日々雑記


茨城

2013-11-01

茨城県立歴史館へ。
茨城=大洗=ガルパン ということで、水戸駅から歴史館までの路線バスはガルパン仕様(2号車)。
〔いきなり、オタクネタで申し訳ない・・・。〕

歴史館ではもちろんガルパンとは関係なく「はにわの世界−茨城の形象埴輪とその周辺−」が開催。
もとより埴輪も関係なく、仏師関連文書を閲覧。

以前、仏像に対して温度差があると言ったが、まさに茨城県が該当する。『茨城県史』でも美術編はなく、また『茨城県史料』でも考古編は4分冊になってはいるが、美術に関した章立てはない。
もちろん古代・中世に関してはある程度の蓄積はあるが、近世に至っては皆無の状況。過日の話題ではないが、近世の仏像が盗難にあっても被害届すら提出できない。

忸怩たる思いで日立泊。

top

五浦

2013-11-02

早朝より常磐線で大津港駅へ。
因みに次の駅は勿来(なこそ・福島県いわき市)。茨城最北端。駅から海岸に向かうと五浦(いづら)。

明治31年(1898)に東京美術学校校長を辞職した岡倉天心は、東京・上野谷中に日本美術院を設立するが、天心や大観らの外遊により経営難に陥る。
そこで天心は明治39年(1906)に日本美術院第一部(絵画)を五浦に移し、活動を再開する。大観や菱田春草、下村観山、木村武山が座敷に並んで作画に取り組む写真があるが、五浦でのもの。
現地に来てみると、若き大観や春草らにとってはさすがに「都落ち」の感は拭えなかったと想像。

茨城県天心記念五浦美術館「岡倉天心生誕150年・没後100年記念 岡倉天心と文化財ーまもり、つたえる、日本の美術」展を見学。
午後から彫刻史研究会が開催されるが、参加すると今日中に大阪へ戻れなくなる・・・。

最初は大観らによる知恩院阿弥陀来迎図など古画の模写。天心は東京・奈良・京都に博物館を建設するが、東京には名品が少ない。そこで奈良や京都などにある仏像仏画を模刻、模写することで 若手作家への教育と東博の展示を充実させようとした。仏像仏画の模刻模写は今でも東京藝大の定番教育のひとつとなっている。

次は日本美術院(第2部)による仏像修復。
展示された平等院雲中供養菩薩像の「修繕工法説明書」にはおもわず苦笑。
「皆後世粗末なる修理を加へたるのみならず最近明治十八年の修繕の如きハ誠に遺憾極りなきものにして…」
江戸時代の修理より明治18年の修理のほうが酷いという。
「江戸時代の悪修理」と口を揃えていうけれど、確かに洋釘を用いた明治初年頃の修理のほうが荒っぽく、仏像に大きなダメージを与えていることも事実。

後は美術院による修復例から茨城の仏像が展示。普段は掛幅仕様の展示ケースながら、おおむね展示台が高すぎて仏像を見上げてしまう展示になっているのが難。

図録冒頭に興味深い一文。
「父(後藤光岳)は東京美術学校で大村西崖の東洋美術史の講義を聞いたが、内容はつまらなかったと言う。友人から借りて読んだ天心日本美術史講義筆記ノートの構想力の大きさには驚いたと。」
この違いは既に岡田健氏が指摘するように「西崖、中国に赴かずに東洋美術史を語る」ことに尽きる。足を運んでモノを実際にみることが大切であることを改めて思う。

大津港駅に戻り帰阪。自宅までざっと7時間余。

top

いぶし銀

2013-11-03

某所にて保護司や消防、防犯、スポーツ等で活躍された方に混じって表彰。
取り立てて功績があるわけでもないし、こういうのはあまり好きではない。欠席しようとも思ったが、式典は総務課が企画しており、欠席すれば当該課が総務課からイヤミのひとつでも受けるのではないかと思い、出席することに。

