日々雑記


中国・山東省 江蘇省の旅

2009-3-1~3-2

詳細は こちら

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開店・閉館

2009-3-4

昨日、今日と今年度最後の入試。
総合図書館は案の定閉館していたが、生協より連絡があり、5時までながら開店しているとの旨。
受験生には申し訳ないが、2月から1ヶ月後の入試とあって、ややくたびれ気味。

再生用紙用ダストボックスに丸めて投げ入れられた緑色の「入学試験監督要項」が疲労の度合いを物語る。

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とある像

2009-3-5

先月の京都での仏像窃盗犯も捕まりひと安心。

写真や調書もない仏像が多く、被害品特定に時間がかかりそうだと杞憂。譬えていうなら大阪駅忘れ物センターで、この位の大きさの黒いコウモリ傘といって、自分の傘を見出すのに近い感覚か。

問い合わせあり。甲冑をまとい、三眼二臂、手には宝珠とマサカリ(鉞)。もちろん江戸時代の作品で黄檗宗寺院に安置。
三眼二臂の武装像ながら唐風のコートを着ておらず帝釈天ではない。黄檗宗寺院ということからも否定ぎみ。尊名比定に一寸苦慮。
「天部形立像」という便利な語句があるが、保存状況がよいので、あまり使いたくなく種々黄檗関係を調べていると意外な推測。持物を日本風に変化させたのだろう。

黄檗宗の仏像は難しい。宗旨が変ってもそれまで安置されていた仏像も祀られ、そこに新たに中国・明の風が吹き込んでくる。風は福建や浙江から来るだけに、春一番のような風に思えてならない。

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裏道の桜

2009-3-6

朝より雨。相変わらず学生関係のお仕事に翻弄。
〔(印)ってあるんだから、ちゃんと押印してこいッ!〕

雨が少し止んだので図書館へ行くも、帰りは再び雨。借りた本が濡れないように事務室を経て庇のある大学院棟まで行くが、そこから研究棟までは屋根がない・・。
こんなことなら図書館地下の個室を使えばよかったかもと後悔。
雨宿りしつつ思案していると、サークルボックスの裏に桜。
まだ蕾が開きかけた頃。二分咲きである。今年は早いのだろうか。
「人の行く裏に道あり花の山」である。

しばらくしてやむをえず本を上着に包んで小雨の中を歩く。最近、こんなことして仏像盗んだ者がいたはずと、ちらりと思う。

学生はめっきり少ないものの、入学、進級、卒業と普段に増してごちゃごちゃとお仕事。

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続・裏道の桜

2009-3-7

朝よりプレ・スチューデント(4回目)。今年度プレ・スチューデントもこれにて終了。

予定より少し早く到着したので学内散策(実はまだ眠い・・・)。
学内には既に親御さんや入学予定者の姿も。ふらふらと工学部系の学舎あたりまで来ると、満開の桜。第1実験棟近傍。

そうこうしているうちに予定の時間。
いくつかのプレゼンテーションや質疑応答、教員講評などを経て、合研等の見学ののち千里ホールで解散。

あっという間に入学式だが、講評のなかで履修などの話に及ぶとなかなか不安げな様子も垣間見える。 1学年100名以上の学生を抱える専修もあるので、大学では何事も自発的に動かなければ不利益をこうむったりもする。担任制が敷かれている高校とはここが大きく違う(もちろん大学でも担任制を敷いているが)。専修に未分属の1年生は、プレ・スチューデント担当教員や「学びの扉」担当者に頼るべし。

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会議

2009-3-9

入学査定と卒業査定の3月会議。専修分属もようやくのこと、完了。

出る者あり残る者ありの悲喜こもごもの一覧表。

夜は不安いっぱいの3年次目の学生らとの小宴に参加。

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Re:お訪ね

2009-3-10

某セクションより、とある打診メール。
参加可能かどうかの単純な内容ながらあれこれと条件付。ところが、メールの文章は命令形に近い口語表現。読みようによっては、「一応仕事だから連絡したけど、ゆめゆめ参加するんじゃねぇぞ!」とも、読み取れる。

