日々雑記


数学

2012-03-01

日本数学会が実施した「大学生数学基本調査」で、中央値と平均値の違いが分からない大学生が続出とのこと。あいかわらずマスゴミも喜んで取り上げている。
高校時代、「数学Ⅲ」の追試を数え切れぬほど受けた身としてはアホか!である。いや、マスゴミが。

同じ問題を丸の内や北浜で活躍するサラリーマンやOLが解けば、もっと悲惨な状態になるだろう。おそらく大阪の豹柄のおばさんがチャレンジすれば全滅必至。なぜ「大学生だけ」にこだわるのか、そ の真意が分からない。

追試は積分。これ(左の数式)が解けないと卒業できなかったが、それ以来、微分・積分が実生活で登場する場面は未だに訪れていない。たとえ「2次関数グラフは『曲がった感じのやつ』。」でもぜんぜん実生活ではOKである。

日本数学会がたとえ浮世離れで危機感を顕わに(世間とは別世界に生きその存在を知らしめたい)したいと思っても、その矛先は高校の数学教育に向けられるべきではないのか。
最近、小学校から高校までの学力不振の尻拭いをすべて大学へ持っていこうとする傾向が強いが、果たして指弾できる資格のある大人がどれほどいるのかはなはだ疑問。

2次関数グラフを「曲がった感じ」と言いながら、困っている人に対して自然と手が伸びているようなそんな大学生を育てたいと思うのだが。

top

伝統

2012-03-02

雨天ながらも細見美術館「麗しき日本の美-祈りのかたち-」展へ。

普賢菩薩像や慈雲尊者の墨蹟や山本義照による慈雲の画像などをじっくり。慈雲は関西ではあまり知られていない学僧。山本義照は元因幡藩士。このほか原在中も慈雲画像を描いている。河内長栄寺の本堂天井画(雲龍図)も原在中。
古香庵のコーナーは香合類が展示。

その後「みやこメッセ」に向かい「うるおい漆展」へ。擬素材の作品(どう見ても錆びた鉄鉾しか見えなかったが)や素材を生かした作品など。消しゴムケースの競作も興味深い。伝統を支えながらも新しい動向を感じる。同じ地階では伝統工芸の実演も。今日は「仏師」ほか。

若い女性が仏師の彫 技に見入っている・・・。
遠くから見ていると如来の立像。衣文を一生懸命彫りこんで「仕上げ」ているが、ノミさばきはどことなくぎこちない。像を回すと頭部がない・・・。躰部は一木造で、首周りを円形に彫り込んで、別製の頭部を差し込む。む~ん。
京都仏師の伝統は寄木造、内刳り。光雲の言葉を借りれば「分業」「間に合い」仕事である。

時代によって「伝統」も変質するのかと思ったり。

top

宝永

2012-03-03

3月入試。休日出勤の工事関係者もさすがに今日ばかりは休業。芝生で遊ぶ学生も追い払われる始末・・・。終日、暖かな快晴に恵まれ、文系(試験)本日、終了。

元禄17年3月13日、元禄から「宝永」に改元。原因は前年、元禄16年11月23日に起こった大地震。
元禄十六癸未十一月廿二夜ノ九ッヨリ大地震津波七十余日震動関東十億(ママ)万人三千人余死ス宝永ト改元ス宝永四丁亥十一月二十三日ノ夜国中砂降ル十二月六日マテ其時富士ニ新山出ル宝永山ト云廿四日ニハ国中大闇夜ノ如シ昼燈附ル富士山ヨリ山火シテ燃ル事十四日ノ間ナリ国中人民風気シテ煩イシ事他国ニハ石モ降ル或ハ地上ノ上ニ白キ毛モハユル又ハ降ル事モアリ
千葉県のお寺にある過去帳の一節。

