日々雑記


近くの親戚より遠い他人?

2009-9-1

朝より奈良県立図書情報館へ。

もちろん大学図書館になく、過日に大阪府立中央図書館へ行ったが、あまりの対応の悪さに辟易。当該図書もなぜか閲覧できず、職員がカウンターで本(和綴本)を読んでいたので、問い合わせると如何にも読書を邪魔された表情がありあり。誰も思いも同じようで、FAQでは、殆どがクレームとその弁明と開き直り。府立図書館の実情そのものである。

愚痴はさておき、奈良県立図書情報館は、実にスムースな対応。書庫から出してもらい短冊を挟み当該個所を複写し続ける。裏に貼られた旧貸出ラベル(もちろん現在はコンピュータ処理)が恨めしく思う。揃い本ながらゆっくりと読んでいる暇はない。
夜になっても付箋貼りと複写で精根尽き果てそうになった頃、ふと「利用者カード」のチラシをみる。居住地や勤務地の項目がない・・・。
職員氏にダメモトで尋ねると、大阪府民でも(返却が可能なら)貸出OKとのこと。 さっそく利用者カードをつくって、残りを館外貸出してもらい帰宅。

開架蔵書も迷うほど。皆、広々としたスペースでゆったりと読書。こういう風に税金が使われたら感謝こそすれ、大阪はやっぱりあかん。
府立児童文学館(万博)の資料を中央図書館へ移管することに反対する人たちもいるが、あそこに移すぐらいやったら・・・という別な思惑があるのではないか。いっそ奈良県へ寄贈するほうが府民も自由に閲覧でき、有意義な活用がはかれるのではないかとも。

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某所の仏像

2009-9-2

20年近く前に調査した仏像が今年6月に盗難。心配していたが、このたび犯人逮捕の報。夕刊には、当該仏像の写真も。安堵、安堵。

〔日々雑記〕でも、数多くの仏像などの調査を記しているが、その殆どは「某所」である。前後の記事からはどのエリアなのか想像も可能だが、写真も(かなりレアな)部分で全体像がわからないように一応の配慮はしているつもり。悉皆調査報告書のなかにはA寺、B寺、C寺・・・と記すものもあって、はぁ?と思いつつも防犯上からは、やむを得ない措置である。
調査成果が盗難の手助けをしてはイケナイ。

ここ数年、仏像の盗難が頻発しており、「負の仏像ブーム」なのかもしれない。
何度も同じ事を書くようだが、江戸時代の作であろうとなかろうと、万が一のために仏像のきれいな写真を撮って寸法を測って控えておきなさいって。厨子越しに面貌もわからないようなスナップ写真は論外。それと鍵は2個以上付ける、普段は扉を施錠しておく(特に「このあたりは誰も(家の)鍵を掛ける者はおりゃ~せんわ」というような所)、出来る限りお参りをする(最近人が来た痕跡を残す)。
これだけでもずいぶん違う。

こういうご時世だから、古美術商やオークションに出る仏像もまずは「盗品」と疑わないといけない。なぜ盗品と判明できないのか、それは写真や寸法の“証拠”がないからである。証拠さえあれば、「指名手配」も可能で、今回のように盗品と判明できる。
「盗品」を売買した業者は、社名の公表と鑑札を没収するぐらいのペナルティも必要。「手配書」が、出回っていては「善意の第三者」とはいえない。(ノリピー逃亡の介助をした元弁護士と同じ感覚)
そもそも廃仏毀釈直後ではないのだから、仏像が出品される事自体おかしいと思わないと。

今回の犯人はもと複数を兼務した住職らしいが、その寺の仏像も既に売り払ったのだろうか。

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曲芸

2009-9-3

「某所」で調査。
絵巻のようにノーマルな資料であれば、「取り扱い」さえできれば何ら難しいことはない。資料を広げる机と計測道具(メジャー等)があれば事足りる。絵巻を肩幅以上に広げているのは料紙の長さを計測しているからである(右手下にメジャーあり)。

ところが今回は絵図。おおむね寸法は1m四方。普通に広げて写真撮影すると台形の絵図写真が出来上がる。そこで仮設の展示台(コンパネ)をほぼ垂直に立てるが、昭和30年代の調査のように絵図の四隅を画鋲や虫ピンで留めるのはご法度。絵図類を傷めずに押える“秘密兵器”を用意したのだが、ただ押えているだけなので絵図は滑り落ちる・・・。アクリル板挟みという方法もあるが、撮影では不向きである。そこで、絵図が滑り落ちないところまで仮設展示台の傾斜角を緩めて大きな斜面台とする。これで撮影台が完成。次はデジカメのほう。

想像すれば理解できるが、撮影台の傾斜角が緩やかな程、カメラ位置は高くなる。角度が大きいと、資料はずり落ちる。このたびも机を積み重ねた上に三脚を載せたが、ファインダーを覗くと天井に頭が付き、安全のために蛍光灯を外す始末。これでようやく撮影準備完了。

