日々雑記


1500円

2015-02-01

今日から入試。

1500円の価値。

2時間アルバイト(大阪府最低賃金838円)をして、源泉徴収された手取り額。
ちょっとしたお昼の定食(コーヒー付)。
映画の学生料金。
最寄駅から拙宅へのタクシー料金(深夜2割増)。

東大寺(大仏殿・戒壇院・法華堂)の拝観料。京博 春の特別展「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」展入館料。ちなみに京都国立博物館で1500円であった「鳥獣戯画」展は東京国立博物館では1600円。集客が確実に望めるだけに強気、強気。そして法隆寺の拝観料。

法隆寺へ行ったこともないのに、「拝観料が1.5倍になった」とあんまり騒ぐと、老いも若きも(マスゴミも)教養のなさが露呈。1500円の価値を見出すか否かは、自らの教養を計る物差しにかかっている・・・。
吉本新喜劇は4700円、天満繁盛亭は2500円だが、それでも法隆寺の拝観料は高いのか。

top

太陽の塔

2015-02-02

近所の図書館にはアート・ビギナーズ・コレクション「もっと知りたい○○○○ 生涯と作品」(東京美術)が揃っているので、ぱらぱらと立ち読み。
『もっと知りたい岡本太郎』を見ていると、掲載の「太陽の塔」に少し違和感。胴体にある顔の向きがなんか違うような、合っているような・・・。
そこで、横に配架していた現代美術の本を見てみると、件の写真は“裏焼き”。あ~、やっちまった・・・。

人のことは言えない。
某所でも裏焼き写真があって、回収、再配布という憂き目にあった。版権は日本万国博覧会記念機構(解散済)にあって、当時、写真撮影やフィルム借用に大阪一うるさい機関であった。
帰宅し、東京美術のホームページをみると2刷からは修正済。

万博から45年が経つ。エキスポランドは閉園となり、跡地には水族館(?)やシネコン、ショッピングモールが建設中。
世の中が大きく変貌したというのに「『万博景気』よ、もう一度」との気分も大阪には未だに根強く残り、息巻く人たちもいないわけではない。
アナタガタハ イッタイ イツノハナシヲ シテイルノデスカ?

地下鉄の広告には「レトロ建築で楽しむ『大大阪』への旅」が掲示。嘆息。

top

藤田嗣治

2015-02-03

過日の博士論文(課程)では、一部ながら「戦争画」の話題。

藤田嗣治は大作の戦争記録画を続々と発表。ところが、『聖戦画帖 戦ふ東條首相』(絵本)を小磯良平、鳥海青児、脇田和らと共に挿絵を描いた内田巌(日本美術会初代書記長)が戦後、藤田嗣治の戦争責任を執拗に追及。

「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残し日本を去った。パリでは「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と書き残したとも。

「世渡り上手の罰当たり」(旧職の戯言)な内田巌の作品評価は未だに低いが、「日本に捨てられた」藤田嗣治の心境は他人事とは思えないほど。

top

“仏像ガール”向け

2015-02-04

入試。日本史の問題をみてびっくり。問題用紙には飛鳥大仏、法隆寺金堂釈迦三尊像、東大寺大仏、東寺講堂諸像、室生寺十一面観音像の写真が掲載され、これらに関する設問。

室生寺では像名を答えさせる問題。写真では頭上に並ぶ化仏がうつっている・・・。
大ヒント!!と、終了後、他の先生に話すと「“仏像ガール”向けな問題ですね」と。確かに受験生にとってはそこまで気が回らないのかも。
もし、私が出題者なら「室生寺金堂釈迦如来像は、周囲に十二神将像が並ぶことから実は○○如来像であり」などと、もうひねりするのに。

共通教養科目(般教)筆記試験で最も多かった誤答は、「法隆寺金堂釈迦三尊像の製作者は(聖徳太子)で・・・」。完成した時には既に聖徳太子は亡くなっているとあれほど強調したのに。そう思えば、難問だったかもしれない。

