日々雑記


お急ぎ

2011-6-1

過日、某所より「誰っ?」との問い合わせ。
赤外線写真も添えられ、「下京東といんあくわうし町大仏師大蔵卿法印これをさいこさくなり文六(禄)五年三月吉日」と読める。

すぐさま院全が正平16年に製作の京都・法園寺釈迦如来像を慶長3年に修復した「下京ひかしのといんあくわうし町大仏師大蔵卿法印」と同一人とわかったが、「あくわうし町」(悪王子町)は七条仏師康正が移住した「水銀町」にほど近い。

他の作例も知られず、あれこれ調べているうちに月末。
現状でわかる内容を報告すると、すぐさま返事が来て「間に合いました」と。週末にはその内容が必要だったようで、「お急ぎ」の件。もたもた調べている場合ではなかった・・・。

〔追記〕
Y先生より「これをさいこ」は「これをさくなり」の誤読であるとのご指摘をいただきました。ご指摘の通り、この下には「是を作也」との漢字表記もあり、訂正します。ご指摘、どうも有難うございました。(2011.8.10)

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吸引力

2011-06-02

人にはヒトダマがあるように、モノ(資料)には「モノダマ」がある。
丁寧にモノを観察していると見えてくるものがある。それについて考えているとそれに関連した資料がひっこりと現れることもある。「モノがモノを呼ぶ」吸引力の力技である。

独自企画の展覧会を開くと、終了後に「こんなモノが家にありますが・・・」と連絡を受けてお伺いすると、これが会期中であれば・・・と悔しがることも多い。逆におざなりな展覧会だと、「うちにある資料も重要文化財!」と色めいた連絡を受けて出向くと、往々にして「アウト」な資料が多い。

部外者ながら博物館が資料を展示することの大切さを実感する今日この頃である。

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美学会

2011-06-04

283回美学会。コンディヤックとパリ写本彩飾挿絵。

オーケストラにおけるコンダクターとプレイヤーとのお互いが「理解しているような」不安定な関係が完成された曲を生み出すという若手研究者の発表。写本挿絵のほうは大ベテランの発表。当時パレットに置かれた色絵具を彷彿とさせる発表内容。画家を「ペインター」と称する以上、色にこだわるという応答は卓見。
「色」に関して染織のような現存しない、あっても褪色著しい資料を扱うという質疑はどうも的を得ていない・・・。

その後、委員会。
あれこれと議題が多く、終わった頃にはすっかり日没。このところ、この光景を見ること多し。休日はなにかと所用が入り込み、お疲れもややピーク。

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鳳凰堂

2011-01-03

3回生の見学会で「平等院」。

強いて「平等院」を薦めたわけではなく授業中に「日帰り圏内なら、どちらでも」と。
京都御所か桂離宮など日ごろ行けないような所を勝手に期待していたのだが、「行ったことがない」との理由で宇治・平等院。まぁ、ええけど・・・。

「あがたまつり」で宇治橋たもとから雑踏。
「屋根の左右に“鳳凰”が載っているので“鳳凰堂”というのではない。中央は「中堂」左右は「翼廊」、中堂(阿弥陀堂)の後ろには「尾廊」があり、上からみると鳳凰が羽を広げているようにみえるので、“鳳凰堂”という。」「『鳳凰堂』を見学するには、少し想像力が必要。古色蒼然たる基壇には螺鈿が嵌めこまれ、極彩色の柱絵、中堂外観は「朱漆」、翼廊は「丹」。チケットの褐色は紫・・・。」
説明の甲斐あってか、堂内では、見学時間の最後の最後までねばる・・・。これも私がねばっていたわけではない。鳳翔館では、雲中供養菩薩をじっくりと見学。ことに菩薩像が手にする楽器・持物に関心のご様子で「アコーディオン!」などと。(「拍板。」と訂正するも、「はくばん」自体を知らない・・・)

夕刻、「通円」で抹茶アイスクリームして解散。

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ムーミン・・・

2011-06-06

初夏の日射し。

1頁目。幼稚園にしては難しそうで、企業にしてはアニメ系??
不思議に思いつつ表紙を見れば、某大学の「入学案内」。いくら数ページ後に学長が満面の笑顔で「論理的思考で人間力を高めていく」と言ったって、これでは「アウト」である。