アクロバテックな撮影で事故でも起こってはいかんと、今日はこちらが撮影担当。でも、絵図は学生の関心を大いにひいたようで、「古いっ!」「ビフォー・アフターやわ」などと、天井際で待機している者そっちのけで楽しく調査。

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地域連携

2009-9-6

本日も工事続行。今のところ右のような塩梅(先生方、驚くことなかれ)。
耐震工事に始まり、耐震工事で終わる夏休みである。

大学(人)が地域や社会と連携することは重要な使命のひとつである。日曜も隣で工事されたら・・・とやや不安にも思う。
お詫び行脚ではないが、こちらも「社会連携部」からのお仕事が3つ。締切まじかのレジュメも。
「個人的な地域連携」はあちこちでしているものの、時には知人からも「これも業績カウント。お願いするわ~」などとお気楽に話をされるが、あくまで「個人的なもの」で業績には入らない。
「学術情報システム」に(その類いの)社会貢献の項目もなかったはず・・・と同システムを確認すると、またまた繋がらない(頻繁にトラブルが発生する役に立たないシステム)。
必要とあらば最大限の協力は惜しまないが、このまま後期に突入すると思うと、ちょっとビビる・・・。

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無視かよ!と嘆く生首

2009-9-7

某所にて調査。
首部が躰部に落ち込んでいたので、直しておきますと“一旦”首を抜く。どうもおかしい造りだなぁと思っていたとは住職の弁。
中(躰部)をのぞくと躰部後面材に「慶長」年号。へぇ、こんなところに文字があるのかと驚く関係者一同。

それからは大慌て。こちらは娘から譲ってもらったポケットミラーやデンタルミラーを取り出し銘記を見ながら書き起こす。
住職や関係者もデジカメを持ってきて構えたり、過去帳を繰ったり。こちらもそろそろ真剣にファイバースコープの導入を検討する時期なのかとも。
落ち込んでいた頭部は、薄葉紙のうえにゴロ~ンと置かれたまま。

写真撮影の準備をしていると、まだ皆、首孔から躰内を覗きこみ、ああだこうだと。傍目からみれば、ちょっと可笑しい光景。頭部が「オ、オレッは!」と訴えているようにも見えなくはない。
お待たせしました・・・。そっと持ちあげ、頸後ろに薄板を見えないように嵌めこみながら頭部をつけて撮影開始。
調査終了後、某寺を訪問。五百羅漢堂(廊)は大掃除の真っ只中。
台座には寄進者と「明治廿五年」や「大正」とか書かれているので、像もその時期の製作だと思うが、幕末の仏像と何ら変わりない。強いて言えば、目の覚めるような(毒々しい)青が用いられ、玉眼の瞳には茶に墨を点じるといった点なのか。彩色が後補と思うと、よくわからない像である。一部には「山本弥平作」とも。
坐像や立像など様々。ざっと見た感じではいくつかの手に分かれそうだが、どこから手をつけてよいのやら戸惑うばかり。
実は戸に嵌っているガラス戸も気泡が長く伸びてペコペコのガラス。羅漢像と同じ頃だろうか、こっちのほうも気になるところである。夕刻に問い合わせあり。

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高岡

2009-9-8

瑞龍寺へ。加賀藩主前田利長の菩提寺として利常が正保3年(1645)に創建。曹洞宗である。
山門の「高岡山」額字は隠元によるもの。各堂宇の仏像をみると、統一感がなく、幾多の歴史を思わせる。

仏殿には、小ぶりの黄檗風釈迦三尊像。獅子や白象に横乗りの姿や蓮弁からみると創建後と思える。須弥壇や仏殿の大きさと合っていない。背後には大権修理菩薩、開山広山恕陽像、道元像、達磨大師、傳大士像など。
大権修理菩薩像と対になる達磨大師像は、十六羅漢像の“マルコポーロ”像を代用。山門は火災に遭い文政元年に再建され、楼上にもその時期の十六羅漢像が安置されるので、焼失を免れた1躯であろう。
傳大士像があることから経蔵があったのだろうか。開山広山恕陽像、道元禅師像は創建期に近い頃。