電子メールでは先方の顔色が見えない分、かなり気を遣う。
特に否定的な内容を含む場合、実際に面と向かって説明するよりもずいぶん「きつい表現」に感じるため、表現はあくまでソフトに。
直接話せば、大した内容でないものの、電子メールだといらぬ誤解を招いたり、「全員返信」でブログなみに炎上することも。 (そうなると表題も「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:△△について」となる)。
電子メールは丁寧すぎるぐらいがちょうどよい匙加減なのかも知れない。
(多忙な折、表現に気を使いすぎ誤字脱字のメールを送ることもしばしば。反省)

まぁ、発信元は定年もとうに過ぎた人なので、電子メールやネチケットも覚束ないのだろうと同情してみるものの、改めて表題を見ると「お尋ね」ではなく「お訪ね」。
ようするに、こっちまで出向いて来いということか。
既に先約もあって「参加できません。」と打って送信ボタン。
まだまだ人間が出来ていない証拠

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シュミレーション

2009-3-11

5月9・10日に2回生合同合宿(in 高岳館)を実施する旨が過日、決定。そこでシュミレーション。

(←写真は2006年の高岳館合宿)

・3専修に分属した学生が計108名。8割が参加するとして、88名+教員13名=101。
 学生の8割が女子とすると、男子学生は18名ほど。
・JR摂津富田駅~西の口間の高槻市バスチャーターが2~3台。
・施設は100名収容のAV・資料室(大教室は200名)と小教室3(うち1は和室)。
・部屋割は3階和室(8人用×12室)はそっくり学生用、2階洋室を教員に割り振り。
・食堂は最大152名で、20:00で終了。21:30には施錠。
・風呂は17:00~21:00まで。朝食は7:30~9:00。
 それと人頭税101名分。
・翌日は院試があるので、摂津富田9:50発に乗れば、JR吹田・関大バスで10:20には大学。
・帰りもバスチャーター?引率は・・・。

・・・・最大の懸念は、2階には洋室・個室あわせて28室あって、教員がシングル利用しても空き部屋ができてしまい、貸切にならない可能性がゼロではないことか。4月に入っても空きが △ だと要注意。

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遠忌の美術

2009-3-13

少し早いが、旧3月21日は弘法大師(空海)の命日である。但し、お大師さんは今でも高野山・奥の院霊廟の奥で生ける姿で座っておられ、仕侍僧の維那(いな)が朝食・夕食のお世話と衣を整えている・・・。
と小文を書いているうちにふと。

歌川国芳「高祖御一代略図」は天保2年(1831)の日蓮550年忌を見込んで刊行、葛飾北斎のダルマ・パフォーマンスは、文化元年(1804)江戸・護国寺(新義真言宗)では、覚鑁没(1144年)後660年、同じく文化14年(1817)名古屋・本願寺西別院でのパフォーマンス「北斎大画即書細図」は、親鸞没(1262年)後の555年。

調子に乗って彫刻に至ると、弘法大師(承和2年・835没 )像では、元興寺極楽坊像(1325年)=490年遠忌、法隆寺像(慶秀・1375年)=540年遠忌となる。
いや、お大師さんは「まだ生きておられるのだ」とすると、生年は宝亀5年(774)なので、東寺・御影堂像(康勝・1233年)=生誕459年、和歌山遍照寺像(1294年)=生誕520年・・・。
いつの間にか、電卓はじいて大脱線なり。

「御遠忌」は大事である。ちなみに浄土寺開山堂・俊乗房重源像(1234)は50年遠忌。

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伝統と現代

2009-3-14

午前中、みはら歴史博物館「菅生神社の文化財」を見学。
「北野天神縁起絵巻」(応永34年・14427)は素朴な筆致。野田庄惣社高松宮(菅生神社)に奉納された旨が南河内弘川寺曼荼羅院の奥書から知られる。菅生神社自体は登場しないが、天満宮として再興するために「北野天神縁起絵巻」は不可欠な絵巻。
「菅生宮并高松山天門寺縁起絵巻」(延宝8年・1680)は、詞書を大乗院門主信賀と梅園季保、絵を狩野永納が担当。あとは束帯や綱敷、柘榴などの天神画像色々。
天門寺の資料として「西大寺流灌頂五帖次第」があることから天門寺は真言律寺であったと想像。出品件数12件余のミニ展示ながら色々と興味深く拝見。

