見ていい?」と尋ねてパラパラとめくる。
尾形光琳「太公望」。上の欄外に「絹本彩色 太公望」と。

釣竿を横に置き、崖から下を見下ろす太公望。
あれっ、左右反転すれば、クリーブランド美術館の俵屋宗達筆「鳥窠道林禅師像」とそっくりじゃない。頭上に垂れ下がる枝も同じ。

俵屋宗達筆「鳥窠道林禅師像」の元ネタは、中国・明の版本『仙仏奇踪』である。

京都国立博物館にも尾形光琳「太公望屏風」があるが、こちらは紙本。尾形光琳「太公望」は光琳の宗達学習を示す作品ながら、今はどこにあるのだろうか。

学ぶは真似るといったが、『仙仏奇踪』―俵屋宗達―尾形光琳の流れもかなり面白い。

top

ビックマック

2022-11-9

とある先生との雑談。
今日は会議日ながら、会議の前後に授業があり、別の会議が(容赦なく)入ってくる。

今日も会議前に2件の会議と、そんな話をしていたら「センセだって、一般教養のとりまとめや博物館館長などしていたじゃありませんか」と。

確かに。
あの頃は会議・授業・会議・相談・授業で、まさしく“ビックマック状態”。
授業でも疲れをみせていたようで「いつも顔色悪そうです。休んでください」との学生評価アンケートもあった。当時に比べれば、今日の慌ただしさは”チーズバーガー”レベル。

「先生こそ今の”ダブルチーズバーガー”が、気がつけば”ビックマック”にならないよう、くれぐれもお気をつけください」と別れる。

別れた後、あの先生は、あの頃にはまだ赴任されていないはず?と訝ったが、赴任直後に”ビックマック ハセ”を見ていたようである。

昔の失態?におもわず赤面。

top

ポッキー&プリッツの日

2022-11-11

朝から大学。

ふと、今日は「ポッキー&プリッツの日」であることに気づく。
数年前に1年生向け授業を担当していたら、「センセ、今日は何の日?」と尋ねられ、「はぁ?」と答えたところ「これ、あげる。」と言われてポッキーを渡された。

後で御礼の粗菓を渡したが、あの時の学生は哲学倫理学専修に分属した。記憶に間違いないなら恐らく今は2年生か3年生になっているだろう。

年々、1年が早く過ぎ、しっかり留めたはずの記憶もなくなっていくと感じる。卒論ゼミでふと何気ない会話から、あの時の学生があなただったのかと気づくこともある。

今年も紅葉を見るのは大学のみ。慌ただしい日々が続く。

top

荒れずに済んでなにより

2022-11-12

夕刻、久々に同業他社の先生らと一献。

あれこれと身辺雑談。ほどよく酔い、佳境の頃に大学院入試の話題。
「いやぁ、(私の専門は)近世絵画ながら、留学生が墨蹟で修士号を得て、次(博士課程)は彫刻と言うんだが、(日本の)仏像の基礎知識ゼロなので断ったよ。そっちに振っていい?」「いやです。」
「こちらは、ポップアート(研究を志望)だよ。どこをどう考えてもこっちに(志望が)来ないはずないんだが…。」
「近いだけマシ。(日本語が通じず)口頭試問を板書でやった。落としたけどね。」
「落とすだけ、まだご立派。志望書重視で通した(合格させた)が、横書きの日本語は読めるが、縦書きになるとさっぱり読めない、分からないという猛者で頭を抱えた…。」

いったい、私立大学の大学院はどうなってるのだと皆、憤慨の飲み会。
それでも皆様、荒れずに元気でなによりである。

「何処も同じ秋の夕暮れ」とはよく言ったものだと、しみじみ思う。

top

アルベルト・ナオジロー・フーバー

2022-11-14

某授業(演習)は近代日本絵画。
初回ガイダンスで担当作家をくじ引きで決定。原田直次郎だけが空席(欠席)。いつまでも欠席なので進行上、“見本?”を示すことになった。
色々と調べるうちに興味津々。

