日々雑記


五百羅漢

2013-08-01

中津市教育委員会より『羅漢寺調査報告書1』をいただいた。1360年頃に造られたとされる石仏538体の調査報告。円龕昭覚と逆流建順のふたりの僧侶による造像。ともに孤峰覚明のもとに学んだ兄弟弟子の関係であるとする。円龕は安来・雲樹寺8世住持、逆流は同10世とも。
下って江戸時代。ここを訪れた松雲元慶は羅漢像を見て、「よっしゃ、ワシも造ったる」と、江戸へ出て、五百羅漢像を制作。
木造の(五百)羅漢像は中世にさかのぼる作品がほとんどなく中世の羅漢像は石像がもっぱら。

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慇懃無礼

2013-08-02

猛暑続き。
過日、暑気払いのお誘いメールが来たが、宛名はKさん。本文を読んでいると「なお、Kさんは東京出張で出席されません。」と書いてある。
はは~ん、数合わせに誘っただけなのかと不愉快千万。
宛名を間違っただけなのかも知れないが、奇しくも日ごろ、どう見られているのかわかった次第。確か、メーラーにはプレビューがあるはずだが、確認もせずにそのまま送信ボタンを押したのだろう。素直に「各位」としておけば、気持ちよく参加できたのに。
ささいな事だが、人はこんなことでで信用を失う。不幸なことは、その当人がそのことを一番理解していないことである。
酒は気ごころ知れた親しい仲間と飲むのが一番。

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屏風岩

2013-08-04

夕刻近く、猪名川町の屏風岩を見に行く。
絶景ポイントは建設会社の資材置き場。普段は傍の料理旅館を利用しないとその全貌を目にすることはなかなか難しい。
その資材置き場を商工会青年部などのかたが1日借りて夕刻よりイベントが開催。まじかに見る岩壁に驚き。
『摂津名所図会』でも同じ場所で旅人が休憩。展示でも竹内栖鳳に師事し国画創作協会にも出品歴のある樫野南陽《屏風岩図》(コピー)が展示。今も町民に愛されている名所である。
夕立が来る直前に帰宅したが、夜はライトアップも行われた模様。
川辺に林立する岩肌をみながら少しは暑さも和らぐ。

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工事中

2013-08-05

大学。少し部屋を片付けながら雑用をこなす。
夏休みの大学といえば工事。あちこちでクレーン車などを構内で見かける。今日も突然ガリガリと・・・。
とはいえ、明日から中国・西安へ行くので色々頑張らないといけない。日常から解放されると思いきや、今回はさすがにワープロ持参することに。年々、思考回路が遅くなり思いのほか時間がかかる齢となった。
夜半、ようやく帰途へ。旅行準備?これから・・・。

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西安踏査

2013-08-06~13

8月6日
 13:40 関空-中国東方航空(MU516)-15:00(中国時間)上海(浦東)到着
 17:05 上海-MU2158-20:30西安到着(1時間遅れ) 宿泊:唐華賓館
8月7日
 S氏(留学生/帰省中)と合流。西安-興慶宮公園-臨潼博物館-大明宮-清真大寺-
 鐘楼・鼓楼-西安 宿泊:唐華賓館
8月8日
 西安-青龍寺-小雁塔(西安博物院)-大興善寺-陝西省博物館(地下特別展示)-
 天壇-西安 宿泊:唐華賓館
8月9日
 西安-昭陵博物館-昭陵-長楽公主墓-書貴妃墓-乾陵博物館(永泰公主墓)-
 章懐太子墓-乾陵-開元寺塔(高速道路事故渋滞にて予定変更)-彬県
 宿泊:彬洲国際花園酒店
8月10日
 彬県-昭仁寺-大仏寺石窟-法門寺-周至 宿泊:周至賓館
8月11日
 周至-八雲塔-仙遊寺-草堂寺-浄業寺-香積寺-興教寺-華厳寺-西安
 宿泊:唐華賓館
8月12日
 西安-碑林博物館-(唐皇城牆含光門遺址博物館:雨漏のため臨時休館)-
 西安城壁(安定門)-(大唐西市博物館:臨時休館)-唐城壁遺跡公園-大雁塔-西安
 宿泊:唐華賓館
8月13日
 8:00 西安-MU521(1.5時間遅れ)-11:30上海(浦東)到着
 (空港職員によるショートカット出国)
 12:35 上海-MU747-15:40(日本時間)関空到着