さて車を走らせて、奈義町現代美術館へ。
はぁ?と思うがこれも4月からの予習の一環。

まずは、“空き缶、捨てるな!”・・・ではなくて、美術館の建物(展示場)。設計は磯崎新。
展示作品は、宮脇愛子≪うつろひ-a moment of movement≫(大地の部屋)、岡崎和郎≪HISASHI-補遺するもの≫(月の部屋)、荒川修作+マドリン・ギンズ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築的身体》(太陽の部屋、前室付)の3つのみ。あとはデッサン、ドローイングが少々。
見学後、美術館の言いたいことがわからない気がしないわけではないが、運営は町直営。

むぅ・・・。困った・・・。
磯崎新の言う「第三世代美術館」とは、美術館という展示空間自体のことで、美術館活動全般ではないと確認。違うという方も(いっぱい)おられるかも知れないが、解説ひとつ読んでみてもそう思わざるを得ないのが、正直なところ。

隣接する町民ギャラリーで雪の風景写真展を拝見。
「雪シリーズ」とか「無国籍」とかの文字が躍るが、いくつかの作品にはカメラを構えている自分の影が写り込んでいる・・・。かなり当惑。
館をあとにし、やっぱり前衛・先端・異端のなれの果てである伝統が一番落ち着くと、ぼんやり思う。
次回は 養老天命反転地 ながら、私にはちょっと無理っぽい・・・。

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仏像も分からない

2009-3-15

朝より某寺の仏像調査。まだ雪が残る過疎の村。

17世紀末から18世紀初頭の制作とみられる美作の十一面観音像(本尊)を初め、丸1日かけて寺蔵の仏像を悉皆調査。
台座はこうした丁寧な仕事をしているでしょう、同じ時期の仏さんは眼が細長くもう少し後の要素・・・と檀家役員の質問に答えつつ。

不思議にも本尊の左右には不動明王像と毘沙門天像。
天台宗寺院なら理解できるが、近世より現在まで別宗派の寺院で、不動・毘沙門天像は制作時期からみても現宗派時代の作品。
周囲の廃寺との統廃合もなく不思議感たっぷり。

午後より“観音堂”と呼ばれる堂宇で調査。黒漆塗の箱座に坐す(立つ)三十三所観音像一揃いが安置されることから、“観音堂”と呼ばれるが、堂内片隅から出てきた棟札には“毘沙門堂”。
三十三所観音像を撮影した後、須弥壇にあがって戸帳をめくると、確かに毘沙門天像もいるが、中央厨子を挟んで左側にはまたもや不動明王像も(共に幕末頃)。?
さて中央の厨子扉を開けると、こんな像(←)が出現。

三眼多臂で、真手はともに中指を曲げる・・・。しかも波打ち際から生えた蓮華に坐している。波打ち際には冠をかぶった唐服の2人が「ちぃ~っす!」と言わんばかり(向って右はピースサインまで)。
他の研究者ならすぐさま尊像名がわかるのだろうが、なんじゃこれは・・・と思う。 大随求菩薩像? (出来るなら、このままそっと扉を閉めて見なかったことにしたい・・・。)
調査後、住職に尋ねると「腕がいっぱいあるので千手観音像」との答えが返ってきたが、それも違うと思う・・・。

帰宅後、すぐさま「仏像図典」や「能満院仏画粉本」を調べ、ようやくのこと 准てい観音像 と判明。
ひと安心するも、またもや宗旨と無関係の像。ところで、一体この2人は誰だ?
遅くなったビールを口にしながら、仏像も分からなくなってきたと嘆息。