最近、「御社に入りたいと並々ならぬ熱意を持っていたとしても、『リクルートスーツ』でないと門前払いであることは間違いない。お葬式にアロハシャツでも同じ。ファッションとは、その人の人間性を端的に表す物差しである・・・」という講義を拝聴したばかり。

受験生の注目を集めるのなら何をやってもいいのか、大学人としての矜持はいずこへ、と思いつつムーミンに魅かれてやってくる学生には「どんな未来」が待ち受けているのやら・・・。

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この世にいないからこそ・・・

2011-06-07

狩野永徳筆と伝える大徳寺蔵織田信長画像、秀吉によって大幅に改変の記事。
片身がわりから地味めの小袖に、髭、脇差、紋の大きさまで・・・。

最初は側室「お鍋の方」と永徳で協議。共に生きていた頃の信長をみている。3回忌法要の肖像画で、実質的な施主である秀吉からクレーム、描き直し・・・。理想化されたイメージの食い違い。信長無きがゆえの描き直しである。

生きておればどうなるのか。
妙法院門跡『堯恕法親王日記』寛文4年(1664)5月4日条によれば堯恕が「(後水尾)法皇御寿影」(面貌)を描き、衣、紋などは狩野探幽が描く。「御面像」を差し出し、「万歳万歳万々歳」と法親王。
ところが、1カ月近くたった6月2日には「内々御寿影書改可令進上之旨」。絵に関しては素人だったのか、下手くそだったのか、あるいは逆に老醜(後水尾院69歳)があばかれたのかはわからないが、「あきまへんで、これでは」と書き直し。

お葬式での遺影をみながら、「だいぶ若い頃(の写真)やな」と密かに思うのも理想化の違いである。

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再び、ムーミン

2011-06-07

「哲学なんですわ」と、ソトより訳知り顔でメール連絡。

そんなことは百も承知。ウチ(哲学)の先生でも「なぜ、こうであって、これ以外であってはいけないのですか」とトーべ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』を1年生向きの参考図書にあげておられる。

でも、そんなこと、「入学案内」の何処にも書いてないじゃないか。
そこに「いやらしい部分」(注目を集めるのなら何をやってもいいのか)が見えてくるのである。
小細工なんかせんと堂々と・・・と思いつつ、昨今の状況はそう言っている場合ではないこともよくわかるが、「入学案内」も大学のひとつの顔である。
何も「ムーミン」でなくとも思うのだが。

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ミソ

2011-06-08

発表。若冲の『動植綵絵』。

「《群魚図》では『赤エイ』には尻尾の毒針がないので、錦市場で観察したものを描いています・・・」。へぇ、そうなんや。
「ですから、ここに描かれている魚はすべて市場で観察したものです。」
「ヲイ、待て待て。赤エイの右にはシュモクザメが書かれているやろ、魚屋でみたことあるか?それに画面一番下も、なんかのサメやろ、こんな魚、喰うんか?君は。」
「・・・・・・、でも そう書いてありますから」と。

不思議に思い、手元に置いてあった参考文献(著名な書物)をひったくって見ると、「アカエイの尾部の有毒棘が描かれていないのは、漁師によって切り落とされてしまったものと考えられる。つまり若冲はアカエイを観察している。そのかぎりではリアリズムである。」と。

「ちゃうやないか、『そのかぎりでは・・・』というのがミソなんやて。サメなんか喰うはずは・・・」と言いかけて、「一部では食べますが。」と修正。
だって、我が家周辺は祭り時分になると、スーパーの鮮魚部にサメ(フカ)がご鎮座し、湯引きにして酢味噌で喰うもの・・・。でもきっと、錦市場には並んでいなかったはず。

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学習

2011-06-10

普段、パワーポイントを使いつつ講義をするのだが、思うようにならないこともしばしば。

パソコンが常置していない教室。これは授業支援室から借りてくる・・・。最近は拡張子.pptxにも対応しており、学生等のゼミ発表では手持ちのWindowsXP(.ppt)では対応できない。