最近「いぶし銀」と称されたことがあった。照れくさかったので「メッキが剥げないよう頑張ります」と応じたが、これには大いに気をよくした。
今日は文化の日。これからも職人気質で頑張っていこうと思う。

top

古典籍

2013-11-04

学園祭前、授業直前のコピーでバタバタした折に某先生(常に若手に対しても礼儀正しく接して頂き、敬意を払っている)が、某カタログのとある頁を示して、「これ、わかりますか?」と示された。

見れば、古典籍カタログでの「源氏物語」販売。320,000,000とある。「桁が分かりますか?」とふたたび。「こちら(白描源氏物語絵巻)は220,000,000。おひとつ、いかがですか?」と、茶目っ気たっぷりに仰る。
「どこ(の業者)ですか?」と問うと、よく知る古書店。

授業が終わってカタログを見れば、既に即売会は終了(もちろん購入意思は毛頭ない、というかそんな軍資金はない)。
先生も実見する機会を失ったのだろう。あのあと、「勉強させてくれますわ」と言い残して研究室へと向かわれた。願わくば、公的機関等に納まって先生の喜ぶ顔が見たいものである。

景気がよいのか、この類いも一時期に比べ相当高値の傾向。

top

揺れ動く

2013-11-05

何事もなかったように普段通り。すっかりと寒くなった。

卒論指導もそろそろ佳境。というか来々週には、来年度のゼミ分けガイダンスがある。他は概ね3回生で分かれるのだが、うちは4回生。
うちの学生は不安になるらしく、授業後、「うち(芸美)のゼミ分けは何時ですか」と聞かれることもしばしば。

研究の関心が固まる、やりたい研究テーマと1年間で出来る研究テーマの違いがわかるのは、ちょうど今頃。ギリギリまで待たないと関心は揺れ動く。
(3回生の演習ではそのことがようやくわかるのだが)
実はこうした揺れは2回生の秋や他の専修でも起こる。「今の専修はどうも思っていたことと違うように思うんですが・・・」とか「こういう仏像ってご存知ないですか?」と他専修からの相談が来るのもこの時期。
前者は「何でも相談に乗るし」と慰留し、後者は他専修の卒論の謝辞に名前が出る始末。

なかなか揺れ動くお年頃でもある。

top

版図

2013-11-06

中国・山西省で爆破テロ。過日のウイグル人による天安門事件。

妹尾達彦氏によれば、中国の版図(領土)は、「内中国」(洛陽を主とした北部中国・長安を主とした西北部中国・長江流域・東南海岸・嶺南・雲貴)と「外中国」(東北・モンゴル・新疆・チベット・アムドチベット)にわけることができるという。
内と外を合わせた「大中国」と内だけの「小中国」があり、王朝の交替によって、中国の版図は人間の心臓のように大きくなったり小さくなったりするという。
(授業ではこの後、中国仏教の話となる)

こうしてみると「清」は大中国の時期であり、共産党によって中国は、大きくなったものの、現在の中国は「小中国」の時期にあたるのではないだろうか。それを無理から押しとどめている歪みがウイグルや山西省で起こっているのではないか。

とはいえ、いまさら「外中国」を外すこともできないだろうし・・・。

top

イーデス・ハンソン

2013-11-08

大学より、えっ!というお仕事。他人の領域に踏み込む(もっと適任者がいるのだが)ようなことであまり乗り気はしないが、大学が乗り気なのもので・・・宮仕えゆえ。

そのなかで「イーデス・ハンソン」の名前。おそらく、うちの学生はほとんど知らないだろう。
現在、和歌山・田辺市中辺路町で「田舎暮し」を継続中。
だからか、と合点がいった次第。

top

行基

2013-11-08

午後より伊丹・昆陽寺で「行基伝承仏研究の現状」で講演。
講演前に担当者から「行基を悪く言うと、“石”投げられますよ」と笑いながら脅される。だから「研究の現状」としたのだが・・・。

もっぱら井上正氏らの論を紹介。残念ながら仏像彫刻の本に「行基仏」の名前が出ないので、一般の人にはよくわからない領域である。
「美しい」という基準だけで仏像を見てはいけないのは、円空を掲げるまでもなく理解できる。また神仏習合初期段階で、「霊木化現」という現象を設定できるのも納得いくところ。問題は時代設定。