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寄木造

2009-3-16

寄木造を大成したのは定朝。

定朝作の確実な現存作品は平等院鳳凰堂阿弥陀如来像のみ。ゆえに鳳凰堂阿弥陀如来像の構造は寄木造の基本的な構造図としてよく使われる。木寄せの概略は左図の通り。
黄色の部分は頭躰部根幹部(胴体)、緑色は肩より下や腰横、青色は膝前材、ピンクは裳先材。
調書風に述べると、頭躰主要部は約40センチ角のヒノキ材を前半2材、後半2材の計4材からなり、後半2材のみ割首・・・となる。つまり4つの角材を組み合わせて頭躰を作っている。

この構造図を真正面からみると下図のようになる。
このようにみると、鳳凰堂阿弥陀如来像の構造は頭躰根幹部は共に正中(顔の中心)で左右2材矧ぎから成っているようにみえる。

そこで、一般的な“寄木造仏像の構造を理解するための樹脂製縮小モデル”として頭部、躰部根幹部を共に左右2材矧ぎ、頭部と躰部の接合を挿し首とする教育用構造模型(その他の部材も10個付属する)が、某社から注文販売されている・・・。

管見では、そんな構造の仏像は見たことがない。特に左右の躰部根幹材は薄い∩形の部材を左右に合わせるというアクロバティックな造りになるが。
鳳凰堂阿弥陀如来像は大作なので4材矧ぎという特殊な構造になるのだが、一般的な寄木造は、頭部、躰部根幹部とも前後2材矧ぎ。
ご丁寧にも協力者として教育機関が明示されているが、いったい教育現場では何を教えて、どんな協力をしたのか、知りたいものである。

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タイ・メナムノイ窯?

2009-3-17

某市文化財審議委員会に出席。
答申や諮問、報告などいくつか。試問では醸造用具が登場。 同類の醸造用具(一部)が会場である資料館に展示されているという。

終了後に見学。なるほど・・・と見ていると片隅にある壺に瞠目。
焼き締め陶といい、胴部に1本の沈線、耳(取っ手)の貼付け具合といい、タイ製(メナムノイ窯)の焼き締め壺ではないだろうか。胴が長くしかも胴部の張りが少ないので時代は下るように思えるが、日本製でないことは確か。こんなところにも使用されていたとは。

展示台奥に置かれており細部を観察することができず、さすがに展示台の上に登ることも出来ないので、“委員役得”で撮影。(事後承諾)

久しくこの類の資料は見ていないので産地比定の“判断”もややにぶりがち。
確か、『貿易陶磁研究』(日本貿易陶磁研究会)か『東洋陶磁』(東洋陶磁学会)に論文があったはず、某家の庭先では手水鉢として使われていたこともあったと、おぼろげな記憶を辿る。結局、宿題なり。

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SMな神仏

2009-3-18

新2回生ガイダンス。さくっと、履修ガイダンスと学生の自己紹介。

昨日、頂いた記念誌を読んでいると地元の民話にこんな内容が掲載。
ひでり(雨不足)になると雨乞いの祈祷を行うが、それでも雨が降らない時。

村の長(おさ)が「そろそろ、やるか!」といって池の中島にある小社(祠)を若い衆が持ち上げて、池の中に投げ込む。社殿は木製なので浮くが、皆で押さえ込んで何度も強引に水中に沈める。
しばらく繰り返された後、長(おさ)が「ま、今日はこのあたりで勘弁しとこか」というと、今度は若い衆が社殿を縄で縛り上げ、逆さまにして大木に宙吊り。ひぃー。
ここまでイジメにあった神様は、復讐心に燃え「覚えとけ、(洪水で)家や田畑、全部流したるっ!」と大雨が降る算段。
その後は社殿を修復・新調して盛大な神事が行われ、神様の怒りを鎮める・・・。

そう遠く離れていない地域でも似たような話と仏像。
首に縄が巻かれた仏像(立像)。池に投げ込まれては引き揚げられ、再び池中に投げ込まれる。当該の仏像は原形をとどめないほどボロボロ。僅かに条帛の痕跡があるので観音像であろうか。
もちろん、耐久性から選ばれる仏像は一木造(古い)。もっともここでは、仏様が大泣きをしてその涙が大雨に変わるとも。

