日々雑記


実務実習

2011-8-1

過日、知り合いの美術品運送業者さんが突如、来室。「総合図書館に用がありまして、その帰りに・・・」と。互いに久闊を叙す。

「ハセさんが博物館実習を担当していないのを承知で、言いにくい事なのですが、実は・・・」とパンフレットを取りだす。
「おっ、大阪城天守閣か。甲冑や合戦図屏風もあるし。せやけど窓はきれいな。どこでの仕事や?」
「そういうことを言うヒトがいる所ではあまり用はないかもしれませんが・・・自社です。屏風は仰る通り、大阪城天守閣のレプリカです。」

パンフを開けてみると、来年から大学の博物館実習課程で新カリキュラムが実施され、学内実習の中に「実務実習」の設置が義務付けられる。そこを業者さんがお手伝いしようという企画。
予想通りの企画というか展開というか・・・。現場を知らない教員と「もぎり」をさせる受入側との悪弊がこういうことになったのだろう。
「焼物も仏像も掛軸・屏風、なんでも出来る「学芸員」というのも、そっちとしては“商売あがったり”で問題やけど、なんかひとつぐらいは(取り扱い)出来んとな。全部(業者に)おまかせでは『学芸員』として失格やろ。作品によってそれぞれコンディションも違うけどな。」と相変わらずの減らず口。

「実習」はコマ数に応じて基本プラン+各種オプションから。取扱い作品及び諸資材一式込み。大学が用意するのは教室のみ。またオプションにはテスト(E-learning)も。
「30回全コマ、お願いできるか」という問い合わせもあれば、この際、博物館実習課程をなくす大学も。美術梱包を築いた第1世代の元学芸員がいる大学では「そもそも美術梱包とは・・・」と説教を頂くこともあったらしい。

「テストなんかやめて、実習生の家にある一番高い焼物を持ってこさせて梱包させたらええ。それを“美専”で会社に運んで、開梱して割れてなかったら『合格』というのはどや?皆、真剣になるで。」とまたもや軽口。「そんなクビが飛ぶような話、しやんといてください。」

現役学芸員も「他山の石」ではない・・・。

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この紋所が目に入らぬか・・・

2011-8-2

狩野晴川院養信『公用日記』天保2年(1831)8月10日条に以下の記述。

御用之儀候ハゞ、右諸院什物何々取寄度ト申儀、中務大輔余ヨリ申出候得者、取寄可申ト申聞候。尤高野もかぎらず、左様之筋御用之品ハ同人申出候ハゞ承り可申段申聞了中務大輔とは寺社奉行脇坂安董。「高野」とは「高野学侶宝蔵(古器及楽装束図)」を示すものか。

ともかく寺社奉行から、御用の申出があればどの寺社の宝物でもお取り寄せ可能の“お墨付き”。
以後、狩野養信は弟子・門人も動員しての絵巻大模写作戦。平治物語絵詞、一遍聖絵10巻等々。生涯に絵巻だけで76件130数巻の絵巻模写を行うが、半分はこの時以後のもの。
そんなたくさんの御用があったのかと問われれば、「さしたる御用はないが、後々の参考に・・・」と。
やるね、養信。でも下痢と腹痛に悩まされ、公務をお休みすることも・・・。

修論口頭試問。その後も夜半過ぎまで来室者多数。

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祥雲寺

2011-08-03


早世した愛児鶴松のために秀吉が京都・東山に建立した祥雲寺。
客殿は正面幅41.5m、奥行16.8mの巨大建築。ちなみに東大寺現大仏殿は正面の幅57.5m、奥行き50.5mである。

内部の間仕切りはおそらくこのようなもの(諸説あり)。仏間に面した「室中」(橙色)は、17.1m×10.5mで、約100畳。
文禄2年(1593)8月5日にここで、鶴松の三回忌が営まれた。すぐ隣には方広寺も。
家康は「都一番にて候へば田舎には無之候間、日本一番之寺」と言ったとも。この襖にはもちろん絵が書かれていた。教科書でお馴染みの長谷川等伯・久蔵一門による智積院襖絵。