禅堂中央には、文殊菩薩像と称される肖像彫刻。寛文2年(1662)、吉野右京種次の作。裳裏に「上京一条室町惣門之町」とある。僧形文殊と呼ぶのも難しいが、開山広山恕陽像、道元禅師像とセットであろう。禅宗系僧侶彫刻は、開祖、開山、中興の3躯が対となるのが多い。
大庫裏にある韋駄天像は 宝棒を立てて身構える姿で、萬福寺 現韋駄天像と同じなので、18世紀の作品(現萬福寺像は1704年に請来)。
仏像をみながらもともと曹洞宗寺院では仏像が少ないのである。改めて堂宇建築をみると、仏殿は鉛瓦、法堂は銅板葺。
再び駅に向かい、高岡市美術館「高岡美術百科-先人たちの近代-」展へ。いわずもがな高岡は「工芸」の街である。
4章の「現代工芸」「伝統工芸」はパス(あまり関心が向かない)してウィーン万博や内国勧業博覧会から高岡産業博覧会、その後身である高岡市美術館までの作品、資料をじっくり。
松井乗運「日本武尊像」も出品されて驚いたり、本保喜作・義太郎や吉田鉄郎(郵政建築)も高岡中学校卒業で取り上げられている。旧姓は五島。

殆ど知らない作家ばかりながら見ていると、面白いことを想起。
地方の人が東京を目指し、帰郷すると我らの地に美術を理解する者がおらぬと嘆き、東京の人(基本は上京した人)はヨーロッパに出ようとし、渡欧後は日本にまだ芸術は育たない環境にあって嘆くという構図。なんだか現代の日本の構図をみる思い。

解説に「少なめのオイルに溶いた油絵具で、じっくりとモデルをかたどる素直な絵作り」とあっても、洋画を初めてみる人も多いなか、地方ではテレピン油など容易に入手しがたく、単にオイルが貴重品だったのではないかとも。

昭和29年の高岡市美術館の展示写真では、作品が露出展示なのか、掛幅がずいぶん高い位置に展示してあり中学生が見上げて観賞したカット。如何にも貴重であるといわんばかりである。色々とそのほかも興味深く拝見。
ただ、ジョットやアンリ・ルソーの参考に市販の美術全集を広げて展示ケース内に置いているのは、如何にも学生の実習展みたいで興ざめ。
その後はお約束の高岡大仏へ。さして関心は惹かずに、隣接するベディメント装飾のある土産物屋(の屋根)をしげしげと見る有様。

如何にもローカルな氷見線で伏木。
今度は浄土真宗勝興寺。勝興寺本洛中洛外図屏風で有名。思えば真宗の一大地帯である。
現在は修復工事のため、唐門、経堂、本堂以外は拝観不可である。
加賀藩主前田吉徳の十男(治脩)が勝興寺住職。ところが相続人不在であるため、明和8年(1771)に還俗し、10代の藩主となる。それで色々と付属、所蔵しているのかと理解。
唐門は明和6年(1769)建立の興正寺(興正派本山)の唐門を明治26年(1893)に譲り受け、北前船2隻により運ばれた由。西本願寺唐門と同じ構図とするとあの辺りかと思ったり。

巨大な本堂。井波彫刻がすぐそばにあるゆえなのか、豪華な装飾。巨大なだけに末寺と変わらない什物にかえって大きな空間にみえる。やはり真宗は「聞法」とも思える。
その後、再び終着駅氷見へ。確認したいことがあって図書館へ。隣に博物館もあって入ってみるが、特にみるべきものなし。というか、漁具・民俗資料中心のごちゃごちゃとした展示はなんとかならないものかとも。

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カルシウム不足

2009-9-9

夏休み明け、初の会議。13:00~18:00。
久しぶりの長い会議だが、イライラが募る。
このところエクセルを使った資料が多く出されるが、なんだか破綻の雲行きもないではない。

長い会議の理由のひとつに、投票と会議と論文審査。
某地方自治体に勤める人の博士論文(甲)。勤務傍らの執筆は大変だったと察しするが、提出論文が再生紙ってどうよ。役所のコピー機そのまま使ったのがバレバレじゃん。周囲では、内容はともかく人間性が・・・って全否定。
これ(博論)って、確か1部は国立国会図書館に献本するので、未来永劫に「コイツ!役所のコピーを私用に使って」って閲覧者に言われるのか。ツライ 茨の道である。
やっぱり、せめて身銭切って「上質紙」ぐらい買うべきだったと思うのだが。「いや、(役所のコピーは)一切使っていません」と言うなら、小学校の卒業文集程度の内容かとも思ったり。

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晩鐘

2009-9-11

今年も仏像展。
開催前だが、当方はようやく終了の目途。
調査・執筆・新聞記事・開催挨拶・講演会の5点セットのうち、今日3番目が終了。出品作もあれこれ意見のあるところだろうと思うが、そこは台帳作成ということで。いまどき、専門家が平安時代前期、平安時代後期、鎌倉時代の3区分では話にならないもので。また微妙な仏像が出てくるのだ、これが。

ポスターにあるような「重要文化財」メインだと、どれほど楽であろうかと、ちょっと弱気に。ま、尤も「重要文化財」メインだと、御役御免だろうけれども調査の醍醐味もないわけで・・・。
大きなヤマ場がひと段落して、なんとなくミレーの《晩鐘》のような気分。「敬虔な祈り」である。
後は講演会のパワーポイント。平日の講演会なので、展示場ではうかがえない“カット”をふんだんに使用してのリップサービス。

