日々雑記


賀正

2013-1-1

新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

各人予定があるらしく、午前中に揃って道明寺天満宮へ初詣。本殿まで長蛇の列。ようやくのこと参拝が終わって、恒例の「おみくじ」。
今年は大吉2、小吉2である。1番の籤をひいた末娘が、「もらう前にわかったわ。巫女さん、ニコニコしてたもん」。こちらは「小吉」。何事も励むべし・・・。

久しぶりに宝物殿。境内の雑踏とはうってかわって人は少ない。天神縁起絵といえば絵巻物が主流だが、ここのは6曲1双の扇面貼交屏風となっている。一扇につき5枚で計60枚。柏原市(雁多尾畑)から来たものとするが、詳しいことはよくわからない。白磁円硯なども拝見。
新年から良い作品をみた。その後、家人らと合流し帰宅。

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初風呂

2013-1-2


夕刻から初風呂。
といえども事情が事情なので、車で10分ほどのスーパー銭湯に通っている。街中の銭湯と同じ料金で、天然温泉なので女性陣には大好評。
スーパー銭湯になくて市井の銭湯にあるもの といえば、“富士山のペンキ絵”やタイル画。
なぜか、どの銭湯でもでも富士山と松島を組み合わせたような図柄だが、小さい頃に通った銭湯は満月をつかむ雲龍図。その下には電気風呂があり近寄るのも怖かった覚えがある。

若冲で著名なジョー・プライスの風呂場は、升目描きの《鳥獣花木図屏風》をタイルで模したものが壁画となっている。著作権がネックだが、“富士山”から離れて“痛い絵”などにすると、客層も変わるものの人は増えそうな気もする。

女性陣を待っている間にビールを飲みながら据え付けのTVをみるともなしにまったりと。
肌つるつるって、思った以上に女性の風呂は長い。

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寸松庵色紙

2013-1-3

慶長20年(1615)、大坂夏の陣の大火の記憶も生々しい頃、佐久間将監実勝(1570~1642)が堺・南宗寺を訪れる。南宗寺は、当時の堀(環濠)の外側にあり(寺の地割は中世であることを示す)通された部屋の襖には和歌が書かれた古紙が貼られていた・・・。
実勝:(これは・・・)
住職:「荒れ寺」ゆえ、こうして反故 を貼って・・・。
たぶん、この時、実勝はそのまま去ったであろう。実勝も住職もその反故紙が唐紙(からかみ)に書かれた紀貫之筆の和歌であ ることも知っていた。
後日、堺・天王寺屋津田宗及の子であり、知己の江月宗玩に相談する。
「あの襖が欲しいと言っても、襖がないと南宗寺も困るじゃろ。」
「では、新しい襖に烏丸光広に書を書いてもらって、交換というわけにはまいらぬか。」
「むぅ・・・。」
(以上、フィクション)

かくして紀貫之筆とされる12枚(11枚とも)の色紙が貼られた襖は実勝の手にわたり、色紙だけ切り取られ、歌意を描いた金地扇面画を添えて手鑑(画帖)に仕立てた。
手鑑は元和7年(1621)に大徳寺龍光院の江月宗玩を開祖として実勝が創建した塔頭寸松庵で長く愛でられ、「寸松庵色紙」と呼ばれた。その後、噂を聞いた者が南宗寺を訪ねて同種のものが流出し、現在は約40枚あるといわれている。

襖は基本4面で、色紙は本来、粘葉装冊子(紙を二つ折りにし折目に糊を付ける)ばらしたものなので、一面に2~3枚貼られていたのであろう。現在は紀貫之筆ではなく「伝 紀貫之」。

ちなみに佐久間将監実勝は自らの肖像画に猫を描き込むほどの「愛猫家」である。

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日本経済新聞

2013-1-4

日経新聞(電子版)「三流歌人なぜ選ばれた 百人一首めぐる5つのナゾ」。
久しぶりに頭の悪い記者たちによる埋め草記事。正月向けにしても程度が低すぎ。

「百人一首は決して誰もが納得する秀歌選ではない。一流歌人としては首を傾げる人たちの作品も少なくない」って、 撰者藤原定家なりの判断基準が働いていたことは明白。なにしろ、「私撰和歌集」ですから・・・。
はるか昔の事象を現在の基準で判断してはいけない。NHK紅白歌合戦のメンバーがおかしいという人もいるだろう。でも、それはNHKの判断であって、他人がとやかく言う筋合いではない。