原田の彼女はマリア。マリアと同棲するうちにマリアが妊娠、そのまま直次郎は帰国。
その後のマリアは?と色々と詮索するうち、安松みゆき氏の「洋画家原田直次郎の非嫡出子アルベルト・ナオジロー・フーバーおよびその母マリイ・フーバーに関する史料と鷗外筆『独逸日記』」(別府大学大学院紀要21)に行き当たった。
直次郎帰国中の1887年6月24日にマリアは男の子を出産。「アルベルト・ナヲジロー・フベルト」と名付けられた。1892年1月25日にマリアの父「マルチン・フーベル(マルティン・フーバー)」が、養育費支払い訴訟を起こす。バイエルン王国裁判所は訴えを認め、判決書はドイツ帝国総領事から東京府知事宛に届くが、原田は書類の受領を認めながら、病気悪化のため回復するまでの猶予を求め、診断書を添えて回答。
以降、直次郎や原田家からの養育費支払いの記録はない。

父一道は1900年に男爵が授けられ華族に、兄豊吉も肺結核を患っていたとはいえ元東京帝国大学理科大学の地質学教授。
養育費が払えない家柄でもあるまいに。

森鴎外も似たり寄ったであることは『舞姫』からも知られる。

top

チエチリア・プファツフ

2022-11-15

安松みゆき氏の名をみて思い浮かんだ書籍がある。
『ナチス・ドイツと“帝国”日本美術―歴史から消された展覧会』(吉川弘文館、2016年)。

ヒトラーが雪村「風濤図」を眺めている写真で有名な1939年の「伯林日本古美術展覧会」。重要文化財は◎、重要美術品は〇の略号が示された初の展覧会であったと仄聞。

同書を読むと、伯林日本古美術展覧会(1939年)の基盤は1909年の1909年にミュンヘンで開催の「美術における日本と東洋展」にあるとされる。同展は、ツェツィーリエ・グラーフ・プファフ(Cäcilie Graf-Pfaff)の主催で、原田直次郎《ドイツの少女》のモデル。

森鴎外『獨逸日記』明治18年8月15日の項に「原田の曾て藝術學校に在るや、チエチリア・プフアツフ Caecilia Pfaff といふ美人あり。エルランゲン Erlangen 府大學敎授の息女なり。黧髪雪膚、眼銳く準隆し。語は英佛に通じ、文筆の才も人に超え、乃父の著作其手に成る者半に過ぐと云ふ。(中略)此女子藝術學校に在りて畫を學ぶ際原田と相識り、交情日に渥く、原田の爲めに箕箒を執らんと願ふこと既に久し。然れども原田は毫も動かさるゝこと無きものゝ如くなりき。」とみえる女性である。

チエチリア・プファツフはその後も1925 年にドイツ通信社(シュトゥットガルト)から夫との共著で『日本の妖怪の本』(Japanische Gespensterbuch)を出版する。
叶わぬ若き日の恋心がこうした形で実を結ぶとは、びっくり。

お気に入りの一作品に決定。

top

寸尺の余地なし(久々に)

2022-11-17

10時より某市文化財審議会。
終了後に大学へ向かい、そのまま3・4時限の授業に授業に臨む。

授業終了後、天下茶屋へ。駅構内の和食屋でさっと昼・夜食の食事を取って関西空港。
ANA1739便(最終便)で那覇へ向かう。

那覇は雨。23時30分ホテル着。
オリオンビールを飲み風呂も入らずにベッドに潜り込む。

top

検討会

2022-11-18

朝から会議。体調悪く少し遅刻。

会議室に案内される途中、「ちょっと問題があるみたいで…」と。
会議室に入ると、開口一番「『正徳』の作品が寛文の作品より古い様相を示すのはどういうことなのだろうか」と内地の先生が尋ねる。
「『正徳』は中国の『正徳』です。明時代です」と、さっそく持参した『琉球国由来記』コピーを投影しながら説明。

沖縄は基本的に中国元号を使用。日中同一元号では元和・建武あたりは時代が大きく異なるのであまり問題ないが、弘治・正徳などは時代もそれほど大きく変わらないので、判別が必要である。
パワポをそのまま用いて1998年の調査写真を用いて説明。(一部の資料は後に修復)。

午後からは資料を出しての検討会。
調査時よりも資料数が増加。これは旧沖縄県立博物館で、「(資料は)このあたりにあるので調査して下さい」と言われて調査したが、2007年に現沖縄県立美術博物館に収蔵品の移転した際に全ての資料点数が明らかになったのでこちらの調査ミスではない。
用意された鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』と見比べながら、検討。幾つかの断片は元の姿が判明する。