どうして教科書には《唐獅子図屏風》や《紅白梅図屏風》、黒田清輝《湖畔》などイレギュラーな作品ばかりが掲載されるのだろうか。
終日、採点。

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有情・非情

2011-08-04


祥雲寺その2。
こちらは智積院・大書院にある楓図(等伯筆)模写。これらが祥雲寺客殿の襖を飾った。
愛児の夭折に接し悲嘆にくれる秀吉。
秀吉の気性をよく知る 絵師狩野永徳は、鶴松が亡くなるほぼ1年前(天正18年(1591)9月4日)に過労死。永徳が生きておれば、祥雲寺客殿の襖絵はきっと永徳が担当していたはず。

そうした思いでこの襖絵を見ると、楓の巨樹が襖の上下を貫き、左右に大きく枝を張る・・・。長谷川等伯の作品にはこういう画風は(似合わ)ない。三玄院襖などにみる「しつかな絵」が主体の等伯。
等伯は秀吉の思いを深く受け止めて、敢えて永徳(狩野派)風の襖絵にしたのではなかったのかと。
「昔、お世話になった狩野派(永徳)へのオマージュ」とはちょっと難しい判断だが、バツ。

新旧暦ごちゃ混ぜながら、明日は鶴松の420回忌。

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さらし者

2011-08-06

答案用紙にいらんことを書く学生あり。
私は体育 (ママ) 会に所属している4回生の□□□□です。
今回就職活動などで授業に出席することが難しい状況でした。
まだ就職先が決まっておらず、卒業も単位が厳しいです。
今後も就職活動部活動勉強が続くので、今回はなんとかよろしくお願いします。
じゃね、そういうローテンション(就活>部活>勉強)でずっと頑張ってください、まだ裏4年もありますし、貴君より学籍番号がひとつもふたつも多い学生が、いい点取っていますので、何がおかしいか(全てがおかしい!)気づくまで、末永く関大生でいてください。
貴君が長く関大生でありつづけるために、私も微力ながら応援しています。

もちろん点数も年齢以下。

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オープンキャンパス

2011-08-07


昨日、今日とオープンキャンパス 夏の陣(非番)。

6・8・9・10・3月と年5回のオープンキャンパスのうち、8月は最大級。
各学部は学部紹介はもとよりミニ講義や相談コーナーを開催し、「夏休みの受験勉強の仕方」までも説明。保護者向けには就職状況や奨学金制度の説明。生協や食堂・コンビニもフルオープン。猛暑での開催ゆえ、手提げ袋(グッズ袋)には“お約束”のドリンクチケットも。

学生・教職員等のフル関大による「総力戦」。「千里ホールAの入試説明会は満席になりましたぁ~」と朝からスタッフの声が聞こえる。例年に比べ多そうな人出。(2日間で17,000人超と発表)
国公立大では信じられないかもしれないが。

これが終わると、夏休み(一斉休業)。
ゴールが見えてきたのか、雑踏の中、お会いする職員氏や先生方は、なんとなく「ハイテンション」。

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式内論社

2011-08-09

905年(延喜5年)に編さんが開始され、927年(延長5年)に一応の完成をみた『延喜式』。巻九・十は、当時「官社」とされていた全国の神社一覧で『延喜式神名帳』ともいう。官幣・国幣の大社・小社合わせて2861社3132座が列記。これを「式内社」という。あくまで朝廷からみた神社であって、“独立リーグ?”である石清水八幡宮、八坂神社、北野天満宮、熊野那智大社はこれには含まない。これを「式外社」という。
八百万神というが、平安朝公認は3000ほどの神々・・・。

例えば、『延喜式神名帳』に和泉郡廿八座とあり、そのうちのひとつが和泉国府そばにある泉井上神社。これは全く問題ない。
ところが同じ郡内で多数の同名の神社がある場合、「『式内社』はウチの神社。」「いやいや、『式内社』は村一番の由緒を誇るうちの社が・・・」と、もめる。これを「論社」というらしい。