あとよくやるのが、バージョン違い。手元のレジュメとUSBのパワーポイントが異なっている。多少の違いなら、なんとかごまかせるものの、素材がまったく別物だとどうしようもない。「科目名Ver.1」などで保存すると、もうどれがどれだかわからず痛い目に遭う。

そろそろ“学習”しませう。

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島根の在銘中世彫刻

2011-06-11

島根県立石見美術館(益田)「速報 医光寺の仏像」へ。

出品の仏像は3躯。
ひとつは宝冠釈迦如来像(応安3年・1371 大仏師法橋広成作、医光寺の前身寺院である崇観寺本尊像)、薬師如来坐像(14世紀 もと勝達寺像か)、弘法大師坐像(嘉暦2年・1327)。
島根の在銘中世彫刻が続々。

宝冠釈迦如来像は不必要にマチ材を多く挟むことから在地仏師と思われる。あれこれ苦心の作である。天冠台にかかる髪もやや伸び気味である。
薬師如来像は院派仏師の作風ながら、大内氏(山口)から北上したのだろうかと想像。
驚くべきは弘法大師坐像。最初は僧形坐像の両手の部分を改造したのかと思うほど。左肩にかかる袈裟はややずり落ち、裳先の造形も複雑。ところが体内には年号と「弘法大師□像 一躰」と墨書銘。当初から弘法大師像として製作。

鎌倉時代の弘法大師像で製作時期が明らかな作品は東寺(1233・康勝)、六波羅蜜寺(長快)、遍照寺(1294・良円)、元興寺(1325)ぐらいで、後は法隆寺(1375・慶秀)の各大師像。鎌倉最末期の在銘資料である。しかも真如親王様にまったく合わない。3躯ながら閉館近くまでじっくり。
帰り、手に取ったニューズレター随想「汗をかき、ほこりにまみれ、フンを掃く」になつかしさ充満。

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柿本人麻呂

2011-06-12

石見・益田は柿本人麻呂終焉の地とされている。柿本神社(高津)は、もともと益田沖合に鴨島があり、万寿3年(1026)の地震とそれに伴う津波で、鴨島とともに海中に没したが、神像が高津の松崎に流れ着いたため、その地に社殿と別当寺が再建された。
柿本神社(高津)はちょっと高台。

こうした地元に真っ向から反論したのが斎藤茂吉。斎藤は邑智郡美郷町湯抱(秘湯でしられる)鴨山の地を終焉の地と論じた。湯抱には斎藤茂吉鴨山記念館がたつ。

益田にはもうひとつ柿本神社(戸田)がある。水田広がる森のなかに「柿本人麻呂」生誕の地。
益田で終焉を迎えた雪舟と柿本人麻呂。ともに疑義をはさむと益田から追放に及ぶ(冗談です)。

これまで見ることが出来なかった市内の神社仏閣を見学して帰阪。

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やっぱり

2011-06-14

気がついたのは5月の連休も過ぎた頃。

高松塚壁画展示室の壁に「奈良博キャンパスメンバーズ」のポスター。これはたしか法人加入。学生向きのポスターではないはず。はて?
今日、図書館に行くと、同ポイントカードが配架されている。これもTUTAYAのカードと同じではない??
さっそく博物館で尋ねるとウチ(関西大学)もキャンパスメンバーズに入ったとの由。

文学部で入るのも大学単位で入るのもそう変わらないので、すべての関大生は学生証提示で奈良国立博物館・京都国立博物館の常設展(京博常設展は閉館中)は無料、特別展が400円なり。正倉院展が400円というすさまじいお得感。来館3回でオリジナルグッズも進呈。

奈良博&東大寺、興福寺での学外学習や演習も利用可能である。掟破り?のシラバス無視で秋期の講義、演習を「奈良博の仏像」だけにしてしまおうかとも皮算用。
教授会でのアナウンスはあったのだろうかとふと疑問にも。ともかく、こちらとしては千載一遇。大いに活用。