全国各地に残る雨乞いの神仏。要諦は崇拝ではなくイジメ。

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関大だらけ

2009-3-19

卒業式。

中央体育館で全体の卒業式後、各専修にわかれての卒業証書授与式。
渡す(授与する)ものは、卒業証書、同収納ファイル、記念品、校友会誌、卒業論文、哲学会報、『哲学』・・・と、これらを入れる(←)紺地紙製“関大バッグ”。
ちなみに益川敏英教授のいる京都産業大学では、卒業記念品としてノーベル賞メダル型チョコ。(在校生にも)

卒業証書は授与式直前に事務別室に取りに行く。“持箱”には卒業者名簿と壇上用の名簿、成績優秀者と学部表彰者の賞状も。学部表彰には副賞が賞状と共に同封しているので、渡す時に忘れないように(来年からは注意)。卒業式欠席者の卒業証書は事務室に返却後、金庫にて永久預かり(10年後、20年後でもお渡し可能)。(最近、業務メモが多い・・・)
今年も“小言祝辞”を述べ、ゼミ生との記念撮影や保護者の方への御挨拶も済んで、無事終了。

夕刻に梅田にて「卒業祝賀パーティ」。今年は当日夜に開催。小宴会場の廊下左右に立つ会場案内には商学部や法学部、総情などのゼミ名。関大様御一行なり。

終了後、一部の学生、教員らと「阪急東通り」へ。
休日前夜でごった返すも、至るところで群れている若者の手には皆“関大バッグ”が。うちの学生もそうだが・・・。
皆で記念のプリクラを撮って三々五々帰途に。
御堂筋線に乗るも、前で座っている晴着の女性の足元にも“関大バッグ”。ターミナル駅で電車を待つ前の若者の手にも“関大バッグ”。関大だらけ。
今年度の卒業者、全学部で5759人也。
今年の“小言祝辞”は人間観察。

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我が事のように嬉しい

2009-3-20

終日、大学。
朝、新聞に今年度の文化財審議会答申。蕪村「夜色楼台図」などが国宝指定。
重要文化財(彫刻)では関山神社・菩薩立像や真如苑・大日如来坐像(運慶)、法隆寺・阿弥陀如来及脇侍像(康勝)・・・。ふむふむと読んでいるうちに、輪王寺・天海坐像(康音)、輪王寺・銅造釈迦如来坐像(康知)。

江戸時代の彫刻が重要文化財に指定!
湛海厨子入五大明王像とか東大寺大仏殿脇侍像とか江戸時代の指定がこれまでないこともないが、江戸時代の彫刻史からすれば少し脇道。長講堂・後白河法皇像(康知)にしても、明治43年の旧国宝指定当初は“鎌倉時代”と思われていた。
七条仏師、特に七条左京家初期の仏師による作品は、鎌倉彫刻と見紛うばかりに巧い。 これまで巧いと思いつつも「江戸時代ですからねぇ(文化財価値は低い)・・・」と屈折した意見をどれほど聞いたことか。

康音・康知のダブル指定は、江戸時代彫刻の正統性が認められたようで、我が事のように嬉しい。
さっそく墓前(写真)に報告。上は上品蓮台寺にある定朝の墓。

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金沢

2009-3-21

春休み旅行で金沢。

兼六園や香林坊界隈を散策。

『洛陽名園記』の「宏大」「幽邃」「人力」「蒼古」「水泉」「眺望」の六勝を兼ねることから「兼六園」。命名は松平定信・・・、
プレ・スチューデントで学習済。
暖かな陽射しのもと唐崎松の雪吊りや徽軫灯籠(ことじとうろう)の定番スポットを見て、《明治紀念之標》へ。