絶望的なのは、「奈良時代以前の人物なのに、かるたの中の持統天皇はなぜか平安時代の十二ひとえをまとっている」。それは「小倉百人一首」が出来たのが平安時代末から鎌倉時代だから。

例えば、歌舞伎『廓文章』。親の勘当を受けた伊左衛門は、みすぼらしい「紙衣(かみこ)」を着るが、舞台上の伊左衛門は黒縮緬に金糸、銀糸で恋文などを刺繍したものを羽織っている。
記者は、文楽や歌舞伎の「妹背山婦女庭訓」や「寿曽我対面」も見たこともないようである。設定の時代や状況とは異なる江戸の豪奢な衣装をなぜまとっているのか、思いも及ばないようである。
過去のことは同時代の基準で考えないと、とんでもない結論となる。
株価指数と私の履歴書だけがとりえの新聞だから、文化面はさすがにトホホ・・・。

初出勤。12月30日締切の原稿を書く。

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好古家

2013-1-6

昔の筆名は「池津勇太郎」や「上方藤四郎」(共に大阪人)とかあって面白く感じたのだが、東京でも浮世絵版画を扱う店の名前が「頑古洞」(竹田泰次郎 1886~1937)とかがあった。
竹田泰次郎は自ら「勾玉狂」と称し、勾玉が出土したと聞くと「百里二百里を遠しとせず」駆けつけて買い取ろうとした。

浮世絵店の主人が勾玉に熱狂するのは少し滑稽だが、この時代、今ほど美術と考古が離れていたようには思えない。
鈴木廣之『好古家たちの19世紀』を読むと、そのことがよく理解できるし、よく「好古家」と名付けたものだと納得。

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古事記の神々

2013-1-7

今では誰でも知っている『日本書紀』『古事記』あるいはその物語内容も、江戸時代まで一部の人を除いて名前も内容も知らなかった。昨年は古事記編纂1300年で各時代の写本などが展示されていたが、あの漢字だらけの文章をすらすらと読み理解できた人はごく僅かだったに違いない。

明治になって「学制」が出来、少なくとも一般の人にとっては教科書に日本武尊などが登場するようになって初めて、紀記の神々を知るに至った。
とはいえ、戦前までは「神武天皇」は実在の人物(歴史的事実)として認知しなければならない時代であり、あいまいながらどこかで「歴史」と「神話(伝説)」の区別はなされていたのであろう。よもや「イザナミ」「イザナギ」が混沌のなかから日本を生み出したとは誰も信じていなかったはず。

当時、神々が登場する錦絵が多く刷られたのは、神々の啓蒙普及のためだろうか。

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与謝野家の人々

2013-1-8

正月から某新聞で元衆院議員与謝野馨氏の回顧録が連載。

よく知られるように馨氏は与謝野鉄幹・晶子の孫。本文にもあるように晶子の名声が高まるにつれ、歌の師である鉄幹はグレていく。
これもよく知られているが、鉄幹と晶子の間には6男6女の子供(一人早逝)がいた。
掲載された1919年(大正8年)の与謝野家(与謝野馨氏のHPにもある)の写真キャプションには「孫を抱く晶子」とあるが、孫ではない。この年3月に生まれた末娘の藤子である。晶子が暗い表情をしているのは産後の肥立ちが悪かったとも・・・。

新聞社の誰も校閲しなかったのだろうか。よもや馨氏が間違うということはあり得ないのだが。

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凹む

2013-1-10

天罰が下ったのか二夜続けての午前様。やることなすこと全部裏目というか失敗続き。

火曜日に大失敗があってかなり落ち込み、猛省。翌日は生協や会議でも二度手間になるとか、確認すれば済んだことを事務職員氏の手を煩わせたりしてかなり凹む。そしてダメ押し・・・。