ただ昔の記憶をたどれば、井上氏が掲げない仏像のうち、ずいぶん制作時期の設定があがった仏像(多田寺脇侍像や室生寺弥勒菩薩像、世尊寺十一面観音像など)も多い。

幸い、石を投げられずに終了。安堵。

top

暴走老人

2013-11-11

茶会記を通して利休の茶をみてみると、本能寺の変以降、大きく変わる。
「見立て」や下手物と称されたものから「美」を見いだす姿勢から、茶碗を焼かせ釜を作らせ、「創造」へと向かった。
そのことが「マイスの頂上」ともいわれるのだが、より先鋭化させたのは、例の“猿”。
対極に位置し、徹底的に嫌がること=怒り=利休の「美」を追求しようとしたのではないか。
そのことが死に至らしめた・・・。

本能寺の変がなければ、凡庸な茶人で終わったかもしれない。
根っからの関西(大阪)人ながら秀吉は好きではないので、そう思うだけなのかもしれないが。

top

鏡像

2013-11-13

会議ディ。朝夕、めっきり寒くなった。秋も本番。

とある先生から「韓国へ行ってきたので・・・」と韓国仏画の本を頂く。パラパラと頁を繰りながらみてみると阿弥陀やら観音の鏡像が掲載。しかも点描で描かれている。時代は概ね高麗時代。
「御正体?」といぶかるものの朝鮮半島で“神仏習合”みたいな話は聞いたことがない。
確か、清凉寺釈迦如来像胎内からも水月観音像が線刻された素文鏡があった。

アジアでは、鏡面に仏像を映し出すのはごく自然な発想だったのかもしれない。

top

墨跡ナトヒキサカレ

2013-11-14

山本 兼一『利休にたずねよ』の一節に、信長の名物狩りで、利休所持の密庵咸傑の墨蹟が春屋宗園によって「贋作」とされ、利休自らその場で墨蹟を引き裂いたことが記されている。
(ネタばれなので、注意)

裏付けを取っていると、『天王寺屋会記』永禄11年(1568)11月12日にこの冬、利休は逼塞しており「墨跡ナトヒキサカレ候時之事」と記されている。また『南方録』にも密庵咸傑の墨蹟をかけたところ、北向道陳らが黙っていたので焼き捨てたとも。
自身の目利きが足らなかったこととはいえ、厳しい姿勢。

冷静に見てみるとこんな時代から「贋作」が出まわっていたとは。
最近、ずっと「茶会記」をみている。
先に提出したレジュメに2つミスを発見。がっくり・・・。

top

上京

2013-11-15

午前中、授業を終えて上京。
体力、気力不足なのか、齢なのか、明朝一番に上京するのはしんどくなってきた。前泊することに。午後の授業は日曜日、見学会に振り替え。
到着後、東京ステーションギャラリーで「生誕100年!植田正治のつくりかた」を見る。週末の東京は恐ろしいほど人が多い。この人の多さが展覧会を盛り上げる一因だろう。いくら有名であっても東京で取り上げられ、多くの人に目に触れて話題にならないとダメなのだろう。まだ勤務中だと思われる時刻に多くの人が熱心に植田の「作られた写真」をみている。これほどの人が鳥取の「植田正治写真記念館」に来るだろうかとも。

日本や世界でも著名な作家ながら没後は郷里の美術館で細々と取り上げられるうち、注目されない「過去の人」になってしまった作家も多い。「おらが町のセンセ」という思いも分からないわけではないが、この際、閑散期に東京で展覧会を行って再評価、再認識することも必要ではないかと思ったりする。

夕刻、在京の旧友と一献。

top

武四郎と利休

2013-11-16

午前中、静嘉堂文庫美術館「幕末の北方探検家 松浦武四郎」展を見学。「年代不詳」とか「古墳時代〜近代」など真贋取り交ぜての考古資料などが展示。中には「勾玉 江戸時代〜明治」という資料も。さすがに「贋作」とは書けない。
関係資料やコレクションを見ながらまさに「好古家」の本領をみた思い。
もちろん件の千体仏や百万塔、聖徳太子馬上像や頓阿「西行法師」像も。多くの作品には箱(箱書)が添えられて展示されている。『木片勧進』もたいへん興味深い。

