日々雑記


禅僧

2010-12-1

再び、那覇へ。

城間清豊(ぐすくませいほう・号 自了・1614~1644)。城間親雲上(ぺーちん)清信の長男である。
鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』では首里王府画人五大家のひとりとされる。 同書では、高名な画家による作品の転写本(粉本か)が王府内にありそれに基づく「塗り絵」(勾勒彩色法)によるもの、それとは別に、水墨による袋絵と称される梁楷風の減筆人物図があり、これは海北友松から来ていると推測される。

海北友松?とも思うが、確かに鎌倉氏の指摘に近い作風。
「万国津梁の鐘」(1458年)の撰文は琉球・相国寺の渓隠、琉球天王寺住持で、寧波の乱(1523年)の交渉役であった檀渓は南禅寺派、円覚寺の仏像は禅刹彫刻で名高い吉野右京・・・。言うまでもなく海北友松も禅刹と関係が深い・・・。城間清豊の作品も禅僧、禅刹が関係するものかとも。日・琉・中を結ぶ「禅」である。

そうした「交流」からみると、座間味庸昌(殷元良)の作品もどことなく沈南蘋風である。 神谷(山口)宗季は「福州第一の絵師」とされる孫億に学ぶとされる・・・。

今日の那覇の最高気温は26℃。
メロンパンも日焼けするのか「チョコメロンパン」。中は普通のマーガリン。ヒット商品のようで、別会社からは「ウルトラメロンチョコパン」も。
この「ウルトラ」には二説あり。
ひとつは、「チョコメロンパン」よりもかなり大きなサイズなので「ウルトラ」。もうひとつは、『ウルトラQ』や『ウルトラマン』などを企画した金城哲夫は、沖縄・南風原町の出身。彼を顕彰するために作られたとも。

那覇に来てまで菓子パン食っている場合ではないのだが・・・。

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グスク三昧

2010-12-2

座喜味城・勝連城・中城城とグスク三昧。加えて斎場御嶽も。2000年12月2日、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録。
今日で丸10年。
現在も首里城、勝連城、中城城では整備のため発掘調査が継続中。

当然のことながら、グスクからは日本・中国のみならず「貿易陶磁」が多数出土する。
座喜味城からは、幕末~明治の淡路島で製造された珉平焼小判形龍文小皿も出ており、ちょっとびっくり。勝連城からは「元染付」も。時代ごとの東南アジア地図の上にひとつずつ陶片並べて概観してみたい気分。グスク出土の貿易陶磁というような企画もありなのだが。

甚だ不勉強ながら最後に斎場御嶽も。
ところで「斎場御嶽(せーふぁうたき)」ってカーナビでどう検索するんだ?
なぜか「せーふぁ」の「ぁ」が出ない・・・。

「大人になると、小さい頃に目を輝かせていた事やモノが気になって、多少醒めた視線を含みながらも再び『当時、目を輝かせていた』姿に立ち返る」とは、同行の先生の弁。遺跡を前にして雀百まで踊り忘れず。

夕刻、那覇空港へ滑り込み、帰阪の途に。

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シノゴ(4×5)

2010-12-3

いつもデジカメぶら下げて調査に出るが、気になるのはバッテリー。一昨日も早々にバッテリーが無くなり、早くも一眼デジカメに変更。
寒冷地では消耗が思いもよらぬほど早く、また海外ではコンセントの形状も気になるところ。調査の真っ最中で、バッテリーで切れてはいかんともしがたいので、海外へは乾電池で作動するデジカメを持参。

ここまでしても解像度においては被り布をかぶって撮影するシノゴには勝てない(対抗するデジカメもあることにはあるらしいが)。
4インチ×5インチのフィルムながら新聞紙見開き程度は十分に伸びる。カメラ自体の構造は極めて簡単、原始的なもので、バッテリー要らずである。
問題はその設備。三脚(必須)以外にカメラ、フィルムホルダーと最低でもジュラルミンケースが2つ。でも、ちょっと高級めの一眼レフデジカメと費用的にもそう問題はない。アオリも効くし、何しろ露出とシャッタースピードでどのようにでも撮影できる自由さ。