言うまでもないが、こうした史料を生かすのも人次第である。

top

肩書

2012-03-04

昨夜、外で一献。
予想外の昼抜き×ビール×鍋×吟醸酒×緊張=泥酔という近年稀にみる最悪の公式。

遅い朝、新聞をみていた家人とのやり取り。
「某さんって、知ってる?」
「知らん!」
「でも“仏像”の人よ。」
「(そんな名前)聞いたことないわ。」

新聞を取り上げ てみると、某カルチャーセンターの広告。件の講師は「××大学○○研究所上席特別客員研究員」の肩書。

「すごい人やろ。」
「どこがすごいねん。上席=年取った、客員=常勤にしたくない、特別=普通ではないうるさ型、という人なんや。そんなすごい人なら、(常勤の)『教授』にするやろ。しないところがミソなんやて。」

住民サークルや公民館等へは手弁当で行くのに、「カルチャーセンター」と聞くだけで拒絶するこちらを横目にしながら“話の落としどころ”に困ったような家人。
「『肩書』だけでは人間、わからんよ。」となおもダメ押し。
「そう、そう。それは理解できる。夜中にベロン、ベロンになって帰ってくるもの。」と。
いや、昨日は・・・。

top

追跡退学

2012-03-05

終日会議。

厚い資料(一覧表)の凡例に「追=追跡退学」とある。はて?
よもや、いじめにあって学校に出て来ることができず、ずるずると退学?こちらが追跡調査をすると既に退学になっていた・・・。あぁ~、なぜ?などと妄想ふくらむばかり。
事務職員氏曰く「今はほとんどありませんが・・・」と。

大学を辞めたことを示す名称として「退学」と「抹籍」がある。両者の違いはその期日までの授業料を納入しているかどうか。納めていない場合は「抹籍」。最近は共に「経済的事情」や「一身上の都合」が多く、胸が痛む。

さて「追跡退学」。
入学金はもとより1年次半期分の授業料を納めたにもかかわらず、まったく大学に来ない。授業料を収めた時点で各学生には学籍番号が付与され、学生証や様々なデーターシートなども作成。
入学式にも来ず、学生証も受け取りに来ず、履修届もなし。学費納入済にも拘わらず大学に来ない。浪人なのか他の大学へ行ったのか、はたまた深刻な状況の激変があったのか・・・。
そこで事務職員が連絡を取り、在学・通学の意思なしを“追跡”調査して確認できれば「追跡退学」。

説明を聞きながら、「追跡退学」の“学生”がその後どのようなすばらしい?生活を過ごしているのかを“追跡調査”してみたいとも。意外に「ヒッキー」や「ニート」だったりして。

top

調査

2012-03-06

岡山某所へ仏師文書の調査。

「覚」とある金額が書き込まれている。請取状である。文化年間。「子」とあるので元年か13年。仏師名の次に「同 何某」とある。石清水文書には「康祐 同大学」とあって、これまでこれを康祐と弟子の「大学」とみなしていたのだが、最近、康祐の俗名が「大学」とわかり、法名+俗名であることが理解。今回も仏師名+「同 俗名」と考えれば、これを一人の名前と考えられる。
そもそも、請取状のあて名に師匠と弟子をあてるのが不自然である。

調査を終えて、備中国分寺へ。五重塔は弘化元年(1844)頃に完成。内部は五智如来像(大日、阿弥陀、宝生、阿しゅく、不空成就各如来像)が安置。それぞれカラフルでド派手な獣座に乗るが仏像そのものは幕末期の典型的な作品。

夕刻、雪舟が子坊主のころ、柱に縛られ涙でネズミの絵を描いた宝福寺へ。山門横には縛られた雪舟の膝頭にネズミが乗るブロンズ像。境内には南北朝時代の三重塔が残り、また昭和3年建立の「雪舟碑」も。上段の円相内は雪舟の自画像、中段は雪舟筆育王山全景、下段は藤井高尚の撰文、頼山陽の筆になる碑文。