気分も乗らず、しないといけないことは山積み、畢竟、午前様に。
もちろん自分のことは何も出来ずじまい。

お祓いにでも行くか。

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再現

2013-1-11

雑談中に「まだ、行っていないんですか?」と驚かれる。

昨秋にリニューアルオープンした阪急うめだ本店。その13階に「グランドカフェ・レストラン シャンデリアテーブル」がある。その店内はまさにこの写真そのものを再現したもの。もちろん、伊東忠太のモザイク(ガラス)の壁画も洗浄されて嵌め込まれているらしい。う~ん、行きたい。

阪急うめだ本店は創業時から7・8階の大食堂で話題になったが、今回もやってくれました!というのが実感。
かつての本館6Fには「古美術街」があった。春海商店、戸田政商店、薮本商店などそうそうたる大店が並んでいた。山中商会もあって「東洋新古美術・外人向土産品」を扱っていた。
「古美術街」も・・・と思うものの、もう大阪はそうしたご時世ではない。

今日は卒論提出日初日。授業で不在もあったが、無事提出したのかしら。

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ハリハリ鍋

2013-1-12

阪神高速池田線で伊丹空港を行き来した人は、一度はみたことのある看板。我々以上の世代は知っているが、上のクジラは「徳家」のゆるキャラでもなく、「ハリハリ鍋」もチゲ風の「韓国風激辛鍋」でもない。子供は「ヒリヒリ鍋」が変化したものと思っていたらしい。

時折、スーパーの高級食材の片隅に「鯨ベーコン」が並んでいるのを見かけるが、殆ど黙殺。なにしろ高価。
こちらも、ベーコンをはじめ関東煮の「コロ」、鯨の大和煮(小学校の給食)などを経験し、1980年頃は大学構内の西村食堂(現関西大学会館北棟)で鯨カツ定食(250円という破格値でかえって不気味がって食せず)など若干の経験はあるが、さほどうまいという印象はない。しかしこれほど遠い存在になると、時には食べてみたい気もする・・・。

「徳家」は鯨料理のお店。法善寺横丁を東へ抜けた上方ビルにある。

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通し矢

2013-1-13

早朝から着付けの済んだ上娘、家人と三十三間堂へ。

今日は無料拝観となっており、堂内でも長蛇の列。仏像見学どころではなく、流されるように“押し出される”。

仏像の背後では通し矢。正確には「第63回三十三間堂大的全国大会」。こちらも大混雑。小1時間ほどかけて前に進み、上娘の出番を待つ。
江戸時代の「通し矢」は本堂庇下の縁で行われ、一昼夜で何射、的中できるのかをチャレンジしたものだが、いつの間にか新成人による大的大会に。
全員有段者にも関わらず大的に届かなかったり、弦が切れるアクシデントも。各自2射するが、男女ともなかなか皆中しない。

予選終了後、「(零中)あかんかったな」と声をかけると、「(襷を掛けても)振袖が邪魔になって、正確に出来る(射る)わけないやんか。」 皆中できるのは偶然の結果?
振袖自体、作業用に作られたものではなく見栄えだけの和装。振袖が悪いのではないと思いつつ、町娘の小袖姿ではなかなか話題にも上らない。
ついに我が家にも「成人式」がやって来た。

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ナショナル・フラッグ

2013-1-15

とある旅行代理店窓口にて。

順番待ちになっており、ひとつ前が学生っぽい女性。窓口が2席同時に空いて隣り合わせに。
手続き等を行っている間、隣では、「ロスアンゼルスのチケット、2月1日から・・・。」
2月1日?うん、学生だな。入試期間を利用してロスアンゼルスか。しかし、またえらくお急ぎ。

端末を叩いていた社員が「中国東方航空か大韓航空がありますが」と。上海か仁川経由か・・・。
件の女性はしばし考え「別の会社、ありませんか?」と。えっ?
社員は再び端末に向かい「カナダ航空ならありますが、5万円ほどアップします・・・」
さら学生へ追い打ち。「大阪-羽田、成田-バンクーバー、バンクーバー-ロスアンゼルスとなりますが、よろしいですか?」
なぜか、「よし、ええぞ。タイ国際航空やアエロフロートなんかも上げてやれ」と社員を心から応援?
再び、気付いた頃にはいなかったので、うなだれて(?)帰ったのだろう。