なまじ基本的操作や「フィルム入れ」を知っているので憧れは増すばかりなのだが、プロカメラマンと同行すると「これは(プロカメラマンに撮影を)お願いしたほうが、安価で確実。」と観念。
引かれたポラロイドを確認しながらも、いつもこちらは所詮素人写真と悟るばかりである。

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読売アンパン

2010-12-3

午後より京都工芸繊維大学にて美学会。
今回の発表のキーワードは「九州派」と「グロテスク」。
前者で登場した「読売アンデパンダン展」。略して「読売アンパン」。アンデパンダン(Independent)の如く、無審査出品制の展覧会。一般市民や若手芸術家(新人)の作品発表の場として1949年から東京都美術館で開催。
ところが「ネオ・ダダ」の作家が跋扈?し、他の出品作家や会場でトラブル。挙句の果て、1964年に「読売アンパン」は終焉を迎える・・・。

ネオ・ダダ作家の言説は、どことなく体制批判、社会動向を意識したように思わせるのだが、一般の人々に共鳴するまでには至らず、社会動向にシンクロしようとみせることで、自らの創作活動を認知してもらいたい意識が見え隠れ。特に社会の動きに共感、抵抗しているわけでもない・・・。
作品自らが作家の主張を示す時、(美術)作品は現実の社会から遊離する。その状況こそ「反芸術」なのかもしれないが、注目されなければ、ただの(ヘンな)人である・・・。

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吾為利生彼 出衡山入此日域

2010-12-6

写真は、聖徳太子画像。柄香炉を持っているので「孝養像」という。太子16歳、父用明天皇の病気平癒を祈願した姿とされ、古くから彫刻・絵画問わず造形化されてきた。
さて、画面上に讃を書くとすれば、どのような文言に。

吾為利生彼出 衡山入此日域 降伏守屋邪見 終顕仏法威徳

吾(聖徳太子)、利生(衆生救済)の為に彼(中国)の衡山を出でて此の日域に入る。守屋の邪見を降伏し、終に仏法の威徳を顕す
…聖徳太子が物部守屋を征伐したのは14歳。
これは浄土真宗本願寺派(西)。

大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州 興正法
大いなる慈悲が私の誓願であり、衆生を独り子のようにあわれみ、おもう。そのため方便として西方よりこの片州の国に生まれ、正法を興す。
これは真宗大谷派(東)の一例。大谷派ではこの他にも数種類ある。
本願寺派では、画面と讃が合わないが、誰もそうなる理由を説明できない。なぜ聖徳太子像が孝養像なのか、定形化した理由は東・西ともよくわからない。なにしろ最新の研究は大正期ですから・・・。

近世真宗末寺の什宝は不思議がいっぱい。

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丹羽桃渓

2010-12-7

夕刻から天六学舎で「関西大学おおさか文化セミナー」。
朝から急に冷え込んだものの、多数聴講の方々。感謝。

『摂津名所図会』には、摂津名所は確かに描かれているが、絵師丹羽桃渓が思いを寄せた絵は、神社仏閣などではなく、雑喉場や堂島、米蔵屋敷、あるいは順慶町夜見世など、市井に生きる人々。
疋田蝙蝠堂や秋興沙魚釣にみる親爺たちは、大坂の日常を謳歌。

「今時の相」ゆえに、座摩神社や大坂天満宮からのクレームも取材ミスというよりわからないのが実情。その当時は海ですから・・・。

三井呉服店・心斎橋筋呉服店松屋(大丸)前はやや閑散。両店は本文に言及なく、丹羽桃渓が加えた挿絵と述べたが、丹羽桃渓の住居は島之内木挽中之町。一歩踏み込んで「地元民おすすめの店」としたほうが良かったかも。

