日々雑記


謹賀新年

2011-1-1

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

実家へ。親戚筋も集まる。酔ったおっさん連中の話題もつまらなく、子供たちを集めて今年の干支であるウサギに因んだ「因幡の白兎」のおはなし。

昔々、淤岐島(おきのしま)に渡ろうとして和邇(わに)を騙したウサギがひどい目にあい、とぼとぼと歩いていると、今度は通りすがりの八十神に騙されて「自業自得」というか「弱り目に祟り目」というか・・・。そこへ兄者(八十神)の「パシリ」をしていた大国主神(背中の袋は兄者の荷物)が通りかかる。さて、ウサギは同じ神様仲間の大国主神の助言を素直に聞くことができるでしょうか?
やんちゃ坊主もそのうち真剣に聞きだす有様。
「最初に騙したウサギさんが悪いっ!」とか「(素直に)聞かれへん」などと、子供はいつも正直。

小耳にはさむ迷物語にややひきつり顔のお母さんたちと、「あぁ~、いつものパターン」としかめっ面の我が家の女性陣。「引き続まして、“浦島太郎”を・・・。」

例年より早く退散(帰宅)。

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なんでも拾ってくるな

2011-01-02

新聞休刊日ながら、Asahi.comには「使い方考えたら? だぶつく遺跡出土品 足りない保管場所、自治体が悲鳴」との記事。遺跡調査で発掘され、増える一方の出土品の保管に自治体が悲鳴をあげているとの内容。

文化庁も「判断して廃棄出来るものは捨ててもよいよ」との通知があり、広瀬和雄氏も「廃棄ありきではないが、精査をすれば研究にも教育にも使えない不要な出土品も出てくる。開発が減り、発掘調査の仕事量が一服している今こそ、活用と保管について見直す好機だ」と言っていますがなかなか、現場サイドなどでは捨てられないもので。手続きや処理はずさんながら、捨ててしまうと「尼寺廃寺」のような騒ぎにもなるわけで。

「いまは価値が定まらなくても、新しい研究法ができて歴史の発見につながる可能性がある」と担当者は口をそろえるけれど、その秘めたる?価値は調査報告書にも載らず、担当者しか知らないわけで、その担当者も退職すれば永遠に「埋蔵文化財」のままなわけです。

大昔、発掘調査現場で上司に「なんでも拾ってくるな。特に井戸枠瓦なんかは・・・」と言われました。当時はむっとしたけれど、正論でした。

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国道9号線

2011-01-02

年末年始にかけて鳥取西部・島根で記録的な積雪。
JR・国道9号線は不通(立ち往生)、送電塔は倒壊して停電、一部の集落は孤立、救急車の到着も国道の渋滞で遅れて亡くなる人も。

国道9号線は山陰地方の大動脈。
だからおおむねバイパス(一部は高速道路)を並設しているが未整備区間もあり、鳥取県では、溝川(鳥取市)~八束水(気高町)、槻下(琴浦町)~御来屋駅前(大山町)はバイパスがない。バイパス(米子道路・米子道)が通行止めになると、こうした事態も起こりうる。
今回の立ち往生は後者の区間。細かい抜け道もあるが、この積雪では無理・・・。

雪に慣れているはずの人たちが戸惑うということが、尋常でない事態を物語っている。

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人生いろいろ

2011-01-03

地元でお昼から同窓会。
約30名の紳士淑女?が集う。往時の面影を留めながら会話も弾む。孫(!)の写真を携帯の待ち受けにしたり、頭髪の話題で盛り上がったりと、齢は隠せず歩んできた人生もまたいろいろ・・・。
こちらも この話 が現実に起こっていたことを知る。

イタリアンレストランで始まり、カラオケ店(収容能力の事情・唄はごくわずか)・居酒屋と延々11時間のロングラン同窓会。さすがに地元で開いたということもあって午後11時でもこのありさま。帰りは自転車だそうです・・・。

若干名ながら音信不通の者も。なにより「担任」がその筆頭。現役の府立高校教員もいるんだから探せよと言いながら、ま、嫌われておりましたんで、クラスの団結も強くなったということで、だって。ちなみに3年間クラス替えはなし。

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情報過多

2011-01-06

同窓生(♂)からmixi(ミクシィ)にコミュニィがあるそうで、検索すればわかるとあるが、どうすればよいのかまったくわからず。あれこれとネットの話題をしたからだろう。