西南戦争(明治10年)で戦死した石川県出身軍人の慰霊碑と共に立つ日本武尊像。明治13年(1880)に建立された日本初の近代的銅像。自然石を用いた高い台座に立つ。像高5.5m。
県立美術館には同年制作の仏師松井乗運による「日本武尊像」(木彫・高さ23cm)が残る。
松井乗運(1815~1887)は、金沢野田寺町牧野良永の二男で14歳から10年間、京都仏師片岡友輔に師事し、帰郷した後は加賀・越中に作品を残す。翌年の第二回内国勧業博覧会ではこの木彫像と思われる作品をはじめ魚藍観音、菅公像、義経像など9点を出品。居所を同じくする松井乗斎は布袋和尚像を出品している。

乗運の木彫像はもとこの銅像の原型として制作されたが、一部の有力者の反対で実現しなかった。現存の銅像は、富山・高岡の喜多万右衛門工房による鋳造。関わった鋳物職人は大作完成に感謝して木造の小型原型を高岡・有礒正八幡宮に奉納する。この木彫の作者は誰であろうか。

乗運の木彫は柔和な表現ながら、裳裾はすぼまり左右の袖の張りも少なく、やや迫力に欠ける・・・。
下から見上げる効果としては現存像が相応しいかも。10年後に制作される竹内久一《神武天皇像》と比べると(10年の差はやや大きいが)、その差は歴然である。

と考えながら、茶屋でひと休みしている家人たちのもとへもどると・・・上娘の姿。
ヲイ、ヲイ、団子をアップで撮るな!
「子は親の姿を見て育つ」というが、まったくもう・・・。

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長谷川等伯

2009-3-22

終日、雨。輪島の朝市を散策。
輪島駅は、2001年、のと鉄道七尾線(旧国鉄七尾線・穴水~輪島間)廃止に伴って廃駅。現役時代の駅名板(レプリカ)にも「シベリア」の文字。
低く下がった灰色の雨雲をみると、なんとなくあり得そうな雰囲気がなきにしもあらず。
現在駅舎は改造されては「道の駅輪島 ふらっと訪夢」となっているが、駅前ロータリーも残り、バスの行先表示も交差点名も「輪島駅前」。
駅が無くなっても「駅前」は「駅前」。
その後、七尾市へ。
七尾駅前には長谷川等伯の銅像(平成時代)。

長谷川等伯は天文8年(1539)に武将奥村文之丞宗道の子として生まれるが、貧窮のため、七尾の染物屋長谷川宗清の養子に。
絵筆を好み、家業のかたわら日蓮宗関係を中心に仏画の制作を手がける。

天正7年(1579)頃、41歳の時に染物屋をたたみ、妻妙浄と子久蔵を連れて上洛。
絵筆を握り、笠をあげて空を見上げる“銅像等伯”の姿に、絵師として大成したい希望と妻子を連れての不安な上洛に、中年等伯の複雑な心境が見てとれる。
上洛後は、定番コースのように狩野派に師事していたのだろうか。
町衆や大徳寺との関係を深め、京都画壇でも頭角を現し、御所「対の間」の襖絵制作も依頼されるが、天正18年(1590)8月2日に勧修寺晴豊邸に「酒」と「扇十本」を手土産にした狩野永徳によって阻止される・・・。

その後、石川県七尾美術館「能登ゆかりの作品展12 能登伝来の絵画たち/日常へのまなざし 山本隆の世界」を見学。
七尾・悦叟寺《十六羅漢図》(長谷川派)や羽咋・妙成寺《松杉槇図屏風》(長谷川等誉)に加えて、信春時代の等伯筆《愛宕権現図》も出品。

天正18年9月14日、狩野永徳が48歳の若さで過労死。翌年8月5日、今度は秀吉の愛児鶴松(棄丸)が3歳で夭逝。
秀吉は愛児の菩提を弔うため、京都・東山に「祥雲寺」を建立、本来、永徳に委ねたであろう障壁画の制作を等伯に託す。
懇意にしていた永徳への秀吉の心境をおもんばかっての心遣いか、中央に堂々とした老楓の巨幹を配置する構図はまさに狩野派ならではのもの。対する桜図は若き久蔵の画才が見事に開花。
祥雲寺障壁画完成の翌年、久蔵26歳の若さで急逝。
等伯は失意のうちにも制作を続け、慶長15年(1610)2月24日、江戸にて没。
《松林図屏風》は晩年の作とされる。脳裏に浮かんだであろう故郷能登の原風景。(羽咋市にて)。