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ええ仕事

2011-06-15

終日、某所で写真撮影の立会い。

行くまでは、ポラ(ロイド)やレフ板が頭に浮かんでいたのだが、着いてみるとデジタル(カメラ)撮影。
撮影数が多少多いので仕方ないか・・・。

ところが、ちょっとビックリ。
撮影台に固定された(高級)一眼レフカメラから伸びたコードは少し離れた位置に置かれたパソコン(Mac)に繋がれ、カメラマンは作品やファインダーを覗く(見る)ことなくパソコンの画面をみながら、マウスでシャッターをきる。
アンブレラの角度は傾斜計で左右同じ角度に調整、グレースケール・カラーチャートスケールは作品の中央に。そうしてもやっぱり傘の角度を手で微調整。 パソコンとカメラを繋ぐ撮影装置も知っているけれど、プロがやったらイカンでしょう、プロが。
それでも時々、「あっ!(失敗)」という声が聞こえる。

アシスタントは横でぼぅとしているばかり。ヒマそうなので、「多い仕事(のジャンル)は何ですか?」と尋ねたら、「ブンカザイ!」と答える。へぇ・・・。二人ともモノみてねーし。
そのうち額装の横長画面を撮影台の関係で立てて撮影しよる。横には斜台もあるやろが と、かなりブチ切れ状態。でも最近はキレない。これが終わったら、クビ(ご縁)を切るだけである。
資料のボリュームから3時ごろには終わるやろと思っていたら、撮影終了は8時前。

これまで多くのカメラマン(プロ)と仕事をしてきたが、今回だけはびっくり。
いつも門前の小僧であるオレだって、もう少しは「ええ仕事」するで。

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某学部

2011-06-16

先週、授業中に“私語”する者がいて(四人掛けの座席の両端に坐って話をする女。学部を尋ねると、受講態度に問題があるとの噂の某学部)、きつく叱責したのだが、またも同じ座席位置に坐って私語を始める・・・。200人収容の教室に7割ほどが埋まり、(先週とは)違う座席も空いているというのに、コイツらバカか・・・。

叱責すると、真面目に受講している学生はもとよりこちらまで「嫌な気分」に襲われる・・・。2週続けて怒鳴るのもどうかと思い「美意識が違う利休と秀吉は、この後どうなりますか? ほら、そこの学生!」と指差す。
「なんで、また(うちら なん?)」という表情を浮かべながら「分かりません・・・。」
バカには分からないでしょうが、 この後、秀吉は諸々の理由をつけて利休を切腹させます・・・」。

終了後、他の女子学生が質問&雑談。
「ずっと(私の)後ろで喋っているので、もっともっと怒ってもよかったのに・・・。」
「はい、ごもっともで・・・。」
あんまり(受講)態度の悪い学生を送り込むなよ、某学部。評判、悪いぞ。

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コーディネーター

2011-06-17

某授業では「コーディネーター」。
取りとめのない、ダラダラ・ぐだぐだとした講義も終了。終了のチャイムまで少し時間があり、 こちらへ「引渡し」するのかと思いきや、「質問表はもっと構築的に記述しなさい。『構築的』というのは・・・」となぜか逆切れし、再びグダグダとした話に。先週の質問表も手元に戻っていないというのに・・・。

教室が暗く淀んでしまったので、コーディネーターとしては村野藤吾の話などで誤魔化す・・・。

もう、村野の建物は特別講堂や博物館、ITセンターぐらいしか残っていない。無くなった建物は ここ にあると喉元まで出そうになったが、村野建築に興味がいったようで、講義終了後、何人かの学生を引き連れて案内、説明することに。

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穢い絵

2011-06-18

終日、図書館。
戦前期の芝居背景(京都)を調べる。舞台背景の担当は有名無名の画家たち。なかに甲斐庄楠音の名も。過日の学生の発表で扱ったばかり。

村上華岳の推薦を受けて国画創作協会に「横櫛」を出品。ところが、1926(大正15)年の国画創作協会第5回展に出品した「女と風船」は土田麦僊に「ああ、あれは困りましたね。穢い絵は会場を穢くしますからね。あれは遠慮してください」と出品拒否される。
京風の雅な家柄に育ち、芝居に興じ、自ら女形を演じる楠音と佐渡の寒村から京都に出て、祇園の色街や芸妓に幻想を抱いた麦僊との対立。

