日々雑記


キッズミュージアム

2016-08-02

朝から関西大学博物館“キッズミュージアム”。最近はママ友雑誌にも取り上げられるほどまでに。

朝から続々と親子で参加。
今年も「丹波市・県立氷上西高校」「紀伊国屋書店」「大阪府立弥生博物館」「関大考古学研究室」「関大鉄道研究会」の協力を得て実施。

こちらも“遊軍”としてあれこれと。
暑い中、麦茶の補給からスタンプラリーの景品渡しまで。各ブースでは、木工細工や糸電話、紙飛行機大会などなど。恒例の学内昆虫採集も。

飛鳥の庭では、「NPO法人関西大学カイザーズクラブ」がフリスビーや縄跳びなどを開催している。
何しろ子供は朝から元気である。
1090名ほどが参加。会場の混雑ぶりからはもう少し多いのかも。

普段とは違う博物館の一面。

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連携講座

2016-08-03

博物館では“キッズミュージアム”2日目ながら、こちらは別件で早稲田大学へ。
今日から早稲田大学との連携講座「江戸落語と上方落語」が開催。
お昼過ぎに大隈講堂。オリエンテーションにて挨拶。

今回、関大からは法・社・政創の10名が参加。一方早大は法・教育・人間科学・文化構想・文・先進工学の20名。「落語」という古典芸能にあってなぜ文(関大)から1人も参加しないのかと若干の憤り。
90分15週座学で千里山から一歩も出ない、(学ぶことに)身銭を切らない、そもそも古典に全く関心がない・・・。
明日午後にはプロの落語家による「寄席の一日」、5日には「上野鈴本演芸場」での鑑賞会。加えてM先生の熱い濃い講義が予定。面白いとは思うのだが・・・。
学生とともに1コマを聴講。M先生曰く「明日からは(不在の)ハセセンセネタで、なぶらせてもらいます。」。大いに歓迎。

現在の落語家は、東約600名、西約250名、史上空前の落語ブームにあるという。 落語家(東)は、あこがれの落語家が存在し、そこに弟子入り。見習い(6~18か月)を経て前座(3~4年)を務め(師匠の用事や寄席のお囃子、開口一番)過ぎて、二つ目(10~13年)。これは前座の仕事から解放され、羽織・袴が着用できる。そしてようやく真打ち。高座のトリをとれるようになるが、M先生曰く「ゴールではなくスタートです」と。この制度は西では事務所が介在し、消滅。

夕刻、cafe125にて懇親会。周囲が緑に囲まれまるで信州のペンション風。
規模こそ違えいずこも抱える悩みは似たようなもので・・・。

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早稲田の博物館

2016-08-04

再び早稲田大学。学ぶ学生を後目に「会津八一記念博物館」へ。富岡重憲コレクションから現在は「中国陶磁の流れ」。

先日悩んだ白磁瓶と類似した《白磁龍耳瓶》(唐時代)が展示。やはりテグスを輪にして胴部に掛けて四方向から引っ張っている。《青花牡丹唐草文壺》(元染付)や《青花八仙図壺》(明)は見事というほかはない。《五彩花鳥文蓋付大壺》(清)は伊万里赤絵の写しだろうか。

2Fでは「チューリッヒ・ダダ100周年―ダダイスト・ツァラの軌跡と荒川修作」と「ル・コルビュジエ ロンシャンの丘との対話 展 ル・コルビュジエの現場での息吹・吉阪隆正が学んだもの」が開催。前者では荒川修作の「実際には:盲目の意志」(エッチング)が3点展示。こういう展示はうちでは嫌がるだろうなと思う。古典にも先端にも興味なく、浮世を刹那に楽しむ、別にどういうことも。
その後、坪内博士記念演劇博物館へ。久しぶり。