こういう用語がある自体、全国あちこちで多発していた(いる)ことの表れでもある。

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蘭奢待

2011-08-09

若手研究者(古代史)と雑談。
今年の正倉院展の「イチオシ」は《金銀鈿荘唐大刀》と《蘭奢待》。

前者は「東大寺金堂鎮壇具」の陰剣・陽剣との関係で、後者は「(足利義政・織田信長・明治天皇と記された)あの付箋が大事なんですよね」と。
蘭奢待の切り取り跡は38ヶ所にも及び、実際は50ヶ所ほど切り取られたとの報告もある。付箋の3人以外にも足利義満、義教などが切り取りを許可されたとも。

信長の切り取りは天正2年(1574)3月28日。この日は大雨。蘭奢待は信長の待つ多聞山城へ。

『奈良坊目拙解』「北室町」条によれば、蘭奢待を切った仏師が東大寺大仏師として同町に居住し、代々正倉院開封にかかわったとする。『元禄六年正倉院開封記』5月2日条によれば、信長の切り取った仏師は「式部」と称した南都大仏師成慶であるとも。

蘭奢待を収めた唐櫃の後ろを傘をさしながらついていく仏師が目に浮かぶ。

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向日葵

2011-08-10


朝、軽い突き上げがあって、しばらくすると横揺れ。震度2(+1)。気温も急上昇ゆえ今日は在宅。

傍を流れる2級河川の堤防は雑草刈りの真っ最中。数ヶ月前にも公園端にはえる雑草が丁寧に刈られ、ロープで囲い。種を植えたようでしばらくすると若葉が出、茎が伸びて「ひまわり」と気付く。

「市役所が(公園に)『ひまわり』を植えるか?」「近所でリスを飼っていてその餌用?」「餌にそんな手間ひま、かけへんやろ」と不思議がっているうちに、台風や猛暑にもめげずに大輪の花。青田の傍に黄色い花はさすがに目立つ。
かなりの本数が植わっているのでこれからが見頃。

悪ガキに折られないことを祈りつつ、ひまわりのタネはどうなるのかと。

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古建築・予備知識

2011-08-11


拙宅近くにある水間寺三重塔。天保5年(1834)に再建。左の写真は2層目と3層目。

2層目は風鐸が吊られた「隅木(斜めに伸びた一番太い柱)」に対して垂木(小口が白く塗られている)が角度をもって隅木と交差する。これを「平行垂木」という。
それに対して、3層目は隅木に対して平行しているように見える(が、実は放射状に伸びた)垂木。これは「扇垂木」という。
各層ごとに、垂木は上下にあり、下の垂木を「地垂木(じだるき)」、上の垂木を「飛檐垂木(ひえんだるき)」と称する。

平行垂木にしろ扇垂木にしろ、地垂木・飛檐垂木は上下同じ形式。「地垂木」が扇垂木なら、「飛檐垂木」も扇垂木。古建築の業界では常識中の常識である。

過日、古建築で高名な先生から「ハセさん、騙されたと思って是非行ってみなさいよ。絶対に面白いから!」とご教示。最初、「何言ってるんですか。先生ともあろうお方が・・・」と思いつつも、半信半疑。

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西大寺

2011-08-12


・・・ということで、岡山・西大寺へ。はだか祭(会陽)で有名。
本堂参拝後、教えて頂いた牛玉所殿へ。
ありゃ、ありゃ・・・。

拝殿(左側)と本殿(右側)を「石の間」でつないだ典型的な「権現造」の社殿。もちろん神社建築。ところが、本殿の屋根上にはドカンと「宝形造」(仏堂)を載せる。
背後にある奥殿は完全に神社(鎮守社)。ところが屋根は無理から「宝形造」。
いくら神仏混淆といえどちょっと強引・・・。

さらに牛玉所殿の周りを廻りつつ、本殿の屋根を見上げると、地垂木は「平行垂木」ながら、飛檐垂木は「扇垂木」。ありえん。
でも確かに目の前に存在・・・。

明治13年(1880)再建ということながら色々想像。

「再建」を文字通り、新築と考えた場合。
「ここは寺や。鎮守といっても寺の『形』にしてもらわんといかんわな」と本殿の上に無理から「宝形造」を載せた設計図面が引かれる。擬洋風建築にみる塔屋と同じ理屈。「奥殿も同じようにな」と。社の屋根に露盤・宝珠を載せてしまう。