追々、GALLERYにアップします。

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燈火

2013-08-14

夕刻から奈良・春日大社万燈籠へ。ウン十年前にも来たが、やはり幻想的。燈籠は慶長年間以降のものが多い。『大乗院寺社雑事記』文明7年(1475)7月28日条に「祈雨のため、南都の郷民、春日社頭から興福寺南円堂まで燈籠を懸く」とある。今日も酷暑。
春日大社は藤原永手(藤原北家)の創建とされる。南円堂も藤原冬嗣(藤原北家)が父・内麻呂追善のために建立。

釣燈籠も美しいが、参道脇の石燈籠にも火が灯る。その数1800とも2000とも。家内安全、商売繁盛、武運長久、先祖の冥福向上などなど。形も時代も様々。「大阪」とあるのは幕末以降。なかには「奈良そごう」も。
石燈籠の分類で「春日型燈籠」というのがあり、若宮社の柚ノ木の下にあった平安時代の石燈籠(柚木型燈籠・宝物館に展示)を模したものとされるがまったく似ていない。

「なら燈花会」最終日とも重なって大混雑。仏教美術資料研究センターもライトアップされ、普段とは違う夜の奈良公園散策を楽しむ。

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小野勝年

2013-08-15

西安旅行で話題となったのが、小野勝年『中国隋唐 長安・寺院資料集成』。まぁよく調べたものだとただただ感心。古書ではとんでもない高価本だったが近年復刻(それでもまだ高価)。
「博物館学」講義の非常勤講師(最後の受講生)であったが、当時は学士院賞を受賞した泰斗とも知らず好々爺な印象しかない。

戦前に中国に住み各地を巡った研究者はやはり強い。しばらく遊び?に出かける者とは足腰がまったく違う。『歴代名画記』・『入唐求法巡礼行記の研究』に接した頃は既に鬼籍へ。もう少し早く気づいておれば、あれこれ聞くことが出来たのにと、悔やまれる。

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姶良Tn火山灰

2013-08-18

桜島が爆発的噴火。
鹿児島の地図を見れば一目瞭然ながら鹿児島湾は丸く、その南側に桜島。鹿児島湾が丸いのはもと噴火口。2万9000年前~2万6000年前に大噴火し、火山灰は京都で40cm、東北南部でも5cm、八丈島でも確認できる。この火山灰が姶良Tn火山灰。Tnとはかつては丹沢山地に分布する火山灰であったため。

実はこの火山灰を挟んだ上下の地層から旧石器が確認でき、考古学的には姶良Tn火山灰がひとつの時期を示す指標とされる。旧石器はもとより縄文時代の遺跡も調査したことがないので、どんな地層なのかわからず、また地面に竹串を刺して行う調査も未だにどういうことか理解していないが、旧石器の人にはとりわけ大事な鍵層だそうである。

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調査

2013-08-19

午後、旧知の方と某所にて仏像調査。
江戸時代なので、もつれた糸をほどくようにいくつかの事項は既に解決したが、まだ決定打に欠け、ちょっと不安・・・。

帰宅後、上娘に頼んでいた論文コピーが手に入る(掲載雑誌がうちの大学になく、娘が通う大学がありそちらは今日から開館(いささかコピー代が高くついたが・・・))。
ビールも飲まずにコピーに目を通すと、「ビンゴ!」とまではいかないが、かなりの感触。

當麻寺が真言宗の中之坊と浄土宗の奥院に分かれて管理されており、信濃善光寺が天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」に管理されているのと同じことのように思える。遅くなったビールを開けつつ「子院の寺院化」についてぼやっと考える。

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衣食足りて博物館を知る

2013-08-22

騒乱が続くエジプトで、マラウイ国立博物館がまるごと略奪。収蔵品1089点のうち約1040点が盗まれ、重量のある資料は叩き割られるなどの被害。

博物館は豊かさのシンボルなんだなとつくづく思う。
数少ないながらアジアをうろうろしていると、毎日の生活がいっぱいいっぱいで博物館どころではないところも多い。国立博物館ながら絵葉書1枚すらない館や空調がないので天窓が開け放たれているが、直射日光が入る展示ケースに染織品が並べてあったり・・・。
中国でも地方の博物館に行くと、展示ケースの内外、展示台も埃で真っ白。年代物の解説パネルやキャプションも並び展示室の電灯がないところもある。監視員のお姉さんに「クーイー パイジャオ マ(写真、撮っていい)?」と聞いても首を縦に振るだけで、机上のi-padから目を離そうともしない。こちらはリュックからウエットティッシュを取り出してガラスを拭いてお目当ての資料を撮影する始末。そのうちティッシュは真っ黒。ウエットティッシュは食堂の皿や碗を(再度)拭くために持参したのだけれど・・・。