実物は展示されていなかったが、秀逸なのは河鍋暁斎に描かせた《武四郎涅槃図涅槃図》。展示されている首飾りを付けて涅槃に入る武四郎は、螺鈿の長机に並べられた収集品(展示資料)に囲まれている。幸せそうな涅槃図である。
鬼籍に入る時、これまで調査した仏像・神像に囲まれて・・・とふと思う。

半蔵門線で大手町に向かい関西大学東京センターへ。
午後、関西大学と堺市とのコラボ企画(公開講座)で「茶会記からみた利休の茶道具」について講演。
昨夜、シュミレーションした通り予定より10分ほどオーバーしたが、つつがなく終了。
昔、お世話になった市職員の方とも懐かしのご対面。当時は確か広報課だったような・・・。

講演後、東博「京都」展を見学し、帰阪。

top

清朝陶磁

2013-11-17

午後、1回生向け見学会で京都国立博物館「魅惑の清朝陶磁」展へ。参加者2名。
「なぜ、来ないんでしょうかね?」という質問にも、「まぁ所詮、関大生も、大阪のおっちゃん、おばちゃんの予備軍ですから・・・」と。

仏像(奈良国立博物館)以上にマニアックな清朝陶磁。さすがに入館者は少なく、丁寧に解説しながら展示作品をみていく。
日本からの注文品やヨーロッパ向き輸出品(明代もそうだが、なぜか日本向けに混じる)、煎茶関係、十錦手、日本での翻案作品、伊万里の清朝写しなど、盛りだくさん。

面白かったのは文化4年(1807)の琉球館文書の解説。薩摩藩が琉球に対して、近年、献上用の官窯製品の質が落ちてきているのは琉球で偽造しているからではないかとの嫌疑がかけられ琉球側が断じてそんなことはない、と抗弁。19世紀には官窯の質も低下していたことが分かるとともに薩摩藩は琉球経由の清朝陶磁を朝廷や幕府などに献上していたことも。
想像すれば、琉球はずっと中国製陶磁や東南アジア陶磁器を介して繁栄していたと思える。

見学後、例のごとくお茶して解散。

top

憧憬の京都

2013-11-18

JR東海(新幹線)のキャンペーンコピーは「そうだ京都、行こう」である。

過日、一献傾けていた折、旧友が「京都の紅葉が見たい。在学中に行っておけばよかったものを・・・」とつぶやく。
東博「京都」展も舟木本、歴博甲本等の《洛中洛外図屏風》のほか旧京都御所の仁和寺《賢聖障子絵》や襖絵、龍安寺襖絵(メトロポリタン美術館 ・シアトル美術館含)、二条城黒書院障壁画など20件(但し二条城障壁画30面などは圧倒される展示)と少ないにも関わらず、閉館間際まで、関西人としては目を疑うほどの大混雑ぶり。
因みにこちらが一番驚いたのが龍安寺の石庭を撮影した16mにわたる10Kの超高精細映像。桜、雨、蝉の鳴き声、風、紅葉、雪、と石庭の四季の移り変わりを見せてくれる。美しさはもちろん繋ぎの自然なこと・・・。

地方は東京に絶対的な憧れをもつが、東京は京都に対し無上の憧れをもっているように思う。実に羨ましいことである。
そういえば、京都展のミュージアムショップでの図録販売のキャッチコピーに「『京都でも見ることの出来ない京都』心行く(ママ)までお楽しみいただける拡大図版満載」とあった。
文化レベルの違いをまざまざと感じざるを得ない。

top

山の神仏

2013-11-20

早いもので「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録になって来年で10年。来春に大阪市立美術館で展覧会が開催。
豊かな自然に育まれてきた神仏の世界である。

