日々雑記


浙江省

2014-09-01

詳細は こちら

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ネーミング

2014-09-04

古墳のネーミングは複雑。

百舌鳥耳原中陵、仁徳天皇陵、伝仁徳天皇陵古墳、大山古墳、大仙古墳、大仙陵古墳・・・いずれも同じ古墳である。
考古学では被葬者に対する先入観をもたないように地名などに基づいた命名をするが、あまり関心のない人には混乱気味。

1枚の案内リーフレットには、「土師ニサンザイ古墳」「ニサンザイ古墳」「東百舌鳥陵墓参考地」が併存。もちろんこれらもひとつの古墳。
日本語表記でも混在しているので、英語表記だと、どうするんだろうと思う。

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醍醐寺展

2014-09-05

本館(なら仏像館)が長期休館(~2016年3月)になるので、見納めかたがた奈良博へ。

まずは「醍醐寺」展。
個人的関心は秀頼による江戸時代の五大明王像と修験道関係。
不動明王像は康正・康理(製作)、降三世は康正・康英(製作)、金剛夜叉は康正・康英(大修復)のよるもの。軍茶利も同時期の制作に拠るらしい。
その後、「豊光寺遣覚案」や《銅造理源大師像》など。彫刻や絵画はもちろん聖教や文書も興味深いものが多数。

その後、本館にて珠玉の仏像群をゆっくりと拝見。外山区阿弥陀如来坐像は想像以上に大型。
久しぶりに(日本の)仏像を堪能。

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リバグレス猪名川

2014-09-06

午後、猪名川町中央公民館にてリバグレス猪名川。
大学(大阪都市遺産研究センター)によるもの。

普段と同じく紫合(ゆうだ)の交差点を右折して、道を間違えたことに気づく(本来は直進)。
時間に余裕があったので、そのまま天澤寺へ。天澤寺は行基四十九院が開いた「楊津(やないづ)院」の後身とされる。木津ということから丹波あたりの材木の集積地とも。

現在も浄土宗だが、近世中頃に「浄土宗、辞める!」と地域の浄土宗寺院や本山をまきこんでちょっとした騒動が起こる・・・。
雨も降ってきたので、公民館へと向かい、地元とは無関係に「中世の堺」について講筵。
終了後、突然のにわか雨。

天候不順で蒸し暑い午後。

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御用出仕

2014-09-08

御用出仕にて、再び奈良へ。

平日(しかも月曜日)朝の奈良は観光客も少なく、鹿ものんびり。
御用は2種類あるうちのひとつ。1時間ほどで終わり、その後大学。
夕刻には、某先生の随行として学長室へ。

学長室はまるで町医者のよう。受付のような学長秘書課(だったと思う)を通り横の待合室で待機、時間になると学長室に導かれる。
左右には数名の関係者が同席。お一人はどこかで見たことのある方だが思い出せないでいる。

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バケーション

2014-09-09~11

遅まきながらバケーション。女性陣は3日間、ずっとテンション高し。
こちらはさながら運転手兼ガイド。どうやらひとり観光客にみえず現地で溶け込んでいた模様。
日焼け、擦り切れたジーンズ、かりゆし、サンダル姿ではやむを得ないか。

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土蔵安藝

2014-09-12

終日、某市にて調査。

真宗寺院(大谷派)にて「御絵伝」(寛政12年作)を拝見。
「御絵伝」第4巻は親鸞の荼毘が描かれているが、東(大谷派)では荼毘の煙が右側に流れ、西(本願寺派)では左側に流れる、というのは某氏の説明。
ところで絵所の誰が描いたのかはあまり知られていない。
今回、「絵所 土蔵安藝」の印が押された当初の包装紙を筐底から発見。

「土蔵」は西本願寺絵所のひとりなのだが・・・。
作者名が見つかったものの、しばし考え込む。

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画業に老いあり

2014-09-14

昨夜、日付も変わった頃にEテレセレクション・アーカイブス「シリーズ巨匠たちのアトリエ“画業に老いなし”」(1999年放送)を見る。
中川一政、梅原龍三郎、奥村土牛、福沢一郎、森田茂、小倉遊亀が登場。

「敬老の日」にちなんでのことらしいが、梅原龍三郎はピアニスト中村紘子をモデルに無邪気に絵筆をとり、中川一政はイーゼルを道路脇に立てキャンバスに向かい、森田茂は絵具のチューブをキャンパス上に絞り出し、時折軍手やビニール袋を張り付けてトーンを見ている。