以後、楠音は「病む」。
発表した作品に加筆し、また映画界にも転身。
性癖もあるだろうが、それでもちょっと残酷な生涯ではなかったかと憐憫の情。

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ごった煮

2011-06-19

大和文華館「信仰と絵画」展へ。お目当ては話題の「マニ教絵画」。

マニ教の広がりをみると、思い浮かぶのは「ソグド」。確かに中国・元時代の作品とされているが、どうも中国仏画には思えない色遣いや構成。両脇や両膝に二重方郭印風の「セグメンタム」も。「宇宙図」は10層の天と8層の地。天円地方の形である。江南で描かれたそうだが、 こういう 土地柄なので、描かれても何ら不思議はない・・・。

大中国の時代、仏教美術もかなり“ごった煮”状態で、一筋縄ではいかない理解が必要とみた。ぼぅと見ているだけではごく普通の中国仏画と変わらないのだが・・・。

《多武峰曼荼羅図》(室町)も鎌足、定慧、不比等像の上に「金栗如来」「文殊菩薩」「普賢菩薩」。
日本も一筋縄ではいかないようである・・・。

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びっくり

2011-06-21

学生の発表。作庭家、庭園研究者重森三玲について。

発表を聞きながら、おやっ?と思ったのは発表の途中。大写しになった写真を見ながら、東福寺や松尾大社の図に「折れ」がある。松尾大社の看板はピンボケ。肝心の庭にも人が写りこんでいる・・・。

発表後、開口一番、「これ、自分で撮ってきたのか?」「はい。本を読んでもわからんから、実際行ってみたほうが早いと思って。」

なにかと図版からの複写が多いなか、ガッツのある学生だと感心。「(大阪からは)どこも近いし・・・」と泣かせるようなことも。実地見学を重ねる。それだけで評価・心象はグーンと高い。
Wikipediaに頼るゼミ学生、ちょっとは下級生を見習えよ。

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羽衣天女

2011-06-22

関西で展覧会、しかも美術団体公募展カタログを調べるには兵庫県立美術館の「美術情報センター」。
関連カタログを調べるも成果なし・・・。会員や会友の作品ばかりで入選者の作品はいつのまにか消えていた。

悔しいので、「伊藤財団コレクション展」を見学。受付で「コレクション展」というと「えっ!」という表情。特別展は「カンディンスキーと青騎士」展。いまさら、前衛芸術運動やブラウエ・ライターでもあるまいにと。

本田錦吉郎《羽衣天女》。
双髻、天冠、瓔珞、腕釧・臂釧、条帛と仏教的要素、満載。裙の正面を三角に折り返すところまでよく似ている。腹前の鼓は平等院・雲中供養菩薩にもあったような・・・。
前衛芸術なら、負けじと白髪一雄の大作。小磯良平の《働く人と家族》は青木繁《海の幸》のオマージュなのだろうか。ジョージ・シーガルの着彩像も初めて見る。
空振り感を十分補うほどのコレクションを見て、午後からの(大学)会議に急ぐ・・・・。

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器用貧乏

2011-06-23

午後に学内で研究発表。「山田伸吉の再評価」。しかも授業の合間を縫って。

山田伸吉は、春に関大・大阪都市遺産研究センターへ寄贈された「道頓堀今昔」・「住吉大社」の作者。
ネットでは、山田の画業として松竹座ポスターや書籍の装丁、挿絵が掲げられている。既に松竹座のポスターやキネマ文字については、西村美香氏が山田の制作ではなく「松竹宣伝美術部」として関与したことが指摘されているにもかかわらず・・・。

山田の生涯(誕生年も含めた)を戦前と戦後にわけた縦軸と松竹などの舞台関係、春陽会・二科展などへの洋画制作、本・雑誌の装丁・挿絵という横軸で見れば・・・という内容。
「ムーディ大坂」の時のように会場を凍てつかせると、また干される(?)ので、やんわりと軌道修正。
終了後、質疑応答。「ようするに『器用貧乏』ということか。」と某先生から。
その言葉を使いたくないばかりに、朝まで原稿に修正を加えていたのに・・・。がっくり。