世のなかには、この他にもブログやツイッターもあるが、こちらも同様。

見ることはできても、発信となるとおぼつかない世代かとも思う。なんでもかんでも発信すると「おせち騒動」のように悪行が白日のもとに晒されるのだが(自戒の念!)、書店では「断捨離」なる本も出ているので、もう少し情報発信が少なくてもよいのかも。有象無象の情報に右往左往する学生をみると、なおのこと。

「シャチョ~!会社のホームページ、なんとかしなはれ」と思いつつ、こちらも五十歩百歩と。

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見ている人は観ている

2011-01-07

愛知・甚目寺金剛力士像の記事。
伝運慶作の金剛力士像(鎌倉時代)が解体修理され、慶長2年(1597)制作の墨書銘が出てきたとの由。
鎌倉時代で伝運慶作ということだから解体修理に至ったが(近世作なら修理も後回し)、「慶長2年」の造像銘が見つかるとは・・・。
写真をみれば、「慶長」とは思わないまでも、納得の作風。

戦前、鎌倉時代の肖像彫刻として旧国宝に指定された京都・長講堂後白河法皇坐像も戦後の修理で明暦4年(1658)・康知の制作銘が確認。もちろん現在も「江戸時代の基準作」として重要文化財。

こうした近世の作品(↑:もちろん甚目寺像ではない)もちゃんと評価する人がおられ、見ている人は観ているのだと感心しきり。世間もまだまだ捨てたものではない?
一度、ガチで組んで仕事してみたいところ。

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いまどきの企業

2011-01-08

自宅近所に昨秋“ゆったり”ドンキ・ホーテの「WR」がオープンしたが、あえなく閉鎖。
2100円の会員制で、20万円以上のお買いものが原則というのが、オープン当初からのネック。冗談ながら近所でも「ドンキで20万以上なら店の1/3は買い取れるかも」と。

もともと長崎屋の店舗があり、それを利用したのだが、驚いたのはスーパー「長崎屋」がいつの間にかドンキ・ホーテの傘下企業のひとつであったこと。それで「WR」が・・・といまさらながら納得。
コンビニの am・pm (関大前店も既に閉店)も関西のほうではファミマへ譲り受けするが、am・pm 側の親会社は、かっぱ寿司(カッパ・クリエイト)。

この傘下の関係は「底」の部分では理解できるものの、思わず驚いてしまう。店長候補で入ったにも関わらず、将来は寿司を握ることにも(別にいいのだけれど)・・・。
おそらく調べればもっとオドロキの「組合せ」もあることだろう。

さすれば、就活等で「業種研究」というのはいったい何なんだということに。 「まずは採用されてから。希望(職種)は入ってから、追々決めますんで。」ということなのだろう。学生の「どこでもいいから!」というのも実のところは、企業の本質を突いた発言に思えてくる。
その分、その筋のプロがいなくなったとも。

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少年ジャンプ

2011-01-11

一昨日、昨日と風邪でダウン。最近なんか弱りつつ ないか、ぢぶん。

大学の幾つかの通用門にも閉鎖のお知らせが貼られてあり、センター試験もまじかである。
ところで昨年、京都市立芸術大学美術学部美術科の入試でこんな出題が。
[GIGAZINE]:なんと京都芸大の入試に「週刊少年ジャンプ」が登場、その裏事情と真の意味を探ってみました
記事を読めば分かるのですが、下書き一切なしの水彩絵具一発勝負です。ちなみに受験科目は「色彩」だそうで・・・。やはり、実技の受験はひと味もふた味も違うと実感。

また、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科の入試でも「少年ジャンプで立体を作れ」という出題もあったという。美大の受験に少年ジャンプは必須アイテム?
そこで入試作成?のために事務の人が「少年ジャンプ」を受験者数+αで発注したら、なんと、これ!(←)が1500冊も届いたそうな・・・。それでも入試で使ったと、 ムサビの法人企画室長 が告白している。えらいっ!