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夜討ち・朝駆け

2010-12-9

事情あって『松屋会記』を読む。
奈良の塗師 松屋(久政・久好・久重)の三代にわたる茶会記。茶会で交わされた四方山話も記載。

天正17年(1589)12月8日朝、帯屋宗栖の茶会での雑談。
暁七ツ時分二、客ハヤ行テ、戸ヲタタキ、案内ヲ云処二、下女帯ヲ手二持ナカラ出相、是ハ夜中トテ、終二聞不入、高声二成リ候処ヲ、折節、中坊源五郎殿御通り候而、コノ喧嘩ハ何事ソトトカメ給候也、今朝ノ数寄二参候所二、亭主ネホレ申候而、呼入二迷惑仕候ト申也、源五郎能々御聞候テ、是ハ客衆尤也、亭主二早ク是へ出候へ、批判アルヘキト御仰アリ、亭主ハ出兼テ、誠無正体事共也、一笑々々、
午前4時頃、町衆がとある家の表戸を叩いて案内を乞う。寝ぼけ眼の下女が帯を手にしたまま対応し「まだ夜中ですから・・・」と聞き入れない。町衆が声高になったところ、井上源五郎(奈良代官)が通りがかり、「この喧嘩は何事か」と。
町衆は今朝、亭主と茶の湯の約束をしてあったが、来てみると亭主はまだ寝入ったままで、「起こせ」と言ったが下女がそれはできないと。
事情を聴いた井上は「それは亭主が悪い。亭主をこれへ呼んで問いただしてやろう」と言ったので、亭主は表戸へ出損ねてただおろおろするばかり・・・。

こちらの関心はこれではなかったのだが、つい。

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印章

2010-12-10

とある所から「印鑑ご持参のうえ・・・」と連絡。

書類を書いても、ミスをしても印鑑が必要。公的機関では、たとえ留学生のアルバイトであっても、まずはカタカナ表記の「三文判」を作らせる。
仮に「バラク・フセイン・オバマ・ジュニア」だと、「バラク」「フセイン」「オバマ」と、姓・名・ミドルネームなんでもいいが(たぶん「小浜」はだめ)、サインでは「本人とはみなさい」。

絵画でも印章・落款とはいえ、真贋判定に重きを置くのは「印章」。中国書画でも作品を所蔵した証しと誇りをもって一面に印章。時には文字の上にも。

しかしながら「花押」というのも存在する。「書判(かきはん)」ともよび、自署がデザイン化したもの。現在でも閣議署名は花押。
ほど近い時期の署名(サイン)と花押のある資料が2点存在。サインの筆跡は同一なのだが、花押がまったく異なる・・・。果たして同一人なのだろうかと、ふと疑問にも。

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近世真宗美術

2010-12-11

午後、松原市ふるさとぴあプラザでの企画展にあわせた歴史講座「浄土真宗と松原-東西分派の歴史と美術-」。浄土真宗史研究で著名なU先生、Y氏に次いでの講筵。12月なのでポスター横には小さなリースも。

20年ぶりのテーマで、講演内容を整理すると改めて色々と理解。

足ほぞに焼印や銘を記すのは大谷派(東)が先行。
寛文年間から「長門」とあり、延宝には「宗重」の焼印が登場。その後、阿弥陀如来像は再び長門によって制作、点検されるが、延享頃には「樋口播磨」。本願寺派(西)では、印文不明の二重方郭印の後、延宝年間以降、渡辺康雲が登場。

親鸞聖人絵伝(御絵伝)もしかり。第4幅の「荼毘」の場面。荼毘の火焔は、本願寺派末寺では画面向って左に流れ、大谷派末寺では右に流れるとされる。ところが、西本願寺所蔵の御絵伝(室町時代)は画面向って右に。寛文3年(1663)の徳力善雪の8幅本では、火焔・煙は一旦右になびいて再び左の「逆S字形」。