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町内

2009-9-12

ようやく涼しくなり、周囲の田も徐々に黄金色に染まる。早場米の横はまだ青田に近いが、さぁーと風が吹くと、稲穂がなびいて美しい。
来週には岸和田だんじり祭りがあり、街の角々には早くも提灯や横断幕も貼られ、「祭礼(試験曳)のため迂回をお願いします」の立て看板も(当地は1カ月遅れ)。
ご町内もそろそろ秋本番。

最近は「地産地消」や「生産者の顔が見える」ということで、産直所ではこの稲穂の傍で親爺がにっこりと笑った写真の下で玄米が売られている。最初は、「えっ、あそこ(の田んぼ)!」と思ったが、食べてみると、意外にも?美味しい。野菜にも生産者の名前シールがあり、氏名に思い当たる節がないでもない。ほぼ毎朝、ベランダ(喫煙)から働く姿をみているだけに、ここに至るまでが実にたいへんな労働。
もうしばらくすると、この新米もわが胃袋のなかへ。

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駒井柳朝

2009-9-14

午後、某所にて御用出仕。
本題とは異なる一件にて、「駒井柳朝」史料をみる。

駒井七兵衛禅昌:正徳5年(1715)鳥取・極楽寺日光菩薩像修復
駒井柳朝:享保15年(1730)兵庫・太山寺四天王像修復・製作
    :享保20年(1735)岐阜・清水寺地蔵菩薩像修復
    :延享2年(1745)『京羽二重大全』に「寺町通六角下ル町」住
    :寛延4年(1751)愛知・瑞泉寺阿弥陀如来坐像製作
    :宝暦5年(1755)静岡・慈雲寺千手観音台座銘(「歴代大仏師譜 補」)
    :明和5年(1768)『明和新増 京羽二重大全』
    :天明4年(1784)『天明新増 京羽二重大全』
駒井友甫:文政4年(1821)『佛師職慎申堅メ控』
駒井柳朝養父瑞雅:文政10年(1827)和歌山・根来寺大塔四仏修復
駒井朝運:文政11年(1828)頃滋賀・天寧寺五百羅漢像製作

柳朝の資料はまだ長崎あたりにもあったようだが、記憶力の限界。なんとかしないと・・・。

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どたばた・・・

2009-9-15

9:00より美学美術史資料室の引っ越し(BFは工事完了)に立会い、その後整理整頓。午後からは終日会議があり、途中で留学生G君との面談。再び会議に戻る。

「菩薩」って書けるほど日本語のヒヤリング・ライティング・スピーキングは、大丈夫。安堵也。
「半年ながら、まぁ、楽しくやりましょう。」というと、「研究しに来ましたから、よろしくお願いします。」と逆にやんわり釘を刺される。
初っ端からダメダメ教員の烙印。

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島根県立美術館

2009-9-16

宍道湖湖畔にある島根県立美術館へ。
企画展は10月1日からの「出光美術館所蔵 桃山・江戸の美」展。従って常設展拝見。

まずは狩野永岳《日月山水図屏風》や武蔵野図屏風。《日月山水図屏風》は金地墨画の大作ながら《日》隻は皺法のワンパターン。武蔵野図屏風は、薄野の群生が「御簾」代わりになって向こうに女郎花や桔梗。左隻遠景には富士山と画面下の緑青の土坡からは満月。
橋本明治《鏡》の本作と下絵。本作でのグラデーションを帯びた背景や微妙な陰影が下絵では殆ど無地の状態である。日本画の「下絵」はデッサンや画稿(エスキース)とは違うという解説に納得。

「出雲焼-輸出陶器-」。実はこちらがメインの見学。
布志名焼と楽山焼を総称して出雲焼という。もとは仁清や乾山を思わせる作品だが、明治になると白薩摩や京焼にも似た淡黄色の器胎。器の種類としては花瓶が目に付く。

《色絵花鳥人物図花瓶》は底部に「大日本 京都 西田製」の朱書銘と「出雲若山」「大」の印。解説では京都西田某が絵付けを担当。《色絵金彩花鳥文花瓶》では「大日本 京都 矢島製」、そのほかに「大日本神戸港春谷製」銘と「出雲楽山」・「忠」の印の作品も。

解説には神戸港=輸出用、春谷某=絵付けを意味するという。となると、絵付けは京都となり、布心名焼と楽山焼は器胎のみ出荷していたことになる。なぜ、彼らは絵付けを捨てたのか。おそらく、京都からは絵に合う器形の注文もあったことだろう。印がなければ京焼にもみえる。明治期にはこんなこともあるのだ。船木樽之助のコーヒーカップや黒釉の紅茶器セットは、いま見てもモダンなデザインである。

