日々雑記


曇徴

2013-10-01

韓国大統領が「歴史認識」に言及した記事をみて思い出すこと。

とある授業。
法隆寺金堂壁画を説明したところ、授業終了後、とある学生から猛烈にクレームが来た(しかも一般教養)。「センセはなぜ、『曇徴(どんちょう)』についてまったく触れないのですか」と。
最初は、正直何を言ってるんや(つっかかてきている)?という理解。

曇徴は7世紀高句麗からの渡来僧。彩色(顔料)・紙墨・碾磑を造ったとされる人物。「日本史」でもそう習ったはず。
曇徴と法隆寺金堂壁画とが頭の中で結びつかない、学生の言っていることが分からない・・・・。ちょっと気になったことがあり、適当に聞きながして教壇を後にする。

部屋に戻って「曇徴」について調べると、韓国では法隆寺金堂壁画は曇徴の作と教えられているらしい。法隆寺金堂自体が7世紀後半の再建で、曇徴は610年に高句麗の嬰陽王が朝廷に貢上した由(「日本書紀」)。

ちゃんと歴史史実に基づいて教えないと・・・。

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禰宜

2013-10-03

「カケコー、カケコー、カケコー」と鶏鳴三声で始まる伊勢神宮(内宮)の遷御(遷宮)。

新聞報道のなか驚いたのはドナルド・キーン氏。御年91歳。4度目の「遷御の儀」を見るとの由。
振り返ってみると、前の遷宮は自転車の前後に子供を乗せて紙おむつを買いに走った時期で、遷宮どころではない。その前は、沿線の近鉄が熱心にPRしており、親と一緒に行った(内宮か外宮かも定かではない)のだが、思い出すのは暗闇の中、ざっ、ざっという玉石を踏む音と柏手の音ばかり。
子供心にちょっと怖かった思いがある。

“就活”の頃、神宮徴古館(その頃はまだ神宮美術館がなかった)からの求職の話があった。
条件としては「ネギ以上の推薦状を提出すること」。ネギ?八百屋?、笑い話だが、当時は何のことかさっぱりわからない。もちろん断念。
今なら国学院大学で神職の資格と学芸員資格をとってどこかの神職を務めながら・・・と思うものの、禰宜、宮司の推薦状を取って来いとなると、今でも数名しか思い浮かばないのが現状。
思えば非常にハードルが高かった・・・。
今年はどの神社も忙しそうである。

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仏像写真

2013-10-04

これまで仏像を専ら撮影する多くのプロカメラマンに出会ってきた。
若い頃はブルーランプ(タングステン)2灯とレフ板だけで仏像の魅力を引き出すことに驚いたり、齢を重ねてもポラを見ながら「もう少し(ビューポイントを)下げてください」などと注文を付けたこともある。
そうしたプロカメラマンが異口同音に「自分は仏像は撮れてもヌード(人物のこと。もちろん着衣でも)は撮れまへん」とおっしゃる。

とある写真家の回想録。
1998年に京都の古刹にある仏像群(国宝・重文)の写真を撮影した折のこと。ストロボを使うのに乗用車ほどの発電機を借りたとか、三脚(の石突)で床などを傷めないように東京から毛布を持参したことなどが語られる。
読むほどに滑稽。これまで仏像を撮ったことがなかったので単に緊張したということだけじゃないのか。
現場的には、初めて調査(撮影)する仏像(の魅力)をいかに撮影するのかを瞬時に見いださなければならないし、国宝・重要文化財でなくとも三脚の使用に注意が必要なことは当たり前(石突が出たまま引きずると、畳をいためてしまう)。回顧録の後半には「仏像を撮っているうちに、人物を撮ることと変わりないことに気づいた」とも。
いやいや・・・。普段、七五三や卒園式の写真を撮っている人に仏像写真は撮れんやろと思う。