国際化といっても所詮この程度である。
日本の航空会社(B787)も危ないというのも新聞記事になっているやないか。
ナショナル・フラッグでの海外旅行は昔「農協」、今「学生」。
それより「英語」、大丈夫か。

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狩野典信

2013-1-16

掛軸(絹本着色)を見る。

モチーフは硬い内容。おそらく御用絵師狩野派以外手掛ける絵師はそういない。落款は「栄川院法印典信筆」。奥絵師の木挽町狩野家の創始者。例の「鯨図」 狩野古信の長男である。

書き癖があって「川」の3画、「筆」の12画(縦棒)が“揺れる”。
よくわからないので、板橋区立美術館『狩野派全図録』の典信作品(大黒図)を見ると、やはり“揺れている”。

木挽町に賜った屋敷は田沼意次邸の一角。典信は政治的手腕に長けていたが、狩野派による南蘋派や蘭画の新しい画風を嫌って本来の漢画を立ち返ろうとした。もとより木挽町狩野家の作品は数少ない。
真・贋どっちでもいいが、授業で使える教材に見えてきたのが不思議。

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評価アンケート

2013-1-17

授業も終了間際。「授業評価アンケート」も実施。
「坂の下」の授業(350名収容の教室に170名ほどが受講。講義)では、毎年、評価の自由記述用紙に「特になし」と書く者が絶えないので、「匿名でよいので、書きたい者だけ用紙を受け取れ」と。

相変わらず「なし」とか「教室が暑いです」とか理解不能なものもあり、なかには2回生からの改善点として「生徒(←こう書くこと自体まだ脳内高校生)間同士のコミュニケーションをはかれ」というものもある。
講義を進めながら、どのようにすれば170名の学生間のコミュニケーションを取れるのか逆に教えてほしい。「いいかげん、静かにせんか!」との怒号(授業中)が、学生間のコミュニケーション(私語)を阻害しているとでも。

とはいえ、参考になるものも。
「理由がなければ前回のプリントを渡さないのが大変良い。またそのような姿勢を最後まで変えないのも評価できる。」
こういうことがあって、忌引や試合派遣と同様に、理由がないとレジュメを渡さなくなった。

「先生に注意されても懲りずに話し続ける人がいてうるさくて嫌な時が多々ありました。授業は良いのにそういう人たちが多くて残念でした。」
大いに同感。あらん限り、怒鳴っているのだが、一向に静かにならない。怒鳴ってばかりだと授業にならない。

担当教員に対しても「学生の改善すべき点」を自由記述しなさいと言えば、具体的に山のように書くのに。

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神道美術

2013-1-18

小雪がちらつく寒い一日。一日終わって残す授業もあとひとつ。

好評だったのは「神道美術」。“新シリーズ”だったので、毎回、授業の工夫をしながら頑張りずいぶん勉強した。「神社美術はよくわからなかったが、理解できた」との声もあって、気をよくする。

レポートも付喪神や百鬼夜行が多いが、それでも内容は狛犬、絵馬、八百万神とギリシア神との比較など、多岐にわたる。しかも参考文献も少ないのでユニークな内容も多い。

大学を出ると、誰もが自発的に勉強しないといつまでも解決しない。身近な神社(神道美術)にしても「なぜなのか?」と疑問を抱いても、なかなか関心が持続せず、次第に忘却の彼方。

「奈良公園の鹿、稲荷神社の狐、なぜ『鹿』・『狐』なんですか?」などと、さりげなく(学生理解度の)「マーケティングリサーチ」も済んでいる。
来年度のシラバス作成締切も近い。ブラッシュ・アップして来年度もやってみようかと。

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屏風

2013-1-19

自宅でパソコンを叩いていると、「親父、ブログネタ。」と娘。

ゲーム(3DSだったと思う)のなかの風神雷神図屏風。
三曲一隻という世にも奇妙な画面。この屏風を「コ」の字形に立て廻すと風神VS雷神となる。

奥行のない展示ケースでは、往々にして屏風をゲーム画面のように平面に立てるが、屏風本来の意味合いは判らない。山形に立ててこそ絵師の意図も見えてくる。

根津美術館尾形光琳《燕子花図屏風》も左右隻向かい合って立て廻し、その中央に坐すと燕子花の群生に包まれたようになるらしい。洛中洛外図も同じく向かい合わせに展示すると、京都の市中高所(相国寺七重大塔)から眺めた光景であるとの説もある。
とはいえ、屏風は山形に展示するものとしか思っていない人も困りものである。さすがに三曲一隻はあり得ないが、「コ」の字や「L」字状に立てた方がよい屏風もある。