分派の歴史は什宝においても如実に現われると実感。

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ノブレス・オブリージュ

2010-12-13

瀬戸内海 某所(島)。

延宝6年(1678)9月9日、浄厳はこの島の寺院を訪ね、船主に随求陀羅尼経を講じ、航海安全のために経典の出版を勧めた。梵鐘の銘にも
水陸等利  冥顕同驚  所願商舶  風穏無傾
と浄厳が撰文。黄檗版一切経も存在。
ここには鴻池家をしのぐと言われた豪商(海運)もおり、海運と真言律・黄檗との緩やかな繋がり。振り返れば、大坂の廻船商である苫屋久兵衛(飯田直好)も真言律と黄檗に傾倒。「がめつい」上方商人というイメージが強いが、魅力的な高僧のもと仏教信仰に基づく律した生活を過ごし、社会貢献していたこともすでに指摘される。

豪商のノブレス・オブリージュの基盤は仏教信仰にあると、ようやく確認。

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小橋村

2010-12-14

「大阪の地名由来辞典」(堀田暁生編 東京堂出版)を頂く。
大阪にも「神田町」や「有楽町」「渋谷(しぶたに)」「河原町」があった事を知る。

長年の“宿題”のひとつに京都・長福寺涅槃図。
画面右上に「河州□嶋小橋村新庵常住 貞和二年丙戌正月十七日」の銘。「河州□嶋小橋村」とは、いったいどこかと。
今も上本町駅の東側に「小橋(おばせ)町」(天王寺区)があり、鶴橋駅そばにも「東小橋」(東成区)の地名が残るが、ここは「摂津国」であり「河州」ではない。簡単そうにみえて実は難解。
キーワードは、貞和2年(1346)での「□嶋小橋村」の「□嶋」と思うのだが、なにしろ河内は広い・・・。
未だに回答できないままである。

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邪魔

2010-12-15

夕刻、大阪ミナミ・周防町へ。
約束の時間にちょっと遅刻で、地下鉄心斎橋から徒歩。焦りながら「大丸」の角を曲がると、人だかりがあって、しかも歩みはノロノロと大渋滞の態。
えっ~?といぶかりながら、誰もがはみ出さないでいる車道に出て前へ進むと、大渋滞の先頭は、「防犯」と書かれた緑色の腕章を巻いた一群。歳末防犯警戒で巡視する警察などの関係者。

結構なことだとは思うが、3人並行して歩くと道を塞ぐような細道に、大挙してだべりながらグダグダと歩く姿は、どうみても低レベルで、規律正しい大人とは思えぬ行動。
“お偉いさん”を先頭に花魁道中よろしく歩む一群を小走りで先行して撮影する関係者も一般人の邪魔になっていることには全く気付いていない。

車道に出て急ぎ歩くこちらが制止されないとみるや、車道上でこちらを追い越す人も。
年末の雑踏に拍車をかける邪魔なセレモニー。
こんな細道でパフォーマンスするなら、もう少し南にある「大たこ」の前ですればよいものを、と思いつつ待ち合わせ場所へと急ぐ・・・。

(追記)この夜の未明、「大たこ」は自主撤去、というかようやく最高裁判決に従ったというか・・・。

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月ケ瀬梅林

2010-12-16

関西大学「なにわ・大阪文化遺産学研究センター」改め「大阪都市遺産研究センター」研究例会へ。次回発表(予想)に備えての下見も兼ねて・・・。

浜野・藪田・朝治 各先生による発表を拝聴。大阪の人口動態や泊園書院、『住友文庫』とそれぞれ興味深い内容で得るところ多し。

なかでも関心を引いたのが「名所」と「名勝」。
漢学・漢詩の素養が広まることで、これまで「歌枕」などにもとづく「名所」が「名勝」へと変化し、場所も再編されるとの指摘。
永島福太郎氏によれば、中世に確定しながく「奈良名所」として定番化した奈良の神社仏閣、古刹旧蹟にも19世紀になると「月ケ瀬」が追加される。