美術部で入賞しましたとか、実技希望ですという高校生は、少年ジャンプを買って芸大・美大で大いに才能を伸ばしてほしいと思う。間違っても、うちの授業では、そうした才能を伸ばすことは全くできかねますので・・・。

漫画を読むことと、分析すること、描くことはまったく別である。受け手側(読むこと)と送り手側(制作あるいは分析)を一緒くたに考えると、悲惨な状態に。うちでは間違っても「ジャンプ」どころか「少年マガジン」すら出ませんのでご安心のほどを。

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最初は決め打ち

2011-01-12

「もう(国内研究も)終わりよ」と来年度のシラバス締切も近づく。まだ見ぬ学生への授業計画。

高校では「美術」の授業はあっても、美術史は日本史・世界史での「文化史」のひとつ。しかも「日本史」は選択科目で、暗記重視の傾向大。大学ではこれまで見たことも聞いたこともない作品が多数出現し、学生思うところの「正答」はない・・・。

過日も「センセの(初めての)発表で、『六道絵』が当たったんです。もう発表の前後は、好きな焼肉、食べられへんかったほど」と卒業まじかの学生が言う。
とはいえ、「好きな作品でどうぞ」というと、○○新人賞を受賞した同世代の画家の作品を前に「私はこの絵に感動しましたっ!皆さんとこの感動を分かち合いましょう。」と、おバカさんも現れる始末。

シラバスの「控え」を取っていなかったので、ちょっとビビっていたが、大学のサーバーに保存されておりひと安心。あともう少しで提出。

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道すがら

2011-01-13

昨冬から自宅近くで本格的な日本家屋(民家)が建築中。

柱の間に木舞(こまい・竹を縄紐で編んだもの)が組まれ、荒土が塗られていた。荒土にはワラスサなどが混ざっており、塑像と一緒だと関心を寄せていた。
ところが、しばらく作業は中止。荒壁も放置されて既にひび割れが起きている。「資金繰り悪化で新築中断?」と(勝手に)想像。

ところが今日、工事現場を通ると作業は再開されて中塗りへ移行。不審がられつつも、見ていると荒土の「ひび割れ」に中塗りの土が入り込んでいる。この入り込んだ部分が荒土と中塗りの土を繋ぎとめるのかと理解。工事中断ではなく、荒壁の「ひび割れ」を起こすための期間だったのかと合点も。こんな本格的な家屋の建て方は、あまり見たこともなかったが・・・。

塑像も同様であろうと思う。塑像片など調査報告書などに載る図面は荒土と仕上げ土が上下2層にきれいに分かれているが、実物を見る限り剥離しそうにもない。不思議に思っていたが、敢えて乾燥によるひび割れを待たずとも、荒土成形時に表面に切り込みを入れたりして、仕上げ土とのくっつきをよくする工夫をしているのだろうと解釈。
そんなことを考えて乗っているから、自転車がパンクするのだ・・・とも。

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古寺巡礼

2011-01-15

朝より気温も下がり曇天。山にはうっすらと雪も。
午後、佐野公民館で講座「古寺巡礼」。昨年6月の続編である。

おおむね、京都・奈良のお寺では、いつでも仏像を拝観することが出来る。もちろん拝観謝絶のところや「秘仏」もあるが、近隣に足を伸ばせばそれなりに楽しむことが出来る。
しかし、その他の地域では事前連絡を要したり、見ることが出来ても外陣遠くからロウソクの灯をたよりに、ぼんやりとそのシルエットをうかがうこともかなりあってその敷居は高く、「気軽に仏像拝見」とまではいかない。

名品勢ぞろいもよいけれど、実際に常時拝観可能な仏像だけを扱ってみようというのが、続編の試み。
「東大寺へ行かれる多くの方は南大門を通って大仏殿へと向われますが、私はひとつ西側のこの道をよく通ります。」と寧楽美術館前を通って戒壇堂に至る小道から説き始める・・・。

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飛鳥史学文学講座

2011-01-16

昨日にも増して寒く、風強く、時折、小雪も舞う。
明日香村中央公民館にて「飛鳥史学文学講座」第9講。厳寒のなか100名ほどの方が出席され、あつく御礼。

「飛鳥史学文学講座」は、関西大学教育後援会、関西大学飛鳥文化研究所・植田記念館、明日香村中央公民館の共催事業で、ひと月に1度、通年10回のリレー講座である。
第1回の講座は、高松塚古墳が国宝指定された翌年の1975年(昭和50年)。こちらがまだ中学生の頃である。爾来35年間、開講されて講師・受講者ともども35年皆勤の方もおられ、20年・30年以上続けて受講される方もかなりおられると聞き及ぶ。