やっぱり、作品は“生きもの”である。

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芝居の中の風景

2013-1-20

午後、ミナミの上方浮世絵館「浮世絵をいろどる背景 障壁画編」展を見学。

浮世絵に描かれた役者の背後には背景や小物。これは「大道具」で括られる。現在、背景画は「絵屋」と称される画家に外部委託。
ところが大道具帳を見ると、中に背景画があって建てつけの指示が書き込まれている。昔は「大工」の下に「絵屋」がいたのかと想像する。そうした組織は建築大工と同じ構造で、大工の配下に彫物師や絵師がいた。

少なくとも「廻り舞台」が誕生した18世紀には背景画が存在した。舞台が2分割、3分割されたことで、それまでの舞台の奥行が維持出来ず、極端な遠近法が用いられたのかも知れない。

もちろん、今でもこうした「絵師」「絵屋」は美術研究の埒外である。

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商魂

2013-1-21

産経新聞に記事が掲載。かなり昔の論文から抽出した内容で、気が引けていたが、記事を読んだ多くの人から声をかけられて驚く。

「注文」は概ね定形化された文面で、一般の人にはさほど面白いものではない。しかし、大阪仏師の「注文」は今日の商取引とも通じる要素が記され、仏師の具体的な実態を知る上で興味深い。

宮島龍慶は某寺の開帳(居開帳)を大坂市中に告知する張り札の世話人となり、その後同寺の仏像修復を請け負う(昔、流行った「1円入札」のようなものか)。また藤村隆水は河内にあった寺の仏像修復の際に、仏師が河内に出張するのか、仏像を大坂まで持参するのかの費用明細を添えている(家電修理のような・・・)。作品にあっても平田勝右衛門は仏像の胎内に義民夫婦の肖像彫刻を隠し込んだもの(「マショトーリカ」のようなもの)もある。

原稿では、「中国や韓国の模造品が横行する日本社会、被害に遭う人たちも少なくない。つい外見と価格だけで判断してしまう、書かれた内容をよく吟味しないなど、消費者側の安易な判断によるケースも多い。高野山大門の仁王像を見るにつけ、仁王像の怒った表情はそうした現代人の風潮に警鐘を鳴らしているようにも思えてならない。」と締めくくったが、初稿時でばっさりと削除されて、なんだかほんわかとした内容になった。

消費者=絶対的被害者という公式を崩したり、中国・韓国を貶めるような内容は、産経新聞ですら?コードに引っ掛かるようである(書いた時点で削除は織り込み済)。

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ディープ大阪

2013-1-23

校務(道頓堀商店会との連携協力協定)にて、午前中、トリイホール(TORII HALL)へ下見と打ち合せ。

「島之内寄席」を継承したマイクを使わない寄席(劇場も兼ねる)なので、キャパは最大100名。別に我々が『池田の猪買い』や『牛ほめ』を演じる訳ではないので(高座に上がれとのお話もあったが)、80名ほど。
設備などひと通り確認し、寸法まで測る。打ち合わせを終えて「丸福珈琲店」で、再度プランの検討・・・。

午後、ホテルメトロでの「道頓堀商店会新年互礼会」に参加。副学長、大阪都市遺産研究センター長らとも合流。
互礼会の最後は「打ちまぁーしょ」「パン、パン」「もひとつせぇ」「パン、パン」「いおう(祝う)てさんど(三度)」「パパン、パン」の「大阪締め」。

終日、ディープ大阪。

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読書の時間?

