日々雑記


和泉ナンバー

2012-10-1

朝から免許更新。

普段は人前で喋るのが仕事だからかもしれないが、べたーっとした盛り上がりのない安全講習。
お爺さんだけが真剣で、多くはあまり聞いていない。後ろで寝とるで。受講者のほとんどは“定評”のある「和泉」「堺」ナンバー所有者なんだから、もう少し現実に即した講習をとも。

「運転中、後ろから あおられたら、一旦横の車線によけます。車が通り過ぎた後に再び車線に戻り、今度は逆にあおり返します・・・。ダメです!」とか「(大阪)市内は田舎じゃないのでアッパーライトで走らない。していると田舎者の田吾作と思われます」「ナンバープレートが「12-34」「・8-93」「46-49」などのクルマは要注意!」とか、現実に即した盛り上がり方がいくらでもあるとは思うのだが。

ほどなくして新しい免許証。明日の講義をどのようにして盛り上げるか思案しながら大学へ。

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丸いお餅も切りよで四角

2012-10-2

2回生の演習。図書の探し方などあれこれ。
「○○ゼミ」という言葉に新鮮味をもつらしいが、哲・宗・美は4回生で。3回生ではまだまだ関心が揺れ動く「お年頃」。時には4回生の夏休みを過ぎても揺れ動く・・・。がっつりと研究テーマに組めば道は拓けるが、ぼんやりしていると研究テーマも霞んでくる・・・。

「センセ、“服”したいねんけど。」「服か。和服、洋服?」「なんでもええねん。」
「和服やったら、うちのゼミで「小袖」やった学生もいたけど。」「“小袖”ってなに?」 ガクッ。
「ポスターや広告から和服から洋服の変化でもええし、絵画からでも実物からでもできるやろ。まぁ、『丸いお餅も切りよで四角、モノも言いよでカドがたつ。』やな。」
「なにそれ?なんのおまじない?」
「・・・・」。

授業も始まったことを実感。

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異邦人

2012-10-3

朝から夕刻まで断続的に会議が入り、研究室に戻っても落ち着かない一日。
夕刻から院生(留学生)のために、九博の装飾古墳データべースを前に資料作成。九州に装飾古墳が築かれた要因として磐井の乱や辛亥の変が掲げられている。

確かにモチーフとして靫(ゆぎ・矢の収納箱)が多いものの、政治的、国際的緊張感がなぜ「古墳」を装飾することに繋がるのかが、理解できない。九州に装飾古墳が広まっていく事情は豪族関係から理解できるものの、なぜ「装飾されたのか」の答えにはなっていない。

鮮やかな赤色に彩られた円文や三角文が多いなか、竹原古墳はちょっと異質。冠を被った人物は“ニッカポッカ”様のズボンをはき、つま先が曲がった靴を履く。朱線で縁取りをしていることも。
中国壁画での常識は、服装や靴、帽子は描かれた人物の「国籍」を示す象徴となる。

竹原古墳の人物を見ていると、異邦人のようにも思えてくるのだが・・・。

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バカヤロー

2012-10-4

このところ、疲れも重なり、今日も朝から予定がいっぱい。起床後、はやくも“戦闘モード”。身支度を整えながら、あれこれ段取りのシュミレーション。あ゛~。

「マジ、さぶイボ・・・。」と起きてきた上娘。「これ」と差し出されたスマホには Youtube

パンをほおばり適当に流そうと見ていたが、次第に涙腺が緩み、終盤には“鬼の目にも泪”。
横では眠気も覚めてしまって、戸惑う娘。
歳なのか、疲れがたまってくると涙腺は緩む(体質)。ちょっとしたことでも感情は増幅・・・。

無言でスマホを返してウルウルしつつも玄関を出る。
朝からバカヤロー。

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存続策

2012-10-5

大阪人権博物館が府・市の補助金カットを受けての存続策。
個人から約5000万、企業・団体から約6000万の計1億1000万円の寄付金と小中学生の利用料(現行無料)の有料化。