その折のカットが掲載されているが、仏像そのものが持つ魅力よりもかなりの(ストロボによる)演出がなされている。プロカメラマンと写真家との大きな隔絶。
さすが「女優写真の第一人者」である。

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御調八幡宮

2013-10-05

朝から雨。広島・御調八幡宮へ。仄聞していたが、さすがに遠い。

参拝後、収蔵庫へ。ポスターになった女神像は既に引き上げられ、替って立て膝の荒々しい表現の《女神像》。既に「大神社展」などで何度も見ているが、やはり秀逸。右手に持物(さしば?)を差し込んだ痕跡があるが、ここに持物を差し込むとちょうど顔が隠れるようになっている。
注目したのは衣文が全くない「僧形八幡神像」。つやのある木材を使い、頭頂はややとがり気味で、連眉に近く厳しい表情。右手が長く膝にかかる。蓮肉まで一木で彫られているが、蓮肉には蓮弁の跡はない。解説で示された時期よりもやや遡るではないかと思う。
天部形像も見どころ。吉祥薬師像ともされ、膝前には墨線で衣文が示されているように思う。髻も前と後との2段風。腰布合わせ目も縛った腰紐以下で表すものの、その上は表されない。中央に置かれた《僧形八幡像》。古いのだが、膝の出は少なく坐制(座り方)が気になるところ。

外は大粒の雨が降っておりゆっくりと見学。行道面(平安?鎌倉)や嘉禎2年の《法華経普門品版木》や翌年の《金剛寿命陀羅尼経版木》も。共に地元の豪族安那定親が願主。

雨天のせいかかなり暗くなり、ローカルバスで三原市内にもどる。

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仏教寺院の至宝

2013-10-06
朝、三原リージョンプラザ展示室で「御調八幡宮と三原の文化財」展を見学。

会場が2会場に分かれているのは、三原リージョンプラザでは重要文化財の展示が出来ないからである。目玉である重要文化財は所蔵者(御調八幡宮収蔵庫)以外だと、この近郊では県立美術館(広島市)か県立歴史博物館(福山市)となるだろう。見学後に、傍の「三原市歴史民俗資料館」に立ち寄ったが、とても指定文化財を並べる環境ではない。カタログでは市長の意気込みが「ごあいさつ」で語られていたが、足元はそれほどでもないようである。
とはいえ、リージョンプラザでは県指定、市指定も展示してあり、展示自体は悪くはない。

男神像(伝藤原百川像)は膝前が朽損しているが、面部をみると唐招提寺の薬師如来像に近い感じがする。目の切り込みや下瞼の肉付けがそっくり。
頭に五角形の頭襟(ときん)状の装飾を付けた和木薬師堂・「男神坐像」「女神坐像」。男神像は合掌し、女神像は中央に持物を執る姿。男神像は向かって右側へ僅かに傾き、女神像は左側に傾く。平安初期とはあるが、到底そこまでさかのぼり得ず、平安時代後期あるいは室町時代あたりの地方作だろうか。合掌姿というのがいかにも・・・。
善根寺保存会の日光・月光菩薩像。同じ作風だが、日光菩薩像は腰を捻り左足が前に出ており、月光菩薩像は足を揃えて直立。対で制作されたものではなく、いくつかの群像があって残った2躯を日光・月光菩薩像にしたものか。

その後、倉敷市立美術館「倉敷仏教寺院の至宝」へ。
「至宝」ということで「仏教美術展」ではない。釧雲泉《山水図》や柴田義薫《唐獅子図板絵》、黒田辰秋《赤漆捻彫棗》などが展示。それでも宝山湛海筆《不動明王像図》や安養寺《銅造如来立像》(平安時代?)などが並ぶ。仏教絵画の展示は難しい。基本的に画面が真っ暗でしかも保存のため照明を抑えているのでガラス面に作品を近づけないと、何が描かれているのかわからない。時には赤外線や図で解説するのだがそれもないので、一般の人は涅槃図以外あまり立ち止まらない。多くは近世絵画のほうに目が向けられる。
横井金谷《大峰山図》は醍醐寺門跡高演の入峰を描いたもの。高演が乗った輿も描かれており何かの企画展に使えるのではとつい思ってしまう。