「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市」展。博物館の奇抜な構成には慣れているはずだが、さすがに絶句。
いきなり単管パイプが組み上がり、工事用のトラ安全柵が立つ。展示ケースには大きな写真がほぼ全面に貼られ、下のわずかな隙間に資料が展示。ケースの周囲はトタン板(しかも錆付き)で覆われ、ここが展示場であることを忘れさせる。展示ケースには横尾忠則のポスターなどが吊るされ、赤テントの写真や映像資料の多用など、いやおうにも60年代後半から70年代にかけての新宿の文化が再現。
口あんぐりのまま別室に移ると、磯崎新による幻の東京都庁(現在のは丹下健三設計)設計図面やCG映像などなど。 大学博物館の可能性や地域との関わりを示した斬新な展示にみえた。
「中村吉右衛門展」。中村吉右衛門氏が早稲田大学芸術功労者の顕彰を受けられたことによる記念展。和紙にプリントされた写真パネルや松竹からの出品などが展示。芸術功労者の顕彰を卒業式と合わせて行うなど、大胆な戦略。
うちはよい意味での「大阪」の大学であるが、悪い意味での「大阪」の大学でもあることを痛感。

夕刻、旧友と一献。ここでもいくつかの欠陥が指摘。
最終に近い新幹線に乗りながら「どうなるんやろか うちは。」といささか不安にも。

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忍性展

2016-08-05

朝から某所にて相談があり、その後に奈良国立博物館「忍性」展に向う。博物館玄関前の蓮が美しく咲く。

もう新聞は今年の正倉院展を報じている。テレビ欄の片隅に小さく忍性展の広告。

展覧会は忍性を軸とした展示と行基―鑑真―叡尊という流れに関する展示。
「忍性は遅鈍な才能の者にして学び出しも遅い。学問では人のためになろうそうにない」(『学正記』)が、「慈悲に過ぎた」者というが、「その慈悲心の強さ故に利生(人助け)でこれに勝る者はいない」(『聴聞集』)と評した赤鼻の忍性。

戒律を日本にもたらした鑑真和上と律宗の東国布教をめざして関東に下向した忍性のダブルイメージの《 東征伝絵巻》もじっくりと拝見。
旧額安寺虚空菩薩像や般若寺・大和郡山西町の文殊菩薩像など見慣れた作品も多数展示されていたが、鎌倉極楽寺忍性菩薩坐像や文殊菩薩坐像、福泉寺清凉寺式釈迦如来像など関東・北関東地方の作品・資料が充実。これまたじっくりと。

その後は大学。

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那覇

2016-08-06

那覇で午後から“最後?の検討会”。

琉球時代唯一の彫刻家といわれる田名宗経(1798~1865)の作品。
内地でいう“彫物師”にあたるもので、正直、仏像の類はあまり巧くない。
文政11年(1828)に法眼左京門人の「大塔勝造康」から宗経に印可相伝書1巻を譲与されたとされ、その時は「球陽宗経田名筑登之殿」とあるという。印可相伝書を信じれば、文政11年時の七条左京は康敬で「法橋」位。もちろん大塔勝造康なる仏師も未知の仏師で、しかも印可相伝書なる書物は現存しない・・・。そもそも弟子の独立に「印可相伝」を渡すことなどない。

糸満市の聖観音菩薩立像(道光11年(1831)・「球陽宗経謹賀刻」銘)の詳細写真を見せてもらう。写真を見る限り光背は外れそうにみえたので、「抜けなかったのですか」と問うと「ちょっと無理は止めておこうとなって・・・」と。

沖縄の「木彫」は虚々実々相交じり、ことのほか難しい。それにしても沖縄まで来て、七条仏師の事を考えるとは思いもよらなかった・・・。

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近代の壷屋焼

2016-08-07

那覇は終日雨。アートソーブ(65%)がパンパンに脹れるほど高湿度。もちろん温度も。
今日から甲子園が開催。大阪は晴れ模様、くぅ~。

那覇市立壺屋焼物博物館へ。
荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョウヤチ) 。荒焼は甕・壺が主流、上焼は抱瓶(ダチビン)やカラカラ、茶碗、皿、鉢などなど。上焼は薩摩からの朝鮮陶工らによって開始。共に「陶器」。