古い建物を改造した「再建」の場合。
「廃仏毀釈の嵐も無事過ぎ去ったが、このままやとまた、なにかと非難を浴びることにもなりかねない。ついては『仏堂』である証が必要となるので・・・」と。「権現造」の檜皮葺きを取り去って瓦葺きとし、鴟尾を載せてカモフラージュ。
「なんか、前と変わらんな・・・。仏堂っぽくするにはこれしかない」と、「宝形造」をトッピング。奥殿も千木・鰹木を取り去って瓦葺きの「宝形造」に。
どちらにしろ、寺が神社を取り込んだ希有な例。岡山邑久の宮大工田渕勝義の困惑が目に浮かぶ。

中国観音霊場1番札所なり。

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“島根の女”

2011-08-15

終日大学にて。
自宅に帰るとテーブルにこれが(←)。
雲州平田にある 來間屋(くるまや)生姜糖本舗 の生姜糖である。

「どうしたん、これ?」
「“島根の女”からよ・・・。」と家人。
「はぁ~ぁ?」 こちらを、ぢっと見つめる子供たち。

しばし沈黙の時間が過ぎる。全く思い当たる節はない。「えっ、いったい何なんだ、これは!」と戸惑いを見せた頃に、「やっぱり、あかんわ~」と家人どもが哄笑。梅田でのお買い物ついでに買ってきて、担ごうとしたとの由。全員、シバく!

確かにここ数年、島根に入り浸っており、そうした冗談をゼミ生にも言った記憶はあるし、家人どもへその話題をしたこともあるが、決してそのような事実はない。お仕事よ、お仕事。
炭酸で割った「じんじゃーえーる」やハート型の生姜糖をいただきながら、「ちょっとでも動揺したら訳を聞こうじゃないの。」と、なおも娘たち。
女性はやっぱりコワい、コワい。

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板塔婆

2011-08-17

たまたま、研究棟で見知った先生と。
「調査、行かへんのですか?」と。「お盆ですから・・・」

この時期は閑散期。
8月下旬まではお寺さんはお盆が終わっても施餓鬼会・地蔵盆と大忙しである。仏像調査にかまっておれない状況。それでも若い頃、市町村などでこの時期に無理やり調査なんかすると本堂に山積みとなった板塔婆の横で「(卒塔婆書きを)1枚でも手伝えよ」と嫌味を賜りながら調査を行う羽目に。
根っからの「悪筆」ですが、それでもよろしいか・・・。

近頃は「卒塔婆プリンター」なるものもあるが、高価(1台40万円強)なのでまだ殆どが手書き。形は五輪塔風(一応)。《餓鬼草紙》にも見えるが、実物(考古)資料は意外に知られない。
「祭祀」「祭祀」と叫ぶ割にはこうした宗教遺物が並ばずに、土モノばかりがならぶ某地方の資料館や博物館の考古展である。何も考えていないこと、ばればれ。

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ただの紙切れ

2011-08-18

午後に卒業生、突如来室。
学芸員試験を受けるらしく、「学芸員資格の“免許証”が欲しいんですが、卒業式の時にもらっていないし事務室も(夏)休みだし・・・。」と。
はぁ・・・。
「22日には事務室が開くから、『成績証明書』か『卒業証明書』をもらって願書と同封したら」。「いや、資格証明書が欲しいんですが・・・」と。

これまで、“学芸員資格(の免許)証”を見たことはない。文科省(当時文部省)自体が1967(昭和42)年に学芸員資格証明書交付をやめて、成績証明書に替えるとしている。
文科省のHPを見せながら「ほらぁ」と示すと、「でもはこれは何なんですか?」と(勝手に)検索。
一部の大学では「学芸員資格取得証書」なるものを発行しているらしい。「これは“ただの紙切れ”。『卒業証明書』で十分。そもそも昔は、国立博物館の“学芸員”(←正式には研究員)は学芸員資格もなかった人も多かったし・・・。」