版画室。織田一磨《京都風景 大仏殿》1925年。門と思しき両側に仁王像の阿吽頭部一対。京都で「大仏殿」といえば方広寺なので、1973年、あるいは戦前まで、未完成の仁王像頭部が存在していたのか。仰天。
ところで、島根県立美術館は館蔵品に限っては、フラッシュ・三脚を使わなければ撮影可能。こちらも仰天である。東京国立博物館といい、研究する者にとってはありがたい限り。

夜、S大学に集中講義に来ている同僚の先生とS大のI先生と共に布志名焼窯元の傍で一献。

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千年の祈り 石見の仏像

2009-9-17

松江から益田へ移動。島根の海岸線は「磯風清き六十里」というらしい。1里は約4㎞(学生向き)。松江・益田間167㎞。
益田市に入ると至る所に展覧会ポスターが貼ってあり、見ようによってはまだ選挙が続いているような錯覚にも。外灯にも、鎌倉・極楽寺不動明王像のモールが懸けられている。
島根県立石見美術館「千年の祈り 石見の仏像」展。

極楽寺像は、もと益田市・天石勝神社の神宮寺 勝達寺のご本尊であった。極楽寺御住職の話だと、廃仏毀釈の後、東京・浅草で薪木代ほどの値段で売られており、大八車に乗って鎌倉・極楽寺までお越しになったという。
百年ぶりの里帰り。ポスターからタイトル看板、図録表紙など全てに使用されており、凱旋ムードである。もちろん石見地方、初の仏像展。

オープニングセレモニー。
来賓席にて極楽寺御住職と益田市長の間に座る。確実に場違い。応援団長(または黒子)は折りしも県議会開催にて空席もある中央の後方端(劇場だとB席)でよいのにと思う。一緒に調査してきたOさん、MさんもB席に座っている。「こっち、こっち!」って、早く手招きしてよ。
挨拶、テープカットがあり、続いて内覧会。

実は、極楽寺・不動明王像を含む2件ほどの国・県指定の仏像は見ていない。正確に言えば、20数年前に見ただけである。当時のメモをひっくり返しても全く要領を得ず、従って解説も担当者に。
会場でも「ご無沙汰です」という仏像もあれば、今回じっくりとみる仏像もあり、相変わらずふらふらと徘徊する始末。今回も殆どが露出展示。

見ていると、一木造というのは平安時代後期や鎌倉時代にあっては一見時代遅れの技法のように思うが、豊かな山林資源を抱える当地では、敢えて材木を細切れにして寄せて造る必要性がなかったのであろう。「等身大の仏像を造るぐらいの木はいくらでもあるけー」と聞こえんばかりである。
かたや「この位の長さの材木を何本」といった『平安遺文』にあるような用材の調達記事からみれば、なんとも贅沢な話である。

気がつけば、会場には小生と担当者と報道関係者のみ。担当者をみれば疲労ありあり。開催後も様々なイベント(「仏像ガール」さんのトークショーも)があり、しばらくは不休のご様子。
展示室Aでは「出雲藍板締めの世界」展。紺と赤の世界。見ながらよくぞ、残っていたものと思う。
夕刻、関係者の方々と一献。供出銅像と供出梵鐘の話題(違い)について、ふむふむと。

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すーっと 心が 凪いでゆく。

2009-9-18

午後より講演会。
定員50名のところ、補助椅子も出される按配に。平日の昼間にも関わらず有難い限りである。

出雲地方のように独自性が強調されない分、穏便な作品が多く、国守代理の派遣貴族らによって都のモードや仏像が時を経ずしてもたらされて、在地に刺激を与える・・・。大阪よりもずっと都に近い感覚。山深いところで調査をしていてもしばし京都周辺で調査しているような錯覚に陥ることも。
異口同音に「石見にこんな見事な仏像が数多くあったとは」と驚きをかくさない(かく言う私も最初はそうだった)が、単にこれまで調査していなかっただけのことである。地図を見ると、まだまだ未調査の空白域が目立つ。

講演会はしっかり笑いもとるという、相変わらずのパターン。
「自己責任」での雪路の浜田道や「とんぼ返り島根」をはじめ、思い出も尽きない島根も はや3年。
そのたびにこちらが、猛省、勉強した次第。
殺伐とした大阪を離れて島根・広島県境の銀山街道・赤名峠を越えると、江の川沿いに石州瓦の赤い家並みが広がり安堵にも似た思いを抱く。・・・
過日の新聞記事の冒頭である。一応、ここまでは成長したつもり。
今回の展覧会のキャッチコピーも「すーっと 心が 凪いでゆく。」。同感しきり。