それに比べて高齢であった日本画家の凋落ぶりは正直、見ていて痛々しい限り。介助者によって絵筆を取るのもやっとだし、出来上がった絵もまるで生気がない。
最後に登場した画家(101歳)が署名した作品(完成品・静物画)を眺めて、「まずい・・・、みんなまずい・・・。まずそうな、果物・・・。」と語った姿は、画家としての終焉を迎えたような心境なんだろう。

普段、授業で語っている「ひとそれぞれの山なりの画業」を計らずも見た思い。

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吉野山

2014-09-15

昼前、どこかお寺(名刹)へ連れて行けと家人。京都は行くまでたいへん(連休の渋滞)だし、とはいえ奈良市内もこの間行ったばかり。
春に田中利典氏が「新緑の吉野山は最高。」と仰っていたのを思い出し、急遽吉野山へ。

秋空も近く、涼しい風も吹く。紅葉前の青葉ももちろん見事。
工事用足場に覆われた仁王門。仁王像をみるだけの隙間は残してある。仁王門修復のための蔵王権現像(秘仏)開扉は11月から。
蔵王堂へ向かい、康成作薬師如来像、釈迦如来像を拝見。聖徳太子孝養像は暗くてよく見えない。次いで安禅寺旧本尊の蔵王権現立像。同行の上娘が像の前で同じポーズ。バカ娘。天海僧正像、万治4年(1661)の「渡海船大絵馬」も拝見。

秘仏の原型となった蔵王権現像を見に、如意輪寺に向かいながら、天台宗僧天海の吉野一山の関与に興味がわく。吉野地方にあまり天台宗寺院はないのになぜという思い。

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南屛晩鐘

2014-09-16

過日、「要らないから」と某氏から頂いた大岡春卜『和漢名画苑』「古法眼流」。
ぱらぱらと頁をくると、狩野真笑の「西湖十景」。

西湖十景とは、蘇堤春暁・平湖秋月・断橋残雪・麹(ママ)院風荷・三潭印月・花港観魚・柳浪聞鶯・南屛晩鐘・両峰挿雲・雷峯夕照(『和漢名画苑』による)。
南屛晩鐘の左側の寺観は浄慈寺。

現在とは違って絵画(粉本)ながら静かな光景が広がる。
雷峯夕照も然り。
今やエスカレーターやエレベターも完備した近代的なサイトミュージアムとなった雷峰塔だが、絵の中では、林のなかで六角の石塔がみえている。

所詮、絵空事ということか。

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祭りの準備

2014-09-18

夜、道沿いに掲げられた提灯のもと、練習の祭囃子が聞こえてくる。

岸和田城下の「だんじり祭り」(9月13日・14日)が終われば、いよいよこちら(郡部)が本番。
重さ4tのだんじりに笛2管、小太鼓、鉦、大太鼓の鳴物5名、大工方3名、ブレーキ1名、その他(役員)1~2名、計10tを全速で引っ張るので、集団ランニン グはもとより軽トラに曳き綱を付けて走る“練習”もある。
各交差点にはすでに「祭礼のため迂回」の看板。町内はすでに祭りムード一色。
試験曳きは10/5、祭礼(本番)は10/11・12。

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古文書

2014-09-19

某市文化財保護審議会へ。

案件のひとつに古文書。
一見、問題なさそうに思えるのだが、「恐惶謹言」の位置が少しおかしいということに始まって、花押の中央に折り目が来るのはいかがなものだとか、宛所の敬称が「殿」ではなく「様」であるのは・・・とかの疑義が歴史(古文書)の委員から出る。
では「偽文書」かといえば、花押は間違いなく、こちらはどういうことだといぶかる。写しの可能性もあるとのご指摘。
やはり餅屋は餅屋。

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大和川

2014-09-20

リバグレス猪名川。堺の2回目。

堺港の衰退は宝永元年(1704)の大和川の付替えによる流出した土砂によるといわれる。
最近の調査研究では、貞享4年(1687)には洪水で苦しむ河内や摂津の約270か村(約15万石)が付替えの運動に参加するが、元禄16年(1703)には42か村(約3万石)にまで減少、しかも要求は「付替え」ではなく堤防補強など治水嘆願に変更、付替え運動は急速に下火となる。もちろん幕府は沈黙。
こうしたなか幕府は突如、「付替え」を決行。諸大名と幕府が費用を折半、37500石の幕府負担。地形が緩やかに傾斜しているので両側に堤防を築いただけのスピード普請(防災上は問題ありか)。旧河川には新田が誕生。新田は入札によって37000石で売却。しかも4年後には年貢が上納。計算づくめの「付替え」。
逆にみれば、幕府にとって堺は新田ほどには魅力なかったのか・・・。