top

ベンガラ

2012-03-07

山なかの一車線の細道をどんどん入っていくと、突如、赤い家並みが続く町が出現。成羽町吹屋、「べんがらの里」である。赤いベンガラ壁と石州瓦がよく似合う。

江戸時代後期から明治にかけてベンガラ生産によって繁栄。東京・名古屋・大阪のほか輪島や金沢などにも販路。輪島塗や再興九谷焼、伊万里の「赤」である。

日本の「赤」は丹・朱・ベンガラ。ベンガラは茶色に近い落ち着いた赤である。恥ずかしながら、それらの製法はほとんど知らない。絵具のお勉強である。
旧片山邸へ。ベンガラの製造工程を記したイラスト。
磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)から緑礬(ローハ)を作り、さらにローハを焙烙にのせて焼くとベンガラが誕生。手間ひまかかる工程である。
郷土館(弁柄窯元片山浅治郎家の分家)は石州大工島田綱吉の手により明治12年3月の築造。石州瓦と言いこのあたりは島根との関係も深く山陰と山陽を結ぶ街道沿いにあたるのだろうか。

季節外れだろうか、不思議なほど観光客も殆どいないひっそりとした街並みを歩く。お土産代わりに「吹屋醤油」を購入し、帰阪。

top

内示

2012-03-08

気がつけば日も暮れ、今日も終日会議と打ち合わせ。
そろそろ卒業式も近いが、大学の事務職員氏は3月半ばに内示が出るとの由。雑談しているうちに、どこでも内示は悲喜こもごも。こちらが役所のように3月末あたりに内示が出ると、入学式や4月予定が確実に大混乱・・・。辞令を受け、ほぼ2週間のうちに“お引っ越し”完了。

外(現場)で仕事をしている途中、たまたま用事があって庁舎に戻っただけなのに、上司に「ちょっとこっちに・・・」と呼ばれ別室で内示を受ける、あるいは休暇をとって自宅にいると、上司からの電話があって・・・。基本的に「辞令」の枚数だけの「内示」がある。
もちろんどんな職場にも“予想屋”(←これがけっこう外れる)や一夜にして大方の「異動」を把握してお知らせしてくれる“非公式リーク・ルート”も存在。

当時はこの時期が近付くとハラハラドキドキしていたが、今となっては懐かしい思い出。
いまさら、この期に及んで「内示」が出ても困るのだが・・・。

top

お疲れ

2012-03-09

年度最後の会議。
学部最後の入口(3月入試)と出口の査定。その他の案件もあり、目の前の資料は厚さ10数センチに積み上がる。

少しいらっとした事もあったが滞りなく会議終了。研究室に戻りホッとしながら書類を書いていると、上着のポケットにメモ書き。会議終了後に聞き取りをして別の書類も作らなければならず、会議直前に提出してくださったもの。ところで、このメモを書き写す書類は・・・・・・。
あっ~っ!会議に持ち込んで、机上にある会議資料(回収資料)と一緒に置いてきてしまった。早く(対応)しないとトイレットペーパーの原料に。 NO~~!

大慌てで、夜半の事務室(職員氏がまだおられた)に駆け込み事情を話す。事務室の片隅でミカン箱より一回り大きいコンテナ箱に満載の回収資料(会議資料)の山を“やさがし”。
件の書類は諦めかけた3箱目の底から無事に救出。丁寧にお礼を述べて退室。

ここに至って、かなりお疲れの態。

top

プレ社会人

2012-03-10

午後、プレスチューデントプログラム修了式。

先輩が「自由と自己責任」や「メモ取れ」、朝日新聞の人が「新聞を読め」などと適切なアドヴァイスをしているにも関わらず後ろの方ではぼんやりと坐するのみ・・・。
まだまだ高校生。

質疑応答にかこつけて、「皆さんは“大学”を小中高の延長だと考えていますが、大学は“社会”の前段です。」と辛口コメント。だって質問に「文学部新入生の親睦会はありますか?」「クラブとバイトの両立は出来るのか?」等の質問が来るんだもの。前者は授業開始の4月4日午前8時45分の阪急関大前駅の状況を話し、あるわけないやろと。後者では こんな話 も披露。

4月当初の大混雑・大混乱ぶりは3月土曜午後のまったりとした学内の雰囲気(生協も休店)からは想像も出来ない。

top

ワークショップ

2012-03-11

飛鳥セミナーハウスにてEU‐日本学関係のワークショップ。日・欧の大学院生による研究発表会。
ルーヴェン大学(ベルギー)日本学科、デュセルドルフ大学(ドイツ)現代日本研究科、それに、大阪大学、関西大学から。教員はS先生、S先生、T先生と私。(途中でO先生も)。総勢20名弱。