発展途上の地で博物館活動は困難を極める。国内外とも博物館(のガラス)は(見えざる) 豊かさを測るモノサシでもある。

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温度差

2013-08-23

各現場でなんとなくお役にたっている「近世仏師事績データベース」。最近、雑事多忙で資料の補綴が滞っているが・・・。
別項で出典資料を掲げているが、怠慢で未調査の県(例えば群馬)もあるが、一部の県ではまだまだ仏像は鎌倉時代までという認識が強い。大著の報告書が出ていても掲載資料が鎌倉時代までだったり、「十一面観音立像(宝暦10年・1760)」だけではいかんともしがたい。

そうした地方は政治や経済などの分野では東京指向が限りなく強いのに、文化財は東京や神奈川のように悉皆調査もせず、京都・奈良のように古代・中世の仏像と同様に近世の仏像をみるわけでもない、言わば仏像は鎌倉時代までという古い価値観をそのまま踏襲している。どの都道府県でも仏像は同じようにあるのだが、文化財としての扱いには確実に温度差がある。

「私の故郷である某県は(出典資料が)2つ、3つしか挙げられていませんが、仏像調査が行われていないのですか?」って、こちらに聞くな。郷里だったら地元に物申せ。

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前期古墳

2013-08-25

岐阜・海津市円満寺山古墳を調査している考古学研究室の院生が発表するというので、弥富市へ。豪雨や事故渋滞で思いがけず、遅れる。
不分明な古墳ながら50mほどの不定形な前方後円墳。墳丘、埋葬主体とも真北を向き、葺石、埴輪類もない。川原石を用いた竪穴式石室(最近は石槨と言うらしい)。
近畿の古墳からみれば物足りなく思うが、出土遺物は「三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡」「三角縁唐草文帯二神二獣鏡」をはじめ鉄刀、鉄剣、鉄槍など。遺物から判断すると古墳時代前期中葉から後葉との由。
後の講演やセッションでも「三角縁神獣鏡」は畿内、「人物禽獣鏡」は東海との認識。

興味深かったのは、支配者の葬地(古墳)と配下の集落の関係。山上にある古墳の直下や近所に集落を求めようとする。「濃尾地方を支配した首長の・・・」というわりには、現行の市町村域を超えていない。もっと広い範囲での想定や集落の緩やかな結びつきを考えないと「村長さんの墓」ということにもなろう。

なにわともあれ、ご苦労様でした。

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不思議ちゃん

2013-08-26

知人より問い合わせ。「頭に十一面の化仏(菩薩)、衣は納衣(如来)の仏像、他の地域でもありますか?」と。
菩薩の特徴+如来の特徴=仏像の約束事に沿わない=仏像ではない≒神仏混淆像かもしれないと思う。同様の事例はかつて一瞥したことがあるが、それ以外はあまり見かけない。

こういう「不思議ちゃん」はもっと注目されてよいと思う。明治の神仏分離で失われたものもあるだろうが、一部では近所の寺院に預かってもらう(引き取ってもらう)こともある。
純粋な?神像彫刻のほかに、本地仏として純粋仏像?を見ることが多いが、むしろ「不思議ちゃん」の存在こそが神仏習合のメインではなかったかと思う。

作者についても、我々がよく知るような仏師が造ったようにも思えない。室町時代ながら彫眼や素地仕上げが多く(後世の金箔や泥地が塗られているものもある)、往々にして一木造であることも。
近世の分業体制からすれば、他の職人の手を借りることが出来ない環境にあったと見てよい。いわば円空仏や木喰仏の源流があるように思える。

送られてきた写真をみながらあれこれと妄想。

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DとZ

2013-08-27

終日、ワープロに向かう。

大和川より南に住んで早や30年近い。今は和歌山に近いので周辺の言葉も和歌山訛りに近くなる。和歌山地元民は「だ行」と「ざ行」が混同。時折、「ざ行」は「ら行」にも変身。
ex.天王寺(てんのうり)
打ち終わった原稿をながめると、「伝説では」とある。これは「前節では」のタイプミス。
かつて発表原稿で「白湯する」と登場し目の前が真っ白になって以来のショック(× パイタンする ○左右する)。
親しくなったゼミ生にも「ほなぁ、美術館へいこら」などと口走る有様。 ホンマは奈良出身なんやけど・・・。