存続の署名は集まっても銭はビタ一文出さない風土のもとで、個人・団体から1億1000万円の寄付が集まるかどうかは大いに疑問。
小・中学生を有料化すれば、確実に入館者数は減少。その結果、「入館者数減少=必要ない施設」とされて大打撃。それこそ“敵”の思うツボ。
小・中学生の頃からタダなら行くという精神が染みついているとまでは言わないが、学校の社会見学や遠足代に当然響いてくるので学校は敬遠。大阪城天守閣と大阪歴史博物館に行って大阪城公園で昼食。これなら“無料”というプランがきっと出るはず。

サポーター(個人寄付)は年間一口6000円、入館料が大人250円。割り算すると・・・、と考えるのが大阪の常識。某博物館は500円の常設展が制限なし、1000円~の特別展が6回で、年3000円。

問われているのは展示内容(当初はそのような意向)ではなく、大阪という風土のもとその金銭感覚ではないのかと思う。ここ1、2年間存続させるだけの「存続策」ではないだろうに。
最悪の選択。

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市民講座

2012-10-6

昨年に引き続き、午後より川西市レフネック。某先生のコーディネイト。
昨年の講義後、今年への依頼をされたそうだが、「私の一存では決められませんので・・・」と言ったらしい。すべては某先生のご意向にて。貴課がお出しになられた依頼書にもそう書いてある。

ある程度(講座内容の)キャパは広いと自分でも思うものの、かなり逸れるとちょっとしんどい。
90分の講義ながら20分残して終了。申し訳ないと思いつつ壇上から下がると、お帰りになる方も。
普段の授業はいざ知らず、皆この後に用事が控えているのだ。早く終わる分はよいけれど、延長になればその後が気ぜわしい。そう考えると、ちょっと気も楽に。

既に講義された先生が言ったそうだが、「うち(関大)の先生は市民講座に慣れている」と。
年中あれほど、あれこれ市民向けに喋る機会を与えてくれる大学もまぁ、珍しいと思う(おそらく折々の機会で取捨選択された結果とも思うが)。

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アン ハッピーマンデー

2012-10-7

明日は体育の日。各地で運動会やら体育祭。千里でも「市民体育祭」。研究室にも音楽などが聞こえてくる・・・。

ある時期から成人の日、海の日、敬老の日、体育の日が月曜日指定の休日になった。明日も休みで、世間的には3連休になるわけだが、これが実はやっかい。

文科省のお達しで前期・後期とも15コマ完全実施ながら月曜日の授業は「ハッピーマンデー」で、どこかの曜日に振り替えないといけない。とはいえ、振替の曜日は当該曜日の授業があるので、他の曜日が15コマ終わった後に授業実施。あれこれ隙間を狙って振り返るものの、もう無理っ!という事態である。学則(大学の法律・条例)を変えてまで、「祝日は通常通りに営業?します」の覚悟もそろそろ必要。町工場並みの労働条件である。

今日も大学院入試で出勤。好天ながら気分はアン ハッピー。

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パラミタミュージアム

2012-10-8

三重・菰野町のパラミタミュージアムへ。
「パラミタ」とは、般若心経で知られる「波羅蜜多:パーラミター)」に由来。常設展は池田満寿夫の「般若心経」に因んだ版画や立体造形など。「開館10周年記念」として『大安寺と観音さま展』というコンセプトは納得。

近隣諸県の観音像が出品されて、久しぶりに見る仏像も多い。ただ鎌倉・室町時代の観音像はなく、また滋賀や岐阜の観音像も出品されていない。「画竜点睛を欠く」といったところ。
併設の熊谷守一展はよくまとまった展示。朱の線条にこだわり、ベタ塗りであってもブラシュ・ワーク(筆致)のさまが見てとれる。階下の通路(ギャラリー)には長快作十一面観音像や中村晋也《十大弟子像》が展示。

観音展の展示図録が市町村や他館から借りたフィルムで構成され、出来栄えは非常に悪い。開館10周年という慶事なだけに歯を食いしばってでも努力(新規撮影で構成)をしないと、財団の信用にもかかわると思うのだが・・・。
入館者も察知したかのように「大安寺」展のリーフレット・図録は山積み、熊谷守一展のリーフレットは既に在庫ゼロ(図録なし)。

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水雷命中之図

2012-10-9

学生の発表。橋本雅邦。
明治を迎え、御用絵師と木挽町画所を失い失業。急な社会変化に妻も狂乱。明治4年(1871)から19年(1886)まで兵部省海軍兵学寮製図掛に出仕。

その間に描いた油彩画3点のうち現存する唯一の作品《水雷命中之図》。明治14年(1881)頃の作とされる。
作品を見ながら発表を聞くも、やや疑問に思う。この頃、雅邦は実際に「水雷」を実見したのだろうか?