13時から18時までびっしり。発表テーマも特殊器台(考古学)から荷田在満、pixiv、ネット右翼まで。
特にヨーロッパの学生が日本文化の何をみているのかが興味深いが、「厨房」「ブサヨ」など異分野から教わることもしばしば・・・。

過日の失敗もあって、懇親会もそこそこに就寝。

top

石舞台古墳

2012-03-12

午前中、発表とまとめがあって、午後より飛鳥散策。

セミナーハウスから集落に沿って歩き出す。ところが、勧請綱あたりから雪が降り出し、稲渕の棚田あたりでは猛吹雪。見学どころではない様子。小やみになるのを待ちながら石舞台古墳まで移動。

昼食をとっている間も吹雪。やむなく石舞台を見学して解散と決めて石室内を見学。
大昔の知識では、石舞台古墳は上円下方墳だったのだが、最近は方墳との由。既に江戸時代には石室が露呈。法隆寺や飛鳥寺も建ち、仏像も作られていた頃に巨大石室をもつ「古墳造り」とは、蘇我馬子の意識がよくわからない。

石室から出ると、晴れ間が見え急遽、見学続行。遠方の山には積雪。飛鳥板蓋宮址へ向かう。
このあたりは板蓋宮や岡本宮、後岡本宮などが重複。復元遺構は後岡本宮との由。ここからは橘寺も飛鳥寺も指呼の距離。この狭いエリアでいくつもドラマが・・・。

酒船石を見た後、再び降雪。しかも今度はすぐに止みそうもない。もう3月も中旬だというのに。
やむなく万葉文化館前で“雪やどり”をして、バスにて橿原神宮前へ出て、解散。

top

2519-05

2012-03-13

シンナー臭と騒音に悩まされながら、書類作成や図書館徘徊など。図書館はこれまでの入口横に出口が新設。

夜遅く帰宅すると、末娘が開口一番。
「何ぃ、あの重たい曲は。それに『じつげ(実化)』って何よ、『じっか』やろ」と。疲れもあって最初は何のことだか、まったくわからない。
「じつげ(実化)」って(関西大学)学歌のことか?

大学生と同じく高校生も春休み。昼間、友達とカラオケ(ビッグ・エコー)に行ったらしい。「アイウォンチュー~♪」などと唄って、「次」という番にリストの頁から「関西大学学歌」をみつけたらしい。作曲は山田耕筰、作詞「服部嘉香」ということで、すかさずリクエスト。
親思いの子だ・・・。

ところが、カラオケが始まると男性合唱(グリークラブ?)の歌(声)で「自然の秀麗~♪」と始まって、「カァ~ンサイダィガクッ! カァ~ンサイダィガクッ!」となったらしい。「歌詞もぜんぜん『平原綾香』っぽくないじゃない!」。はぁ・・・。
私に言われても困る。服部嘉香は男なのだから。

服部嘉香(はっとり よしか)。大正10年~14年に在籍した本学教授。在職中、英語、国語、 心理学、商業実践などを担当。

「考えてもみぃ、120年以上の歴史ある学校(大学)やから、校歌がアイウォンチュー~♪ってなるか、ふつうは。」
「だって、嘉香(よしか)って女の名前やん。」

ぶつくさ言いながら、くしゃくしゃになった紙片。紙片には「2519-05」と。
「ビッグ・エコーで、この番号入れたら“鳴る”。」
“鳴る”っていうな。

top

龍の肉球、獅子のまつげ

2012-03-14

穏やかな好天。家人の所用にて神戸へ向かう。こちらは白鶴美術館へ。

普段見慣れた資料であっても突然気づいて“しまう”ことがある。そうなると、あれもそうなのかと、気になることが多くなる。
山中理『その龍に肉球はあるか?-ささやかな日常感覚から見た古美術』(里文出版)はそうした何気ない気づきから東洋美術の魅力を語る集大成である。
「春季展」が山中氏のプロデュースかどうかは不明だが、名品を見る楽しみにあふれたものであることは、やや多めの解説キャプションからも窺い知ることができる。陶磁器の脚部に描かれた「獅子」を「『オバケのQ太郎』に登場するラーメン好きの小池さんにそっくり」と書くなど、ちょっと真似できない。肉球は《白地黒掻落竜文瓶》(宋代)にあり。