発表を聞きながら、この追加は1803年に大坂の儒者である田宮仲宜や伊勢山田の韓聯玉、津藩の儒者であった斉藤拙堂などが推奨絶賛したおかげなのだろうと思う。定番の奈良ですら変化するのだから、大坂ではなおのこととも。
晴れて、月ヶ瀬梅林は史蹟名勝天然紀念物保存法による初指定(1922年)の名勝のひとつに。

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大坂土産

2010-12-17

発表後の懇親会でもこの話題。
酔いも手伝って、「広重を意識した浮世絵『浪速百景』はお土産品!」と暴言。

江戸後期から幕末の大坂を描いた絵画には2種類存在し、ひとつは大坂在住の人が「名所(名勝)」と思う場所を描いたものと、地方の人が大坂に出てきて「大坂らしい大坂の名所」を描いたものに分けられる・・・。同じ『浪速百景』でも、芳瀧・芳雪・国員の作品と長谷川貞信の作品とはまったく別物である。
なかなかうまく説明できないので、つい「観光地に行って絵ハガキセットを買うと、必ず、何これ?という絵柄の葉が含まれています。これが地元からみた名所で、その他が、観光客(外部の人)からみた名所なのです」と訳わからん説明まで。

以前、似たようなテーマでの研究発表の折、コメントを求められたK先生が、「むぅ、こういう作品は信州かどっかの地方で見たことがありますが、その時は特に何も・・・」と口を濁されていたが、あれは暗に「大坂土産」ということを示唆していたのかと。
酔いに任せて、目安は「祭り(祭礼)」の絵の有無とまで。

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よく見ることの大切さ

2010-12-18

を普段から説くものの、説明する本人がわかっているようでまったく分かっていないと(遅まきながら)気づくことも多い。

最初は「中国豊中」。高速道路(中国道)を走っていて、ある時「豊」の文字がおかしいことに気付いた。画数が多いのでそうなるのかと思ったが、次は「京都」。
2画と4画が合体。書けと言われてもなかなか書けない「都」。
ながい間、何の疑いもなく素直に「京都」と読んでいたが、正しくは誤字である。

「公団書体」というらしいが、一般道の標識(青地に白文字)では、一応正しい表記。
手書きの文章をみると、「ほらまた、誤字・・・」と言うものの、ひょっとして「公団書体」で書かれていたのかも。そんな訳ないか・・・。
ちょっと目からウロコである。

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へいかもん

2010-12-19

末娘の都合で、とある公立施設へ。

会場に入る直前、筋骨隆々のトルソーに出くわす。
なかなか上手な作品と思いながらも、像に背を向けた女子高生らが周辺をとりまき、近寄れる雰囲気ではない・・・。しばらく後に再び接近すると、幸いにもブロンズの前には誰もいない。

台座下銘板には「へいかもん 1988 籔内佐斗司」。
「せんとくん」でお馴染みの彫刻家、東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室教授の籔内佐斗司氏の若き日の作品である。
「せんとくん」をはじめとする童子像の作品が多いなか、東芸大の定番からアレンジしましたっ!という作品があるとは。

なにごとも基礎が大事であると改めて思うともに、作品は作家の歳月と共に大きく変化。
先ほどたむろしていた女子高生もこの像がよもや「せんとくん」と同じ作者によるとは思いも及ばないであろう。もちろん末娘も。

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確認事項

2010-12-20

朝から東京。
上野東照宮社殿は現在修復中。唐門は実物ながら覆屋には社殿の書き割り。
本殿・唐門とも1651年(慶安4年)の創建。 唐門や参道左右には銅燈籠・石燈籠が立ち並ぶ。徳川御三家や各大名からの寄進である。多くは家光が東照宮を改修した1651年製ながら、藤堂高虎寄進の1628年(寛永5年)製のものも。

石燈籠と同様に銅燈籠も宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されるが、かなりのバリエーション。
これが靖国神社にある銅製燈籠(明治)に繋がる・・・。
そのほかにもいろいろと確認。