いいかげんなことを言って学生を困惑させていけないので、授業終了後にあれこれ調べると、どうも これ が類似しているような・・・。
1864年アメリカ南北戦争の時に水雷艇H・L・ハンリーが北軍のUSSフーサトニック号を攻撃した時の挿図。出典はJohn Sanford Barnes『 Submarine warfare, offensive and defensive』(1869)。
輸入書として雅邦も見たのであろうか。

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餅飯殿

2012-10-10

所用にて奈良県吉野郡某村へ。教育長や旧知の人と終日、相談。

役行者が開いた大峰への入峰を平安時代には大蛇が邪魔をしており、真言宗の高僧聖宝(理源大師)は箱屋勘兵衛を筆頭に七人衆をお供にして、大蛇を退治して「抖藪」を再開させたという。大蛇退治に使った刀は醍醐寺にあったとの記録も。

この時に、きび団子よろしく「餅飯」を持参したとも、退治後に聖宝のもとへ手土産代わりに「餅飯」を持参したとも伝えられる。そこで、聖宝は勘兵衛を親しく『餅飯殿』と呼ぶようになった。
今でも聖宝廟塔のすぐそばに箱屋勘兵衛の墓(昭和12年・1937)が建てられている。昭和12年(1937)は箱屋勘兵衛没一千年。

ちなみに箱屋勘兵衛が住んでいたのは奈良の「もちいどの商店街」。商店街入口角で、「中谷堂」が高速餅つきのパフォーマンスを見せているのもゆえなきことではないようにも思ったり。

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赤のチョーク

2012-10-11

芝井先生のコラムで、近ごろの若者は「右」も「左」もわからない。・・・そのことを単純に嘆いてみても仕方ないのだと述べておられる。

発表に際して土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960年)を持参してきた学生がいた。藁半紙に印刷された写真集で100円。今なら800円ほどか。
ひょいとページを繰ると、野間宏による「まえがき」。発表を聞きつつも「まえがき」を眺めていると、「すでに労働を知り、労働生活の何たるかを知っている子供たちは、限りなく暗い顔と限りなく明るい顔とを持っている」とある。

発表は土門の「社会的リアリズム」を説明するが、野間宏の起用自体がすでに土門が後年に語る「社会主義リアリズム」を表しているのだけれども、全く気付いていない。「労働生活の何たるかを知」らない若者が「右」も「左」もないままに「内灘」や「砂川」が登場し、発表は終盤へ。

どうアドヴァイスすればよいのか考えあぐねながら表紙を改めて見ると、赤い帯に「土門拳写真集 筑豊のこともだち」のタイトル。
高校生の時、教師が黒板にソ連と日本の略図を描いて「ソ連は・・・」と赤チョークで塗りつぶしかけて「『赤いチョーク』はだめですね」と上から黄色のチョークで塗りつぶしたことを思い出す。

今は逆に赤で塗りつぶして「社会主義とは・・・」と説明せねばならない時代となったのである。

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田中喜作

2012-10-12

授業準備で、東京と京都の美術養成やその後のプロセス。
東京美術学校が1889年に開校、対して京都市立絵画専門学校は1909年に開校(前身は1880年開校の「京都府画学校」)。
次に研究会(小会派)。明治後期から東京では日本美術院、紅児会、二葉会、烏合会、巽画会など新派の団体。明治末期の京都では、美術史家・田中喜作や中井宗太郎を中心に「無名会」、「黒猫会」(しやのある)、「仮面会」(るますく)と続くが、いずれも短命。
「東京は画家だけ、京都では研究者を中心に画家が集まり・・・」と思ってまとめたのだが、田中喜作で、けつまずく。