2013-1-24

午前中、試験監督(本部待機)、午後は担当科目の試験(筆記)。試験は60分間。試験開始30分後から終了10分前までは受験生は退室可能。試験終了後は回収した答案用紙の枚数と受験者数とが合うまで学生は退室できない。

いつも160名近い履修学生、参照条件:一切許可ながら、ちょっと難しい問題や記述問題を出すと、試験終了時まで多くの学生が机に向かい、終了直後の答案回収や枚数の検算もたいへん。足止めされた学生も苛立つ有様。
そこで、少し難易度を落として試験終了時まで粘る?学生を少なくしようとたくらんだ・・・。

開始30分過ぎから次々と答案が提出。提出された答案を見ながら「そうそう」とか「むぅ、おしい」などと思う。ところが40分を過ぎた頃から答案提出は止まる。会場を巡回すると『日本美術史』(昭和堂)や町田甲一『概説東洋美術史』、はては田村圓澄『古代国家と仏教経典』や『高校日本史図録』などを必死になって読んで「回答」を探している・・・。この場で今からそれを読むのか・・・。

結局90名ほどが終了時間まで。難易度は関係ないのかと嘆息。

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デザインナイフの妙

2013-1-25

学外で昔の設計図を展示することになった。
図面はA1サイズで、中には青焼図面も。資料の状態もあって躊躇していると、建築学の先生から、「原寸コピーにしましょう。よそでも設計図面が展示していますが、よく見ると、その多くはコピーなんですと」と。

展示担当?のこちらとしてはちょっとした細工を試みる。デザインナイフを取り出し、図面の形通りに“切り抜く”。虫食い穴や破れた個所まで丁寧に切り抜く。設計図といっても昔の資料だから破れがあったり、皺があったりで、そもそも紙自体が不定に歪んだ四角形である。切り抜いたものに両面テープを数か所貼り黒バックのパネルに貼って出来上がり。

予想以上の出来栄え。立体感があり遠目で見るとオリジナルの雰囲気がよく出ている。仰った通りの「コピー」が出来上がり、建築学の先生もご満足。巨大パネルを作るよりずっと簡単、安価。
博物館の展示図録もこうした手間(借用フイルムの“切り抜き”)を省くと、汚い図録になってしまう。

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阪急うめだ

2013-1-26

「しゃーなしやで。」と言われながら家人に付いてきてもらい、阪急うめだ「シャンデリア テーブル」でランチ。

ランチが来るまでの間、ぐるぐる店内を眺めながら店員に断って2、3枚写真を撮る。よくぞ再現したものだと思う。よい意匠は残るものである。
ランチを済ませ(いささか“助手代”が高くついたが。)、「古九谷再興物語 青手九谷 吉田屋の魅力展」へ。

古九谷はながく「華南三彩」などの影響を大きく受けた「伊万里」の初期色絵だと思っていたが、最近、「九谷磁器窯跡」傍の九谷A遺跡から古九谷風の色絵陶片や磁器色絵窯跡が出土し、俄然九谷でも古九谷が焼かれたとの議論が展開。
会場でも「江戸時代前期」とした作品が展示。誰かは知らないが、男性が熱っぽく列品解説中。
江戸初期と称する作品はこれまで「古九谷」とされた作品とは発色等々、品質的には少し劣るとみえるのだが・・・。

再興九谷(吉田屋)は香合などの小品がとても上品。いっそ吉田屋の再興九谷だけに絞ればもっと魅力的な展示になっただけに残念。

華南三彩が日本各地、たとえば伊万里、九谷で同時期に模倣、和様化されて広がったのかもと思う。「青手楼閣山水文」鉢など華南あたりの磁器とそっくりである。
日本での中国陶磁器の模倣といったなかで考えると、第2次ブームになったのが吉田屋伝右衛門の吉田屋窯。吉田屋窯も源内焼や珉平焼、あるいは青木木米など大きな局面でみるともっともっと面白い。地元志向で熱く語られてもそうした大局はあまり見えてはこない。
横では相変わらずの現代作家の作品展。

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大和のバーミヤン

2013-1-27

産直からの帰途、大野寺に立ち寄る。門前を流れる宇陀川対岸には、弥勒磨崖仏。(画像をクリックすると拡大)

後鳥羽上皇の勅により、興福寺僧 雅縁が笠置寺の弥勒磨崖仏を模して承元元年(1207)から制作を始め、同3年に後鳥羽上皇の臨席を仰いで開眼供養。作者は石工・伊行末一派とも。
時の有力者が関与しているだけに造立事情もあれこれ・・・。
初めて磨崖仏をみた家人曰く「大和のバーミヤンやな」。いやいやバーミヤンは笠置のほうとも思うのだが。