質疑応答が終わると、ほかの発表も聞かずにパソコン抱えて教室へ向かう。今日の講義は「水墨画と牧谿」。「器用貧乏」なり。

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三蔵法師(1)

2011-06-24

奈良博の特別展は「天竺へ-三蔵法師3万キロの旅-」展(7月16日~)。
メインは藤田美術館の「国宝 玄奘三蔵絵」12巻。最近は奈良博HP「調達等情報」で展示造作、作品配置までわかる。

昭和17年12月23日、中国・南京駐留の高森隆介中佐率いる工廠部隊が兵士のために神社を建てようと南京郊外を整地中、石棺を発見。石棺側には以下の刻銘。
「大唐三蔵大遍覚 法師玄奘頂骨早因黄巣 発塔今長演化大師可政 於長安伝得於此葬之 天聖丁卯二月五日同縁弟 子唐文遇弟文徳文慶 (中略) 奘法師頭骨初在天禧 寺之東岡 大明洪武十九年受菩薩戒  弟子黄福燈××××× 普寶遷于寺之南岡三塔 之上是歳丙寅冬十月伝 教 比丘守仁謹誌」
玄奘三蔵は麟徳元年(664)2月5日、63歳で逝去し終南山に葬られる。
石棺刻銘によれば、黄巣の乱で唐王朝が滅び、演化大師可政が塔(墓)の危険を避け長安より移した。天聖5年(1027)年2月5日、唐文遇ら数人の仏弟子により南京天禧寺の東の丘に遷する。大明洪武19年(1368)10月黄福燈らにより、寺の南の丘に再遷したとの由。
あらら、玄奘三蔵の墓だったのね。

かくして頂骨、副葬品を目録に記して南京政府に引き渡し。そこで南京・玄武山に大塔を建設し盛大な法要が営まれる。そこに当時の全日本仏教連合会長らが参列し、分骨を贈与される。日本に来た玄奘三蔵の遺骨は増上寺へ渡されるも、戦火を避けて埼玉・岩槻市慈恩寺へ疎開。
戦後適地が検討されたがそのまま慈恩寺となり、昭和25年2月に大塔を建立し(落慶法要は昭和28年)遺骨を奉納。ここから再び台湾・日月潭玄奘寺と奈良薬師寺へと分骨される。

埼玉に玄奘三蔵あり。

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三蔵法師(2)

2011-06-25

我らの世代で「三蔵法師」といえば、夏目雅子・・・。神々しかったですね。玄奘三蔵画像でみるドクロの首飾りなどはもってのほか・・・・。

さて、堺正章 孫悟空はサル顔である。
魯迅いわく、大禹が治水を行った時、渦水の神である「無支祁(むしき)」を捕まえた。無支祁は姿形は猿に似て、その力は9頭の象をしのぐほどであった。時代とともに無支祁が猴行者(猿の行者)に変化したとする。
「猴行者」は『大唐三蔵取経詩話』のなかにみえ、『西遊記』ではおなじみの「孫悟空」。

「孫悟空」の画像は楡林窟第2窟観音変相図や同第3窟普賢変相図、安西・東千仏洞など西夏時代(1038-1227)の作品が残る。いずれの三蔵法師も美男子。夏目雅子には及ばないものの・・・。

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ぶち切れ

2011-06-27

朝、総合図書館へ写真撮影。
18日に「Shochikuza News」を特別閲覧し、山田伸吉が描いた表紙の号を確認したばかり。ところが表紙の撮影となると、また「申請」。
希望曜日も週単位で「業者」が押さえており、しかも特別閲覧・撮影は10:00から17:00まで。開館している日曜日は不可だとも。どこの「田舎の役所」の対応かと思う。

やむなく授業の合間を縫っての撮影となり、時間内に終わらせるため助手(院生)を一人連れていく。
ところが、再び受付で申請者(私)以外の者が来る場合は事前に特記事項に記して下さい」と。今回は特別に許可するけど・・・とも。
そんな記載事項や条件はどこにも書いていない。「業者はどうすんねん!一人でくるのか!」と激怒。「ひとりで来ます!」と係員氏。関大にはロクな撮影業者が出入りしていないのである。