暴言だが、地方には地方の良さがあってそこに注目しない限り、奈良・京都の“2次創作”を追っかけるだけでは立ちゆかない。状態はよくないが10世紀の作品があっても、地方にとっては貴重な作品である。そこを学芸員が見逃してはアウトだと思う。
というか、考古学はそういう資料(たとえば白磁碗の破片)でも堂々と展示しているじゃないか。
ぶつくさ言いながら大原美術館にも立ち寄らず帰阪。

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物証

2013-10-07

新聞(地方版)では北堺警察署(昔は堺東署と呼んでいたはずだが)の誤認逮捕が話題に。

5:39にセルフ式ガソリンスタンドで盗難カードを使って25Lを給油したとして逮捕起訴された会社員。会社員はいつも現金払い。その後、阪神高速堺線をETCを使って旅行へ。ガソリンスタンドを出てETCを通過した時刻は5:40. GSから阪高堺入口まで6.4K。時速360kmもある。
ありえへん。ところが誤認逮捕、起訴へ。元を糺せばGSの給油時刻(防犯カメラ)の時刻設定が間違っていただけ。
今では真犯人もわからず、物証もなくなっている。

「美術史は探偵みたいなものです」とは某美術史研究者の迷言。大胆な推理(仮説)、緻密な物証の検討、整合性のとれた論理・・・。
美術史研究者も刑事と似たようなものだが、物証しか残っていないので人をあやめることはまずない・・・。
それでも時々「あれっ、(作品を制作した時、作者は)死んでいるやんか(二代目の作か)」と気づくこともしばし。

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「不審」の極み

2013-10-09

「Webメールシステム管理者」からメール。使っている人はわかるが、Webメールだけを管理している人などいない。はぁ?

慎重に開くと、以下の文面。

  お客様各位、
  の違反:メールアカウントが(理由48時間以内にDISABLEになります サービスのいかなる
  利用規約)申し訳ありません、あなたのアカウントは一時的に無効にされていません
  不審な活動のために、本のために、我々はすべてのアカウントを確認しました
  私は、私たちのサービスの機能の効率を上げる。で行われているアップグレード
  あなたはそれが、私たち誤ってやっていると感じた場合、我々のデータベースでは、親切に
  クリックすることができます
  あなたのアカウントを確認するには、次のようにリンクすることができます。
    http://
  Webベースの電子メール・アドレスをレンダリングするには、すぐに失敗すると、
  そうするように私たちのデータベースから非アクティブに。

  ありがとう。
  カスタマーケアセンター。
  UCOM Webメール
  (c)1998-2010トランスウエア株式会社すべての権利予約。

言わずと知れた「フィッシングメール」。日本語自体が「不審」だって。即削除。

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隠れたカリキュラム

2013-10-10

学校教育には、各教科でのカリキュラムの他に「隠れたカリキュラム」がある。時間通りに指定の教室に集まる、教員の指示に従う、講義を聞き、よくわからないところは質問をするなどが、「隠れたカリキュラム」と呼ばれる。
これは学校教育に留まらず、企業など社会に出た際に必須の意識や態度であり、こうしたことも学校で無意識に教育されている。
就業時間に遅れる、上司の指示に従わない、報告・相談ができないでは、社会人として失格の烙印を押される。

昔はバンカラで通った学校ながら、今は全く元気なし。就職説明会でも質問をする学生は他大学の学生。「関大生が元気」というのも昔語り。就職説明会でたまに質問をする学生もいるが、肝心の話を聞いていないのでトンチンカンな質問をし会場内の他の大学生から失笑を買うことにも。