絵画も呂紀風の花鳥画や狩野典信《鳳凰》・《麒麟》や源琦、岸駒《雲龍図》、《高野大師行状図画》
も。岸駒の作品は「越前介」時代までが良質であるとも。

新館ではイラン・コーカサス・トルコの絨毯。ここでも目からうろこの解説。
気持よい時間をたっぷりと過ごす。

top

チュンダ(純陀)を恨むな

2012-03-15

学舎工事も後半に入り、ガンガンと進行中。夕刻まで図書館の「研究個室」に籠り、(作業員が帰った)5時以降は個研へもどる。

今日は涅槃会(新暦)。いくつかの寺院では涅槃図も懸架。
涅槃図はクシナガラでの釈迦(釈尊)の入滅場面を描いたものだが、釈迦を死(入滅)に至らしめた者が描かれていることはあまり知られていない。

釈迦は、クシナガラの前に訪れたパーヴァーの地で鍛冶工で篤信の青年チュンダから食物の供養を受け、その食物(「スーカラ・マッダヴァ」)がもとで食中毒になり入滅。
チュンダ、蒼白・・・。釈迦、「大丈夫、大丈夫・・・」(嘘も方便)。

チュンダは責任を感じて釈迦の旅に同行し、クシナガラでは釈迦の指示で寝台を作る。そこに横臥した釈迦は弟子の阿難にこう語る。
きっと、誰かはチュンダの毒料理を食べたせいだ!チュンダは悪党だ!と言うだろう。しかし、それは間違いである。チュンダの料理を最後の供養として逝くのだから、成道(再チャレンジ)の時に供養を受けたスジャータと並ぶほど大いなる供養(者)である。チュンダを恨むなとも。
チュンダ、号泣(;Д;)・・・。(←これは嘘)

涅槃図の左側には仏飯(供物)を捧げるチュンダが描かれているが、近世以降の涅槃図の一部にはチュンダを描いていない作品も多い。
チュンダを恨んではならないって、言っておろうが。

top

皇国史観

2012-03-16

午後より年度最後(予定)の会議2つ。只今、事務職員氏、卒業式準備の真っ最中。

日本史の教科書には、明治10年(1877)にエドワードモースが車窓からみえた「大森貝塚」を発見、発掘したことが縄文時代の項目にある。また明治17年(1884)には東京・本郷向ヶ岡弥生町で発見された土器を「弥生式土器」と命名したことから「弥生時代」となる、と記されている。うちの博物館に展示されている河内国府遺跡(旧石器~)の遺物も大正6~10年にかけて調査されたもの。

ところが、当時の国史はいわゆる「皇国史観」に基づくもので、イザナミ・イザナギや大和武尊や神武天皇、神功皇后などが実在する日本の歴史が絶対的なものである(だって当時の教科書にそのように記述されていた)。
では、上のような“考古学上の成果”は当時、どこ(どの時代)に還元されたのだろうか。
「卑弥呼は神功皇后である」と文献資料のように無理やりつじつまを合わせることは容易いが、戦前の考古学がどのように「皇国史観」のなかでその成果を布置していたのか(骨抜きになったのか)、あまり深く語られていないように思う。

「常歩無限」というが、一度、後ろを振り返ってみる必要もあるのではないだろうか。

top

IBU

2012-03-17

図書館の紹介状をもって四天王寺大学図書館へ。
最寄りが藤井寺・古市(近鉄)、美原(車)と微妙な距離に立地。

名前のごとく四天王寺が建てた学校である。図書館コピー機の前にも十七条憲法全文が掲示。

1957年に四天王寺学園女子短期大学として開学。1967年には現在地(羽曳野市)に移転し、四天王寺女子大学文学部仏教学科・教育学科・文学科を設置、その後史学科も置かれる。1981年には四天王寺国際仏教大学(International Buddhist University)と改称。
平成になり、仏教学科や史学科がなくなって、現在は人文社会、教育、経営の3学部に。