ただでさえ、脆弱な書物を2度も3度も出し入れしたら痛むやないか。(とはいえ、現実は先々週から放置されている)。それなら最初から写真撮影の申請書だけを提出させればよいものを(最初に事情は話したはず)。これでは規則(でもない)のために貴重書を痛めているのに等しい。

幸い、図書館には“本間屏風”も収蔵されている。“貴重図書”を二人がかりで運んできて、写真撮影は“一人”しかいけないという事情はどこにもない。一人で扱えないのなら職員氏が頼もしく手伝ってくれるのだろう。きっと屏風(貴重図書)の扱いも手慣れていることで、大いに期待してるw。
貴重図書を見ず、提出書類しか見ていない係員。昨今、ド田舎の役所でもそんな対応はしていないと目を疑い、怒り心頭。

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短冊のお願いごと

2011-06-28

授業に向かうと、「卒論ラボ」には笹に短冊。(デジカメもって授業に行くなよ。)もう、そういう時期かと思う。
どれどれと、短冊のお願いごとを読むと、まぁ・・・。

名称は「卒論ラボ」だが、アカデミック・ライティングなので卒論以外にもレポート試験やエントリーシートでも利用できるはず。
ぐじゃぐじゃなレポートは読むのも嫌だし、何度もエントリーシートで落ちてくる学生は「経験則」で学習するよりもよほど効果的だと思うのだが。

いわば、文学部の「家庭教師」みたいに利用すれば何も不必要に苦労することはないのだが、「親心、子知らず」である。

いっそ、レポート提出前に「『卒論ラボ』の承認印がなければ受理しません」とでもアナウンスするか。

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大仏師喜内

2011-01-28

龍谷大学ミュージアム「釈尊と親鸞」展へ。
到着したのが、開館前だったので阿弥陀堂での読経を聞きつつ心を静める・・・。

ミュージアムでは、奈良・法泉寺釈迦如来立像やジャータカ、仏伝の浮彫、 ベゼクリク石窟 復元では、サンダル履きの釈尊や異人表現に注目。「異人表現」は目鼻立ちと帽子がポイント。

3階では経蔵の傳大士三尊像を拝見。渡辺康雲作。
その後、話題の下付御輿。内箱があって綿枕があって、外箱があってさらに駕籠というもの。駕籠は吉野地方でも見たが、その時は本尊より寸法が小さかった・・・。
内箱には「元禄二年」「大仏師喜内」。んっ?慌てて作品や解説をみると、同じ寺から「木仏寺号札(状)」。こちらは元禄7年。綿枕や外箱、駕籠は明治期の遷座に使われたものらしい。とすれば、現本尊像と内箱とは無関係・・・と考えても、取次が「富島帯刀」なので西本願寺の内箱に間違いなく、「大仏師喜内」とは。康雲じゃないのか・・・。

ひと口に「喜内」といっても京都だけでも「井上喜内」「鎌田喜内」「清井喜内」さらには「喜内充好」といっぱいいるし、康雲の弟子なのかもと混乱。現本尊像の足ほぞに墨印、墨書はない・・・。えっと、康雲の弟子はたしか・・・。落ち着けと自身で言い聞かせながらも、かなり困惑。

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節電

2011-01-29

明日から関電も15%の節電のお願い。15%の根拠はよく分からないまま。

不真面目な生活を送り続けて言えた義理ではないが、平気で嘘を付いてその場を逃れてニッコリ笑顔の首相や「理由は示せないが、15%ということで」といった企業が大手を振って生きている。

かたや「自分で考えたように引用元を示さず(嘘ついて)レポートを書くと(剽窃)で零点!」とか「理由を示さずにこうだと結論を述べても誰も信用しない」と学生に言っている自分が空しい・・・。

就活途上のゼミ生の愚痴。“あんな会社なんか、ひと思いに潰ればいいのに”。あんな会社とは関電ではないものの、なんとなく「世紀末」の退廃的匂いが漂う月末。

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