入試業務終了後、東京へと急ぐ。

top

演博撤収

2015-02-05

早稲田大学演劇博物館のコラボ展も昨日で無事終了、朝より撤収。

早稲田大学も入試体制で入構証が必要。小さな資料は、昨夜同僚が撤収、梱包済。今日は大型の浪花座模型等々。
演博の方々の手助けも得、3階から1階へと降ろし、1階で梱包。全資料を梱包し、しばし運送トラックの入構を待つ。搬出が終り、これで“道頓堀”展、すべて終了。
演博スタッフの皆様をはじめ、関大博物館、東京センターの方々、どうもいろいろと有難うございました。あつく御礼申し上げます。

その後、都内で別件の相談。外は朝からの雨が霙や雪に代わり、気温も下がるいっぽう。

相談も終わったが、このまま帰阪するのは惜しく、三の丸尚蔵館「明治天皇 邦を知り国を治める-近代の国見と天皇のまなざし」展を見学。
各巡幸の古写真や記録、絵画では山本芳翠《宗元寺舜天王之廟》《琉球東城旧跡眺望之図》(もとになった「中城城内ヨリ遠望の景」写真も展示)《磐梯山破裂之図》、児島虎次郎《なさけの庭》などが出品。明治29年の大津波写真も。
その後、東京駅。

top

天覧

2015-02-06

「明治天皇 邦を知り国を治める-近代の国見と天皇のまなざし」展は興味深かった。明治天皇の八大巡幸のほか、写真、記録等を通して近代の国見を考えるもの。
なかでも琉球処分後の沖縄を描いた山本芳翠《宗元寺舜天王之廟》《琉球東城旧跡眺望之図》は考えさせられる作品。
《琉球東城旧跡眺望之図》は、実は ここ でも見ていた。その時は《琉球中城之東門》も展示。

今日の研究では、製作の前年(明治20年・1887)に伊藤博文の九州・沖縄巡視に山本が同行し、(沖縄の)風景人物風俗画20点を描いて天覧に供しており、《琉球中城之東門》のモチーフは首里城美福門、《琉球東城旧跡眺望之図》は中城(ナカグスク)城からの眺望であったことが判明している。《琉球中城之東門》の額には「中城」の文字もあるとする。

展示された写真にしろ、絵画にしろ“天覧”に供される資料は、ある程度理想化されたものであると理解しつつも、山本芳翠が関心を引いたものを描き、たまたま“天覧”に供されたのか、あるいは写真と並ぶ「記録画」として描いた(その結果、天覧となった)のかで、大きく意味合いが違ってくる。三の丸尚蔵館での展示は後者の文脈であるが、そうならばまったくデタラメな絵画(二条城を描いて大坂城とするような)を山本は描いたことになってしまう。

題名が当初かどうかは、隈元謙次郎「山本芳翠について」(『美術研究』239)を読まないことには何とも言えないが・・・。

top

進路選択

2015-02-07

只今、入試期間。
尋常小学校6年間が義務教育に定められたのは明治40年(1907)。
戦前は、この後に2年間の高等小学校か中学校・実業学校・高等女学校などに進学。但し高等小学校に進むと、実業学校か師範学校にしか進むことが出来ず、大学進学はほとんど不可能に近い。つまり12歳で学歴がほぼ決まる。

日本の学制は明治6年(1873年)にフランスを模範とした。
現在のフランスも5年間の初等教育を経て、普通教育課程(リセ)、工業高校、職業高校に分離。大学入学資格試験(バカロレア)を目指すなら、リセしかない。ドイツも10歳で、職業教育か高等教育準備の進路選択を行っておく必要があるという。
世界の教育はことのほか厳しい。