近代には泡盛が全国流通。しかし荒焼の甕・壺から泡盛が漏れるといった事故が続発し、内面に釉薬を塗るといったことも・・・。備前や丹波とは違うんだと。

大正時代の茶道では「南蛮物」が使われる。これに類似した作品を荒焼で作り、県外で販売する動きが「寄留商人」によって発案。柳宗悦も「近時南蛮に関する図録が出たり展覧会が京都でも東京でもあったが、その殆ど凡てと云いたいくらい琉球もので」と称している。

あと琉球(沖縄)とは全く関係のないエキゾチックな模様の「古典焼」。戦後は米兵向けのお土産品として製作。漆芸もこの時期、米兵向けに「編成隊漆絵箔絵壁掛」や鳥居形置物を製作。
媚びるような工芸品は質の低下を招くだけであると実感。

琉球王府末期には京焼の影響を受けた作品も登場。しかしながら戦前には赤絵写しも現れて、いったい何時の時代の焼物かと絶句。文様の流行など本土とは100年以上の懸隔がある・・・。
午後に帰阪。

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不思議な感覚

2016-08-08

夕刻、名誉教授(文学部)・第2代博物館長 故薗田香融氏の通夜のため和歌山へ。

JR最寄駅に着くと、「遅れ10分」が「15分」になり、車両故障のため阪和線は止まっている由のアナウンス・・・。あらっ。改札を出てバス停へ急ぐ。南海電鉄の駅までバスで10分ほど。
バス停であと5分も待てばバスが来るのだが、なぜかバス待ちの列から外れてタクシーに乗り込む。

ところが、南海電鉄の駅に向かうと遠方には猛烈な黒煙があがっている。火事だ・・・。南海駅への主要道路は、消防車も混じっての大混乱&大渋滞。
運転手が路地をすり抜けるように車を走らせてようやく駅近くで下車。駅前で振り返ると、駅前の毛織工場で火災発生(全焼)。車内で黒煙をみながら南海に乗って和歌山へ向かう。

電車に揺られながら、なぜあの時、タクシーを選択したのだろうかと反芻。もしバスに乗っておれば大渋滞に巻き込まれて、まだバスに閉じ込められたままである。
ちょっと不思議な感覚ながら、またなにゆえこうトラブルに巻き込まれるかとも。

通夜後、同じルートで帰ったが、まだ消火作業が続いて規制線が張られている・・・。

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地元民

2016-08-10

とある中世文書。
文書中に「カイノツカ」とある。すぐさま、あぁ奈良の人だと思う。
「カイノツカ」。漢字で書けば「肘塚」と書き、れっきとした奈良の地名。
地名の読みはその地の土着性を示す。

働き始めて早々、住居表示係に「熊野町」「東雲東町」に関する事項を尋ねに行ったことがある。尋ねてすぐさま、「きみぃ~。地元やないやろ」と。
今から思えば、多少予習すればよいものの、「くまのちょう」「とううんひがしまち」と新人にとっては”当たり前の地名”。
ところが、勤務市では「ゆやちょう」「しののめひがしまち」と。後者は知識不足だが、前者はどうやったら「ゆやちょう」と読めるのか皆目分からなかった。

その後は「甲斐町東3丁目1-1」などと記した書類を見ながら、あぁ地元民でないことは確かだと、訳知り顔(この場合は「甲斐町東3丁1-1」)。

難読地名は、地元民であるかどうかのリトマス紙でもある。

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家電

2016-08-11

今日から大学は図書館も含め一斉休業(~8/21)。今年から8月11日は「山の日」(祝日)。

とある朝。ありゃりゃと言いながら出された食パン。食パンの半面は白い生地のまま。トースター(縦型)が壊れたらしい。爾来今日まで半分日焼けの食パンを食していた。
今日はアイロン。いくら待ってもスチームどころか、全然熱くならない・・・。これも壊れた。
共に家人が持ち込んだもので20余年の年代物である。