表向きには英文略称のみ残る「仏教」だが、仏教・宗教系の大学との交流から仏教関係の蔵書は、うちよりも充実。いちいち紹介状を書いてもらうのも面倒なので、オープンカレッジ会員(図書館利用可)になろうかとも。

しかし「仏教」ではあかんか・・・。

top

卒業式

2012-3-19

午後から卒業式。

三専修合同で祝辞、各表彰を行った後、教室を別にしての授与式。欠席者2名、授与式・祝辞、今年はなにやら「最終アンケート」も登場。
項目数も多くちょっと無粋気味。学生証は自己責任で各自で廃棄とのことで、終了。

毎年のこととはいえ、晴れやかである。
雨も降らずに幸いだったが、気温9℃と、この時期にしては肌寒い。やや苦しそうにもみえる振袖姿がちょっとうらやましい。
なにはともあれ、みなさん卒業おめでとうございます。

top

絵所預

2012-03-20

住吉文華館「住吉大社絵所預作品展」へ。

菅楯彦や生田花朝のほか、福井月斎(金穂)、安江不空といった住吉大社絵所預の作品が展示。展示数は多くないが、展示ケース上には大坂絵師の扁額や住吉大社の宝物も展示され、みどころ満載。

扁額は「耕冲八十翁」とあって明治32年ごろの作品。耕甫をはじめ「耕」字がつく絵師も多く、大坂の絵師は大坂の寺社が支えていたということを再確認。
その他舞楽面や「神宮寺什物帳」も見る。神宮寺は天台系で、本尊は薬師如来。西塔は徳島・切幡寺に売却されて現存し、住吉大社境内では護摩堂(現招魂社)、高蔵、回廊の一部が残る。
「神宮寺什物帳」には本尊こそ秘仏だが、日光・月光菩薩には「繕イ」「直シ」とあり、下段には上中下とあってそれぞれ金額が記されていることから、修復時の明細帳(「注文」)ではないかと思われる。
宝物を拝見した後、境内を散策。

夜、梅田にて卒業パーティ。

top

鴨島

2012-03-22

午前中、新2回生ガイダンス。昨日は大学院修了式。これが終わるとしばらくの間、研究期間。

共同通信社から過日の取材が記事になったとの連絡。
「まだ連載中の所も多いのですが、サンケイEXで4回分の掲載が終わりましたので・・・」と。やっぱり、各地に“拡散”。
「面白い点に気付いた」とはいささか不謹慎な表現だが、調査当時はあのような地震と津波が起こるとは想像もしなかった・・・。

島根・益田市沖にあった「鴨島」。万寿の地震(万寿3年・1026)で沈没。梅原猛『水底の歌』で柿本人麻呂終焉の地とされた島。

その当否はさておき、高津柿本神社(益田市)にも類似した伝説が残る。人麻呂の没後、石見国司が聖武帝の勅命を受けて鴨島に人丸社を建立したが、万寿の地震と津波によって社殿は鴨島ともども沈没。ところが、神像(人麻呂像)は境内にあった松の枝に引っ掛かったまま、松崎の地に漂着、そこに社殿と別当寺を再建し、現在の高津柿本神社に。

神像は拝見していないのでなんとも言いがたかったが、きっと「水に浮いた」のであろう・・・。
「松の枝に引っ掛かったまま」というあたりがいかにもリアルっぽい。

top

物語絵

2012-03-24

和泉市久保惣記念美術館「物語を描く-源氏と伊勢-」展へ。

源氏物語・伊勢物語は、成立直後から教養の「必修」である。描かれた作品を見ながら、どの段が描かれているのかを理解できるか否かが、教養の有無を決定する。

例えば「朝顔」では、女童(めのわらわ)の「雪転し」(ゆきまろばし=雪ころがし)が定番。しかし「若紫」では多くの作品が「すずめの子をいぬきが逃がしつる。」の場面で逃げていく雀がポイントながら、土佐光吉(久翌)「源氏物語手鑑」では「法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり」と「滝」が描かれている。
もちろん各作品には丁寧な解説が付されているので「教養」がなくても大丈夫。いつものことながら気の利いた配慮。