「法学部では憲法や刑法より免許と道路交通法、経済学部ではマイケルポーターや戦略論より弥生会計ソフトの使い方」といった物議をよんでいる「L型大学」なるものの発想も、実はこうした流れから来ているのかもしれない。

top

裏天満

2015-02-08

夕刻より飲み会。場所は天満。

ちょっとわかりにくく若干遅刻。
JR天満を出ると天神橋筋商店街。ひとつ東に筋を違えると、商店街と並行して“裏天満”。軒先が重なるほどの狭い通りを挟んで居酒屋や料理店などの飲食店、はてはパチンコ屋までが立ち並ぶ。“穴場”の飲食店もあるらしい。
ただし、天神橋筋商店街と裏天満とを結ぶ通路がない。従って天神橋筋商店街を進んでしまうと、裏天満へはなかなか行きにくい。もちろん客層も異なる。
ちょっとディープな“裏天満”。

交番で飲み会の場所を聞くも、大阪弁だったからなのか「どっからきたん?」とまずは尋問。
完全に“田舎者”。

top

危機管理

2015-02-10

いくつかの会議があり、その後卒論に没頭。

グルーバル化の流れもあって、留学等のセクションは会議などでも元気。そのこと自体は悪くないのだが、気になることがひとつ。

嫌味を承知の上で記せば、関学は海外への留学生向けに「テロ、暴動、盗難、紛失、病気等、留学中で予期しないトラブルに巻き込まれた場合、解決するのは自分自身です。日本にいる時と同じような感覚で生活してはいけません。」と“浮かれた”気分にひとまず釘を刺す。
ところが、うちにはこれがないのだ。口頭では言っているのかもしれないが、みんな“浮き浮き気分”で出国。
外務省「海外安全ホームページ」のリンクは海外旅行(大学生活)と海外からの留学生向け(日本での生活について・在留関係)にしか貼られていない。日本は世界有数の安全な国なので、本来は出国する留学生向けに貼られてしかるべきなのだが。(*_*)

「イスラム国」は「日本人は今や、標的だ」などと言及しているなか、もう少し“浮き浮き気分”から冷静にならんと、あかんと思う。

top

多忙

2015-02-12

朝より口頭試問。
午前中休むことなく試問を行い、正午過ぎから会議2つ(しかも校内の端にある建物で開催)。この間、試問の休憩時間にあててもらう。その後、大急ぎで再び試問会場へ戻り、試問再開。
持ち帰り弁当を喰ったのは夕刻4時過ぎ。
その後も細々としたことも。

ゼミ生同士で、試問が朝の部と夕刻の部に分かれていたのはなぜ?と疑念を抱いたLINEが飛び交っていたが、すべてこちらの事情によるもの。

なぜ、こうした事態になったのか、未だに解せないでいる。それにしても疲れた・・・。

top

生駒の神さま、仏さま

2015-02-13

小雪舞うなか、生駒ふるさとミュージアム「魅力発見!生駒の神さま、仏さま-お寺と神社の文化財-」展へ。

旧生駒町役場庁舎(登録文化財)を改造してミュージアムとしており、もと会議場が展示室(議員控室も民具展示)。

美術資料としては、宝山寺・不動明王立像(19世紀)、阿弥陀を中心に千手、薬師を三尊形式に描いた《熊野本地仏曼荼羅》、《釈迦如来(来迎)図》、《阿弥陀三尊来迎図》《地蔵菩薩二童子図》(いずれも阿弥陀寺)の5点。《熊野本地仏曼荼羅》は16世紀ごろかと想像するが、その他は18世紀初~末の作品。

奈良博《生駒宮曼荼羅》(14世紀)と往馬大社《生駒宮曼荼羅》(1456年)の複製が並ぶ背後に、永禄6年銘の《湯釜》(脚欠損)。複製の《生駒宮曼荼羅》は共に本殿前に釜が描かれている。湯立神事は鎌倉から行われていた証左(現在は切り幣)。
往馬大社には経室があり、境内と近傍の寺院11か寺が神宮寺とされ、3年交代で「社僧仲ケ間」を務める。11×3=33なので、本地仏は十一面観音像(現在も境内観音堂に安置)。