さっそく家人ともども家電量販店へ。20年ぶりのトースターとアイロンを物色。
アイロンの機能向上は目を見張るばかりだそうである。説明を聞きながらアイロンをまず購入。
さて、トースター。機能はアイロンほど向上していないようで、縦型か横型か、ポップアップ型2枚焼き。ポップアップ型も捨てがたいと思うもののキッチンの場所を考えると、やはり縦型か・・・。
散々迷った挙句に家人の決断はトースター購入はしばし保留との由。

しばらくは、半分日焼けの食パンを食すことになる・・・。

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神仏習合

2016-08-13

墓参りの後、談山神社へ。もと多武峯妙楽寺。

何時見ても、ドタバタの神仏分離であったと思う。拝殿(護国院)、本殿(精霊院)、東殿(如法堂)、権殿(常行三昧堂)、神廟拝所(妙楽寺講堂)と仏寺そのままの姿。 撤去された仏像は明日香村や安倍文殊院に移されて現存。
神廟拝所の板壁には羅漢像が描かれ、長押には狩野永納の天女。

拝殿内には、住吉如慶・具慶《多武峯縁起絵巻》が展示。詞書は、後水尾院の勅願で二條家を中心とした公卿たちだが、大きな剥落があるなど痛みが激しい。いくら模写とはいえ、住吉如慶・具慶の作品。各殿内外の壁画もかなり痛々しい有様。

どうも紅葉以外はあまり関心がないようで、この時期、訪れる人も少ない“別格官幣社”である。

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施餓鬼幡

2016-08-16

激しい雨で京都「五山送り火」が台無し。殆ど文字が見えなかったそうな。
この時期、忘れてはならないのは「施餓鬼供養」。

とある寺の施餓鬼壇(供物は既に撤去)。
施餓鬼幡は南無多寶如来・南無妙色身如来・南無甘露王如来・南無廣博身如来・南無離怖畏如来・南無寶勝如来・南無阿弥陀如来・焦面大鬼王とあって臨済宗とわかる。豪華版は更に四天王各1旒(る)と「唵口摩呢達哩吽撥吒」の2旒で計14旒。

ところが、曹洞宗・天台宗・浄土宗では南無妙色身如来・南無甘露王如来・南無廣博身如来・南無離怖畏如来・南無寶勝如来。真言宗も同じ5旒だが「南無過去寶勝如来」となり、日蓮宗では「如以下甘露灑」「除熱得清凉」「如従飢国来」「忽遇大王膳」の4旒と「願以此功徳」「普及於一切」「我等與衆生」「皆共成佛道」の4旒。

施餓鬼会がいかに日本で変容されたかについて知らされる。
写真はやや豪華版の10旒。

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良学房

2016-08-17

良学房実清。
いわずと知れた宿院仏師産みの親である。

大阪・高倉寺宝積院の涅槃図は天文5年(1536)に奈良の絵師「櫟屋」によって描かれ、奈良・高畑の丹坂堂に安置された。貞享元年(1684)に丹坂の禰宜新七を介して宝積院がこれを入手したとする。涅槃図は新薬師寺の涅槃図(鎌倉時代初期)を忠実に模写した作品。
新写の願主は円宗、開眼導師は良学房阿闍梨とある。実清は仏画の開眼供養導師も務めていたのである。

宮崎・長久寺弘法大師像(永禄6年・1563)は源次・源四郎、源五郎、良紹によって製作されたが、銘記には「櫟屋殿御刀始」。実清は天文24年(1555)に72歳で没。

ところで、なぜそのことを今頃になって気付いたのか。不覚の極み。

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本山コレクションの精華

2016-08-19

関西大学博物館の中核コレクションは元毎日新聞社社主の本山彦一氏が蒐集した考古学資料(図書1000冊は図書館)。重要文化財16点・重要美術品12点を含む約2万点からなる。