脱線しそうになりながらも終了。コメントペーパーを回収。

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平成知新館

2014-09-21

家人の御用で京都。御用が終わるまで、京都美術館めぐり。

まずは京都国立博物館「平成知新館オープン記念展 京へのいざない」展へ。
噂に違わず、国宝・重要文化財がいっぱい。特に順路はないようなので、混雑の隙間を縫って1F~3Fを行ったり来たり。
1Fは入館してすぐさまで混雑しており、2Fへ。
《伝源頼朝像》や《釈迦金棺出現図》 、《阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)》、《瓢鮎図》、《天橋立図》、 牧谿《遠浦帰帆図》などなど、溜息ばかりが出るほどの名品展。ここで授業がしたい・・・。
李唐《山水図》には人が群れていたが、もと1幅であったことを何人がわかったのだろうか。
個人的には楼鑰賛《元照律師像》・《道宣律師像》や《舟行送別図》、夏永《岳陽楼図》などちょっと変った作品が瞠目。
聖衆来迎寺《六道図》はマイナーな《譬喩経所説念仏功徳図》《人道無常相》の2幅。
工芸では久々に旧阿須賀神社古神宝類。

階段からみると、1Fもようやく人が少なくなり、階下へ。
金剛寺《大日如来坐像》《不動明王坐像》、西往寺《宝誌和尚立像》もさることながら、愛宕念仏寺《金剛力士立像》や源智の《阿弥陀如来立像》もみのがせない一品。大通寺《源実朝坐像》(江戸時代)にはやや驚き。
1F奥は絵巻物。《餓鬼草紙》《一遍聖絵》《法然上人絵》。さながら東博の「国宝室」をみる思い。
せっかく詞書が展示されているのに「不親切やわ。(内容が)わからへんがな」とぼやく関西人。猫に小判哉。

入口前に「レクサス」も“展示”。時代も変わったものだと実感。

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ジャポニスムの還流

2014-09-22

授業開始。

昨日は京都国立博物館の後、京都国立近代美術館「ホイッスラー展」へ向かった。
「ジャポニスムの先駆」と称されるが展示はごく平凡。

興味深かったのは常設展の一角にある「キュレトリアル・スタディズ07 日本近代絵画と浮世絵-鏡としてのジャポニスム」。
いうまでもなく、ジャポニスムは浮世絵を筆頭とする日本の伝統美術が欧州に影響を与えた作品。その直後に、日本の洋画壇は、欧州の作品をお手本にして発展する。題して「ジャポニスムの還流」。
そこで問題になるのが、当時の日本の洋画壇が果たして、その源流が日本の伝統美術を意識していたかいう点。

展示では、浅井忠を筆頭に加藤源之助、長谷川良雄、津田青楓、三井文二などの作品が並ぶ。作品だけをみるとなるほどと思う。
これはちょっとずるい。
ほぼ全員、浅井を軸にした関西美術院ではないか(大阪出身の大久保作次郎のみ東京)。
とある雑文で書いたように「ジャポニスムを背景にした殖産興業を支えたのは、東京よりも京都の近代美術である。京都は『美術』の長い伝統や自主性を保守しようとし、京都美術の振興が日本美術全体の振興につながるとの自負もあった。西欧に対しても竹内栖鳳の渡欧にみるように、東京経由ではなく直接、西欧に目を向けていた」のである。
同時期の東京画壇の傾向をみるがよい。自ずから差異が明らかになるだろう。

京都画壇はちょっと特殊。

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材木

2014-09-24

会議ディ。

中国・呉越の土地は宋代には戦火に合うことがなく、人口急増で物価も急上昇。
人口が増えると、薪炭のためにあるいは造船のために森林伐採が激化、南宋時代には「大水の時、既に材木無」い状態に。
こうした状況下で、日本からの輸入材は良質かつ貴重で、主要輸出品として掲げられる。重源や後白河院、栄西、円爾らはせっせと木材を寄進。