相変わらず大教室の講義での後方座席はうるさい。
遅刻をして大教室の後方に座って大きな声で私語をする、これでは先行きが暗いのは当たり前。

こんな時に喋る量を浪費しているから、肝心な時に喋られへんのとちゃうか。

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非常線

2013-10-11

大きな事件などがおきると、今は警察や消防などで「立入禁止」の黄色いテープが張られる。

江戸時代後期、徳川将軍が亡くなると、七条左京の仏師工房で将軍の肖像彫刻や位牌を製作搬出するために、工房周辺で不審者が通行しないか周辺住民は監視しろとか、用事もないのにうろつかないなどの御触が出される。また工房でも肖像彫刻を製作するための「仮設小屋」が設けられ、肖像彫刻は製作中はもとより完成しても人目に触れることはない(設置費用はもちろん支払われる)。

そんなことで京都でも有名な仏師工房だが、慶応3年(1867)に幕府へ「御前借銀願」をしている。幕府に「前借」を頼んでいることや前年8月に14代徳川家茂が亡くなっているので、おそらく家茂関係に関わることだろうが、幕末期には金銭的に苦しかったのだろう。翌年明治維新。
明治3年には家禄を受け取り幕府御用を終え、その後「小売商人」に転職。

七条左京の終焉でもある。


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手がかり

2013-10-12

数年前に、知人から「とある仏師が若い頃、京都に出て七条仏師康伝(30代)に弟子入りして地元に戻って仏師として活躍したので、康伝の事績から彼の履歴を調べてほしい」という“探偵”もどきの依頼。
30代康伝の事績などは殆ど未知の領域ながら、一応、手元の資料で調べたが、複数の手代の氏名や10名ほどの工房であったことが分かっただけで、それ以上のことはわからない。期待に沿えるような事項もなくそのまま放置していたのだが、今日“問題”となった作品の銘記を発見。

むん?知る限りでは「法眼七条左京康伝」等と自署には必ず僧綱位を記しているが、銘記には僧綱位もないようである。なにより「康」が「广(まだれ)」に「泰」。到底、康伝の自署とは思えないが、詳細な考察は既に報告済。

せめて、依頼のあった時に資料でも送ってくれれば(資料を送って下さいと言うべきだった)、その時に「(康伝とは)違う」とも言えたのだが、今となってはそれも言いづらい。違う方向に考えれば「康伝」と結びつかなくもないが、今や遅し。

せめて何らかの手がかりがあればよいのだが・・・。

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浄瑠璃寺

2013-10-13

浄瑠璃寺へ。
まだまだ秋は遠いが、柿が実りススキもいくつか。
九体阿弥陀像が有名ながら最近では、浄瑠璃寺旧蔵(もと興福寺蔵)の十二神将像に「上坊別当執筆、大仏師運慶」の銘記があるとの明治時代の新聞記事がみつかったことで話題となった。

四天王像(国宝)を見て、九体阿弥陀を眺めながら特別開扉された吉祥天像をゆっくりと拝見。不動三尊像も慶派の作品。康円あたりだろうか。大日如来像も慶派だし、最近の浄瑠璃寺のトレンドは平安期の九体阿弥陀如来像や四天王像ではなく、慶派作品である。

ゆっくりと庭園をまわり、石仏巡りへ。
鎌倉から南北朝の石仏が点在。岩船阿弥陀三尊磨崖仏(わらい仏)まで行って戻ってくる。
行政区域は京都だが、ここは奈良の奥座敷。石仏も「伊派」と思える作品もあり、南都の影響が色濃く残る。