午後、国立国会図書館。こちらでもいくつかの確認事項。
ここの利用は原則「18禁」。お子様は立入禁止である。利用者登録すれば関西館で利用できる資料もあるが、NDL-OPAC(国立国会図書館蔵書検索)で検索できない資料なので、来ざるを得ない。
夕刻、雑踏のなか仙台へと向かう。

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霊廟の肖像

2010-12-21

地下鉄・バスを乗り継ぎ、宮城県立図書館へ。検索してあった図書をあれこれ。

午後遅く再び仙台にもどり、仙台藩の藩祖とされる伊達政宗や忠宗・綱宗らの霊屋である瑞鳳殿へ。霊屋は1945年の空襲で焼失し、現在残るのは戦後再建されたもの。
墓所は再建時に発掘調査され、政宗の副葬品は仙台市博物館、その他は瑞鳳殿資料館に展示。

霊廟には肖像彫刻が安置。大名の肖像彫刻(画)は、17世紀末~18世紀初頭と19世紀前半にかけて製作のピークを迎える。徳川治世の安泰によって大名という身分が継承される意識と、その意識が崩壊しつつある時期である。後者は、近代「銅像」との断絶を説く近代彫刻論もあるが、いまひとつ理解できないところも多い。そのうちのひとつが各地に残る霊廟や霊屋の肖像でもある。
各地で色々とみないとなんとも言えず、断絶かどうかも・・・。

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靺鞨国

2010-12-22

朝から冷たい雨。東北歴史博物館へ。
「祈りのかたち-東北地方の仏像」展(1999年)以来の来館。
多賀城駅(JR仙石線)から歩くのか・・・と、やや尻込みしていたが、博物館前に国府多賀城駅(JR東北本線)が出来ており、至便至極。古代史の予習も兼ね、染型紙や東東洋や来舶清人画家の江稼圃、弟子で仙台出身の画家菅井梅関の作品も。

その後日本三大古碑のひとつである多賀城碑へ。
覆堂の中に高さ1.8mほどの碑がたつ。天平宝字6年(762)12月1日、恵美朝狩によって修築された折の碑。多賀城が大野東人によって神亀元年(724)に設置された旨も。

ユニークなのは、碑文冒頭に刻まれた多賀城と主要都市(?)間の距離。
京(平城京)からは1500里、蝦夷国からは120里、常陸国から412里、下野国274里、靺鞨国から3000里とある。「靺鞨国」とは、おおよそ渤海国。新羅や大唐ではないところに当時の地理的感覚が表れている。最近も「多胡碑」と「羊」の話(「胡」と「羊」)を聞いたばかり・・・。

夕刻、帰阪の途につく。

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天命を知る

2010-12-23

実は仙台駅前の階段で転び、膝横に青あざと手の甲に小さな裂傷が出来た。階段を上り下りするとまだ少し痛む。

派手に転んだようで、「大丈夫ですか!」と周囲の人に介抱されたが、それ以上に「転んでしまった」ショックのほうが大きい。これまで歩幅の合わない階段でけつまづくこともあったが、「おっ、とっと」と不安定な体勢ながらも「転ぶ」までには至らなかった。今回は、あっけないほど「見事に」こけた。

「大丈夫です、ありがとうございます。」と御礼を述べつつも、頭のなかではあれこれ「転んだ」原因を考える。ぼぅーと考えながら階段を降りていたことは確かだが、そんなことは日常茶飯事。
歩き方?左右のバランス?(片手にはカバンと図録)、お疲れ?・・・。

予想もしなかった事態に忍び寄る「加齢」の影もチラリと脳裏を横切る。
「四十而不惑、五十而知天命」(論語)を思いながらも、平櫛田中は、「六十、七十は、はなたれ小僧」とも。107歳まで生きる自信は毛頭ないが、やや気弱にも。