施設の関係上、どうしても展示品の種類は限られて考古資料中心となるがやむを得ない。

top

学外講座

2015-02-14

土曜日ながら朝から会議続き。

会議終了後、〆切を過ぎた短文を書くが、どうしても間に合わない。USBにデータを入れて、夜遅く駅のホームで電車を待っていると某学部の先生。学生の論文指導を終えて同僚の先生と(軽く)一杯のあと。若干赤ら顔。

学外講座にて雑談。うちの会社はあれこれと学外講座を持ちすぎ、引き受け過ぎ・・・と。
この先生もあれこれとお持ちの由、同じ講座を引き受けたことも。

「講座の最後(最終回)にアンケート取るでしょ、あれが曲者。評価の低い先生は外され、どんどんと偏った人選になるんです」と。
某先生、思い当たったこともあるらしく、「そうか、(聴衆が)分かろうが分かるまいが、ガンガン喋ってテーマと程遠いところへ行っても、自分にとってはプラス(?)になるんだ」とひとり合点。
「ところが、そう出来ないんですよね。ついサービスしてしまうでしょ先生も。だからドサッと来ますよ、来年度も。」
「でも“テーマ固定”で喋れったって、もうネタ切れなんで、ホンマ、自由にさせてほしいわぁ」。

評価の低かった先生。カルチャセンターから依頼があって、分厚い履歴書、研究業績書をカルチャー事務局へ送った。しばらくして人を介して照会があり、「この先生、(大学)辞めはるんですか?」と。「そうちゃいますか」などと返答したこともある。
雑談するうちに淡路。

この分だと帰宅は11時を回りそう。今日は土曜日。

top

遠いアムステルダム

2015-02-17

某所へ移動(移動日)。
前夜、明日中に到着すればよいので、午前中はシネ・リーブル梅田での「みんなのアムステルダム国立美術館へ」を観てから新大阪駅へ・・・と決めて就寝。久しぶりの映画。

起床すると、9時を回っている。あちゃぁ~。シネ・リーブル梅田の上映は9:35‎。今からでは絶対間に合わない。上映は1回。がっくりしながら旅支度。

この映画では、新設されたアジア館のメイン展示として島根県仁多郡横田町の旧岩屋寺金剛力士像が展示される。
不思議なことだが、岩屋寺本尊の四臂十一面観音坐像(嘉元4年/1306・鏡信作)は個人蔵、四天王像(天文8年・1539年/康秀作)は愛知・浄蓮寺が所蔵しており、愛知県指定になったのが1979年だから、それ以前に流出したことになる。
岩屋寺は既に廃寺となったのだが、仏像をすべて売り払って廃寺としたのだろうか。

ま、いろいろ思うところはあるものの、機会があればアムステルダムまで見に行くか。

top

仏像

2015-02-18

某所で金剛力士像の撮影、簡易調査。

ほぼ良好な状態。10数年前に修理済。修理報告書を拝見すると、天衣の一部などを除いてほとんど当初の状態。
柵を外さないと撮影できないので、頑張って外すも阿形像の横柵が外れない。もう少しなんだけど・・・と頑張るも大門(仁王門)は指定文化財。間違ってもバキッとなっては目も当てられない。
結局断念。

今回も当初は“不審者”と間違われ、地元自治体の職員が立ち会うことに。地方ではよくある話。
撮影や調査を終えると、当初の“不審者”はすっかりひそめて、お寺にある仏像や工芸品を案内、拝見させていただく御厚意にあずかる。