田中喜作は美術史研究でおなじみの研究者だが、関西美術院第1期生で、1908年(明治41年)に梅原龍三郎とともにフランスに留学し、滞仏中に実作家から美術批評家に転向して帰国。そういう事があっても不思議ではないものの、ちょっと驚き。

今はあまり見られない研究者と画家の邂逅ながら、当時の時代思 潮を思うことにも。

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菱垣廻船「浪華丸」

2012-10-13

橋下市長VS博物館。

リバティおおさか(大阪人権博物館)は寄付活動、ピース大阪(大阪国際平和センター)は常設展示を「大阪大空襲」に絞って(「15年戦争」や「平和への希求」を取りやめ)、存続を計る。
一足早く、今年度末の閉館が決まった「なにわの海の時空館」(大阪市立海洋博物館)。

メイン展示の菱垣廻船「浪華丸」(全長30m、帆柱の高さ27.5m、重さ90t。総工費10億円。1999年完成)。市長は閉館後、施設の再利用を予定するが、この「浪華丸」が悩みの種。
船を館から搬出するためには、 なにわの海の時空館のHP にもあるような過程の逆工程を行わなければならない。また船を分解して搬出し再度組み立てる方法も不可能との由。加えて船体には亀裂が入り(帆走実験で海に浮かべたから)、もう海に浮かべる事も出来ないらしい。市長はもちろん、船の解体・スクラップをお望み。できれば、船・上屋セットで丸ごと再利用する業者を求めたいのだが、なにしろ全面ガラスドームで光熱費だけで8千万、施設維持費が4年間20億円という高額物件、また孤島(大阪湾に敷設された海底トンネルを歩いて入場)というのもネック。

相変わらず、学会は浪華丸保存の要望書を出し、閉館の元凶(長年にわたる運営面の無策無能)を招いた初代館長(名誉館長)は署名活動。

学会代表は「100年後には重要文化財になっている」と保存を訴えたらしいが、近世初期の渡辺家(築約400年・府指定・買収額5億)も指定解除され解体された大阪の現状がまるでわかっていない。
だから市長に「それだけ大事なら買ってくれたらいい。金額交渉なら大いに乗りたい」と逆提案される始末。保存を求める側もまったくもって無策そのもの。要望書や署名ではあかんってゆうてるやろ。
ほんまに保存したいのか?学会や関係者として“ポーズ”を取っただけじゃないのか。

ここは、市長(今や国政政党代表)の文化への無理解ぶりを示すためにも有料見物で「時空館 解体ショー」でもやれば、市長のTV出演も増えるのではないかと思う。
大阪の人、派手なこと、好きでしょ。

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法隆寺領

2012-10-14

昨日、今日あたりが稲刈りのピーク。既にスーパーでは新米が販売。

田畑に囲まれた拙宅周辺は古代の条理制がよく残っている。既に調べておられている方がいて、それをみると、日頃何気なしに歩いているあの小道やあの畦が古代の「坪界」なのかと驚いたり。
おまけに周辺の田畑はどうも「法隆寺領」であったらしく、世が世なら、こうして干された稲は法隆寺へ納められることになる・・・。

夕刻にはきっと稲ワラを燃やす煙がたなびくことだろう。秋も本番。

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立っている者は親でも使え

2012-10-15

地方博物館・美術館(特に公立館)にとって、難題はイレギュラーな出品。

仮のはなし、展覧会に不可欠な資料が「皇室蔵(御物)」としよう。もう学芸課の誰もが「無理じゃん。写真パネルだけでも。」と思いつつ、「取り敢えず、出品交渉はしましたが・・・」と、“アリバイ工作”のため打診すると、「ハイ、判りました。お貸ししましょう。」とふたつ返事で快諾。

無理と思われた資料が出品できることは喜ばしいが、「あぁ、それはダメです」との答えを待っていた担当者は肩透かしをくらい、困惑。予算は既に前年度に確定、美術品専用車を皇居まで往復させるだけの予算は確保していない。せいぜい写真パネル代ほど。手元不如意。
このままではせっかくの資料出品の承諾が水泡と化すので、あらゆるルートを使って、展覧会出品にこぎつける。