一応、講座は13:15から15:15までだが、15時12分に中央公民館前から駅に向うバスがあるので、それに間に合えば(間に合うように講座終了)・・・とのアドバイス。
講座終了後、少しだけ周辺を散策。35年前とあまり変わらぬ風景に懐かしい気分。

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本日も反省なし

2011-01-17


今日の夕刊は、ほぼ全面「阪神淡路大震災」。

大渋滞のなかハイヤーの座席にどっかと腰を下ろした新聞記者、「写真を撮るヒマがあったら手伝え!」という被災者の怒号、生き埋めになった人の助けを求める声をかき消す 多数の取材ヘリの爆音。この目で目撃しただけでもこれだけあって、その他の傍若無人なことは数知れず・・・。
あれからも新潟県中越地震などがあったが、マスコミの傍若無人なことは相変わらず。

今朝、追悼行事が行われた神戸・東遊園地の「1・17」の文字を撮るため同時刻にヘリを飛ばした記者もいる。それを1面の記事に載せた新聞もある。頭がおかしいとしか思えない。

マスコミは本日も反省なし。
だから、みんなこぞってYouTubeに流れるのかもと。

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あるところにはある

2011-01-18

教育委員会の人と某寺へ。

掛幅(仏教絵画)の相談ながら、つい話が及んで仏像を見せていただいたり、工芸品の話など、思わず長居。
知る人ぞ知る名刹ながら、その全容はほとんど知られておらず、「えっ~、なんでこんな作品(めったに使わないが、『重文クラス』)があるのか」とさすがに驚く。

そもそも江戸時代の創建なのでたいしたことはないとの先入観がいけない。戦後まもない什宝簿もあり、「顔輝」や「趙子昂」などの名が掲げられている。画家はもとより制作時期、制作地も作品をみないことには分からないが、一瞥する限り古い時期の作品も相当含まれている模様。
「長いお付き合いになりますが、よろしくお願いします」と寺を辞すと、山門にはこれと同じ紋の瓦が。やはり、あるところにはあるものだと実感しつつ帰途につく。

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法隆寺

2011-01-19

デアゴスティーニから「隔週刊 日本の古寺・仏像DVDコレクション」が発売。柳の下には、いったい何匹のドジョウがいるのだろうかと思うが、話のネタに購入。創刊号は「法隆寺〈西院〉」で、790円と1000円引きなり。

さすがに突っ込みどころ満載だが、なかでもエンタシス。中門とギリシア・ゼウス神殿のエンタシス柱の写真を並べて「古代ギリシアから伝わったともいわれる」と。
Wikipediaでもほぼ全否定され(「伊東忠太」の項)、今どきの高校教科書でも載らないようなことが記されて目がテンにも。執筆者に専門家がいないことによるのだが、それでもちょっとねぇ・・・。
オマケのDVD。やはりちょっとピント外れ。画面を見ながら「そこは流さないでクローズアップして静止画」とか思う。

一般的な話だが、類似の後発商品が越えるべきハードルは高い。限られた購買層のなかで内容は高く、価格は低くというのがポイント。もとよりデアゴスティーニもこれで儲けようということは考えていないはず。何かで読んだが、「下手な企画も数撃ちゃ当たる(企画もある)」という戦法である。

かくして手元にあるこの類は「法隆寺」ばかりが揃う。相変わらず学習能力の低さが露呈。

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運慶展

2011-01-20

神奈川県立金沢文庫「特別展 運慶」(内覧会)へ。

金沢文庫は称名寺境内にあり、北条実時の館に由来。県立金沢文庫としても今年で創立80年を迎える。挨拶にもあったように「運慶展」と運慶だけを冠した展覧会は本邦初。

出品作品は、円成寺大日如来像をはじめ、すべて運慶の確実な作品(この際、瀬戸神社舞楽面(陵王・抜頭)もOKでしょう)ばかりで、さすがに看板に偽りなし。
展示の仏像は既に見たことのある作品ばかりだが、明るいケースのもとで仏像の背面や側面も観察できる配慮がうれしい。
珍しい展示品としては、瀧山寺の宝冠や冠繒(かんぞう)。(瀧山寺・帝釈天像は出品)。
安倍文殊院・文殊菩薩像(快慶)宝冠にも似た細い曲線の唐草文。
調査でも宝冠や冠繒はみるものの、時折、それが江戸時代ではないものの、いったい何時だろうと思うことがある。これでひとつの目安が出来た・・・。