講演会終了後、担当学芸員と雑談していると、彼が明日誕生日を迎えるということで、サプライズ・ティータイム。
仏像展担当者が誕生日なので、ケーキには「誕生仏」(の絵)。

バックヤードには、「仏像ティッシュ」や「仏像カンバッジ」(子供用)も置かれおり、“石見の仏像展”一色。
しっかり相伴にあずかる。同じ「展取」(展示取り扱い講習会)仲間だったので、歳が近いと思っていたら、ローソクの数は「大」からして違う。若いんだ・・・。

夕刻は学芸員諸氏と一献。既に“行きつけの飲み屋”となった所で、あれこれと話題は尽きない。
とある見積。センチあたり2万円也。驚愕。技術は未熟でも値段をふっかけることだけは一人前。
これからはそっと触っただけで、無理ですって言うな。

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せっかちは禁物

2009-9-19

遅まきながら石見国分寺跡へ。
堂塔伽藍が広がる平坦地と思っていたが、起伏のあるところに立つ。現在、僧寺址は金蔵寺となり、近傍には国分尼寺・瓦窯址も。
某ホームページでの国分尼寺のあばら家は撤去され、礎石もあって一応の寺址(遺跡)らしい雰囲気。西日本で、寺址というとおおむねこんな感じである。

史跡指定しておきながらというが、公園整備したところであまり現状と大きく変わるとは思えない。むしろ開発から守ったことを良とすべきで、整備は次世代の楽しみとして残しておくことも大切である。全体像が判らない以上、せっかちは禁物である。
その後、“文字通り”江の川沿いを走り、三次市(広島)の奥田元宋・小由女美術館「円空・木喰」展。

木喰研究は、作風の変化など その精度は高まる一方だが、あいかわらず円空研究は・・・という思い。精度の低いまま今もなお増殖し続ける円空仏である。
一覧表をみると、その違いは歴然。かたや制作年月日まで記されているが、もうひとつは○○年頃と(「貞淳」(貞享)はご愛嬌)。しかも特定の時期に集中。

まずは贋作をしりぞけ基準作を設定する必要があろう。「円空仏の特徴がよく現われているので」というのはまったく根拠にならないのである。
幸いここも露出展示で、じっくり見ると、まず背面に墨書。三尊構成の仏像のうち少なくとも二尊は、下部の割り矧ぎ面が合致。また脇侍像背面には節のふくらみがあるが、それと合致する節の窪みが本尊の背面にある。ということは丸太を二つ割り、三つ割りにして三尊像を作ったことがわかる。確かそんな仏像もあったはず。正、側、背面写真と透明ガラス台を通しての像底写真を撮って考えれば、すぐにわかることなのだが。相変わらずの「柳宗悦」流では、残念ながらまだまだ。

「木の電信柱がなくなったなぁと思ったら、急に円空仏が市に出回わりましたな」とは某古美術界隈での雑談。円空は12万躯もの仏像を彫ったとされるが、「佐野乾山」みたいにいっそ20万体ぐらい見つかれば、逆に真剣になるのかも。何ごとも最初に数値ありきではイヤである。

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西洋美術史は“不可”

2009-9-20

久しぶりに帰宅すると、変なサイコロが転がっていた。
家人がもらったお土産 「ルーヴル美術館展オリジナルダージリンティー」。5面が西洋絵画、1面は作品名。

今まで気付かなかったが、現在、関西で2つのルーブル美術館展が行われている。
国立国際美術館「美の宮殿の子どもたち」(~9/23)と京都市美術館「17世紀ヨーロッパ絵画」(~9/27)。前者は朝日新聞社・朝日放送で、後者は、読売新聞・読売テレビなのでたまたま集中。紅茶は前者のグッズ。

紅茶を入れてくれたのはよいが、箱底にあった解説の紙片を見つけて、「さぁて、ここで問題です。各面の作者は誰でしょう?」と。
知るか!と思いつつ、ここは家庭の安寧が第一。
「上面はベラスケス。」「おしいっ!」「はぁ?」「正解は“ディエゴ・ベラスケスと(その)工房”。」
そんな作品、持って来んなよ・・・。
正解したのは「ティツィアーノ」だけ。他はジャン=バティスト=マリー・ピエール、ジョシュア・レノルズ、ニコラ・ベルナール・レピシエ。名前は聞くものの、作品なんかホンマに知らん。
「1個正解で、1個は減点なので、合計30点、“不可”です。」

大学の定期試験より難しい・・・とぼやきつつ、苦くなった紅茶をゴクリ。

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シルバーウィーク

2009-9-21

この連休は「シルバーウィーク」というらしい。
てっきり「敬老の日」を挟んでいるからと思ったが、G・Wに次ぐ長い連休なのでシルバーとの由。

朝、町内のスピーカー(本来は防災用。たぶん)が、「赤飯を(老人に)配るので、老人会役員は午前中、外出せんように!」と、がなっていた(田舎住まい)ので、今日が敬老の日であろう。