終日、雨でおでかけが限られ残念な旅行ながら、個人的には大満足。

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六甲山合宿

2009-3-23

3回生合宿 in 六甲山荘。

今年は阪急六甲からタクシー分乗で、六甲山荘まで。到着後、“大富豪”を楽しむ面々。スムーズな進行で、この余裕。
夕刻6時から「すき焼き」を食し、風呂、そしてコンパ。
まだ寒さも厳しいが、暖房も入ってやや暑いほどに。
換気のため窓を開けるとこの夜景。「百万弗」とまではいかないが、神戸空港の突起をもつ神戸の夜景と弓なりに弧を描く大阪湾岸の夜景。かすかに関空も見える。

コンパが始まると、普段、授業ではうかがえないキャラや話題が続出し、最初は眼を白黒させるが、そのうち興味津々。
こじんまりとした、いい雰囲気で時が過ぎるのも忘れて深夜まで歓談。部屋に入って就寝するも戸外ではなお進行中。明日の朝がちょっとたいへんかもと思っているうちに爆睡。
酔いもあるが、きっとちょっとお疲れモードなのかも。

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人脈

2009-3-24

朝食後、六甲山荘をあとに下山。
帰途は六甲山バス、ケーブル、神戸市バス。
ケーブルは普段乗らないのでなかなか好評。
寒さ厳しいにも関わらず、皆オープンデッキ、屋根ガラス張りの展望車に乗って、標高差500mのやわらぐ寒さを体感。

その後、そのまま大学へ。
その分野の重鎮である某大学のK先生がご来訪。
学外の方にとって拙研究室はまるで隠れ里の庵であるため正門までお出迎え。
合宿帰りとはいえ、ジーパンとフリース姿でのお出迎えはさすがにマズかった・・・。

高松塚古墳壁画再現展示室、年史資料展示室、博物館をご案内。
案内のさなか、ふと地元選出の代議士の名が出て彼のことかと思う。F高校→関大と私と同じ経歴。続けて「彼なぁ、高校の後輩で・・・」と聞き及び、思わず「はぁ?」。眼前の小僧もまた後輩也。
その後「菅楯彦の画業」展を案内しようとするも、4月1日からオープン。博物館職員氏からも展覧会のPRをしていただき、拙研究室へ向う。「ところで、講演会(講師)のA君もF高校やで。いまは違う所に住いしているが。」再び、は?はぁ?
前職同僚(学芸員)も高校の後輩。意外な“学芸員”人脈発見。
これも当時の校長(「大阪歴史学会」創設メンバーのひとり)の人がらゆえか。
とはいえ、当時そんなことは知るよしもない。(このことは後年、講演会にお招きという思わぬ形で知ることになる)
K先生お帰りの後、やや年上にみえるA先生をさっそくググってみると、「1961年大阪府生まれ」。同級生かひとつ下。

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人脈

2009-3-25~28

某所にて仏像調査。
小春日和の大阪を発つも、現地に到着すると、満開の山桜ながら時折激しい吹雪・・・。気温4℃。

初日は“康雲”の阿弥陀如来像。
この頃は、面貌を見るだけで「“康雲顔”している・・・」と思ったりする。ひと通りの調査後(「木仏裏書」はなし)、住職や檀家の方々に解説。説明がややマンネリ気味と反省。
『平安人物志』天保9年・嘉永5年・慶応3年の各版に、絵師として「渡辺丹崕」(号 半醒)が登場。ここでは「広雲」とも。住所は「東中筋御前通南 」。
もちろん作品は未確認。幕末まで続いたことは確かなのだが、何代にわたって続いたのかも説明できないまま。せめて下の名前でも判明できればよいのだが。
康雲に関しても色々と再考すべきこと多し。