同行人も無人スタンドで柿など買ってご満悦の由。

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南山城における仏教文化

2013-10-14

上野仏教美術研究財団による「上代南山城における仏教文化の伝播と受容」研究報告と座談会へ京都テルサに。

馬場南遺跡(神雄寺跡)の遺構は4×5の側柱からなる建物。柱と建物内部の基壇の間は1尺ほどしかない。また池からは灯明皿8,000枚ほど出土し、燃灯供養が行われたとの由。驚き。
塑像についても完成された塑像の上から塑土を塗りこめ更に完成された塑像を作っている。しかも塗り込められた塑像と表面の塑像は異なるなど、驚きの連続・・・。
乾漆像は観音寺十一面観音像について。どうしても「興福寺官務牒疏」に触れざるをえないが、報告者は「椿井文書」として却下。
椿井文書とは椿井政隆(1770−1837)が創作した偽文書群。古文書の世界でも「木津あたりから出るので“傷(木津)文書”ともいう」(コメンテーターの弁)らしい。
「興福寺官務牒疏」の史料的価値がゼロということは、近畿での仏教美術研究にとってはかなり影響が出そうな感じである。

座談会で突然発言を求められ、しどろもどろ。

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ハッピーマンディ

2013-10-17

通勤途上、不意に不安になる。「今週の月曜日は祝日だったので、その振替は昨日(水曜)ではなかったか」と。忘れていました・・・ではシャレにならない。ドキドキしながら大学で確認すると11月7日。よかった・・・。

文科省の御達しで授業が15回完全実施ながら、月曜日の授業はハッピーマンディのおかげで潰れがち。
周辺の大学をみると、
  A.平日の祝日は、授業を実施。
  B.平日の祝日は休日とし他の日に振り返る。
のどちらか。

うちはB。月曜日の授業を他の曜日に振り替えても今度は他の曜日を調整しないといけないので、毎年、来年度の時間割を検討する場が設けられる。だが、曜日のやり取りもなんとなく限界に近い。
もうAでいいのかも。授業を休む学生は平日であれ祝日であれ出てこないのだから・・・。

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協賛

2013-10-18

大阪のあちこちで正倉院展のポスターを見かける。今年のメインは「漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)」。

正倉院宝物の梱包(開梱)は奈良国立博物館館員が行う。日通(と思う)は正倉院から奈良国立博物館まで運ぶだけ。
首から職員証やペンやらぶら下げて、業者に梱包を任せて職員同士で喋っているような学芸員はとても無理。かくいう私でも頭を抱えてしまう。「すみませんでした」では絶対すまない世界である。

そんなことを思いながらポスターを見ると、協賛各社に名を連ねていた大学名が替っている。どことなくステータス代だと思っていたのだが、新しい大学名と正倉院展とはしっくりこない。
もとより他大学を批評する資格はない。うちは「大阪マラソン」。文化は二の次、三の次である。

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各種入試

2013-10-20

朝より各種入試(面接)で大学。

終了後、明日の授業準備。近代日本画の推移を記したレジュメを作成。明治以降は「東京」と「京都」に分けて解説。東京はフェノロサ・天心の新日本画運動を嚆矢とする「新派」と従来からの「旧派」が文展で対立が悪化・・・。荒木寛畝など旧派の作品を探すと意外にも「皇室(三の丸尚蔵館)」に多い。
一方、京都では相変わらず四条圓山派の流れが続き、竹内栖鳳の登場や京都美専が出来て、ようやく“近代化”へと向かう。
「東京」と「京都」との温度差はかなり大きい。

これは日本画のみならず、彫刻でもいえることかも。(講義の)マクラにでも使うか・・・。

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同窓会

2013-10-22

夕刻、プチ同窓会。

業界関係者が大半で、興味深い話の数々。

“国は何をやっているのか”という話題も出る。午後に某所から電話取材を受け“国としてはどうすればよいのでしょうか”という質問を受けたばかり。
それにしても話題にあがった所轄はひどい。“中年族”の怒りの矛先は次第に今の学生に対しても。 「なかなか、それが難しいんよ」と愚痴めくことも。

ともあれ急遽、集合があったにも関わらずほぼ全員が顔をあわせる。
方眼紙を相手に仕事しているが、皆メニューを見るときは遠い位置や眼鏡をはずして。
歳月を感じるばかり。