「東寺講堂御仏所被籠御舎利員数」(対面して仏所と漆所が設置)や「和州忍辱山円成寺縁起」も興味深く、けっして広いとは言えない2階展示場を行ったり来たり。
幅広いケースの中央に収まる円成寺大日如来像。かつては寺の縁側に無造作?に置かれていた。由々しきことながら、高校生の頃、縁側で拝見しながら膝をなでなで。それが今では・・・と感慨に浸っていると、背後から聞き覚えのある声。もちろん業界の研究者等の方々。久闊を叙す。
皆、「遠いところをわざわざ・・・」と労われるものの、おそらく明日(開催初日)からはこうしてゆっくりと見学することは難しいかもと。

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北鎌倉

2011-01-21

久々に鎌倉。
鶴岡八幡宮三の鳥居横には鎌倉彫処「博古堂」。
「鎌倉佛師後藤家二十八代」の看板。三橋、加納とならぶ鎌倉仏師の一家。その祖は運慶に遡り、今日に至るまでその系譜を誇る。後藤家の事績は、それこそ近世鎌倉、関東地方のほとんどに及ぶ。

中世~近世に至るまでの造像銘、修復銘が最も詳細にわかる地域は鎌倉地方以外にないといっても過言ではない。関東大震災で大被害を受けた仏像が修復される過程で銘記が確認され、以後、それ以外の仏像も時代を問わず精緻な調査が継続されて、その成果は大著『鎌倉市文化財総合目録 (書跡・絵画・彫刻・工芸篇)』として結実。そうした地道な成果のなかで「後藤家」の活動も明確に把握できる。

大震災以後、地域の文化財を保存するために1928年(昭和3年)に設立されたのが鎌倉国宝館。旧辻薬師堂薬師三尊像・十二神将像の周囲に、養命寺・薬師如来像(建久8年・1197)や五島美術館・愛染明王像、円応寺・初江王像(建長3年・1251) 、鶴岡八幡宮・弁才天像(文永3年・1266 着衣あり)など名品がずらりと展示。

円応寺・倶生神坐像はユニーク。倶生神は閻魔王の傍で罪人の行状を読み上げる役。1躯は両手を大きく広げ口を開けて嬉々とした表情。もう1躯はだるそうに両手を広げ、しかめ面の表情でいかにもやる気なさげ。
共に読み上げるべき巻子はないけれど、ご推察のように嬉々とした前者は罪人の悪行を読み上げ、つまらなさそうな後者は善行を読み上げている・・・。
展示場後半は企画展「肉筆浮世絵の美-氏家浮世絵コレクション-」。北斎、雪鼎の作品は秀逸。

鶴岡八幡宮へ参拝。昨年倒木した大銀杏も芽吹きをみせる。その後、円応寺で閻魔王坐像、残りの十王像や地蔵菩薩半跏像を見た後、建長寺。
建長寺仏殿は、もと崇源院の霊廟で正保4年(1647)に同寺仏殿へ譲渡。崇源院とは大河ドラマの「江」なり。どうりで参拝者が絶えないはず・・・。本尊は法衣垂下形の地蔵菩薩像。ほかにも伽藍神像など拝見。

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火の用心

2011-01-22

佐野公民館にて「古寺巡礼-高野山-」。

大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御し、元号が「昭和」となった翌日朝、高野山壇上伽藍の金堂が炎上、六角経蔵、孔雀堂、納経所も焼失する惨事。金堂本尊像をはじめ、金剛サッタ・金剛王菩薩像など数多くの平安初期彫刻の優品が焼失してしまう。快慶作四天王像(六角経蔵)や孔雀明王像は辛くも救出。
高野山は関西でもっとも寒い所なので、冬場は特に・・・。

三鈷が引っ掛かった高野の地も東寺長者の観賢によって高野山金剛峯寺は東寺の末寺的存在となり、諡号の報告とはいえ奥之院の廟窟も「オープン・ザ・ドア」。さらに正暦5年(994)7月6日に大塔に落雷、伽藍御影堂を残して全焼、弱り目に祟り目というか・・・。