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化石寺

2010-12-25

午後には雪。クリスマス寒波。

欧州の空港でも雪による大混乱。「地球温暖化で暖冬傾向が続くとの「油断」から対策がおろそかになったとの批判」も。

大阪の南端、岬町深日に宝樹寺がある。ここの展示室には紀淡海峡からの海揚がりの青磁碗なども展示されているが、メインは、紀淡海峡海底から引き揚げられたナウマンゾウや古代シカの化石。従って宝樹寺の通称は「化石寺」。
ナウマンゾウがいた頃は、大阪湾はすべて陸地。淀川や猪名川などが大阪湾を縦断するように伸び(「古大阪川」)、河口は和歌山と徳島の中間沖あたり・・・。
それが「温暖化」によって現在より奥へと海岸線が後退(生駒西麗・高槻・吹田と上町台地)し、河川からの土砂等によって現状に。この間も弥生・古墳時代は「寒冷期」にあたるという。

きれいな空気と求めるというのは理解できるものの、人間の小手先で、地球の長いスパンの変動をどうこうしようというのは少し不遜なような気がしないでもない・・・。

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ブラック・ボックス

2010-12-27

本日で大学図書館も終了。例によってごじゃごじゃとお持ち帰り。

この1年、膨張(増長?)するだけしたという思い。最初は着実に一歩ずつと思いながら、あれこれと欲張るあまり・・・。あちこち、あれこれしながら通底するのは、近世の仏教美術は「ブラック・ボックス」との思い。
例えば、大津絵の絵師ではこんな風。
「本願寺」が東西に分裂し、「元々の本願寺」周辺で商売していた多くの人々は移転を強いられ、山科・追分・大谷へと移住(し、大津絵を描く)。

逢坂の関跡のほとりで、無名の画工が本願寺山科御坊参りの門徒衆への信仰に供する為、仏画を描いて売っていたのが大津絵の始まり。
「元々の本願寺」とは現在の西本願寺。准如の代に秀吉から堀川六条(西本願寺)の地を与えられ、家康からは教如に「烏丸七条」(東本願寺)が与えられる。
では分裂以後も下付される絵像は誰が描くのか、「絵所」とはどういう関係なのか等々、疑問が出るはず。後者に至っては「下付」ということすら理解できていない。

こうした言説が無節操、無批判にも引用(孫引き)されている論文を読むと、大きくバツ印を付けたい思い。

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まさかの休館

2010-12-28

今日あたりが「仕事納め」のところも多い。

うろちょろとしているので、驚くべき公立博物館の休館日に出くわすこともある。
例外もあるが、一般に公立博物館は月曜日。月曜日が祝日(国民の休日)なら、月曜日を開館し、翌日が休館日となる。

ところが、その博物館のインフォメーション(HP)には、「休館日は毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日まで)」。
おそらく「翌日まで」のケアレス・ミスと良心的(常識的)に理解し、祝日に訪れると、(案の定)「休館日」。仰天。

帰宅して後、条例施行規則をみると、休館日を(1)定期休館日を毎週月曜日 (2)国民の祝日に関する法律に規定する日としている。また但し書きで月曜日が国民の祝日に当たるときは、その日の後日において、直近にある休館日でない日をもって、これに替えるものとする」としており、月曜日でなおかつ祝日の場合は翌日も(休館)と解釈。
「その日の後日」とか「掲示」とか、触りたい(修正したい)条文の文言も並ぶが、何と優雅な博物館勤務。さしずめG・Wなんぞは、カレンダー以上に大型連休。

最近は「年中無休」「第3火曜日」など、大型スーパー並みの「休館日」しかない館もあり、また休館日とて職員は出勤して普段は出来ない諸々の業務を行うのだが、どうもここは完全にCLOSED。
将来、閉館になっても自業自得と恨み節。

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御礼

2010-12-31

今年も相変わらず貧素な内容ながらご覧いただきまして本当に有難うございました。

予想以上の学内・外の様々な方がご覧になられており、来年はもう少し穏便になりたいと考えております。この1年、本当に有難うございました。

取り急ぎ、年末の御礼まで。皆様どうぞよいお年を。

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過去ログ