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大掃除

2013-10-24

部屋(研究室)で取材の話があり、堅く拒否していたのだが、某所の会議室や応接室ではアカン(“絵”にならん)ということなので、ほぼ終日大掃除。

きれいに書籍が並べたものの、書籍の場所が変わったので本が探しにくいこと夥しい。
だから嫌だといったのだが。

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仏像盗難

2013-10-25

未指定の仏像盗難についての取材あり。

T大学のA先生が長期出張中とのことで、A先生よりこちらに話が回ってくる。仏像盗難は専門外なので固辞したのだが、「未指定の仏像」を数多く調査、研究されているので・・・という言葉に負けて対応。

盗難が多発するのは、無住の寺をはじめ管理側、行政に問題がある。管理側は重要文化財など指定品には気を配るが、未指定はまさに“埒外”。像高はもとより写真もない。 無住の寺での未指定品は「アシがつきにくい」ので格好のターゲット。

市町村の文化財関係者はおおかたが「埋蔵文化財」関係なので、未指定仏像には関わりたくないという気持ちもある。「それは信仰の対象」だからと逃げる。でも市町村指定の多くは寺にある仏像や絵画なんだが。

鍵を複数かけて侵入のための時間を稼ぐこと、人の気配を常に感じさせる(枯れ切った花などがあれば、人が来ていない証となる)こと、万一の時に備えて正面の写真や像高(身長)を計ることなどを話す。
法的な整備も必要。現在は万引き(窃盗)と同じ扱いだが、実行犯は厳罰に処し、仲介した古物商は鑑札を取り上げるなど、「仏像の盗難は“割に合わない”」と思わせることで、闇ルートを遮断する必要がある。匿名性の高いネットオークションも然り。
(ネットオークションの画面が流れるかもしれないが、こういう仏像が盗品ぽいというイメージ画。決して研究室でオークションに参加しているわけではない。)

「このまま放置すればどうなりますか?」という質問。
しばらく考えた挙句、「次の世代に禍根を残すでしょう」と。実は海外にも多数流出。

取材クルー、明日はO氏のもとへ。

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アートライン妙見の森

2013-10-27

M先生のゼミと合同で妙見の森BBQテラスで「BBQ大会」。

紅葉もこれからながら、麓のケーブル黒川駅前は満車。持ち込み食材を車に積んでいるので、妙見山山頂まで迂回するわけにはいかない・・・。

妙見口駅からの徒歩組が辿り着く頃に車が駐車場入りし、なんとか合流。その後はケーブルでBBQテラスへ。
川西能勢口駅から気づいていたが、「のせ電アートライン妙見の森」が開催。道すがらいくつかの作品を見る。

現代アートの厄介なところは作家が“生きていること”。つまり作品を紹介するにも「著作権」など様々なしがらみが付きまとう。駅張りのポスターを見る限り、残念ながら見知った作家はいないし、作品の写真もない。
一般の人が知らない作家の作品を敢えて紹介しないのは、実にもったいない戦略である。現代美術に関心が薄い学生にとってもケーブル車内に貼られた作品写真には興味を抱いたようだ。

BBQ大会は好評で無事終了。ご挨拶もあったりで、楽しい一日を学生と過ごす。


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見ないことには

2013-10-28

午前中、某市文化財保護審議会へ。今回は諮問。

諮問対象物件についてあれこれと質問が出るが、当方の分野でないので傍観を決め込む。
「答申に明記すべきだ」という専門家のご意見。仰るとおりで・・・と思いつつ、大丈夫かという思いも。実は多くの委員が、会議終了後に初めて対象物件を見に行く予定。(小生は既に調査済。諮問の文書に掲載された写真も撮影したもの)