こういう紙切れがないと納得しない人がいる一方、紙切れの存在を知らなくても学芸員になった人もいる。とはいえ、「白タク」が資料を借りに行って、「帰れっ。二度と来るな(バカヤロー)。」と言われた公立博物館もある。資料の扱いが全くできず「白タク」が露見したらしい。資格ぐらいは必須。

学部卒なので「まぁ、がんばりなはれ」と。

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粉本主義

2011-08-19

近代日本画はわからん。

“粉本主義”の狩野派から明治になって橋本雅邦・狩野芳崖が出て“ルネッサ~ンス!”とばかりに粉本主義の悪弊を否定し(近代)日本画が展開する(らしい)。そこには天心・フェノロサや東京美術学校があるとも。

東京美術学校普通科(基礎教育)。1年29時(単位)中「画格」は9時間。2年生25時中「画格」は7時間。「画格」とは縦横斜めの線を何百本何千本も引くトレーニングと「雅邦先生が描かれた(古画の)人物、山水の線描模写」(『大観画談』)。
専修科(絵画科)1・2年生はともに34時中「古画臨模」6時間。専修科では「写生」と「新案」が増えて3年生では「新案」が34時中26時間を占めて「写生」「古画臨模」はともにゼロ。

「画は古画を見習い其の用筆に熟し、後自己を発揮すべき」(梅沢和軒「芳崖と雅邦」)との教育方針のもと、普通科・専修科5年中4年も「線描模写」や「古画臨模」に学生は勤しんでいる。
こういうのを普通は「粉本主義」というのではないのか。

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ランチと器

2011-08-21

合宿や試合などで、自宅に取り残された“老夫婦”2名。
「どっか、連れて行け、何か食わせろ!」と無言の圧力。へぃ~。

美術館絡みでないと、こちらとしても不満は募る・・・。
「志津香」の釜飯!(奈良博「天竺」展)」「却下!」
「(岸和田)五風荘(岸和田城庭:重森三玲)」「何時でも行ける!」
「ポール・ボキューズ? 」 「行く行く、それってどこ?」
「六本木(国立新美術館)。」
「喧嘩、売ってる?」「いやいや・・・」

熟考の末、「イタリアン 茜」(丹波・兵庫陶芸美術館内)でランチ。ランチは1種のみ(メインは選択)ながら「シシトウのトースト」や「ナスのアイスクリーム」にも舌鼓。どやっ!
ランチに満足し、産直野菜も買うこと出来、「帰る?」と。「喧嘩、売ってる?」と今度はこちら。

「ひょうごの古陶遍歴」展。兵庫県は但馬・丹波・摂津・播磨・淡路の旧5国をカバー。ところ変われば焼物も変わる。「王子山焼と三田焼の青磁は外見からは区別がつかない・・・」
う~ん、その通りかも。
出石焼《白磁切子形銀杏口花入》は斬新なデザインで瞠目。とても幕末明治の焼物とは思えず。
かたや、「これ(器)は“ふろふき大根”、これには“酢物”・・・」。ひょっとして焼物の見方としては家人の見方が正常なのかもしれない。使ってこその「器」である。

相変わらず、宝塚西TNで渋滞。

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売り物

2011-08-22

以前、とあるお仕事(学内)をアルバイトにお願いした。
「ここはこうして・・・」と逐一指示しながら、「これが整理できたら(解説目録として)“売る!”。これぞ外的資金の獲得。」と与太話をしていたら、アルバイトに「また“売る話”ですか。」と呆れられること、数度に及ぶ。「やっぱり、あかんかなぁ」と苦笑いしつつも、「そんなことやから、いつまでも『指示待ち人間』なんじゃ」と思う。

「売れる物」を作ると考えれば、レイアウトにもひと工夫必要だし、文章も分かりやすいものでないといけない。写真を撮るにしても「これは表紙用に」と考える。指示された作業を通してあれこれと先のことを考えないといけない。よりよいものを求める、一歩先を考える意識は社会に出ると必須ながら、見ている限り、そうした「意識」は皆無。言われたことだけをしておればよいのだと。