18時近くまで検討。大急ぎで那覇空港へ向かい、ANA1740便(最終便)で関空。
日付が替わる少し前に帰宅。

top

櫻井忠剛と原田直次郎

2022-11-20

朝から尼崎市立博物館 特別展「櫻井忠剛と勝海舟・川村清雄」展へ。

櫻井忠剛(1867年~1944年)は洋画家で、初代尼崎市長でもある。櫻井と師の川村清雄の板(漆塗板)や紙に油彩で描かれた作品を拝見。

師と弟子で交わされた書状等を見ながら、展示場隅に原田直次郎の「靴屋の阿爺」と「老人」(2枚)が展示。一瞬、えっ?と思ったが、キャプションをみれば、共に櫻井の模写。

「靴屋の阿爺」の模写は、昔に石見美術館で伊藤快彦の模写を見たことがあるが、櫻井も模写をしていたとは驚き。「老人」は板とキャンバスの2作品だったと思う。

原田直次郎は明治32年(1899)12月に病没、櫻井は明治38年(1905)9月に尼崎町長、大正5年(1916)4月から大正11年(1922)5月まで、昭和3年(1928)2月から昭和9年(1934)10月まで尼崎市長を務めた。櫻井は「鉄砲洲」(現中央区入船3)にあった桜井松平家江戸藩邸上屋敷で生まれている。
両者が接近して居住していたとするなら、直次郎が本郷6丁目の自宅で画塾「鐘美舘」を開いた頃の模写だろうか。「鐘美舘」では伊藤快彦などを指導していた。
「鐘美舘」は明治27年(1894)に閉鎖され、櫻井もは明治27年頃には関西に帰ってきている・・・。2人を介したのは誰だろうかと妄想。

その後、神戸市立博物館「よみがえる川崎美術館」展へ。(理由は聞かない(泣))
大昔、恩師と徳光院の調査に行き、川崎正蔵の胸像があったことを思いだす。展示品の中に静嘉堂美術館蔵康円作「広目天眷属像」がある。もと柏木貨一郎の所蔵品なり。

top

One Driveに保存しました

2022-11-22

今週発表するゼミ学生から添付ファイルで発表原稿(2件)が届いた。

授業終了後に、ダウンロードして開こうとするも開かない。あれっ?パソコン壊れた?
幾度繰り返しても「オペレーティングシステムは現在このアプリケーションを実行するように構成されていません。」と出て、開かない。
よくみると、添付のファイル名の下にいつもなら〇〇MBと容量が出るのだが、「One Driveに保存しました」と表示。

これは、ひょっとして学生が自分のOne Driveに保存をしてそのまま添付ファイルとしたものだろうか。だとしたら無理でしょ。
やむなく、プレビューで全文コピペしてこちらの新規ワードに貼り付ける。

以前、ショートカットを貼り付けて送ってきた学生がいたが、それ以来の珍事。

top

五趣生死輪図

2022-11-24

今日の教養科目は「地獄」。冒頭は五趣生死輪図。

人は死後、赤鬼が回す五趣(修羅道を除く六道)の的に亡者が矢を投げる「輪廻ダーツの旅」図である。
天保8年(1832)に江戸・駒込の浄土真宗西教寺8世慧海潮音が開版し明治あたりまで普及。

講義をしながら、インド・アジャンタ石窟17窟、チベット・中国大足石窟(宋代)にもある東アジアの共通したイメージながら、誰がこの図像を日本にもたらせたのか、なぜ輪廻転生を否定する真宗僧の慧海潮音がこれを開版しようとしたのか、こちらがよくわかっていない。
『七大寺巡礼私記』興福院に「中門有額、門内上有十二因縁之絵様云々」にあるが、なぜ江戸後期に復活したのかもよくわからない。

時間があれば、調べてみたいことが沢山あるのだが、どうも最近は余裕がないな・・・、と思いつつ視線を学生に移して、
「そこの留学生!かたまって私語するなら、出て行ってくれるか。パソコン開いて内職するなら他所でしろ!」と一喝。

本当にまったく!