会議後、現地に赴くと、シビアな質問とは裏腹に“自明のこと”として理解されている。専門の先生は授業があるとのことで現物をご覧になられていない・・・。 案の定、状況を察した委員からは「答申に明記すべきでない」との意見。
やっぱり、何事も現地に足を運んで見ないことには分からない。
調査したはずだが、本紙に裏打紙があることに気付く。軸装に改めた折に貼られたものだろう。

細かいことだが、どこまでを指定にするかがけっこう難問。仏像を指定した場合、台座・光背をどうするのか、軸装の場合は表装までを含めるのかなど、かなり話題になる。 台座は仏像保護のために必要だが、光背は直接仏像に影響を及ぼさないので光背だけを指定から外せ、あるいは坐像の場合、台座・光背を除外すべしという意見も出る。 どうでもいいことながら、修理の段階で結構問題となる事例がある。(台座は指定外なので補助金は出ない・・・)

午後から授業。大急ぎで大学へ。

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広報

2013-10-29

朝、弁天町駅で「これまでのやり方だと、近大には受かりません」とのポスターが貼ってあった。受験生やその親御さんなら思わず見てしまうコピー。よく見ると「Web出願(エコ出願)」のPR。

近大にはコピーライターがいるのではと思うほど、コピーが巧い。昨年の「近大へは願書請求しないでください。」とか「かみだのみ受験は、もうやめだ。」などは見事である。

夕刻、梅田の通路や最寄り駅(JR)で「関西大学の研究力。」なるポスターを見る。
正直「それで?」という思いが拭えない。「そうか、関大ではこんな研究をしているのか。面白そうだ(受験しようor息子(娘)に受験させてみよう)」というメッセージがまるでない。
確かに「王女の墓」は魅力的だが、世間は「エジプトか。このところ治安悪そうだし・・・」と思ってしまう。受験生が関心を抱いても親御さんなら一度は心配するはず。
いったい誰に対しての広報なのかわからずじまい・・・。

大企業・中堅企業・中小企業の関大出身の社長や専務、常務などの顔写真と企業名を散りばめて「関西を支えているのは、実は関西大学です。」などとすれば、就活に不安な学生や親御さんにも魅力的に映るだろうし、「 恩 返しだ」などとコピーを入れるのもよいかもしれない。(悲しいかな、こういう時に「今でしょ!」といれてしまう・・・)

ともかく、あれではあきまへんな。

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宿痾

2013-10-31

日展「書」の篆刻部門の審査で、審査員が入選数を会派ごとの過去の実績を踏まえて事前調整との報道。 これはもう「宿痾」としかいいようがない。

国家による公募展として「文展(文部省美術展覧会)」ができ、明治40年(1907)に第1回文展が開催されるが、日本画・洋画を問わず旧派と新派の対立が激化し、審査員の選定が問題に。
洋画では、評価をめぐって「二科会」が独立し、日本画でも横山大観が審査員を外されたことを遠因として日本美術院が再興。

文展はその後、特選・推薦枠を設け審査を永久に経ることなく出品し得る特権「無鑑査」制度ができる。審査員(ボス)になった派閥は安泰で、下手な作品であったとしても派閥に属する限り、入選。何度か入選すれば、下手な作家でも「無鑑査」作家となり、実力ではなく、派閥の力学で入選が決まる・・・。

その後、文展は「帝展(帝国美術院展覧会)」と改められるが、派閥の力学は変わらず。文展の開催以降は野の下った美術団体が乱立する羽目に。

昭和10年(1935)、文部大臣・松田源治が挙国一致体制強化のために制度変更を敢行する。いわゆる「松田改組」である。
松田文相は、会員(ボス)の定数を30人から50人に増員して在野美術団体の代表を取り込もうとし、また「無鑑査出品」を廃止し、新規定による更新を行おうとした。いわゆる「新文展」。
ボスの権限は低下し、また下手ながら「無鑑査」となった作家にとっては死活問題。そこで美術界は大混乱に陥る。

この「新文展」が戦後の「日展」。
もう「宿痾」としかいいようがない。芸術の評価よりも政治的力学。

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