こうしたことも学芸員の知恵(力量)。「立っている者は親でも使え」である。

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女史箴図

2012-10-16

1923年に小林古径、前田青邨は大英博物館で顧愷之(こがいし)筆とされる《女史箴図》(じょししんず)を模写する。中国六朝時代の画風を伝えているとされる。ロンドン到着後、50日間ほど博物館とホテルを往復する毎日。

西洋一辺倒の学生や学者にとって、模写が完成した後のヨーロッパ観光旅行も「西洋からの影響」を大きく受けて、帰国後の「新古典主義」につながるらしい。
《髪》にもエジプト彫刻の影響があるなどと。そもそも画風への影響はまったくなく(訪欧の目的がもとより「高古遊糸描」の修得)、ヨーロッパに取材した作品も2点のみ。新古典主義と称しても「日本の古典」で、西洋のロマン派や古典主義とは関係ない。
出所は知れているが、執筆するほうも執筆するだが、それをそのまま鵜呑みにする学生もしかり。

こうした齟齬は後々、大きな歪みが生じる。ヨーロッパ中、ジャポニスム万歳!のなか、たったひとりで「象徴主義」作品を描くような者が存在することにもなりかねない。

質疑応答で“改宗”させようと思ったが、学生からそれ以上の様々な矛盾をつつかれて、困窮。
しばらくは 放置 温かく見守ることにしよう・・・。

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河辺・能勢

2012-10-17

終日雨天ながら、案内されて大阪青山歴史文学博物館や妙見山などを見学。
今年は「大正改元」百年。博物館では皇室ゆかりの明治美術品の展覧会。ゆえあって「塩川文麟」の作品も所蔵との由。

鄙びた風景を見ながらも、むしろ文化的資源は豊富である。
安徳天皇隠棲の地というものも見た。なるほど壇ノ浦で入水したとされるが、不憫に思った尼とともにこっそりと逃げおおせたという。「伝説ですよ、伝説。」と言われたが、そこからは養和元年(1181)銘の経筒や鏡・合子などが出土している(経塚)。
そういえば、三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉も壇ノ浦に沈んだが、双方とも箱に入っていたので浮かび上がり、回収されたとも言うし・・・。伝説にも何らかの根拠があってしかるべきだが。

市町境界が入り組んだ土地がら、市町はあまり積極的に活用しようとする動きは認められない。
貫くのは能勢電鉄のみ。十分なほど魅力的。

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せんかく問題

2012-10-18

「なぜ中国のような磚槨(せんかく)墓(たとえば中山漢墓)が日本にはないでしょうか? 瓦が生産できたなら、瓦磚も簡単に造れたはずです。」と中国からの留学生。

待て待て、たしか奈良・桜井市あたりにあった・・・と調べると、忍坂9号墳などがヒット。だが「磚」を模した榛原石の石積み。
意地になって調べるも「磚槨式石室」の「式」はとれない。

行基建立の土塔もしかり。磚積みではなく湾曲した平瓦の側面や正面を揃えて積み上げる。
「加工に時間がかかりたくさん出来ない石よりも一度にたくさん出来る『磚』のほうがよいと思うんですが」と、なおも追い打ち。
不思議・・・。

ちなみに留学生は考古学専攻。「尖閣諸島」のことは何と呼ぶのだろうか。

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竹内久一

2012-10-20

某所へお出かけ。
銅造日蓮立像を見る。1969年の再建とされ、石製台座には「700年紀念」とある。福岡・東公園像と同じく右手に数珠、左手に経巻を持つ日蓮像。大きさはこちらのほうがずいぶん小さい。

台座にはめ込まれた銘板には「原型 東京 帝室技藝員 竹内久一 鋳造 大阪 今村久兵衛清久 技工 東京 星野芳雲」とある。

出来て間もない東京博物館(東京国立博物館)には仏像の展示品が少なかったので、岡倉天心は奈良・京都にある仏像の模写模刻を計画し、東京美術学校に依頼する。東大寺法華堂の日光・月光菩薩像や興福寺の無著像や維摩居士像など、竹内久一が中心となり事業は展開する。
しかし、熱心な日蓮宗信者であった久一は模造事業よりも福岡・東公園の高さ10mの日蓮像制作を引き受けたため、明治23年以降、事業は中断し、山田鬼斎や新納忠之介、関野聖雲らに模造事業が引き継がれる。