昨春早々、大坂歴博との打合せ。
事前にもらった企画(提案書)はかなり曖昧。アメフトのヘルメットやら大阪の学問やら、まだ何も決まっていない様子。じれったい・・・。
そこで打合せの前々日に企画書を勝手に作成、打合せ当日に配布、自らプレゼン。もちろんうちの学芸員氏も知らない。着任早々いきなりの強権発動。

大坂歴博での展示室は8階特集展示室。横は「歴史を掘る なにわ考古研究所」。決して場違いな企画ではなく、これまで一括して指定品を学外に貸し出したこともない。
その後、賛否両論あったものの、関大博物館会場、歴博会場共に手間暇かけた展示も人員体制からできないと認められ、10月5日(水)~ 11月14日(月)に大坂歴博8階特集展示室にて開催。

ネットで「本山コレクションの精華」展を見つけた家人に、件のいきさつを説明すると
「ぜったい、夜に後ろから刺されるでぇ」。
いいでないの。

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飛鳥寺の舎利

2016-08-21

『日本書紀』推古元年正月15日の条には「法興寺の刹柱の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日には「刹柱を建つ」とある。言わずと知れた飛鳥寺の塔である。塔は建久7年(1196)6月17日に焼失したが、一部は再埋納。

尊勝院弁暁が塔心礎から掘り出した舎利・荘厳具についての由来を記した注進状の草案が残る(『本元興寺塔下堀(ママ)出御舎利縁起』)。
それによれば、埋められた舎利は敏達14年(585)に蘇我馬子が感得した舎利と崇峻元年(588)に百済から献じられた舎利からなるといい、建久8年(1197)3月24日に焼け跡から舎利数百粒を掘り出したと記されている。

昭和32年の奈文研の発掘調査によって再埋納された舎利容器が見出されたが、アイソトープによる分析の結果、数粒の舎利しか入っていなかったという(坪井清足『飛鳥寺』)。

『浄瑠璃寺流記事』には「当山御舎利講ならび一品経」の記載があり、「御舎利総数事」として7粒、うち3粒は「本元興寺」。
抜かれている・・・。

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思い出したくないことも。

2016-08-22

叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』。
弘安8年(1285)、85歳を迎えた叡尊が記した自叙伝。翌年に完成。

安貞元年(1227)27歳から文暦元年(1234)34歳まで、年齢以外、ほぼ空白。
わずかに28歳の時に「遂具支潅頂、即受秘決」と。
この間に何があったのかといぶかるものの、叡尊でも思い出したくないこともある。
人柄が滲み出た空白期。

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招待券

2016-08-24

午後、展覧会の招待券等が出来上がったので、学長、理事長へ持参かたがた挨拶。

関大博物館(無料)では、「地から・道から・智から・馳から・千から」の5つのテーマで構成。しかし大阪歴博は有料ゆえ、学生・職員証や校友会等なんらかの形で大学関係者と分かれば、大阪歴博(常設展)へ無料で入ることが出来るように招待券を作成。
対外的に幅広い部局等へにお渡しし、入場者増を目論むものの、果たしてその効果のほどは・・・。

「交通費かかるし、(展示)おもろないし・・・」と、学生みたいなこと言わずに・・・。

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アートの行方

2016-08-26

美術→芸術→アート。
なんとなく右に行くほど、うさん臭く感じるのは私だけだろうかと思う。

原稿進まず、終日苦悩。

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蓼科

2016-08-27~29

バケーションin蓼科。久しぶりの蓼科。
まだ子供が小さい頃に来た。車を走らせながら、あの時は子供が発熱し、諏訪中央病院まで急患で運んだのだが、あまり覚えていないらしい。

さすがに1500mの標高だと、朝夕は涼しい。3日間、ソフトクリームや山菜、鮎・山女魚、温泉などを堪能。
こうした機会があと何回続くかと、ふと思う。

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過去ログ