平安後期の優美な十一面観音像。胸の厚みはやや少ないがいかにも都ぶりの御像。ところが寺側では「室町」と仰る。目が衰えたか、むぅ?
お茶をいただきながら最近、修理されたとされ、十一面観音像に記された銘文写真を見せていただくと、背板に「奉再興」とあって、両肩の矧ぎ面に「天正廿一」の銘文。両肩の矧ぎ面に墨書を記すのは南北朝や室町の特徴ながら、その多くは修復に伴うもの。製作にしろ修復にしろこの時期、普通は胎内に書く。修復した際に修復者が誤った理解をし(修理書にもその旨が記される)、そのまま地元自治体の職員(帰っちゃったけど)に引き継がれたのだろう。

せっかく穏やかに撮影、調査が終わったのに「後を濁して」帰るわけにはいかない。
「古いもの(仏像)ですから大事になさってください」と返事。住職、にっこり。
夕闇が迫る頃に寺を辞す。最近は日が長くなった。

top

近世初期の論社

2015-02-19

以前、論社について記したことがある。論社(問題)とは「延喜式内社」の比定をめぐって複数の神社が争うこと。
近代社格制度の社格は原則、延喜式における社格とは無関係ながら、幕末期の国学発展に伴い、式内社であるか否かが問題となり、さすがに争いはないが、今日までひきずっている。

肥前国一の宮。
與止日女神社(よどひめじんじゃ)(現佐賀市)と千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)(現三養基郡みやき町)がともに「一ノ宮」を自称。両社は20kぐらい離れている・・・。
與止日女神社は「延喜式」に記載されるも、千栗八幡宮もそのまま「肥前国一の宮」。とうとう元和7年には訴訟沙汰に。

興味深いことに、それぞれが神宮寺の本山等をバックに付けて主張している。與止日女神社は仁和寺門跡、千栗八幡宮は南光坊天海。元和5年6月の秀忠上洛の際には與止日女神社側は京都に出向いて奉行所へ訴えようともするが、肥前佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂は「領国の寺社同士の争いは恥ずかしい」からやめろと固く自制の旨。結局、慶長18年以前の「一ノ宮」の使用だけを認め、後は両社とも一切「一ノ宮」を認めないことに。
こうしたあいまいな処置が後々まで尾を引くことにも。

top

吉田源之丞

2015-02-20

修論の口頭試問(会議1、欠席)。

九州国立博物館の各種案内のどこにも記されていないが、九博で「京仏師・伝承の世界-第十五代大仏師 吉田源之丞と京仏師たち-」展が開催されていた。
吉田源之丞のほか、坪田最有、櫻井覚山の作品が展示。

現在も三条通寺町東入に「吉田源之丞老舗」として店を構えており、元亀3年(1572)に五条高倉に仏具の製造販売の店を開いたとされ、明治に入り現在地に移転との由。
記録からは幕末以降に作例も残るものの、創業が元亀3年とされるとやや困惑。

たまたま資料を整理していると、「京七条大仏師法眼大蔵孫弟子/吉田信入/同 源之丞」なる銘記を発見。時期はよくわからないが、信入は元禄12年、福岡・聖福寺弥勒菩薩像を「厳修」(完成)するなど、いくつかの事績が確認。とすると、銘記の資料もそのころのものであろう。「同 源之丞」は吉田源之丞。

こう繋がるのかと理解。

top

心がけ次第

2015-02-21

土曜日、好天、しかして大学院入試。

大坂、いや日本を代表する豪商として鴻池が掲げられる。当主は代々善右衛門を名乗り、全国諸藩から融資を受けていたようで「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまで言われた。その一族に鴻池道億(1656~1736)がいる。家業の傍ら茶を好み、特に茶道具の目利きに秀でたという。

住友史料館に道億が記した1通の覚があり、そこには手厳しい所見が記載。
一唐物古難波茶入/外ニ広東袋添
大似セモノ、本小肩衝ニ候ハバ代付ニ有/モノ
一伊羅保茶碗銘半月
此ハイラホハ江戸ニテヤキタル高原土アシキ/故にソコヲスリ申
一唐物丸壺茶入
コノ唐物も似セニテ正不宜シ
一黒楽白月能模様茶碗
古キ手ニカヤウノカタ無之候
一高麗茶碗
日本ヤキニテ候、コウメイニクスリカカリタル
「覚」の後半には真作に「金三両位」などとあるので、道具商が値付けを依頼した折のものだろうか。それにしても手厳しい。