久安5年(1149)にも大塔に落雷、再建した平清盛は「血曼荼羅」を奉納。有志八幡講・阿弥陀聖衆来迎図も信長の「叡山焼討ち」に端を発する。
高野山の霊宝には文化財受難の歴史が刻まれているとも。「文化財防火デー」も近い。

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梨田の家

2011-01-25

「城不動坂古墳」破壊の記事。
予算がない(つかない)文化財担当課と銭があっても支障物件としかみない不動産業者(競売でも備考(特記事項)に売却外物件などと並んで「周知の埋蔵文化財包蔵地」)では、話にならない。

ただ世間の誤解もかなり多く、関西でよく引き合いに出されるのが「梨田の家」。
もと近鉄バファローズの梨田昌孝が自宅を建てた際に旧石器時代の遺跡が見つかり、彼がその発掘調査費用を負担した。これがスポーツ紙系の紙面を飾り、大阪のおばちゃんあたりが「遺跡の上に家を建てると、調査費用も出さなあかんし、設計も変更させられるそうや」と語り継がれる・・・。

「梨田の家」(今では「はさみ山遺跡梨田地点」という周知の埋蔵文化財包蔵地)は自宅兼商業ビルであって純粋な個人住宅ではない。調査費用も商業ビル分の割合のみを負担したのである。
これを「受益者負担」といい、要するに遺跡潰して金儲けしようとする民間業者から調査費用をとってもかまわないという論理。(公共施設には別の論理が働き、個人住宅には負担がないように配慮)

わが住い(マンション)も弥生時代の遺跡の上。目印はないが入口あたりが竪穴式住居跡。もちろんごくわずかだが、購入代金には発掘調査費用も含まれている。

しかし「城不動坂古墳」の遺物が府立近つ飛鳥博物館「歴史発掘おおさか -大阪府発掘調査最新情報-」で展示されているのをみると、展覧会PR転じてヤブヘビになった感があるのかも。

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コピペ世代

2011-01-26

終日、査読。
とある学会からの依頼。「勉強」になるとはいえ、ひとつひとつ確認しながら何度も“反芻”するので、ほとんど「苦行釈迦」の状態。

ごくごく僅かだが、たまのまれに、即却下というものもある。
最近は大学や研究機関での研究紀要類の一部はネットで読むことができる。
不案内な語句や専門用語が登場したのでネットでググってみると、おや?という研究論文がヒット。タイトルこそ異なるが、論述展開や章立てすら似ている。プリントアウトして投稿論文と比較すると、「本文全体の表現が酷似していることは否定できない」シロモノ。 かつての発表論文をセルフ・コピペしたようである。投稿者が違っておれば「盗作」とみなされてもやむを得ない。即、退場。

なかには、学会を違えながら同じ発表を3回も4回も行なって、今回で3度目の掲載を狙うツワモノも。その度胸にも恐れ入るが、2度目の投稿時に査読者はいったい何やってたんだ?
こちらも即、退場。

ふた回りほども歳が離れた若手ながら(彼らを「研究者」と呼ぶには大きな抵抗がある)、コピペ世代ならではの椿事に、思わず身震い。
手堅い論証がなされた研究論文を読みながら四苦八苦するのも心地よく思える。

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老舗

2011-01-27

某所で掛幅を拝見。

掛幅は木箱に納められており、一部の作品は更に紙箱(かなりくたびれているが)に入れられて保管されている。ぶっちゃけた話、箱もないような“裸”の軸物によいものなど殆どない。
拝見すると、木箱の小口部分には作品名と画家が書き込めるようにラベルが貼られている。別の作品も紙箱にラベル。

ひと段落し、お茶を頂きながら話題はこれからの保存。
「別に“タンスにゴン”でもいいですけど、やはり防蟲香は・・・」などと話しながら、将来、修理となれば何処へと仰る。
「いやいや、箱に書いてありますよ。」「えっ、どこに?」と再び軸箱をもってこられる。
「ここです」と示したのは箱ラベル。ラベルの片隅に、かつてこの掛幅を修復した業者の名前が刷り込まれている。ラベルを貼ったのもこの業者さん。「いまも掛軸の修復をされていますので。」と。
老舗の、息の長い広告ラベルである。