仏像も日本の材木が彼の地に行き、宋の工人が彫刻して、入宋僧が請来するといったこともあったのだろう。泉涌寺などの仏像も要チェックである。

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東京地方裁判所民事20部

2014-09-26

午後、大学のレターボックスを覗くと、東京地方裁判所民事20部からの書簡。

天地神明に誓って悪事は働いていないが、思わずドキッとする。宛名はもちろん私。通常管財係にマーキングがしてあるが、いったい何事なのか。
恐る恐る開いてみると、「破産手続開始通知書」「破産債権届出書」及び債権者集会の案内。出版社DM社が破産との由。

DM社からは原稿依頼があって昨秋に出版されたばかり。確か原稿料は頂いたはずで、おそらく「債権」は存在しない。

出版社はどことも青息吐息のようである。

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四国へんろ展

2014-09-27

遅ればせながら愛媛県立美術館「四国へんろ展」。

高野・熊野などの名品を交えての展示。金剛峯寺・中尊寺経(紺紙金銀字一切経)。
おやっと思ったのは「眼見一切佛転正法輪出生修多羅得普境界」。18文字。左右はお約束通り17文字。写経僧、おまえもか。

展示をみているうち「お遍路」というのは重層的な基盤の上に立つものだと実感。
弘法大師生誕にはじまり、末法思想(経塚)、修験道(蔵王権現懸仏)、熊野(阿弥陀の本地)、一遍(聖絵)、六十六部、真念など、四国が霊地としての考えに基づき、廻国の行として成り立っている。

太山寺悉皆調査による成果。女神像や五智如来像、日月鈴や戒体箱等々。本尊の江戸期の修復は 福田曾平 によるもの。
なかでも窓付きの大花瓶(砥部焼)一対は興味深い。こうした大型花瓶は1873年のウィーン万国博覧会にみる大型花瓶(伊万里)にも繋がってくる。そうした観点からみると、宋紫山(宋紫石の子)描く不動明王像も狩野芳崖《不動明王立像》に通じてこないだろうか。
遍路展ながら札所寺院の文化財だけでなく様々な厚みと広がりが感じられた。

階上(コレクション展)では松本山雪をはじめとする御用絵師の作品を展示。江戸詰めの御用絵師もおり、聞けば画料が地元松山より江戸詰めのほうが高額との由。

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内子

2014-09-28

太山寺に向かう。やはりここまで来たからには鐘楼の「地獄絵図」を見ておかないと。

その後、松山にもどりワンマンカーに揺られて小1時間、いくつものトンネルを抜けて内子町へ。
木蝋の原料となるハゼの流通で財をなしたナマコ壁の商家が立ち並ぶ。和蝋燭などほとんど見かけない今日にあって、往時の繁栄ぶりを示している。商家群の中心部は国の重要伝統的建造物群保存地区として指定。

中心部からやや外れた所に内子座。明治末頃、地元の娯楽場として発案され、地元有志による「大典記念株式会社内子座」を設立、大正天皇の即位を祝して大正5年(1916)に創建された芝居小屋。もちろん芝居の中心は歌舞伎。今でも現役である。
しかし、当時の娯楽は激変の最中。内子駅に軽便鉄道が開通してしばらく経った大正14年(1925)、地元有志が活動写真館「旭館」を建設、歌舞伎と映画という2大娯楽施設が内子に誕生。
当時は日曜ともなると周辺から多くの人が内子に来て楽しんだことであろう。
内子座(1916年)旭館(1925年)

静かな内子から松山にもどり帰阪の途につく。

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卒論演習

2014-09-30

夕刻、卒論演習。先週は祝日だったので今回が初回。
“最後”の夏休みとあって、皆豪快に遊んでいたようで、各地のお土産を持参・交換しながら授業が始まる。肝心の下書き原稿も順調。安堵。

順調に書きだすと、不安も出てくる。とある画家のポスターが別の画家が手掛けたとする雑誌表紙と瓜ふたつ。「えっ、どうしよう?」と不安顔。
よく見ると、ポスターはとある企業が手掛けた懸賞応募作品の入選作。そこでイレギュラーに同企業が手掛ける雑誌表紙に採用したもの。
おそらくこれから不安が続出すると思われるが、ドンマイである。

最後に「卒業アルバム」(15700円もする)ゼミ写真撮影の予定を決めて授業終了。
昔、写真撮影に合わせてセットにいった女子学生もいた。確かに永久に残るものなのだが、何もそこまでしなくても・・・。

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