その原型を利用したものであろうか。久一の熱意がこんな場所にも。

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小皇帝時代

2012-10-21

終日、各種入試で出校。

近頃は試験会場だけでなく、こういう場所も確保しないといけない。
「入学試験やろ・・・。なんで保護者が。」と思われる方がおられるかもしれないが、それは私らと同世代。昨今の学生は、中国でいうところの「小皇帝」である。昔は“バンカラ”でならした我が大学でもこのような有様なので、他はもって知るべし。

既に本場の「小皇帝」は恋愛や結婚をはじめとする人間関係の構築力欠如、忍耐力がないなど様々な悪弊があると指摘されるが、ゆくゆくはそういう問題も起ってくるだろう。既に大学でも「忍耐力」や「常識」といった点で問題。マスコミは「親子で就活」「親子で婚活」など、話題として取り上げるもののその悪弊にいまだ気づいていない。

ホンマにええんかいな、このままで・・・と嘆息する近頃である。

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毛が降る

2012-10-22

なんだか恐ろしい予想をしてしまった。

文禄5年閏7月13日に発生した慶長伏見の大地震。初度の方広寺大仏も崩壊。『義演准后日記』にみる翌日(閏7月14日条)には天から毛が降ったと記されている。「天ヨリ毛降、似馬尾ニ、或い一二尺、或五六寸計也、色ハ白黒、又赤色ナリ、京都・醍醐同前ニ降、」とある。

 あ、この記事 と同じと思い、地震後の一現象と思ったが、この「毛」は実は「火山毛」。つまりどちらが先かはわからないが、「地震」と「噴火(火山)」との関係で、火山から「毛」が放出されて、各地に拡散。

この時の噴火を調べると、『当代記』に「前ノ七月ノ如、浅間焼上、西ノ方ヘ焔コロフ、此故カ近江・京・伏見、其比灰細々降、其故ニヤ秋モ少々凶と云々、信濃ナトハ此灰一寸計ウマル、関東ハ不降、但是モ同秋凶云々」とあって「毛」のもとは浅間山の噴火らしいが、白山・九州の火山噴火など異論もある。

富士山噴火に関して「電波障害に関しては、宝永噴火規模の降灰が起こったときの電波送受信の実績が過去にないため不明である。ゆえに、携帯電話の被害に関しては、現在のところわからない(でも日本テレビは電波が飛ばないというコメント)」と呑気に構えている東京大学の先生もいるが、火山が噴火すると、スマホや携帯も通じず、道路も鉄道もストップする・・・。パニックに拍車。

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アカデミックペーパー

2012-10-24

久々に会議。
話題のひとつに学生(マスコミ関係者・自称ジャーナリスト)の件。既に多数のペーパー(新聞・雑誌)があるのに・・・と関係の先生は憤るが、下した判断は正しいと思う。

かくいうこちらも、かつて某社の新聞記者(しかも論説委員)を不合格にした経験がある。
確かに署名入りの新聞記事やコラム、特集記事は多数あるが、それがすべて研究論文であるとは限らない、というかアカデミックペーパーはゼロ。いくつもの通説や俗説を確かな根拠をもってひとつずつ退け、加えて既存や新たな資料を用いてひとつの新しい見解を提示することがどれほど難しいことなのか、全然わかっていない。

この御仁、大学の卒論は学園紛争でまともに取り組んでいない。にも拘らず「(原稿用紙)100枚でも200枚でも、全然OKです。文章を書くことに慣れてますんで」と平気でのたまう。
他の先生とのやり取りも聞きながら「あぁ、この人は私の“指導”も関係なしに、思ったまま見たままを書き連ねるのだろう」と思った。こちらの指導(授業)は全く関係なし、Going my way なんだ・・・と、思った途端、先行きに暗雲が広がるのを覚え、お断りした。