源氏物語朝顔図扇面は折れ目が目立ち、扇として使用されたもの。小林清親「伊勢物語東下り図小襖」はやまと絵の一行と西洋表現に基づいた富士山を描く、ちょっと粋な小襖。

top

怪我の功名

2012-03-25

10日ほど前に島根・清水寺摩多羅神像が県指定(有形文化財)に答申との連絡。
奥歯にモノの挟まったような経緯だが、今だから言えることながら、これこそ“怪我の功名”。
  答申・プレスリリース(PDF)    発見の経緯

某日、展覧会出品準備のため学芸員甲さん、乙さんとカメラマン氏とで同寺を訪問。
出品予定の仏像は既に重要文化財に指定され詳細な調書もあって、“調査担当”のこちらとしてはかなり「手持無沙汰」。撮影のお手伝いをしながらも周りを見回すと、片隅に「仏像」。閻魔像?古そうだが、決して大切にされている風でもなく、周囲には藁束やゴミ、ホコリ。まあまあ・・・。

「お掃除、お掃除・・・」と「仏像」を少し動かすと頭が揺れた。頭部が抜ける、そう思って頭部をそっと引き上げ、胎内を覗くと墨書。乙さんと懐中電灯を照らしながらの確認。「嘉暦二二己巳・・・」。
おっ~!と叫ぶもそばにいたカメラマン氏から「君ら、(撮影の)ジャマ!」。これが2008年3月。
ところが、この時に神像の調査はもちろん含まれていない。改めて調査(精査)をお願いしたのが、2009年2月。

勝手に「お掃除」や「首を抜いた」ことは重々反省しておりますが、「県指定」になったことでなにとぞチャラということで。3年がかりのお詫び。

top

昔日

2012-03-27

プチ会議と学生履修相談。
指摘されて思い出したのだが、30年ほど前の大学暦では前期が夏休みを挟んで9月末だったと。しかも9月1日から授業開始。(試験は9月半ば頃)

冷房完備どころではなく、お互い汗だくで授業ということもしばしば。少人数のゼミでは教室を出て教員ともども大学前の喫茶店へしけ込む有様。
もとより「メールで休講のお知らせ」などなく、大学に出てきてみて掲示板(写真:中央右側)を見ないことには休講かどうかはわからない。そういえば9月初旬は休講が多かったような気もする・・・。

大学ひとつを取り上げても、学習環境をはじめ何もかもが変わり、もう後戻りはできないけれど、汗をぬぐいつつ法文坂を上がって掲示板をみた途端、「えっ~、また休講ぅ?」と言った、のんびりとした時代もそう悪くはなかったような気もする。

top

神仏も恐れぬ

2012-03-28

明日から調査。既に送られたスナップ写真からは足元が朽損して自立できない像がいくつかある。近所のホームセンターに行き、写真を見ながらフィギュアスタンドのようなものを工作。

横で写真を見ていた家人、「待ってはる。」
「はぁ?」
「来るの、待ってはるて、神さんが・・・。」

家人には「霊感」があるらしい。時折、車でトンネルに入るなり、ぎゃぁ~と叫び声をあげたりする。店に入った途端、出ようとか。高野山へは絶対行かない(何かみえるそうな・・・)。
「何か、感じない?」といわれてもごく普通の神像や仏像の写真しかみえないのだが・・・。

「いちいち、『霊感』感じてたら、仕事にならへんがな。それに肩に積もったホコリを払い、取れていた手なんか元にもどしたりしてんねん。それで祟ったら『この、恩知らずめ』ってなるわな。」
「『信長』以上に神仏も恐れぬというか、鈍感というか・・・」。