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事実は小説より奇なり

2013-08-28

与那覇恵『首里城への坂道‐鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房)、読了。

PR誌「ちくま」に「鎌倉芳太郎伝」として連載していたものだが、何回か読んだだけなので、改めて通して読むと鎌倉芳太郎の沖縄にかけた情熱を感じる。伊東忠太、柳宗悦らとの意識のずれも興味深い。

中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』もそうだが、評伝や伝記はノンフィクションながら厳密にはフィクションである。著者も我々と同じように、あるいは我々以上に資料を集めて執筆するが、事実と事実の隙間はフィクションで 埋めることができる。しかし我々はそうはいかない。分からないことは分からない(「後考に俟つ」)と書く。
評伝で「太郎兵衛はその時、南の空に流れ星を見た」と書かれてあり、 確かに史料にも流星が記録されたとしても、実は太郎兵衛は自宅で寝ていたかもしれない。木村蒹葭堂の学会発表で参考文献に中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』と書くだけで、クレームも出る(おそらく)。

より困るのは一般の読者や学部生が評伝や伝記の内容をオール・ノンフィクションと信じ込むことである。我らが論証に躊躇するような事柄が、興味深くも堂々と書かれているが、全て真実とはいかない。
かつて講演後に聴講者から質問(反論)のメールがあり、次の文献も読めと斜め上から目線で指示されたが、みれば剣豪小説。
評伝や伝記は人物の概要を知るには便利だがあくまでフィクションと割り切って読まないと、事実と小説がごっちゃになってしまう。

詳細に丹念に調べあげているだけに、罪な書籍でもある。

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メィクヮンシー

2013-08-29

西安の写真を整理していて、どう考えてもおかしいことに気づく。

昭陵見学後、長楽公主墓へ行った。
最初に入口の写真、見学後、振り返ってもう一度入口の写真。その間の写真は長楽公主墓の壁画である。もちろんオリジナルは陝西省歴史博物館にあり(で見ており)、墓の壁面には レプリカ壁画が貼られている。

墓道脇の武人像や怪魚はまさしく長楽公主墓壁画だが、奥に行くと女性群像。タイトルを入れようと『昭陵唐墓壁画』などを見ると、同じ写真に「燕妃墓」とある。
ありゃ、間違えたかと思いつつ写真を手掛かりに記憶を辿っても長楽公主墓見学後は、書貴妃墓へ行っており燕妃墓には行っていない。

ひとつの仮説ながら、長楽公主墓壁画(玄室奥壁)に燕妃墓壁画が貼られていたのかも。中国得意のメィクヮンシー。

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山岳信仰

2013-08-30

Oさん(のブログ)から「不思議ちゃん2号」を示教され、なるほどと思った。山の信仰は四方に広がり県境を越えて隣県にも及び、山の信仰とともに全国へと広がる。

信仰の山は現在2県にまたがっているが、 既に平安時代には旧3国から登る馬場が設けられている。なにもかもが氷解。当たらずとも遠からずの初信であったが、一ローカルなことでなく、事は重大事ではないかと第2信をしたためる。
我ながら迂闊。

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2013-03-31

久保惣記念美術館「中国・日本の漆工芸」を見学。

朱漆と黒漆による雲気文耳杯(漢代)や螺鈿楼閣山水二十四孝図六稜形盒(明)をはじめ興味深い作品がいくつも。彩漆宝相華文笈は、そのサイズが経巻を収めるのはぴったりのサイズ。 玄奘三蔵に続く僧侶もこういうのを背負って経典を求めたのだろうと実感する。同じ笈でも填漆双鹿鳳凰文笈はやや横長。 前者の宝相華文は繊細でかなり余白があり、明代陶磁器の宝相華文に似る。後者の双鹿鳳凰文はびっしりと施され、こちらのほうがやや古いか。

日本の漆では「根来塗」。「根来に根来なし」といわれて久しいが、難しい工芸品であることは間違いない。灑水器には「悉地院」の銘。 あとは「嵯峨棗」や黒漆棗。黒漆棗は同寸同形だが、一方には「千少庵」、他方には「千江岑」の在判。

印籠は吊るされて展示。印籠の図柄の多くは表裏一対でひとつとなっている(「牧牛図印籠」は童と牛、「達磨図印籠」は達磨と香炉など)ので、こうした気遣いはうれしい。 (印籠の展示は平置きが一般的)
さすがに自前の展示である。ほかに小展示室では「聴泉亭」での煎茶会にあわせて茶器の展示。どこにも告知されていないが、煎茶文化を知る上で興味深い作品も並ぶ。

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