top

「文藝春秋 現地報告」

2022-11-25

事情あって、午前中、図書館で戦時下の「文藝春秋 現地報告」を探す。

合冊で「現地報告」とあったので閲覧するも必要な記事がない。確か当該雑誌は架蔵していたはずだが・・・。

諦めて戻り、色々と調べると、掛野剛史氏「戦時期メディアの編成と展開─文藝春秋社発行『現地報告』総目次(上)(下)─を見つけた。
論考を読むと、『文藝春秋』時局増刊から『現地報告』へ、その後1933年創刊の『話』と統合し、1943年に廃刊となっている。戦時下といえ、複雑な経緯。

改めて図書館に行き、先ほどの棚の向かいの棚に『文藝春秋』時局月報号が鎮座しているのを見つける。
表紙には大きく「現地報告」と。

『文藝春秋』時局月報号の内容は戦時色一色。
冒頭の文章は、荒木貞夫や松岡洋右、板垣征四郎ら。佐藤春夫、岡本かの子、与謝野晶子の詩歌も掲載。扉絵は中村研一、硲伊之助、向井潤吉、宮本三郎。もちろん藤田嗣治も。変わったところでは鳥海青児、川島理一郎。

目次を手掛かりに「扉絵」だけ集めても、立派な論文になると思いつつ、当該箇所をコピー。

『戦争と美術1937‐1945』(国書刊行会)だけではわからない実態を垣間見た思い。
掛野剛史氏の業績に感謝。

top

「奈良県指定の文化財」展

2022-11-26

ようやく、なら歴史芸術文化村「奈良県指定の文化財」展へ。

陽雲寺菩薩坐像や平区釈迦如来像、東南院大日如来坐像など、かつて見た作品もあるが、改めて見ると色々と興味深い点がありじっくり拝見。
絵画は、智光曼荼羅を除いてほぼ初見。吉野曼荼羅図(金峯山寺)は何が描かれているのかを示した図があり、画面理解が進む。十輪院多宝塔や黒漆宝篋印塔形舎利殿など工芸品も展示。
何をみても、これぞ奈良県指定の文化財という高水準である。脱帽。

「弓手原のオコナイ」ビデオを熟視。修正会と豊作祈願の習合した行事だが、牛頭宝印の版木を川の水で洗うのはちょっとびっくり。確か、版木(裏)に「享禄四」年の刻銘があったはず。

いい資料を見させていただいたと連絡するも以前「(一般の方と同じく)連絡なしにふらりと来ないで下さい。(聞きたいことも色々とあるのだから)」と。
ちょっと反省。

夜半に別件の墨書銘についてあれこれ調べて、反省かたがた恭順の意を示す。

top

追悼

2022-11-28

肥塚隆先生の逝去をニュースで知る。

まだ、野良の研究者に近い境遇の時に見学会か何かで前職へお越しになり、夜に先生と学生と一献傾けた際に、こちらの研究を尋ねられ、1992年2月の「仏教美術研究会」で初めての発表をした。その後も学会で発表する機会を与えていただくなど、野良の研究者から若手研究者への道を開いて下さった。

ある時、ご一緒に一献傾けていた時、こちらの手先をみて「君は”近世の仏像”よりも”東南アジアの仏像”のほうが向いているよ」と仰られた。
不審に思っていたら「指をみると、爪を噛んでいるよね。爪を噛む癖のある人は、東南アジアに行っても腹を下さないから、現地調査にはピッタリだわ。」と真剣とも冗談とも取れないことを仰られた。

大阪大学を退職されて大阪人間科学大学の学長になられてからも研究会のお誘いを頂いたり、論文等を送って頂いた。振り返ると、阪大出身者でもないこちらの原点や節目には、必ず先生が立っておられた。

ご冥福をお祈りいたします。

top

彫刻匠

2022-11-29

「仏師」という肩書は、明治10年代頃までは普通に使用されていた。
その後、徐々に「仏師」が「仏具商」と肩書を替えていく。仏具製作を扱わない仏師は『西京人物誌』(明治12年)では、「木偶師 七条康教」「人形師 平井芳兵衛」「彫工師 堀田瑞松」と呼ばれるようになる。

そうしたなかで「彫刻匠」と呼ばれたこともあったのではないかと推測したが誤りで、「住吉大社彫刻匠 山野長江」と住吉大社の木彫品を製作した人物であった。

「仏師」という肩書は何時、復活したのかふと思う。

top

過去ログ