鴻池家には、飛青磁花入(国宝・東洋陶磁美術館)、朝鮮唐津耳付六角花入、南蛮芋頭水指、狂言袴茶碗「浪花筒」(共に東博)など一級品が揃っていた。
昭和15年、「多数ノ美術品ヲ将来永ク完全ニ保存スルハ容易ノ業」ではないとして、6月12日に売立。秘蔵の美術品は各地に散らばっていった。

道億は「茶なと被遊候様ニ御心かけ候ハバ、追而御目利ニ御成□んと奉存候」と。
なにごとも心がけ次第である。

top

たいへん申し訳ありませんでした

2015-02-25

原稿がひと段落したと思ったのも束の間、レイアウトが出来ていないことが判明。せめて図版だけでも業者へ渡さないといけないことになり大慌てで、レイアウト作成、写真を集めることに。
業者に“手ぶら”で帰ってもらうわけにはいかない・・・。

あちこちのハードディスクに分散する画像、これを集めている間に、業者、来た~。
横で待ってもらっている間も画像を集積。
小1時間ほど過ぎ、ようやく集積完了。お詫びの言葉を述べながらレイアウトと画像を渡す。
このため、会議を欠席。

悪事?は、ばれるもので、夕刻事務の方とばったり。「今日、会議欠席したでしょ」。
「たいへん申し訳ありませんでした」

今日、何度目かのセリフである。

top

海文堂書店

2015-02-26

終日、雨。神戸に御用。

しばらく時間があったので、プチ散策。
春節は昨日で終了したが、まだ神戸の街には中国や東南アジアの外国人観光客がいっぱい。私も三宮界隈は久しぶり。
阪急三宮駅前にあった阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)は2002年に閉館し、兵庫県立美術館横の阪神・淡路大震災記念人と防災未来センターで活動。今は店舗ビルに変わっている。
はや震災から20年。
元町商店街を歩くと、海文堂書店も閉店しココカラファインに変わっていた。
帆船をモチーフにした独特のブックカバーで知られたように海事関係が充実した書店ながらも、2階奥には海文堂ギャラリーがあって様々な個展が開かれ、神戸の時間潰しといえば、ギャラリー見学(見物)であった。観音屋(コーヒー・チーズケーキ)も店構えを改装。観音像はまだあるのだろうか。商店街の端までいくと老祥紀(豚饅頭)。ここも奇麗に改装。

結局どこにも寄らず、予定時間となる。
学生時代の郷愁を感じるよりもその変貌ぶりに驚くばかり。

top

記念品

2015-02-28

土曜日、大学は静寂。

卒業式にゼミ生に配る卒業論文集を作成。ちょっと厚口の両面コピー紙を用意。

やってみると、結構たいへん。
まず原稿が揃っていない。「印刷するから(提出卒論)データ下さい」と言っていたのだが、各卒論の表紙・目次・本文・図版が揃っているものは少なく、全く音沙汰ないゼミ生も。仕方なく原本をスキャンして印刷へ。スキャンデータもパンチ穴などもあって修正。
その後両面印刷。手持ちのコピー機は両面印刷が出来ないが奇数頁、偶数頁の印刷は可能。部数分を印刷するが、頁送りの関係でやや難渋する。 図版も大量なのでインクもすぐに無くなり、再び買いに行く始末。

夕刻、ようやく印刷が終り、丁合を確認。
最後に図版等はインクを多く使うのでやや波打っているので、『国史大辞典』3冊を積み重ねてプレス。 後は製本へ。

初の試みながら、喜んでもらえるだろうか。

top

過去ログ