もちろん「売物」として十分通用するものが無料で配布されると、頂いた方も嬉しいはず。
某所でお土産に配られた「使うのが惜しい」ほどの絵葉書セット。これもまた“売る話”(与太話)から展開・実現したものである。もちろん無料配布なので「外的資金の獲得」にはならなかったが。

「働く」ということがどういうことなのか、学生のうちに理解していないと、これから苦労するのに・・・と思いつつ、次なる作業を指示。

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加除式

2011-08-23

至文堂『日本の美術』が545号をもって休刊の報。今月初めには『国文学 解釈と鑑賞』が休刊になったばかり。

ある時期から『日本の美術』背表紙の下が「至文堂」(明朝体)から「ぎょうせい」(丸ゴシック体)に替ったが、よもや休刊になるとは。
なにしろ「ぎょうせい」と聞けば、青表紙の厚い加除式『全国博物館総覧』を思い出す。
至極便利な本ながら、不定期に届く追録(差し替え分)を貯め込んだりすると、後の整理がたいへん。
頁(というか葉がふさわしい)左下には「15(-34)」と頁が打たれ、差し替え後は15頁の次頁は35頁となる。追録が届いた順番通りに加除していかないと訳がわからなくなる。(今では社員が出張サービスしてくれるそうだが)

販売部数減少ゆえの休刊とあっては、これも時代の流れかと思ったり。やっぱり、執筆者が旧・現の国家公務員(今は独立行政法人)限定では、ネタも尽きることだろうし・・・。現状では『日本の美術』執筆どころではないのが本音ではないか。
もっとも、かつて至文堂から原稿料を頂いた人から仄聞すると、至文堂では原稿用紙1枚いくらではなく、1文字いくら×字数( 、・。を含む)での原稿料。経営に対してシビアであったことは疑いないが、それでもかという思いも。

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僧侶

2011-08-25

某所にて。天文3年の僧侶が作った阿弥陀如来像。螺髪も大粒。
この僧侶、近傍の寺の住職も兼ねており、そちらにも螺髪大粒の仏像。同じ時期、同じ手によるものかと。

御世辞にも美作ではないが、素人の作としては、作り方など専門仏師の手法をよく学んでいる。
僧侶は兼帯しているので遊行僧のように「風来之徒」ではない。専門仏師のほか、僧侶や大工やらが「見よう見まね」で仏像を造る不思議な時代である。
専門仏師はこの頃、何をしていたんだろう。

山沿いにて、時折強雨も。

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出雲

2011-08-26

古代出雲歴史博物館にて「観音巡礼」-中国路の古寺と仏像-展。内実はサブタイトルのほう。
餘慶寺の薬師如来像や十一面観音像は背面も見ることが出来る。広島や山口の作品をもっぱら拝見。浄土寺の聖徳太子像は小さい方が出品、龍蔵寺・鎗金四天王図扉絵も久しぶり。清水寺・阿弥陀三尊像をバラバラに展示したのはちょっと・・・。

せっかく中国地方を代表するような寺院から出品しているので、30年ほど前に出た『日本古寺美術全集 山陰・山陽の古寺』(集英社)を真似て、仏教美術だけでなく、屏風や襖絵その他でバラエティに富んだ内容にすれば、もう少し出品寺院も増えて会場も埋まったのに。

指定品中心、南北朝時代までの仏教美術に限定したことがちょっと残念。

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コピペ解説

2011-08-27

某市歴史博物館にて仏教美術展。博物館のHPもなく広報誌と地元新聞での告知のみ。

数年前からシリーズ企画展として開催。ごく小さな展示室には江戸時代の仏像が10点ばかり。鎌倉時代末期の仏像もひとつ。
小さい館ながら努力していると思ったのだが、解説を見ると、まるで作品解説になっていない。
例えば、不動明王像には「密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。『お不動さん』の名で親しまれ、造像例も多い。」とどこかの辞書から丸写し。展示作品に即した解説にはなっていない。
作品をみれば、もっとほかにも書くことがあるだろうにと。