老人会役員が老人に赤飯を配るというのもちょっと滑稽な話だが、ひと昔前の老人とは違って、手も足も口もよく動く人が多いので、そうしたのであろう。電車やバスで、うかつに席を譲ろうものなら説教されることもある。空いた座席の前で(どうぞと言うように)そのまま立っていようものなら、おばはんが、ダッシュで飛び込んでくる。

なんとなく、ずるずると秋の連休のほうが、実情にあっているのかも。「彼岸」にも近く、ごじゃごじゃと理屈つけると、何を言われるかわからない。
「大東鶴見~西宮山口 36キロ渋滞」(近畿道・中国道)の中へ「ひゃほー」(とは言わんが・・・)と、飛び込んでいく「紅葉マーク」の軽自動車をみると、我らよりも元気である。

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ハイオク 満タン カードで

2009-9-23

あいかわらずの時間に帰宅すると、テーブル傍に「ヱビス」と「ザ・プレミアム」(ビール)。お、おぉ~!
なにごとぞと尋ねると、貴君、齢ひとつ重ねたとのこと。
このところ、あれこれあってすっかり失念。

普段は、レギュラーガソリンか軽油(時折、灯油も)で走る“営業ワゴン”ながら、当分の間、ハイオクガソリンにて。走行距離も長くなり、時々エンストも起こすが、ありがたく感謝しつつ、
「ハイオク 満タン カードで!」。
「なんで、カードやねん!」と異口同音に突っ込み。
「これから〈冬物バーゲン〉や〈お小遣いカンパ〉の“請求”が来るでしょ」と、にやり。
「“ハイオク”やから、もっと頑張って動いてもらわんと。」「もう“廃車”やね (^_^;) 」と逆襲の憂き目。

レギュラー車にハイオクを入れてもエンジン性能が向上することはないが、今宵はハイオク満タンで、気分もフルスロットル。

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二律背反?

2009-9-24

多くの夏休みの宿題を抱えたまま、今日から秋学期授業開始。むぅー。

あたふたと授業準備を進めるも時間配分がまだ夏休み中のようで、気が付けば渋沢栄一記念財団 寄附講座が既に始まっている。
今日は森本公誠東大寺長老の「仏教からイスラームを見る」。

森本長老は、京大大学院からカイロ大学へ留学した「イスラーム史」の研究者である。
数年前に公慶上人のシンポジウムで、ご一緒した時は「天保年間の正倉院開封」でお話をされたが、その時は「別当」であられた。
日本一大きな偶像を擁する東大寺のトップが、偶像否定のイスラームの研究者で、寺務と研究とをどう棲み分けされているのか、とても気になるところである。

こういう講座は授業に振り替えてもよいと思うのだが、小別処では「猫に小判」であろうと、せっせと鰹節を削る。

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千里も一里

2009-9-25

院生にお土産代りに図録進呈。
「仏像ガールが好きそうな展覧会ですね。」
「彼女、トークショーに(石見に)来るよ。」
「じゃ、行こうかな。」
院生は仏像ガールの友達というか、ファンというか・・・。
(仏像ガールの存在を知ったのも彼からである)
ちなみにトークショーは10月10日(土)14時から。
「で、(益田まで)どうやって行くんですか?夜行バス?」

この質問がつらい。
確かに大阪(梅田)からも夜行バスが出ているが、益田駅前に6:30に着く。あの駅前でどうやって時間を潰すのか・・・。新幹線、新山口経由で4時間半。新山口から写真の普通列車 (電車でもなく、車列にもなっていないのでワンマンカーというべきか...とくだらぬ疑問) に揺られて2時間あまり。うまく在来線特急に接続しても新大阪から4時間弱。
いっそのこと、飛行機? 伊丹からボンバルディアに乗って1時間。確かに早いが、フライトが夕刻4時前の1便のみってどうよ。
また、山越えの抜け道もあり。広島から9:43の高速バスがあり、これに乗れば12:30に益田駅前。
いずれにしても関西からはちょっとツライ行路。

「いろいろあるんで、調べてみたら・・・」と。
ま、「惚れて通えば千里も一里」といいますから・・・。

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自由業系職業人

2009-9-26

朝より大学。
秋学期某科目は「ガチに仏像講義」(ゼミ生談)である。何気なく履修者名簿を開けると3桁。あらら。
無理せんでいいんよ、ホンマ。キャンベルスープの空缶並べて芸術とか、紙切れペタペタ貼ってシュヴィッタース《メルツ》とか、関心おありでしょ。
こちらは仏像よ、仏像。ガチ仏像。
ともかく公民館年末チャリティコンサートほどの準備しかしていなかったため、大慌てで市民会館小ホール並みに準備。