調査に行く前から変なこと言うなよ。

top

神様・仏様

2012-03-29

早朝に自宅をたち、某所へ調査。

神様・仏様たっぷり。周囲に大きなお寺があったのであろうと推測。しかも古い像多し。ノートには既に法量の細目項目が記入済。

大きなご神影や安土桃山時代の櫃など見せてもらい、関係者との雑談が続く・・・。神様・仏様にはなかなか会わせてもらえない。
昼食を済ませてようやく調査。

このところ、仏像に交じって神像を調査する機会が多い。神像彫刻は拝見不可というのが多いが、やっぱり「呼んではる」のだろうか。

日没までかかってすべてを調査。どれもこれも古い像のように見えるのだが、「まだ、あそこ(堂舎)の床下にある木箱に(仏・神像が)ありそうに思うんやけど・・・」と。
さすがに「また(いつでも)来ます」と。
後は盗難対策。一般公開といったオープンなのもちょっと困るが、いずれ、しかるべき博物館へ寄託されることになるだろう。

top

名無しにかわりましてVIPがお送りします(2ch風)

2012-03-30

葉の花が咲くなか、遠山はまだ冠雪。この山の向こう側が今日目指すところ。数日前は雪道、ノーマルタイヤ不可の状態だったが、既に雪はなく、小春日和の中、滞りなく現地到着。

さほど大きくない阿弥陀如来坐像だが、内刳りは深くなく結構重い。厨子を開けた時に気づいていたが、ずいぶんと改変の跡。平安時代後期の割り矧ぎ造の像だが、頭部から面部にかけて前後に割っており、目には玉眼を(新たに)嵌めている。膝前も新たに取りかえられ、鼻も形が変わっている。すべて江戸時代の“仕業”。

平安後期の仏像がしばらく傷んだ状態にあり、江戸時代に修理する際に、彫眼を玉眼に変え、目鼻立ちを整え、膝前も取り換えたのだろう。
近代までは仏像の無比完結性が修理の理念。しかも当時の流行(例えば玉眼)に合わせた修復が行われる。そこに現状維持とか当初の造形性を重んじるといった近代的な修理理念が持ち込まれることはない。

仕方なく、ノートに仏像の概形(面部・正面・背面・左右側面)を描き、青鉛筆を取り出して、後補部分をマーキング。かなり大規模な修復で、調査後の説明を思うと、こちらの顔も徐々に青くなり・・・。

調査後の説明はなんだか、江戸時代に修理した仏師の弁解みたいな発言。「玉眼というのは当時の流行ですから。流行に沿った形がよろしかろうと・・・。」
修理仏師の銘記がなくて幸い。

top

2012-03-31

柳宗悦「盒子物語」に次のような話がある。

1915年(大正4年)頃、柳が京城(ソウル)の道具屋で染付辰砂盒子を見つけ、“取り置き”をお願いしたが、後日、店の者が間違って他人に売却してしまった。悔しいが仕方ない。それから2年ほどして、再び京城を訪ね、李朝工芸の蒐集家でもあった富田儀作の招きを受け、桃形水滴など色々拝見したなかに、件の染付辰砂盒子を見つけた。柳は事の仔細を話そうかと思ったが躊躇する。この折、富田はコレクションを一般公開する旨が伝えられ、また柳は「朝鮮民族美術館」と富田コレクションの統合を相談したらしい。
何年かの後、富田は亡くなり、盒子の行方は不明となったが、1930年にボストン山中商会の地下室で、再びあの時の染付辰砂盒子、桃形水滴を見つける。両品は柳のもとに収まり、『工藝』111号(盒子)、同85号の口絵を飾る。

富田儀作が亡くなったのは1930年で柳の誤解だが、富田コレクションを展示した「朝鮮美術工芸館」は1921年に開館するも、経営悪化のため1926年に閉館、コレクションは山中商会へ譲与される。
富田熊作が山中商会を退社したのは1922年。京都麩屋町で古美術商を営んだ頃に、コレクションが売却。

繋がりそうでなかなか繋がらないが、近代での朝鮮陶磁の評価と合わせ興味深い内容。

top

過去ログ