熊野速玉大神坐像(熊野速玉大社)や蔵王権現立像(吉野如意輪寺)はもとより、10年前の展覧会「祈りの道」では見たことがなかった熊野曼荼羅図(兵庫・湯泉神社)、丹生明神像(埼玉・法恩寺)も出品される。

こうした文化財や豊かな自然は“所蔵者”ということでつい我々人間の所有物と思いがちだが、一木一草たりとも神仏が所有している。地元の人ばかりでなく霊場を訪れる人もそうした畏敬の念を抱かなければいけない。「神仏に生かされている」ことの大切さを感じないといけない。
そういえば、世界遺産登録後、牛馬童子像の頭部を折ったり那智の滝に登ったりと「神仏も恐れぬバカ」もいたっけ。

top

安土宗論

2013-11-22

天正7年(1579)、5月27日、織田信長の命で安土城下で浄土宗と法華宗の宗論が行われた。法華宗側はきらびやかな法衣、浄土宗側は黒染めの衣で法論に臨み、法華宗側は負けた途端に「判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。」と『信長公記』にある。

仏像調査のうち、一番厄介なのは日蓮上人坐像。像の上から寸法に合わせた実際の衣や袈裟が着せられている。それを丁寧に脱がせていくと、着衣が彫刻された日蓮上人像。本来は「裸形着装像」だったのが、いつの間にか着衣像にも着せられるようになる。関係者によれば昭和30年代にはほとんど認められなかったという。

信仰の変化としてみれば済むのだろうが、木が布に巻かれた状態では、鼠害にも遭う可能性が大きく、また布に湿気がたまってカビや色移り(汚染)の恐れもある。文化財(というより本尊として)の保存としては逆効果である。

「保存としてはよくないことですので・・・」と安土宗論のように「袈裟を剥ぎ取る」と、これはこれで大問題。本山もそうした悪弊をやめさせればよいのに。

top

荒川修作

2013-11-23

朝より奈義町現代美術館へ。
M先生とゼミ生ら及び昨日シンポジウムを終えられたABRF(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所)の方々と、車2台で分乗。

中国道、いつもの吹田〜西宮山口JCTまでの渋滞は想定内。ところが山崎〜作用JCTまで工事のため1車線規制でまたまた渋滞。9時に梅田を出発したのだが、奈義到着は1時過ぎ。食事を取り、さて美術館へと動かすと、左前輪がパンク。同乗の方をもう1台にピストン輸送してもらい、こちらはJAFを呼びスペアタイヤに取りかえ、津山市内までタイヤ交換。その後、現代美術館に向かうも到着は17:00(泣)。

展示も体験できず、コーヒーを頂いた後、岡山駅経由自宅へ。
いったい今日は何をしに来たのだろうかと思いつつ、高速上でパンクしなくてよかったと安堵。

top

憧憬の京都 part2

2013-11-24

朝、過日の旧友のつぶやきを家人に話していたら「私も見たことがない!」と。ヤブヘビながら考えた末に京阪、叡電を乗り継ぎ鞍馬寺へ。

紅葉を見ながら本殿へ。家人が本殿周辺で紅葉を楽しんでいる間、こちらは霊宝館。3階では毘沙門天三尊像、定慶の聖観音像、兜跋毘沙門天立像、毘沙門天像3躯を拝見し、2階では、鞍馬寺経塚遺物や冬柏亭の扁額など与謝野晶子資料も。
ゆっくりと紅葉を楽しみ木の根道まで登って再び九十九折参道を下る。

遅い昼食を取り、ライトアップされるというので叡電で貴船神社へ。夕闇が迫る頃に神社到着。

雑踏のなかライトアップされた紅葉をみるが、最も奇麗だったのは叡電 貴船口駅の紅葉。堪能しながら出町柳に向うが、フィナーレは市原駅・二ノ瀬駅間の「もみじのトンネル」。この間は徐行、車内消灯。あまりに美しいので市原駅で降りて再び「もみじのトンネル」を通って貴船口へ(フリー切符)。
さすがに貴船口からは素直に帰ったが、“京都の紅葉”を満喫。