夕刻から学会委員会のため大阪大学へ。
「(契約に)ハンコ押したのはお前やろが!」とか「連帯保証人がおるやろ、保証人が!」(←もちろんこんな物言いはしていない)と大阪・自由業系職業人のような言動も。
帰途、夕食を共にした先生が「もう大人なんだから、責任とれよっ!って感じですね」。同感しきり。
上は携帯画像で荒いが、今日会議をした部屋にかかっていた油彩画。

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武蔵野

2009-9-27

ようやく秋本番。
絵画でも狩野秀頼「高雄観楓図屏風」や東福寺の「通天紅葉図」など秋の風情を描いた作品も多いが、宴の様子や寺の堂宇などが描かれており、個人的には、鹿が鳴く、やや寂しげに思える秋の風情とはちょっと異なる。

絵の上で、秋の風情はやはり関東。
《武蔵野図屏風》や酒井抱一筆《夏秋草図屏風》が秋の風情にしっくりと馴染む。

関東平野は広い。都庁が出来て間もない頃に“おのぼりさん”で展望台に上がったが、どこまでもフラットな土地にただただ驚くばかりであった。京阪神では、すぐさま東山とか生駒山、六甲など方角を示す山があるので、山をあまり深く考えることはないが、関東では、唯一方角を示す富士山に対する思い入れが関西とはまったく違うことを理解。葛飾北斎「富嶽三十六景」の富士山は、単に日本一の山だからという単純な事情ではない。その東方に広がる広大な武蔵野こそ秋の風情にふさわしい。
再来週に迫った東京出張の書類を書きつつ、武蔵野を思う。

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第4コーナー

2009-9-28

はや3日目で、すでに猛ダッシュ。
ほぼ満席の教室で、「みなさ~ん、ちゃんとシラバス、読みましたか?」「まだ(履修)変更はできますので・・」と、授業開始。秋学期はびっしりの月曜日。昨年同様、地域アカデミーの入学式も。

競技ではないが、マラソンで号砲とともにダッシュするランナー・・・、いやもう少し的確な譬えがあり、各ギャンブルにお詳しい向けに。

競輪でいうと、先頭誘導員を無視して「先行逃げ切り」を狙っている選手である。「ジャン」はまだ先である。ちなみに早い段階で「先頭誘導員」を追い抜くと、失格になる・・・。
競艇でいうと、ピットアウト・待機・コース取りから猛ダッシュをかける。こちらも、大時計より早くても(遅くても)「フライング」(失格)である。
大学には先頭誘導員も大時計もないので、ちょっといつもと違う レース 授業展開。
でも「スタート」と思うのは私だけで、事務方や他の先生は「何言っているんですか!いつも8月下旬のスタートじゃないですか」と怒られそう・・・。
大学は、はや第4コーナーか。

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演習(8)古賀春江

2009-9-28

気がつきだしたのは、発表も後半へ突入の頃。
古賀春江が上京後、セザンヌやマチス、パウル・クレーの影響を次々に受け、《赤い風景》(1926年)が登場した後、クレーの代表作のひとつですと、《さわぎく(セネシオ)》(1922年)が映し出される。
おゃ、この絵(みたいな作品)、どっかで見たことがあるぞ...。さて?
発表は1929年の《漁夫》続いて《海》(両作品は同年の作)、《窓外の化粧》へと。
えっ、これ(「漁夫」)ぽいのも見たことがあるぞ。漁縄を体じゅうにぐるぐる巻き付けたような・・・。
マックス・エルンスト《漁師》が映され、《漁夫》と瓜二つで影響を受けたのは了承できたが、私が見た(記憶がある)のはエルンストではない。自発的にクレーやエルンストの展覧会に行くがらでもない。
どこでだろう? あぁ、すっきりしない・・・。

日本のシュールレアリスム受容といった観点で発表が終わり、大いに関心を引いたのか学生諸氏による質疑応答があって、若干のサジェスチョンをしてつつがなく授業は終了。

部屋に戻る途中、大阪近美準備室が思い浮かぶ・・・。大阪の近代美術?
研究室にて大急ぎで図録等をくると、あった!これこれ!
《さわぎく(セネシオ)》は前田藤四郎《愛鳥週間》(1956年)、《漁夫》は吉原治良《縄をまとう男》(1931-33年頃)。前者はともかく、後者は古賀春江《埋葬》とマチス作品ほどの近接感。
授業中にせめて《縄をまとう男》ぐらい思い出すことができたら、「日本のシュールレアリスム受容」についても、もっと “突っ込み発言” 有意義な発言ができたのにと後悔。

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午前様

2009-9-30

月末、折り返し地点ゆえ、会議満載。
会議後も明日使用のパワーポイントを作成。あいかわらず深夜にようやく完成。
漠然たる思いは徐々に確信に近づき、目からうろこのことも。
秋学期初の午前様。

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