大野寺には鎌倉時代の地蔵菩薩立像がある。無実の村娘を救済した「身代わり地蔵尊」として知られるが、怜悧な表情をもち、着衣の質感など完成度の高い像で、快慶あるいは善円風の気分を漂わせている。
重要文化財ながらあまり知られないのが残念。奈良の仏像の奥深さを垣間見た思い。

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芝居茶屋

2013-1-29

トリイホールにて道頓堀商店会など地元関係者を対象とした道頓堀フォーラム。
今回は中村儀右衛門関係資料のお披露目。前座にて少し話をする。

トリイホールの前身は老舗旅館「上方」。ホールの楽屋は「ひさごの間」をそのまま移築したもの。襖や戸袋の引き手はすべて「ひさご(瓢)」である。ここに座っただけでも価値ある一日。

道頓堀には48もの「芝居茶屋」があったという。フォーラムではその話題も。うどんの「今井」はもと西洋楽器店、その前は「稲竹」というお茶屋。雛ずしもその前身は「お茶屋」で、浪花千栄子もそこのお茶子であった。そのうち渋谷天外と一緒になって・・・、と、プレミア級の話も飛び出す。

今回は60名というなかであったが、関係者曰く「もっと少人数なら、あんなこともあった、こんなこともある」と、話をされる人も多かったのにと。無事第1回目が終了。

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それはあかんやろ

2013-1-30

と思わず叫ぶ。
大阪市長が大阪市立美術館を閉鎖し中之島に計画中の新近代美術館と統合するとの報道。
国から阪大医学部跡地を「美術館建設」を条件に160億円で購入、今年3月末までに美術館が完成しなければ16億円の違約金、美術館が建設できなければ48億円の違約金が発生するとの由。
市長曰く「2つ(市美・近美)を併存させるわけにはいかず、一本化の検討が必要」。

どうにも現大阪市長はソロバン勘定が出来ないようである。
単に報道を読めば48億より16億のほうが安いと思ってしまうが、美術館建設予定地は現在、コインパーキング。美術館建設費は かつて述べた ように122億円。 美術館はサーカスのテントではないので3月末完成は200%無理。となれば、最低限140億円もの経費がかかる。どっちが安価か子供にでも分かる話である。

迷走する「近代美術館」を「白紙」に戻し、市立美術館へ併合したほうがずっとお得。市立美術館の耐震化工事や近代美術の収蔵庫増築を考えても140億はかからない。なんとなれば、収集した近代美術作品の一部を「現物納付」し、それを「国立国際美術館」に展示すれば、大阪人からはあまり文句も出るまい。

一事が万事、こうしたソロバン勘定のできない人間が大阪を支えているのである。
電卓やったら貸したるさかい、もういっぺん計算してみぃ。

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永平寺の仏像

2013-1-31

福井・永平寺へ。
暖かいとはいえ、屋根には積雪。修行僧(裸足に長靴)がしっかり雪かきに励む。

永平寺の仏像については京博本仏師系図に詳しい。
了意の代には「寛文年中」に「仏殿古仏之三尊」や諸堂諸像、道元像を修復し、了慶(蔵之丞)では、享保6年に承陽殿格狭間、同9年に客殿格狭間を製作、翌年は四尺の焔魔天像、寛保4年に衆寮の虚空蔵菩薩像、延享2年に山門釈迦三尊像、十八羅漢、伽藍神像などを製作している。
系図では曹洞宗寺院が多いため彼等は永平寺御用達のような存在とみられるが、作品の上からそのことを明らかにするのは難しい。聖宝閣の伽藍神像(掌簿判官・監斎使者)や達磨大師、女神像は安永3年に康伝と康朝が「潤色」したことが知られ、加えて貞享年間には福井の仏師河瀬が修理を行っている。
こうした修復履歴を思えば現存する仏像から当初の姿を見出すのは難しいと思ったり。山門の四天王像をみればいかにも今出来の彩色で、中国の仏像のように「潤色」することもいとわないのかも知れない。

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