おすすめは、夜の出町柳から鞍馬への先頭車両の運転席横。子供のように大人が群がっていました。鞍馬発でも同じなのですが、勾配の関係で出町柳発のほうが徐行度大です。

top

惰眠した五感の覚醒

2013-11-25

過日、ABRF(荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所)の方々との雑談。
ABRFが関係する施設としては、「三鷹天命反転住宅」(東京)、「養老天命反転地」(三重)、そして「奈義町現代美術館」(岡山)がある。時折、「どんな(新興)宗教ですか?」と尋ねる人も少なくないそうだ。

日常を過ごす中で、我々の五感は次第に鈍化し衰えていく。五感を鋭敏にするためには鍛えてないといけない。とはいえ、戦場のど真ん中にでもいない限り、日々の生活では難しい。そこで鈍った感覚を一度リセットするような構築物(作品)がこれらの施設にはある。常識を根底から疑い、壊す新しい感覚に驚くことで、五感を更に鋭敏化させる装置でもある。

もっともコンセプトは理解しても“あぶなっかしそうな”人が現れることもあり、施設管理者としてはハラハラドキドキすることもあるという。(下は奈義町現代美術館)

top

正法か末法か

2013-11-26

帰りの車中で話題になったことがもうひとつ。

芸術家など個人を顕彰する展覧会は、没後100年がいい。展示資料の蓄積はあるし、個人を知る人も少なくなって展示のストーリーが組みやすい。何しろ著作権の問題もクリアするので、と私。
対してABRFのスタッフは生誕100年はインパクトが強いので魅力的。見知った人も多く、聞き取りをしてもそうだったのかと気づくことも多く、何といっても“ガラス・マジック”が効くからと。
ありていの古びたパンフレットでも独立ケースに入れると、重要な資料であるというオーラが出て、これくらいならウチにもあるぞといった形で新たな資料が導きだされて続々と追加展示(特別展示)となるのが“ガラス・マジック”。

雑談しながら、思わず「末法思想」を思い出した。
(実際の「末法思想」とは異なるが)お釈迦さんを見た、話を聞いた人もおり、書いたものも残っているのが「正法」、見たこともないけれど、書いたものだけが残っているのが「像法」、見たことも聞いたこともないし、書いたものの出鱈目なのが「末法」と考えると、やっぱり生誕100年のほうがより事実に近いということかと。

top

関西(人)文化力ゼロ

2013-11-28

法隆寺・西院大垣に釘状のもので、「殺すぞボケ」「ヒマやね」の落書き。
版築なので修復不可能。

言葉遣いからして関西人(なんとなく大阪のような)。
いったいこういう輩は何時になったら消えるのだろうか。
どういうことをしているのか、どう見られているのかもまったく理解していない。 ごく一握りながらきっと新聞記事をみながら「関西人ってバカだよね」と思われている。
「猫に小判」ならぬ「バカに文化財」。

top

秘仏

2013-11-30

とある方の紹介で某所にて秘仏を拝見。
先代の住職は生涯一度も厨子の扉を開けたことはなく、現住もごくたまに開扉する程度。

やや傷みはあるものの、10世紀にさかのぼる半丈六の薬師如来坐像。厨子の奥には同じ時期と思われる天部像も。
住職は江戸時代に火災にあり、そうした古い仏像が残っているわけはないと。表面の傷みは主に江戸期の紙貼りによる補修。なるほど・・・。
仏像というのは意外にも壊れやすい(部材がバラバラになる)。火災の際に力任せに動かしたらバラバラとなって、鎮火後、修復したとも思える。

禅宗で大切なのは祖師や開祖の肖像彫刻。時折、肖像彫刻の“生首”をみたり、首から頭部がすっぽりと抜けることがあるが、あれは万が一の際に、肖像彫刻の頭部だけを救出する仕様であろうと思う。
件の半丈六仏は取りたてて修理とかの緊急性もないことを告げる。

拝見後、別の寺院で相談を受けて帰宅。
世の中にはまだまだ知られざる仏像がある。

top

過去ログ