その後、関係者と共に平安・鎌倉時代の仏像を調査。
重量“仏”がかなり多く、終わってみれば腰が痛い・・・。

立像編。
仏像のうち、立像はおおむね足裏から「足ほぞ」と呼ばれる下駄状(歯の向きは逆:太くて短いアイススケート靴?)のものを突き出し、台座上面に開けた同じ大きさの穴に「足ほぞ」をはめ込んで立っている。
ところが一木彫像の一部は“下駄”を履かずに像底に丸い穴を深く開け、台座上面中央から突き出した丸棒に差し込んで立っている。
こうした像は内刳りが施されていなかったり、あっても浅く刳っており、重い。制作時期は作風等からも推測できたが、像底観察からもそれを裏付け。

坐像編。
外見からは、定朝様を模倣した近世作品か、平安時代後期の作品で近世に表面を彫り直したのか、やや判断に迷うところ。
写真撮影もあるので像底を持って持ち上げてみると、やや重量感があるものの底板が貼ってある。やっぱり江戸時代か。
ところが実際に像底を見てみると、底板中央が大きく開いており、内部を見ると、躰部根幹材は正中で左右2材矧ぎとし、三道下(首元)で割り首とする・・・。左右それぞれ頭部と躰部の木目もぴったりと一致。
こんなことは江戸時代には行わない・・・。

彫像?編。
どう名づけてよいか躊躇する室町時代の彫像。
坐像本体から蓮華座、岩座に至るまでヒノキの1材製で素地像。岩座下には小孔が3ヶ所。木心は像中央やや左寄りに籠める(写真の×印。もちろん写真に印をつけており、作品本体にマーキングはしていない)。
木心に向って見事に干割れが走る。木心あたりのノミさばきもややぎこちない。
諸書に説かれているように、木心を内部に籠めた材や木節の多い材は彫刻用材として相応しくないのだが、敢えてその材木を用いて彫像を制作したのは、用材(=樹木)自体に何らかの特殊事情(霊木、神木など)が働いていると推測できる。素地像であることもこのことを補強するものか。

番外編。
痛めた腰をかばいつつ、また幾つかの宿題を残しつつも、調査終了。

大阪への帰途、「古保利薬師堂」を見学。
まじかにみる薬師如来像の堂々とした迫力にただただ圧倒。四天王像や千手観音像をはじめとする一木彫像もじっくり拝見。相変わらず色々と妄想しながらも不思議な安堵感が漂う。
薬師如来像の円を重ねたような造形や歯をむき出しにした四天王像のユニークとも思える表現にどことなくのどかさが感じられ、一木彫像がもつ別の一面を見た思い。“ゆるキャラ”なる言葉も飛び出し、暴走する妄想。

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市中の山居

2009-3-29

終日、大学。
陽気に誘われて時折、学内を散策。法文坂の桜はまだ少し早いが、研究棟の桜は満開。

迷い込んでいる(未だに!)うちに茶室が突如出現。
ちょうど大学院棟の裏手あたり。躙口(にじりぐち)の上に「茶道」とあって、茶道部の部室?のよう。
低い勾配の屋根を重ねており、あれ?と思う。「都ホテル佳水園」ともよく似ており、村野藤吾の作品かも?
さっそく部屋にもどって調べるも手元の資料からはわからない。かなり失われたとはいえ、学内の村野作品はまだまだ点在している。

名士の邸宅には茶室が必ずといっていいほど付属する。大学人もたまには“市中の山居”に集まるのもよいかもしれないと思いつつ、ぜひ、内部を拝見してみたいものである(正客ではなくて・・・)。

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市中の山居

2009-3-31

某所にて文化財調査。涅槃図など近世仏教絵画が主。

調査、写真撮影していると、画中に絵師、発見。
絵師が見遣る方向には像主の姿。定形化した作品とはいえ、にこやかな表情は、この作品を描いた自らの姿をダブらせたものだろうか。あるいは、対看照写できる機会を喜んでいるのだろうか。

組織的工房作品とはいえ、絵師の心境が見え隠れするようで心がなごむ。傍らの蒔絵硯箱もやや優越感を示すものか。
年度末日まで調査。明日からが恐ろしい・・・。

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過去ログ