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近代

2011-01-28

滋賀県立近代美術館が、来年度からの展示で「近代美術」展を中止し、音楽イベントや仏教美術など幅広い集客が見込める企画へと転換。入館者の減少に歯止めが掛からず、幹部らは「近代美術だけではもう続かない」とも。

仏教美術が集客の拡大に繋がるかどうかは知らないが、同じような状況はあちらこちらでも仄聞。「兵庫県立近代美術館」もHAT神戸に移転した折、さっさと「近代」の看板を下げた・・・。

「印象派」など一部の作品を除いての近・現代美術に世間はそれほど関心がないとも読み取れる。
ただ、うち(関大)の学生は、古色蒼然たる仏教美術よりも近・現代美術がお好きなようで、受講者数もダブルスコア。ただ、美術館・博物館の入館者数はどこでも「高・大学生」が最も少なく、大いに関心は寄せるものの作品を見に行くことまではしないようである。(もちろん行く学生は行っているが)

いつもながら不思議に思う現象。

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「古寺巡礼」京都編最終回

2011-01-29

午後、佐野公民館で講座「古寺巡礼」京都編。最終回。

古代帝都は朱雀大路を挟み西側が右京、東側が左京。
唐風への強い憧れをもつ嵯峨天皇は、平安京の右京を「長安城」、左京を「洛陽城」とする。ところが右京が湿地であるためほどなくさびれ、洛陽城(左京)のみが活況。そこで「洛陽城」内を「洛中」、それ以外を「洛外」と呼ぶ。大雑把に言って、「洛中」は山陰線と河原町通の間。

さびれた「長安城」を不憫に思ったかどうか・・・は知らないが、後世、「長安(西安)」のある州名をとって山城国を「雍州」とよび、貞享3年(1686)には黒川道祐が『雍州府志』を書く。
さてこの帝都を守護すべく・・・と、ようやく仏像登場。

前回の講座後、さっそく高野山霊宝館へ行かれ、風邪をひかれた方もおられると聞く。
申し訳ない限り。

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ファッション

2011-01-30

時折、小雪舞うなか、恒例となった京都大学での会議。少し早く着いたので、会議室で場違いにも?しばし「ファッション」談義。

「『服飾』は触れていないと、本当の良さが分からないんです」という言葉を聞きながら、「『お茶碗』と同じですね。」とこれまた場違いな発言も。
「ところで、京近美(京都国立近代美術館)のファッション展は2014年?」とずいぶんと先の話も。
京近美関係者でもないのにえらく断定的と思っていたら、こちらの不審を察したのか、傍らにいた方が「5年おき(の開催)なんです」とアドヴァイス。 〔華麗な革命展(1989年)、モードのジャポニスム展(1994年)、身体の夢展(1999年)、COLORS ファッションと色彩:VIKTOR&ROLF&KCI展(2004年)、ラグジュアリー:ファッションの欲望展(2009年)〕

鷲田清一『モードの迷宮』を持ち出すまでもなく、ファッションは現象学・身体論と極めて関係が深い。雑談を聞きながら「『王将』のラーメンを食べるのに邪魔なネクタイ(タイピンはしない主義)を、ハセセンセはしている。なぜ彼は首を絞めるこの不要な紐をしているのか?」と哲学の授業の前フリにも使われたことなどを思い出していると、全員参集しており会議もそろそろ開始。

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十三松堂日記

2011-01-31

雪こそ降らないが、寒い一日。

岡倉天心が去った後の東京美術学校校長は、ながく大阪出身の正木直彦が勤めた。正木の日記は『十三松堂日記』として一部が公刊されている。

いま、ネット上で「ひとに関する情報」をウェブから取り出し関連付けるサービスがあるが、機械的に組み合わせるのでおかしな組合せやとんでもない人と関連付けられていることもある。
仕事の必要性(正木個人ではないが)から、「十三松堂日記」から同じようなことをしている。

作家たちを取りまとめるにはなかなか大変だとみえ、毎日次から次へと面談や相談事が舞い込む。加えて各地への視察や出張。作家たちと線を結びながらその多忙ぶりがありあり。そりゃ、記念館も建って不思議はないと同情も。

大正4年~11年までの8年間は欠落しているものの、当時の美術界や社会を知る上で欠かせない日記である。

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過去ログ