虚偽を重ねた森口氏の言動を裏付けもとらずに記事にした誤報やあっさりとお詫びした週刊朝日をみるにつけ、あの時の判断は正しかったことを再確認。

もちろん経験上、社会人の大半はそういう人ではない ことも重々知ってはいるが、時には勘違いする人もなきにしもあらず。教員を教員と思わないで、何しに大学へ来るんやとも。

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風景画と静物画

2012-10-25

講義を行いながら、時おり、今世紀の日本人学生が未だ「欧米コンプレックス」に浸っていると感じることがある。「そんなら、欧米の人(大人)が関心をもつZen Painting(水墨画)やDry Landscape Garden(枯山水)を君は説明できるのか?」と聞くと、沈黙。

西洋にあって風景を主要モチーフとした絵画の誕生は17世紀オランダ。それまで自然の移り変わりは永遠不滅の「神」(キリスト)の対極に位置し、自然を愛でることが「罪」とされた。四季折々の変化が秩序だったものであると理解できるのも中世後期。それまでは宗教画や歴史画の“刺身のつま”。だから印象派は喜び勇んでパレットとイーゼルもって野外へ出たんじゃないの。

一方、東洋ではそれこそ絵画誕生から風景画は定番中の定番。そこに人の営為が描かれていようとも、主題はあくまで風景。東洋では自然との共存がまずは第一。 確かに「闇夜のカラス」など夜景は東洋画では難しいかも知れないが、17世紀(江戸時代)にようやく風景が描かれるのもどうかと思ったり。しかも同じ17世紀オランダで誕生した静物画は未だ、キリスト教の影響を色濃く受けて、サンダルはどうとか、果物はどうとかと、事物に様々な意味合いを持たせている・・・。

オランダ静物画をネガ反転させると「水墨画」に変わる。そうしたことから東西の差異を説明できるのだが、どうしても「(西)優(東)劣」から離れてくれない・・・。

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聖職の碑

2012-10-26

午前の授業中に「地震避難訓練」。

一応、11:40にM7.6の上町断層直下型地震が発生し、震度6強以上という想定。ま、予知がここまで進めばよいのだが、今のところは「後出しじゃんけん」。

机の下に隠れてと言っても座席は固定式。「机よりも下に身をかがめて」と言いながら、前後の扉を開放。地震が収まった頃、避難誘導員が現れて、50名ほどの学生を誘導。こちらは最後尾について“学生の安全確保”につとめながら退室し、あすかの庭へ。

真面目に考えると、私は上下・左右・前後の激震で天井などが落下し、パニックに陥った学生を落ち着かせ、学生の安全を確認しつつ、教室前後の扉を開けて、ガラス片やぐちゃぐちゃになった廊下を歩き、誤作動する防火扉に行く手を阻まれながらも、5Fの教室から学生全員を無事に屋外の安全な場所へ誘導しなければならない。

避難訓練中、「聖職の碑」という言葉を思い浮かべた。

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役小角

2012-10-27

久々に展覧会。
あれこれ迷いつつ、香芝市二上山博物館「役行者、二神(ふたかみ)の上(かみ)の峯に登る」展へ。

サヌカイト(石器)と凝灰岩(古墳の石棺)を産出するので、考古系ながら今回は葛城修験。
吉祥草寺《役行者・前鬼後鬼像》(江戸時代)や聖護院《役行者・前鬼後鬼八大童子像》《孔雀明王画像》などを見る。

修験道本山派は葛城修験を重視し、大峯斗藪とは別個に扱われ、当山派は大峯斗藪の後に葛城修験を行うとされる。当山派は大和を中心とした真言宗寺院に止住した修験者が母胎となるので、西国三十三ヵ所巡礼で「結願のお礼参り」として高野山や信濃善光寺などを巡るのと同じ動きなのかも知れない。
狩野探幽《友ヶ島図》(万治4年・1661)や冷泉為恭《役行者・前鬼後鬼八大童子像》(模写)もあり、驚く。後者は南北朝時代の作品模写ながら、図録にはオリジナルが掲載。