初作品なので“楽”したい気もわからないわけではないが、学生のコピペと同じく破たんをきたす。
《十界曼荼羅》と称される作品。解説には「下に神々が描かれ神仏習合の要素が濃い」などと。何度も確認したが、見えるのは地獄の様子ばかりで、神の姿などはどこにも描かれていない。
キャプションと作品が違うことに、これまでクレームは来なかったのだろうかと思うのだが、入館者も少なくて幸い哉。

やる気のない地方の博物館とはこんなものかと。

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バランス

2011-08-28

恒例となった某所「夏期調査」。

藤末鎌初の阿弥陀如来像(一木造)などの調査を終え、指定にもなっている十一面観音立像(平安時代後期)へと。全身の古色はその折のもの。

像底から角ほぞが突き出て、台座の穴に嵌め込むタイプ(修理の際にこのようにした)。ところが、どうしても台座が厨子から出ない。
やむなく白木の小さい積木を重ねてほぞ穴を作る。周囲の人たちは、ヲイヲイ大丈夫かと心配にも。仏像の両側で見守って頂きながら、十一面観音像はすっくと直立。写真撮影。
小顔ながらバランスのよく取れた仏像であると感心しきり。「東大寺南大門仁王像も何の支えもなく、立つのですよ」と。

台座と足ほぞ(時には光背も)との「バランスゲーム」でかろうじて立っている仏像も多い。調査等で厨子から出すと、まずは台座の応急修理から・・・となる場合もある。
いい仏像はスタイルもバランスもよくて、あまり手がかからない・・・。もちろん仏像のお話。

銘記のある作品も多く、夕刻まで調査。

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はやっ!

2011-02-24

お盆も過ぎたころから何人かの一般?の人から「大学(先生)はいつまで夏休みですか?」と尋ねられる。
「いやぁ、秋分の日過ぎから・・・」というような返事を期待しているようにも思え、「ほぼ毎日、出勤していますが」と答えると、えっ!と皆一様の驚き。

嘘ではない。掲げられた 高札 掲示板には30分刻みで予定(もちろん全部は出席しないが)。肝心の「本会議」は空白ながら翌週に入っている。もちろん水面下の打合せなど、ここには記されない。

毎日来ているので、スラックス&靴か、ジーパン&サンダルの違いだけだが、世間が思うほど長い夏休みでは決してないし、学生と一緒(の夏休み)なんてあり得ない。

それにしても年々(夏休みが)摩耗しているような気がするが、きっと気のせいだろう。
そのうち小・中学校並みに9月1日開始になって「はいっ、夏休みの宿題を提出・・・」と言いかねない状況。なんだかんだと言っても、学生だけは気楽である(もちろん図書館で頑張る若者も多い)。

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脱帽

2011-08-31

出勤前に久保惣記念美術館「広重 名所江戸百景」展。
いつものように中国古代美術を見て、本館に。

「ゴッホが模写」(と謳わねばならないのが悲しい土地柄)したことで有名な《亀戸梅屋敷》・《大はしあたけの夕立》など、目録を含む全120枚を一挙公開(全部揃っていたように思うのだが)。もちろん状態も良好。会場をみながらこれが東京で開催されれば・・・と。

《目録》・《日本橋雪晴》から始まり《王子装束ゑの木大晦日の狐火》まで春夏秋冬で区切られ、また朝昼晩も。
《高輪うしまち》ではスイカの皮も描かれ、荷車のオヤジが食べて捨てたのかも?とおバカな想像。

驚くべきは、120枚全てに400~500字程度の「個別解説」が付けられている。作品の構成や魅力、あるいは描かれた人物、景物など、よく調べたと思えるほどでしかもコンパクトにまとめてある。
先ほどの《高輪うしまち》では荷車の円弧、虹の円弧、スイカの円弧の構成で、そこに直線の水平線や荷車の棒が加わり・・・とある。《紀ノ国坂赤坂溜池遠景》では2列縦隊の半分を描き、前後には毛槍。毛槍を4本立てる大名は徳川家しかないので、紀州藩であるとも。脱帽。

気合いの入った展覧会だが「常設展」。久保惣さんは特別陳列、特別展、企画展(常設展)の年6回開催。普通のいつ行っても同じモノが同じ場所に展示してある「常設展」とは違うのである。
9月19日まで開催。

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過去ログ