二上山の麓ではコスモスが満開。

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くわばら、くわばら

2012-10-28

近所に俊乗房重源ゆかりの寺院がある。俊乗堂(本堂)には重源像(江戸時代か)を安置(この像、『集古十種』にも掲載)。傍らには和泉寺址があり、「珎縣主廣足作」「坂合部連」「讃美」といった人名瓦も出土している。

ここには「雷井戸」とよばれる井戸がある。『和泉名所図会』には、
むかし、此井(桑原井)へ雷落けり。(雷、)井より上らんとする所を、人寄集り、井の上に蓋を覆ふて、雷を責る事、やゝ久し。雷、大に苦んで、誓て曰、永々、此地へ落る事なしといひければ、蓋を取りて免しやりぬ。其より、此地に雷落る事なし。雷鳴のとき、桑原桑原といふも、此謂によるとぞ聞し
とある。

そんなことは関係なしに夜7時頃から、落雷多数。時折激しいスコールも。最寄駅にも落雷したようで、7時半頃から11時45分まで阪和線は全線運転休止。「タクシー振替」という事態も(振替輸送の私鉄が終電となり振替できないので)。
久しぶりの大パニック。

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展示

2012-10-29

午前中、大学でパンフレット用の資料写真撮影。2時から5時まで博物館展示室で展示作業。
大型ケース4個に資料を展示。展示ケースの中に入るのは何年振りだろうか。

展示ケース越しに「博物館実習展」の展示準備を行う博物館実習の学生の姿がみえる。学生も授業の合間に来て展示するのだが、こちらが展示を始めた2時から5時まで、学生の展示ケースの中はほとんど変わっていない。展示ケースを前にあれこれと熟考中・・・。

ほぼ展示を終えて微調整していると、学生がこちらの展示を見にくる。入口すぐの展示ケースだから授業を終えた学生も目に留まるのだが、先ほどまでの展示思案中の姿ではなく、単なる観覧者。

目線を見ているとすぐわかる。目線は作品にいっており、展示台(サイコロ)の違いとか、背屏代わりのサイコロをみてくれない。「どう展示しているか」には、ほとんど意が払われていないご様子。
博物館実習を担当していないこともあるが、質問もなし。

資料を生かすも殺すも展示次第なのだが、ケースに並べるだけでひと苦労の感。

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学園祭前

2012-10-30

新入生を迎えた桜もめっきりと色づく。お昼や夕刻は大学全体が、賑やか。なにしろ「学園祭」直前(11月1~4日)。そこにかける熱意をもうちょっと普段の授業に・・・と思うものの、最近は何事も元気が一番と割り切っている次第。

昼に大学博物館運営委員会を終えて授業。がっつり寝ている学生もいたが、彼女は「文学部学園祭実行委員会」のメンバー。色々と交渉ごともたいへんなんだろうなぁと思慮(現実的にも大変)。
たたき起すかどうか迷ったが、普段は質問もあって真面目な受講態度なので、そっとそのままにしておく。最近は、特に甘くなったと実感・・・。

かく言うこちらも、4日間の休日は有難い。と言ってもすでに“予約満席”。あれこれと動くことになる。「明日、出来ることは明日にしよう」とは、最近のポリシー。

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ミュージアム講座

2012-10-31

午前中、ミュージアム講座。展示解説を兼ねての講座。初の試み。普段は関心のない家人も来館。
わずかに歪んだ作品で、「顔正面」で展示したものの、「こっちのほうが表情がよいでしょ。」と「体正面」の展示変更を主張。ケース隅に置いてあるのだがら、おのずと視線は「体正面」になるのだが・・・。

90名ほどの方を前に60分ほど話をして展示室へ。なかなか馴染みの少ない話題なので質問も尋常ではない。
これまで見たこともないものを「存在しない」と主張するのは実に簡単なのだが、果たして、それが「存在しない」のか「公開されていない」のかははなはだ微妙。人目に触れることを憚られる存在は、なおさら・・・。

講座はやや不本意ながら展示によって相殺。多くの方にとってはご満足いただけたと思う。
「しばらく、このまま・・・」という声を遮って、午後には撤収。

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